わたしが4年余り前からなにものかの力によってやられてきていることは、わたしの精神的聖域、自己の圏が不自然に侵されるという現象である。それは身体的心理的二重にやられてきている。凄惨な現象をここでいつでも報告することができる。いちど或る人に報告したのだが、「ひどい、ひどすぎる。しかし生きてくれていてよかった」という反応であった。それほど伝わったのであれば、勿論わたしの報告を真に受けてくれているとそのときは思ったが、結局、日常的常識通念を超えるものは真に受け取らず、その通念から解釈判断する態度を出ないことをその人は示した。他の人も似たようなものであり、積極的な関心を示してくれた人は一人もいない。みな自分の生活が中心なのはわかる。ぼくもそうあるべきことを言った。しかし問題はそういうことではないのである。そういう話をともかく聞いたのであれば、そういう内容への精神態度をその人がどうとるかという問題なのである。そこにその人の知性も本心も〈魂〉のありようも全部映し出されることになるようなことなのである。そこにおいてまっとうな態度を示す人が、ぼくが関わり得る人々のなかでいなかったということが、いまのぼくをいちばん孤独にしている。(「ではまっとうとは何ですか」という議論にもなろうが、いまぼくはそういう人にいかにまっとうな議論をしても、するだけ無意味だということに気づいている。)孤独は本来肯定すべき創造的なものだが、いま言う孤独の意味は、互いに孤独でありつつ響きあう人、連帯できる人がいないという意味での孤独なのである。本来そうであるはずの人間は悪魔(その得体の知れない力)に魂を変容されてしまった。似たような同質と推測される〈被害〉を受けていると思われる人々もまた各々の〈神話〉に拘泥して、〈連帯〉しようにも志向がすれ違ってばかりいるようだ。メディアは一旦裏で取り決めが生じると特定の事象は途端に報じなくなる。それとも拉致問題のように突然話題にするようになることもあるだろうか。こんなとんでもない現象はどうやって追究されるようになるのだろうか。