こんにちは。

今回は神からの愛と警告と題して、この世に自浄作用は期待出来ないため、聖書にのみ希望を置くべきであること、そして、神からの警告を我が事として受け取り、賢く備えるのが最善であることについてお伝えしていきます。

 

<この世に希望は無く、主イエスにのみ希望がある>

一体どうやったら、世の中、ここまでぐちゃぐちゃになるのだろうかと感じる出来事が絶え間なく続きます。ワクチンを未だに殺人と認めず居直る権力者(参照:日刊スポーツ)、金銭にまつわる違犯があっても開き直り、その地位にしがみつくさもしい国会議員ら(参照:朝日新聞)、日本の国土と文化を破壊し、日本の秩序を乱す外国人たち…(参照:アメブロ天羅地網)。これらは突発的に起きたことではありません。国内の少子化促進、移民促進と外国人優遇、ワクチン信仰、拝金主義、司法の腐敗等、これら悪しき種は何十年も前から蒔かれ続けて、今、あからさまに表面化しているだけです。すべては支配層の意向を受けて売国を働く者たち(国会議員、地方議員、官僚、大企業、報道機関ら)によって進められてきた事です。それによって、かつてないほどの腐敗と混乱を極めております。手前はこの無秩序がただただ不快で苦痛でなりません。しかもこれは頂点ではなく、この無秩序(混乱)は新世界秩序を構築するまで終わらないでしょう。目下、国民を支配層の管理下に置くためには憲法改悪、個人番号券の社会制度基盤への関連付け拡大等が彼らの悲願です。大勢の人々が最大限に不幸となる暗黒社会を阻止するためにもこれらの改悪を防がねばなりません。見て見ぬ振りをしたら、悪に加担したも同然です。しかしながら、一方では、聖書の預言は確実に起こります。それでも、政府がこれまで計画した時期よりも憲法改悪が遅れていることから、まだぎりぎり、悔い改めの時が与えられているようにも思います。この時の中で、隣人のために世の悪化を防ぐべく周知に努めつつも、最も大事なのは神に立ち返り、悔い改めることです。ミカエル氏は繰り返し、以下のことを伝えております。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


引用:真の聖書福音と預言「律法遵守は信仰の証しと復活」

この世が悪い者の支配下にある以上(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)、世が世を正しく裁くことは出来ません。ただ、唯一の全知全能の神だけが、神の律法、掟、戒めに則り、この世のすべてを裁かれます。この聖書の真理はすべての人に関係し、例外はありません。無視しても、勝手に憤慨しても、偶像に縋っても無意味です。これまでの常識の延長でものを考えても無駄です。聖書を読み、頭を作り変える位の覚悟で悔い改めなければなりません。「みんな、一緒に救われる」「信じれば、救われる」ことは絶対に起こり得ません。きちんと聖書を読めば、善悪の基準は律法にあり(更新はされても、廃止はされていない)、悪人は滅ぼされるが数少ない善人だけが救い出される(ペトロの手紙一 四章十八節、マタイによる福音書二十二章十四節等参照)と書いてあるとおりです。一体、聖書信仰の無い人は何を頼りに日々生きているのでしょうか。現実逃避しているのか、何も感じないのか、あるいは、日々不安で堪らないのか…。そういったことを言うと「宗教」だの「自分探し」だのと莫迦にする人が居ります。ただ何も考えず、目先の日々を生きるのが「大人」と看做す人も居ります。しかし、それでは思考停止した家畜です。世が教えた価値観に従い、世での繁栄を求めて地位や名誉を追求したり、拝金主義に陥ったり、快楽の奴隷となり、そこに留まる人々ばかりです。更に、支配層の駒と化した為政者に、増税や福祉切り捨て等の虐待まがいの政策をされて首を絞められている状態です。まさに家畜のような扱いです。率直に惨めですよね。直視し難い辛さがあるのかもしれませんが、先ずは客観視しないことには次の行動は生まれません。

 

 

このようにされて悔しくないでしょうか。そして、自分の生きている意味は何なのかと考えて苦しくならないでしょうか。人は理性のない獣とは違います。どうしてそのような家畜に身を落として良いでしょうか。

神は御自身がお選びになった人間を愛しておられ、その者らが救われて欲しいと願ってはります。神は我等が乗り越えられないような試練はお与えになりません。あんたが、慈悲深い神があなたを助けないと言うならば、あんたは神を愛し、神の掟を守って生きているか自問自答してください。出来てへんのやったら、助けを受けられへんのは当然なんです。例えば、あなたが召使いを雇っているとして、その召使いがあなたが決めた掟を守らず、言うことも聞かないのであれば、解雇したくなるでしょう。それと同じようなものです。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 前編」

人は神の真理によって、神の聖なる律法によって、在るべき姿を取り戻します。そして、神は正しい御方ですから、神の善に適わない者を滅ぼします。主イエスを信じ、主イエスと新しい契約を結び、最期まで神の御命令を全うした者だけが有罪判決から免れます(無罪判決)。自分が無罪に値すると自分の人生を懸けて証明していかなければなりません。何より、神を愛するなら罪に留まるなど考えられません。

 

ところで、聖書の福音書でも主人と僕の例え話が登場します。神は全知全能の創造主で絶対者であり、主人に相当します。そして、被造物である人間は僕です。まずこの関係を認識して事に当たらねばなりません。また、「自分が無罪に値すると自分の人生を懸けて証明していかなければならない」ことをただ自分が助かるために、あるいは渋々に、後ろ向きに思うのは本来ではないことも申し添えておきます。誰が好き好んで悪に染まり、進んで自分が汚れて腐敗するのを望むでしょうか。聖なる神の御性質にあずかり、正しく生きることはこの上ない喜びです。そうしたくてたまらない、そうせずにはいられないと思えないでしょうか。自分が汚れ、濁りが生じるのは苦しくないでしょうか。「義務」と言えば、何やら重荷、苦痛といった感覚を覚えるかもしれません。清潔な人は些細な汚れも嫌うはずです。不潔に慣れてはいけません。

 

<神は指導する>

聖書の箴言は、言葉どおりに戒めや教訓が書かれた旧約聖書の箇所です。その初まりから、箴言が書かれた目的が明確に書かれております。人が本来持つべき真の分別(物事の道理を弁える)、特に神を畏れることが何にも優って重要である(箴言一章七節参照)と言われております。世の終わりが間際な現在、預言通りに人々の愛が冷え、堕落が進んでおり、だからこそ箴言の呼びかけが重要な意義を持って照らしてくれていると感じます。古にかつて語られたは、永遠に有効であり、どの時代にとっても新鮮さがあります。そこで、以下の箴言一章二十二節から三十三節の箇所を丁寧に読み解き、考察していきます。

 

箴言一章二十二節から三十三節(参照)

いつまで莫迦者らは莫迦を好み、あざける者らは自分のあざけりを喜び、愚か者らは知識を嫌悪するのか。お前たちは我が懲らしめに立ち返る。見よ、我が霊をお前たちに注ぎ出させ、お前たちに我が言葉を理解させよう。我が呼びかけたのにお前たちは拒んだ。我が手を伸ばしたが耳を傾けない。お前たちはあらゆる我が勧告を拒んだ。我が叱責に誰も従わなかった。我もお前たちの不運を笑おう。お前たちが恐れに遭う時、嘲笑おう。お前たちの恐怖が嵐のようにやって来る時、お前たちの不幸が竜巻のように起こり、苦難や苦悩がお前たちに臨む時、彼らは我を呼ぶだろうが、我は応えないだろう。彼らは捜し求めるだろうが我を見つけられないだろう。彼らは知識を嫌い、神を畏れることを選ばなかったからである。彼らは我が勧告に従わず、我が叱責を軽んじた。彼らは自分の道の実を食べ、自分の考えによって満ちるだろう。莫迦者ら背教者は、自分を殺し、愚か者らの安らぎは自分を滅ぼすだろう。しかし、我に聞く者は落ち着いて住み、災難への恐れから平穏でいられるであろう。

 

◯神の知識によって事を分別せよ

箴言一章二十二節について、「莫迦(פְּתָיִם)」は新共同訳・新改訳では「浅はか」、口語訳では「思慮のない」と訳されております。原語には、「愚か」「賢明ではない」の意味もあるのですが、個人的には「単純」の意味があるのが印象的でした。それには「頭の悪い」「騙されやすい」といった意味もあり、考え方などが一面的で行き届かなくて、浅はかである意味(思慮のない)なのだと思います。今の世で例えれば、世の権威を盲信している人がそれに該当すると思います。例えば殺人ワクチンによって大勢が亡くなり、心身を害しているにも拘らず、「コロナ死」「コロナ後遺症」との報道を真に受けて騙される人々です。太陽暦二千二十四年四月十七日、コロナワクチン被害者遺族らが国に賠償求め提訴し(参照:弁護士JPニュース)、それがやっと大手報道機関でも報道されるようになった(参照:日本放送協会)と思ったのですが、それを打ち消すように「ワクチン被害」を「コロナ後遺症」へとすり替えてるような報道もまた直後から急激に目立ち始めました(参照:日本放送協会産経新聞)。国際保健規則(IHR)改悪や感染爆発の条約(参照:東京新聞)、国立健康危機管理研究機構(日本版CDC)設立(参照:読売新聞)とすべて足並みを揃えており、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画」で『国は、新型インフルエンザ等の発生時に全国民分のパンデミックワクチンを国内で速やかに確保することが可能となるよう〜(引用:厚生労働省)』と計画していることからも、秋のレプリコンワクチン接種に向けた誘導をして、まだまだ打たせる気満々です。それにしても報道機関の極悪さが際立っていると思います。少し考えればおかしいと気付きそうではありますが、世の嘘にいつまでも騙され続けるようでは莫迦者と言われても仕方がないと思います。そして、真理においては聖書を「宗教」と捉えたり、世の諸教会の教える偽福音を盲信している姿にも重なります。次いで、「あざける者(לָצוֹן)」は、言葉どおりに人を蔑むことや莫迦にすることを指します。「反ワクチン」と括って、真実を訴える者たちを揶揄する人々、同じように聖書真理を莫迦にする人々が少なからずおりますが、そういったものに例えられると思います。こちら(真の聖書福音と預言「聖書と主イエスの教えは嘘ではなく、真理です」)の記事のコメント欄では、不遜な不信仰者が絶対者である本物の神を認めずに自分を正当化し、分を弁えずに喚き立てており、まさしく「あざける者」のようです。続いて、「愚か者(כְּסִיל)」は、意味合いが重複しますが「騙されやすい人」「うつつを抜かす人」「鈍い人」の意味があります。何に騙され、うつつを抜かすかと言えば世の権威、世の教え、世の価値観だと思います。そして、「知識(דָעַת)」について、ここでの知識は特に「神の知識」です。聖書真理全般がそれに当たると思います。先にも示したとおり、今でも聖書を「宗教(作り話)」と看做したり、仏教や神道などの偶像崇拝を続け、聖書真理を知ることを嫌う者が大勢います。

 

一章二十三節について、「懲らしめ(תּוֹכֵחָה)」は「懲罰」の意味です。興味深いことに、それだけではなく「訂正」「論破」の意味もあります。誤りを正しく直すことや間違った説を言い負かすことは世の洗脳から覚める過程そのものだと思いました。もし、訂正されたり、論破されなければ、いつまでも間違った古い考えに固執し続けることになるでしょう。次に『立ち返る(שׁוּב)』についてです。言うまでもなく「神に立ち返る」の意味ですがこの原語にはたくさんの意味が包含しております。関連する意味として「情報を更新する」「問題を取り除く「救い出す」があります。「情報を更新する」とは、物事の見方や考え方の基軸を聖書真理に更新することそのものです。新訳の時代たる現代では、救い主である主イエスが神の律法を更新され、新しい掟も与え、主イエスと新しい契約を結ぶことで律法が心に刻まれて、聖霊が与えられるようになりました。このように救いの道が開れれた事にそのまま当てはまると思います。上記以外にも「賠償する」の意味もあり、まさに罪の贖いです。ところで、かねてよりコロナ犯罪を機に世の真実に目覚める人が増えておりますが、これまでの常識とされるものが間違いだったと改められるには、これまでの常識や価値観の矛盾に気付いたり、それが通じないと限界を感じた時なのだと思います。試しに耐えられないものは本物ではありません。懲らしめを受け入れられるには、これまでの自分の考えが正しくなかったと素直に認めることが不可欠です。そして、「何が正しいか」「どうすればいいか」と切り替えていく必要があります。

 

 

上記の投稿主は残念ながらキリスト者でもなく聖書に関心を持つにも至っていないようですが、言わんとしている点は重要だと思います。逆境は機会と成り得ます。手前もそうでした。人生における逆境の時に、世の常識の綻び(嘘)を見抜き、偶像崇拝者の甘言に乗らず、誰かを盲信することもなく、自分で聖書を読み、真理だと見出だせたら幸いです。自分で見出だすことが重要です。主体性の無い信仰など嘘だからです。また、逆境の時を狙って、別の嘘で絡め取り、滅ぼそうと群がる悪魔の手先のような輩(宗教、その他詐欺)もいるので要注意です。

 

一章二十四節について、「拒む(מָאֵן)」には、「権威に逆らう」「規則に従わない」の意味があります。神の呼びかけを否むのですから、そのとおりなのだと思います。以下のノアの話を想起させます。

ノアは伝道活動をしながら箱舟を造った。ノアの箱舟に乗り込んで助かったんは僅か八人というめっちゃ少人数であるという事実を忘れるな。(略)ヤシャルの書によれば、主の道を歩む者の多くは、神が大洪水の災いを見るべきではないと思し召しはり、その御配慮により、大洪水が起こる前に死んだ。ノアも主の道を歩む者の一人であったが、神は、悪人どもを一掃した後の地でノアの子孫が地に増え広がるようにという御意志から、ノアとその家族は大洪水前に死ぬことはなかった。主の道を歩む者の殆どが死んだ後、神は彼らに百二十年の猶予を与えはり、ノアと義人エノクの息子であるメトシェラに悔い改めを人々に説くように御命令しはり、人々が悔い改めるなら災い(大洪水)を下さへんと言わはった。しかし、人々は頑なで、聞く耳を持たへんかった。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」

非常に残念な事ですが、旧約の時代から、今に至るまで、変わらずに殆どの人々が聞く耳を持たないのだと思います。だからこそ、聖書の言葉を本当だと信じられるなら幸いです。

 

◯聞き従わぬ者の末路

一章二十五節について、「勧告(עֵצָה)」とは、原語の「計画」「思慮分別」「意志」などの意味からも、神の御命令等を指していると思います。申命記二十八章にあるように、神に従えば(行いを伴った信仰)祝福があり、神に従わねば呪いが臨み、最終的には神の裁きで有罪となるか無罪となるか等の定めがあるのですから、律法を守れ(善を為せ)との仰せは「勧告」であると思います。一章二十七節の箇所は従わなかったことの報いとして受け取れます。また、古代イスラエルの滅亡の歴史にも重なります。そして、今の日本の惨状にも重なります。『不信仰こそが世の悪化に直結してることをええ加減理解しなはれ。過去記事「日本人の問題点 一」でも書いたとおり、日本がこれ程悪い状況なんは、日本人は古代イスラエル人の末裔であり、それにも拘らず不信仰者が多く、律法違犯の報い(呪い)、神との契約違反の結果やと言うてるやろ。(引用:真の聖書福音と預言「二種類の基礎」)』のとおりです。ところで、申命記二十八章二十八節には呪いの一つとして『主はお前たちを狂気と盲目(無知・無分別)と精神の錯乱でもって打つだろう。(参照)』とあります。例えばですが、コロナワクチン後遺症では、​「新型コロナワクチン後遺症 患者の会」の調査によると「うつ病」が最も多いそうです(参照:BraindDead World)。また、コロナワクチンによらずとも、それ以前からも精神疾患とされる人々の数は急増しているようです。こちら(毎日新聞)によると『2002年と17年のデータを比較すると、精神科の受療患者は258.4万人から419.3万人に増加。15年でおよそ1.6倍になりました。』とのことです。彼らは、おそらく精神科等で「服薬治療」を受けているでしょう。しかし、『精神薬に手を出したら必ず「死にたい」の感情が湧きます。生物学的に有り得ない感情ですよね。覚醒剤で神経細胞が寸断されたことにより思考回路がエラー多発でこうなります。手を出すな、精神科、心療内科、こころのクリニック、メンタルクリニック。覚醒剤漬けで行き着く先は廃人・自殺です。(引用元:X)』と向精神薬服用の末路は悲惨です。こちら(ナカムラクリニック)でも『精神科の処方薬は、総じてろくでもない。(略)現代の精神科医療は、とても「医療」なんて呼べるシロモノじゃない。単なる製薬会社の金儲けの手段に成り下がっている。』と指摘しております。精神医療も含めて、医学界の権威は殆ど常に間違っていることを知るには、こちらの記事(さてはてメモ帳 Imagine & Think!)も参考になります。更に、こちら(In Deep)では、コロナワクチン接種者の多くが「幻覚や妄想を伴う精神病」を経験していることが明らかになったと伝えております。記事中の『数日以内に、視覚的および触覚的な幻覚、感情の抹消が生じた。そして、自分自身の身体を切り始めた。』、『「そこにないもの」を見たり聞いたりし始めた。』から、「真の聖書福音と預言デカポリスでの悪霊追い出し)(聖書の終末預言 二)」にある自傷行為をさせる悪霊の働きそのものです。医学信仰(偶像崇拝)の結果としても「狂気」や「精神の錯乱」をもたらし、それにも拘らず精神医療やワクチン等を疑わない人々は極度の「盲目(無知・無分別)」に陥っていると思います。

 

一章二十八節について、いざ大きな災いが臨んでから神を求めても応えないとあります。『その時』は、神が罪の赦しをされる恩恵期間を終えた時以降を指すのではないかと思います。それは必ずしも大艱難期など、一定の時期とは限りません。個人によって恩恵期間は異なるようです。『恩恵期間が終了すると、いくら後で悔い改めるとか、聖書を真剣に読んで真理を理解しますとか、聖霊を受ける機会をもう一度ください等、言ったところで、どうにもならず、無意味な主張になります。即ち、あなたの運命が決定されたことを意味します。恩恵期間の終了は、今日かも昨日かも明日かも分かりません。これは、天の父なる神以外は知ることのできないことなのです。(引用:真の聖書福音と預言「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」)』とあるとおり、今、この時に速やかに悔い改める必要があります。また、後戻りが利かないことは、先のノアの話からも明らかです。

神としては、人々がその災いによって神を畏れ、邪悪な道から離れるやもしれんという期待からそれらの事をしはったが、人々はそれを経験しても神に立ち返ろうとせず、神の怒りを増長させた。そして、ついに裁きの決行である大洪水の時になり、四十日も雨が降り続いた。その水害で危機感を抱いた約七十万人が箱舟に押し寄せ、「あんたの箱舟に入れてくれ」等と叫んだ。しかし、ノアは、「あんたら全員、神は居らんと言い、主に逆らったではないか。それ故、主はあんたらにこの災いをもたらしはった。あんたらを地の表面から取り除くために。このことは百二十年前にあんたらに言うたことやろ。あんたらは主の御声を聞かへんかった。それなのに今、地で生きたいと望むのか。」と返答した。人々は、「我等は主に立ち返る用意がある。ただ我等が生きて、死なないように開けてくれ。」とノアに言い、ノアは、「見よ、今あんたらは自分の魂の動揺を見て、主に立ち返ることを望む。何故、あんたらは百二十年の間に立ち返らへんかったんか。それは、定められた期間として主があんたらに与えはった。今更あんたらは我に魂の動揺故にかように言うが、主はあんたらの言うことを聞きはられへんし、耳も貸しはらへん。それ故、あんたらの望みはもう叶わへんだろう。」と言うた。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」

また、ノアが言わんとしていることに同じだと思います。日頃から主を否む者には、緊急時に自分の命を惜しんで縋っても主はお応えになりません。自分勝手で都合の良い、困ったときの神頼みとはまさにこのことです。主に立ち返るための時(期間)があった訳で、それを蔑ろにしたのは誰なのかをよく考える必要があります。また、「捜し求める」の「捜す(「探す」ではない)」には「見失ったものをさがしている状況」の意味があります。この意味もまた、よく文脈を表していると思います。

 

一章二十九節について、「彼らは知識を嫌い」の「知識」は、「神についての知識(聖書真理)」を指します。頭の中だけの知識ではなく、ここには行いを伴った「従順」の意味が含まれております。ヘブライ人への手紙五章八節では、主イエスが従順を学ばれたと書かれており、「従順(ὑπακοή)」の意味を紐解くと「注意深く聞くこと」「法令遵守」の意味があります。つまりは神の要求(神の律法、掟、戒め)を守ることで示される従順です。聖書真理を信じない者は、他の偶像(宗教、金銭、社会的地位等)だったり、世の常識、偽使徒パウロに基づく偽福音を教える世の諸教会の教え(人の教え)を信じます。彼らは一様に聖書に基づかず、自分を正しいと主張し、真のキリスト者の生き様をあざ笑います。一章三十節の箇所も、その状況を表していると思います。彼らがもし世の終わりの時に存命であれば、聖書が本当であったと、自分が携挙もされなかったと知り、呆然とするのではないでしょうか。一章三十一節の「自分の道の実を食べ」は、自分たちの行為の結果を受けることを指します。結果、「持っている者は、その者には与えられ、豊かになるだろう。しかし、持っていない者は、その者から持っているものを奪われるだろう。(マタイによる福音書十三章十二節参照)」のようになります。

 

一章三十二節について、先にも「莫迦(פְּתָיִם)」の原語に触れましたが、同じ原語が使われており「簡単に騙される」「騙されて戻ってしまう」との意味があります。世の教え、総じて聖書に拠らない人の教え(世の権威)に簡単に騙される人、折角、聖書を知っても信仰が浅く世俗に逆戻りする人たちが相当すると考えます。また、愚か者らの「安らぎ(שַׁלְוָה)」について、「繁栄」「富」「平和」の意味もあります。この世での繁栄、富、平和があるのは世に属しているからだと思います。主イエスは、我が平和をもたらすために来たと思うな(マタイによる福音書十章三十四節参照)と言われており、神に属せば世とは相入れず分裂せざるを得ません。故に、世に染まって、上手くいっている程に自分を振り返ることも無いのだろうと思います。仮に改心したとしても、世での成功体験が相当な誘惑になる危険があると思います。手前も同じように、真のキリスト者を目指す前は世の教えを信じ、社会的には安定し、そこそこ収入があって表面的には「上手くいっている部類」だったと思います。ここまでは「愚か者らの安らぎ」に同じだったと思います。しかし、心の中は常に不安、苦痛、恐れがあり、すべてを投げ出してしまいたいと頻繁に思っておりました。表面的には繁栄と平和があったように傍目には見えたかもしれませんが、心の中は常にこの世の終わりかのようでした。この世の価値観の中で心身が消耗し、頑張っても頑張っても苦痛が軽減するどころか増していくばかりで八方塞がりに見えました。しかし、この苦痛を生む元凶たる悪しき世の仕組み、それを作った悪魔崇拝者たちの悪行、世の繁栄を追い求める必要がないこと、律法遵守が真の正しい生き方であるとミカエル氏のブログで知り、改心し、神に従う喜び、真の希望を見出だしました。余計なものを捨てた開放感と神の律法に従う喜びはこれまでに味わったことのないものでした。それまでに頻繁にあった「すべてを投げ出してしまいたい(自分を滅ぼしたい願望)」と鬱々とする日々は一切無くなりました。もし、あのままの生き方をしていたらどうなっていただろうかと思うと、ぞっとします。ただ、その分、この腐った世の酷さが目につくようになり、別の苦痛は生まれます。しかしながら、やがてこのすべてが報われる時を信じて、神の正義が下される時を信じる、真の希望によって支えられております。もし、この世で安らぐとしたら、それは偽りです。真の安らぎは、来る次の新しい天と地にのみあります。それまでは暫し、この地での忍耐が必要です。

 

◯神からいただく報い

一章三十三節について、「住む(שָׁכַן)」には、「永続的に居を構える」「憩う」の意味があります。意味からして、この世ではなく、神の王国を指すと思います。「我が父の家には、住まいがたくさんある。そうでなかったら、我はそう言っておいたであろう。我はお前たちに場所を用意しに行く。(ヨハネによる福音書十四章二節参照)」の言葉が符合すると思います。「平穏でいられる」についても、「神は彼らの目の涙を残らず拭い去るだろう。もはや死も悲しみも泣く事もなく、もはや苦痛もないだろう。(ヨハネの黙示録二十一章四節参照)」の言葉が相応すると思います。これこそが聞き従うことの報い、約束です。

 

総じて、箴言一章二十二節から三十三節の聖句は、神の御意志や御計画をとても分かり易く教えてくれる箇所だと思います。他の関連するであろう箇所も一緒に見ると、より深みのある言葉だと感じます。また、神が、敢えてこのように人を指導してくださる神であることも確と覚えておかねばなりません。他者を本気で指導しようとするなら、本気で相手を大事に思わなければ出来得ないと手前は思います。非常に多くの労力が必要だからです。大事な相手でなければ、どうしてそこまでの労力を注げるでしょうか。それこそ世俗生活においても自分の親、教員、上司等を見ていれば、その叱責が本気なのか、自分を大切に想っての言葉なのかは何となくでも分かるはずです。どうでも良いと思うなら、ただ放置して、堕落するに任せるはずです。しかし、そうはなって欲しくないから本気で叱るのです。また、自分がその立場であれば、尚更、分かるのではないでしょうか。神の指導、叱責にはそういった愛があることを手前はひしひしと感じるのですが、聖書をお読みなった皆様方はいかがお感じになるでしょうか。少しずつでも確実に、神の御意志に適うようでありたいと思わずにはいられません。

 

<賢いおとめと愚かなおとめの違い>

箴言一章二十二節から三十三節の箇所は、弁えるべき事柄として、神に従う者への良き報い、神に不従順な者の末路が書かれております。そして、同じように神の裁きへの備えに対する愚か者の例と、反対にそうではない賢い者の例が書かれた以下の箇所も細かく見ていきます。双方を見ていくことで、神の御意志がより立体的に理解出来ると思います。

 

マタイによる福音書二十五章一節から十三節(三章)

 

それから、各天の王国は、十人のおとめが自分の灯火を手に取り、花婿に会うために出て行ったことに例えられる。彼女たちの家の五人は賢く、五人は愚かである。愚かなおとめたちは自分の灯火を持っているが、その中に灯火の油を持っていなかった。しかし、賢明なおとめたちは自分の灯火と一緒に灯火の容器に油を持っていた。花婿の遅れにより、皆うとうとして、眠りに落ちようとしていた。真夜中に大声がした。「見よ、花婿が来る。花婿に会いに出てきなさい。」その時、彼女たちおとめは皆、目覚めて自分の灯火を整えた。愚かなおとめたちは賢いおとめたちに言った。「あなたがたの油の中から我らに下さい。我らの灯火が消えるからです。」賢いおとめたちは答えて言う。「我らとあなた方にとって十分なほどありません。それよりも店に行って自分自身のために買いなさい。」愚かなおとめたちの買いに行っている時、花婿が来て、用意できている五人の賢いおとめたちと一緒に婚姻の宴へ入って、扉は閉じられた。その後、残りのおとめたちが到着して言う。「御主人様、御主人様、我らのために開けてください。」しかし、主人は答えて言った。「我は確かにお前たちに言う。我はお前たちを知らない。」それ故、お前たちは目を覚ましていなさい。お前たちは人の子が来るその日も時も分からないからである。

 

◯真のキリスト者と聖霊の関係

こちらはマタイによる福音書において、終末預言等が書かれた二十四章に次いで、更に例えとして主イエスが語られている箇所です。まさに、世の終わりにいる我らこそ、我が事として即座に応用すべき箇所だと考えます。順序よく見ていきます。

 

二十五章一節について、「おとめ(παρθένοις)」には「純白」「清い」「汚れていない」の意味があり、聖書では「花婿である主イエス」に対して、真のキリスト者は「花嫁(おとめ)」に例えられます。個人の先入観ですが、「おとめ」にはどこか「か弱さ」を感じます。しかしながら、原語の意味を細かく見ても、どこにもか弱さの意味はありませんでした。本来、偶像崇拝を始め、あらゆる汚れや淫行を避け、純潔を守ってきた人の意味が「おとめ(παρθένοις)」にはあるのですから、決してか弱く守られるのではなく(もちろん、主イエスに繋がり、聖霊の助けは得たとしても)、自分の意思で悪を避けなければならない、また、そう出来るようになる可能性を秘めているようにも感じました。次に、「灯火(λαμπάδας)」は、単に照明器具の意味だけでなく、「知的な意味での力」「目の輝き」など、人間の内的な力の意味があります。この源には、やはり神の知識があるのではないかと考えます。ちなみに、マタイによる福音書六章二十二節では「体の灯火は目」と言われており、原語が異なりますが、意味合いは非常に近似していると見受けます。

