こんにちは。
今回は神からの愛と警告と題して、この世に自浄作用は期待出来ないため、聖書にのみ希望を置くべきであること、そして、神からの警告を我が事として受け取り、賢く備えるのが最善であることについてお伝えしていきます。
<この世に希望は無く、主イエスにのみ希望がある>
一体どうやったら、世の中、ここまでぐちゃぐちゃになるのだろうかと感じる出来事が絶え間なく続きます。ワクチンを未だに殺人と認めず居直る権力者(参照:日刊スポーツ)、金銭にまつわる違犯があっても開き直り、その地位にしがみつくさもしい国会議員ら(参照:朝日新聞)、日本の国土と文化を破壊し、日本の秩序を乱す外国人たち…(参照:アメブロ 、天羅地網)。これらは突発的に起きたことではありません。国内の少子化促進、移民促進と外国人優遇、ワクチン信仰、拝金主義、司法の腐敗等、これら悪しき種は何十年も前から蒔かれ続けて、今、あからさまに表面化しているだけです。すべては支配層の意向を受けて売国を働く者たち(国会議員、地方議員、官僚、大企業、報道機関ら)によって進められてきた事です。それによって、かつてないほどの腐敗と混乱を極めております。手前はこの無秩序がただただ不快で苦痛でなりません。しかもこれは頂点ではなく、この無秩序(混乱)は新世界秩序を構築するまで終わらないでしょう。目下、国民を支配層の管理下に置くためには憲法改悪、個人番号券の社会制度基盤への関連付け拡大等が彼らの悲願です。大勢の人々が最大限に不幸となる暗黒社会を阻止するためにもこれらの改悪を防がねばなりません。見て見ぬ振りをしたら、悪に加担したも同然です。しかしながら、一方では、聖書の預言は確実に起こります。それでも、政府がこれまで計画した時期よりも憲法改悪が遅れていることから、まだぎりぎり、悔い改めの時が与えられているようにも思います。この時の中で、隣人のために世の悪化を防ぐべく周知に努めつつも、最も大事なのは神に立ち返り、悔い改めることです。ミカエル氏は繰り返し、以下のことを伝えております。
この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
この世が悪い者の支配下にある以上(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)、世が世を正しく裁くことは出来ません。ただ、唯一の全知全能の神だけが、神の律法、掟、戒めに則り、この世のすべてを裁かれます。この聖書の真理はすべての人に関係し、例外はありません。無視しても、勝手に憤慨しても、偶像に縋っても無意味です。これまでの常識の延長でものを考えても無駄です。聖書を読み、頭を作り変える位の覚悟で悔い改めなければなりません。「みんな、一緒に救われる」「信じれば、救われる」ことは絶対に起こり得ません。きちんと聖書を読めば、善悪の基準は律法にあり(更新はされても、廃止はされていない)、悪人は滅ぼされるが数少ない善人だけが救い出される(ペトロの手紙一 四章十八節、マタイによる福音書二十二章十四節等参照)と書いてあるとおりです。一体、聖書信仰の無い人は何を頼りに日々生きているのでしょうか。現実逃避しているのか、何も感じないのか、あるいは、日々不安で堪らないのか…。そういったことを言うと「宗教」だの「自分探し」だのと莫迦にする人が居ります。ただ何も考えず、目先の日々を生きるのが「大人」と看做す人も居ります。しかし、それでは思考停止した家畜です。世が教えた価値観に従い、世での繁栄を求めて地位や名誉を追求したり、拝金主義に陥ったり、快楽の奴隷となり、そこに留まる人々ばかりです。更に、支配層の駒と化した為政者に、増税や福祉切り捨て等の虐待まがいの政策をされて首を絞められている状態です。まさに家畜のような扱いです。率直に惨めですよね。直視し難い辛さがあるのかもしれませんが、先ずは客観視しないことには次の行動は生まれません。
このようにされて悔しくないでしょうか。そして、自分の生きている意味は何なのかと考えて苦しくならないでしょうか。人は理性のない獣とは違います。どうしてそのような家畜に身を落として良いでしょうか。
神は御自身がお選びになった人間を愛しておられ、その者らが救われて欲しいと願ってはります。神は我等が乗り越えられないような試練はお与えになりません。あんたが、慈悲深い神があなたを助けないと言うならば、あんたは神を愛し、神の掟を守って生きているか自問自答してください。出来てへんのやったら、助けを受けられへんのは当然なんです。例えば、あなたが召使いを雇っているとして、その召使いがあなたが決めた掟を守らず、言うことも聞かないのであれば、解雇したくなるでしょう。それと同じようなものです。
人は神の真理によって、神の聖なる律法によって、在るべき姿を取り戻します。そして、神は正しい御方ですから、神の善に適わない者を滅ぼします。主イエスを信じ、主イエスと新しい契約を結び、最期まで神の御命令を全うした者だけが有罪判決から免れます(無罪判決)。自分が無罪に値すると自分の人生を懸けて証明していかなければなりません。何より、神を愛するなら罪に留まるなど考えられません。
ところで、聖書の福音書でも主人と僕の例え話が登場します。神は全知全能の創造主で絶対者であり、主人に相当します。そして、被造物である人間は僕です。まずこの関係を認識して事に当たらねばなりません。また、「自分が無罪に値すると自分の人生を懸けて証明していかなければならない」ことをただ自分が助かるために、あるいは渋々に、後ろ向きに思うのは本来ではないことも申し添えておきます。誰が好き好んで悪に染まり、進んで自分が汚れて腐敗するのを望むでしょうか。聖なる神の御性質にあずかり、正しく生きることはこの上ない喜びです。そうしたくてたまらない、そうせずにはいられないと思えないでしょうか。自分が汚れ、濁りが生じるのは苦しくないでしょうか。「義務」と言えば、何やら重荷、苦痛といった感覚を覚えるかもしれません。清潔な人は些細な汚れも嫌うはずです。不潔に慣れてはいけません。
<神は指導する>
