十月になりました。

かんがえるのでなく気づきを書いています。

疲れをとるため時間が必要です。

私の過去の文、7月3日の「内的自由」(全)を、黒の背景に合せて読みやすいよう色文字を変えました。読んでくださっている人がいるようです。充実した文を未読の方は私が休んでいるうちに読んでみてください。〔テーマ別一覧中、「自我の内的自由」を接続してくだされば出てきます。〕



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全く別の話ですが、他人との関わりだけで生きている人は、関わりのなかで気に入らないことがあるとかならず復讐をします。「譲れないものは自分の孤独」と言えない人はみな〈潜在的ストーカー〉です。自分のうちに孤独を蔵するということは、自分の内に「祭壇」(高田先生の表現)を、「祈る場所」を持っていることです。孤独とは「自分の神」に面する感覚をもつことです(それ以外は〈他人相手〉です)。〔御利益宗教の神など問題外で、それより大事な「自己」を護るための「神」です。〕「なにかに関る」ことなしには人間の意識は済みませんからね。だから「神」に関ることを知らない者は人間として信用がおけないのです。これが西欧人が「信仰」の有無を人間査定で重視する本来の根拠です。この根本的な人間の核心を日本人はいい加減にごまかしてきているので、すべてが表面的で、向こうの文化の核心に太刀打ちできるわけはないのです。日本人が事を起こそうとする時の心性の底の浅さは、戦中も戦後現在も変りません。この点どうしようもない国です。日本の誇りを護る動きに私は心底肩入れしますが、同時にこの点の日本心性の徹底した批判を私は貫くでしょう。


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上に書いたこともすべて先ず自分に必要なことなので書くのです。許し得ないことがあり、外に表わすことも一手と思いましたが、できれば自分の内の神に祈って済むものならと。これらすべては僕が浄いものを護ろうとするから起こるのです。

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いまの不具の体に変質してから、想念がいつも千切れ雲のようで、以前のような本来の思念の凝集力が効きません。そういうなかで書いていることを一応読者は知っていたほうがよいでしょう。この状態をいかに補うか、僕は「委ねて」書いているのです。「かんがえるのではなく気づきを書く」とはそういうことです。「向こう」のほうでとりまとめてくれている、そういう感覚で書くのです。随分書けます、御覧のとおり。

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春のお陽さまと星のきらめきのような彼女の演奏を聴いていました。この人は一音一音をまったく気を抜くことなく大事にして心を籠めて意味づけをして弾くのですね。しかもそれは人為的な効果狙いが全く無く、そういう次元とは完全に無縁なところに最初から身を置いて、ただ曲の情感内容から必然的に押し出てくる感情によって一音のニュアンスを決めているのです。そのようにして実に丁寧に自身の音楽を作り上げている。細部を完璧に練っていますが、すべては全体の直観把握のこれも完璧な土台の上に為されています。この書いているいま、はじめて気づいたのですが、まえに紹介した〔432 クロード・ローラン(Claude Lorrain, 1600-1682)、ゲーテがクロード・ローランの画を誉めてエッカーマンに語った言葉、あるいはエッカーマン自身がそう感じて書いた言葉と、同じことを僕は言っていますね。彼女の演奏がなぜかくもいいか、感じることを自己分析していた僕自身の言葉が、つまり彼女の音楽の印象が、両者(ゲーテとエッカーマン)の言葉との一致を通して、僕が愛してやまないクロード・ローランの絵の印象にいま結びつき、ぼくは恍惚としています、そうだったのか、これだったのか、と。だから誰が何と言おうと、僕は彼女の魂の高貴さをいま肯定しています。これほど納得したのですから、客観的価値に鑑みても、彼女のことを公表する価値はありますよね。しかしぼくは公表しないのです、これだけは。愛がまさっているから。これがぼくの本質です。
 彼女はどうも相当勁(つよ)い人ではないかと僕は思っている。彼女の存在に倣って、周りの俗〔悪魔〕をよせつけない「勁さ」をもって生きようと思います。 〔〔夕刻補遺〕〕