一昨日あたり、生活にけじめをつけようとPCを一日閉じて以来、何かが回復しないので、自分のみと向き合う必要を感じ、〈評価〉欄も普段閉鎖する。
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これは率直に嬉しいことだから書いておこう。「休みのまえに」は僕の気持のありのままを綴ったものだが、通常節としては(この一週間で)最も接続数が多い。彼女の完璧な情感の世界の演奏はどこからくるのだろうといつも思っている。何度聴いても、一つの音ものこらず、沈黙の間さえも、心の世界でしっかりと意味づけられていることを発見する。この人は内心がほんとうに純粋で孤独な世界を抱いた人であり、そして手堅く真面目な人だと思う。でなければこういう演奏はできない。ぼくは言う、すべての音と沈黙間に、全体内容から必然的に押し出される「想い」が籠められており、隅々まで情感世界の実質に浸透され、満たされ、繊細な優しさと緻密な意志が、心の表現のめったにない豊かさの完璧を生んでいる、と。今時のクラシック演奏者にも感ぜられるものではない。
愛する人、敬する人のことを語って注目されることがいちばん嬉しい。やっときみと、高田さんの世界だけになれた、とぼくは繰り返し安堵するだろう。内面の窓を開けるために外の窓は閉めるものだ。これを愛のある孤独という。
この方向にのみ神は求められ見出されることをぼくはむかしから知っている。
ぼくは愛の世界以外のどんなものも求めていない。観念の言葉で表わす必要もないほどに。ぼくのこころの純粋にぼくはいつもなみだをながす。こんな人間いまほかにいないと感じる。そのおなじ純粋を彼女の演奏は伝えてくれた。ぼくの気持が分かるだろう。
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この一か月の頁別接続数をみると、私の読者はたいへん聡明で真面目な方々が多いことが窺える。通し番号をつけた通常節で
438 魂美・人間の可能性 08-14
48 高田博厚先生作品・常設展示 04-05
458 「神」の感得的探求 08-27
451 無題 ・ 主題 08-21
463 人の平等(自己肯定) 自分と神へ (種蒔き) 08-31
448 音 08-19
454 セザール・フランク (1822-1890)〔追補8.24〕 08-23
449 訓 ・ 信 ・ 〈愛自者〉 08-20
が上位である(節題をなぞり接続できるようにした)。図らずも私の根本思想と感覚がよく披瀝された節がしっかり注目されているのは心強い。高田先生への関心を広げることに貢献できているようであることが窺えるのも嬉しい。
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純粋とはどういうことか。どのように〈判定〉し得るか、し得るものなのか。各自、自らに問える者は問うてみるがよい。純粋な者はこれを自らに問い得るであろう。それは、あまりにも直接に感じているようでありながら、定義しようとすると深い難問である。純粋に関して自他を〈判定〉しようとすると自ら本質から逸脱する。純粋は多分、様々な矛盾的なものと同居しうるであろう。「純粋」ほど、偽観念が横行しているものはあるまい。純粋は、運命的素質のようで同時に自由な意志に懸っているものだと思う。言えることは、何らかの〈試み〉によって〈判定〉しようとする者こそは、真っ先に純粋とは無縁な偽善者、俗物だということである。 純粋とは、運命のように不壊な自由なるものである。イデアリスムがまさにそうであるように。どんな状況や試みにあろうとも、純粋な者は宿命的に純粋である。そのかぎり、〈判定〉の対象などではない。素質的でありながら高度に自覚的なものであり、真の創造的なものの根源である。〈判定〉し得るような根源などありはしない。
こうしてわれわれの思念はおのずと、収斂すべき者たちに収斂してゆくこととなる。純粋で創造的な者たち。
‐ゲーテの言葉より‐
ただちに内部に向かえ、そのなかに中心が見つかる。きっとそこに規則が見つかるだろう。
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変質した体質による、疲れのとれない疲れのなかで生きているから、自分の世界以外を本気で相手にする余力はない。またそこにしか本来の満足は見出せないことを知っている。わたしの書いたものは充分な熟読と内省、注意を要するものなので、その根気と労をとらない者を、たとえどんな善意の人でも相手にすることはできないことは言っておく。本質への集中だけでなく疲労もわたしを直接反応的にし、本質的に余計な気を遣わせない。