 

二十五章二節について、キリスト者に例えられる「おとめ」でも、「賢い者(φρόνιμοι)」「愚かな者(μωραὶ)」が登場します。「賢い者(φρόνιμοι)」には、「思慮深い」「用心深い」の意味があり、「愚かな者(μωραὶ)」には、「頭の鈍い」「不注意」の意味があります。先の箴言の意味とほぼ同じであると思います。また、そもそも「愚かな者(μωραὶ)」の性質は、「灯火(λαμπάδας)」の性質と相反しております。「愚かな者(μωραὶ)」には「不合理」「理屈に合わない」の意味もあり、それ自体が言葉どおりだと思わず膝を打ちました。実に上手く出来ております。そして、おとめたちは、愚かな者か賢い者かのどちらかに分類されており、完全か不完全かの二種類しか存在しないことが分かります。

 

二十五章三節の「油」は、ヨハネの手紙一 二章二十七節(参照)「油がお前たちにすべてを教える」とあるとおり、「聖霊」を指します。使用されている原語は異なりますが、ヨハネの手紙一 二章二十七節にある「油(χρῖσμα)」には、明確に「聖霊の賜物」の意味があります。また、マタイによる福音書三章十一節及びルカによる福音書三章十六節で洗礼者ヨハネは主イエスに対して「聖霊と火」で洗礼をお授けになる等、聖霊が火に例えられております。聖霊が教えてくれる(ヨハネによる福音書十四章二十六節参照)ことを踏まえると、灯火と油は、元々、非常に近い位置関係にあるのではないかと考えます。

 

◯うとうとする危険

二十五章五節について、花婿の到着が遅れております。花婿の到着は、実際には主イエスの来臨(この世の終わりの時)であり、その時はただ天の父だけが知っております(マタイによる福音書二十四章三十六節参照)。聖句中では「遅れ」とはありますが、ヘブライ人への手紙十章三十七節では「(来臨が)遅れないだろう(参照)」と言われ、ヨハネの黙示録六章十節では「彼らは大きな声で叫んで言った。真実で聖なる神、いつまで地上に住む彼らに私たちの血の報復をされないのですか。そして、白い長衣が彼ら全員に与えられ、彼らのように殺されようとしている兄弟や仲間の僕の数が満ちるまでのまだ少しの間、休んでいるように言われた。(参照)」と言われていることから、人には遅いように感じたとしても実際には遅くはなく、神が定めた適切な時があることが分かります。次に「うとうとして(ἐνύσταξαν)」について、「ぐずぐずする」「ぼんやりして、注意力散漫となる」「(時・生涯などを)無為に過ごす」の意味があります。この言葉を聞くと、個人的にはっとする思いに駆られます。手前も、真のキリスト者を目指すと決意するまでに、かなりの期間、ぐずぐずとしておりました。集いの門を叩こうと思っても「もう少しマシな状態になって、それから・・・」と無駄な先送りをしてしまいましたが、自分一人で改善することはついには出来ませんでした。意気込みはあっても、何一つ行動が伴わず、時を無為に過ごすという意味でも、手前も相当「うとうと」していたと思います。そして、「眠りに落ちようとしていた(ἐκάθευδον)」について、この原語の聖書の他の箇所での使用例を踏まえると、「怠惰と罪に屈服する」「自分の救いに無関心である」ことを意味するようです。うとうとする段階があって、それから本格的に眠りに落ちる流れを考えると、例えと本質が一致すると思います。また、この箇所の原語は「未完了過去」で「動作が完了せずに、過去において継続していた状態」のようなので、手前は「皆うとうとして、眠りに落ちようとしていた。」となるのではないかと思いました。つまり、うとうとはしても、完全に怠惰と罪に屈服はしなかった(眠りに落ちる)のではないかと考えました。実際、例えの中でも賢いおとめたちは花婿と対面出来ております。また、賢いとされるおとめでも、うとうとする危険に陥ることも表していると思います。総じて、怠惰や中弛み、誘惑が想起され、最期まで肉の性質との戦いがあるのだと思います。

 

◯悔い改めを先送りしてはいけない

二十五章六節について、花婿は真夜中になって来ました。原語は異なりますが、「誰も働くことができない夜が来る(ヨハネによる福音書九章四節参照)」の言葉から、福音伝道も出来なくなっているであろう大艱難期(末期)を想起させます。また、真夜中の「大声(κραυγὴ)」の原語は、ヨハネの黙示録十四章十八節でも使われており、やはり時期的には大艱難期末期を表しているのではないかと思います。

 

二十五章七節について、おとめたちは全員、目覚めて自分の灯火を整えました。「整える(ἐκόσμησαν)」の原語の主たる意味は「適切な順序に並べる」です。「適切な順序」の言葉からは、手前は「秩序(物事の正しい順序)」の言葉が思い起こされます。灯火(知の光)や油(聖霊)の意味からすれば、神の秩序に則ることは当然であり、細かい所まですべて同じ意味合いで調和が取れていると思います。

 

二十五章八節について、愚かなおとめの灯火が消える状態にあり、明確に油の量を示す言葉は見当たらないものの非常に危険な状況だと思います。聖霊は、神を愛して、神の掟を守る者に与えられるのであり(ヨハネによる福音書十四章十五節参照)、信仰心とそれに伴う行いが求められます。「(灯火が)消える」は「現在形」であり、既に無くなったわけでもないが、今、油がほぼ枯渇している状況と思われます。信仰そのものに反映して考えれば、神への愛が弱まっている状態、神以外のものを優先して肉の欲、世俗の事柄に心を奪われている状況が考えられます。信仰的にはかなり危険な状況だと思います。油を分けて欲しいと訴えますが、油の性質(聖霊)を考えれば、人に求める筋合いではないと思います。

 

二十五章九節について、「店(ςπωλοῦντας)」は、本来は「店」よりも「売る人たち」の意味があります。更に、原義としては「物々交換」です。当然のことですが、ただで貰える訳ではありません。売買契約という言葉がありますが、買う側が支払いをして、それによって品が手に入ります。契約の関係があり、手前はここにも神との契約(神の律法、掟、戒めを履行するか否か、祝福か呪いか)の型があると思います。実際、「買いなさい(ἀγοράσατε)」には、「約束、義務などを履行する」の意味があります。「自分自身のために買いなさい」とは、神の律法、掟、戒めを守りなさい、しっかりと悔い改めなさいと言われているのではないかと思います。

 

◯ 覆水盆に返らず

二十五章十節について、『婚姻の宴(γάμους)』には「結合」「一致」の意味があります。「二人は一体となるだろう。それ故、彼らは二人ではなく一体である。(マタイによる福音書十九節五節から六節参照)」と主イエスが言われた言葉のとおりです。また、「花嫁に清く輝く亜麻布を着ることを許された。亜麻布は聖なる者たちの義(正しい行い)だからである。(ヨハネの黙示録十九章八節参照)」とも言われていることから、主イエスと釣り合うだけの高潔さが求められます。この完全な状態を目指してキリスト者は励み、鍛錬しなければなりません。そのために日々の歩みは問題ないでしょうか、悔い改めていないことは無いでしょうか。世が刻々と悪化し、大艱難期入りが目前です。手前自身も含めて、時を有効に活用できれば幸いです。次に、「扉(θύρα)」についてです。この原語はルカによる福音書十三章二十五節(参照)「家の主人が扉を閉めた」、ヨハネの黙示録三章八節(参照)「我はお前の行いを知っている。見よ、お前の目の前の扉は開かれており、誰もこれを閉めることは出来ない。お前は僅かな力しかなかったが、我が言葉を守り、我が名を否まなかった。」等の箇所で使われております。これらから扉は「天の国の扉」であると考えられます。ヨハネの黙示録三章八節にもあるように、神の国に受け入れられるために従わなければならない条件(各位の行い)があることを示していると思います。「お前は僅かな力しかなかったが」の言葉が個人的にはとても励みに感じました。必ずしも強靭でなくても、例えば手前のように非力であっても全うできると、希望はあることを示唆されているように感じるからです。更に、「閉じられた(ἐκλείσθη)」は比喩的に天の国へ入ることが困難となることを指していると思います。

 

二十五章十一節について、愚かなおとめたちが遅れて到着します。聖句中では明言されておりませんが、おそらくは、到着したのは油を買ったから(即ち、神の律法、掟、戒めを履行するようになった)だと思われます。ただ、現実に即して考えれば、恩恵期間が既に終わっていると考えられ、罪の記録は残ったままで不完全であるとも考えられます。そもそも、間に合わなかった事自体、既に瑕疵があると思いました。準備が出来たと考えている愚かなおとめたちも花婿(主人)を呼びます。しかし、二十五章十二節にあるように「我はお前たちを知らない」と言われます。ここでの「知らない」の原語は現在完了形であり、「動作がすでに完了し、その結果が現在も継続している状態」を指します。つまり、この状態は決して覆らないことが窺えます。当然と言えば当然です。聖書のどの箇所を見ても、二度目の機会があると書かれている箇所はありません。『「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』(マタイによる福音書 七章二十一節から二十三節 引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」)』の聖句と同じ状況だと思います。

 

◯ 来ると分かっているものに、きちんと備えられるか

最後の二十五章十三節にて、「目を覚ましていなさい(ρηγορεῖτε)」と主イエスは言われます。目を覚ましているようにとの警告は聖書の至る所で書かれているとおりです。「厳重な注意を払う」「慎重である」の意味があり、「活動的」との意味もあることから弛まず神の律法、掟、戒めを履行している状態が想起されます。

ここで少し個人的な話をさせていただきます。二千二十四年も第二の月に入り、段々と暑い日も見られるようになったため手前は買い置いていた新しい浴衣を出しました。古いものはぼろぼろになってきて、色もがくすんで、外出用には適さないため部屋着にしようと思っておりました。ちょうど暑い日に当たったその日、そのまま新しい浴衣を着て出かけました。そして、しばらくして違和感を覚えました。何かいつもと光景が違うような…これは何だろうかと思い、はたと房を付けるのを忘れていたことに気付きました。房の付いていない浴衣(和服)を見ながら、不足している、欠けがある状態をまざまざの目の当たりにしました。房は、房を見る時に主の全てのご命令を思い起こし、自分の欲求に従って罪を犯さないように(民数記十五章三十九節参照)との目的で付けるように神がご命令されたものです。まさしく、うっかりです。家に戻ってから速やかに房を付けましたが自分の不注意さを反省しました。房の付いていない和服を見て、何ともいえない喪失感を感じ、「神の御命令」に対して厳重な注意を払えていない自分が残念でなりませんでした。房のない袖を見ながら、欠けがあり、一歩及ばない感じは、もしかすると愚かなおとめの後悔にも似ているのかもしれないと思いました。「一歩及ばない」という言い方も正確ではなく、一つの行動の不足の背景には、もっと多くの気の緩みあったのかもしれないと思いました。小事に忠実な者は大事にも忠実、小事に不忠実な者は大事にも不忠実(ルカによる福音書十六章十節参照)とあるように、こういった所の抜けが致命傷と成り得るのだと、この出来事から学ばせていただきました。

 

画像引用:真の聖書福音と預言「律法遵守は信仰の証しと復活」

 

ちょうど、ミカエル氏が二千二十四年第一の月の記事でわかりやすい画像を記事中で公開してくださっており、何度でも見返して復習することを勧めます。

また、愚かなおとめについて、ミカエル氏は以下のように解説しております。

救いの機会の扉が閉じられてから、慌てて聖書を読み出したり、慌てて聖書の真理を知ろうとしたりしても、時機に遅れるともはや手遅れということです。救いの機会の時というのは、キリスト再臨に限らず、各個人で異なる個人的な時間です。寿命が個人で異なるのと同様です。あなたの寿命がキリスト再臨まで残っているとか、いつ終わるなんて誰も言えません。これらのことは天の父なる神しか知らないことなのです。

(略)

死ななくても恩恵期間は終了する場合があります。聖書と私が主張することを読んでも、心がまったく動かされず、「自分のみが正しい」、「自分が信じていることが絶対なんだ」というような状態に陥って、悔い改めができなくなった時です。つまり、良心に焼印を押された(テモテ一4:2)状態です。

終わりの兆候がもっと明確になってからと真の悔い改めを先送りにしている者は、にわかクリスチャンです。誰もが分かる兆候が世に出た時、おそらく生きている者全員の恩恵期間は終わっていることでしょう。それで、上記の愚かなおとめ(にわかクリスチャン)のように、慌てて油を求めて買いに行きますが、もう手遅れということです。悔い改めようとしても真に悔い改めることは出来なくなっているのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」

神の律法、掟、戒めに基づいて、これまでの生き方や考え方が間違っていたことを認めて、神の御命令に適うように改める機会があることは何とありがたいことでしょうか。一方で、締め切り期限が厳密に明確でない以上、気が緩んで悔い改めを先送りにする危険があります。また、短期間なら頑張れても、長期的に頑張り続けるのは決して簡単なことではありません。いつでも堕落の危険が付きまといます。また、意識して行動するのも大事ですが、意識しなくても意識しているのと同じ位に心に刻まれているように、確実に行動出来る境地に辿り着きたいと個人的には思います。そのためには質の高い鍛錬の日々の積み重ねが不可欠です。十人のおとめの例え話を教訓にするべきです。また、このような分かりやすい例を教えてくださった主イエスに感謝するべきだと思いました。

 

<結び>

こちら(真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」)の記事も是非、お読みいただきたいのですが、この世はサタンとの霊的な戦いの場です。『創世記の蛇(サタン)から始まったように、サタンは人間に神の御言葉に従わせないように誘惑してきます。サタンは、神の律法を破らせようと人間に戦いを挑んできます。』のとおりです。神に属するか、世(サタン)に属するかの二者択一であり、地上の生涯はその試しの場です。世に定着してしまっている地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等を信じる程に聖書を信じることが難しくなると思います。この世には、真の聖書福音を教える政府もなければ、学校もなく、神の律法、掟、戒めを守る会社も皆無だと思います。普通に世で生きようとすれば、服装や安息日遵守を始め、神の掟を守ることは至難だと思います。

 

ところで、世に「施設症候群」という言葉があります。『精神科の隔離病棟や刑務所、児童養護施設など、外部から隔離された施設にて長期間生活したことによって発症する症候群である。通常、施設に収容された人間は自立性と独自判断の自由を奪われながら生活する。そして「外の世界」に戻ると、また別の問題が発生する。すなわち、長期間の隔離生活によって「社会性」や「生活能力」などが欠如するのである。(引用:ウィキペディア)』と説明されております。これは、さながら「施設」は「真理が隠されて、知らない状態(知識が無い)」であり、「外の世界」とは「真の聖書福音を知り、律法に則った生活」のようだと思いました。真のキリスト者として生き始めると、最初は律法に則った生活に不慣れなので、振る舞いもおぼつかず、周りは不信仰者に囲まれて心許なさを感じることがあります。要は、まだまだたくましさに欠け、躓きやすい時期だと思います。まだまだ人の目を恐れたり、律法を遵守するために周囲の人々と交渉する大変さに打ち負かされたりする危険が、最初は特に多いと感じます。怯んでしまうと、「元に戻れば楽になる」との誘惑がやって来ます。「ショーシャンクの空に」という映画があります(参照:ウィキペディア)。刑務所を舞台とした物語ですが、その中で刑務所で長年暮らした者は外の世界で上手く適応出来ずに苦しむといった描写があります。だから、釈放を嫌う場面が描かれております。人々は、ほぼ例外なく、世俗という檻(真の聖書福音が隠されて、盲目にさせられた状態に留まること)に慣れされ、狂わされていると思います。率直に、とても不利な状況から、信仰が始まると思います。折角、滅びからの解放の道が開かれても、少し上手くいかないことがあると、慣れ親しんだ過去を振り返る誘惑に駆られたり、再び堕落する危険に常に晒されます。ヤコブの手紙一章二十七節に世の汚れに染まらないように自分を守れと書かれているとおり、これまでは普通と思った世俗とも距離をとって生きなければなりません。しかし、それらに打ち勝つことで強靭な信仰心を培うことが出来ます。

拙者が聖書の主イエスの教えを引用して言うてるとおり、自分を捨て、他の余計なものも捨て、神の王国と神の義を第一にして生活してなければ、何かを失う恐れが出てきてしまい、臆病さを克服することは不可能やからや。社会的地位を保持したり、財産を保持したり、人脈等といったこの俗世の人間関係や交友関係を保持しようという思いが強いと、それらを失う恐れが救いの邪魔をするんや。それ故、主イエスは財産や社会的地位も余計な人間関係(人脈)も持たず、すべてを捨てるように教えはった。かように、神のためにすべてを捨ててる人は強いのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」

上記の言われていることについて、手前は自分の経験を通して、とてもよく理解出来ます。そのとおりだったと思います。だから、自分からわざわざ誘惑の種を増やしたら意味が無いと断言出来ます。情けない話ですが、手前はほんの些細な社会的地位でも捨てるのが正直恐かったです。檻から出た時、最初は味わったことのないような不快感、恐れを感じました(参照:拙記事「寄らば大樹の陰 ー世に縋っていたことの証しー」)。世俗に耽った期間が長いほどに禁断症状が起きるのだと思います。これも「施設症候群」のようだと手前は思います。はっきり言って、これを一人では絶対に乗り切ることは出来ませんでした。信仰を共にする兄弟がいなければ絶対に挫折していたと思います。そして、禁断症状はずっとは続きません。人は悔い改められ、新しく生まれ変わることが出来ます。成長出来ます。そして、思い切って捨てて得られた自由は計り知れません。余計なものを持たなくなった今、その分、失う恐れはさほどやって来ません。

 

互いに愛し合い、切磋琢磨する兄弟の存在がどれほど支えになったか計り知れません。同じように真のキリスト者として生きたいと思う方は、募集要項をきちんとお読みの上、兄弟の集いの場の門を叩くことを勧めます。そして、教会試験を経て教会へ入会し、そこでより真のキリスト者を目指して励みましょう。なお、入会の条件等をきちんと読解することから、すべてが始まっております。福音も、聖書の法秩序等への理解が重要であるように、集いと教会においても、規則の理解が重要です。そこも含めて、くれぐれも自分勝手な思いで門を叩かぬようご注意ください。

 

 

 

 

人は聖書を通じて、神からの愛(警告と教訓、知識等)を十分過ぎる程に頂いております。これを我が事として受け取り、来たる終わりに備える者は賢明です。もし、読み飛ばして理解不十分だったり、世の諸教会・パウロ教徒のように聖書を曲解する(律法廃止論、行いは不要等の誤り)ようでは話になりません。決して取り戻せないからこそ、慎重に、思慮深くあるべきです。何事も後悔の無いように今を生きて参りましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は、持っている者と持っていない者の違いと題して、真のキリスト者の生き方に確信を添えるべく、マタイによる福音書十三章十節から十六節までの箇所を考察して参ります。

 

今という時は、死後の永遠を決める、残り僅かの期間に位置します。死後の永遠を決めるとは、生きている間の行いについて、全能者である神から、神の律法、掟、戒めに基づいて裁かれるということです。その結果は、神の王国に入るか(永遠の命を得る)第二の死(火の池・地獄)かのどちらかしかありません。つまり、有罪か無罪かのどちらかです。たとえあなたが神を知らなかったとしても、全能の神の理は万人に適用されます。あなたが真理に合わせる筋合いなのです。聖書は神の真理について記しているのですから、本来は他のすべてに優って興味関心を持ち、深く知りたいと思うべき事柄です。しかし、聖書は真理と教わる機会が乏しく、また、信じず、実際には世俗生活にどっぷりと浸って生きる人がほとんどだと思います。偶に聖書は真理だと見出だしても、世俗のにわかキリスト者(パウロ教徒ら)のように聖書を曲解し、真理を誤解釈して生きるにわかキリスト者がほとんどです。挙げ句には偽福音をせっせと伝える始末です。構図としては非常に不利な状況が作られております。

 

罪を犯さない人は主イエスを除いて誰もおらず、誰もが神の目には罪人です。主イエスと新しい契約を結び、これまでの罪を悔い改めて、主イエスに倣ってこれ以上、罪を犯さない生き方を全うしてこそ、救いの道が開かれます。そして、神が罪の赦しをされる恩恵期間は大艱難期への突入をもって終えられます。獣の刻印にまつわる仕組みが現実のものとなろうとしており、世の動きから暗黒社会入りは目前の状態です。残された恩恵期間はあと何年あるのだろうかという状態です。そのため尚更に今この時には、非常に大きな意味があります。決して取り戻せないからです。この時を最大限に活かして欲しいと思わずにはいられません。但し、信仰は神のお招きにより始まります(参照:真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)。誰もが信仰を持てるわけではありません。どんなに説明を尽くしても、仮に強いたとしても信仰を「持たせる」ことは出来ません。信仰を持つ、神を愛するとは自発的なものだからです。強いられたものを愛とはいえません。一方、悪魔はあらゆる手段を駆使して誘惑し、悪魔への服従に誘います。各位が、非常に大きな選択を今この時もしていることでしょう。神に招かれたかどうかは世の惑わしに屈せず、聖書真理に関心を持ち、行いを始める(即ち、知行合一)という結果でしか判断出来ません。そして、真に救われるか(神に選ばれる)は最期まで従い通せるかに懸かっております。誰が招かれ、誰が救われるかを人は知ることが出来ません。だから、最大限に福音を宣べ伝えさせていただき、聞く耳のある人に届き、より信仰を確固としてもらうことを期待するばかりです。真のキリスト者を目指す者にとっては、各位の人生において過去一番の非常に濃密な時となることでしょう。そのたった一事のために全てを注ぐのですから。

 

<持っている者と持っていない者>

世俗において、今風な言い方かもしれませんが「あなたは持っているね」という言い回しがあります。「ある物を所持した状態、または性質や能力を備えた様子などを指す表現。(引用:weblio辞書)」を指しますが、具体的には「幸運」であったり、「華やかさ」であったり、「才能」だったりと良きものを指すと思います。聖書にも「持っている者」「持っていない者」と言及している箇所があり、個人的にも気になっていた箇所でもあります。とても大切な示唆があると思われ、以下の一連の聖句を細かく見て参ります。

 

マタイによる福音書十三章十節から十六節(参照)

弟子たちはイエスに近付き、言った。「なぜ彼らにはたとえ話で語られたのですか。」イエスは答えて言った。お前たちには各天の王国の神秘を理解することが認められているが、彼らには認められていないからである。持っている者は、その者には与えられ、豊かになるだろう。しかし、持っていない者は、その者から持っているものを奪われるだろう。それ故に、彼らにはたとえによって言う。彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、理解もしないからである。イザヤの預言は彼らによって成就される。曰く、お前たちは聞くには聞くだろう。しかし、決して理解しなかった。お前たちは見ることは見るだろう。しかし、決して理解しなかった。この民の心が鈍くされ、耳にはぼんやりと聞こえ、彼らの目を閉じたからである。彼らは少しも目で見ようともせず、耳で聞こうとせず、心で理解しようとせず、改めようとしせず、我も彼らを癒やそうとしなかった。しかし、お前たちの目は見えているから幸いだ。お前たちの耳は聞こえているから幸いだ。

 

一)大群衆について

まず、この話の始まりは、マタイによる福音書十三章一節からなる「種を蒔く人のたとえ」です。十三章二節を見ると「大群衆(参照」)に対しては、主イエスはたとえを用いて語られておりました。それに対して十三章十節で、弟子たちが「なぜ彼らにはたとえ話で語られたのですか。」とその理由を尋ねております。真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」にて、同じく大群衆が登場する場面のマタイによる福音書八章十八節に対して、『この世の多数派は、不信仰者や異教徒やにわか信者の集まりであり、現世利益を欲しがる利己主義者が多く、好奇心から奇跡等を見たがるだけという野次馬の傍観者に過ぎひん人間の集団や。』『主イエスは御自分の民が誰であるか明確に分かってはる故、たとえ自分の周りに集まって来ようとも神の民ではない者を救うこともないし、懇切丁寧に対応する気も無く、心の底から信じて従わへん口先だけの嘘つきや邪な事を考えてる心が悪い群衆を遠ざけるんや。』と言われております。「群衆(ὄχλος)」の原語はマタイによる福音書八章十八節、十三章二節で共通して使われており、その原語には単に「人々(群衆)」の意味だけでなく、暗示として「野次馬」「暴徒」「騒動」の意味があり、おおよそ信仰深さとは対極にある性質です。まさしく、心から信じて従う要素が無いであろう人々に神の王国の神秘を語るのは相応しくないと思われます。豚に真珠という諺がありますがそのとおりです。また、豚に真珠の諺の基になったとされる「聖なるものを犬に与えるな。また、おまえたちの真珠を豚の前に置くな。それらを足で踏みつけ、向きを変えてお前たちを引き裂かないように。(マタイによる福音書七章六節参照)」の言葉を紐解くとその意味がよく分かります。「κύων(犬)」「心が汚い者」「χοῖρος(豚)」「下品な人」です。また、「μαργαρίτης(真珠)」「特に優れたもの」の意味でもあり、聖なるものの価値も分からない、心が汚く下品な者に、善きものを与えてもそれを踏みじることでしょう。そればかりか引き裂かれてしまいます。「引き裂く(ῥήγνυμι)」「感情のはけ口にする」の意味もあり、無分別な者はこのような恐ろしいことを平気でするのだと思います。真の聖書福音を嘲笑う不信仰者、律法を踏みじるパウロ教徒が想起されます。

 

マタイによる福音書十三章十節では「弟子たち」がこの質問をしておりますが、同じ箇所を記述したマルコによる福音書四章十節では、主イエスが一人でおられた時、弟子たちと「主イエスの近くに居た人たち」も共にここからの話を一緒に聞いていると記述されております。たとえを用いて話す理由を共に聞き、主イエスが答えられていることから、信仰心が厚かったのではないかと推測されます。この自主的な姿勢がとても大事なのだと思います。

 

二)神の王国の神秘を知ることが認められた者とそうでない者

先に挙げた大群衆の性質を見ていくと、自ずと神の王国の神秘を知ることが認められない理由が分かると思います。神の側に立って考えれば、にわか信者だったり、自分の利益を欲したり、好奇心から奇跡等を見たがる野次馬たちに、神の王国の神秘を理解させようとは思わないはずです。知ったとしても私利私欲のために悪用する可能性もあり、聖なるものを汚しかねません。大事なものを、大事なものとして丁重に扱わない者にどうして披露できましょうか。よくよく考えれば当然のことです。

 

ところで、ヨハネによる福音書六章には、主イエスが永遠の命に関わる内容の話をした際、「弟子たちの多くが離れ去り、共に歩むことはなかった(ヨハネによる福音書六章六十六節参照)」という出来事が書かれております。そして、同六章には、離れ去った出来事の前、五千人に食べ物を与えた奇跡を起こされております。その奇跡の後に群衆が主イエスを追いかけて、カファルナウムに来ました(ヨハネによる福音書六章二十四節参照)。しかし、主イエスは彼らの魂胆を見抜き「お前たちが我を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて腹が満たされたからだ。(ヨハネによる福音書六章二十六節参照)」とはっきり言っております。もしかすると、また腹を満たしてくれるとでも期待したのでしょうか。何やら浅ましい動機です。その話のくだりで、彼らは主イエスから、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい(ヨハネによる福音書六章二十七節参照)」と言われております。そこから命のパンの御話が始まるのですが、その結果は散々なものでした。まともに話せばこのように理解しようともせず反発し、躓きます。もし、「これはどういう意味だろう。きちんと知りたい。」と思い、自分から見出だそうとしたら、また違ったかもしれないと手前は思いました。あれ程のしるしを見たにも拘らず、主イエスを信じずに、しかも群衆のみならず多くの弟子たち(十二弟子以外)も去るとは、最初から無いに等しい信仰心だったのではないかと思います。また、もしかすると群衆の議論(ヨハネによる福音書六章五十二節参照)に影響された可能性も無いとは限りません。神の王国の神秘を知ることが認められない者に共通する性質が、これらの箇所から窺えます。改めて、狭く苦しい道を見出だす者は少ない(マタイによる福音書七章十四節参照)のだと分かります。

 

「理解すること(γνῶναι)」の原語には、「許可する」「気付く」「確信する」の意味もあります。「確信」と聞くと信仰深さとも密接な言葉であり、聖霊から出るものとして捉えられると思います。厳密にはこの時点で実際には聖霊は降っておりませんでしたが、真のキリスト者を導いて真理をすべて悟らせる(ヨハネによる福音書十六章十三節参照)には主イエスに留まることが不可欠です。

 

