「存在」する先生
自分自身への手紙(実感と照応)

 




…《まったく見知らぬ国へ来て、好奇心などすこしも起らない魂の不安の中で、「自分は来るべきところへ来た」と感じたのはなぜだろう? 幻(ヴィジオン)の作用に近いものである。私は自分で経験しなかったであろうが、「人生」が経験したものであるから、人生を持つ私もその一部分として、自分を超えた「過去」が経験したにちがいない、だから私には夢の牽引力を持つようなものを感じた。しかしその夢が、外から私の心に向って開かれた窓に映った内部の風景であったことを、あの時誰が知ろう? 人間の経験が「自分」の中に時間を超脱した拡がりを持っていることを誰が知ろう?》…

  

(高田博厚「思い出と人々」1959 所収「友人と自分」冒頭より)


若き日、フランスへはじめて来て、船がマルセイユに着くと、すぐパリ行の汽車に乗り、窓に顔をくっつけるようにして外の風景を見ていた自分を、《あの日の感慨と怖れは私にとって運命的なもののようであった。》と述懐しながら、先生はこのような言葉を書いている。この言葉に籠められた「実感」に分け入ってゆくことが、これからのぼくの道の中心にあるだろう。


 いま、続く箇所で言われる「実感」についての先生の言葉を、この機に確認として記しておくにとどめる。


…《私は自分の実感だけで書こうとする。人の言葉に自分を托してものを言うことは私にはできない。自分の思索においてかつて私は鑑賞家ではなかった。私は美術家だから、借りものはもちろん、共感さえも自分の証(あかし)とならないことを知りぬいている。文章でも自分だけのものしか出ない。もし人の言葉を引用して自分の内面態度が明らかになりうるとすれば、それは自分の実感に照応の力がある時だけである。(…)ながい年月をかけて、私はこの精神態度をヴァレリーやアランから実に多く教わった。》…


 この自分の照応力を培う道へと促してくれた存在は、ぼくにとって先生である。

これほど緻密で深い文章を落ち着いた自然体で書く精神実体が、いまの日本の誰にあるであろうか。 '15.12.8〕



 






自分自身への手紙二十六 

自分自身への手紙二十七  

悪魔も「道徳意識」を知っており、それを、あらゆる機会を突いて魂の美を汚すために「利用」する。すなわち、どうにかして魂をして自己否定判断をするように仕掛けるのである。しかし、「自己否定判断」は最も大きな傲慢であることに気づくべきである(だからわたしは自分を卑下する人間は大嫌いだし信用しない。必ず次の瞬間には傲慢になっている)。これに抵抗し得るのは真の「信仰」のみであるとわたしは思う。「自己本質肯定」、これは「判断」を超えた力である。作為的ではない祈り、と言ってよい。根本的な人間感覚と言えるものである。

この「信仰」(祈り)の中にのみ本当の「謙虚」がある。それは他人相手のものではない。





’15.12.8
ぼくの欄を「古い順」で最初から読んでみてください。まったくの絶望のなかから書きはじめたのがよくわかる。そして発想がはじめから根本的に堅固で一貫していることに自分でおどろいている。なにかもう十年ぐらい経ったような時の感覚だ。内的時間と外のとは違う。ぼくは円環的に過去の節-それも二年も経たない前だ-にたちかえりつつ自分の判断と信念と信仰を、ぼくの思想を、深めてゆくことができる状態になっているようだ。
(最初は小さな文字がおおいですがこれも印象が好きだ。)




 

 


厳しい鬼魄と夢みる眼差し 同一人物の眼である





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