知性と愛とはぼくにおいては分けえないのである。これはさしあたりぼくの事実ということでよい。自分からしか出発できないのだから。分けえないのは、知性も愛も相手への「関心」だからであるとおもう。愛するから知ろうとし、知ろうとするのは愛しているからである。「関心」という語で要約はできるであろう。「心が関わる」ということなのだから(あまりに中性的な気はするが)。「関心」の反対は「無関心」であり、愛の反対は無関心であると言われるのと符合する。ぼくは小中学時、天文に興味があった。しかし星座の名を覚えたり距離を計算したりすることじたいに関心をもつことはできなかった。宇宙そのものはぼくの関心の対象にはならなかったということだ。そういうものを愛しても知ってもどうしようもない。そうおもった。「存在の神秘」に関心があり、そのさしあたりの前景表象が〈宇宙〉だったのである。思想など識らないさきから、そういうことは自分で感じていた。宇宙への瞑想は、無限宇宙空間の一点に現に在る自分という事実の不思議さへの瞑想へと移行していった。ソクラテスとその弟子によって人間思想がはじまることの意識転換は、ひとつの個人のなかで生れる人間意識の原事実の、永遠の歴史的照応である。
さいしょにもどろう。愛し、知ろうとする関心は、再生して確認しようとする創造意欲となる。これが芸術行為である。真に所有しようとするのである。「触知しうるイデー」にしようとする。愛と知性の行為である。これが演奏であり、彫刻である。裕美さんも、大先生も、しっかりそれに関わっている知性者である。言葉を覚えることが知性ではない。知性のあじわいを知りなさい、両者の作品にふれることによって。
彼女の、「愛は暗闇のなかで」の演奏は神楽(かぐら)の風格がただよう ぼくにとってはすべて神曲である
**あなたの鍵盤への触れ方はじつに興味深いです。なにげないように聴いているきみのロマンティックな調べが生みだされる瞬間、指と手がどのように触れるかをぼくはみます。その触れ方から、あの調べが生れる・・ 余人にはできない、あなただけの手指の運動から生れることがよくわかります。その触れ方は、それを生みだすあなたのこころの自己表現として、意識的なあなたの工夫を介して生れています。その、本質表現のための身体運動の工夫があなたの芸術であり、知性のわざですね。どんなニュアンスの調べも、無意識に無償で努力なしに感情から直接生みだされることはない。画家が、最初の対象感動を画布に再現するのに、感動だけではどうしようもなく、苦心惨憺して工夫を重ねて描く努力をし、ついに人為を超えた光が射すかのような、技術練磨の究極に、最初の感動の再現に成功するのと、おなじではないでしょうか。「芸術」とは、「技術」を意味しますが、それはこのような本質表現-実現-のための技術であり、その技術を工夫し磨き完成させることは、本来の芸術行為そのものでしょう。これが創造でしょう。その修練に生きる者を、われわれは芸術者とよぶのです。そのことをきょう、あなたの手指の鍵盤への触れ方を見ていて、わたしは学びました。大先生の「仕事」の意味を再認識したのです、わたしにとって創造的に。
基本的技術を超えた、本質表現のための深い人間的工夫としての技術の修練というものがある。前者をテクニックとすれば後者こそ本来のアートでしょう。「技術」とよべるこの二つは本来、本質目的のために支え合うでしょう。そのような修練の集積の成果としてあなたの調べが生まれる。それを如実にあなたの演奏のうごきにたしかめて、そして、あなた自身の純粋な心そのものがそこに修練の成果としてレアリザシオン(実現)され、ぼくたちを打つのだということをあらためてみとどけて、あなたへの愛と敬意でぼくはいっぱいです。
愛し、知ろうとし、そのものを真に所有するために自ら創造しようとする(再現:実現)ことは、こうして、そのものへの愛を通して自分自身を自分にとってあきらかにし実現する、「自己との対話」となるのでしょう。大先生の言うように〔先生はそれを芸術の本質とみました〕。そのとき、愛するものへの愛は真実なままなのです。
