今日8月19日は高田博厚先生の一年に一度の誕生日です。今日で先生は百十五歳になられました。先生は生きておられます。霊魂が死後存続することは否定しようのない事実ですから。それをぼくは「信じさせられ」ています。そして、先生の魂も同様に生きています。これはぼくが「信じる」ことです。



「信じる」ことと「信じさせられる」ことによって世界は成っています。「存在」は人間の「信」によって存在します。信じさせられることによって成立する「客体世界」と、信じることによって成る「主体世界」とに、「存在」は分裂します。「世界」と言いましたが、人間の霊と魂の存在世界です。人間あるいは生を離れた、自然世界自体については、それは有るとも有らぬとも言えないようなものであり、「信」の関心対象ではないものです。「信」は、なんらか「人間」に関することに専ら向けられるわれわれの意志作用です。〔真面目に愛する対象であるかぎりの動物も、「信」の関心対象である場合があるでしょう。〕
「存在」は、それに関心を向ける意識作用によって、すなわち「判断」によって、成る。では虚妄ではないか、判断に依存するのなら、と当然言いたくなる。カントは純粋理性批判の超越論的(transzendental)な議論によって、有名な、現象世界の「経験的実在性」と「超越論的観念性」の主張に至ったが、自然世界に関するこの主張は、「形而上的存在」に関する判断問題を、実践理性に、つまり倫理的信仰の問題に、譲るものである。われわれの態度は、カントのこの議論に対応するものではあるが、議論の、倫理的なものへの関心にとらわれなくとも、われわれは、一般に「生」という個別的統一的全体を思惟するとき、自然科学的次元にはない、「在ること」への問いに、必然的にとらえられる。「生命」こそが「存在」の問いと切実に結びついているのである。「霊」と「魂」を問う次元はここに、「生」を問う次元にある。霊はその存在を信じさせられざるを得ないし、魂の存在はわれわれはこれを信じる自由と切実性がある。

ガブリエル・マルセルの形而上学(完成された体系としてではない)は、「霊の存在」と「魂の存在」とを統合しようとする次元に模索されているものである。わたしの見地からはそう捕えられる。

ぼくは先生の魂が生きていることを感じ信じる。先生の魂を愛するからである。マルセルは、愛は愛する者の存在を断定する、と言っている(この言葉はかなり人口に膾炙しているようだ)。マルセルは自らの霊媒実験(「実験」という語はこの種の「交信」には厳密には不適切である)から、霊の存在も信じさせられるという経験をしている。しかし愛による存在断定(魂への信仰)を勿論この延長上にかんがえてはいない。この点は、小林秀雄の「信と思惟」の秩序自覚に重なるとおもう。ぼくは高田先生の霊を信じさせられた経験はないが、この欄で公開した先生の直筆原稿に、先生の導きと配慮で出会ったと思っている。(小林氏のことをパリ十九区のアパルトマンで偶々話していたら、部屋に霊的に誰かいると感じたことはあった。死者は時空を超えるというから、自分の話をしている、と、不意に現れたのかも知れなかった。)本性的にかなりの名文家の、徹底したリアリスト石井一昌氏が自らと他の生々しい幽霊体験を述べているのを読んで、霊の存在を得心した。違う質はあっても、高田先生やロマン・ロラン同様、自分の信念に命を張っている立派な人であり、言葉に直接に信頼できる。





高田博厚先生、百十五歳のお誕生日おめでとうございます。
ぼくは先生に忠実でいます。ぼくの前にいてください。




 
 
 







1980