「国破れて山河在り」と云う。破れたのは自分であり、在るのも自分である。

この世における人間の役割は、英雄か、憎悪の対象かである。大衆の熱情はつねにこの両極を捏造する。

「昔ながらの国民根性」は「一時の政治力や社会変革でも変らない」。何が変え得るのか。国民性を云々することの欺瞞を逆にこれは言っているのである。それが以下の文である。

《(高田)・・・君達は今後のフランスをどうしようというのだ?」
(ピエール・V)「抵抗派だって各党分裂、野合の集だからね。各人が勝手に計画し夢想しているさ。けれども今はそれを考える時ではないんだ。目的は一つしかない。ドイツを敗北させる……」
「という熱情なのだな」
「そうなのだ。一つの目的がわれわれを一つの熱情にまとめている。それに全身を賭ける。他のことは考える余裕がないのだ」
「そうして、その熱情が英雄的行為をさせると同時に英雄を作る」
「ド・ゴールさ。ところがわれわれは誰もド・ゴールってどんな奴か知ってやしない。ただわれわれの熱情の象徴なのだ。そうして幸いに、彼は今日までこの熱情を裏切ってはいない」
「そういう英雄が出来上ると、いやでももう一つ憎悪の熱情の対象を作らなければならない。ペタンがそれか」
「フランス人はペタンの方をよく知っている。人気もド・ゴールとはけたちがいにある。けれども、あの爺さんがヴェルダンの英雄だってなんだってかまわない。憎悪の象徴にしなけりぁならない。気の毒なめぐり合せだよ」
「人間の役割なんてものはそんなものだよ。けれども、ドイツが敗北して、フランス人から同一熱情の対象が消えうせた後はどうなる?」
「各人が持ち札を出し合うだろうよ。そうして相も変らぬ多数分立さ。フランスに専制は成り立たない。ド・ゴールは純で野心家だが、専制はやれない。また、共産党がモスクワ式にそれをねらったら、一遍に分裂してしまうよ。フランス人はフランス革命の子孫だよ、多数混乱のね」
「それがフランスの平衡の伝統さ。君、熱情に昂奮してもね、平時に戻って、いちばん強い力は昔ながらの国民根性なのだ。これは一時の政治力や社会変革でも変らない。ドイツが負けて、戦争が終ってごらん。平生に戻って、あたりを見回して見る。自分以外にはなにもないんだ。そうして、その自分がこの間のあの熱情はなんだったんだろうと、あやしむのだ。異様な空虚感に襲われる。なぜと言うと、周囲のものはなんにも変っていないのだ。人間は同じ顔をしている。家は同じに建っている。空や樹木が変らないと同じにね。ただそれが異常に見えるほど、痛切に変ったものが一つあるのだ。それらの変らないものの中に無残に破壊されたものがあるのだ。自分なのか? いや、自分はまだある。ただ破壊されたものを感じる空虚な自分が残っているのだ
「新しいものはこうして生れるのだろうよ。人間は火の鳥(フェニクス)だからね。そこに希望があるんだ。今のところは、賭けはかけられた。次の賭けにまた加わるか加わらないか? それは未来が知るのみだ。が、とにかく賭けは連続する」
「いや、賭ける自分が連続するのだよ。人間が連続するのだ
(ピエールはパリの抵抗軍蜂起のわずか前に、ゲシュタポに捕えられ、ダハウに送られて死んだ。)》

著作集II、30-31頁(『薔薇窓』)

こういうものが現代の神話なのである。ここに、「大衆」から「人間」になる指標がある。沈潜して汲むべきものを汲める読者が何人いるか・・・

 ばか騒ぎのあと 「破壊された自分」を「感じる空虚な自分」、これが道化師である現代人の日常である。こういう否定的連続をいつまでつづけるのか。「連続」もまた両義的である



「現代の神話」すなわち「現代人にとっての神についての話」である。デカルトとともにパスカルが復活していることを読者は感じられたであろうか(「賭け」の言葉からではない)


ぼくは自分のために自分のことをかんがえ行為しさえすればよい。それがいちばんぼくを自ずから奉仕的にさせる。自分のことではなく他者のことをかんがえねば という虚言を弄する者は誰か。事実は反対であることをわからぬか。魂の善とはそういうものである