われわれはみな勝手なものだ。自分が「光」に当っている時は、「成長・進化」などとぬかす。そして「個は生成消滅するが川の流れの如く生そのものは不滅悠久だ」などと観じて悟った様に此の世を「肯定」する。こういう手合にぼくは寛容ではない。悪の根源だと言ってもよい。それで達者な者達同士笑顔を交し合ってもどこに愛も思い遣りもあるというのだ。そして決まって奥の手は「すべて本人の責任です」だ。こういうスピリチュアリストの「成長・進化」って何だ? すべてお題目ではないか。そういう連中を相手にしているより、心の夕闇を見つめていよう。「主よ、陽が暮れてきましたから、わたしと一緒にいてください。」魂の影の深さにこそ愛と慈悲がある。この真情の肯定こそ「照応としてのキリスト(教)」の意味である。ミケランジェロの絶作〈ロンダニー二のピエタ〉を観られるがよい。[117 画像]