聖書の箴言は、言葉どおりに戒めや教訓が書かれた旧約聖書の箇所です。その初まりから、箴言が書かれた目的が明確に書かれております。人が本来持つべき真の分別(物事の道理を弁える)、特に神を畏れることが何にも優って重要である(箴言一章七節参照)と言われております。世の終わりが間際な現在、預言通りに人々の愛が冷え、堕落が進んでおり、だからこそ箴言の呼びかけが重要な意義を持って照らしてくれていると感じます。古にかつて語られたは、永遠に有効であり、どの時代にとっても新鮮さがあります。そこで、以下の箴言一章二十二節から三十三節の箇所を丁寧に読み解き、考察していきます。
箴言一章二十二節から三十三節(参照)
いつまで莫迦者らは莫迦を好み、あざける者らは自分のあざけりを喜び、愚か者らは知識を嫌悪するのか。お前たちは我が懲らしめに立ち返る。見よ、我が霊をお前たちに注ぎ出させ、お前たちに我が言葉を理解させよう。我が呼びかけたのにお前たちは拒んだ。我が手を伸ばしたが耳を傾けない。お前たちはあらゆる我が勧告を拒んだ。我が叱責に誰も従わなかった。我もお前たちの不運を笑おう。お前たちが恐れに遭う時、嘲笑おう。お前たちの恐怖が嵐のようにやって来る時、お前たちの不幸が竜巻のように起こり、苦難や苦悩がお前たちに臨む時、彼らは我を呼ぶだろうが、我は応えないだろう。彼らは捜し求めるだろうが我を見つけられないだろう。彼らは知識を嫌い、神を畏れることを選ばなかったからである。彼らは我が勧告に従わず、我が叱責を軽んじた。彼らは自分の道の実を食べ、自分の考えによって満ちるだろう。莫迦者ら背教者は、自分を殺し、愚か者らの安らぎは自分を滅ぼすだろう。しかし、我に聞く者は落ち着いて住み、災難への恐れから平穏でいられるであろう。
◯神の知識によって事を分別せよ
箴言一章二十二節について、「莫迦(פְּתָיִם)」は新共同訳・新改訳では「浅はか」、口語訳では「思慮のない」と訳されております。原語には、「愚か」「賢明ではない」の意味もあるのですが、個人的には「単純」の意味があるのが印象的でした。それには「頭の悪い」「騙されやすい」といった意味もあり、考え方などが一面的で行き届かなくて、浅はかである意味(思慮のない)なのだと思います。今の世で例えれば、世の権威を盲信している人がそれに該当すると思います。例えば殺人ワクチンによって大勢が亡くなり、心身を害しているにも拘らず、「コロナ死」「コロナ後遺症」との報道を真に受けて騙される人々です。太陽暦二千二十四年四月十七日、コロナワクチン被害者遺族らが国に賠償求め提訴し(参照:弁護士JPニュース)、それがやっと大手報道機関でも報道されるようになった(参照:日本放送協会)と思ったのですが、それを打ち消すように「ワクチン被害」を「コロナ後遺症」へとすり替えてるような報道もまた直後から急激に目立ち始めました(参照:日本放送協会、産経新聞)。国際保健規則(IHR)改悪や感染爆発の条約(参照:東京新聞)、国立健康危機管理研究機構(日本版CDC)設立(参照:読売新聞)とすべて足並みを揃えており、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画」で『国は、新型インフルエンザ等の発生時に全国民分のパンデミックワクチンを国内で速やかに確保することが可能となるよう〜(引用:厚生労働省)』と計画していることからも、秋のレプリコンワクチン接種に向けた誘導をして、まだまだ打たせる気満々です。それにしても報道機関の極悪さが際立っていると思います。少し考えればおかしいと気付きそうではありますが、世の嘘にいつまでも騙され続けるようでは莫迦者と言われても仕方がないと思います。そして、真理においては聖書を「宗教」と捉えたり、世の諸教会の教える偽福音を盲信している姿にも重なります。次いで、「あざける者(לָצוֹן)」は、言葉どおりに人を蔑むことや莫迦にすることを指します。「反ワクチン」と括って、真実を訴える者たちを揶揄する人々、同じように聖書真理を莫迦にする人々が少なからずおりますが、そういったものに例えられると思います。こちら(真の聖書福音と預言「聖書と主イエスの教えは嘘ではなく、真理です」)の記事のコメント欄では、不遜な不信仰者が絶対者である本物の神を認めずに自分を正当化し、分を弁えずに喚き立てており、まさしく「あざける者」のようです。続いて、「愚か者(כְּסִיל)」は、意味合いが重複しますが「騙されやすい人」「うつつを抜かす人」「鈍い人」の意味があります。何に騙され、うつつを抜かすかと言えば世の権威、世の教え、世の価値観だと思います。そして、「知識(דָעַת)」について、ここでの知識は特に「神の知識」です。聖書真理全般がそれに当たると思います。先にも示したとおり、今でも聖書を「宗教(作り話)」と看做したり、仏教や神道などの偶像崇拝を続け、聖書真理を知ることを嫌う者が大勢います。
一章二十三節について、「懲らしめ(תּוֹכֵחָה)」は「懲罰」の意味です。興味深いことに、それだけではなく「訂正」「論破」の意味もあります。誤りを正しく直すことや間違った説を言い負かすことは世の洗脳から覚める過程そのものだと思いました。もし、訂正されたり、論破されなければ、いつまでも間違った古い考えに固執し続けることになるでしょう。次に『立ち返る(שׁוּב)』についてです。言うまでもなく「神に立ち返る」の意味ですがこの原語にはたくさんの意味が包含しております。関連する意味として「情報を更新する」「問題を取り除く」「救い出す」があります。「情報を更新する」とは、物事の見方や考え方の基軸を聖書真理に更新することそのものです。新訳の時代たる現代では、救い主である主イエスが神の律法を更新され、新しい掟も与え、主イエスと新しい契約を結ぶことで律法が心に刻まれて、聖霊が与えられるようになりました。このように救いの道が開れれた事にそのまま当てはまると思います。上記以外にも「賠償する」の意味もあり、まさに罪の贖いです。ところで、かねてよりコロナ犯罪を機に世の真実に目覚める人が増えておりますが、これまでの常識とされるものが間違いだったと改められるには、これまでの常識や価値観の矛盾に気付いたり、それが通じないと限界を感じた時なのだと思います。試しに耐えられないものは本物ではありません。懲らしめを受け入れられるには、これまでの自分の考えが正しくなかったと素直に認めることが不可欠です。そして、「何が正しいか」「どうすればいいか」と切り替えていく必要があります。
