年譜を記しながらあらためて思ったのだが、世間ではどうやら毀誉褒貶の差が大きいらしい高村光太郎であるが、彼の高田先生との関わりのあり方を見ていると、彼にたいしても決して手放しで讃仰していたのではない先生であるが、やはり生涯尊敬していた相手であったことが解る。高村にしてみれば、先生は得がたい「同士」であり、普通ならずっと近くに居て欲しい存在であったろう。しかし、「普通」と違うのは、かれらは「真の同士」であったから、自分の自己中心的望みのために互いを決して束縛しようとはしなかったということだ。あたりまえのことなのだが、世の中、これが滅多にあたりまえではない。何とか、好ましい相手は自分に心身ともに引き付けておこうとする。そうとうに自他ともに精神的人格者と認めているつもりの人物にも、抜きがたくこれがある。人間の品格・真質にかかわることなのだが、どうしてもこの傾向を脱せられないようだ。これが「世俗性」ということなのだと思う。これを脱し得ている人はほんとうに僅かしかいないというのがぼくの経験だ。人間の品格の基本は何か、気がつけば高村や先生はそれを自然体で示してくれている、と思う。