三)持っている者と持っていない者

「持っている(ἔχει)」の原語は、言葉どおりに主には「所有」を表します。文脈的に、何を持っていると言えるでしょうか。ヨハネの手紙一 二章十五節(引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の成長に必要なこと」)『世を愛してはならず、世にあるものも愛してはあきません。もし誰かが世を愛するならば、御父の愛はその人の内にありません。』やマタイによる福音書六章十九節から二十一節(引用:真の聖書福音と預言「RAPTの聖書曲解とその対極にある真理である主イエスの教え」)『あんた方は地にあんた方自身のために富を蓄えたらあかん。そこでは、蛾や錆が食い尽くし、また、そこでは盗人が物色して盗む。むしろ、あんた方自身のために富を天に蓄えなさい。そこでは、蛾や錆が食い尽くさず、また、そこでは盗人が物色せず、盗むこともあらへん。あんた方の富がある所に、あんた方の心もあるだろう。』などの聖句から、この世の所有や富を指すのでないことは明らかです。少なくとも物質的なものではなく、目には見えないものであるはずです。目に見えないものとしては、「能力」、「知性」、「品性」、「信仰心」といった精神的・霊的なもの、そして、上記の聖句のとおりに天に蓄える富が考えられます。この中で、「能力」について言えば、高いかどうかは論点ではないと思います。マタイによる福音書二十五章に「タラントンのたとえ」がありますが、主人は僕の能力に応じてタラントンを預けており、力に応じて精を出して働くことが求められております。また、それによって自ずと能力は知性も含めて磨かれていくのだと思います。

 

マタイによる福音書二十五章十四節から十六節(参照)

(各天の王国は)ある人が遠い国へ行くようである。彼は自分の僕を呼び、自分の財産を彼らに委ねた。ある僕には五タラントン、別の僕には二タラントン、更に別の僕には一タラントンを彼らの能力に応じて託した。そして、直ちに彼は旅立った。それから、五タラントンを受け取った者は行って、それで精を出して働いた。そして、他の五タラントンを稼いだ。

 

能力が高いかどうかが問われているのではなく、自分に与えられた力で最大限を尽くしているかを問われているだと考えます。ところでタラントンの箇所では「持っている者は皆、与えられ、豊かになるであろう。しかし、持っていない者は、持っているものさえも取り上げられるだろう。(マタイによる福音書二十五章二十九節参照)」と酷似した言い回しがされております。その箇所での「持っている」の意味合いとしては、力に応じてより多くのタラントンを預けられた者程、しっかりと稼ぎ、逆に一タラントン預かった者は自ら稼ぐことをせず、主人から叱責を受け、「役に立たない僕を外の闇へ追い出せ。そこで悲嘆して歯ぎしりするであろう。(マタイによる福音書二十五章三十節参照)」の結果となりました。比喩的に、神の王国に入られなかったということです。ここの文脈から判断するに、主人の意図を理解する知性、忠実さ、その中に含まれている勤勉さなどを「持っている」と看做せると考えます。それらを一括りにすれば「行いを伴った信心深さ」とも言えると思います。あればある程に正しく生き、そこに聖霊も働き、豊かになり、品性が整っていくのは当然だと思います。しかし、より「信心深さ」がなければ正しい行動も、神の知識も不十分で、自制も出来ず、道を逸れていくのもまた当然であると思います。また、行いを伴った信心深さは「天に積んだ富」という結果を生むことに繋がり、天に富を持っている者(キリスト者の働きに励む者)として捉えれば、持っている者は更に与えられ、持っていない者(信仰心を活かさない者)は評価されないとも捉えられるのではないかと思います。

そして、マタイによる福音書十三章十二節でも二十五章二十九節でも、「持っている(ἔχει)」は同じ原語は使われております。多くの意味を包含している原語ですが、敢えて言えば原語の中に「後に続く」「一緒に行く」の意味もあり、マタイによる福音書十章三十八節(引用:真の聖書福音と預言【第四回】正しい聖書の底本とは)『自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。』、マタイによる福音書十六章二十四節(参照)「我が後に来たいのなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って、我に従え。」の主イエスの言葉にも符合すると思います。

 

「持っているものを奪われるだろう」について、「奪われる(ἀρθήσεται)」の原語は、「自分のもの、または自分に託されたものを取り上げたり、力ずくで奪う」といった意味合いで用いられております。同じ原語が使用された箇所を概観すると「神の国(マタイによる福音書二十一章四十三節)」「タラントン(マタイによる福音書二十五章二十八節)」「御言葉(ルカによる福音書八章十二節)」「命(ヨハネによる福音書十章十八節)」「喜び(ヨハネによる福音書十六章二十二節)」が奪い取られたものとして書かれております。

 

「神の国」が取り上げられたとの一連の話は「ぶどう園と農夫のたとえ」のくだりです。「神の国はお前たちから取り上げられ、実を結ぶ民に与えられるだろう(参照)」の言葉とその前の文脈から、主イエスに躓くことで神の国が取り上げられていることがわかります。次に「タラントン」は、先にも挙げたとおりで、一タラントンを預かったにも拘らず何もしなかった者は、その一タラントンを取り上げられております。能力を活かすことが出来るのは生きている間、励む機会のある間だけです。機会は一度だけ、二度は与えられておりません。「御言葉」については、ルカによる福音書八章十二節(参照)「道端のものは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、信じて救われないようにその心から御言葉を奪い取る。」と書かれております。折角、御言葉を聞いても、理解しなかったり、他に気を取られ、すぐに忘れることだと思います。「命」について、ヨハネによる福音書十章十八節(参照)「誰も我から命を奪い取ることは出来ない。わたしは自分で命を捨てる。 我は命を捨てる力があり、命を再び受ける力もある。この掟は我が父から受けたものである。」と書かれております。文脈的に肉体の命を指していると思われますが、「命(ψυχή)」には、それのみならず「魂」の意味もあります。「持っているものを奪われるだろう」の文脈で考えた場合には、やはり「永遠の命」を失うことに相応すると考えます。最後に「喜び」について、ヨハネによる福音書十六章二十二節(参照)「今はお前たちも悲しんでいる。しかし、我は再びお前たちと会いお前たちの心は喜ぶことになる。その喜びをお前たちから奪い去る者はいない。」と書かれております。再び主イエスがお見えになる時は、世の終わりの主イエスの来臨です。すべての労苦が報われて、これまでの行いが報われる時(ヨハネの黙示録十四章十三節参照)でもあり、もし真っ直ぐに歩み通せたのなら、喜びにあずかることが出来ます。途中で躓けば喜びにあずかる機会を失います。そして、マタイによる福音書 七章二十一節から二十三節(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」の言葉が想起されます。主に繋がっていたはずが、切り離され、知らないと言われる末路もまた、「持っているものを奪われるだろう」に相応するのではないかと思います。
必ずしもこれらに限定される訳ではないと思いますが、主イエスは福音を伝えているのであり、「奪われる(ἀρθήσεται)」の原語の関連から導き出される中身としては、大いに考えられる内容だと思います。

 

これらを手掛かりにまとめると、「持っている」「持っていない」とは、神の問い(試し)に応えるために、自分自身を用いて、神と兄弟と隣人を愛し、品性を整え、知性を磨き、能力等を活かし、時間と機会を有効に使う「行いを伴った信心深さ」であり、言わば、天に宝を積み、天において富むことであると考えます。また、「与えられる」「奪われる」のは「良き報い(神の国、永遠の命、喜び等)」であり、言わば、神との繋がりであると考えます。

四)理解と行動は一つ

「見ても見ず」「見る(βλέπω)」は、比喩的に「理解すること」を表しており、理解したふりをするが理解していないことを表します。個人的にはどきっとする思いがあり、くれぐれも注意しなければならず、聖書に照らして間違った理解や行いをしていないか点検し、素直に悔い改めたいと思いました。さながら、自分を欺いている、矛盾した状態だと思います。「聞いても聞かず」「聞く(ἀκούω)」も、同様に比喩的に「理解すること」を表しております。そして、最後の「理解する(συνίουσιν)」の原語の定義には「信心深く行動する」の意味があるのがとても印象的です。行いに反映してこそ、理解したと看做せます。イザヤの預言を引用した部分はまさしく、それらを表していると思います。「癒やす(ἰάομαι)」は言葉どおりの意味で、更には「無傷にする」の意味もあり、罪や咎から解放されて救いをもたらす意味で使われております。十四節から十五節からは、人々が律法を知りながらも、律法に適う行動をするに至らなかったために、神も罪を赦そうとしなかったという意味だと考えます。これは主イエスの御言葉とも一致します。律法は守るように(マタイによる福音書二十三章三節参照)、これ以上罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書五章十四節、八章十一節参照)、悔い改めなければ皆滅びる(ルカによる福音書十三章三節、五節参照)と言われているとおりです。

 

最後に十六節では、弟子たちに「お前たちの目は見え、耳は聞こえるから幸い」と言っております。「耳(οὖς)」も比喩的な意味で「認識する力」「理解する力」を指しております。ヨハネによる福音書十章十六節で主イエスが、羊(真のキリスト者)は羊飼い(主イエス)の声を聞き分けるとあります。神に招かれ、神に選ばれる者にはそのような力が与えられるのかもしれません(もっとも、「自分にはある」と過信せず、ただ神の言葉を確認し、最期まで忠実であるべきです)。先に挙げた、多くの弟子たちが主イエスの元を去っても十二弟子は残り、我がお前たちを選んだではないか(ヨハネによる福音書六章七十節参照)と言われたとおりです。

 

ヨハネによる福音書十五章十六節、十九節(参照)

お前たちが我を選んだのではない。そうではなく、お前たちが行って実を結び、お前たちの実があり続けるように、また、我が名によって御父に請うものがみなお前たちに授かるようにと我がお前たちを選び、任命した。

お前たちが世に属するならば世は自分のものを愛しただろう。しかし、お前たちは世に属さない。それどころか我はお前たちを世から選んだ。そのことの故に、世はお前たちを憎む。

 

この世は悪いものの支配下にある(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)ため、異邦人の道が横行し、そのままでは到底、真の聖書福音に沿って生きることは困難です。この世は不敬虔な大群衆によって構成され、聖書を知っているつもりの「キリスト教」はあっても、そのほとんどは偽福音です。普通に考えれば、堕落した多数派の勢いに押され消滅しかねない状況です。しかし、神は敢えてその中から御自分の民を選んでくださいました。

 

ヤコブの手紙二章五節(参照)

我が愛する兄弟たちよ、聞きなさい。神はこの世の貧しい人たちを選んで、信仰によって富み、御自身を愛する者たちに約束された王国の相続人とされたではないか。

 

『この世』は、悪しき者が支配する世界ですから、聖書真理に拠らない、神の律法による善悪の判断もされない腐敗した世界です。地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等の価値観に染まった世俗(世の中の習慣)の世界です。そこでは財産や快楽などがもてはやされ、欲望をかき立てられて生きる世界です。この世は、神を見出だすことよりも、この世での充足が一番とされて、神の義の障害となるものに満ち溢れております。ヨハネの手紙一 二章十五節で、世も世にあるものも愛してはならないと言われているのはそういった理由からです。多数派に倣う生き方では到底、歩き得ない道です。神の言葉だけに拠って生きることは、人の目を恐れたら絶対に出来得ません。そして、『貧しい』とは、物質的に富んでいないだけでなく、世の富では決して心が満たされず、世俗で生きることにおいて心を痛めていることでもあると思います。実際、「貧しい(πτωχοὺς)」には「心を痛める」の意味もあります。悪の世に馴染めずに、悪の世の価値観からはみ出さざるを得なかったり、進んで悪の世から離れる行為をした人々こそ「この世の貧しい人」と言えると思います。この世のものではなく、ただ神を愛し、神の義を求め、神の目に適うことが人生の全てと思って生きたのなら、復活に希望を持っていられ、信仰に富んだ状態であると思います。

 

<真の一番目>

「秩序」には「物事の正しい順序」という意味があります。意味を考えるととても興味深いと感じます。本当のこと、生きる指針は聖書真理にあります。これを一番目にするべきです。しかし、実際には世の人々のほとんどが世俗の常識(即ち、嘘)を一番目にしているがため、この世は堕落し、腐敗が改善することがありません。律法には神を愛すること、隣人を愛すること、盗むことも殺してもならない、嘘をついてはいけない、姦淫を犯してはならないなど、比類無き本物の道徳(神が定められた善悪の基準)が書いてあり、それらが一番にされなければ自ずと人々が道を逸れていくのも必然でしょう。だから世には偶像崇拝や殺人、詐欺、姦淫、あらゆる嘘が横行します。

 

こちら(In DEEP)に「狂気の社会で正気でいること」と題された記事があります。この記事の冒頭に「病んだ社会に適応する必要はない」との見出しが書いており、この言葉を見るだけで大きく頷き、同意したくなります。過去記事でも少し触れましたが「病(ἀσθενέω)」には、「(社会が)病んで堕落した」の意味があり、そのとおりの状況です。記事中では主にコロナ犯罪について言及しているのですが、ワクチン接種強要、マスク強要、飲食店営業の自粛要請、それらに疑問を呈することさえろくに許されない等、今思い返しても奇怪で自由と人権を侵害した犯罪がほんの数年前に横行しておりました。それが今尚、部分的に続いているのですから、ますます異常です。

…あるいは、あなたがたも、世界中の他の何百万人もの人々と同じように、政府が人々を家に閉じ込め、最も貧しい人々を飢えにさらすことを強制する過去 3年間の狂気を見て、私たちの社会の正気を疑問視し始めたのかもしれない。

 

そして、「公衆衛生」の名の下に何十億人もの人々に医療介入が行われた。

 

世界がいかに病んで歪んでいるかを実感することで生じるフラストレーションを感じながら、私はしばしばジッドゥ・クリシュナムルティ(インドの宗教的哲人)の有名な見解を思い出した。「深刻に病んだ社会にうまく適応することは健康の尺度ではない」

 

しかし、しばらくすると、この病んだ社会の狂気にも慣れてしまうことにも気づいた。実際、誰でもそうなり得るだろう。

 

(略)

 

「社会全体として、それを狂気だと思っていなかったことこそが、狂気」

 

引用元:In DEEP

コロナ犯罪について言えば、今でも政府はコロナ犯罪の違法性、ワクチンの危険についてまともに認めません。こちら(南日本新聞)の記事にて、二千二十二年の新型コロナウイルス「まん延防止等重点措置」適用中、鹿児島県の営業時間短縮命令に応じなかった店に対して、県が過料を科すよう経営者の住所がある各地の裁判所に通知していた件で、鹿児島県の時短命令を不合理として過料を認めないとの司法判断が下っていたようです。真っ当な判断であり、同じ記事を紹介したヤフー記事のコメント欄でも支持する意見が相次いでおりました。『この調子で憲法違反の人権侵害をやってた国を訴える企業や個人が続いてほしい』という意見がありましたがそのとおりだと思います。当時は異常な空気が支配しておりましたが、きちんと法を盾に臆せず抵抗するべきであることがこのことからも分かります。そして、如何に政府、地方自治体が法を無視するか、人々はそれらを盲信して愚かにも従ってしまうかがよく分かった出来事だと思います。だから法に則り、不法なものには抵抗すると訓にするべきです。

 

(偽)感染症全般について、前回記事で国際保健機関(WHO)の国際保健規則(IHR)の改悪により世界保健機関(WHO)事務局長の独裁と言える程の権限を持ち、ワクチンを強制する懸念があること(参照:さてはてメモ帳 Imagine & Think!)に触れました。ネット上ではこれらへの警鐘が鳴らされておりますが、当のテドロス事務局長は『ネット上では「WHOは加盟国にロックダウン(都市封鎖)やワクチン接種を命じる」といったうわさが拡散。テドロスWHO事務局長は「偽情報やうそ、陰謀論だ」と全面否定する。(引用:時事ドットコム)』と発言しております。しかし、太陽暦四月十七日に公開された国際保健規則(IHR)の最新版は、やはり危険な内容であることに変わりはないようです。故にテドロス事務局長の言い分こそ偽情報、嘘です。

今回のバージョンは、表面的な化粧を施した、羊の毛皮を被ったオオカミ、という形容が当てはまると思います。

 

誰もが一番引っ掛かる部分、すなわち”non-binding”(法的強制力を持たない)、”full respect for the dignity, human rights and fundamental freedoms of persons”(人権と尊厳の尊重)といった削除された箇所は、元に戻されましたが、non-bindingであるのは、定義上WHOの一時的および常備勧告に関することであり(第一条Definitions(用語の定義))、IHRの内容は以前にも増して強固なWHOの統治体制を構築する設計図として描かれており、全文章内で、契約文章では「xxxを義務付ける」という意味を持つshall xxxxという英語の表現が、360回以上使われています。

 

 

これは、この義務を怠った場合は、規則違反として追及されることを意味しており、WHOが公衆衛生と保健に関する緩やかな勧告を行う国際組織であるというイメージは完全に過去の遺物となり、強硬な統治機関に変貌していることが分かります。

 

引用:みのり先生の診察室

これらの動きに猛反対しなければなりません。こちら(ビットシュート)でも『WHOを世界の保健警察へと変貌させる』と警告されております。そして、しばしば「条約は憲法を優越する」との誤った見解を見かけるのですが、それは明確に誤りです。憲法九十八条一項で憲法は最高法規とされ、条約締結は「国務に関するその他の行為」に当たり、違憲であれば無効となるからです(参照:真の聖書福音と預言「早よ行動せんのなら日本は滅びる」)。もっとも、政府はそれすら踏み躙る危険があるため締結は絶対阻止すべきです。また、『万一、不服従によって不当に罰せられそうになれば、捜査機関が提示してきた処罰根拠の法規は違憲無効と抗弁し、そないな不当処罰に対しては不法行為に基づく損害賠償請求が出来ることを覚えときや。更に、当局から不当処罰を受けたら、受けた被害を大声で世間に周知しなはれ。臆するな、戦え。悪人に膝をつくなら、同じ悪人になるだけやで。(引用:真の聖書福音と預言「成功するためには」)』のとおり、必要時に行動出来るよう理解を深めていきましょう。同時に、要は現行憲法です。この憲法が改悪されたら一巻の終わりです。

 

画像引用元:https://x.com/kuu331108/status/1784399921275396217

 

こちら(ユーチューブ)の動画の開始から一分三十八秒までの箇所に、戦時中、政府が戦争に負けそうだという事実を伝えず、疑問を呈したり、国に逆らう言動をすると特高警察に拷問を受ける描写がされております。当時は治安維持法という悪法があり(参照:真の聖書福音と預言「日本、戦争と破滅への道」)、政府や戦争に反対する者は不当に逮捕されたり投獄されたりしました。小林多喜二氏の獄死は有名です。言論の自由が無くなり、弾圧されるとはこういうことです。つまり、自由と人権が無くなる事態です。

 

 

 

また、こちら(Yahoo!ニュース)では感染症対策を名目に『政府が「誤情報」常時監視 6月にも閣議決定へ 感染症対策の一環で 言論統制の恐れも』との動きが報じられております。ワクチンの危険をろくに伝えもせず、ほとんどの国民に打たせて大勢の死亡者や多くの健康被害を生じさせておきながら、何を「誤情報」と判断しようというのでしょうか。こちら(FNNプライムオンライン)のように、新型コロナワクチンで国が集団提訴されたと報道され、それに対して、河野太郎氏がこちら(X)のとおり、「厚労省が承認したのだから自分には責任が無い」と訳の分からない弁明をし始めました(呆れ果てる内容です)。彼は当時、ワクチン担当大臣であった訳でそのような言い訳は通じません。イタリアのロベルト・スペランツァ元保健相が殺人罪で検察の捜査を受けておりますが(参照:Tanto Tempo)、彼もまた殺人罪で起訴されるべきです。また、ワクチン被害をろくに伝えず、ワクチンを打てとだけの偏った報道ばかりをした報道機関も放送法違反で責任を問われるべきです。

 

とかく改憲に向けた伏線と思われる人権制限に至りそうな法案や条約が現在うごめいております。併せて言及しておきたいのが「教育勅語」を礼賛して復活させようとする動きについてです。以下のように杉田水脈議員がSNSで教育勅語を批判された事を発端に、意見調査を行っておりました。要は教育勅語が良きものであることを主張したいようです。

 

 

返信投稿には「教育勅語の何が問題なのか」「当然のことしか言っていない」「批判する者は中身を読んでいないだけ」といった声が多く見られました。しかし、内容が部分的に、一見もっともらしく見えるだけなので、要注意です。真の聖書福音と預言「日本人の消滅危機と生き様について」で教育勅語の危険が分かりやすく説明されており、『教育勅語は、国のために死ぬことが名誉などと教える偽りの正義』でしかありません。教育勅語自体が天皇が臣民(支配される民)に与えたもので、国難があれば臣民は命を捨てて立ち上がれということが前提です。一見良さそうに見える道徳も、為政者が臣民を管理し、反乱を防ぐための仕掛けでしかないと思います。とかく人権を否定したくてたまらない者たちが不要な憲法改悪を推進しており、彼らには国民を従わせたい悪意があることを見抜かねばなりません。自民党改憲案では憲法九十七条の人権規定(強い人権保障)の削除を目論んでおります。「憲法十一条と重複しているから」というのが言い分のようですが、あの自民党がその程度の理由で主張するはずがありません。実際、こちら(キリスト道 改憲問題)で『最高法規の章の九十七条に人権保障を置いたことで、人権保障はそれ程重要なことであり、法律や政令や条例等の下位法によって人権侵害がなされてはならんという意味を含み、表現の自由や居住移転の自由や普通教育を受けさせる権利や納税等といった他の権利や義務とはちゃうということや。』で解説されているとおりに、憲法九十七条は非常に重要な意味を持ちます。憲法十一条だけでは単なる権利義務の保障規定であり『これだけでは強い人権保障にはならず、自民党が改憲草案に組み込んだ「緊急事態条項」といった非常事態には人権は制限され得るという例外を設けるために、強い人権保障の九十七条が邪魔になり、削除したと考えるのが相当である。』のとおり、自民党らの悪意が見え透いております。

 

 

感染爆発の条約、国際保健規則(IHR)の改悪、「誤情報」常時監視、憲法改悪、教育勅語が持ち出される等の戦前回帰の動きに共通しているのは支配層、為政者が国民を支配者の臣民として国民(被支配層)の監視を強化し続け、「管理」を徹底する方向に向かっているということです。また、その過程で、大勢の命が奪われるでしょう。これらは、即ち、獣の秩序であり、霊的刻印としての獣の刻印、突き詰めれば、従わねば殺されるヨハネの黙示録十三章の大艱難に至ります。

 

これらの監視管理社会は、自分(魂)を獣に売り渡した者にはさほど苦痛に感じないのかもしれません。しかし、真っ当な精神を持つ者にとっては生き地獄のような暗黒社会です。真のキリスト者にとっては生存が困難な程の世界です。反キリストの支配層が構築する新世界秩序では、神の律法、掟、戒めを守ることがままならなくなるでしょう(参照:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)。今の世の流れは、新世界秩序構築(獣に支配される世界)に向かっていると認識するべきです。いわば「獣の臣民」となるようなものです。自由と人権が奪われ大多数にとっても生き辛いだけでなく、最も深刻なのは、進んで律法違犯をしないと生きられなくなることです。今はまた、世の惑わしと誘惑が甚だしくても、神を愛し、律法遵守する自由があります。人権の故に、律法による悪の基準の事柄を退ける自由が保障されております。しかし、人権が損なわれれば、例えば徴兵により戦争で人殺しをさせられる、神の遺伝子を改変するワクチンを強要させられる、日曜礼拝を強要させられる等の律法違犯を強要され、拒めば殺される、かつてない程の艱難の時に突入します。

サタンの一番の目的は、神が愛する人間を主イエス・キリストから引き離して滅びに導くことです。これ以外に何もありません。主なる神は、裏切った天使たちを赦さず、天から追放して地に落とされました。落とされた堕天使たちは、サタン、悪霊となって神が寵愛する人間を神から引き離すために、あらゆる手の誘惑や奇跡を含む惑わしをして主イエスを信じさせなかったり、神の掟を守らせないようにしたり、罪を犯させて神の怒りを買わせて喜んでいるのです。サタンの神に対する復讐をあなたがたが知らずに加担させられているということを知るべきです。

 

引用:真の聖書福音と預言「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」

 

こちらの引用内容にあるように、安易に世の権威の勧める政策に同意したり無抵抗であること、それだけでなく真の聖書福音を知ろうとしないこと、偽福音の嘘を見破らずそれを喧伝することは、罪を犯させて神の怒りを買うことに繋がっていきます。無知なままではサタンに加担することになりかねません。本当の一番目を間違えてはなりません。律法違犯を強要させられる、「行いを伴った信心深さ」を行使出来ない社会環境にさせてはなりません。そのためにも人権を侵害したり、人権を保障した憲法を改悪する動きには必死に抵抗しなければなりません。

 

<結び>

聖書真理との出会い、神への愛、聖書を理解する知性、主イエスに全身全霊で倣おうとする気概を持っている者は幸いです。

悪霊は、もはや人間に聖書を読まないように仕向けるという古い手段ではなく、聖書を曲解した偽りの教義で騙すのです。聖書を読まない人間は論外で、放っておいても滅びるので蚊帳の外だから放置されます。悪霊は、救われるか救われないかの瀬戸際にいる人を特に標的として何とか真理から遠ざけたり、真理が偽りで偽りを真理だと嘘を言って騙そうとします。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」

真の聖書福音を「宗教(虚構)」と看做す偽りの世界で、地上の諸教会(偽福音)という地獄の子を大量生産する罠に陥らず、必死に励む者は幸いです。また、反キリストへの恭順を迫り、律法違犯を強いる悪しき世の動きにも抵抗していきましょう。

 

マタイによる福音書十章二十四節から二十五節(参照)

弟子は師より優らず、僕もその主人より優らない。弟子にとってその師のように、僕はその主人のようになれば十分である。

 

主イエスは、律法を更新されましたが、廃止されないと明言され、最期まで遵守する模範となられました。律法廃止、主イエスの救いは完全だなどという偽福音は、主イエスのどの言葉に照らしても根拠はありません。どこまでも主イエスに倣う必要があります。

 

ルカによる福音書六章四十節(参照)

弟子はその師の上に位置しない。しかし、誰でも完全な者は皆、その師のようになるだろう。

 

同じことを言われている箇所ですが、「完全な者(καταρτίζω)」という言葉がある所に違いがあります。しかし、マタイによる福音書五章四十八節でも完全な者となるようにと言われており、一致しております。原語の主たる意味は「完全に不足がない」であり、「修復する」「改善する」「改心する」の意味もあります。ここからは、最初から完全なのではなく、失敗しても諦めず悔い改めて、やがて欠けの無い状態へと成長していくことが窺えます。

 

真の聖書福音は行いで示してこそ、真に聞いたと言えます。行いで示せる(神の律法、掟、戒めの遵守)のは、神への愛があるからです(ヨハネの手紙一 二章五節参照)。つまりは、一番目に神への愛があるということです。行いとは実に雄弁なのだと思います。

 

神のお招きにあずかったのなら、半端な信仰しか持っていない者のようにではなく、「行いを伴った信心深さ」 を持っている者として不足のないように全う出来たら幸いです。「持っている者」と「持っていない者」との違い、明暗を分けるものは、神の問い(試し)に応えるために、自分自身を用いて、神と兄弟と隣人を愛し、品性を整え、知性を磨き、能力等を活かし、時間と機会を有効に使うことであり、言わば、天に宝を積み、天において富むことであると考えます。また、「与えられる」「奪われる」のは「良き報い(神の国、永遠の命、喜び等)」であり、言わば、神との繋がり、神と永遠に共に居させていただくことと考えます。すべてを終えた後に、喜びにあずかれたのなら幸いです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「神の軛の許に」と題して、繰り返される巧妙な世の惑わし(反キリスト行為への誘い、獣の刻印を押される等)に屈せず、神の律法、掟、戒めによって自分を律して、神の王国に入る神の民として相応しくあるについて述べて参ります。

 

<自覚無き反キリスト行為>

コロナ犯罪に飽き足らず、最近はこちら(日テレNEWS)のとおり「はしか」の流行が喧伝されております。相変わらず『予防接種が最も有効な予防法』と言っておりますが、確認されている罹患者は太陽暦三月二十二日時点で十九人(参照:日テレNEWS )という状況です。一体、何を騒ぐ必要があるのか、全く理解出来ません。こちら(prettyworld)にあるとおり、「はしかウイルス」なるものは存在しません。他の「ウイルス」も同様です。「ウイルス」は詐欺であることを知っておれば、何ら恐れる必要が無いとわかるはずです。由々しきことに、『問い合わせ急増もワクチン不足(参照:東海テレビ』との報道があり、こういった煽りに今回も乗せられている方が一定数いるようです。コロナ犯罪を認識せず、学ばず、相変わらずワクチン信仰(偶像崇拝)が盛んなのは嘆かわしい限りです。彼らは、世の権威が与える情報を「正しい」と看做し、「ウイルス」を恐れ続けます。そのような状況では、これからも起こされる偽感染症騒動の度に怯え続け、揺り動かされ、誤った行動を取り続けるでしょう。