上記の投稿主は残念ながらキリスト者でもなく聖書に関心を持つにも至っていないようですが、言わんとしている点は重要だと思います。逆境は機会と成り得ます。手前もそうでした。人生における逆境の時に、世の常識の綻び(嘘)を見抜き、偶像崇拝者の甘言に乗らず、誰かを盲信することもなく、自分で聖書を読み、真理だと見出だせたら幸いです。自分で見出だすことが重要です。主体性の無い信仰など嘘だからです。また、逆境の時を狙って、別の嘘で絡め取り、滅ぼそうと群がる悪魔の手先のような輩(宗教、その他詐欺)もいるので要注意です。
一章二十四節について、「拒む(מָאֵן)」には、「権威に逆らう」「規則に従わない」の意味があります。神の呼びかけを否むのですから、そのとおりなのだと思います。以下のノアの話を想起させます。
ノアは伝道活動をしながら箱舟を造った。ノアの箱舟に乗り込んで助かったんは僅か八人というめっちゃ少人数であるという事実を忘れるな。(略)ヤシャルの書によれば、主の道を歩む者の多くは、神が大洪水の災いを見るべきではないと思し召しはり、その御配慮により、大洪水が起こる前に死んだ。ノアも主の道を歩む者の一人であったが、神は、悪人どもを一掃した後の地でノアの子孫が地に増え広がるようにという御意志から、ノアとその家族は大洪水前に死ぬことはなかった。主の道を歩む者の殆どが死んだ後、神は彼らに百二十年の猶予を与えはり、ノアと義人エノクの息子であるメトシェラに悔い改めを人々に説くように御命令しはり、人々が悔い改めるなら災い(大洪水)を下さへんと言わはった。しかし、人々は頑なで、聞く耳を持たへんかった。
非常に残念な事ですが、旧約の時代から、今に至るまで、変わらずに殆どの人々が聞く耳を持たないのだと思います。だからこそ、聖書の言葉を本当だと信じられるなら幸いです。
◯聞き従わぬ者の末路
一章二十五節について、「勧告(עֵצָה)」とは、原語の「計画」「思慮分別」「意志」などの意味からも、神の御命令等を指していると思います。申命記二十八章にあるように、神に従えば(行いを伴った信仰)祝福があり、神に従わねば呪いが臨み、最終的には神の裁きで有罪となるか無罪となるか等の定めがあるのですから、律法を守れ(善を為せ)との仰せは「勧告」であると思います。一章二十七節の箇所は従わなかったことの報いとして受け取れます。また、古代イスラエルの滅亡の歴史にも重なります。そして、今の日本の惨状にも重なります。『不信仰こそが世の悪化に直結してることをええ加減理解しなはれ。過去記事「日本人の問題点 一」でも書いたとおり、日本がこれ程悪い状況なんは、日本人は古代イスラエル人の末裔であり、それにも拘らず不信仰者が多く、律法違犯の報い(呪い)、神との契約違反の結果やと言うてるやろ。(引用:真の聖書福音と預言「二種類の基礎」)』のとおりです。ところで、申命記二十八章二十八節には呪いの一つとして『主はお前たちを狂気と盲目(無知・無分別)と精神の錯乱でもって打つだろう。(参照)』とあります。例えばですが、コロナワクチン後遺症では、「新型コロナワクチン後遺症 患者の会」の調査によると「うつ病」が最も多いそうです(参照:BraindDead World)。また、コロナワクチンによらずとも、それ以前からも精神疾患とされる人々の数は急増しているようです。こちら(毎日新聞)によると『2002年と17年のデータを比較すると、精神科の受療患者は258.4万人から419.3万人に増加。15年でおよそ1.6倍になりました。』とのことです。彼らは、おそらく精神科等で「服薬治療」を受けているでしょう。しかし、『精神薬に手を出したら必ず「死にたい」の感情が湧きます。生物学的に有り得ない感情ですよね。覚醒剤で神経細胞が寸断されたことにより思考回路がエラー多発でこうなります。手を出すな、精神科、心療内科、こころのクリニック、メンタルクリニック。覚醒剤漬けで行き着く先は廃人・自殺です。(引用元:X)』と向精神薬服用の末路は悲惨です。こちら(ナカムラクリニック)でも『精神科の処方薬は、総じてろくでもない。(略)現代の精神科医療は、とても「医療」なんて呼べるシロモノじゃない。単なる製薬会社の金儲けの手段に成り下がっている。』と指摘しております。精神医療も含めて、医学界の権威は殆ど常に間違っていることを知るには、こちらの記事(さてはてメモ帳 Imagine & Think!)も参考になります。更に、こちら(In Deep)では、コロナワクチン接種者の多くが「幻覚や妄想を伴う精神病」を経験していることが明らかになったと伝えております。記事中の『数日以内に、視覚的および触覚的な幻覚、感情の抹消が生じた。そして、自分自身の身体を切り始めた。』、『「そこにないもの」を見たり聞いたりし始めた。』から、「真の聖書福音と預言(デカポリスでの悪霊追い出し)(聖書の終末預言 二)」にある自傷行為をさせる悪霊の働きそのものです。医学信仰(偶像崇拝)の結果としても「狂気」や「精神の錯乱」をもたらし、それにも拘らず精神医療やワクチン等を疑わない人々は極度の「盲目(無知・無分別)」に陥っていると思います。
一章二十八節について、いざ大きな災いが臨んでから神を求めても応えないとあります。『その時』は、神が罪の赦しをされる恩恵期間を終えた時以降を指すのではないかと思います。それは必ずしも大艱難期など、一定の時期とは限りません。個人によって恩恵期間は異なるようです。『恩恵期間が終了すると、いくら後で悔い改めるとか、聖書を真剣に読んで真理を理解しますとか、聖霊を受ける機会をもう一度ください等、言ったところで、どうにもならず、無意味な主張になります。即ち、あなたの運命が決定されたことを意味します。恩恵期間の終了は、今日かも昨日かも明日かも分かりません。これは、天の父なる神以外は知ることのできないことなのです。(引用:真の聖書福音と預言「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」)』とあるとおり、今、この時に速やかに悔い改める必要があります。また、後戻りが利かないことは、先のノアの話からも明らかです。
