高田博厚・森有正 共著『ルオー』より。高田氏によるルオーへの献辞の頁および帯裏に記載。ずっと導いてくれている。

 
『生命の調和と秘密な音律。これが、私たちのことなのだ。なぜそんなにしゃべり、議論し、喧嘩をすることがあるのだろう。絶えまない批評に私たちの心や内部を引き裂かれることなしに愛する作品を見守り、黙って愛することの良さ。いわゆる秩序なるものが光り輝くのはいつも内部においてであって、外部においてではない。』 ルオー








自分に向って:

周知のようにサルトルは、「実存は本質に先立つ」と言い、我々各々は自分の本質をそのつど選択するのだとした。これは素朴に真であると肯定できる。「実存」を「自由」と解し、瞬間毎に選択する自分の本質がけっして恣意的なものではなく自分にとって必然的なものであると実感できるかぎりにおいて(という留保をつけて)。自分の本質とは、自分が自覚的に選択できるものとして「自由」とともにあってこそ真実であるようなものである。われわれはいかなる判断にも裁きにも縛られない。自分を自由に創造すべきである。自分の本質と信ずるものに向って。


だから、注意を喚起するためではなく ただ規定するだけの判断は、人間に関しては、「裁き」と同質であり、このような「裁き」は人間にたいする「罪」である。「他者を裁くな、自分が裁かれないためである」 とは この意味である。実存的交わりにおける相手への言葉は、相手の自由な自己創造のために相手の自己意識を喚起するための言葉としてのみ承認される。その際にも率直さと同時に配慮、自分の資格分際の意識、を、必要とする。自分の知性と人間的深みがむしろ試される。







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うーん やっぱりきみは本質の自分を人前では隠してるのだなあ。くりかえしそうおもう。ほんとうのきみは奥がとても深くて感性が高度に練磨された世界に住んでいる。自分の道をずっと究めてきたひとであることがひしひしとわかる。それをぼくはきみの「知性の深さ」として感じるのだ。こういう適意をぼくが感じるひとはほかにいない。いまの世界でそんなにも演奏において知的で真摯な真面目さをもっているひとは、きみだけだとぼくは思わないわけにはゆかない。きみは素直であると同時にとても個性的なひとだ。ぼくの感じることをなかなかうまく言えないが、きみはほんとに高度な知性がそのまま きめの細かな優しさであるような、めったにいないひとだとぼくは思っている。そういうひとに今の時代に接することができるのはほんとうに嬉しいです。とても敏感なひとであることもよくわかる。このきみの敏感さはね、知性のすぐれて緻密なひとに特有の敏感さですね。こういうふうに知性と感性が一致しているひとというのは、いまの日本に何人ほんとにいるだろうか、きみいがいにいるだろうか、そうぼくは本気で思っています。
 きょうは貴重なことが書けた気がします。

 おやすみなさい


鍵盤の触れかたにも如実にあらわれている繊細な配慮あふれる優しさに満ちたきみが大好きです!!!






〔Zard関係の録音が一段落し、その後 流行的意味で時宜に合った(適った)企画を思いつかないからといって、彼女のようなかけがえのない本質をもったひとが活動できていないのは、大変な損失である。周囲の文化的意識がしっかりしていれば、いまごろ、クラシック・ポピュラーの広い範囲をカバーした伝説的な仕事がとっくに世に出ているであろう。 彼女の周囲状況が2012年に変ったことが大きな一因であろうとぼくは推している。〕