 

こちらの動画(ビットシュート)では、どんな天才的な頭脳があっても『ストレスを抱えると機能しなくなるか、多くの力を失ってしまいます。(略)私達は極度のストレスに見舞われると、落ち着いて、座って誰かと話している場合に対し、脳と神経系の機能が完全に変化します。最終的に体が試みるのは、私たちを生かし続けることです。従って、脳の最も新しい部分から資源を奪い、戦うか、逃げることができるように、脚あるいは腕のような主な筋肉群がそれらを送るのです。人々はこれを「闘争・逃避反応」として知っています』と言っております。「闘争・逃避反応」について、こちら(ウィキペディア)によると『通常は発揮できない怪力を発揮できる反面、緊急時に使用しない内臓への血流が絞られたり判断力が低下したりするため、長期的にストレスを受けると体や精神に悪影響が出る。』とあります。判断力の低下により誤った判断を下してしまうことや、精神の不安定さをもたらすのは大きな問題です。それでは支配層の手の上で転がされるだけです。また、こちら(ビットシュート)によると、各国で都市封鎖や諸々のコロナ対策等の悪影響で子供のうつ病、自殺率の増加、更にワクチン接種で心筋炎や神経障害が認められているそうです。子供を守るべき親たちが却って、子供に虐待をしていると指摘されております。『当局は、健康イデオロギーを口実にし、子供を虐待する立場に、親たちを置きました。ですから認知的不協和に陥りました。では、認知的不協和とは何なのか。簡単に言えば、精神的な分離であり、その行動に気づかずに実行する能力のことです。一種の催眠状態のようなものです。したがって、親たちに催眠術をかけ、結果として。彼らは子供を虐待しました。(略)こういうことは偶然ではできません。意図的に行われています。』との内容から、「ウイルス(嘘)」に怯え、ワクチン信仰(偶像崇拝)から、世の権威が勧めるがままに悪しき行為を無自覚に行っていることが分かります。聖書の知識に基づく善悪の判断が出来なければ、悪しき者が支配するこの世の実態を認識しなければ、容易に嘘に絡め取られ、騙されるのだと思います。全ては無自覚なまま、支配層に惑わされ、生け贄行為をし、律法違犯をしていることに問題があります。その結果の一つとして『ニュージーランド人の4人に1人が、この1年で真剣に自殺あるいは自傷行為を考えたと報告しました。我が国の若者(18歳から34歳)の40%も、やはり昨年、自殺あるいは自傷行為を真剣に検討したと述べています。』という無惨な報告があります。これからますます悪化していくでしょう。日本でもワクチン接種者が心身の不調で休暇を繰り返す人が増えてきているそうです。また、うつ症状、怒りっぽいなど、精神に影響が出始めている例も聞かれます。こちら(ビットシュート)の動画でも、ワクチン接種により、スパイクタンパク質が脳の炎症を増大させ、『精神の免疫系を機能低下させる』とのあります。こちら(アメブロ)のブログでも、話がまともに通じない人々が増えてきていると書かれております。『確実に脳に問題が起こっている 私はそう感じるのです。』とまで書いており、ブログ主の日々の業務の光景から、明らかに人々(ワクチン接種者)が壊れてきていると判断せざるを得ない状況があるのだともいます。ワクチンによって遺伝子を改変され、悪霊とも繋がる危険があることを考えれば、そのとおりのことが起きているのかもしれません。

 

 

真の聖書福音と預言「デカポリスでの悪霊追い出し」にて、悪霊が人間に取り憑き、自傷行為等を行うことについて言及しております。手前は、記事を拝読し『悪魔は初めから人殺し』であることを、憑依した相手に対する加害行為から再認識しました。『人間には理性があり、そう簡単には自殺にまで踏み切れず、傷害という程度に止まることが多い。』の言葉から、先の動画にある自殺や自傷行為を考えた人たちのことが思い起こされました。記事の中で摂食障害の女性の事例が載っておりますが、薬を服用したことで『悪い薬こそが悪霊憑きの助け、入口になったと言えよう』とあり、精神状態が低下したワクチン接種者が精神科等を受診すれば更に悪化していくことでしょう。そして、記事の「五」の箇所にて、『悪霊にとって神に不従順な異邦人(異教徒)が多く住むデカポリス地方は居心地が良い』の箇所から、手前は「割れ窓理論」(参照:ウィキペディア)を思い出しました。建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」という標となり、犯罪を起こしやすい環境を作ってしまうそうです。不従順な異邦人(異教徒)が多いデカポリスでは律法違犯(不義)が咎められることがなく、むしろ助長する環境はまさに悪霊にとって居心地が良いと思います。それは、まさしく今のこの世の有り様そのままです。一体どれほどに悪霊が闊歩していることかと思います。また、人々も聖書を読まず、知っていたとしても律法を守らず、サタンにとっては隙だらけの人間に付け入るのは非常に容易であろうと思います。ほとんどの人々は陥落させられた状態ではないかと思います。

 

ワクチンに限らず、支配層は様々な「騒動」を演出するでしょう。主イエスの終末預言にも地震や悪疫、飢饉等が予告されておりますが、そのような時、人は思考停止するのだと思います。世の真相に無知であるほどに、また、不信仰であるほどに真の備えは出来ないと思います。考えずとも動けるように(誤った行為をしないように)「染み付いた生き方」を持ち合わせることが大事なのではないかと思います。そうでなければ、支配層の考える「解決策(ワクチン接種、改憲等)」に乗せられ、滅びに至るだけです。正しく生きるためには心の律(神の律法、掟、戒め)が不可欠です。

 

<無自覚に獣の刻印を受けないように>

世の終わりが近づくほどに、神に従うか、悪に従うかのふるいが激しくなります。『神の掟や律法に反して、人間であるローマ教皇の秩序や各国の定める法律等に従う人間は、獣の刻印を押されます。(引用:真の聖書福音と預言「同性愛、同性婚と獣の刻印」)』、『なお、物質的な問題のみやのうて、獣の刻印は霊的な刻印である故、ワクチン接種を拒絶するだけや超人間主義(トランスヒューマニズム)の機械化を拒絶するだけでは不足であり、信仰が無いのなら結果的には滅びる。主イエスの信仰を持たず、神の律法、掟、戒めを死守せえへん者、自分の命さえ主イエスのためや福音のために惜しむようではあかん(マルコ八章三十五節参照)。(引用:キリスト道「コロナ問題」』とあるように、獣の刻印は、物理的なものではなく、反キリストに従うことで押される霊的な刻印です。だから、真理を知らない不信仰の状態では無自覚に押されることでしょう。また、真の聖書福音と預言「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」の記事では『そうやって世に合わせて神に従わない人は、いずれ獣の刻印を受けるでしょう。何故あんたは神の律法、掟、戒めよりも世俗のことを優先させようとするのか。それはあんたに神への愛が無いからです。神とサタンのどちらに従うのかと二択しかないのに、多くの人々は保身のことばかり考え、世に従うことでこの世の支配者であるサタンに間接的に従い、悪魔崇拝者の人間たちが作り上げている秩序に従うことで恩恵を受けようと思っています。』と指摘しており、これまでの生き方を改められず、臆病であっては滅びに至るだけです。中には「皆がそうしていないから」という理由で悔い改めない人もいるでしょう。そんな人は、神よりも世俗の基準や人目を上位に置いていることをまず自覚するべきです。

 

画像引用:https://x.com/BABYLONBU5TER/status/1757165866192670785

 

世俗にどっぷりと浸かると、目にするこの世界(世俗)が全てだと思うのは当然かもしれません。しかし、世俗社会の違和感を覚え、矛盾に気付き、支配層の悪行を認識するなら、聖書を読み、それらに共通する反キリストの姿があると理解するべきです。更に聖書を詳細に読めば、実際の歴史、預言と世の動きから、聖書のとおりに世の事が進んでいて、聖書が真理であると分かると思います。気付きの仕方や時機は人それぞれだと思いますが、聖書だけが真理を教えてくれます。上記の画像の投稿者は残念ながらキリスト者ではないようですが、聖書によって物事を俯瞰視する構図は同じだと思います。

 

ところで、獣の刻印の説明で先に引用した記事(「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」)では、和服の説明も詳細にされております。『衣服は支配の道具になるし、人が属している所を表している』と言われておりますが、洋服を着ているならば、ご自身の服装をまず改めるべきです。目に見えない部分だけでなく、目に見える部分も非常に重要です。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12828428142.html

 

服装について言えば、手前はマタイによる福音書二十二章の婚宴の場面が思い浮かびます。

 

マタイによる福音書二十二章十一節から十三節(参照)

王が来客に会いに来ると、そこに婚礼服を着ていない男がいるのが見えた。王は彼に言った。「友よ、どうしてあなたは婚礼服を着ないで入ってきたのか。」彼は何も言わなかった。そこで王は家臣たちに言った。「手足を縛って連れ出し、外の暗闇に放り込みなさい」。そこで泣き叫び、歯ぎしりするだろう。

 

「子羊の婚礼(ヨハネの黙示録十九章七節参照)」を例にすれば、婚礼は花婿である主イエスと花嫁である真のキリスト者が一緒になる(永遠の命を与えられる)特別な状況の比喩でもあります。真の聖書福音と預言「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」の記事での説明にもあるとおり、服装は実際の服装でもあり、行いでもあります。神が「異国の服を着るすべての者を罰する(ゼファニヤ書一章八節参照)」と言われているにも拘らず、また、ヨハネの黙示録六章十一節にある「白い衣」に相応しなければ放り出されるのは当然であると思います。

和服を着ることについて、恥を忍んで申し上げれば、手前も最初は「わざわざ和服を着るのは大変だ」「人から何と言われるだろうか」などと思ってしまったことがあります。自分にとって不都合だと思うと、「例外は無いのか」「実は違う解釈があるのではないか」と邪な思いが湧いてくることも経験しました。「ありのまま」の自分はかくも浅ましく、どうしようもない存在です。明確に神が聖書で示されているにも拘らず、それを人間ごときが、しかも自分に不都合という勝手極まりない考えで神の御命令に反抗してしまうことに、人間の罪深さを感じずにはいられません。「反抗しよう」の気持ちが先立つのではなく、保身が先にあって、それを貫こうとして反抗に至ります。だから、自己愛はよくよく改めなければならない性質です。これらがより小さい内に、出来るだけ早い内に打ち破るのが良いと思います。肥大した自己愛となっては手の施しようが無くなることも有り得ると思います。「あんな思いに駆られた事が恐ろしい」と思えたのなら幸いです。従わなくて良い例外を探してしまう誘惑は折々に遭うと思います。安息日一つにしても、「これだけはどうしても」と思うようなことは信仰に入ってからも起こり得ます。より誘惑に合わないためにも生活を整える必要があり、自分の内側に余計な火種(思い)と燃料(世俗の関係)を抱えないこと、つまりは自分を捨てる事が不可欠だと思います。

 

こちらの記事(BrainDead World)にて、『創業130年のオーストラリアの銀行がオンラインに移行するとして突然「全支店を閉鎖」』したとの情報がありました。記事によると各支店の毎日平均の店頭取引は十五件しか行われていないようで、全体の九割以上はネットで取引が行われているそうです。元々、こちら(GIZMODO)のように『オーストラリア、2019年7月から82万円以上は現金決済禁止』となっており、また、こちら(NICHIGO PRESS)では『オーストラリアで現金決済の割合13%まで低下』との状況があり、近い将来、現金を廃止して中央銀行電子通貨に切り替えるための布石の一環と思われます。当然ながら、唐突な支店閉鎖に多くの顧客から怒りの声が上がり、『顧客のこの圧倒的な感情は、職を失う可能性のある従業員、デジタルバンキングの使い方を知らないかもしれない高齢者への懸念、そして移行がどのように機能するかについての明確さの欠如に対する認識だった。』との内容はもっともだと思いました。日本では近年、店舗を持たないネット銀行が増え、店舗があっても「ネットバンキング」取引を推奨したり、通帳を廃止して現金札(キャッシュカード)とネット上で取引するやり方が普及してきております(参照:りそなグループ)。豪州の流れを踏まえると、日本のこれらの動きも現金廃止に向けた布石の可能性があります。電子決済もそうですが急速に普及してくるものには悪い目的があると疑ってかからないといけません。これらについてはミカエル氏が以下のように警告されているとおりです。

NWO支配層は、人間にマイクロチップ等を埋め込み、現金を廃止しようとしています。なぜなら、上記のように電子仮想通貨ですべて決済しようとしているからです。現金は自由度が高く、誰かに譲渡するのも容易ですし、店舗で買い物する場合は誰が何を買ったかの記録は残りませんし、タンス預金であれば政府や銀行なんかに個人財産を知られずに済むからです。しかし、NWO支配層はそれを嫌い、徹底的に人間の資産状況を把握して監視し、電子通貨決済、クレジットカード決済、ネット通販等の場合は誰がいつ何を買ったかをすべて記録され、彼らが認証した人間しか生きられないようにするつもりだからです。過去記事「迫り来る暗黒の新世界秩序(NWO)と意識改革」で警告したとおりになりました。電子化、キャッシュレス等が彼らの方針なのです。だから、現金主義者が比較的多い日本では、政府や官僚らはこれを厭い、日本国民に現金を手放させ、電子化したキャッシュレスに無理やり移行させるために還元割引という餌や時代の最先端等と格好良い謳い文句で印象操作をして誘導しています。それにほいほい釣られているのは愚民だけです。災害時に停電となって、電子通貨なんかがまったく使い物にならなかったという知らせも記憶に新しいです。地震が多くてそれで停電した場合、日本で電子通貨のみとなったら、非常に困ることになるのは目に見えています。ですから、何でも電気製品に頼ってばかりいるのは愚かです。電子通貨は実体が無く、他人に施そうとしても譲渡出来ず、乗っ取りの被害に遭い易く、データを消されたり、不具合という建前で消えたら一瞬にして全財産が消失することも起こり得るし、電気が無いと使えない上、現金とは異なって電子通貨は現物が手元に無く自分たちに処分権が無いのが致命的な欠陥です。もし電子仮想通貨が世界統一通貨となり、新世界秩序に逆らうような行動を取ったら強制的に仮想通貨残高が減らされたり、取り上げられたり、使用停止させられるのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「コロナ茶番を契機に目覚めよ」

現金の廃止、即ち、電子通貨制は人々を支配し、奴隷化する制度でしかありません。現在、国内どこでも無人精算機が導入され、また、コンビニや食料品店のみならず、行政機関もこぞって電子決済を導入し始めている動きを警戒するべきです。全てはヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印に向かって直走っております。

 

関連して、こちら(さてはてメモ帳)に恐るべき警告記事があり以下、引用いたします

多くの銀行が債務超過の危機に瀕している。 

 

「政府と銀行カルテルが意図的に経済を破壊しようとしているのではないかと疑っているのなら、それは彼らがそうしているからであり-あるいは、少なくとも、崩壊しても気にしない。この計画は、最終的にあなたの資産が突然消失するほどの危機を引き起こし、SIPCの保険プログラムを発動させ、加盟銀行の口座を持っているすべての個人に最大50万ドルを返還させるというものだ。

 

この保険はドルでは返されない。ドルでの返還は不可能だからだ。その代わり、中央銀行のデジタル通貨という新しい通貨が発行され、保険金がかけられた貯蓄はその通貨で返還される。他の唯一の選択肢は、すべてを失うことだ。だから、どんな取引であれ、誰もがその取引に応じて列をなすと、私たちは確信できると思う。」

 

引用:さてはてメモ帳 

銀行が破綻しても『加盟銀行の口座を持っているすべての個人に最大50万ドルを返還』されるとなれば、『どんな取引であれ、誰もがその取引に応じる』事態が引き起こされるのは容易に想像がつきます。それを機に「中央銀行電子通貨に切り替える」予定でいるのは、実に狡猾なやり口だと思いました。これまでの生活を捨てるか、否かの究極の選択です。今の生活環境や社会的地位を手放したくない、家族を養わなくてはならない、負債がある等の事情により、財産を手放す決断が出来ないという思いが優り、多くの人々が躓くことになると思います。

 

更に関連して、こちら(CNET Japan)の記事で、河野大臣が個人番号券と運転免許証の一体化を二千二十四年度中に開始するとXに投稿したそうです。これまでにもそのような情報がありましたが、本格化しそうな気配です。太陽暦二千二十三年八月のこちらの記事(くるまのニュース)では、『運転免許証とマイナンバーカードを一体化した場合でも、運転免許証の返納は任意であり、運転免許証とマイナンバーカードの2枚持ちが可能になる予定です。そのため、運転免許証が全く利用できなくなるワケではありません。』と書いてありましたが、健康保険証と同様に、一方的に元の運転免許証を無効にするのが目に見えております。また、冒頭の記事には『32の国家資格や免許を順次デジタル化する』ともありますが、わざわざ「デジタル資格証」にする必然性がどこにあるのか不明確です。こちらについても、やがて紙の資格証は無効とされるのではないかと思いました。個人番号券を取得しないと、まともな社会生活を送れなくなりそうです。しかし、どのみち取得したとて、やがて信用得点制度等により不自由を強いられるのも避けられません。個人番号券に中央銀行電子通貨や健康保険、運転免許証、その他社会生活に必要な多くの「証明」の類が一本化され、それが無いと生活が出来なくなる様相は、先にも言及したとおり、ヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印そのものです。

 

ヨハネの黙示録十三章八節、十五節から十七節(兄弟共同検討訳)

そして、地上に住む者は皆、この獣を拝むであろう。彼らの名前は世の創始から屠られた子羊の命の書に記されていない。

そして、第二の獣は獣の像がものを言い、獣の像を拝まない者は誰でも殺させるために、獣の像に霊を与えることを許された。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しいにも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。さらに、もしこの刻印か、あの獣の名か、その名の数字を持たなければ、誰も買うことも売ることもできないためである。

 

「生活のためにやむを得ない」とマイクロチップ(電子刺青の可能性有り)を受け入れれば、反キリストへの恭順と看做され、獣の刻印が押されるでしょう。それが無いと売買出来なくなることから、究極の二者択一の場面です。

 

個人的な話ですが、過去に、安息日を完全に遵守するには会社勤めをやめるしか方法がありませんでした。しかし、借金も抱えていたため、容易ではなく「完全に安息日を守れなかったとしても、生活のためにはやむを得ない」との自己弁護が次から次へと湧いてきました。しかし、律法の規定に照らして合法か否かを判断すれば、間違いなく違犯です。これが更に強力な踏み絵となって迫るのが、獣の刻印を受けないと売買出来ない事態です。かつて「生活のためにやむを得ない」との誘惑を振り払った時以上の神への愛と確固たる信仰を持って、神への忠実を示す場面が間違いなくやってきます。決して臆病にならず、間違った選択をしないようにしなければなりません。臆病とは実に厄介だと思います。誰だって我が身を可愛がるのが人としての本能であると思います。しかし、真の善悪の基準を知り、神と真理を愛し、それに抗い、打ち勝つ必要があります。手前は、しばしばそんな場面が訪れた時のことを想像します。口だけなら、思い描くだけなら、何とでも言えるのですが、これを実行するとなると別問題です。

 

ところで、咄嗟に思いもしない一言を口にしたことはないでしょうか。使徒ペトロの鶏が泣くまでに主イエスを「知らない」と三度言う場面が有名です。手前も、改心してからですが、ある場面で自分でも驚くくらいの口汚い言葉が出てしまった時があり、非常に強い自己嫌悪を感じた事がありました。自己嫌悪とはかなり辛い感情です。自分で自分を許せない思いは容易に消えず、自己卑下も生じ、自暴自棄にすらなりかねません。要は、自分の品性として、まだまだ改まっていなかったと思い知りました。咄嗟に出た一言が、自分の程度を表しているのだと思います。無意識の部分も含め、骨の髄まで全てを改めなければならないのだと思いました。純度を高める過程は命懸けと言っても過言ではないと思います。自分の人生において、本気の場面を探ると幾つか思い当たる事があります。しかし、その全てを足したとしても、まだ足りないくらいの本気を費やさねばならないと感じます。平素の気構えは当然のこととして、『あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。これが最も重要で大切な掟や。(マタイによる福音書二十二章三十七節:引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)』の言葉は伊達ではありません。

 

総じて、獣の刻印をはねつけるには、無意識下においてさえも自己愛を残さないほどに、意識せずとも神にのみ従っている状態がある程の隙の無さが不可欠と考えます。品性が改まるとは、簡単なことではありません。世俗と親しんだ時以上の神との関係の深まりが不可欠だと思います。

 

<性質の改善>

神との深い関係は、洗礼に始まり、心の割礼によって展開していくと思います。

 

エレミヤ書九章二十五節から二十六節(参照)

主の託宣。見よ、時が来る。我は包皮に割礼を受けた全ての者に罰を下す。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子たち、モアブ、荒れ野に住む全ての(髭の)端を切り取られた者たちに対して。全ての民が無割礼で、イスラエルの全ての家が心に割礼の無い者たちだからだ。

 

エレミヤ書31章やヘブライ書8章と10章にもあるとおり、主イエスが仲介者の新しい契約は心に律法が記されるのです。それこそ聖霊によって心に受ける割礼です。だから、キリスト者と自称しながら律法を無視して逆らう人は、主イエスが仲介者となっている新しい契約を結んでいない滅びゆく悪魔の子でしかないのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「神の律法と真理に逆らう人々は滅びる」

引用の説明のとおり、エレミヤ書三十一章三十三節、ヘブライ人への手紙八章十節・十章十六節には心に律法を記すと書いており、それは主イエスとの新しい契約、心の割礼です。かつて議論したことのある律法廃止論者(パウロ教徒)は、ヘブライ人への手紙十章を断片的に引用して、尚も律法廃止を抗弁しておりました。しかし、十章全体を見れば分かるように、そのような捉え方は決定的に矛盾するので有り得ない解釈です。律法は制定者である神、主イエスによって更新されたのであって、主イエスの御宣言どおりに廃止されておりません。エレミヤ書九章二十六節には心に割礼が無ければ罰を下すとあるとおりです。

新約聖書 使徒言行録 五章二十九節(拙訳)

しかし、ペトロと使徒たちは答えて言うた。「人間よりも神に従わなあかん。」

 

世の自称キリスト者どもは、上記のような十二使徒たちと同じ意志は持ってへんやろ。この世に属し、政府や報道各社や不信仰の世俗的な人の指示や言うことを盲信して従い、西洋かぶれし、この世と世にあるものを愛し、自己愛が強く、自分を捨てず、隣人愛の欠片も無いやろ。なぜなら、心に割礼を受けず、主イエスとの新しい契約を結んでへんからや。神の律法を無視する信条や生き方がそれを証明しとる。口先でどうのこうの言うても無駄。行いがすべてを表す。熱心に悔い改めい。イエスの信仰を持ち、神の律法を守る生き方をしてようやく新しい契約を結んだかどうかが分かる。それも一時的にやるだけですぐにやめるとか、長続きせんとかもあかんし、死ぬまで保つ必要がある。これで分かったであろう、永遠の命に至るキリスト道が如何に狭い門で狭苦しい道かを。

 

引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 六」

イエスの信仰を持ち、神の律法を守る生き方をしてようやく新しい契約を結んだかどうかが分かる。』の言葉がとても重要で、自らの行いが自らの内側にあるものを表します。

その上で、「品性の向上」に繋がることが肝心です。手前自身、まだまだ途上ですが、基本に忠実にひたすら継続していくのが近道だと思っております。

したい人、10000人。

始める人、100人。

続ける人、1人。

 

引用:就活失敗した元慶應生がコンサル業界に転職した物語

上記は、ある図書の中の言葉ですが、なかなかの金言だと思いました。キリスト道も同様だと思います。「こうしたいな」と願望を口にしているだけでは現実に直面することもなく、ある意味、楽です。始めると実際には大変で、葛藤が生じます。かつて真のキリスト者を目指して歩み始めた当初の自分を振り返ると、やる気に燃えて気分が高揚していたと思います。しかし、数日、数週経つと現実との葛藤に苛まれて「辛い」と口にしていたように思います。世俗と葛藤があると分かって進んだ道なので、ある意味、順調な展開だったと思います。葛藤の度に「その上で、どうするか」の連続だったと思います。そこを通り抜けなければ変化は起きません。

心が変われば行動が変わる

行動が変われば習慣が変わる

習慣が変われば人格が変わる

人格が変われば運命が変わる

 

ウィリアム・ジェイムズ(心理学者、哲学者)

 

引用:就活失敗した元慶應生がコンサル業界に転職した物語

上記は比較的知られた格言だと思います。(部分的にではありますが)自分の経験と照らしてもそのとおりだと思います。行動、習慣、人格(品性)に連鎖して変化を及ぼしたと思います。

 

ところで、以下のような投稿を目にして、とても興味深く拝見しました。

画像引用:https://x.com/valentine_promo/status/1767536052221378597

発端となったのは、へずまさんの12日のX投稿だ。「へずまりゅうが理由で焼肉屋を出禁」になったとし、「今は誰にも迷惑を掛けていません」「せっかく更生したいのにこれなら迷惑系で嫌われた方がいいのかなって思うわ。本当に苦しい」などと嘆いていた。

 

細川さんは同日にXで、へずまさんの投稿を引用リポスト。「あたりまえや 人間が変わった瞬間から過去の悪事が、帳消しになるならば、ルールを守る必要なんてないんだよ」と糾弾し、「更生=どんな状況でも、変わった自分を永遠に見せ続けて行くだよ」(原文ママ)と述べた。

へずまさんについて、「こいつは、今の状況を自業自得と捉えられない事、悪い偏見の中でもプラスの自分を見せ続けよう!と思えない人間なのだから、他の善良市民のように扱う必要は一切ねーよね まじめに生きてる奴が、損する社会にしてたまるかよ」と改めて非難した。

 

引用:J-CASTニュース

いわゆる「迷惑系ユーチューバー」である「へずまりゅう氏」に対する「細川バレンタイン氏」の叱責です。言っている内容が至極真っ当で、正論です。「へずまりゅう氏」の泣き言も自業自得でしかなく、おそらく見ているほとんどの人は「細川バレンタイン氏」の叱責の内容に共感したため、非常に多くの人の目に触れたと思われます。手前はこの中の『どんな状況でも、変わった自分を永遠に見せ続けて行く』の言葉がキリスト者の生き方にもそのまま当てはまると思いました。罪を犯さない人は主イエス以外には誰一人おらず、キリスト者は自分の罪に絶望し、主イエスと新しい契約を結び、生きていきます。主イエスは「これ以上、罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書八章十一節参照)」「悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節、五節参照)」と言われており、まさしく『どんな状況でも、変わった自分を永遠に見せ続けて行く』ことそのものです。このことをパウロ教信者はどう考えるでしょうか。何ら悔い改めることなく、罪深いままで神の王国に入られると思うのでしょうか。神と共に永遠に過ごすに値するために、どれほど励んでいるでしょうか。ただただ、偽福音(福音の三要素)に縋り、神にとっての重荷にしかならないようでは話になりません。

画像引用:https://x.com/asaoka_akiko/status/1767892943191601206

 

こちらは岸田総理の国会答弁です。少子化対策関連法案(いわゆる「支援金制度」)、地方自治法改悪、食料・農業・農村基本法改悪、次期戦闘機の第三国輸出解禁など、ここ数ヶ月だけでも非常に重要な内容を閣議決定し、もはや独裁状態です。『国会無視であるとは考えていない』と自称した所で、やっている事が国会無視でしかありません。盗人猛々しいとはまさにこのことです。人治主義の悪徳政府が好き勝手なことを行い、腐った与野党もろくに糾弾せず、法曹関係者も国民も声を上げるでもなく、逃げ果せたように見えたとしても、この悪事は神によって必ずや裁かれます。

収賄罪の発覚した代議士が、あれは秘書のしたことでと言い抜けようとするとき、彼には外をどう言いくるめるか以外には念頭になく、自分で自分を裁く心の律などまったく作動していないことが明らかだ。そして最近とくに目立つこの、政治家や高級官僚、銀行や証券会社のトップなど、世にいわゆるエグゼクティブたちの違法行為がバレたときの言動を見ると、そこにはつねに対外的配慮ばかりがあって、ひとつとしてこれはみごとといえるものはないのは、やはりふだんからこの矜持の念が作動していないからであろう。

(略)

それがあるかないかは、人のふるまいに天と地ほどのちがいを生むのであって、美しい行動は自己に対する要求の高いところからしか生じないのだ。

 