神としては、人々がその災いによって神を畏れ、邪悪な道から離れるやもしれんという期待からそれらの事をしはったが、人々はそれを経験しても神に立ち返ろうとせず、神の怒りを増長させた。そして、ついに裁きの決行である大洪水の時になり、四十日も雨が降り続いた。その水害で危機感を抱いた約七十万人が箱舟に押し寄せ、「あんたの箱舟に入れてくれ」等と叫んだ。しかし、ノアは、「あんたら全員、神は居らんと言い、主に逆らったではないか。それ故、主はあんたらにこの災いをもたらしはった。あんたらを地の表面から取り除くために。このことは百二十年前にあんたらに言うたことやろ。あんたらは主の御声を聞かへんかった。それなのに今、地で生きたいと望むのか。」と返答した。人々は、「我等は主に立ち返る用意がある。ただ我等が生きて、死なないように開けてくれ。」とノアに言い、ノアは、「見よ、今あんたらは自分の魂の動揺を見て、主に立ち返ることを望む。何故、あんたらは百二十年の間に立ち返らへんかったんか。それは、定められた期間として主があんたらに与えはった。今更あんたらは我に魂の動揺故にかように言うが、主はあんたらの言うことを聞きはられへんし、耳も貸しはらへん。それ故、あんたらの望みはもう叶わへんだろう。」と言うた。
また、ノアが言わんとしていることに同じだと思います。日頃から主を否む者には、緊急時に自分の命を惜しんで縋っても主はお応えになりません。自分勝手で都合の良い、困ったときの神頼みとはまさにこのことです。主に立ち返るための時(期間)があった訳で、それを蔑ろにしたのは誰なのかをよく考える必要があります。また、「捜し求める」の「捜す(「探す」ではない)」には「見失ったものをさがしている状況」の意味があります。この意味もまた、よく文脈を表していると思います。
一章二十九節について、「彼らは知識を嫌い」の「知識」は、「神についての知識(聖書真理)」を指します。頭の中だけの知識ではなく、ここには行いを伴った「従順」の意味が含まれております。ヘブライ人への手紙五章八節では、主イエスが従順を学ばれたと書かれており、「従順(ὑπακοή)」の意味を紐解くと「注意深く聞くこと」「法令遵守」の意味があります。つまりは神の要求(神の律法、掟、戒め)を守ることで示される従順です。聖書真理を信じない者は、他の偶像(宗教、金銭、社会的地位等)だったり、世の常識、偽使徒パウロに基づく偽福音を教える世の諸教会の教え(人の教え)を信じます。彼らは一様に聖書に基づかず、自分を正しいと主張し、真のキリスト者の生き様をあざ笑います。一章三十節の箇所も、その状況を表していると思います。彼らがもし世の終わりの時に存命であれば、聖書が本当であったと、自分が携挙もされなかったと知り、呆然とするのではないでしょうか。一章三十一節の「自分の道の実を食べ」は、自分たちの行為の結果を受けることを指します。結果、「持っている者は、その者には与えられ、豊かになるだろう。しかし、持っていない者は、その者から持っているものを奪われるだろう。(マタイによる福音書十三章十二節参照)」のようになります。
一章三十二節について、先にも「莫迦(פְּתָיִם)」の原語に触れましたが、同じ原語が使われており「簡単に騙される」「騙されて戻ってしまう」との意味があります。世の教え、総じて聖書に拠らない人の教え(世の権威)に簡単に騙される人、折角、聖書を知っても信仰が浅く世俗に逆戻りする人たちが相当すると考えます。また、愚か者らの「安らぎ(שַׁלְוָה)」について、「繁栄」「富」「平和」の意味もあります。この世での繁栄、富、平和があるのは世に属しているからだと思います。主イエスは、我が平和をもたらすために来たと思うな(マタイによる福音書十章三十四節参照)と言われており、神に属せば世とは相入れず分裂せざるを得ません。故に、世に染まって、上手くいっている程に自分を振り返ることも無いのだろうと思います。仮に改心したとしても、世での成功体験が相当な誘惑になる危険があると思います。手前も同じように、真のキリスト者を目指す前は世の教えを信じ、社会的には安定し、そこそこ収入があって表面的には「上手くいっている部類」だったと思います。ここまでは「愚か者らの安らぎ」に同じだったと思います。しかし、心の中は常に不安、苦痛、恐れがあり、すべてを投げ出してしまいたいと頻繁に思っておりました。表面的には繁栄と平和があったように傍目には見えたかもしれませんが、心の中は常にこの世の終わりかのようでした。この世の価値観の中で心身が消耗し、頑張っても頑張っても苦痛が軽減するどころか増していくばかりで八方塞がりに見えました。しかし、この苦痛を生む元凶たる悪しき世の仕組み、それを作った悪魔崇拝者たちの悪行、世の繁栄を追い求める必要がないこと、律法遵守が真の正しい生き方であるとミカエル氏のブログで知り、改心し、神に従う喜び、真の希望を見出だしました。余計なものを捨てた開放感と神の律法に従う喜びはこれまでに味わったことのないものでした。それまでに頻繁にあった「すべてを投げ出してしまいたい(自分を滅ぼしたい願望)」と鬱々とする日々は一切無くなりました。もし、あのままの生き方をしていたらどうなっていただろうかと思うと、ぞっとします。ただ、その分、この腐った世の酷さが目につくようになり、別の苦痛は生まれます。しかしながら、やがてこのすべてが報われる時を信じて、神の正義が下される時を信じる、真の希望によって支えられております。もし、この世で安らぐとしたら、それは偽りです。真の安らぎは、来る次の新しい天と地にのみあります。それまでは暫し、この地での忍耐が必要です。
◯神からいただく報い
