日が変って9月になった。ぼくとしてはめずらしく公的な提案をしてみようとおもう。裏切りのすすめ。奇を衒っていると思われてもどうでもいいことで、本質的なことをシニカルに強調しているのだ。いま落ち着かないぼくが名文を書こうとする必要もない。メモ程度のつもりでよい。ぼくが言いたいことは、われわれは人間関係のなかで生きているが、それは事実的にそうなのであって、人間関係のなかで生きることを義務づけられているのではないということだ。「人間関係のなかで生きる」ということを「人の道」化して使命・道徳のように思念することをやめよ、ということだ。「生きる」ということが大事であるならば、「生きうる道」を個々が自由に選べばよいのであって、けっして他者がそれに評価がましいことを言ってはならないという一般態度の原則を社会で確立することが、根本道徳であるべきだということである。「困っている人がいたら助けることをあなたはできますか」ふうなことを、「幸福になるための因果」の観念と抱き合わせて呈示するような向きがよくあるが、そういうやんわりとでも人を倫理的に拘束するようなアピール態度を、金輪際やめることである。そういうことをやめることをもって道徳の基本とすべきだ、ということである。そういう基本道徳を社会がしきらないのなら、自分だけでも、拘束的社会通念を脱した、つまり裏切った生き方をすべきだ、ということなのである。だって律儀に人間関係に自己拘束することで自分の生が苦しくなって死に至るぐらいなら人間関係は人間にとって意味ないじゃないか。現状は、人間としての試練などとなまやさしいことを言っていられる次元をとっくに越えていて、「人間にとって狼である人」の様相そのものとなっている。正常な人間関係などとっくに壊れた世界になっている。人間関係は昔から正負両面があるのだが、最近負の様相が著しいとしたら、TVから始まってPC・モバイル機器に浸る生活になり、人間意識そのものが実質的に変質している現状があるのではないか。人間の生の正常な内的リズムが壊れて、それによって、人間の内的秩序が、情操が、壊れているのではないか。言葉や観念だけは立派だが内実が空洞化している。一言で言って、人間の生に「孤独」がどれほど本質的に大事かということを、とくに日本人はすっかり忘れているのではないか。道徳的に拘束化してしまうものなら「絆」なんて全部裏切ってしまえ、とぼくはおもう。学校など行かずに自分で本を読むべきだとぼくは言った。学校が苦しいなら図書館へおいで という処が出てきたのはよいことだ。学校は絶対義務ではなく必要悪だ、社会勉強なら家庭で親が社会とどう関わって生きているかを手伝いなど通してすこしでも経験することがよっぽど貴重で、勉強室に閉じ込められて順位争いの勉強にしがみつき親が何やってるかも知らず関心もない子が、エリートとしていきなり社会に出たら大変だ、そうぼくは言ったし敷衍して言いたかった。「自分が生きられる生き方を選ぶ自由」が、「生きるための道徳」の核心であることを、社会のコンセンサスとすべきである。自分が生きなくてどうする。もちろん、生きるとは、生命的に生きることを基にして、価値的に生きることだ。自分の価値は自分のみが見出す。ヴィクトール・フランクルのロゴテラピーはこの精神で、各人に多様な「神の召命の道」を見出すことを窮極としている。シュヴァイツァーは社会責任をすべて裏切って自分の神の召命と信じる密林へ赴いた。ボランティア活動ではなく自分の道への忠実のゆえにわれわれの心を打つ。学校になじめず自分の内なる世界の探求に専心したルドンをわれわれはその画業によってのみ価値ある存在と評価する。われわれが最高価値を感知するときそれはいつでも、じつは社会的貢献などの尺度を超えているものにわれわれは打たれているのである。それが「人間」であり、つねに社会を超えた価値というものをわれわれは精神本能的に志向している。言葉で何とよぼうともわれわれは運命必然的に「神」を志向していることをわたしは包括的に感知する、と感じ想っている。人間は社会と人間関係のなかに生きているが社会と人間関係を超えている。