得体の知れない集合的容喙力に呑み込まれ傀儡となった周囲の者達を、私は哀れなものだと思っている。それにしてもこの力は、人間の人生に対する、戦争と全く同一質の完全な横槍である。つまり、その原因は、無くても済んだ或る「意志」である。だから「敵」だと私は言っているのである。この力は、諦めるしかない無自覚な自然力とは違う。このことは私の譲ることの出来ぬ根本経験である。ともあれ私のこの周囲人達は、私ははっきり判断し断定するが、各々の元の自発的人格をもはや有してはいない。目の前にいる人間共が私にとっては「死人」なのである。この私の意識の痛切さを読者も中々推量し得ないであろう。しかし或る時を境にこういうことが、原理的には誰にでも起こり得るのが現実なのである(あなたは疎外される側にか疎外する側にかに振り分けられる)。小説の世界どころではない。実在世界の方が無限に複雑怪奇なのである。私は自分の経験したことから、人間日常から社会・宇宙までを貫く法外な小説を書ける。しかもこれは全て実話でしかない。現在、周囲が以前より比較的おとなしくなったのは、私が薬を飲まされて事実上もとの体での活動が出来なくなったからである。これはもう連中の様子からはっきりと判った。(〈え?薬飲んだの。じゃあ協力する。〉と、一語一句この通り、まるで取り決めでもあったように、周囲人の一人は言った!)それまでは連中の奇怪行動は物凄く、私に息つく暇も与えなかったのである。とうとう私がやけになって、こんな物質でも一度飲んでやれば少しおとなしくなるだろうかと、要求されるままに、(これは東京で数週間以上飲んだ薬とは別で、東京で既に私は不具になって郷里に帰り、この郷里で新たに無理やり処方された別の薬である)たった一回一錠だけ飲んだのである。(ちょうどこの箇所を書いた途端に屋内の向こうでガタッと強い音が合の手同然に発した。これが偶然であると私は思っていない。)〈医者〉が〈殆ど副作用の無い薬だ〉とぬかして渡した薬である。ところがこれを一回飲んで寝ただけで、翌日恐ろしいことが起った!私の目が半めくらになったのである!!私は物凄い絶望に襲われた。ただでさえ不具になってどうにか生きていたのに、これはあんまりひどい!!現在(数年後)も、状態は変らない。私は元の視覚世界に生きていない。光が半分程しか感ぜられず、昼間でもぼんやり薄暗く感じる。暗くなると灯りを点けなければ真っ暗で見当もつかない状態になった。しかも、光が薄暗く感じるのに妙に目に刺激感があって、特に赤の色が妙に毒々しく目の神経を刺激して、見つめていられない。現在もそういう状態をこらえてPCに向かってずっと書いている。一体何を飲ませたんだ!!ところがこの〈医師〉ときたら、私がいくら必死に薬を飲んだ結果を説明しても、〈そういうことは理論的に考えられない〉などどへらへら笑いながら頑なに絶対に応じない。こういうやつを殴らないのはやっぱり間違っていると読者は思わないだろうか?!不思議なことに周囲の者達の誰一人、〈医者〉同様に、何か金縛りでもされたように、私の訴えを理解出来ない、共感出来ない反応しか示さないのだ!これはもうまともな現実の世界ではない。見知らぬ悪夢そのものだ。しかしこの悪夢がやはり今の現実なのだ。これが〈集団洗脳状態〉と判断されずして何なのだ?! 読者よ、私が今ここに述べたことは完全な現実の報告なのである。

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集合的容喙現象と私が呼ぶもの(世に言う「集団ストーカー」現象)については、この欄で書いたものをテーマ別分けして一覧に示しているので、通読できる。読んでみて欲しい。

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私が、この欄に居住地域を記さないのは、血液型等と同様、自分の作品に芸術者が記すようなものではないという感覚の他に、これ以上〈集スト〉連を集めたくないという思いと、また、この期に及んでも、どのみち触れることになった医局関係者等に、万が一にも余計な塁を及ぼす可能性を一応まだ防いでおいてやろうという、私の保たれている良識と思い遣りからである。

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私の経験はあまりにひどい。

私のこの体験・経験から私にあきらかとなってきたのは、これは、価値観の対立闘争であるということであった。「存在することの価値」対「有用性の価値」の対立が表面化したのである。命を、それ自体で価値のあるものと見做すか、それを否定して、有用である限りで意味(価値)のあるものと見做すか、ということの対立である。芸術的には、もの(命)はそれ自体の美によって価値を持つことができる。しかし、これは此の世(命)を造った存在にとっては、意味のないことであろう。〈役に立たなくなったものは廃棄〉これが創造主の徹底した微動だにしない観点のようである。このことを私は、周囲の人格が変り何ものかの傀儡となった人間達の言動によって徹底的に示唆された。少なくとも〈集スト〉側の徹底した原理がこれであることは疑いようなく示された。全体のみが肯定され個々の魂は否定される、これはほかならぬ全体主義的社会の原理であり、類としての生命の原理である。私がこの欄で繰り返し言ってきたことである。私がそこに、つまりこの現象を介して創造主の意思を看取したと思うのは無理のないことである。それほど信じられない現象だったのであり、本来私の様な人間に起ってはならないことだったのである。そしていまはっきりと目醒めた者として私はこの責任存在にたいして宣告する、「おまえは悪だと。あなたがたはこの創造主の生原理、有用性の原理を克服、少なくとも条件付けられたものとして相対化できるであろうか? 「要らないものは捨てましょう」の実用主義を、それがあたかも真っ当であるかのように生活原理にしていないだろうか? 私はいうが、この生原理が克服できていたら戦争は起きない。これはもう各自が心に手をあてて自分でかんがえてみるべき事柄である。ほんとうに大事にすべきものは何なのか、これは創造主は教えない。創造主を神とする宗教者は教えない。もし教えているとしたら、無自覚に創造主に無いこと反したことを志向しているのである。それが「あたらしい神」への志向である。それを私はこの不可解な現象経験から学びとったのである。悪の傀儡となるか、否か、各自の前にある分水嶺である。
 〔23時〕

そう、いまよくわかるだろう、このよの存在原理というのはね、言ってはならない真実、みなよく奥底で解っていること、建前だけの善を本音の悪そのもので立派に善として根拠づける心性なのだ。この表現をいくどもかみしめて得心してほしい。苦心してしぼりだしている。つまり、例えば「あなたがたの犠牲の上に今のわれわれの生活がある」と〈感謝〉するような時に自分の心の中で顕わに認められるその悪だ。それが生命原理の悪の悪自身による善意識への転換だ。それに気づいたら犠牲に〈感謝〉など出来ないはずだ!