引用:「生き方の美学」 著:中野孝次 発行:文藝春秋

二十年以上前に発行された図書からの引用ですが、今でも同じことが繰り返されております。『自分で自分を裁く心の律などまったく作動していない』とはそのとおりで、自民党の裏金議員らを見ると、まさに「今だけ、金だけ、自分だけ」を地でいく、獣のような振る舞いです。真の矜持は、真っ直ぐな道(神の律法、掟、戒め)の遵守によって与えられ、律法の字の如く、神の法によって自らを律し、『美しい行動は自己に対する要求の高いところからしか生じない』と手前も思います。少なくとも、利益信仰やパウロ教徒のように主イエスにただぶら下がるだけで何もしないようでは、醜く堕落するだけです。

 

マタイによる福音書十一章二十八節から三十節(参照)(二十九節引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」

全て疲れた者たち、重荷を負う者たちは、我の許に来なさい。我はお前たちを休ませてあげよう。

我は優しさであり、謙虚やさかい、あんた方は我が軛を担い、我から学びなはれ。そうすれば、あんた方はあんた方の魂に安らぎを得るであろう。

我が軛は負い易く、我が荷は軽いからである。

 

かつて地上の教会の通い始めた時、上記の聖句に慰めを欲して、好んで読んでおりました。この世の価値観では自分が無価値に思えてならず、ずっと不安と恐れに支配されていたためです。これらから解放されたのは真のキリスト者として真の知識を得て、自分の信念が確固となってからです。真の聖書福音を知らずしては、この箇所の意味を本当の意味で知ることは出来ないと手前は思います。上記の箇所についてはミカエル氏が以下のように解説されております。

主イエスは、「我は優しさであり、謙虚やさかい、あんた方は我が軛を担い、我から学びなはれ。そうすれば、あんた方はあんた方の魂に安らぎを得るであろう。」(マタイ十一章二十九節拙訳)と教えはり、律法遵守する模範を見せはった主イエスから学び、その軛を担えと言わはったし、それに従えば魂に安らぎを得るともある。注意してもらいたいんは、肉体的に安らぐのではないという点。誰が肉体的、物理的に楽をすることを言うたのか。主イエスは言わはらへんかったで。そもそも、悪い者が支配するこの世で生きる上で、人間があらゆる労苦や軛を一切負わへんなんてことは有り得へんし、律法を守らずに罪を犯し続けてると魂に安らぎが得られへんのや。拙者が今までずっと宣べ伝えてきたとおり、律法は軛やないし、法は秩序維持のためにも必要であり必須なもの。

 

引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」

まず、地上での生涯(この世)は仮初でしかありません。この天地はやがて終わりを迎え、その時は近いです。人々は「この世で優れた者でなければならない」、そうではなくても、「世間(社会)に認められる人生を送らなければいけない」と刷り込まれます。具体的には良い学校に入り、良い所に就職して、社会的地位を得て、たくさん稼いで、結婚して、子を育て、幸せな家庭を築いて、老後も安定して・・・というようにです。その流れから外れる者は落伍者と看做されます。これら一つ一つの価値観を見ると空しさばかりが募ります。神の目には何ら評価されないからです。少しでも良い地位を得るのに報われない多くの苦痛を味わうことになります。会社勤めをしていると、会社(業界)の常識は社会の非常識とばかりに「こんなことをしていて良いのだろうか」と思うようなことがあります。しかし、皆、思考停止して機械(ロボット)にならなければ、とてもではないけれど働けません。不法まがいのことでも「組織のため」と正当化され、地位が上がるほどに給与とは不釣り合いな「苦行」が待ち構えております。多くの人が「生活のため、食っていかねばならない」「借金」があるからと、歯車の一部から離脱出来ずに苦しみます。ハムスターが回し車の中をせっせと走るのと大して変わらず、無駄な骨折りでしかありません。

真理を教わる機会がなく、そんな洗脳の中に人々は生きております。人生を終え、眠りにつき、やがて肉体を伴って意識を持って復活する時は、神の裁きを受ける時です。もしかするとその時に、人生の意味や本物の神について思い知るのかもしれません。「生きていた時に聖書について、知る機会があったのに何故、ずっと無関心でいたのか」と後悔する人がほとんどなのではないでしょうか。「キリスト者」であっても神の律法、掟、戒めを守らずにいた者は主イエスによって拒絶される(マタイによる福音書七章二十一節から二十三節参照)でしょう。また、金持ちとラザロの話(ルカによる福音書十六章十九節から三十一節参照)もそのような死後の後悔の教訓として受け止めるべきです。

 

話をマタイによる福音書十一章二十八節から三十節に戻しますが、この箇所は律法を遵守することで魂に平安が与えられるということです。手前が感じたような「この世での重荷」については、聖書真理に則って生き方を改めればある程度は解決出来るものと思います。その上で、この箇所の言わんとしていることを深く探るべく原語を見ていきます。

 

まず、マタイによる福音書十一章二十八節です。「κοπιάω(疲れた者たち)」には、「骨を折って働く」「非常に疲れる」の意味があります。この原語が使われている他の箇所を見ても、何に対しての骨折りであるかまでは限定されていないように見受けます。かつての手前のように世俗の仕事等にのめり込み、疲弊している状態も該当しうるのではないかと思います。ただ競争や利益を上げることに明け暮れて「何のためにやっているのか、意味が分からない」という状況や生活のためにと言って奴隷のように働く状況も該当するかもしれません。次に「φορτίζω(重荷を負う者たち)」は、「(問題などを)いっぱい抱えた」の意味の他、比喩的に「(根拠の無い教え等の)負担を負わせること」の意味もありました。マタイによる福音書十五章ではファリサイ派の人々、律法学者たちが守っている「昔の人の言い伝え」に対して、主イエスが叱責している場面があります。同二十三章四節ではそれらを「重荷」とも言われております。そして、「ἀναπαύω(休ませる)」には、「休息」の他に「解放する」「(情報を)更新する」の意味がありました。「解放」についてはヨハネの黙示録六章十一節、十四章十三節にて同じ原語が使われており、神への忠実によって地上で命を失っても、その忍耐が報われるといった文脈で使われております「(情報を)更新する」は、決して主だった意味ではないのですが、「お前たちは何と浅はかなのか。外から人の中へ入るものすべて、その者を汚さない事が分からないのか。(マルコによる福音書七章十八節参照)」を例に、律法の食物規定が更新されたことや、先にも挙げたように律法学者らの偽善を弾劾したことも含めて、正しい教えをお示しくださったことから、「更新する」と捉えても十分に通じると思います。

二十九節の「ζυγός(軛)」について、軛(くびき)自体は農耕用の牛馬の首にかけ連結する横木です。自由を束縛するものの意味もあります。原語を見ると「法や義務に服す」「天秤の梁(はり)」、他にも「絆」「釣り合う」といった肯定的な意味合いが見て取れます。聖書では確かに「軛」は否定的な意味合いで使われることが多いですが、『我が軛を担い、我から学びなはれ』と言われていることから、「キリストの軛」でもあり、神と釣り合う状態が何を指すかと考えれば、神の律法、掟、戒めを守り、神の目に適う状態と考えるのが自然です。詩編百十九編には律法遵守について、律法を愛する思いが綴られております。「あなたの掟全てを尊ぶ時、我は恥入ることがない。(詩編百十九編六節参照)」「若者はどこで自分の道を清められるか。 あなたの言葉に従って守ることによって。(詩編百十九編九節参照)」などからも、律法を守れと言われた(マタイによる福音書二十三章三節参照)主イエスの御言葉との調和があります。

三十節の「χρηστός(負い易い)」には「易しい」の他、「(善悪の判断について)役に立つ、有益」「人格形成に役立つ」「慈悲深い」などを意味がありました。これらの意味も一つ一つ見れば、神の律法(「我が軛」)は善悪の判断の基準であり、有益で、先に引用した詩編にあるように人格形成に役立つのも当然です。律法が与えられていることは、滅びの縄目からの解放という意味でも(神の)慈悲深さがあると思います。「φορτίον(荷)」について、原義には「請求書(送り状)」の意味がり、『我が荷』は、神が人に求めた契約の履行(神の律法、掟、戒め)を指していると考えられます。この原語には「重荷」の意味もあるのですが『我が荷は「軽い(ἐλαφρός)」』と言われており、言葉どおりに「少ない」「易しい(厳しくない)」の意味です。ヨハネの黙示録二章二十四節から二十五節(参照)『我はお前たちとこの女の教えを受け入れず、サタンの深みを知らないティアティラの残りの者たちに言う。我はお前たちにこれ以上の重荷を課さない。ただ、お前たちが(既に)持っているものは、我が来るまで固く守れ。』と主イエスは言われました。「βάρος(重荷)」と言われておりますが、原語には「困難」の意味がありながらも、文脈も踏まえて、不可能な命令を与えている訳ではないとの意味が窺えます。

ヨハネが言うように、神の律法、掟、戒めに従うことは難しいことではありません。ただ人間自身の肉の思いや欲が邪魔をするだけです。だから、それらを捨てることが自分を否定することになり、ようやく聖霊の導きに委ねることができます。逆を言えば、神の律法、掟、戒めに従えないのは、あんたが肉の欲と肉の思いで生きて世俗を重視しており、主イエスと聖霊の導きを拒絶して逆らっているからです。こうして悔い改めを先延ばしにし、だらだらと月日を重ね、自分では気付かぬ内に恩恵期間は終わり、定められた運命に向かって進んで行くのです。悔い改めて主イエスに従順な羊は永遠の命に入り、悔い改めず主イエスに逆らう山羊は永遠に燃える火の中に入れられます。

 

引用:真の聖書福音と預言「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 後編」

主イエスが来臨される時まで、あるいはそれ以前に命を失おうと最期まで守り通せ(ヨハネの黙示録二章十節参照)、最期まで律法を守り通した主イエスを模範として(マタイによる福音書十一章二十九節参照)ということを言われているのだと思います。つまりは、神の品性に釣り合うキリスト者であるようにということです。

 

「釣り合う(軛)」の言葉の関連を少し探っていきます。旧約で使われている「軛」の箇所の原語を外観すると、概ね「重荷」の意味で使われており、マタイによる福音書十一章二十九節の原語「軛(ζυγός)」ほどに包含された意味は確認出来ませんでした。ただ、哀歌三章二十七節から二十八節(参照)「若い時に軛を負うのは人にとって良いことだ。軛を負わされたなら黙して、独り座っておれ。」の箇所は趣が異なると見受けました。「עֹל(軛)」は文脈によっては哀歌一章十四節のように「罪(違犯)」の意味があるようですが、本箇所では「苦難」を指すようです。さながらエレミヤ自身の辿った道を彷彿とさせます。個人的には、何故「沈黙する(דָּמַם)」なのかが気になりました。原語を紐解くと「物言わぬ」「立ち止まる」「自制する(慎む)」「待ち望む」などの意味がありました。これらの言葉を見ていると、やはりエレミヤの辿った道が思い出されます。エレミヤ書一章のエレミヤの召命にあるように当初は相応しくないと神に対して断りを告げましたが、神はエレミヤを召し立てました。自分の思いには反したことだったかもしれず、その後も人々にとっては都合が悪いと感じたであろう主の言葉を勇気を持って告げ続けました。自分の思いを自制し、偽預言者のように保身のために聞こえの良い言葉(嘘)は言わず、神を信じ続けた歩みであったと思います。この言葉から自分の十字架を背負うことが想起されます。

 

マタイによる福音書十章三十八節(引用:真の聖書福音と預言【第四回】正しい聖書の底本とは

自分の十字架を担わずに我に従う者は、我に相応しない。

 

マタイによる福音書十六章二十四節(参照)

我が後に来たいのなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って、我に従え。 

 

σταυρός(十字架)」には、比喩的に「死にさらされること」「自分を否定する」の意味があり、自分の肉なる思いを捨てる、ひっくるめて「自制」「克己」が求められているのだと思います。

先の「沈黙する(דָּמַם)」の原語は詩編でも多数使われており、「おののいて罪を離れよ。横たわる時も自分の心と語り、黙しておれ。(詩編四章五節参照)」「主に向かって沈黙し、主を待ち望め。お前たちはその道で繁栄する者の故に、悪事を為す者の故に怒るな。(詩編三十七節七節)」「私の魂よ、ただ神を待ち望め。 なぜなら、我が望みは神からのものだからだ。(詩編六十二編六節参照)」など、先のとおり「自制する(慎む)」「待ち望む」の意味が見受けられます。「沈黙せよ(自制せよ、待ち望め)」と言われているのは、人は往々にして沈黙していられずに、良かれと思って余計なこと(神の意に沿わないこと)ばかりをしてしまうからではないかと思いました。

 

ところで、こちら(ライフハッカー)の記事では、フランスの数学者で哲学者のパスカルが著書『パンセ』の中で『人間の問題はすべて、部屋の中に一人で静かに座っていられないことに由来する』と語っているそうです。この記事においては、人は一人きりでじっくり物事を考えるよりは、何かしら行動したくなる傾向があり、心理学者の実験によると、十五分間を一人きりで過ごすのに耐えられなくなり、電気ショックを受ける道を選んだ人が多かったそうです。『人はただ考えるよりも行動を好む』と結論づけております。この記事自体の趣旨としては『私たち人間が情報や体験を読み解き、新たな洞察やアイデアに思い至るには、何もしない時間、空想、内省が必要』と静まり、立ち止まる重要性に言及しているのだと思います。まさに沈黙の重要性に触れており、手前も重要だと思います。外の事柄にばかり気を取られて忙しくしていては、神を思うことも、律法に照らして自己検証することも、内省も不可能だと思います。これは手前自身のキリスト者としての生活の実感とも一致します。人間が獣ではなく人間であることの証明は理性にあり、神を畏れ、自己を制御することにあると思います。放っておけば人は、自分の肉の欲の赴くままに放縦し、やがて堕落してしまうのは旧約の歴史書を見れば十分に分かると思います。自制と内観(自己検証)のためには神を思い、沈黙する時が不可欠なのだと思います。

 

<結び>

こちら(ビットシュート)の動画にて、全世界が戦争に突入しており、それは第三次世界大戦であると警告しております。日本でも憲法改悪がされようとしている寸前で、過去記事でも記したように沖縄近辺では台湾有事に備えて着々と準備が進んでおります。全ての戦争はやらせで仕組まれております。『第三次世界大戦が起これば、状況次第では数年は続き、数十億人が死ぬことになるでしょう。そして、第三次世界大戦が終結した時、世界の人々が散々な目に遭って絶望に打ちひしがれている時に救世主を装って新たな指導者として君臨するのがローマ教皇でしょう。(引用:真の聖書福音と預言「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」)』とあるとおり、「産みの苦しみの始まり」に現在は位置しております。自ずと主イエスが罪の赦しを終える恩恵期間の終わりも目前と分かります。

 

エレミヤ書五十一章六節(参照)

お前たちはバビロンの只中から逃げ出し、それぞれ自分の命(魂)を救い出せ。バビロンの悪業の故に黙らせられるな。今は主の復讐の時、バビロンに報いを与えるからである。

 

エレミヤ書五十一章四十五節(参照)

わが民よ、お前たちはバビロンの只中から出て行き、それぞれ自分の命(魂)を主の激しい憤怒から救い出せ。

   

「בָּבֶל(バビロン)」は、「バビロニアの首都」「悪と悪徳のはびこる都市」でもあり、秩序とは真逆の「混乱」を意味します。上記のエレミヤ書の箇所はヨハネの黙示録十八章に書かれているバビロンの滅亡と同じことを指していると思われ、特に黙示録十八章四節とほぼ同じ内容です。「Βαβυλών(バビロン)」には「最も腐敗した偶像崇拝の中心地であり、キリストの敵であるローマ」の意味があります。エレミヤ書五十一章六節『バビロンの悪業の故に黙らせられるな』の言葉は非常に意味深いと思います。例えば、こちら(さてはてメモ帳)によると国際保健機関の国際保健規則の改悪案では、世界保健機関(WHO)事務局長の独裁と言えるほどの権限を持ち、ワクチンを強制したり、検閲によって真実を伝えられなくする懸念があります。また、他にもこちら(メモ・独り言のblog)では律法、福音を伝え、主張すると有罪となる刑法改悪案がカナダでは協議されているようです。悪い者が支配するこの世なので反キリストが国家、社会体制、(地上の)教会等、日常生活のあちこちに蔓延っておりますが、よりそれらから距離を取り(世を捨て)、黙らずに福音を伝えねばなりません。「立ち直らせるには一度、罪を露わにする(哀歌二章十四節参照)」「ヤコブの家にその罪を告げよ(イザヤ書五十八章一節参照)」「イスラエルに罪を告げる(ミカ書三章八節参照)」などの言葉はそのためにあるのだと思います。

 

決して、自分の命を第一に考えるのでもなく、ただ真理を知った者として神を愛し、神に留まりたいと思うのは自然なことだと思います。自制し、神を待ち望み、神の民として釣り合いが取れるように、臆病にならずに励んで参りましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「永遠を決める試験がある」と題して、神の基準と神の御意志を知り、解答して神の御前に臨むことについてお伝えしていきます。

 

一、世の終わりに関心がある方へ

手前が真の聖書福音に出会う前、あるプロテスタントの牧師が書いた世の終わりに関する図書を読みました。内容の詳細は覚えていないのですが、世の終わりが近いことやヨハネの黙示録、悪魔崇拝者、世の真相について触れていたと思います。その図書は世の動きと聖書の預言を繋ぎ合わせたような推測、仮説が多い内容で、福音よりも世の動きに終始する内容であったと思います。それを手に取ったのは当時、東日本大震災や原発事故を目の当たりにして、人の死だけではなく、世の終わりを痛切に意識させられたからだと思います。だから、世の終わりについて知りたいと思ったのだと思います。おどろおどろしい内容が書かれておりましたが、だから今どうすると良いかは書かれていなかったと思います。冷静に考えれば、世の終わりが近いことを知っただけでは意味がありません。

また、同時期、いわゆる「陰謀論」を知るネット上のにわかキリスト者の中には世の終わりが近いことを盛んに言っている者がおりました。この世に希望は無い、早く神の国に入りたいと口にしておりました。この世に希望は無いことはそのとおりなのですが、手前はそれらを読んで鬱々とした気分になりました。彼らは主イエスを信じているが、彼らの言う世の動向に関する推測(預言解釈含め)は外れまくり、何一つ彼らの言うことに確かさを感じなかったからです。手前も日々の仕事が辛くて生きるだけで精一杯で、正直、今直ぐにでもこの苦しい状態から逃れたく、そのためなら速やかに世の終わりが来て欲しいとさえ思っておりました。きっとこのような現実逃避の願望を抱いた人はきっと手前以外にもいると思います。手前が見たネット上のにわかキリスト者もそうだったからです。

当時、「世の終わりが近いのなら、今までのように世俗的に生きるだけで良いのだろうか。」と手前は薄々感じておりました。今思えば、この疑問こそ重要であったと思います。

 

世の終わりに関わる話(予言等)は偽りばかりですが、衝撃的な話ほど印象に残ります。何を信じて良いか分からなくなり、「あれも起こる、これも起こる」と情報に踊らされます。果たして、それを知っただけで一体何になるでしょうか。主イエスの終末預言も確かに衝撃的な内容ですが、衝撃的な出来事は過程でしかなく、そこだけに着目したら本質を見失います。終わりの始まりである動乱は確かに起きますが、そこで問われるのは信仰を正しく守り通すか否かです。この世を支配する悪しき者は悪の秩序を構築しようとし、反キリスト行為を人々に強制します。今、既に問われております。聖書の知識がなければ、今、既に自分が神への不忠実に足を踏み入れていることにすら気付かないでしょう。聖書だけがこの世の真実を教えてくれます。天地の始まり、神への反逆者(悪魔ら)の存在、罪の概念、人の一生と死の意味、救いがもたらされたこと、世の終わりと復活と裁き、その後の永遠について、聖書は教えてくれます。全体の文脈を踏まえて、この世の動きと自分自身が置かれた状況を当てはめなければ、今何をするべきかを本当に理解することは出来ません。世の終わりが気になって、天変地異等を調べても意味がありません。論理的に考えれば、世の終わりがあるからには始まりが存在し、この世(天地)を創造された御方がおり、創造するからには目的があり、森羅万象を見れば天地に存在する全てには秩序があると分かります。そして、聖書に目を向ければ、「裁き」があると言われている以上、基となる法(神の律法、掟、戒め)があるのは当然です。「罰」に言及する箇所もたくさんあります。罰は悪事を懲らしめるためのものであり、そうならないようにとの戒め、教訓です。これらを踏まえると、神が定める正しさがあり、神は人に正しくあるように命じられております。そういったことは親からも、学校でも、社会でも教えられません。偽預言に染まった地上の教会でも正しく教えられません。何となくでも、終末感を感じれば、大地震や第三次世界大戦、その他の自然災害について気になるかもしれません。しかし、それらは終わりへの過程でしかありません。そこでは自分が生き延びれるかどうかに関心を寄せるかもしれません。しかし、そのようなことを考えるのは神の目線からすれば的外れでしかなく、自分の命ばかりを気にするのは、神からすれば身勝手に映るでしょう。主イエスは終末預言で何が起こるかを前もって教えてくださっており、動揺させられないように注意せよ(マタイによる福音書二十四章六節参照)と言われております。聖書の知識が無くては確かに地震や戦争の話を聞けば狼狽えるかもしれません。しかし、聖書に拠って立てばそうではないはずです。動乱を背景に、惑わすものは反キリスト行為に誘うでしょう。真のキリスト者はどのような中にあっても神の掟を守り、自分の生涯を全うすればそれで良いはずです。つまりは、神の御命令に忠実であるということです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節〜二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

大切なことを言っておきますが、聖書は、あんたに世界情勢の真実を伝えるための道具ではないのです。神と神の教えを知るため、主イエス・キリストとその教えを知るためのものです。聖書以外にきちんと知ることができるものはありません。小説感覚で読むことは推奨しません。もし、世の動向を知りたいとして、聖書を単なる参考書代わりに使って知識を得て、他の人より多くのことを知るというのは高慢の元となるだけです。知識を得るだけであなたの生活の仕方がまったく変わらないのであれば、テレビのクイズ番組や雑学本を研究して雑学に詳しくなって自己陶酔している人たちと大差ありません。所詮、知識欲というあなたの欲を満たすだけの行為でしかないのです。聖書は読むだけでは不十分です。自分の力で読んで、理解して、実践して生活に反映させてください。

 

引用:真の聖書福音と預言「自分で考えることの勧め」

聖書は、あんたに世界情勢の真実を伝えるための道具ではないのです。神と神の教えを知るため、主イエス・キリストとその教えを知るためのものです。』の箇所は特に、世の終わりについて知りたがったかつての手前や、手前と同じように世の終わりが気になっている人への戒めになると思います。そして、救われるための利益信仰では神の御心に適いません。全身全霊で神を愛し、自分を捨てることが不可欠で『自分の命を得ようとする者はそれを失うだろうが、我のために命を失う者は、それを得るであろう。マタイによる福音書十章三十九節:引用 真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」)』と主イエスは予告してくださっております。『天の父の御意志を行う』ためにも、自分のことを考えてばかりいるのではなく、神の御意志を理解し、偽預言に惑わされず律法を遵守していくことが不可欠です。

 

二、理性を欠いた獣であってはならない

単刀直入に言いますが、聖書真理によって善悪の基準を知らない人間は理性を欠いております。誰もが、自分の考える「良かれ」「正しさ」に従って生きております。しかしながら、その「良かれ」と「正しさ」の定義が真理とかけ離れている故、神の目に適う真っ当さからは程遠くなるのです。

手前に「自分は人から後ろ指を指されるようなことは何一つしてこなかった」と言った人がおりました。信仰を持っていなかったその時の手前でさえも「随分と大きく言ったものだな」と感じる程でした。実際にはその人の「正しさ」とやらは自分勝手な我がままで、それに周囲は振り回され、大変な苦労をしていたのが現実でしたが、当の本人はそれを認識しておりませんでした。

また、ある立派な社会的肩書があり、その道では名が知られ、数々の世俗社会への貢献もある人がおりました。高い社会的地位があっても手前のような下っ端にも親切に接して、話を聞いてくれる優しい方でした。しかしながら、言葉の端々から、「高い立場の自分が、丁寧に接している」ことをさりげなく強調してくることがありました。個人的にはその方に感謝する側面もあるのですが、へりくだりを装いながらも、見え隠れする高慢が偽善的で残念でなりませんでした。「正しいことをしている自分」を演じて、満足しているように見えてなりませんでした。

両者とも正しくあろうとすること自体は良いと思います。問題はその「正しい」が何を指すかであり、それらに励んだ結果は「高慢」でした。突き詰めると、世の中、往々にして悪人は自分は正しいことをしていると思っていることでしょう。

人間が制定した法律や法廷で裁かれなければ犯罪者ではないから罪人ではなく自分は善人だと思う者は高慢という第二の死に至る病気に罹っています。このような高慢の病に罹っている人は、地上の医者、病院、いかなる薬によっても治されることはありません。それはただ主イエス・キリストへの信仰によってのみ治されるのです。

(略)

主イエス・キリスト抜きで自分なりの義を立てようとしても無駄であり、独りよがりな偽善になるだけです。それは他の人々も同じことです。主イエスはぶどうの木であり、もし人間が主イエスに繋がる枝でなければ、神の目に正しいことは何もできないのです。主イエス・キリスト抜きで正しいと思う人間は悪魔の品性を持つ高慢な者でしかなく、そう思う者は誰でも第二の死へと行きます。主イエスの直弟子も過去の預言者たちも皆罪人であり、私も例外ではなく、あなたがたも同じです。罪人ではない人間はこの地上には存在しないのです。霊によって新たに生まれない肉なる人間は神の目に正しいとされることはできない性質だからです。

 

引用元:真の聖書福音と預言「聖霊の働きの確証」

真理を知らなければ、世の常識という偽りに染まり、自分の考える正しさに溺れるだけです。高慢は無知によって、身の程を弁えないことによっても生じます。『自分なりの義を立てようとしても無駄であり、独りよがりな偽善になるだけ』との言葉は実に的確です。唯一の真の神を畏れることを知らなければ、どこまでも神から離れ続け『悪魔の品性を持つ高慢な者』とならざるを得ません。人より上位の神を畏れずして真にへりくだることは出来ません。

主イエスは御自分だけのため、人間が持つ肉の欲や思いのために生きたことはありませんでした。しかし、世の人間の多くは自分のことや自分の家族や知人等の身内のことばかり考え、隣人愛が無いので他人を蔑ろにし、罪を愛して離れようともせず、自分のしたいことをし、自分の楽しみや幸せを追求しています。こんな生き方は動物の生き方であり、本来の人間の生き方ではないのです。人間は創造主の神が神を礼拝及び賛美するために創造されたのであり、それが趣旨です。神を信仰しなければ神を礼拝することも賛美することもありません。それ故、創造主である神を礼拝しない人間は滅びるのです。

 

引用元:真の聖書福音と預言「聖霊の働きの確証」

人の本分については聖書に書かれております。ここで細々申し上げませんが、各位が通読の上、文脈から見出だしていただくのが最善と考えます。自分で「これだ」と思える出会いのような感覚を体験することが大事だと手前は考えます。それでも端的に申し上げるなら上記の引用にあるように、人間は神を礼拝し、賛美するために作られたということです。そして、それを弁えず、腐敗が極まると「汚れた欲望の故に肉に従って歩み(神の)権威を侮る者(ペトロの手紙二 二章十節参照)」に行き着きます。そのような生き様はさながら動物のようだと聖書に書かれています。

 

ペトロの手紙二 二章十二節(参照)

彼らは、捕えられて滅ぼされるために生まれた、理性を欠いた本能的な動物と同じように、無知によって冒涜的なことを言い、自らの堕落によって滅ぼされるだろう。

 

「ἄλογος(理性を欠いた)」の言葉を紐解くと、「無分別」「道理を弁えない」や「あるがまま」、これ自体にも「獣のような人」の意味があります。理性とは「感情におぼれずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力(引用:スーパー大辞林)」です。「分別」は神の律法から真の善悪の基準を知り、それに基づいて区別することで可能となります。何も知らない「あるがまま」では道理を弁えず、獣のようになるのは必然です。「ζῷον(動物)」は、「生き物」の他、「獣」の意味もあり「人間らしい心のない人をののしっていう語。人でなし。(引用:スーパー大辞林)」のとおりです。その意味を踏まえると、上記の聖句はそのままに、無知によって神を冒涜する行為を平然とするようになるのも、ある意味において必然だと思います。無知とは実に恐ろしいことです。占いや偶像崇拝、昨今では同性愛の容認等、反キリスト行為が平然と行われ、一部のキリスト者を自称する者の中には同性愛者の人権云々を謳い、平気で神の律法を汚す者がおります。「皆がやっているから」は、何の正当性もありません。ちなみに、ヨハネの黙示録には「獣の刻印」「二匹の獣」という言葉が登場しますが、こちらの「獣(θηρίον)」はまた別の原語ですが、こちらには「問題を招く」「危険な」「悪意に満ちた」との意味があり、より悪いものとしての意味があります。神の聖なる律法を汚し、神を冒涜する悪意のあるものとしては、より害のある獣との表現が相応しいのだと思います。