ぼくはあなたを愛します 魂も姿も
ぼくと同質の 純粋な孤高が 素直にあらわれているから
世人は、「孤高」ということの本質もわからないのがほとんどだから、自然な本性から孤高なひとというのは、誤解・曲解をうけやすい。それはまずぼくのことを言っているのである。あるいみ、ぼくの欄は、孤高というものがどういうものかを、一節一節、節の総体において、示しているといっていいのだ。ぼくの欄を読んで意味がわからなければ、一生わからないだろう。孤高なひとが、自分は孤高だなどとみずから思う必要がないくらい、本人にとっては自然本性的なものなのだ。「孤独」という言葉そのものが多義的なので、ほんらいの積極的意味を有する孤独を、孤高とよびたいのである。孤高も、あまり感覚素質のない者が意識的に志向すると、虚偽になる。そのため、そういう貧相なイメージしか持てない大方の者達によって、本物の孤高なひとは、曲解をうけやすいとおもう。そのくらい、日本人の大部分は、自己秩序などてんでなっていない。これはもう明白である。孤独あるいは孤高は、なろうとしてなるものではない。生まれながらにして自己感覚として孤高感覚をもっているのである。ぼくはまぎれもなくそういうひとりだ。だからぼくと同質の自己感覚のひとはよくわかる。その他の点で生活様態がちがっていようとも、本質が直観できるのである。そうしてほんとうの人間文化はそういう人間によってつくられることを知っている〔それ以前でいくら調和だ謙虚だ(感謝だ)と言ってもだめなのである〕。もうそろそろこういうことを正面きって言っていいだろう。
そういうぼくにとって、友人として合格した者などひとりもいなかった。ぼくの場合であると限っておく。未熟なのに不遜な連中ばかりだった。ぼくが厳しく要求が高かったからではない。よほどろくな者たちがいなかったのだ。これは不運だったとはっきり言える。時代をまちがえたかもしれない。現代人間の卑小さばかりが目につく。こういうことの当否はいくら議論しても埒があくものではないから、そういうばあいはぼく自身の感覚によって断定するのがいちばん真理にちかいのだ。
(こういうことを言ったから、この節は評価はもちろん期待しない。しかしぼくがほんとうに言いたいのはこういうことなのだ。)〔こういうことを言うのを控えうるには、言語道断の思いをし過ぎている。- ぼくはとにかく理屈を言って他者を批判するやつが大嫌いだ。今度のマルセルの文で出てきた、〈非人格的な真理基準〉をもちだして云々する輩だ。ドイツ人やドイツ研究者がやる論法だ。〕
電子欄の出版はかならずやりますよ。
さいしょにもどろう。愛し、知ろうとする関心は、再生して確認しようとする創造意欲となる。これが芸術行為である。真に所有しようとするのである。「触知しうるイデー」にしようとする。愛と知性の行為である。これが演奏であり、彫刻である。裕美さんも、大先生も、しっかりそれに関わっている知性者である。言葉を覚えることが知性ではない。知性のあじわいを知りなさい、両者の作品にふれることによって。
彼女の、「愛は暗闇のなかで」の演奏は神楽(かぐら)の風格がただよう ぼくにとってはすべて神曲である
**あなたの鍵盤への触れ方はじつに興味深いです。なにげないように聴いているきみのロマンティックな調べが生みだされる瞬間、指と手がどのように触れるかをぼくはみます。その触れ方から、あの調べが生れる・・ 余人にはできない、あなただけの手指の運動から生れることがよくわかります。その触れ方は、それを生みだすあなたのこころの自己表現として、意識的なあなたの工夫を介して生れています。その、本質表現のための身体運動の工夫があなたの芸術であり、知性のわざですね。どんなニュアンスの調べも、無意識に無償で努力なしに感情から直接生みだされることはない。画家が、最初の対象感動を画布に再現するのに、感動だけではどうしようもなく、苦心惨憺して工夫を重ねて描く努力をし、ついに人為を超えた光が射すかのような、技術練磨の究極に、最初の感動の再現に成功するのと、おなじではないでしょうか。