私に必要なのは孤独に精神活動ができる落ち着いた場所である。それしか求めていないのにそれをどうして横からわざわざ崩す必要があったのか、その加害意識がどうしてもわからない。所謂「集団ストーカー」被害者は皆それを言うだろう。とんでもない集団意志が此の世を跋扈している。読者には、〈被害者〉は絶対に〈病気(精神病)〉ではないことを注意しておく。〈病気〉という判断は第三者の思考怠惰しか意味しない。現実にそういう不可解な暗黒の破壊的人権侵害行為が広汎に起きているのは事実なのである。イスラム国、拉致事件より本質においてよほど無気味な事象が現実に起きている。
 世界がどんなであろうと私は自分の美意識に則して生きる。それがそのまま私の信仰である。

 この「美意識」を先生の言葉で「詩魂」とも呼び得るであろう。先節の〔重要文紹介〕で次の先生の言葉を強調しておいた。

『たぶん僕達は、僕達の意識の網に要心ぶかくありたく、感覚の純粋性を通して「神」に接したいのであろう。あるいは、「神」というものが包摂している感覚の領域から門をくぐりたいのだろう。音楽や美術の傑作に僕達が感動するとき、その作品を解釈してみようとするよりも、自分の感動の根拠をつきとめてみたいのと同じだと思う。…』

(《意識の網》これはいうまでもなく非感覚的概念的思惟一般である。これによってわれわれは〈創造主〉を思惟するであろう。)
《感覚の純粋性》と呼ばれるものこそ、その核心にあるものは私の言う「美意識」であろう。いや、「詩魂」である「美意識」が、包括的な海のような情感(詩情)の段階から、「神」に触れ得る《感覚の純粋性》へと押し迫り、遂にこの純粋感覚を喚起的に定着させる象徴的な形(紹介文で「抽象」と言われているものはこれであろう)を見出すに至る。形として結晶したイデア、貝殻に立てるヴィーナスの誕生である。これが真の芸術作品の有する「形而上性(メタフィジック)」である。このプログレシオン(過程)全体を私のいう「美意識」は本能の如く貫き導いている。
 『ドイツ・ロマンティスム詩人たちの多く(・・・)彼らは「情緒」から「感覚」へ、それから「抽象」に、彼らの「詩魂」のゆえに歩んで行っている』、という先生の言葉の内実を、私はこのように自分の実践的な歩みの側から了解したいのである。僕自身が自らの精神本能的なもの(美意識)に導かれて彼らと同質の歩みを創造的に実践したい。僕自身が同質の「文の芸術者」に、本質の詩人に、魂探求的告白的な道を歩んでなりたいのである。文字通り「詩人になる」ことは問題にならない(近代主義はこの隘路にはまり込んだ)。魂的な愛自の結果が「本質の詩人」であり、美意識がこのすべてを導く。「自分の魂」のみが根源である。彼らの誰ひとり、参考文献のパッチワークで詩を作ったのではない。中世の純朴なカテドラル職人が人間の一元化のような率直正直な作品を刻んだあの本能的美意識に倣いたい。ロマネスクの馥郁とした美を。