口から出る言葉が人を汚すのである、とイエスも言ったが、言葉を普段に使う万人も、言葉の専門者(文人・文筆者)も、よくこころすべきだ。造形・画像・音響でも、言葉に劣らず人を汚すのが最近著しくある。汚れている者にはそれがわからない。高い次元にあるひとがはじめてそれを、次元落差によって感知し、同時に不快に苦しみ、それを避けようとする。だから、「人間」であろうとして〈差別〉しないひとというのはありえないのだ。此の世で「美」を知ることは同時に「苦」に目覚めることである。ぼくが一番嫌悪する人種は、〈融通無碍〉を売り物にする人種で、それで〈大人〉になったかのごとく自認する種族である。世でいう〈大人〉なんて〈「人間」失格〉だと思っていればよい。その点、ぼくは結局〈大人〉にならない方向で「人間」となることを努めてきたと言い得る。ほんとうの文化人・思想者はだからみな精神が「永遠の青年」で、それが外見表情にもあらわれている。ぼくはそこで学者等が本物か偽物かを判じてきた。そしたら、なかなかいないんだねえ、本物クラスが。実際に会った学者文人(高田さん、森さんとは会えなかった)で、哲学者にもなかなかいなくて、合格だったのは今道友信氏(哲学者)と辻邦生さんと、そして僕ぐらいだ、〈永遠の若者〉を感じたのは。ぼくの精神実体の若さはよく感じるだろう? 外見にもそれが現れているのは皆が認めている。年齢的に年下の者がぜんぶ僕より驚くほど老けているからね。純粋真摯にかんがえ生きている自然な結果で、結果めあての技術成果でないことをよくかんがえなければいけないよ。辻さんも永遠の青年で、言動表情すべて本人が現すものにそれが出ていた。いいかい、かんがえがまっとうに深くなるほど精神が瑞々しくなるんだ。そうでないのは何処か成功していない精神の歩みがあるんだ。社会的名声などで判断してはいけない。あまり高くない次元の人でも書くだけは書いて有名になることをぼくは殆ど初めから感知していた。そういう、会うに及ばぬ文士が多い。融通無碍なんて俗人(自己放棄者)でしかない。悟達者は観念自体が偽り。〈悟り〉という言葉自体を廃棄すべきとぼくは思っている(一番嫌悪する言葉の一つだ)。聖人偉人を讃仰するばかりで「自分となる」ことの一歩も踏み出さない〈修行者〉が多過ぎる。「自己となること」、それがなければあらゆることが観念遊戯になってしまうことが、最後まで最初の一歩も踏み出せないで人生を終えてしまうのははなしにならない。それじゃぜったい西欧「神」に一指も触れない。すべてこれらの迂闊さは、〈言葉〉の罪過というより言葉の内実を定義する自己経験の貧弱さで、この貧弱さは経験量ではなく思慮の安易さからくる。とまれ、言葉ではなく音や形、色によって表現探求することのほうが、意識と経験(感覚)の対話である思惟(知性行為)を緻密に鍛え、純粋にに接近する道、悪口邪道から自分を護れる道であるようにおもう。だから高田先生の思索反省に、並いる学者達がかなわず、先生の周りに集まるということが起ったのである。