一章三十三節について、「住む(שָׁכַן)」には、「永続的に居を構える」「憩う」の意味があります。意味からして、この世ではなく、神の王国を指すと思います。「我が父の家には、住まいがたくさんある。そうでなかったら、我はそう言っておいたであろう。我はお前たちに場所を用意しに行く。(ヨハネによる福音書十四章二節参照)」の言葉が符合すると思います。「平穏でいられる」についても、「神は彼らの目の涙を残らず拭い去るだろう。もはや死も悲しみも泣く事もなく、もはや苦痛もないだろう。(ヨハネの黙示録二十一章四節参照)」の言葉が相応すると思います。これこそが聞き従うことの報い、約束です。
総じて、箴言一章二十二節から三十三節の聖句は、神の御意志や御計画をとても分かり易く教えてくれる箇所だと思います。他の関連するであろう箇所も一緒に見ると、より深みのある言葉だと感じます。また、神が、敢えてこのように人を指導してくださる神であることも確と覚えておかねばなりません。他者を本気で指導しようとするなら、本気で相手を大事に思わなければ出来得ないと手前は思います。非常に多くの労力が必要だからです。大事な相手でなければ、どうしてそこまでの労力を注げるでしょうか。それこそ世俗生活においても自分の親、教員、上司等を見ていれば、その叱責が本気なのか、自分を大切に想っての言葉なのかは何となくでも分かるはずです。どうでも良いと思うなら、ただ放置して、堕落するに任せるはずです。しかし、そうはなって欲しくないから本気で叱るのです。また、自分がその立場であれば、尚更、分かるのではないでしょうか。神の指導、叱責にはそういった愛があることを手前はひしひしと感じるのですが、聖書をお読みなった皆様方はいかがお感じになるでしょうか。少しずつでも確実に、神の御意志に適うようでありたいと思わずにはいられません。
<賢いおとめと愚かなおとめの違い>
箴言一章二十二節から三十三節の箇所は、弁えるべき事柄として、神に従う者への良き報い、神に不従順な者の末路が書かれております。そして、同じように神の裁きへの備えに対する愚か者の例と、反対にそうではない賢い者の例が書かれた以下の箇所も細かく見ていきます。双方を見ていくことで、神の御意志がより立体的に理解出来ると思います。
マタイによる福音書二十五章一節から十三節(三章)
それから、各天の王国は、十人のおとめが自分の灯火を手に取り、花婿に会うために出て行ったことに例えられる。彼女たちの家の五人は賢く、五人は愚かである。愚かなおとめたちは自分の灯火を持っているが、その中に灯火の油を持っていなかった。しかし、賢明なおとめたちは自分の灯火と一緒に灯火の容器に油を持っていた。花婿の遅れにより、皆うとうとして、眠りに落ちようとしていた。真夜中に大声がした。「見よ、花婿が来る。花婿に会いに出てきなさい。」その時、彼女たちおとめは皆、目覚めて自分の灯火を整えた。愚かなおとめたちは賢いおとめたちに言った。「あなたがたの油の中から我らに下さい。我らの灯火が消えるからです。」賢いおとめたちは答えて言う。「我らとあなた方にとって十分なほどありません。それよりも店に行って自分自身のために買いなさい。」愚かなおとめたちの買いに行っている時、花婿が来て、用意できている五人の賢いおとめたちと一緒に婚姻の宴へ入って、扉は閉じられた。その後、残りのおとめたちが到着して言う。「御主人様、御主人様、我らのために開けてください。」しかし、主人は答えて言った。「我は確かにお前たちに言う。我はお前たちを知らない。」それ故、お前たちは目を覚ましていなさい。お前たちは人の子が来るその日も時も分からないからである。
◯真のキリスト者と聖霊の関係
こちらはマタイによる福音書において、終末預言等が書かれた二十四章に次いで、更に例えとして主イエスが語られている箇所です。まさに、世の終わりにいる我らこそ、我が事として即座に応用すべき箇所だと考えます。順序よく見ていきます。
二十五章一節について、「おとめ(παρθένοις)」には「純白」「清い」「汚れていない」の意味があり、聖書では「花婿である主イエス」に対して、真のキリスト者は「花嫁(おとめ)」に例えられます。個人の先入観ですが、「おとめ」にはどこか「か弱さ」を感じます。しかしながら、原語の意味を細かく見ても、どこにもか弱さの意味はありませんでした。本来、偶像崇拝を始め、あらゆる汚れや淫行を避け、純潔を守ってきた人の意味が「おとめ(παρθένοις)」にはあるのですから、決してか弱く守られるのではなく(もちろん、主イエスに繋がり、聖霊の助けは得たとしても)、自分の意思で悪を避けなければならない、また、そう出来るようになる可能性を秘めているようにも感じました。次に、「灯火(λαμπάδας)」は、単に照明器具の意味だけでなく、「知的な意味での力」「目の輝き」など、人間の内的な力の意味があります。この源には、やはり神の知識があるのではないかと考えます。ちなみに、マタイによる福音書六章二十二節では「体の灯火は目」と言われており、原語が異なりますが、意味合いは非常に近似していると見受けます。
二十五章二節について、キリスト者に例えられる「おとめ」でも、「賢い者(φρόνιμοι)」と「愚かな者(μωραὶ)」が登場します。「賢い者(φρόνιμοι)」には、「思慮深い」「用心深い」の意味があり、「愚かな者(μωραὶ)」には、「頭の鈍い」「不注意」の意味があります。先の箴言の意味とほぼ同じであると思います。また、そもそも「愚かな者(μωραὶ)」の性質は、「灯火(λαμπάδας)」の性質と相反しております。「愚かな者(μωραὶ)」には「不合理」「理屈に合わない」の意味もあり、それ自体が言葉どおりだと思わず膝を打ちました。実に上手く出来ております。そして、おとめたちは、愚かな者か賢い者かのどちらかに分類されており、完全か不完全かの二種類しか存在しないことが分かります。
二十五章三節の「油」は、ヨハネの手紙一 二章二十七節(参照)「油がお前たちにすべてを教える」とあるとおり、「聖霊」を指します。使用されている原語は異なりますが、ヨハネの手紙一 二章二十七節にある「油(χρῖσμα)」には、明確に「聖霊の賜物」の意味があります。また、マタイによる福音書三章十一節及びルカによる福音書三章十六節で洗礼者ヨハネは主イエスに対して「聖霊と火」で洗礼をお授けになる等、聖霊が火に例えられております。聖霊が教えてくれる(ヨハネによる福音書十四章二十六節参照)ことを踏まえると、灯火と油は、元々、非常に近い位置関係にあるのではないかと考えます。
