これは誰か(例えばヤスパース)が言っていることだと権威づける必要もないが、誠実な生とは、「徹底的に反省によって媒介された決断」の連続であるような生だろう。換言すれば「間接性」(反省)と「直接性」(決断)との不断の統合的相互間運動が、人間としての生なのである。単に傍観的であるのでも盲目的に行動的であるのでもない。行動を決断するには充分な反省が先行されるべきである。しかし反省だけによって決断が導かれるのではない。厳密には決断は窮極的に「敢行」(Wagen)の本性を放棄できない。すなわち、生は、ひとつの「賭け」の性格が持続するということである。だから、誠実は、反省的思慮だけでなく、敢行の結果を自らに引き受ける態度として完成される。
 ここで、決断の敢行をわれわれに強要する本質的契機として、決断されるべき事柄自体の究め難さの他に、物理的な意味での時間的制約というものが認められる。無際限な省察は状況の本質そのものによって封じられており、状況は本質的に時間制約的なものとして、われわれに敢行としての決断を迫る。決断は、それ自体のなかに、何か「飛躍」(Sprung)を含むものである。
 この、決断における「飛躍」という契機、あるいは境域、には、さらに別の作用が入ってくる場合がある。状況の不可測的構造や、時間的制約は、まだ消極的な飛躍作用しか意味していない。積極的な、謂わば充実した飛躍作用というものがあり、これこそが本質的に重要である。われわれの決断の真の根拠は、この、合理的にはけっして根拠づけられない、この意味では無根拠と言い得る、「現在」においてのみ現前するもの、「直接的な深淵・根源・暗闇」と言い得るものなのである。ここで、われわれは自分の精神的本能とでも呼びうるものとひとつとなっており、これによって決断を敢行するのである。瞬時に為さずにはいられない判断・言動には、常に、この種の力の強い促しが働いている。そのとき、われわれはまるで神の啓示を直接に受けたかのような、力に満ちた即決・即断をするのである。時に、この力の前で、反省力も抗し難く押しきられるという経験をする。その結果をよろこんで引き受けようという覚悟が自ずと生じる。ヤスパースが、己れの超越者に関係して為される実存的決断を語るとき、思念されている内実はこのようなものである。谷口雅春が、不断に神を念じ一体状態のようであるならば、自らが為すことは神が為すことと見做される、と書いているのも深くこの事情に関わる。芸術的直感、あるいは創造的直観もまた、それが真実なものならば、その根源はそのような次元に根ざすものでなければならないだろう。広い意味で「霊感」と云われるものに、ささやかであるが触れたつもりである。この霊感そのものを純粋にきわだたせ謂わば純化してゆくために、われわれは自立的思考による反省をおこたってはならず、これが「知性」の仕事である。高田先生は、「合理の刃で余分なものを排除してゆけばゆくほど神が近づいてくる」、そういう実践が知性の働きであり同時に真の神秘主義である、と理解し、この言葉を繰り返し記した。この意味で「デカルト」も「パスカル」もフランス思想伝統の二つの不可欠の幹なのである。ぼくのいう「透明なる知性」「透明な意識性」の、その透明さということの真意が奈辺にあるかを、明察せられたい。それは同時に熾烈な「内的生(ラ・ヴィ・アンテリュール)」なのである。ぼくは単なる合理主義の徒でも唯の神秘主義の徒でもない。ひじょうに自分の直感あるいは直観的なものに正直で忠実であると同時に、すべてにわたって意識的であり吟味的である。ぼくの語ることで、文字通りそのまま受け取るべきであると同時に、ひそかな反語的ニュアンスを籠めないものはまずない。どうか したたかにぼくの真意を汲んで、自分の益になるように自由にしてくれれば、これにまさる適意はない。そのとき、ぼくがどんなに信頼できる人間かということを同時に悟られるであろう。

 なぜなら、ぼくは「真の思い遣り」つまり「魂への配慮」という動機からしか、言葉を発していないからである。それは ぼくが常に「在るべき魂」と 魂の必然的相関である「神」に思念を集中しているからである。そこから出る言葉は、魂と神が反応した感覚・直感に基づく言葉でしかありえない。ぼくの言葉は根拠が(他とは)違うとぼくが自分で言うのはそこである。ぼくは価値の相対主義など認めない。絶対的に護るべき価値がある。その価値感覚を教えるのは、「魂と神」を思念し これに感応しているぼくの内的感覚である。この感覚が拒絶を示すものは、普遍的に悪いものであるとぼくは断定している。時には断絶を覚悟で相手の魂のために諫めるのが、「真の魂的思い遣り」である。その感情が湧いてきたらぼくは、反省を媒介させずにそのまま直接言動することが稀にある。自分でも意識のほうは「そこまでしていいか」と呟くのだが、ぼくのなかには時として世間的合法性すら踏み越えさせようとするものが動くことがある。ぼくの世間的には過激な言動はその種のものであり、ただのエゴイズム欲動とはまったく次元も質も異なるものであると自己証言できる。それは、護るべきものを護るためである。だからそのためにぼくには常に同時に、その結果の全責任を引き受ける覚悟が情熱的に生じている。ぼくは、生きている根底が(他とは)ちがう、と、(普通この言辞は高慢の印なのだが、ぼくにおいては反対に、)まったく謙虚な態度で告白することができる。純粋な信仰意識とはほんらいこういうものである。











ピアノを弾くアラン(多分ショパンをであろうと云う)
〔「もの」に実際に取り組むアランのこのように真摯・敬虔で純粋な表情をみるのは本当に感動的である。〕








「自分であること」は絶えざる実践であって、ぼくがここに書いたことも、所有可能な知のごときものとしてではない。自覚とは、実践と認識を統合する、それ自体充実した自然体で謙虚な不断の決意である。


 「敬天愛人」とは、「人間」を端的にしめすものであり、「天」は「理念としての神」、「人」は「自他の魂」である。
 〔何気なく言及したのだが、翌日、正確には同日、さっそく「敬天愛人」が出てきたのに偶然気づいた。〕


覚悟とは、此の世の法則を感知しつつ、敢えて自分の律動に従うことである。