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これは率直に嬉しいことだから書いておこう。「休みのまえに」は僕の気持のありのままを綴ったものだが、通常節としては(この一週間で)最も接続数が多い。彼女の完璧な情感の世界の演奏はどこからくるのだろうといつも思っている。何度聴いても、一つの音ものこらず、沈黙の間さえも、心の世界でしっかりと意味づけられていることを発見する。この人は内心がほんとうに純粋で孤独な世界を抱いた人であり、そして手堅く真面目な人だと思う。でなければこういう演奏はできない。ぼくは言う、すべての音と沈黙間に、全体内容から必然的に押し出される「想い」が籠められており、隅々まで情感世界の実質に浸透され、満たされ、繊細な優しさと緻密な意志が、心の表現のめったにない豊かさの完璧を生んでいる、と。今時のクラシック演奏者にも感ぜられるものではない。
愛する人、敬する人のことを語って注目されることがいちばん嬉しい。やっときみと、高田さんの世界だけになれた、とぼくは繰り返し安堵するだろう。内面の窓を開けるために外の窓は閉めるものだ。これを愛のある孤独という。
この方向にのみ神は求められ見出されることをぼくはむかしから知っている。
ぼくは愛の世界以外のどんなものも求めていない。観念の言葉で表わす必要もないほどに。ぼくのこころの純粋にぼくはいつもなみだをながす。こんな人間いまほかにいないと感じる。そのおなじ純粋を彼女の演奏は伝えてくれた。ぼくの気持が分かるだろう。
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この一か月の頁別接続数をみると、私の読者はたいへん聡明で真面目な方々が多いことが窺える。通し番号をつけた通常節で
438 魂美・人間の可能性 08-14
48 高田博厚先生作品・常設展示 04-05
458 「神」の感得的探求 08-27
451 無題 ・ 主題 08-21
463 人の平等(自己肯定) 自分と神へ (種蒔き) 08-31
448 音 08-19
454 セザール・フランク (1822-1890)〔追補8.24〕 08-23
449 訓 ・ 信 ・ 〈愛自者〉 08-20
が上位である(節題をなぞり接続できるようにした)。図らずも私の根本思想と感覚がよく披瀝された節がしっかり注目されているのは心強い。高田先生への関心を広げることに貢献できているようであることが窺えるのも嬉しい。
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純粋とはどういうことか。どのように〈判定〉し得るか、し得るものなのか。各自、自らに問える者は問うてみるがよい。純粋な者はこれを自らに問い得るであろう。それは、あまりにも直接に感じているようでありながら、定義しようとすると深い難問である。純粋に関して自他を〈判定〉しようとすると自ら本質から逸脱する。純粋は多分、様々な矛盾的なものと同居しうるであろう。「純粋」ほど、偽観念が横行しているものはあるまい。純粋は、運命的素質のようで同時に自由な意志に懸っているものだと思う。言えることは、何らかの〈試み〉によって〈判定〉しようとする者こそは、真っ先に純粋とは無縁な偽善者、俗物だということである。 純粋とは、運命のように不壊な自由なるものである。イデアリスムがまさにそうであるように。どんな状況や試みにあろうとも、純粋な者は宿命的に純粋である。そのかぎり、〈判定〉の対象などではない。素質的でありながら高度に自覚的なものであり、真の創造的なものの根源である。〈判定〉し得るような根源などありはしない。
こうしてわれわれの思念はおのずと、収斂すべき者たちに収斂してゆくこととなる。純粋で創造的な者たち。
‐ゲーテの言葉より‐
ただちに内部に向かえ、そのなかに中心が見つかる。きっとそこに規則が見つかるだろう。
いつか内部の光がわれわれの中から輝き出て、それでもう他の光はいらなくなるようなことがあるかも知れない。(「親和力」第二部第三章)
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変質した体質による、疲れのとれない疲れのなかで生きているから、自分の世界以外を本気で相手にする余力はない。またそこにしか本来の満足は見出せないことを知っている。わたしの書いたものは充分な熟読と内省、注意を要するものなので、その根気と労をとらない者を、たとえどんな善意の人でも相手にすることはできないことは言っておく。本質への集中だけでなく疲労もわたしを直接反応的にし、本質的に余計な気を遣わせない。