◯うとうとする危険
二十五章五節について、花婿の到着が遅れております。花婿の到着は、実際には主イエスの来臨(この世の終わりの時)であり、その時はただ天の父だけが知っております(マタイによる福音書二十四章三十六節参照)。聖句中では「遅れ」とはありますが、ヘブライ人への手紙十章三十七節では「(来臨が)遅れないだろう(参照)」と言われ、ヨハネの黙示録六章十節では「彼らは大きな声で叫んで言った。真実で聖なる神、いつまで地上に住む彼らに私たちの血の報復をされないのですか。そして、白い長衣が彼ら全員に与えられ、彼らのように殺されようとしている兄弟や仲間の僕の数が満ちるまでのまだ少しの間、休んでいるように言われた。(参照)」と言われていることから、人には遅いように感じたとしても実際には遅くはなく、神が定めた適切な時があることが分かります。次に「うとうとして(ἐνύσταξαν)」について、「ぐずぐずする」「ぼんやりして、注意力散漫となる」「(時・生涯などを)無為に過ごす」の意味があります。この言葉を聞くと、個人的にはっとする思いに駆られます。手前も、真のキリスト者を目指すと決意するまでに、かなりの期間、ぐずぐずとしておりました。集いの門を叩こうと思っても「もう少しマシな状態になって、それから・・・」と無駄な先送りをしてしまいましたが、自分一人で改善することはついには出来ませんでした。意気込みはあっても、何一つ行動が伴わず、時を無為に過ごすという意味でも、手前も相当「うとうと」していたと思います。そして、「眠りに落ちようとしていた(ἐκάθευδον)」について、この原語の聖書の他の箇所での使用例を踏まえると、「怠惰と罪に屈服する」「自分の救いに無関心である」ことを意味するようです。うとうとする段階があって、それから本格的に眠りに落ちる流れを考えると、例えと本質が一致すると思います。また、この箇所の原語は「未完了過去」で「動作が完了せずに、過去において継続していた状態」のようなので、手前は「皆うとうとして、眠りに落ちようとしていた。」となるのではないかと思いました。つまり、うとうとはしても、完全に怠惰と罪に屈服はしなかった(眠りに落ちる)のではないかと考えました。実際、例えの中でも賢いおとめたちは花婿と対面出来ております。また、賢いとされるおとめでも、うとうとする危険に陥ることも表していると思います。総じて、怠惰や中弛み、誘惑が想起され、最期まで肉の性質との戦いがあるのだと思います。
◯悔い改めを先送りしてはいけない
二十五章六節について、花婿は真夜中になって来ました。原語は異なりますが、「誰も働くことができない夜が来る(ヨハネによる福音書九章四節参照)」の言葉から、福音伝道も出来なくなっているであろう大艱難期(末期)を想起させます。また、真夜中の「大声(κραυγὴ)」の原語は、ヨハネの黙示録十四章十八節でも使われており、やはり時期的には大艱難期末期を表しているのではないかと思います。
二十五章七節について、おとめたちは全員、目覚めて自分の灯火を整えました。「整える(ἐκόσμησαν)」の原語の主たる意味は「適切な順序に並べる」です。「適切な順序」の言葉からは、手前は「秩序(物事の正しい順序)」の言葉が思い起こされます。灯火(知の光)や油(聖霊)の意味からすれば、神の秩序に則ることは当然であり、細かい所まですべて同じ意味合いで調和が取れていると思います。
二十五章八節について、愚かなおとめの灯火が消える状態にあり、明確に油の量を示す言葉は見当たらないものの非常に危険な状況だと思います。聖霊は、神を愛して、神の掟を守る者に与えられるのであり(ヨハネによる福音書十四章十五節参照)、信仰心とそれに伴う行いが求められます。「(灯火が)消える」は「現在形」であり、既に無くなったわけでもないが、今、油がほぼ枯渇している状況と思われます。信仰そのものに反映して考えれば、神への愛が弱まっている状態、神以外のものを優先して肉の欲、世俗の事柄に心を奪われている状況が考えられます。信仰的にはかなり危険な状況だと思います。油を分けて欲しいと訴えますが、油の性質(聖霊)を考えれば、人に求める筋合いではないと思います。
二十五章九節について、「店(ςπωλοῦντας)」は、本来は「店」よりも「売る人たち」の意味があります。更に、原義としては「物々交換」です。当然のことですが、ただで貰える訳ではありません。売買契約という言葉がありますが、買う側が支払いをして、それによって品が手に入ります。契約の関係があり、手前はここにも神との契約(神の律法、掟、戒めを履行するか否か、祝福か呪いか)の型があると思います。実際、「買いなさい(ἀγοράσατε)」には、「約束、義務などを履行する」の意味があります。「自分自身のために買いなさい」とは、神の律法、掟、戒めを守りなさい、しっかりと悔い改めなさいと言われているのではないかと思います。
◯ 覆水盆に返らず
二十五章十節について、『婚姻の宴(γάμους)』には「結合」「一致」の意味があります。「二人は一体となるだろう。それ故、彼らは二人ではなく一体である。(マタイによる福音書十九節五節から六節参照)」と主イエスが言われた言葉のとおりです。また、「花嫁に清く輝く亜麻布を着ることを許された。亜麻布は聖なる者たちの義(正しい行い)だからである。(ヨハネの黙示録十九章八節参照)」とも言われていることから、主イエスと釣り合うだけの高潔さが求められます。この完全な状態を目指してキリスト者は励み、鍛錬しなければなりません。そのために日々の歩みは問題ないでしょうか、悔い改めていないことは無いでしょうか。世が刻々と悪化し、大艱難期入りが目前です。手前自身も含めて、時を有効に活用できれば幸いです。次に、「扉(θύρα)」についてです。この原語はルカによる福音書十三章二十五節(参照)「家の主人が扉を閉めた」、ヨハネの黙示録三章八節(参照)「我はお前の行いを知っている。見よ、お前の目の前の扉は開かれており、誰もこれを閉めることは出来ない。お前は僅かな力しかなかったが、我が言葉を守り、我が名を否まなかった。」等の箇所で使われております。これらから扉は「天の国の扉」であると考えられます。ヨハネの黙示録三章八節にもあるように、神の国に受け入れられるために従わなければならない条件(各位の行い)があることを示していると思います。「お前は僅かな力しかなかったが」の言葉が個人的にはとても励みに感じました。必ずしも強靭でなくても、例えば手前のように非力であっても全うできると、希望はあることを示唆されているように感じるからです。更に、「閉じられた(ἐκλείσθη)」は比喩的に天の国へ入ることが困難となることを指していると思います。
