ぼくは、生きるとは過去に向って歩むことだと言った。しかし一方では、ぼくは今、人生の出発点に立った中学時代のそのままのぼくでも尚あるのだと痛切に思っている。それからいろんな経験や学習をしたはずだが、そこから何を蓄積したかは、意外なほど実感はない。思い出せばいろいろあるはずだが、今この瞬間、その蓄積感はほとんど無く、これからすべてを学んでゆく中学初期の青少年期に自分が尚いるように感じている。そのときから、ほんとうに学ぶべきものではなく、副次的なものばかりに時間を費やしてきたような気がする。「学校教育」というものがそれを奪ったと思っている。自分で学ぶもののみが蓄積される。「学校」は、「自学」を奪うものである。その証拠に進学校出ほど無知無学である。現代ではそれに加えてパソコンだインターネットだで、それにまともに付き合っていれば完全に「本を読む」時間は零のはずだ。何を「学んで」いるのだろうか。「自分で自発的に読む本」のみが「教養」になるとぼくは思っている。それは自分の「経験」になる。今、「教養」を妨げているのは、「学校教育」の後は「学問研究」だと思う。「学問」は思いのほか「教養」にはならない。高田先生の教養の厚みは、一生において学校をさぼり、大学をさぼり、学問をさぼった成果である。自主独学の読書しか先生はしなかった。幼少期よりそうだったからこれは一生続いた。学校・大学は不要であり、そこでは教養は培われない。教師・教授に学問はあっても教養を意味しない。大学にゆく学生に教養はない。「機関」は教養行為のじゃまをするところでしかない。ぼくは学者の教養なんか認めたことはない。教養とは、読書によって自分の身につく経験だ。学問は経験にはならない。本人が経験と勘違いしているだけだ。それが「学者臭」だ。「客観知」は全く教養ではない。自分の存在の血肉である経験となるような読書は、「機関」とは関係無い読書のみであり、これのみが教養となる。教養の無いところに「思想」は生まれない。高田先生の言う「思想」を理解する基盤が識者に欠けている。高田先生はTV等の「教養番組」には今更絶対に乗り得ない。それが出来る「実力」者はいない。ぼくが「学問」などで無駄足しなければ、普通の健康体であれば、多分ぼくだけがその可能性があっただろう。その志で中学からぼくはやり直したいと思っている。(これまでの志と記憶をもって生まれ変わりたい。)ぼくがここでやっていることは、本来音楽家であるロマン・ロランが音楽の代わりにジャン・クリストフという音楽的著述をしているのに似ているなと思いはじめた。読書に専念しようか。