いまさらこのようなことを書くのはわたしが創作というものの素人だからでしょうが、すぐれた創造作品というものはジャンルを問わず、「余白」を「形」のなかに引き込んでいますね。表現意識のなかに、もう完全にこのことへの自覚があるのがわかります。その自覚が、表現行為を「規定」しているのがわかります。作品がそれじたいでひとつの「世界」を構成しているというのはこのこと、表現行為・表現したものの「かたち」のなかに「空間」を「自己の世界」として抱きこんでいることを、指しているのでしょう。この世界は、自己のものでありながら自己の表現行為を「規定」します。ということは、この規定作用の前ではどんな「熟達者」も同時に「素人」の「謙虚さ」と「不安」を強いられるということです。これあってこその「本物の創造」なのではないでしょうか。わたしにはどうもそう思われます。われわれの創造的生においてわれわれは我々自身に「暗黙の創造の法」を課するものの前に常に立っている。「人間である」「自己である」とはこのことであり、このことをいかなる先行観念にも支配されることなく自分自身の「孤独」な道を進んで気づくにいたることが人生の醍醐味のひとつといえるでしょう。
 これまで書いた文の読みやすいよう工夫した再呈示を今同時に試みておりますが、今日5月3日にあたらしく書いた「手紙九十三」は大事なことを書けましたので、こちらもよろしく味読していただきたいと思います。
147 自分自身への手紙九十三(自己愛と他者愛、そしてイデアとしての神)