「正しさ」を求めるのは大変結構なことです。しかし、「正」の字の如く、「一つ」に「止まる」と書く訳で、止まるべき「一つ(真理)」を間違えるととんでもないことになります。

 

三、神からの予告(一)

イザヤ書二十四章一節から六節(参照)

見よ、主は地を空(から)にし、荒廃させ、その面を曲げ、そこに住む者たちを散らされる。民、祭司、僕、主人、女中、女主人、売る者、買う者、貸す者、借りる者、債権者、債務者は同様となる。地は人がいなくなり空(から)にさせられる。奪われ損なわれる。主がこの言葉を語られたからである。地は嘆き、枯れ、天地は衰え、弱る。地の地位ある者も弱る。地はそこに住む人々の故に汚された。 彼らは律法に違犯し、掟を破り、永遠の契約を破ったからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者たちは有罪となった。それゆえ、地に住む者たちは焼かれ、僅かな人間だけが残された。

 

上記は世の終わり、主イエスの来臨時の様相に言及した預言です。

律法違犯の故に地は汚されました。僅かの者だけが残されたとは『更に、それらの日々の苦難の後すぐに、太陽は暗くされ、月はその光を出さず、星々は天から落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。また、その時、人の子のしるしが天に現されるだろう。そして、その時、地のすべての民族は悲しみ、人の子が力と大いなる威厳に満ち、天の雲に乗って来るのを見るだろう。人の子は、大きならっぱの音と共にその天使たちを遣わし、天使たちは各天の果てから果てまで四つの風から、彼の選ばれた人たちを集めるだろう。(マタイによる福音書二十四章二十九節から三十一節:引用 真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)の主イエスの預言にある艱難末期の携挙であると思います。また、「そして、天は巻物が巻き取られるように離れ去り、あらゆる山と島が、その場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に「我らの上に覆いかぶさって、王座に座っておられる方の御顔と小羊の怒りから、我らをかくまってくれ」と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来るからである。そしてだれが立つことが出来るであろうか。(ヨハネの黙示録‬六章十四節から十七節参照)」の聖句と同じ描写であると思われます。どんなに社会的地位があっても、力や財力があっても、どのような立場であっても神の怒りから逃れることは出来ません。唯一、神の審判において神の目に適った者だけが救い出されるのみです。更に、イザヤ書二十四章六節にある「呪い(אָלָה)」の原語には、「呪い」以外にも「誓い」「宣誓」の意味があります。「誓う」には「 固く約束する。違反すれば罰が下ることを条件に約束をする。(引用:スーパー大辞林)」の意味があります。まさに申命記二十八章にある神との契約、祝福と呪いの意味がこの言葉に凝縮されています。

 

神の律法が大前提にあり、律法は廃止されたとか、十戒だけ守れば良いという主張に惑わされないでください。そのような言説に根拠はありません。廃止されたとまでは言わなくても罪の赦しによって大丈夫だと言う主張も嘘です。主イエスは「悔い改めなければ、皆同じように滅びる(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)」と言われたからです。罪赦された後、律法を守ってこそ改めたと言えます。招かれる人は多くても選ばれる人は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)との主イエスの言葉どおり、折角、聖書真理に出会っても多くは偽福音に躓くと思われます。ところで、最近、政府、特に岸田総理の発言を聞いているとパウロ教信者が思い起こされてなりません。

 

 

口先ばかりの反省の弁はあっても、問題を根本的に改めることは一切せず、それで事が済むと思っている辺りが、見ていて腹立たしくもあり、情けない限りです。悔い改めの意味を認識せず、「主よ、主よ」と繰り返し、それで自らが救われていると思い込んでいるパウロ教徒は岸田総理の姿を見て、自分たちと瓜二つだとは思わないのでしょうか。折角、聖書真理の存在自体を認識しているのであれば、律法は廃止されていない(マタイによる福音書五章十八節参照)と言われた主イエスの言葉を無視せず、きちんと聖書(パウロ書簡を除く)の言葉に忠実であるべきです。「行いは不要」「主イエスを信じるだけで救われる」との偽福音を信じることは偶像崇拝でしかなく、ミカエル氏が言われたように神のふるいです。

主イエスが地上に来られたのは、旧約時代にイスラエルの民をエジプトの奴隷支配から解放させたのと同じことであり、それ以上のことです。なぜなら、イエスの十字架による贖いは、イスラエルに限らず、全人類に及ぶからです。これ程のイエスの愛、そのイエスを世に遣わされた天の父なる神の愛は底知れぬものなのに、人間はその愛の大きさに気付かず、自分は地獄に行きたくないとか、助かりたいという利己心から来る偶像礼拝に陥っています。非常に嘆かわしいです。そのような人間を神がお救いになると思いますか。神の立場になって考えてみたら分かることです。世の大多数の人々は、もっと稼ぐために頑張っています。生きるだけの必要最低限以上の金を得ようとして、真面目に働く人もいれば、貪欲な金銭欲から犯罪、悪に手を染める者もいるでしょう。今、真剣に生きる意味について考えてみてください。何のために生きているのかを。

 

引用:真の聖書福音と預言「神を愛するということと人が生きる意味」

総じて、人は皆、何かを信じております。自分なりの義だったり、世の常識だったり、世の繁栄、快楽、偽福音だったりです。しかし、神の律法に基づく善悪の基準で自らを律しなければ、理性の無い獣と変わりありません。理性が無いとは、「ありのまま」で真理に無知であると認識するべきです。そして、神の聖なる御性質、荘厳さに平伏し、畏れを感じつつ、神と共に永遠に過ごすに値するだけの完全な者(マタイによる福音書六章四十八節参照)であるよう鍛錬しなければなりません。自分を捨て、神の御心に適うことだけを考えていられるかどうかに懸かっております。世の事柄に励むことは躓きや妨げにしかなりません。そういったことに早く気が付けたのなら、本当に幸いだと思います。

 

四、永遠を決める最難関の試験に挑む

自分がどうして真の聖書福音を信じるに至ったかを考えると全てが不思議でなりません。聖書の存在を知ってはいても、偽福音だらけのこの世において、ミカエル氏が真の聖書福音を説いてくださらなければ決して自分で見出だすことは出来ませんでした。そして、もし人生の早い段階(例えば、十代や二十代)に真の聖書福音と出会っていたのならばどうなっていたか。おそらく信じていただろうと思います。ただ、途中で孤独や人の目に耐えかねて挫折していた可能性があります。結果論でしかないと前置きをした上で言いますが、中年となった年齢で真の聖書福音に出会ったのは、手前には必要不可欠な条件であったと思います。世に染まり、世に従って生きることの違和感や限界を嫌というほど感じ、「この先の道は無い」と知ったからこそ、一度死んだつもりでやり直したのがキリスト道です。だから決して自分の意思や力で真の信仰に入れた訳ではありません。また、これまでを振り返ると「よくここまで来れたね」というのが本音です。その位に余裕など無く、ぎりぎりな感じです。少なくとも自分で大丈夫と思える段階にはまだ達しておりません。完全となれるには、まだまだ通らねばならない過程が手前にはあると感じます。

 

手前は、信仰のために「頭を使う」「行動力を発揮する」のが不可欠とは、真の信仰に入るまでには夢にも思いませんでした。神の知識を理解するためには基本的な知性が不可欠です。なぜならば、神は言葉であり、全て言葉で真理を伝えているからです。やればやるほどに自分の課題が浮き彫りとなり、それをどうやって克服出来るかを考えることは、惰性でしていた世俗の仕事などよりも余程に頭を使います。「頭を使う」意味をこの年になって改めて考えさせられております。実際には世俗の仕事でも頭を使っていなかった訳ではありません。しかし、今、それ以上に総動員しても尚、不足を感じます。ミカエル氏が記事の中で「全振り」という言葉を使っていたのが個人的にはとても印象に残りました。信仰を第一として時間を労力を振ることであり、手前にとってはこれまでの人生経験の全ても全てそこに活かすべきだろうと感じていたので、そういった意味でも、とても心に響きました。更に、「頭を使う」ことを意識するほどに、「頭の悪い自分には出来ない」と後ろ向きになる気持ちが湧いてくる時があります。簡単なことではないので失敗、試行錯誤は付き物です。しかし、それでも前向きになることが大事で、否定的な思いに駆られて足が止まってはならず、これは完全に罠です。他にも「他人と比べて落ち込む」という罠もあります。これについては『他人と比べることが不幸の始まりです。他人と比較しないようにしましょう。聖書の十戒にも「隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20:17)とあるとおりです。他人と比べて自分が持っているお金が少ない、物を持っていない等と比較することで金銭欲、物欲等と罪を犯す糸口になるから神は人間を戒められているのです。(引用:真の聖書福音と預言「差別と侍の本義について」)』が参考になるでしょう。また、マタイによる福音書二十五章のタラントンのたとえにもあるように、それぞれ任されたタラントンに違いがあることも理解するべきです。個人的には、比べるなら「昨日までの自分」と比べ、「昨日の自分よりは前進する、積み上げる」ことを意識するようにしております。卑屈にならず、前を向くことが出来、自分に勝つ感覚を得やすいです。

 

ところで、「頭が良い」ことについて、以下のように解説している記事がありました。

「コツコツ努力する人」が強い

最近は大学入試の形態が変わってきました。同じ問題を一斉に解く一般入試以外に、自己推薦やAO入試という方法で選抜されるようになりました。

いわゆる入試の多様化です。

そこで感じるのは、受験日に向けて何年もコツコツと準備してきた学生というのは、やはりすばらしいということです。

個性やクリエイティブというより前に、合格するためにやらなければならないことを理解し、受け止め、それを長期にわたり持続することができる人は、当然ながら粘りもあります。

(略)

求められていることを正確にくみ取る

新たな付加価値を生み出せる人は、受験生型の努力を決して怠らなかった人という言い方もできるでしょう。

スポーツの世界でも、監督の立場からすれば「頭がいい選手」は大変にありがたい存在です。

たとえ身長が低くて体格には恵まれていなくても、頭がいい選手を監督は使いたいと考えます。

それは、監督が求めることをスピーディーに理解し、それを実行できるからです。

監督が自分に何を求めているかを正確にくみ取る。すなわち戦術理解力に長けているのです。

「この試合、相手がこう来るだろうから、今日はこういう戦術でいく。君はこういう役割だ。しかし、相手に大きな変化があれば、それに応じて変更する」と監督が伝えると、それをすぐに理解します。

 

引用:プレジデントオンライン

特別に何か一芸に秀でるよりは、求められていることを正確にくみ取り、継続して努力することが大事だと言っております。真の聖書福音と預言「成功するためには」でミカエル氏が『簡単に言えば、聖書に書かれてることを守り、実行し、それを死ぬまで継続すればええだけの話なんであり、何も複雑なことは無く、簡単なことです。違いは、継続してるか否かで、覚悟があるか否かです。やらへん人や途中でやめる人は、覚悟が甘いんや。』と言われていることに通じます。個人的には、これらの話にはとても励ましを受けました。『継続することは誰にでも出来る』のであって、手前にも可能です。そして、神の言葉を深く理解するため、聖書研究をする上で、国語力(言葉の知識、読解力、論理的思考)等が必要となり、これらも地道に培う必要があります。また、福音伝道をする上では聖書の知識、文章作成力、幅広く世の事柄に関する知識や動向等の情報収集力、問題点を説明する力、画像や動画等にして分かりやすく伝える技術、拡散を分析する力、実に多種多様な力が求められます。やるほどに時間があっという間に過ぎ、時間はいくらあっても足りません。

時間だけは神様が平等に与えて下さった。これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。

 

本田宗一郎(本田技研工業創業者)

 

引用:folk

時間を如何に有効に使うかは、確かにその人の才覚であると思います。上手く利用することが「成功」に繋がるのも間違いないと思います。上記の本田宗一郎氏は『この世の中の成功者』と言っておりますが、キリスト者が目指すべきはこの世の成功ではなく、神の目に適うことです。世俗的観点からすれば、抜きん出た知恵を示している本田宗一郎氏ですが、聖書真理に拠った言動でなければ神の目には評価されません。時間の使い道は、即ち、何に対して力を注ぐかの選定が要であり、これを正しく制することは人生を制するに等しいと思います。

スティーブ・ジョブスが残した有名な時間の名言

この地上で過ごせる時間には限りがあります。本当に大事なことを本当に一生懸命できる機会は、二つか三つくらいしかないのです。

 

スティーブ・ジョブス(起業家・Appleの共同創業者)

引用:folk

世に名が知られたスティーブ・ジョブス氏ですが、彼の言動を確認した範囲では不信仰であったようです。彼はおそらくアップル社製品の開発と販売に人生を全振りをしたのだと思います。その彼をして、言わしめているのが地上で過ごせる時間には限りがあり、一生懸命励む機会は数少ないということです。個人的にはこの言葉にもとても共感します。全力を注ぐだけの対象は僅かな期間で終わるようなことではありません。大業である程にそうだと思います。簡単には到達出来ないような事柄だからこそ全力を尽くすのであり、複数年単位(中には数十年単位)の時間を捧げることになると思います。手前も仕事以外を顧みないと言っても良い程に仕事に全振りした時期がありました。その中でいささかの成果を出すだけでも十年単位で時間がかかりました。仮にそれほど時間が掛からなかったとしても、限りある人生の中で熱意を持って取り組める事柄との出会いは決して多くはないと思います。往々にして、手前のように世俗に全振りしてしまうの人がほとんどではないかと思います。故に、聖書真理と出会えたなら『先延ばしにするな、神の声を聞いた「今日」中に解決するように聖書(ヘブライ三章七節~八節、十三節、十五節、詩編九十五章七節~十一節参照)にあるさかい。決断するんは「今日」から出来るやろ。(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」)』と、速やかに向きを変えるべきです。「天啓」「使命」を認識出来たのなら、迷わず進むべきです。もう何年も時間をかけて励むだけの時が無いからです。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12705718578.html

 

五、神からの予告(二)

以下は、主イエスが裁きについて話されている箇所です。

 

マタイによる福音書二十五章三十一節から四十六節(参照)

人の子が御自身の栄光を携えて、全ての聖なる天使たちが彼と共に来られる時、彼はその栄光の王座に着くであろう。そして、全ての民が彼の御前に集められ、羊飼いが羊を山羊から分けるように、民を民から区別し、確かに、羊を御自分の右に、山羊を左に置くだろう。その時、王は王の右にいる彼らに言うだろう。「お前たちはこちらに来なさい、我が父に属する祝福された者たち、天地の創造からお前たちのために用意された王国を受け継ぎなさい。我が飢えていた時、お前たちは我に食べさせてくれたからである。我が渇いていた時、お前たちは我に水を飲ませてくれたからである。我がよそ者だった時、お前たちは我を泊めてくれたからである。裸の時、お前たちは我に服を着せ、我が病の時、お前たちは我を訪ね、我が牢にいた時、お前たちは我の所に来てくれたからである。その時、正しい人たちは王に答えて言う。「主よ、いつ我らが飢えたあなたを見て、食べさせ、渇いた時に水を飲ませたでしょうか。いつ我らはあなたをよそ者だと見て泊めたのでしょうか。 また、いつ裸で服を着せたでしょうか。更には、いつ我らが病や牢にいるあなたを見て、お訪ねしたでしょうか。王は答えて彼らに言うであろう。「確かに我はお前たちに言う。我が兄弟に属するこれらの小さい者の一人にしたのは、我にしたのと同じである。それから、王は左側にいる者たちにも言うだろう、「我から離れ去れ、呪われた者たち、悪魔とその使いに用意された永遠の火へ行け。我が飢えていた時、お前たちは我に何ら食べさせてくれず、我が渇いた時、我に何ら水を飲ませてくれなかったからである。我がよそ者であった時、お前たちは我を泊めてくれず、裸の時、我に服を着せず、病や牢にいた時、我を訪ねてくれなかったからである。すると、彼らも王に答えるだろう。こう言う。「主よ、いつ我らが飢え、渇き、よそ者で、裸で、病で、牢にいるあなたを見て、あなたに奉仕しなかったでしょうか。」そこで、王は彼らに答えるだろう。こう言う。「確かに、我はお前たちに言う。お前たちがこれらの小さい者の一人にしなかったのは、我にしなかったのと同じである。」それから、これらの者たちは永遠の罰に至るだろう。しかし、正しい人は永遠の命に至るだろう。

 

◉羊と山羊、右と左について(三十一節から三十四節)

冒頭の三十一節から三十三節について、過去記事「さまよう羊」でも触れましたが、ゼカリヤ書十章三節(参照)「我が怒りは羊飼いに対して燃えた。我は雄山羊を罰する。」のとおり、山羊は罰する対象となっております。また、同じマタイによる福音書十三章には麦と毒麦の例えがありますが、それと同じように羊と山羊との対比になっている所が同じです。神に属するか、世に属するかで明暗を分けます。そして、同じく過去記事「異邦人の道と悪の縄目と二つの刻印」でも触れたように、聖書において「右」には特別な意味があると考えられます。創世記四十八章十三節以降の箇所でイスラエルが右手をエフライムにかざすことでより大きな祝福を授けたこと、神の右の手(出エジプト記十五章六節・詩編百十八編十五節・イザヤ書四十一章十節等参照)、賢者の心は右側へ(コヘレトの言葉十章二節節参照)、神の右側におられる主イエス(マタイによる福音書二十六章六十四節・マルコによる福音書十六章十九節等参照)等から「右」には「左」には無い特別な意味(祝福、力、高潔さ、聖、等)があると考えられます。三十四節からも、王の右側にいる者たちが神の王国を受け継ぐ祝福を受けております。

 

◉ 「飢え」「渇き」「よそ者」について(三十五節)

三十五節について、「飢え」「渇き」「よそ者」等の言葉が並びます。個人的に興味深いと感じたのは右側にいる者たちも、左側にいる者たちも、自らがこれら窮乏した者に施した、あるいは、施していなかったという自覚が無い点です。例えば、レビ記十九章十節や三十四節等で貧しい者や寄留者への憐れみについて律法として書かれております。現代社会の道徳の観点としても適う行為であり、それらに対して施したことに、施さなかったことに無自覚でいられるだろうかと思いました。聖書には面の意味だけでなく、裏の意味として隠された象徴が多々あるので、ここでもそのような意味があるのではないかと考え、探ってみました。「飢え(πεινάω)」には、言葉通りの「飢える」「飢餓」の他に、比喩的な意味で「切望する」「懇願する」の意味があります。こちらについては真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」の『六、方々に飢饉と悪疫と地震(または騒動)がある』の箇所が参考となります。

現代ではかように悪いことを平気でする獣のような屑人間が社会に多く、のさばり、そのせいでまともな食べ物が無くなってきてまともな食品が入手困難になって、まともな飲食物がほぼ無いという状態は、ある意味で飢饉と言えよう。また、霊的な意味では、社会情勢が悪化し、信教の自由等の人権が制限されて、聖書が規制されたり、キリスト者が迫害され、神の御言葉を知らせる者が激減して求めても得られへんような事態が飢饉という意味であることに留意しなはれ(アモス書八章十一節参照)。そないな事態になる前に悔い改めて、清い生活をしていなければ救いは無いだろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」

 

霊的な意味での御言葉の飢饉が、もう一つの「飢え」として挙げられると考えます。偽福音だらけの状況は、あたかも食べ物が『遺伝子組み換えの作物や化学添加物等という毒が含まれる飲食物が意図的に広められてる』状況にも似ていると思います。手前自身、地上の教会に躓いて放浪していた時は、真の聖書福音を知ることが出来なかった故、「飢えて」いたのだと思います。当時は自覚がありませんでしたが、振り返るとそのようであったと思います。「渇き(διψάω)」については、言葉通りに「喉の渇き」もありますが、こちらにも「飢え」と同様に「渇望する」「切望する」の意味があります。そして、同じ原語はヨハネによる福音書四章十三節から十四節(参照)「この水を飲む者は誰でも渇くだろう。しかし、我が与える水を飲む者は決して渇くことはない。我がその者に与える水は、自身の内に永遠の命に至る水が湧き出る泉となるであろう。」でも用いられており、ヨハネによる福音書六章三十五節(参照)「我は命のパンである。我が許に来る者は決して飢えず、我を信じる者は決して渇くことはない。」から聖霊を指していると思われます。そして、聖霊をいただくためには神の掟を守る(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)前提があります。故に、水を飲ませることには福音を伝えるだけでなく、主イエスと新しい契約を結んだ者が神の掟を守るように励ます等の行為がこれに当てはまると考えました。行いは不要と考えるパウロ教信者は当然、これらを行なっておらず、水を飲ませなかったことに無自覚であったとしても不思議ではないと思います。次に、「ξένος(よそ者)」について、こちらには「異邦人(外国人)「不慣れ」「知らない人」の意味があります。異邦人については以下の通りです。

主イエスが、「異邦人の道に行ったらあかん。」(マタイ十章五節拙訳)と戒めはったことに従い、異邦人たる西洋人の真似をすることを今すぐにやめるべきや。神の律法を無視して違犯する異邦人の生き方や慣習等に倣うと、反キリストになるからや。

 

引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」

古代イスラエルのヘブライ文化にこそ聖書真理、神の知識、神の律法、掟、戒めを守る思想や習慣、歴史が詰まっております。それ以外の異邦人にはそのような考えも慣習も全く無く、最初から堕落しております。更に、「泊める(συνάγω)」の原語の主たる意味は「集まる」であり、「(ある場所へと)通じている、繋がる」「導く」といった意味があります。マタイによる福音書十二章三十節(参照)「我と一緒に居ない者は我に敵対している。 そして、我と一緒に集まらない者は散らしている。」マタイによる福音書十八章二十節(参照)「二人または三人が我が名によって集まる所には、我もその中にいるからである。」の聖句から、神の律法、掟、戒めを守る真のキリスト者が集まることは神の御心です。

洋服を着るといった西洋かぶれをしながら神の王国に入れると思うな。主イエスは律法を守る人間を求めてはる故、異邦人である西洋人の文化や習慣なんて一切認めはらへんからや。律法に違反する洋服なんか着てては神に門前払いされると危機感を抱いて、変えろよ。このことに気付かへん、または、認めることを頑なに拒否し、「服装は何でも良いんだよ。洋服でいいんだよ。」とか「背広が良いんだよ」と言うなら、頭がおかしいんですよ。服装は何でも良いとか異邦人の服装を着用すべきという現代のあたおかの人たちは、聖書から洋服の正当性を答えられへんやろ。異邦人に倣う生き方を許容することなんて書かれておらず、むしろ主イエスは「異邦人の道に行ったらあかん。」(マタイ十章五節拙訳)と教えはり、

 

引用:真の聖書福音と預言「二種類の基礎」

引用文にあるように、服装は見た目で分かる判断材料です。古代イスラエルの末裔がいる日本でも、何も知らなければ洗脳されたまま洋服を着て生活している方がほとんどだと思います。手前も真の聖書福音を教わって、ようやく和服を着ることが出来ました。そこからも「よそ者だった時に泊めてくれた」とは、聖書真理も知らず異邦人の道を歩んでいた状態から、真の聖書福音を教えてくれて、真のキリスト道と兄弟の集まりへと導くことではないかと手前は考えました。「我はよそ者だった時、お前たちは我を泊めてくれたからである。」の言葉を聞くと、手前自身もそのようにしてもらったのだと、有り難さをひしひしと感じました。せめて手前に与えられた能力を最大限に行使して、これらのご恩に報いたいとの思いが自然と湧いてきます。

また、「ξένος(よそ者)」の原語が使われた他の聖句には「これらの人々は皆、約束を受け取ったのではなく、それを遠く離れて見て、確信して喜んで、自分たちが地上ではよそ者であり旅人であることを告白して、信仰を持って死にました。(ヘブライ人への手紙十一章十三節参照)」の聖句もあります。異邦人(の道)との捉え方だけでなく、世を愛さず、世の友とならず、世での繁栄を求めずに生きることでもあります。その信仰を共にする兄弟が「集まる」ために声をかけてくれたと捉えても意味は通じるものと考えます。

 

◉「裸」、「病」、「牢」について(三十六節)

三十六節には「裸」「病」「牢」の言葉が並びます。

「裸(γυμνός)」について、原語には「確信が無い」「あやふやな」、「ありのまま」といった意味があります。過去記事「裸の恥と白い衣」でも裸の意味を考察しましたが、やはり神の目に何ら評価されない状態を指すと考えます。先にも言及したとおり、何も知らず「ありのまま」とは理性が無い(善悪の判断基準を持たない)に等しいと考えます。それは真理に対して「あやふや」で、当然の如く「確信が無い」状態であると考えます。それに対する「服を着せる(περιβάλλω)」とは、神の目に適うための手助け(例えば、福音を伝えて悔い改めに導く、兄弟間であれば共に切磋琢磨することや叱咤激励する、鼓舞する等の交わり)が相応すると思います。また、興味深いのはこの原語に「投資する」「つぎ込む」の意味もあることです。真のキリスト者を目指して励む行為そのものでもあると考えます。

娯楽や快楽等に金と時間ばっか掛けず、聖書という永遠の命に繋がることに時間を投資せい。この世にある物に投資したかて、何の価値も無い。いずれ消滅するんやからね。この真実にさっさと気付き、行動や生き方を変えなはれ。

 

引用:真の聖書福音と預言「「パウロは偽使徒」の動画」

 

「病(ἀσθενέω)」については、こちらも過去記事で触れましたが、肉体的な病気の他に「(精神的な)病」「(社会が)病んで堕落した」状態の意味があります。少し世の動きについて触れますが、こちら(引用:X)で指摘されている通り、裏金(脱税)問題で政治倫理審査会が開かれている最中に、政府は地方自治法、日本電信電話株式会社法(NTT法)、放送法、プロバイダー責任制限法等の改悪を一気に閣議決定しました。何でもかんでも閣議決定で既に独裁かのようです。また、上川陽子外務大臣は衆議院予算委員会の中で、感染爆発に関する条約について『逐一国会の承認を求めることとしておらず、わが国としてこれらを締結するという行為を取らずにその拘束力を受け入れることになる』と恐るべき売国発言(引用:note)をしておりました。国会が機能するとも思えませんが、拘束力が生じる条約を進んで受け入れるのは生殺与奪権を世界保健機関(WHO)に与えるようなものです。何より憲法七十三条三項に「条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。」と明記しているにも拘らず、あまりにも酷い憲法無視です。少し前に、世界保健機関のテドロスが『WHOは誰にもどの国にも何も強制してない。ロックダウンもマスク義務も接種義務もその決定を下したのは各国政府だ(引用:X』と責任逃れ発言をしておりましたが、まるでそれに呼応するような上川氏の発言です。そして、政治倫理審査会での不法議員の話を聞いていると、こっちが具合悪くなりそうな程に正視に耐えない酷い内容です。ただただ、腐り切って、もう終っていると思わざるを得ません。元よりこの世に希望は無く、神の律法、掟、戒めを守り、神にすがることが真の希望です。

話を戻しますが「訪ねる(ἐπισκέπτομαι)」には、「(苦痛・心配・問題などを)和らげる」「安心させる」の意味があります。この世の悪については、聖書預言で予告されているとおり、彼らの悪が世で極まるのは避けられませんが、全ての悪を神が裁かれ、野放しにはされないことが救いです。先にも言ったとおり、義を全うしてくださる神だけが頼りです。また、ミカエル氏の記事において世の悪の詳細や抵抗の仕方、特に憲法に関わる知識は他ではそうそう得られない知識をご提供してくださっております。こういったことの一つ一つもこの原語と繋がっていると考えます。

 

