3月26日


悪魔は不断に存在する。私の経験だけからこれは明らかである。魂の向上を願っての天が与える試練、などというものではない。明らかにそういう限度を越えて「反生産的」な作用意志が存在する。これを私は「悪魔」と呼ぶ。

 

 

悪魔と呼ぶべき意志が存在する、というのは私の経験に基づく「判断」である。これは「信仰」ではない。「知識」でもないだろう。「知識」・「判断」・「信仰」という上昇過程あるいは段階というものがあるように思われる。「経験」とは、これらすべての過程あるいは段階の根底に存するもの、或いはこれらすべてを包摂するものとして捉えられると私は思う。

 

 

知識」・「判断」・「信仰」の段階は、人間精神(意識)の働きの上昇、或いはもっと適切には深まりを示している。駅まで徒歩で10かかる、この店ではパソコンを売っている、というのは、私の「経験」において知識と言ってよい部分である。この店主は信頼できる、この国は侵略の意志がある、というのは私の判断、或いは私の判断を含む経験である。信仰、信じることとは、私の経験の最も内奥に存する、最深の精神の働きである。「神」を語る者に、その自覚があるか、ないか。

 

3月27日


「創造主」を言う時、我々は「判断」から入っている。「神」を言う時、我々は自らの窮極(魂)の実感的要求としての「信仰」に没入している。故にこの二つの境域は分けねばならないというのが私の発想だ。我々は「美」を経験する。これは直接的経験だ。主観だけでも客観だけでもない、魂的経験あるいは感覚である。そこから我々は、この経験の根拠を反省し始める。この経験の原因を宇宙そのものに求め、美の由来を、宇宙を創った意志に帰して、善なる創造主が存在する、と「判断」する。この判断には、美の醜悪な破壊の経験に基づく判断(「悪しき創造主が存在する」)が対立する。世界に関する判断は常に二律背反なのだ。これらは常に「判断」と「信仰」の混同によって、別言すれば、魂の直接的意識(信仰)から思惟の間接的判断への逸脱によって、生じる。判断の持続形態である「信念」を、信仰と取り違えてはならない。純粋な信仰は決して「知」とはなり得ない。「神」を知の対象とする時、魂の実感は忘失せられている。どうすれば「神」に正しい態度がとれるか、不断の自己吟味なしにはない。「美」の経験を正しく反省するとはどういうことなのか。


十一


「信仰」を「判断」へ、「判断」を「知識」へと還元(逸脱)させることが止まないのは、根底に「科学」絶対主義があるからである。

 

十二

 

に、特に日本で、科学的知の本質に関する批判的吟味意識を欠いた、この科学絶対主義がいまだに横行しているのは驚くべきことだと私は考える。いやしくも「魂」や「神」を真剣に考えようとするなら、知識・判断・信仰の無批判な混同は、人間意識の全うな深化のために致命的である。

 

十三

 

は、私の経験に基づく判断をもって、創造主と呼ばれるべき存在にたいして魂の底からの烈しい怒りを覚えている。この怒りは日々新たに持続されている。私の経験はこの存在そのものによってか或いはこの存在の許しによってでなければ生じ得ないことは明らかだと私は判断するからである。その責任において此の世の創造主は悪魔と呼ばれてよい、或いは悪魔と呼ばれるべき存在である。主体性なくこの存在に帰依服従するのみの者は、悪の傀儡と何ら相違はないと私は考える。この種の帰依服従は何ら真の信仰でもない。

 

十四

 

が付けば、世間も知識界も、そのような意識的・無意識的な偽善の傀儡で溢れかえっている。「自然崇拝」も「自然との調和」もみな、そのような偽善を隠し持っている。生きるための社会悪への服従や妥協とどこが本質的に異なるのか。魔物崇拝とどう違うのか。覚醒ではなく、集団催眠ではないのか。自然はいかにも美しい。しかし自然あるいはその背後に同時に存する醜悪な破壊作用の力の事実を、自分等の幸運の上に胡坐をかいて、何故無視あるいは粉飾することができるのか。我々が美を感じることの事実を、どう反省することが本当に正しいのか。我々が自らの魂と呼んでいるものは真実には何か。

 

3月28日

十五

 

描きがカンバスに向って創造するのは自分の魂を実証的具体的に探求しているのであると私は思う。私の独語行為もそのようなものであろうと思う。ここに自分の本質の一幅の絵を描きたい。単純な線描きから始まってその上に幾重にも塗り重ねてゆきたい。思想表出とは本来そのようなものであろう。自分の判断という絵具を一筆一筆置いてゆく。自分との謙虚な真剣勝負である。この根気の要る地道で孤独な道を通してしか真に他者の魂に触れるものは生れないことを私は知っているから。この点において思想も芸術と少しも違わない。この営みの実践を通して、魂が、神が、どういうものかを、私は繰り返し確認し感得してゆきたいのである。真の芸術家はこのような自分との対話以外のことを考えないだろう。我々が「感じる」のはそのようにして産れた作品のみである。思想の構成や方法もそのようなものである時にのみ、私はそれに信頼する。

 

十六

 

が自分の本質を描くにしても、私の本質が無色透明な仕方で普遍的なものであるのではなく、具体的歴史的なものであり、この特殊性を貫いてのみ本当に普遍的なものに至り得るのである限り、私が対話する具体的な存在が必要だ。それと対話することが私自身と対話することと等しいような具体的な存在が。そのような存在こそが本当の「出会い」を示す。するとどうしても私は「あの人」を語らなくてはならない。

 

十七

 

の判断では、我々はどうもひとつの暗黙裡の戦争の只中にあるようなのである。その渦中に巻き込まれていることは、「あの人」が生きた時代と本質的には変らない。全く非人間的・反人間的な力が、偽善の仮面の下で世界を集団催眠にかけているかのように思われる。あたかも創造主がその本性を現してきたかのように。しかしその力がどのような本性のものであれ、人間の魂は益々その中で不変の本質を却ってくっきりと顕現してくるように私には思われる。この、悪と美との対立の意識が、私をしてなにごとかを語らせようとしているようなのである。