高田先生の奥様 常夫人と電話でお話ししたことを以前書いた。先生の著書複写の承諾を得る要件の折りだったが、その時 将来先生についての本を書くつもりであることをぼくは言った。ドイツへ行きフランスで博士号をとり帰国して大学で講師をつとめそして先生の本を出版した。ぼくはやると言ったことはやった。電話で夫人は生前の先生のことについて語ってくださった。内容については既に書いたつもりだ。「ほんとうに深くてゆたかな宗教性を持っていたひとでした。ああゆうひと他にいませんよ。わたしの夫だなんて思っていません。」とそこまで言われた。ぼくが本と作品から感じたままのことを証言された。先生のことを崇拝しておられた。いちばん先生の身近にいてその現実を四六時中経験しておられてこういうことを告白される。ぼくはこの夫人の告白を自分の内的経験と一致する「証言」として信じておればいいのだ。何故世人はそれを崩そうとしてわざわざ求めもしないのににじりよってくるのであろうか。自ら善で喜ぶことをせず、反対のことを積極的にやる、こういう連中のことはどうしてもわからない。「真の宗教心」がないのである。真に心を浄化するのは真の芸術あるいは芸術的な文章である。自分の孤独な魂の告白であり、それ自体信仰の、「神」の告白である。それのないやっかみひがみが動機の言動はあさましいかぎりである。これを無教養という。しかしいくら書物を読んでいてもそういう連中であふれかえっているではないか。ぼくは〈文人〉などに信を置かない。「美」を、真の美をしらない連中だからである。美の、魂の経験がないなら黙っておれといいたいが、それがないからしゃべりちらす。内的秩序もなく〈自己主張〉し他に〈要求〉する。それがどんなに罪であるかをしらない。それがおおかたの書物読みである。観念のなかでうぬぼれる。どんな〈社会的地位〉にあってもそうである。そういうものをぼくはうんざりするほど知った。こう言うとすぐ賛同するやからがいるが、本人の問題をぼくが突いてやると すぐ自分がそういう連中の一種、しかももっともたちがわるい一種であることをしめす。誠実そうなふりをする者もやはり自分の自尊心しかかんがえず、すこしもほんとうにひとのことなどかんがえない。そういうやからにかぎって ぼくが〈おもいやりがない〉などという。だれのことをいっているのだ、ということだ。自分でそれをしめせ、おもいやりがない先例しかしめしていない自分は全然みえていない、この不必要に要求がましいだけ〈文人〉である者らが。かんがえることが全部仇になっている。人間はね、『沈黙』をしらないとそうなるんですよ。〈文人巣窟〉からぼくはおさらばした、この一度もほんとうには相手にせず自分のために仕事する契機にしただけの連中から








読者はぼくのメーヌ・ド・ビラン勉強跡をご覧になったとおもうが、ぼくは高田先生のルオー論を主内容とする自著で(も)、あの勉強の仕方―それがぼくにとって「読む」ということなのだが―を実践したのである。先生の文章を徹底的に読み込む。その読んでびっしり書き込んだ「理解」が、自著のぼくの文章なのである。結果、先生の原文引用とぼくの文とが交互に繰り出される構造となっている。








説明的になるのではなく、独白的になるのでなくては、深い思想は生れない。ひじょうによくそれを感ずる。ヤスパースは、「交わりを実現するに応じて(それは)真理である」と言ったが、ここに逆説がある。ヤスパース自身の孤独論に(も)現れているように、孤独の深さに応じて「交わり的真理」も深さを得るのである。これが「沈黙」の意味である。自分の底の浅さをヤスパースの言葉を標語化して自己肯定・他者〈判定〉に転化する学徒の〈高慢〉は真に〈実存の敵〉である。その〈心底〉は不純だらけだ。すこしも自己を顧みるということがないが、自分の深さに応じてしか自己は顧みられない。そこから〈判断〉を繰り出すのであれば、〈浅さ〉は〈罪〉である。他者からの〈衝撃〉が必要である。それで他に〈衝撃〉をくわえようなど言語道断。言われたことへの体のよい仕返し それが「愛しながらの闘争」だって。言葉がけがれる 幼稚園遊戯をやっている。もともと出会い(Begegnung)すらあるものか。「出会い」は「存在」を前提するのだ。交わりにおける存在生成以前の〈可能的存在〉すらあったのか けがす言葉で充たすのなら哲学的交わりなどやらないほうがよい 感動が-出会いが-全然無かった 俗物の集まりでただ空しかった 








最近の節 〔自節紹介〕 ・〔自節紹介〕続 ・ 再 vues 794 補遺 -articulation et confirmation- ・ *「構成」:内的必然性の自由の証言(親密の秩序) の中などで今後の展開のために本質的なことを言っている。  ヤスパースの「絶対的意識」 -absolutes Bewusstsein- の意味の重要性に、いまのぼくの本来の課題との関連において気づいたのは収穫だった〔これについてはそのうち触れることがある〕。高田博厚の根本思想との関連において読み込むことである。
 









 








ぼくの心境をいちいち読者にことわるのがいやになっている

〔この像をやっとここに普通の大きさで収める気持になった(印象力が強く、小さめで調和すると感じ そうしてきた)〕

このひとの純粋さ 優しさと潔癖さをどれだけの人が音楽から直に納得してこのひとに面しているだろうかね

この像の前で恥じるべき人間が大勢いる

このひとはけっしておひとよしではないよ 人間をきびしく見てるよ それがめだたないのは ぼくより賢明だからだ

本物であればそのひとの本質は一生変わらない
 〔先生のこの思想の内実がわかるようになってきた。これがアランの言う「自己の連続(同一性)を見出す」ということなのだ。すなわち、本物であることは純粋であることなのだ。純粋は、意志的知性の発露である。〕



哲学徒でもぼくについてこれない者は多いのだよ わからないのはよいが ぼくを判断してはならない 自分をなにさまと思っている それをこの節で いままでのすべての者等にたいしていいたかったのだ
 ぼくのことだけじゃない



'15.12.5
「完璧な人」(ゲーテ)、クロード・ローランと裕美さん
〔自節紹介〕続
ここに引用したエッカーマンとゲーテの言葉すべては裕美さんの世界の本質をしめしている。そしてゲーテの言葉は高田先生のルオー論の思想を想起させるものである。