二十五章十一節について、愚かなおとめたちが遅れて到着します。聖句中では明言されておりませんが、おそらくは、到着したのは油を買ったから(即ち、神の律法、掟、戒めを履行するようになった)だと思われます。ただ、現実に即して考えれば、恩恵期間が既に終わっていると考えられ、罪の記録は残ったままで不完全であるとも考えられます。そもそも、間に合わなかった事自体、既に瑕疵があると思いました。準備が出来たと考えている愚かなおとめたちも花婿(主人)を呼びます。しかし、二十五章十二節にあるように「我はお前たちを知らない」と言われます。ここでの「知らない」の原語は現在完了形であり、「動作がすでに完了し、その結果が現在も継続している状態」を指します。つまり、この状態は決して覆らないことが窺えます。当然と言えば当然です。聖書のどの箇所を見ても、二度目の機会があると書かれている箇所はありません。『「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』(マタイによる福音書 七章二十一節から二十三節 引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」)』の聖句と同じ状況だと思います。
◯ 来ると分かっているものに、きちんと備えられるか
最後の二十五章十三節にて、「目を覚ましていなさい(ρηγορεῖτε)」と主イエスは言われます。目を覚ましているようにとの警告は聖書の至る所で書かれているとおりです。「厳重な注意を払う」「慎重である」の意味があり、「活動的」との意味もあることから弛まず神の律法、掟、戒めを履行している状態が想起されます。
ここで少し個人的な話をさせていただきます。二千二十四年も第二の月に入り、段々と暑い日も見られるようになったため手前は買い置いていた新しい浴衣を出しました。古いものはぼろぼろになってきて、色もがくすんで、外出用には適さないため部屋着にしようと思っておりました。ちょうど暑い日に当たったその日、そのまま新しい浴衣を着て出かけました。そして、しばらくして違和感を覚えました。何かいつもと光景が違うような…これは何だろうかと思い、はたと房を付けるのを忘れていたことに気付きました。房の付いていない浴衣(和服)を見ながら、不足している、欠けがある状態をまざまざの目の当たりにしました。房は、房を見る時に主の全てのご命令を思い起こし、自分の欲求に従って罪を犯さないように(民数記十五章三十九節参照)との目的で付けるように神がご命令されたものです。まさしく、うっかりです。家に戻ってから速やかに房を付けましたが自分の不注意さを反省しました。房の付いていない和服を見て、何ともいえない喪失感を感じ、「神の御命令」に対して厳重な注意を払えていない自分が残念でなりませんでした。房のない袖を見ながら、欠けがあり、一歩及ばない感じは、もしかすると愚かなおとめの後悔にも似ているのかもしれないと思いました。「一歩及ばない」という言い方も正確ではなく、一つの行動の不足の背景には、もっと多くの気の緩みあったのかもしれないと思いました。小事に忠実な者は大事にも忠実、小事に不忠実な者は大事にも不忠実(ルカによる福音書十六章十節参照)とあるように、こういった所の抜けが致命傷と成り得るのだと、この出来事から学ばせていただきました。
ちょうど、ミカエル氏が二千二十四年第一の月の記事でわかりやすい画像を記事中で公開してくださっており、何度でも見返して復習することを勧めます。
また、愚かなおとめについて、ミカエル氏は以下のように解説しております。
救いの機会の扉が閉じられてから、慌てて聖書を読み出したり、慌てて聖書の真理を知ろうとしたりしても、時機に遅れるともはや手遅れということです。救いの機会の時というのは、キリスト再臨に限らず、各個人で異なる個人的な時間です。寿命が個人で異なるのと同様です。あなたの寿命がキリスト再臨まで残っているとか、いつ終わるなんて誰も言えません。これらのことは天の父なる神しか知らないことなのです。
(略)
死ななくても恩恵期間は終了する場合があります。聖書と私が主張することを読んでも、心がまったく動かされず、「自分のみが正しい」、「自分が信じていることが絶対なんだ」というような状態に陥って、悔い改めができなくなった時です。つまり、良心に焼印を押された(テモテ一4:2)状態です。
終わりの兆候がもっと明確になってからと真の悔い改めを先送りにしている者は、にわかクリスチャンです。誰もが分かる兆候が世に出た時、おそらく生きている者全員の恩恵期間は終わっていることでしょう。それで、上記の愚かなおとめ(にわかクリスチャン)のように、慌てて油を求めて買いに行きますが、もう手遅れということです。悔い改めようとしても真に悔い改めることは出来なくなっているのです。
神の律法、掟、戒めに基づいて、これまでの生き方や考え方が間違っていたことを認めて、神の御命令に適うように改める機会があることは何とありがたいことでしょうか。一方で、締め切り期限が厳密に明確でない以上、気が緩んで悔い改めを先送りにする危険があります。また、短期間なら頑張れても、長期的に頑張り続けるのは決して簡単なことではありません。いつでも堕落の危険が付きまといます。また、意識して行動するのも大事ですが、意識しなくても意識しているのと同じ位に心に刻まれているように、確実に行動出来る境地に辿り着きたいと個人的には思います。そのためには質の高い鍛錬の日々の積み重ねが不可欠です。十人のおとめの例え話を教訓にするべきです。また、このような分かりやすい例を教えてくださった主イエスに感謝するべきだと思いました。