この真実を、キリスト教伝統のある西欧では人はじつに素直に感得できた。日本はキリスト教の介添えなくともこの普遍的真実に目覚めなければならない。日本人の言説一般というものは何ら突き詰めたものとしてぼくの関心を惹くようなものはない。それでもまず「いのち」を大事にするという基礎は共通の土俵である。そこで真の価値を見出すことが「自己」の問題だ。「生きる」にしても「自己の価値を見出す」にしても、まず集団規範を裏切る(つまり「裏で切る」のであって、のらりくらりとつき合うふうを見せながら、頃合いを見計らって出し抜く)ことが必要だ。そのくらいの根性がなければ、忠臣蔵で終わってしまう。
「器量」などという曖昧観念はもうどこにも影も形もなくなっている。それでこそよいのだ。「人間の偉大さ」がどこにこそ見出されるべきものかに、われわれは目覚めるべきだ。他人相手ではない自己との格闘における誠実さと決断の勇気。集団規範に引きずられる自分との、自分の道を歩むための格闘。
〔ぼくがここで示唆した、「生きるための道徳」に、社会は大きく舵をきるべきだ、社会的規範道徳の底を破って。-デカルトのめざした道徳はまさにそのようなものであった。-〕
- ぼくがここで示唆した道徳心術の奥の深さは察せられることと思う。ぼくの全思惟の重量が懸っている。-
_____
それにしてもぼくが書いて触れたことは同種のことがすぐ社会でも起こり報道されるようなのがすくなくとも自分には驚きである。太宰研究者で識られる奥野健男氏が、角度は違うが似たような経験を福田恆存について書いているのをいつも思い出す。いま手元にあるのでそのまま紹介する:
「・・・ぼくたちが昨日の晩論じあった問題が、翌朝雑誌を見ると福田恆存によってちゃんと書かれている。そんなことが何回となくあって、しまいにはなにか変な気持になったものだ。どうしてぼくたちの関心のあることを、どうしていちいち的確にキャッチし、評論に書くことができるのであろうか。・・・」『素顔の作家たち』奥野健男 201頁
いやいや、〈集合的容喙現象〉なるものを経験したぼくは、そのくらいの現象ではちっとも驚きませんよ。逆に、普通の状態でもそのたぐいのことは起るのだなあとおもって興味深いです。
02:33:34
「器量」などという曖昧観念はもうどこにも影も形もなくなっている。それでこそよいのだ。「人間の偉大さ」がどこにこそ見出されるべきものかに、われわれは目覚めるべきだ。他人相手ではない自己との格闘における誠実さと決断の勇気。集団規範に引きずられる自分との、自分の道を歩むための格闘。
〔ぼくがここで示唆した、「生きるための道徳」に、社会は大きく舵をきるべきだ、社会的規範道徳の底を破って。-デカルトのめざした道徳はまさにそのようなものであった。-〕
- ぼくがここで示唆した道徳心術の奥の深さは察せられることと思う。ぼくの全思惟の重量が懸っている。-
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それにしてもぼくが書いて触れたことは同種のことがすぐ社会でも起こり報道されるようなのがすくなくとも自分には驚きである。太宰研究者で識られる奥野健男氏が、角度は違うが似たような経験を福田恆存について書いているのをいつも思い出す。いま手元にあるのでそのまま紹介する:
「・・・ぼくたちが昨日の晩論じあった問題が、翌朝雑誌を見ると福田恆存によってちゃんと書かれている。そんなことが何回となくあって、しまいにはなにか変な気持になったものだ。どうしてぼくたちの関心のあることを、どうしていちいち的確にキャッチし、評論に書くことができるのであろうか。・・・」『素顔の作家たち』奥野健男 201頁
いやいや、〈集合的容喙現象〉なるものを経験したぼくは、そのくらいの現象ではちっとも驚きませんよ。逆に、普通の状態でもそのたぐいのことは起るのだなあとおもって興味深いです。
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