次に「牢(φυλακή)」について、こちらは言葉のとおりに「監獄」「監視する」「逃げることが出来ない状況」の意味があります。「監視」と聞くと超監視管理社会が思い浮かびます。こちら(メモ・独り言のblog)によると、支那で中央銀行電子通貨を導入するために信用得点制度を更新したとの情報がありました。とうとう中央銀行電子通貨も導入され、改めて支那は支配層の実験国家なのだと分かります。『このスーパーマーケットで食品を購入するには、顔認証による支払いで最低650の社会信用スコアが必要になりました。』との実態や『「信頼できない人物」リストに掲載された』ことで『飛行機に乗ることを禁止され』、『「不動産を買えないし、子供も私立学校に行けない」』状態となり、『常にリストに管理されている』とは、奴隷そのものの扱いです。日本の近未来のようで暗雲が漂う報道です。関連して、国内ではどこもかしこも自動精算機が導入されております。自動精算機の中には現金が使えず、電子決済しか対応していないものもあります。こちら(サービス比較.com)を見ると、自動精算機の価格相場は、おおよそ百万から四百万円と非常に高額です。月割貸与でも月六万はかかり、耐用年数はたったの五年です(但し、厳密には「寿命」と同義ではなく、減価償却の計上のために定められている期間のようです)。自動精算機の導入の目的に人手不足への対応が挙げられておりますが、こうも高額では不利益が上回りそうです。これらは全て支配層の進める現金廃止に向けた伏線だと思いますが、利便性などに気を取られている場合ではなく、本当に危険な兆候だと思います。特に支那のことは他人事ではなく、信用得点制度と個人番号券、電子通貨やその他の社会基盤(健康保険証や運転免許証等)が一本化されると、支配層の意を受けた政府に恭順しなければ、買うことも売ることも出来ないヨハネの黙示録にある獣の刻印として機能してしまうようになるでしょう。便利に利用していたつもりが、支配されていたとならないように、これらの動きに反対し、電子決済も利用するべきではありません。安易に受け入れたなら悪の体制に従ったも同然です。自分の日々の振る舞いを客観視していきましょう。

話を戻しますが、個人的には「牢」と「逃げることが出来ない状況」の言葉から、真の聖書福音を知らずに会社勤めをしていた過去の自分を真っ先に思い浮かべます。「男は(必要以上に)稼がなくてはいけない」「人並みに家を持って生活するべき」などの考えに縛られ、しかし、社畜生活が苦しくて堪りませんでした。本音を言えば「心身共に辛く、仕事は辞め」たくてなりませんでした。そう思っている中年層(青年層でも)は多いと思います。「でも、食っていかねばならない」「借金がある」「家族を養わねば」と完全に身動きが取れない生活でした。前にも進みたくもなく、後ろにも下がれず、止まっているだけでも辛いとは、まさしく「身動きが取れない」状態であったと思います。「来てくれる(ἔρχομαι)」の原語は単に「行く」「来る」だけでなく、多様な意味があり、中には「同行する」「(ある方向に)至らせる」「成長する」などの意味もあります。これらの言葉を見ると、尚更に我が事に感じることばかりです。これらの聖句を踏まえると、世の友となって生きるのではなく、神に従って生きればもっと気楽に生きられる道があると踏み出す勇気にも繋がっていると思います。

 

 

◉「正しい」、「奉仕する」、「小さい者」について(三十七節から四十六節)

三十七節の「正しい(δίκαιος)」は、「罪の無い」「信心深い」「正確に・ちょうど」の意味があり、神の律法、掟、戒めを厳格に守る意味があります。律法廃止論など論外です。

また、四十四節の「奉仕する(διακονέω)」について、「(機能)を果たす」「(人)の役に立つ」の意味があり、真のキリスト者として兄弟で愛し合うこと(ヨハネによる福音書十三章三十四節参照)や隣人を愛すること、福音宣教の御命令に応えること、タラントンを活かすことにも繋がってくると思います。

そして、「小さい者(ἐλάχιστος」について、原語としては言葉どおり「最も小さい」です。参考までにエレミヤ書三十一章三十四節では「小さい者も大きいものも我を知るからであると主は言われる」と似たような言葉が使われており、こちらの「小さい者(קָטָן)」には「若い」の意味があり、取るに足らない、重要ではないといった使われ方をしていることから社会的身分が高くない、庶民を表していると考えます。主イエスご自身、世俗では高い身分ではなく、他人に対しても人によって態度を変えるようなことはされませんでした。そういった姿勢に倣うことを暗に示していると思います。また、正しい人たちは、身分の高い王に施しをした覚えはなくても、日頃の小さい者の一人に対する姿勢によって神の目に適ったのだと思われます。

 

総じて、マタイによる福音書二十五章三十一節から四十六節の箇所は神が真にお望みのことを示した箇所であると手前は考えます。四十五節の「確かに、我はお前たちに言う。お前たちがこれらの小さい者の一人にしなかったのは、我にしなかったのと同じである。」の言葉はとても重く、真の聖書福音をきちんと理解していること、自らも神の律法、掟、戒めを守ること、福音伝道等も出来ていること等が前提です。ましてや小さい者の一人がどこにいるかも分からないため、平素より当たり前のように出来なければ為し得ないと思います。そして、当該箇所は特別なことを言っているのではなく聖書全体に通じる教えそのままです。

 

六、結び

神の御意志を行うためには、この世の権威(常識という名の嘘、神学という嘘)を信奉せず、聖書から神が求められていることを正確にくみ取り、確信を持って、行動せずにはいられない心持ちとなっていることが必要です。そのためには広い道の教えに惑わされず、自分で聖書を通読し、文脈を理解し、そして、聖書研究も進めて確信を持つことが重要です。少なくともこの世の間違った者たちに、間違った行為を承認、賞賛されても全く意味はありません。むしろその逆を行くことになるので確固たる意思を持って、神の言葉を頼りに生きなければ到底歩き得ません。

真のキリスト者になりたいなら、この悪い世俗社会で金持ちになるとか、為政者の仲間になろうとか、大勢の人から好かれる等といった野望を捨て、多くの人々から嫌われるキリスト道を歩むと潔く覚悟を決めて進むことが重要です。何年も迷いながらのらりくらりしたり、この世を楽しむ、この世で生き長らえることを目指すようでは、臆病さを克服することも救われることも難しい。拙者が聖書の主イエスの教えを引用して言うてるとおり、自分を捨て、他の余計なものも捨て、神の王国と神の義を第一にして生活してなければ、何かを失う恐れが出てきてしまい、臆病さを克服することは不可能やからや。社会的地位を保持したり、財産を保持したり、人脈等といったこの俗世の人間関係や交友関係を保持しようという思いが強いと、それらを失う恐れが救いの邪魔をするんや。それ故、主イエスは財産や社会的地位も余計な人間関係(人脈)も持たず、すべてを捨てるように教えはった。かように、神のためにすべてを捨ててる人は強いのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」

『自分を捨て、他の余計なものも捨て、神の王国と神の義を第一にして生活』することは、決して簡単ではないと思います。やはり覚悟一つに懸かっております。思い切りが悪かったり、中途半端が一番良くありません。個人的には、中には捨てたくても捨てきれない思いがあり、葛藤もありました。しかし、それでも捨てることで開放感を得られました。持つほどに失う恐れが出てくるのが世の事柄だと思います。捨てきれなければ余計な誘惑に遭い、却って苦しい思いをするでしょう。そして、自分を捨てられなければ、神の御心を思う余裕すらなくなります。このことは日々実感します。

死後の永遠を決める試し(人生)の中に我らはおり、神は御自身に忠実であるかどうかを見ておられます。自分を捨て、神に全振り出来るように、神の御心を意識して、全身全霊で応えて参りましょう。

 

真の聖書福音を教えて、成長できる場は他に無いと言っても過言ではありません。真のキリスト者として生きたいと覚悟される方は、残された時を(「兄弟の集いの場」を経て)教会で共に学び、切磋琢磨して参りましょう。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今は世の終わり際、今起きているこの世の異変と堕落は、これから起きることも含めて聖書の預言によって予告されております。決して「何が起きているか分からない」と慌てふためくのではなく、予告された終わりについて、備えて、対応すれば良いだけです。但し、そのためには、真の知識を得て、全てを捉え直して、生き方を改める英断を下す必要があります。これまでの常識とされた考えとは異なるため、恐れを抱くかもしれません。しかし、英断を下すことを恐れてはなりません。迷っている時間が惜しく、ぐずぐずと時間を費やしている場合ではありません。今回は「英断を恐れるな」と題して、何故、英断が必要なのか、何が英断なのか、どうして英断を恐れてはならないのかについて述べていきます。

 

 

ミカエル氏は、記事で繰り返し、現実逃避せずに、刮目して備えるように言われております。

「見たくない、聞きたくない、考えたくない」等と思て現実逃避しても、誰一人として絶対に逃げられへんし、必ず巻き込まれる。せやから、きちんとこの現実と向き合い、聖書を読むことを拒否したり、偽使徒パウロに従うて主イエスに従うことを拒否したり、神の律法を守るという主イエスの信仰を行いで示さぬ者は誰も助からんよ。誰一人「自分には関係無い」と言える人は居らんことに気付けよ。それを認めずに逃げ続ける者は、その愚かで無能故に、惨めに滅ぶのみや。現実逃避せんと、聖書と拙者が言うことに注意深く刮目し、行動せい。

 

引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」

現実逃避とは『実際問題としてやらなくてはならないことを、意図的に避けようとすること。また、その行為や心理状態。(出典:デジタル大辞泉(小学館))』です。つまりは、問題を全く認識していないのではなく、ある程度は認識して、それを認めたくない状態を指します。明らかに世の中が滅茶苦茶になって、これまでは何となく描けていた(つもりの)将来も、一寸先は闇の状態です。もし、手前がまだ不信仰の状態だったら、この無秩序(混乱)の状態が不安で堪らず、何を頼りにして良いか分からず、右往左往していたかもしれません。真のキリスト者を目指す前から、コロナ犯罪が起きる前の状態でも、既に世の中は問題だらけで手の付けようがなく、どんどん悪くなってきており、崩壊に向かっていると感じておりました。そのように薄々感じた人は一定数居るのではないでしょうか。それでも手前は聖書真理を土台に考えられていなかったので、何も出来ず無力でした。手前がかつて行った現実逃避として、仕事への没頭(依存)があります。忙し過ぎると、仕事以外を考える余裕が無くなります。家に帰っても、疲れてただ眠る、または、せいぜい飲酒や娯楽で誤魔化すだけの日々でした。社畜となると目の前のことしか見えなくなります。これだけで十年単位の時間があっという間に過ぎます。実感としては「気付いたらこんな歳になっていた」です。若い人には信じられないかもしれませんが、「このままでいいのか」と思った所で、流され続けると、あっという間に三十歳、四十歳となってしまいます。特に、今は、もはやこの世が存続する時があと十年も無いかもしれないのに、不安を紛らわすために他のことに没頭している時間はありません。「普通の生活をしている」ことが既に問題です。何故なら、悪魔崇拝の支配層が、政府(国会議員や官僚等)ごと操り、大勢の日本人を滅ぼそうと人工自然災害を起こしたり、憲法を改悪して戦争を起こしたり、国民の人権を制限することを目論んでいるからです。支配層の行動の軸(思想)には悪魔崇拝があり、彼ら少数の富裕層(権力者)が、彼らの支配に適した人数となるまで人口を削減するつもりです。彼らの行為が何に基づくかとなると聖書に記された悪しき行為(反キリスト行為)です。

誰もがこの世の虜になっているのではないか。日々仕事に追われ、休み無く働くことが美徳と勘違いし、金銭を多く稼いだり社会的地位を得ることが本分だのと言わんばかりで、娯楽や快楽に興じてる人が多いやろ。かような生活を続けていては獣に等しい。世にの権威に洗脳され、政府や会社の駒になって搾取されるだけの存在や。働くだけ働いて納税やその他散財をさせられ、後はこの世から虚しく消え去っていくだけや。早よ気付いて生き方を改めよ。

 

引用:真の聖書福音と預言「常識を疑って悔い改めよ」

 

 

この世はサタンに支配されています。サタンに惑わされた人間やサタンを拝む人間が統治する世界なので、この世には反聖書的な物、思想、習慣、宗教、人間等で溢れているのです。そのような環境では、誰一人最初に生まれてから死ぬまで神に従順であり続けることは不可能です。

 

引用:真の聖書福音と預言「憐れみ深い神」

支配層は皆、超富裕層であり、それは富を愛することと神に仕えることは両立しないと言われた主イエスの言葉(マタイによる福音書六章二十四節参照)に反します。彼らが始めたコロナ犯罪はあからさまな人口削減であり、殺してはならない(出エジプト記二十章十三節参照)に反します。ましてや、mRNAワクチンは遺伝子を改変します。『遺伝子は神の設計であり、主なる神を表し、それを人間都合で勝手に変更するというのは神への反逆、サタンの業であり、それに安易に応じることもどれだけの大罪か理解でけへんのは狂人であり、地獄行きで当然である。また、これをしてもうたら、不可逆であり、二度と戻らへんことにも注意や。(引用:キリスト道)』とある通りです。一般社会では、身体に異常があれば直ぐに医療機関にかかる(頼る)というのは普通のことと思われます。しかし、その治療とやらは人体に有害な薬という魔術(参照:真の聖書福音と預言「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」)であったり、また、放射線検査等で被曝させられ、却って悪くなるだけです。一方、製薬会社や医療機関はそれで儲ける悪徳ぶりです。医療の全てを否定する訳ではありませんが有害なものが多いことは、こちら(真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」)をご覧いただいて知ってください。無知でいては滅ぼされるだけです。これに限らず、たくさんの嘘が横行しております。嘘を言う者は地獄行き(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)です。世に定着してしまっている地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等は、世においては正しい、当然のことと看做されますがこれらは誤りです。これらを信じたら、嘘に加担したも同然です。無知でも違犯は罪です。悪魔は嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節参照)と言われるように嘘を用います。嘘で塗り固められたこの世の仕組み(世の権威)を支配層が作ったことは、まさにそのことを言い当てております。

 

 

世の動きで気になっているものに触れます。こちら(JIJI.COM)にある「地方自治法の改正」が急に議論されました。『個別の法律が想定しないことが起こり、国民の安全確保が必要になった場合、自治法を根拠に、国が自治体の事務処理について必要な指示をできるようにするのが柱』のようです。『発動には閣議決定を必要』とありますが、自民党改憲案にある「緊急事態条項」に類似して見えてなりません。国が出す『必要な指示』が違憲であれば憲法九十八条一項により、閣議決定とそれに付随する命令等ごと無効です。やはり憲法改悪がされたら一巻の終わりで、現行憲法の維持が全てです。また、岸田総理が、こちら(TBS NEWS DIG)のように、個人番号券の「取得義務化」について『最高位の身分証として、厳格な本人確認のもとで交付する必要があり、カードに顔写真を表示するとともに対面での厳格な本人確認をするため、本人の申請によることとしていることから現段階では難しい』と国会で答弁しました。裏を返すと、将来的には取得を義務化すると予告しているようなものです。そもそも最初から任意でしかなく、このような言葉が出ること自体がおかしいです。教わった事項ですが、悪徳政府の手口は、いつも「小さく導入して後で拡大する」です。消費税はまさにそうでした。最初は三パーセントから始まり、時間を経て、あれよあれよと十パーセントまで上げられました。福祉目的と言われながら、そのような実績は確認出来ておらず、最初から増税ありきであったことが分かります。個人番号券も最初は任意と言いながら、結局は強制に向かいつつあります。個人番号券と関連付けた健康保険証の利用率は五パーセントを下回っておりますが、利用率が低くても憲法が改悪されてしまえば強制は幾らでも可能です。振り返れば、個人番号券が成立して実施された段階で、政府にとっての目的の半分は達成されたようなものであったと思います。個人番号券の取得強制は、現行憲法に反するため出来ません。しかし、改憲されてしまえばその限りではありません。それ故、改憲阻止が何にも優って重要です。

 

 

 

話を戻します。手前はミカエル氏のブログに出会うまで、聖書に終末預言があるのは知っていたものの、この世の現実と聖書の繋がりは殆ど理解出来ておりませんでした。むしろ別々に考えていたと思います。聖書とは、決して宗教(虚構)ではありません。真理とこの現実世界を説明することが出来、全人類に関係します。この書物はこの世について(この世を支配する悪も含め)、最高位の高い視座で説明する書物です。何故、最高位の視座かと言うと、神が人を通して語られた書物だからです。世を牛耳る支配層は神に敵対し、人口削減と人類奴隷化の仕組みを進めるため、我ら一人一人に全て影響します。支配層は神の御命令に反して福音を宣べ伝えず(真理を知らせない、隠す)、真理を知らない状態で各位が人生を終えるようにして、死後の神の裁きにおいて有罪判決(第二の死)を受けさせようとします。それは滅びが定められている悪魔の道連れに他なりません。だから、世の悪(支配層)に抗うとは、彼らの逆を行くことであり、彼らの悪を白日の下に晒し、真実と真理を伝え、彼らが隠そうとする真理を体現し、最期まで神に従い通すことです。決して、この世の悪に対して「世直し」で挑んでも真の問題は何ら解決出来ません。実際、ヨハネの黙示録等にあるように、彼らを滅ぼすのは神であると予告されております。故に、この世は神と、神に反するものの二極という構図です。この世が聖書(真の聖書福音)を教えないから、少数派だから従うのを躊躇うと、その末路は悲惨なものとなります。

 

更に、闇雲に神を信じるのではなく、理性を持って聖書の言葉(言葉は神である)を読み解き、首尾一貫した真っ直ぐな道を見出だし、聖書の言葉を体現出来ることが大事です。聖書の言葉の力、聖書の論理(筋道、真っ直ぐな道)の力に拠るべきです。たとえ学校の教科書や政府ら世の権威が、聖書真理を教えなかったとしても、聖書に確信を持ち、言行を体現出来たのなら、それは純度の高い信仰と言えます。それは、自ら読み、調べ、検証し、確信を持ち、行動し、躓いても立ち上がり、最期まで行動し尽くすことで、最高純度の信仰へと至ります。これを「選び取る」からこそ、価値があります。そこに明確な意思がなければ絶対に為し得ません。

 

世が教える嘘として、コロナ犯罪は最も身近な例です。コロナ犯罪によって日本だけでなく、海外でも大勢が亡くなっております。救急車出動が頻発している、訃報が多い(特に若年層)と身近に感じないでしょうか。これまでに無いことが起きている以上は、何か事が起きているはずです。それを政府も報道機関も報じないのは、意図的に「報じていない」だけです。「まさか彼らがそのようなことをするとは」との盲信からいい加減に脱却しましょう。手前も、世の悪について、初めて詳細を知った時は信じ難い気持ちでした。「話には聞いていたけれど、それが現実のこととして展開すると、頭が追いつかない」という状況です。テレビをよく見ていた時がありました。ある報道番組に対して「あの感じの良い出演者も、あれほどの肩書きのある有識者も、嘘をついている」と思うとぞっとしました。こんなことはせいぜい、映画やテレビの創作の世界の話だろうと思いました。しかし、実際はこの世全体が嘘に塗り固められておりました。受け入れ難くて現実逃避する気持ちも、分からなくはありません。嘘が大き過ぎて、嘘が「常識」と見做されるとは何の悪い冗談かと言いたくなります。しかし、騙されっ放しで、嘘を信じ続けるのが良いかと問えば、絶対にそれは間違いです。「騙されるのはもうたくさん」と思うのがまともな感覚ではないでしょうか。そして、どうやったら嘘を見抜けるのでしょうか。嘘を退ける方法は、矛盾を突くといったやり方もありますが、もっと根本的に有効なのは、「本物(真理)を知る」ことです。但し、世の諸教会の「キリスト教」では、本物を知ることは出来ません。却って道に迷うので絶対に行ってはなりません。こちら(以下)に贋作(偽物)を掴まないための四つの留意点が挙げられ、信仰にも活かせると思ったのでご紹介します。

①間違いの少ないルートから買う

②書籍や図録の掲載品の中にも贋作があることを知る

③贋作を手にした時の後悔を繰り返さない

④本物を実際に手に入れる

 

引用:note「備前鑑定の古陶磁鑑定美術館」

上記の括りを参考に、悪魔の嘘に騙されず、真理に生きることについて述べていきます。

 

一、正しい真の聖書福音を教えるキリスト者から学ぶ

信仰の無い方でも「聖書」と聞けば「キリスト教」と連想し、「教会」が思う浮かぶと思います。手前も最初はそうでした。手前にも最初、聖書を教えてくれた方が居て、聖書を碌に読みもしないまま、付き合いで地上の教会に行きました。牧師の説教は漫談も交えて面白く、すっかり虜になったのが過ちの始まりでした。だから「キリストの教えに留まる者(キリスト者)」ではなく、「教会信者」「牧師信者」でした。善悪の基準、罪の定義、悔い改めの定義、神に忠実であることの定義、神の御命令等、基本的な理解が欠けていたので、目的無き信仰に陥っておりました。正しく教わることもありませんでした。手前は、よくある「心の拠り所を欲して」地上の教会にいった口でした。「心の救済」と言えば聞こえは良いかもしれませんが、利益信仰があったのは否めません。「キリスト教の教会」に行って、「(形式的)洗礼」を受けて、教会に通えば教会関係者は「よく来てくれました」と手前を肯定してくれるので、仮初の安心感を享受しておりました。神の言葉を土台とするのではなく、教会組織を土台とする生き方です。高名な組織(例えば、大企業等)に所属して、安心感を得たり自尊心を満たす行為がありますが、それと大して変わりはなく、偶像崇拝でもあったと今では思います。また、話が面白く元気になれるという口コミで新しく教会に来る方が多く、まるで「劇場」「自己啓発セミナー」のようでした。当時は、それすら「人々が元気になるなら良いこと」と世俗的価値基準で判断して、その異常さを全く認識出来ませんでした。そして、例に漏れずパウロ教の偽福音を教えるので、「信じれば救われる、律法は廃止された」と教えておりました。ただ、信じれば救われるとは教わったものの、それに全く確信は持てませんでした。それに対して、自分の信仰が浅いせいだと無駄に自分を責める思いもありました。また、その教会では繁栄の神学に基づいた考えを持っていたと思います。直接的にそのような言葉を聞いたことはありませんでしたが、言っていた中身は、後に知ったその言葉と符合します。曰く、「神を信じれば、祝福は大きい」「富めること、繁栄することは悪いことではない」、献金についても強制されなかったものの「献げた分だけ、祝福も大きい」と言っていたと思います。うろ覚えですが、手前はそのように受け取って認識しておりました。だから、毎週日曜日に礼拝に行けば(それをもって「信仰」と思っていた)、世俗の仕事に励むことも、多く稼ぐことも何ら悪いことではないと本気で思っておりました。このように聖書を通読して、真の見分けの基準を知らなければ、自分の目や感覚頼みとなり、必ずや惑わされます。木は実によって見分けられる(マタイによる福音書十二章三十三節参照)と、その教会でも頻繁に説教で語っておりました。しかし、見分けの基準が世俗的価値観なのですから、話になりません。その教会は確かに大勢が来て栄えておりました(商売繁盛と言うべきか)。しかし、だから、確かなのかと言えば、全くそうではありません。やはり、滅びに至る道は広く、そこから入る者が多いのです(マタイによる福音書七章十三節参照)。全ては神の言葉通りです。

 

聖書を知り、唯一の真の神を知ることまでは出来ました。しかし、その地上の教会が律法廃止論に基づく以上、律法に基づく善、品性の向上を説くことが出来るはずもなく、キリスト者となったけれど何も変わっていない自分がおりました。実際の生活も、世俗の仕事に忙殺され、その反動として、世俗の価値観に染まって娯楽(手前の場合は主に飲酒でした)に耽ることでしか自らを慰められませんでした。手前は、十代後半に新渡戸稲造の武士道を読み、このように高潔に生きたいと本気で思いました。しかし、実際にはそれには程遠く、自分が汚らしく思えてならず、その状態が不快でなりませんでした。「確か、聖書に大酒飲みを戒める言葉があったような...」との良心の訴えにも目を瞑り続けました。ただ「教会に通って繋がって居れば大丈夫なのだ」という根拠の無い思い込みだけに縋っていたと思います。

最初に生まれたままの状態では、人間は神を忘れて、自分のしたいこと、肉の欲、目の欲を満足させたり、生活の充実度を上げる物があるとつい釣られて、それらの虜になってしまいます。地上での人生という限りある時間をこの世の物、快楽といった肉の欲に費やしていると霊的感性が鈍くなります。

 

引用:真の聖書福音と預言「憐れみ深い神」

上記の内容は、手前の人生に十分当てはまります。世俗の価値観に従い、肉の欲、目の欲に従って生きておりました。それが普通なのだと思っておりました。ただ、世の価値観では、自分は惨めな敗者に思えてならず、自分に価値を見出だせず、苦しくて堪りませんでした。欲に耽って放縦な生き方をするほどに、自分が真に望んだ高潔さから乖離していくのが苦しくて堪りませんでした。地上の教会に行っても、自分の変化は「教会に行くようになった」「神を信じるようになった」の二つだけでした。自分の内面は、何も変わっておりません。真理の知識の習得も皆無に等しいです。自分自身は何も変わっていないのに本当に救われたのか疑問でした。ただ、それを意識したり、口にするのも怖く、ただ臆病にも黙っておりました。ヨハネの黙示録二十一章十九節には、臆病な者や嘘を言う者は第二の死と明確に書かれております。「これに抵触していると思うのだけれど」と薄々は思うのですが、それ以上考えると、全てが瓦解しそうで考えることが出来ませんでした。過去記事で触れましたが、その地上の教会では牧師の不祥事が有りました。教会内部ではそのことに全く触れられず、語られもしませんでした。そもそも不祥事があったこと自体、手前はネットを通じて初めて知りました。「外から知る」のは「内部では隠されている」からです。そこそこ長く通っていたので、激しく鼓動が高鳴り、指先が震えてくるほどの衝撃でした。そこから幾らかの期間、何かの間違いかもしれないという淡い期待を抱きながらも通いましたが、新たな不祥事情報が出るばかりでした。相変わらず、教会関係者は何事も無かったかのように、にこやかに振る舞っており、それが気色悪くてなりませんでした。何故、そのように平気でいられるのか訳が分かりませんでした。むしろ、こちらは気が狂わんばかりです。とてもではないがここには居られないと去りました。神の道に反した組織の末路はそのようなものだと思わざるを得ません。また、そのまま残っていたら手前も嘘つきの仲間となっていたことでしょう。そうなったらお終いです。ヨハネの黙示録十八章四節に地上の諸教会から離れ、その罪の行いに参加したりすべきではないと明確に警告されてる通りです。

 

地上の教会からは去りましたが、主イエスを信じる気持ちだけは残りました。もっとも、神の知識に基づく行いが無い「信じる」など無意味です。きっと、このような意気込みだけのにわかキリスト者だけは大勢いるのだと思います。「あなたは、何をもって、キリスト者だと言えますか。これについて、聖書を根拠に答えられるでしょうか。そして、実際に神に応えられておりますか。」と、かつての手前のような立ち位置にいる方に問い掛けたくなります。目を覚ますべきです。話を戻しますが、そこからネット上のキリスト者のサイトやいわゆる礼拝動画を見て回る日々が何年も続きました。その期間は端的に言うと、「放浪」と「虚しさ」の連続です。聖書に関するネット検索は頻繁にして、その時、手前はミカエル氏のブログに出会いました。完全に、聖書上、矛盾の無い聖書解釈に度肝を抜かれました。少なくとも手前が知る限り、誰も語っていない内容でした。「これは本物だ」と、確信がありました。「自分は生まれ変わらねばならない」「やり直さなければならない」「これに目を背けて生きる訳にはいかない」との思いが交差しました。「天啓(天の導き)」とは、本当にあるのだと思いました。そこから直ぐに改心して…と、なれば良かったのですが残念ながら、そうはなりませんでした。これまで世俗的生き方をずっと何十年と続けてきて、また、急に律法を守ろうと思っても、したいのだけれど、出来ませんでした。情けないのですが、これが実態です。ミカエル氏が兄弟の集いの場や教会を設立したことは知っておりました。ただ、「今の自分では到底無理」と尻込みしました。「まずは、聖書を通読して、律法を守って」ともっともらしい理由を打ち立つつも、門を叩こうとはしませんでした。いわゆる「外から見ているだけの状態」です。

わたしの若い友人に、小説家になることを夢見ながら、なかなか作品を書き上げられない人がいます。彼によると、仕事が忙しくて小説を書く時間もままならない、だから書き上げられないし、賞の応募に至らないのだそうです。しかし、はたしてそうでしょうか。実際のところは、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいのです。人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。時間さえあればできる、環境さえ整えば書ける、自分にはその才能があるのだ、という可能性のなかに生きていたいのです。おそらく彼は、あと5年10年もすれば「もう若くないから」とか「家庭もできたから」と別の言い訳を使いはじめるでしょう。

(略)

賞に応募して、落選するならすればいいのです。そうすればもっと成長できるかもしれないし、あるいは別の道に進むべきだと理解するかもしれない。いずれにせよ、前に進むことができます。いまのライフスタイルを変えるとは、そういうことです。応募しないままでは、どこにも進めません。

 