<結び>
こちら(真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」)の記事も是非、お読みいただきたいのですが、この世はサタンとの霊的な戦いの場です。『創世記の蛇(サタン)から始まったように、サタンは人間に神の御言葉に従わせないように誘惑してきます。サタンは、神の律法を破らせようと人間に戦いを挑んできます。』のとおりです。神に属するか、世(サタン)に属するかの二者択一であり、地上の生涯はその試しの場です。世に定着してしまっている地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等を信じる程に聖書を信じることが難しくなると思います。この世には、真の聖書福音を教える政府もなければ、学校もなく、神の律法、掟、戒めを守る会社も皆無だと思います。普通に世で生きようとすれば、服装や安息日遵守を始め、神の掟を守ることは至難だと思います。
ところで、世に「施設症候群」という言葉があります。『精神科の隔離病棟や刑務所、児童養護施設など、外部から隔離された施設にて長期間生活したことによって発症する症候群である。通常、施設に収容された人間は自立性と独自判断の自由を奪われながら生活する。そして「外の世界」に戻ると、また別の問題が発生する。すなわち、長期間の隔離生活によって「社会性」や「生活能力」などが欠如するのである。(引用:ウィキペディア)』と説明されております。これは、さながら「施設」は「真理が隠されて、知らない状態(知識が無い)」であり、「外の世界」とは「真の聖書福音を知り、律法に則った生活」のようだと思いました。真のキリスト者として生き始めると、最初は律法に則った生活に不慣れなので、振る舞いもおぼつかず、周りは不信仰者に囲まれて心許なさを感じることがあります。要は、まだまだたくましさに欠け、躓きやすい時期だと思います。まだまだ人の目を恐れたり、律法を遵守するために周囲の人々と交渉する大変さに打ち負かされたりする危険が、最初は特に多いと感じます。怯んでしまうと、「元に戻れば楽になる」との誘惑がやって来ます。「ショーシャンクの空に」という映画があります(参照:ウィキペディア)。刑務所を舞台とした物語ですが、その中で刑務所で長年暮らした者は外の世界で上手く適応出来ずに苦しむといった描写があります。だから、釈放を嫌う場面が描かれております。人々は、ほぼ例外なく、世俗という檻(真の聖書福音が隠されて、盲目にさせられた状態に留まること)に慣れされ、狂わされていると思います。率直に、とても不利な状況から、信仰が始まると思います。折角、滅びからの解放の道が開かれても、少し上手くいかないことがあると、慣れ親しんだ過去を振り返る誘惑に駆られたり、再び堕落する危険に常に晒されます。ヤコブの手紙一章二十七節に世の汚れに染まらないように自分を守れと書かれているとおり、これまでは普通と思った世俗とも距離をとって生きなければなりません。しかし、それらに打ち勝つことで強靭な信仰心を培うことが出来ます。
拙者が聖書の主イエスの教えを引用して言うてるとおり、自分を捨て、他の余計なものも捨て、神の王国と神の義を第一にして生活してなければ、何かを失う恐れが出てきてしまい、臆病さを克服することは不可能やからや。社会的地位を保持したり、財産を保持したり、人脈等といったこの俗世の人間関係や交友関係を保持しようという思いが強いと、それらを失う恐れが救いの邪魔をするんや。それ故、主イエスは財産や社会的地位も余計な人間関係(人脈)も持たず、すべてを捨てるように教えはった。かように、神のためにすべてを捨ててる人は強いのです。
上記の言われていることについて、手前は自分の経験を通して、とてもよく理解出来ます。そのとおりだったと思います。だから、自分からわざわざ誘惑の種を増やしたら意味が無いと断言出来ます。情けない話ですが、手前はほんの些細な社会的地位でも捨てるのが正直恐かったです。檻から出た時、最初は味わったことのないような不快感、恐れを感じました(参照:拙記事「寄らば大樹の陰 ー世に縋っていたことの証しー」)。世俗に耽った期間が長いほどに禁断症状が起きるのだと思います。これも「施設症候群」のようだと手前は思います。はっきり言って、これを一人では絶対に乗り切ることは出来ませんでした。信仰を共にする兄弟がいなければ絶対に挫折していたと思います。そして、禁断症状はずっとは続きません。人は悔い改められ、新しく生まれ変わることが出来ます。成長出来ます。そして、思い切って捨てて得られた自由は計り知れません。余計なものを持たなくなった今、その分、失う恐れはさほどやって来ません。
互いに愛し合い、切磋琢磨する兄弟の存在がどれほど支えになったか計り知れません。同じように真のキリスト者として生きたいと思う方は、募集要項をきちんとお読みの上、兄弟の集いの場の門を叩くことを勧めます。そして、教会試験を経て教会へ入会し、そこでより真のキリスト者を目指して励みましょう。なお、入会の条件等をきちんと読解することから、すべてが始まっております。福音も、聖書の法秩序等への理解が重要であるように、集いと教会においても、規則の理解が重要です。そこも含めて、くれぐれも自分勝手な思いで門を叩かぬようご注意ください。
人は聖書を通じて、神からの愛(警告と教訓、知識等)を十分過ぎる程に頂いております。これを我が事として受け取り、来たる終わりに備える者は賢明です。もし、読み飛ばして理解不十分だったり、世の諸教会・パウロ教徒のように聖書を曲解する(律法廃止論、行いは不要等の誤り)ようでは話になりません。決して取り戻せないからこそ、慎重に、思慮深くあるべきです。何事も後悔の無いように今を生きて参りましょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。