「芸術」とは、「技術」を意味しますが、それはこのような本質表現-実現-のための技術であり、その技術を工夫し磨き完成させることは、本来の芸術行為そのものでしょう。これが創造でしょう。その修練に生きる者を、われわれは芸術者とよぶのです。そのことをきょう、あなたの手指の鍵盤への触れ方を見ていて、わたしは学びました。大先生の「仕事」の意味を再認識したのです、わたしにとって創造的に。
基本的技術を超えた、本質表現のための深い人間的工夫としての技術の修練というものがある。前者をテクニックとすれば後者こそ本来のアートでしょう。「技術」とよべるこの二つは本来、本質目的のために支え合うでしょう。そのような修練の集積の成果としてあなたの調べが生まれる。それを如実にあなたの演奏のうごきにたしかめて、そして、あなた自身の純粋な心そのものがそこに修練の成果としてレアリザシオン(実現)され、ぼくたちを打つのだということをあらためてみとどけて、あなたへの愛と敬意でぼくはいっぱいです。
愛し、知ろうとし、そのものを真に所有するために自ら創造しようとする(再現:実現)ことは、こうして、そのものへの愛を通して自分自身を自分にとってあきらかにし実現する、「自己との対話」となるのでしょう。大先生の言うように〔先生はそれを芸術の本質とみました〕。そのとき、愛するものへの愛は真実なままなのです。
ぼくはあなたを愛します 魂も姿も
ぼくと同質の 純粋な孤高が 素直にあらわれているから
世人は、「孤高」ということの本質もわからないのがほとんどだから、自然な本性から孤高なひとというのは、誤解・曲解をうけやすい。それはまずぼくのことを言っているのである。あるいみ、ぼくの欄は、孤高というものがどういうものかを、一節一節、節の総体において、示しているといっていいのだ。ぼくの欄を読んで意味がわからなければ、一生わからないだろう。孤高なひとが、自分は孤高だなどとみずから思う必要がないくらい、本人にとっては自然本性的なものなのだ。「孤独」という言葉そのものが多義的なので、ほんらいの積極的意味を有する孤独を、孤高とよびたいのである。孤高も、あまり感覚素質のない者が意識的に志向すると、虚偽になる。そのため、そういう貧相なイメージしか持てない大方の者達によって、本物の孤高なひとは、曲解をうけやすいとおもう。そのくらい、日本人の大部分は、自己秩序などてんでなっていない。これはもう明白である。孤独あるいは孤高は、なろうとしてなるものではない。生まれながらにして自己感覚として孤高感覚をもっているのである。ぼくはまぎれもなくそういうひとりだ。だからぼくと同質の自己感覚のひとはよくわかる。その他の点で生活様態がちがっていようとも、本質が直観できるのである。そうしてほんとうの人間文化はそういう人間によってつくられることを知っている〔それ以前でいくら調和だ謙虚だ(感謝だ)と言ってもだめなのである〕。もうそろそろこういうことを正面きって言っていいだろう。
そういうぼくにとって、友人として合格した者などひとりもいなかった。ぼくの場合であると限っておく。未熟なのに不遜な連中ばかりだった。ぼくが厳しく要求が高かったからではない。よほどろくな者たちがいなかったのだ。これは不運だったとはっきり言える。時代をまちがえたかもしれない。現代人間の卑小さばかりが目につく。こういうことの当否はいくら議論しても埒があくものではないから、そういうばあいはぼく自身の感覚によって断定するのがいちばん真理にちかいのだ。
(こういうことを言ったから、この節は評価はもちろん期待しない。しかしぼくがほんとうに言いたいのはこういうことなのだ。)〔こういうことを言うのを控えうるには、言語道断の思いをし過ぎている。- ぼくはとにかく理屈を言って他者を批判するやつが大嫌いだ。今度のマルセルの文で出てきた、〈非人格的な真理基準〉をもちだして云々する輩だ。ドイツ人やドイツ研究者がやる論法だ。〕
電子欄の出版はかならずやりますよ。