しかしぼくはよく潰れなかったな あれだけ心身ともに凄惨なめに不当に遭っていて。 すべては自分の正当なことを貫いたことによる。 その意味ではこの電子欄こそぼくの魂の実証だ





ぼくは唯ひとり憑依されなかった。志の自意識が生の中核になっていたからであると思う。

 周囲の者達と意識が違っていたことはあきらかだ。

ぼくは世界でいちばん信頼できる人間だと自分で言い得るのは この一事のゆえである。この自己意識の〈確かさ〉と〈強さ〉のゆえである。
 ぼくは観念を言っているのではない。実感を、言っているのである。

 他の(周りの)者達はそういう意識をもっていなかったということか。ぼくは、物ごころついてから、他の者達がどういう意識で生きているのかがまるで了解できない。〈共感〉を周囲人に感じたことがない。異常状況になる前にずっとそうで、だから、霊界のほうでも、おや、自分達と違う、と感じ、注意するようになったのだと想像する。そして、ぼくの精神は正常のままで、周囲が霊界にも促されて ぼくに〈つきまとい〉はじめたのだと思う。これが〈集合容喙〉の原形であると思う。この不自然な、人間や自然の殆ど演出的ともなったぼくへの〈つきまとい〉を、ぼくが報告すると、精神医療へ強制するのである。だから本人の知力が保持されているのは必当然なのである。これを現代医療は、ゴッホ、ヘルダーリン系とは区別された多分ストリンドベルク系の精神分裂(統合失調)〔ヤスパースによる分類〕と見做すよう自己規定している。これを〈薬〉投与で〈治療〉など本末転倒なのである。身体神経機能の破壊を結果し(これをぼくはやられた)、その不具化による麻痺状態をもって〈症状軽減〉と見做すのみである。ルソーやアントナン・アルトーも同様な、社会(その背後には霊界が控えている)からの迫害経験をしたのかもしれぬ。幸いなことに当時は余計な〈薬〉はなかった。この世とあの世を表裏一体とする大衆世界が、集合容喙の基体であり(ユング的集合無意識の想定と符合)、彼此界の「人間」不在状態こそ、診断されるべき実体なのである。
  霊界の、大衆固有の無責任性・独善性(一方的押しつけがましさ)そして冷酷さを、傀儡共を通してぼくは経験している。日本人は自分達の現実的幸福の為に、この不完全な人霊・自然霊共を卑屈に礼拝してきた。「神」の歴史など日本にない。〈西欧的一神教〉の一つ覚えで済まそうとするが、人間的次元の異なるもの(一神と多神)を衒学的に並置しても、ドイツ人が〈自国の名産はカルトッフェルン(じゃがいも)だが フランスのそれはワインだ〉と同列比較するほうがまだかわいげがある位だ。

_____
_____

他所で話してきた:
 - 本当に意識の高い人との接し方についてだと思っていましたが… 〈器〉って言いますけどね、ドストエフスキーやチャイコフスキーだって、褒められれば有頂天になり、世評を気にして読んで落ち込んだりするんですよ。そういう中で自分の本質や確信を貫くから偉大なのじゃないですか。彼等は〈器〉という概念では測れない。全的に人間なのです。〔〈器〉なる語は俗な偽概念である。〕「ナポレオンだって自分ではぜったいになりたくないと思っていた馬鹿だった刹那がある」(アラン)。-
「この「人間」権威は何処から来る?」(高田博厚)。




はじめての読者へ
はじめまして。近年は「集団ストーカー」現象と呼ばれるものが社会現象として認知されるようになってきましたが、わたしの周囲の者達は人工的にか霊的にかすべて魂の根っこが見知らぬ力に掴まれ、わたし一人がそうならず、周囲の者達から巧妙かつ露骨な迫害誘導を受け、強制的に精神科の〈薬〉を飲まされ神経筋肉組織を破壊されました。わたしのこの電子欄(ブログ)に記録しています。しかしこの欄を書くのはこの記録が主目的ではなく、自分自身の存在の探求実現そのものの為です。「集団ストーカー」と霊的次元との結託は、わたし自身の経験の経緯から これを確信しています。その記録も 宜しければご覧になってください:主題別編成欄「集合的容喙現象」。この現象においては〈人為的高度機械技術〉と〈霊的次元作用〉とが、わたしには不可解な仕方で 結びついているとわたしは断定しています。わたしは正常な精神をもって、強制された異常な状況と身体状態にたいしてこの5年間 闘いながらどうにか生きてきました。わたしがここに書いたすべては、正常な精神が異常な状況・状態と闘ったことの表現・記録であり自己の証です。それはこの欄全体を読んでいただければ充分にご納得いただけると思います。
 わたしは 状況と状態が正常であれば継続していたであろうことを継続しようと この欄を書いています。
 不一
〔ある わたしが信頼できると判断した人に相談してみようと その人のコメント欄に上文を書いたのですが 削除されたので、複写していた原文を推敲してここに 「はじめての読者へ」と題して生かすことにしました。〕





___
___

世間的実際的成功を収めた人でも、「人間」に充分に気づかないと落し穴があって、自分から関係を損なう。ここからも ぼくは自分自身のためだけでなく社会的にも存在価値があるようだと気づく。


日本人の決定的な弱点は、眺めていれば真理はわかると思っていること。「思想は行動だ」(アラン)という言葉に籠められた形而上性を感得できるか(社会行動以前の根源的行動)。「思索(内省)が人生を導く」ことは日本人においても絶対必要だ。それができる日本人は存在し、そのような同胞だけが普遍的に通用する。学者を意味しない。



___

ぼくがいまさら言うにおよばない事柄を、(他所からの)引用の名文で確認する。

「ロダンは名声を得る前、孤独だった。だがやがておとずれた名声は、彼をおそらくいっそう孤独にした。名声とは結局、一つの新しい名のまわりに集まるすべての誤解の総体にすぎないのだから。」(リルケ『ロダン』)

「すぐれた人と呼ばれる人は自分を欺いた人である。その人に驚くためにはその人を見なければならない――そして、見られるためには姿を現わさなければならない。かくしてその人は自分の名前に対する愚かな偏執にとりつかれていることをわたしに示すのだ。そのように、偉人などといわれる人はすべて一つの過誤に身を染めた人である。世にそのカが認められるような精神はすべて己れを人に知らせるという誤ちから出発する。公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。」(ポール・ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

さて、読者は、ぼくがどういう態度でこの〈公開思索日記〉を書いているか、まさか今更ぼくが言う必要はあるまい、と思っていると信じている。
 ぼくは徹頭徹尾自分の孤独に留まることによって 無頓着に世の役に立つことを期待している。

     23日 朝



グーグルを使って「マルセル 高田博厚」で検索すると広範囲に清潔な画像欄が得られます。それでも通報削除したい画像がありますが。およそ人間感覚を美術の名で裏切っています(Les yeux clos からの一部画像)。知識人を任ずる者達は、不快を正直に感ずる感覚に配慮すべきだ。神聖なものがけがされる不快さで閲覧検索できなくなる。〔グーグルは、ウェブ欄以外の画像欄でも、不快画像を報告できるようにしてほしい。〕

_____
_____
_____

「自己となること」(ヤスパース)が大事なのである。所謂〈霊格の向上〉ではない。これはキリスト教修道者にもありがちな〈完徳〉の意識同様、永遠の偽善である。これを突破した修道者 押田成人はひとつの手本であるから読むことをすすめる(「遠いまなざし」「孕みと音」など ぼくの愛読書)。



[Piano HD] And to be by your side...毎日見ています。23日までで1070 vues を越えました。すばらしいことです。