引用:「嫌われる勇気」、発行:ダイヤモンド社、著者:岸見 一郎、古賀 史健

上記は、行動すること、その勇気を持つことの重要性を伝えております。特に、失敗を恐れて、行動しない言い訳を作り、可能性を残したままの状態に留まる危険に言及している点が秀逸だと思います。手前もまさしくこの状態であったと思います。「聖書真理に感動した」「真のキリスト者を目指す」という状態だけを切り取れば、ある種の酔いしれた気分になれると思います。しかし、聖書が教えている通り、行動しなかったら意味がありません。そして、一人でどうにか出来る人は非常に稀だと思います。普通の人は、助けを借りながらやるしかないのです。集いと教会に進ませていただいて分かったことは、どの兄弟も弱さや課題を抱え、必死にキリスト道を歩んでいることです。その必死の姿にどれほど励まされたことか、また、学ばせていただいたことか計り知れません。この環境が成長には不可欠であると思います。

 

自分よりも進んだ人の前に出るのは勇気が要ります。出来ない自分を目の当たりにするのは正直、辛いです。手前は「お前は駄目だ」と言われることを人生で最も恐れてきたと思います。しかし、それは他者からの厳しい言葉を、全て自分への駄目の烙印と間違って解釈していただけです。正当な意見であれば受け取れば良く、そうでなければ反論すれば良く、理性的に受け取ることが大事です。叱責についても「今は、出来ていない」という状態があるだけで、それをもって「駄目」と断定する(もっと言えば断罪する、烙印を押す)のは、過度な解釈で、サタンの罠だと思います。「今は、確かに出来ていない。それで、今から、どうするのか。」と、考えるべきです。受験でもそうですが、正確な今の自分の力量を知らずして、成長は有り得ません。最初に受ける模試の結果に打ちひしがれるのは常かもしれませんが、そこは正しく受け取る必要があります。ミカエル氏は戒められることを恐れるなと記事で何度も言われております。そして、ミカエル氏の指導には「良くなるためには」の前提が必ず有ります。聖句にも「我が子よ、主の懲らしめを軽んじるな。懲らしめられる主によって弱くもなるな。主は愛する者を懲らしめはり、主が受け入れるすべての子を多大な苦難に遭わせるからや。(ヘブライ人への手紙十二章五節から六節:引用 真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」)とある通りです。肉の欲に従えば、誰だって楽をしたいし、苦しい思いは避けたいものです。手前も、常にその誘惑との戦いです。しかし、それに抗って、打ち勝って励むことで得られる成果にはとても価値があり、その精神こそ大事であると思います。やってやれない事は何もなく、当初も、今も変わらず、覚悟と行動と継続出来るかが問われ続けていると思います。これが手前の実感です。

 

昨今、「自己肯定感」という言葉が頻繁に使われるようになりました。個人的には、パウロ教徒の生温さにも似た雰囲気を感じます。こちら(ユーチューブ)の動画にて元野球選手のイチロー氏が対談で「自己肯定感」についての見解を述べており、とても大事な指摘をしていると思うのでご紹介します。前置きとして、イチロー氏は不信仰のようですが、それでもやり抜くことに関しては抜きん出た人物であると思います。これを信仰に活かせると考えました。三分二十二秒より、「自己肯定感強い人って、ストレスフリーで楽しそうに仕事しているって、そういう感じですか。(そうです、そうです)それってどうなんですかね。良いなって思うけど、人としての厚みは生まれるのだろうか。」「明らかに駄目なのに、否定されない。つまり、自分でも振り返らない。いいことしか考えない。第三者からも厳しいことは言われない。そうなったら、人間ですから、弱い生き物なので、基本、僕は堕落すると思うんですけどね。人が最悪になる時って、自分が偉いと思った人たち、(これは)最悪だと思う。魅力的じゃない状態が生まれる。周りに厳しいことを言えない状態を作られたら、どうやって自分を律するのか、そういう時間がないように思える。」等と言っております。まさしく、「信じるだけで救われる」とただ「肯定」されるだけでは、磨かれず、むしろ堕落するのだと思います。他にも「(手応えを実感しながら仕事をしていきたい、の言葉に対して)それを重ねていくと、過去にあった自分と、その時の自分と大分差があると思う。自己肯定感が強い人は、それが同じだと思う。過去の自分と今が変わらない。」とも言っており、まさしく、磨かれなければ成長など有り得ません。世の風潮もそうですが、偽福音も、人から成長の機会を奪い、人々を駄目にして、滅びに至らせていると認識するべきです。その上で、神への愛があれば、自ずと能動的になると強調しておきたいです。

「やり抜く力の半分は、粘り強さです」と説明すると、保護者たちはうなずく。ところが、「でも誰だって、自分が本当に面白いと思っていることでなければ、辛抱強く努力を続けることはできません」と言うと、保護者はうなずくのをやめたり、首をかしげたりする。

(略)

「ただ好きだからといって、上達できるとは限らない。努力をしない限り、上達するはずがないのだ。だから多くの人は、好きなことをやっていても全然うまくならない」私も本当にそう思う。自分の興味があることを掘り下げるにしても、練習に励み、研究を怠らず、つねに学ぶなど、やるべきことは山ほどある。だからこそ言っておきたいのは、好きでもないことは、なおさらうまくなれるはずがないということだ。

 

引用:「やり抜く力 GRIT」、発行:ダイヤモンド社、著者:アンジェラ・ダックワース

世の事柄の取り組みにしても、好きこそ物の上手なれ(好きな事にはおのずと熱中できるから、上達が早いものだ。(出典:デジタル大辞泉(小学館))と言います。神の民に相応しく努力を重ねることは、確かに大変です。苦労もたくさんあります。それでも渋々ではないのは、神への愛があるからです。神を愛するなら、それが可能となります。『人は自分が愛する者に従います。神を愛する者は、神の律法、掟、戒めを擁護し、喜んで従います。サタンを愛する者は、サタンと同じように神の律法、掟、戒めを嫌い、違反し続けます。(引用:真の聖書福音と預言「神の憐れみ」)』と言われている通りです。この事を忘れてはなりません。

 

本記事で、既に何度も引用している真の聖書福音と預言「神の憐れみ」の記事の中で、『聖書を手に取って読む機会があったことや、イエス・キリストを口先だけで崇めるようになることが神の憐れみではありません。』と言われている箇所があります。手前もそう思います。むしろ『放蕩息子のたとえに戻りますが、ルカ15:17で彼は我に返ったとあります。それまで肉の欲で放蕩の限りを尽くしていたけれども何一つ得るものがなく、周りの人間も金が尽きた途端離れて行き、誰からも相手にされず、食べ物に困って窮地に立った時、それまでの行いが神に敵対することだと神から悟らされた時、我に返ったのです。これは創造主の神への信仰に目覚めさせる神の導きです。それでサタンの欺瞞に騙されていたことを悟り、同時に、自分自身の愚かさと罪から来る結果が受けた苦しみだと気付いたのです。』という改心への神のお導きこそ神の憐れみだと思います。「我に返る」とは『気を失っていたのが正気づく。他に気を取られていたのが、本心に返る。(出典:デジタル大辞泉(小学館))』の意味です。そして、「健全な精神に戻る」の意味もあります。本心とは良心であり、良心によって『サタンの欺瞞に騙されていたことを悟り、同時に、自分自身の愚かさと罪から来る結果が受けた苦しみだと』初めて気付けるのだと思います。手前にもそのような経験があります。正しい聖書理解が無くして、我に返ることは出来ないものと思います。

 

贋作(偽物)を掴まないための留意点の一つ目の元文は『間違いの少ないルートから買う』です。ヨハネの黙示録三章十八節には「我は、お前が裕福となるよう火で試された我が金を買うことを助言する。(参照)」という言葉があります。『金(χρυσίον)』は精錬された価値あるもので、『試された(πεπυρωμένον)』は大艱難等の試練と思われます。『裕福(πλουτέω)』には比喩的な意味として、天に宝を積んだ状態と思われます。そして、『買う(ἀγοράσαι)』には単に「買う」だけではなく、「(犠牲を払って)獲得する、手に入れる」の意味があります。これは、試練を通して神の目に適う状態となることを指していると考えられます。これらを踏まえて、世の諸教会では、犠牲を払ってようやく手に入れる程の、真のキリスト者としての成長の機会を、到底提供し得ないと断言できます。聖書が伝えているはずの「行い」を否定しているのですから当然です。よって、正しい真の聖書福音を教えるキリスト者から学ぶより他は無いのです。現状ではミカエル氏以外にそれは見当たりません。故に、これまで何度も申し上げてきた通り、集いを経て、教会にて学ぶ以外に、他により良い手段が無いと思われます。

 

 

 

二、世の「キリスト教」は間違いだらけ

この世全体の内の一部分が間違っているのなら、まだ気付きやすいです。ところがこの世全体が間違っているのですから始末が悪いです。部分的に良くない所があると言えば、人々には受け入れられやすいです。しかし、聖書に照らせば全てが間違っております。それは福音においても同様です。

 

ネット上には、パウロ教神学に毒された「説教」動画に溢れています。ある動画では、『律法は良きものです』という題名があったので試しに見てみました。ところが『律法とは、あくまで罪を示すものであるが、完全でいることを自分に要求したり、自分を縛り、律法に怯える不自由な生き方は本来ではない。そこから解放してくださったのが主イエスであり、律法を守る生き方に意味はなくなった。信じるだけで罪が赦され、聖とされる恵みの世界を生きて欲しい。』と言っておりました。律法は良いものと言いながら、見事に自身で否定しております。主イエスは『天に御座すあんた方の父が完全であらはるように、あんた方も完全になりなはれ。(マタイによる福音書五章四十八節:引用 真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)』と言われたにも拘らず、なぜこうも神の言葉を否定するのか、その自己矛盾に気付かないようです。また、仮に信じて過去の罪が赦されたとして、その側から新たにどんどんと罪を犯し続けたら意味がありません。それとも、未来永劫、その人が犯す罪も帳消しになるというのでしょうか。主イエスは、悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)と言われました。旧約の預言者も、罪を犯すなら滅びる(エゼキエル書十四章十三節、ミカ書六章十三節等参照)と言われ、ヨハネの黙示録二十一章から二十二章でも同様に言われております。律法廃止論に立つということは善悪の基準を放棄したに等しく、その基準に基づく悔い改めを出来なくするも同然です。神の律法、掟、戒め(福音伝道、兄弟愛も含め)を守り、高潔となって白い衣が与えられる(ヨハネの黙示録六章十一節参照)までには相当な鍛錬、努力の積み重ねが必要です。一般社会においても、楽して得られることなど何もありません。例えば、まともな親ならば、子に対して怠惰を戒めるはずです。楽することばかりを覚えても、碌な大人にならないと分かっているからです。また、仕事においても、技術が要求されるような職種であれば特に、必死に研鑽していくのが常です。そもそも、マタイによる福音書二十五章のタラントンのたとえの箇所にて、三十節では役に立たない僕は追い出されているではありませんか。世の諸教会の教えは聖書に書かれている内容と矛盾します。只より高いものはない(ただで何かをもらうと、代わりに物事を頼まれたりお礼に費用がかかったりして、かえって高くつく。【出典:デジタル大辞泉(小学館)】)ということわざがあります。例えば、ラインは無料で利用できますが、そのやり取りの情報は提供側に見られております。無料であるからには理由があります。「律法廃止論」、「行いは不要」の偽福音の代償は、第二の死です。主イエスから、「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を働く者ども。(マタイによる福音書七章二十三節:引用 真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」)」と言われるだけです。

 

ところで、地上の教会に通っていた時「祈ってます」という言葉をよく聞きました。あたかも定型の挨拶かのように使われていました。今となって思うのは、生温く便利な言葉だと思います。本来、兄弟姉妹同士ならば互いに弛まず努力するように鼓舞したり、問題を指摘したりするような、高め合う声かけがあって然るべきだと思います。「良くなっていくために◯◯が必要だよ」などです。もっとも、行いを否定しているからそのようには決して言えないのでしょう。だから、ただ神の手が働くこと、他力本願となって「祈ってます」という言葉が出てくるのだと思います。しかし、実際には聖霊が働くにしても、神の掟を守ることが前提です(ヨハネの手紙十四章十五節から十六節参照)。また、以下のようにも言われております。

 

イザヤ書五十九章一節から二節(参照)

見よ、主の手が短くて救えないのではなく、耳が鈍くて聞こえないのでもない。

お前たちの不正がお前たちとお前たちの神との間を隔て、お前たちの罪が神の御顔をお前たちから隠し、耳を傾けることを閉ざしている。

 

罪の故に、自らを神から遠ざける結果となっております。パウロ教信者は、キリスト者としての成長の手応えを感じられているのでしょうか。何も感じられていないのではないでしょうか。少なくとも、手前は当時はそうでした。神の律法、掟、戒めを守らずにおれば、何の成長の変化が無くて当然だと思います。むしろ悪くなる一方なのではないでしょうか。恐ろしいのはその自覚が持てないことです。

 

『②書籍や図録の掲載品の中にも贋作があることを知る』にある「書籍や図録の掲載品」は、人々が信じるであろう世の権威に置き換えることが出来ると思います。そして、「贋作がある」どころか「贋作しかない」状態です。皆が盲信しているので、偽福音を喧伝している者もそれを全く認識しておりません。しかし、知らないから免罪とはなりません。かつての自分もそうですが、聖書の文脈を全く理解していない、検証もしていない、聖書よりも世の権威(神学)を上位に見ていることが露呈しているだけです。また、以下の内容も決定打であると思います。

十二、(神の)王国の福音があらゆる民への証しのために、全世界で宣べ伝えられた時、終わりが来る

 

この主イエスの予告こそが世の諸教会が吹聴する偽使徒パウロ由来の偽福音と偽教義が神の王国の福音ではない、即ち、パウロと世の主流派が信じて吹聴してる偽福音は、主イエスと十二使徒が宣べ伝えた福音ではないという証拠になってる。もし世の諸教会が吹聴するパウロ教の偽福音がそれならば、世の終わりがとうの昔に来てる筈やが、そうではないんやからね。せやから、偽使徒パウロの偽福音は、主イエスが宣べ伝えはった王国の福音やないということの証明や。また、世の終わりの直前に真の福音が全世界に広まると示されてる故、四世紀から二十一世紀の現在まで主流となってる偽使徒パウロの教えとそれを支持する諸教会や諸教派はすべて偽りと分かる。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」

この中身を見て「あれ、これは確かにおかしいぞ」と気付ければ幸いです。しかしながら、実際にはそのような事例は個人的にはまだ聞いたことがありません。そして、救われる者は非常に少なく、終末はノアの時のようとの内容にも符合します。矛盾や綻びを認識出来るかはとても大事です。少なくとも世の権威(神学)を盲信していたら決して気付けないと思います。また、大雑把であったら流してしまい疑問にすら思えないでしょう。聖書の言葉は注意深く見れば見るほど多くのことを教えてくださいます。一箇所ではなく、随所に散りばめて、全体の真っ直ぐな道を構成しており、部分的に、または表面的にだけ見たら必ず見落としがあるでしょう。ところで、真の聖書福音と預言「二種類の基礎」等の記事で更新された集いや教会の入会要件が書かれておりますが、これを見落とさないようにしなければなりません。これは、神の王国に入るための要件を見落とさないことに通じると思います。聖書に神の御命令が書かれており、それを見落としたら致命傷となります。共に、書かれていることをきちんと読解しているかが問われております。

 

箴言三章七節(参照) 

自分の目に知恵があると看做すな。主を畏れ、悪から離れよ。

 

一の箇所で引用した動画の中で、イチロー氏が「やったことに常に疑問符をつける」と言っており、自分の語る内容一つにしても本当にこれで良いのか考えていると言っておりました。こういう姿勢は大事なのだと思います。その上で、知恵とは分別であり、分別とは善悪の基準(神の律法、掟、戒め)に拠ります。「世の権威」、「世の教会組織」、「自分の経験や感覚」が、判断基準ではありません。「秩序」とは「物事の正しい順序(引用:スーパー大辞林)」であり、偽福音とは秩序を乱す行為に他なりません。律法を軽視するのは基準の軽視に他ならず、「善」と「悪」の定義ごと狂わせる非常に質が悪いものです。

 

箴言五章十二節から十四節(参照)

我はどれほど懲らしめを嫌い、我が心は叱責を軽蔑してきたか。我が指導者たちの声に従わず、我への教えに我が耳を傾けなかった。我はキリスト者の会衆の中で最悪の者となった。

 

律法廃止論では真の悔い改めは出来ません。そこには善悪の基準(神の律法、掟、戒め)に則った懲らしめも叱責もありません。「信じれば救われる」の考えに立つのですから、その人は何も変わりません。キリスト者を自称したとしても、神の目には不法を働く者でしかなく、まさしく最悪の者となるのは当然の結果でしょう。

 

三、罪を犯して生きていた時の後悔を繰り返さない

『③贋作を手にした時の後悔を繰り返さない』の言葉がそのまま適用する位です。後悔は教訓となり、強い動機付けにもなります。

 

ヨハネの黙示録二章十六節(参照)

お前は悔い改めよ。さもなければ、私は直ぐにお前の所に行く。我が口の剣で彼らと戦おう。

 

『悔い改め(μετανοέω)』の原語には、「後悔」の意味があり、律法の善悪の基準に則り考えを改めること、良心の呵責や咎めを感じることを意味します。良心についても、世俗社会での道徳的な良心ではなく、ここでは神の基準(律法による善悪)に基づきます。にわかキリスト者時代の手前は、罪とは法を犯すこと(ヨハネの手紙一 三章四節参照)をそもそも知らなかったので悔い改めが出来ておりませんでした。「世俗の道徳基準に照らして、自分は何も悪いことはしていないし、本当は何を悔い改めたらいいのか分からないけど、神を知らずに生きてきたのは間違いない」程度のことを認めて、悔い改めと思っておりました。恥ずかしい話なのですが「とりあえず、悔い改めをしないといけない」という程度の考えでした。実に恥ずかしく、みっともなく、惨めであったと思います。信仰の入り口に立つためにも『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節)、主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節)引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」』の通りに、神を畏れる行為が不可欠です。神の厳粛さ、絶対さがあり、それは律法に表れていると思います。世俗的には普通に生きているつもりでも神の律法、掟、戒めに基づけば、どれほどの罪を犯しているか、自分が死刑に値する立場であるかと分かるはずです。律法無くして真に神を畏れることは、ままなりません。真に神を畏れなければ、真の良心も持ち得ません。洗礼とは神に正しい良心を求めること(ペトロの手紙一 三章二十一節参照)であり、神の掟を守ることで聖霊が与えられ(ヨハネの手紙十四章十五節から十六節参照)、『聖霊は人間の良心に訴えかけ、目を覚まさせ、私たちが罪深い罪人であり、救い主イエス・キリストを必要とすることを強く認識させます(引用:真の聖書福音と預言「聖霊の賜物について」』と全て繋がっております。『我が口の剣』は、まさしく神の言葉であり、別の箇所の聖句の『μάχαιρα(剣)』には「司法の罰」の意味があり、神の善悪の基準で裁かれることを意味していると思います。『お前は悔い改めよ。さもなければ、私は直ぐにお前の所に行く。』は恐ろしい言葉だと思います。罪の赦しの時(恩恵期間)を終えて、速やかに裁くと言っているからです。総じて、『悔い改め(μετανοέω)』は、心を良い方向に変えること、過去の罪を憎んで心から改めることであり、行いが伴わない信仰は役に立たない(参照:ヤコブの手紙二章二十節参照)ことを踏まえ、「悔いる(心・良心)」と「改める(行い)」が一体であることは明白です。

 

先にも述べたように、手前が真の聖書福音を知ったのは地上の教会を去ってから何年も経ってからです。迷いに迷って真の聖書福音を知ったことはとても嬉しかったのですが、実際にどうやって真のキリスト者として生きていけるかを考えると正直、気が重かったです。まだまだ、世俗の価値観に染まり、人目も気にしていたからです。ミカエル氏の記事コメントに書き込みをされた方の中には、行動することに尻込みしている様子の方がおり、昔の自分の姿に重なります。手前も通った道だからです。しかし、「世俗の価値観に軸足を置いているから腰が引けているだけ」だと申し上げたいです。軸足を真理に移すと、「何故、あんなことを気にしていたのだろうか。」と無駄に思い煩っていたと莫迦莫迦しくすら思えます。この「軸足」を「世俗」から「真理」に移すことがどうやってできたのかについて、手前の理由を簡単にお話しします。三つあります。一つは、偽福音に躓きましたが、唯一の真の神を信じ、本気で信仰に生きたいという思いは変わらなかったことが前提にあります。長かった放浪期間も相まって、律法に対する正しい認識が無かった時でも「自分は堕落している」という感覚は少なからずあり、「このままでは不味い」との焦りがありました。二つ目は、聖書の言葉に対して、これ以上、見て見ぬふりは出来ないとの思いがあったからです。まず、ミカエル氏の聖書解釈に矛盾がなく「これは本物だ」という確信がありました。放浪を経て真の聖書福音に出会った訳ですから、大きな喜びがありました。同時に「問われている」こともひしひしと感じていたのだと思います(恥ずかしい話ですが、先述の通り、それでも直ぐ行動できずにいた期間がありました。)。過去記事で何度も言ってきたことですが「これ以上、知らなかった時のように生きる訳にはいかない」に尽きます。聖書の神は、唯一の真の神です。御自身以外に、他に神はいないと繰り返し旧約聖書で言われております。神とは、絶対です。絶対とは『 他に並ぶものがないこと。何物にも比較されないこと。比較や対立を絶した存在であること。 一切他によって関与・制限されないこと。無条件。(引用:スーパー大辞林)』です。その神の言葉を前にして、「いや、ちょっと…」「人の目が怖い」「自信がない」などとは、本当は言っていられないのです。絶対者を前にすれば「然り」しかないのです。「目を背けるな」「自分の責任から逃げるな」ということです。自分の人生経験を通じても、自分の人生の課題等を突きつけられた時、逃げたり、見ないふりをしても何ら良い結果には繋がらないことは嫌という程、味わいました。三つ目は、世俗社会に絶望していたので、今更、世俗社会に希望を持つ生き方はもうしたくないと思ったからです。手前は、碌に秀でた所がなく、世の流行りにも乗れず、社交的でもなく、劣等感を持つ事が多かったです。それでも何とか活路を見出だそうと、仕事に励み、そこで自分の価値を感じたり、存在意義を得ようとしました。その末路はボロボロとなった心身及び魂でした。確かに、一時は庶民感覚的に、それなりの社会的地位や収入を得られました。しかし、不思議な程に、全く嬉しくありませんでした。充実感も大して無く、却って苦しみが増すだけでした。まさしく、「飲むほどに渇く」状態でした。もう少し、何かしら手応えがあると思ったのですが、その立場を維持するだけでもとても大変で、これまで以上に重くのしかかる負担に対して、いつ自分の力の無さが露呈するかと恐れました。努力をしても空回りするようになり、いつしか自分を見失ってしまいました。その一方で、小手先で取り繕うことばかりに長けて、自分の情けなさに自己嫌悪に陥ることもしばしばありました。あのような状況には二度と戻りたくありません。自分が本当に望んだ生き方では無かったとつくづく思います。それに比べ、全能者、絶対者である神を見て、応えようとする生き方には確固たる充実があります。世俗に価値を見出ださなくなる過程は、手前が本当の意味で前に進むために不可欠であったと思います

 

イザヤ書六十六章二節(参照)

我が顧みるのは、へりくだる人、霊の苦しんでいる人、我が言葉におののいている人。

 

へりくだるのは、神を絶対者として認め、畏れているからです。霊が苦しんでいるのは、 律法に基づいて、犯した罪や悪業などを後悔して、自責の念を抱いているからです。万物を創造し、今も生かし、やがて裁き、死後の永遠を決める権威を持つ絶対者を思えば、この神の言葉におののかずにはいられません。

 

こうした感覚は、改心して生きていくためには不可欠であると考えます。これ以上、盲目に世のとりこになり、生きているけど心も霊も死んでいるかのようなあの日々は、手前はもうたくさんです。「死んだも同然」の状態から、招かれたのですから、「精一杯、応える」の一択しか考えられません。後悔は、次に進む大事な、不可欠な段階だと思います。

 

四、本物を知る

これまでお伝えした一から三に重複しますが、「本物を知る」に尽きます。本物とは、聖書真理です。最初から拒絶したり、拒否姿勢を示す者にはどんな言葉を用いても聞く耳は持たないので、もはや仕方がないと思います。しかし、少しでも気になるのであれば、御自身で聖書を読むべきです。こちら(真の聖書福音と預言 【第七回】何故聖書を信じるか)に、聖書を信じる意義について分かりやすく説明されているのでぜひご覧ください。信じる経緯は実に人それぞれです。腑に落ちる経験も人によって多様だと思います。手前のように、何かしら人生を生きる上での課題を抱えて聖書に行き着いた方もいらっしゃるかもしれません。また、荒れ果てた世俗社会に疑問を持って聖書に行き着いた方もいると思います。とかく、この世の仕組みは悪魔崇拝者の支配層が作った故、あらゆる偽りに満ちております。悪徳政府の政策が個人生活に生き辛さを及ぼすことや個々の問題点について、ミカエル氏が「日本人の問題点」の一から五までまとめております。目先の生活のことからこの世全体のことまで全てが連動しており、悪しき者の支配下にあることが理解出来るはずです。何故、特に日本人がここまで凋落しているのか。それは律法違犯の呪いが臨んでいるからです。何故、支配層と駒である政府がここまで出鱈目をして国民を苦しめるか。それは日本が古代イスラエルの末裔のいる国だからです。聖書には、この天地の始まりから終わりまでを一貫して書かれ、パウロ書簡を除けば内容に矛盾がありません。そして、神の言葉は真実であると、手前は日々の生活でたくさん実感させていただき、確信は深まるばかりです。確信によって、腹が据わってきます。聖書真理、すなわち、真っ直ぐな道を知れば、世の事柄は矛盾だらけで曲がった道ばかりだと嫌と言うほど認識出来るようになるでしょう。偽物に騙されない確実な方法は本物を知ること、聖書の言葉の力、聖書の論理(筋道、真っ直ぐな道)の力を知ることだと思います。

 

結び

今回は、英断を恐れるなと題してお伝えしてきました。英断とは、『思いきりよく物事をきめること。すぐれた決断。(引用:スーパー大辞林)です。何故、英断が必要なのか、何が英断なのか、どうして英断を恐れてはならないのかについて以下のようにまとめます。

日本には、古代イスラエルの名残があり、その末裔がいる日本であるにも拘らず、ずっと聖書真理(真の聖書福音)が語られず、世の嘘に騙され続けておりました。そのままの状態では、神の正しい裁きによって、人は永遠の滅び(第二の死)に至るしかありません。しかし、神の律法、掟、戒めを守り、主イエスを信じて受け入れ、主イエスと新しい契約を結ぶことで、有罪判決を免れる(神の目に適う)道が開かれます。但し、最期まで忠実であることが必要です。そして、近い将来、罪の赦しを終える(恩恵期間の終了)大艱難期に突入します。それまでに、キリスト者として完成する必要があります。悪が闊歩し、明らかに壊れつつあるこの社会にしがみ付いても滅ぶだけです。そうではなく、聖書真理こそ本物と見出だして、それに従うことこそ英断です。具体的には、これまでの常識を改め、房付き和服を来て、日本語を大切にし、日本食に親しむこと、聖書研究や福音伝道に励み、そして、世俗的な生き方(拝金主義、享楽等)をやめて神の律法、掟、戒めを守り、高潔な品性(内面)を帯びることですぐずぐず迷っている時間などありません。今すぐ改心して、行動ましょう。確かに、これまで浸ってきた世俗的生き方や常識を退けるのは大変かもしれません。しかし、大変と感じるかもしれませんが不可能ではありません。やってやれないことはなく、「やれない」と思ったら終わりです。何度失敗しても、肉の欲や自己愛に抗い続けることです。

個人的には、偽福音教会から去ったこと、ミカエル氏のブログに出会い真の聖書福音に従う決心をしたこと、集いを経て教会に入会させていただいたこと、日常生活のあらゆる悔い改めの実施(服装、安息日遵守、働き方の変更等)、聖書研究や福音伝道に励むようになったことが英断であったと思います。途中、世の価値観に引きずられたことも、葛藤も、失敗も、辛い思いもありました。しかし、諦めようと思ったことは一度もありません。逃げたらどこにも辿り着けないと思うのと、真の神を知って、知らなかった時のようにはもう生きられないからです。そうかと言って、今の自分が万全とは全く思いません。自分の不完全さは自分がよく分かります。この、等身大の自分と向き合うことを手前は恐れて、ずっと回り道をしてきました。真理を知ったことで、かつて恐れたこと(世の価値観で自分の測り、価値が無いと思い絶望した。社会や他者から評価される自分でなければならないとの嘘に苦しめられた。)はサタンの嘘であり、恐れることではないと知りました。残りの生涯は、絶対者である神に喜ばれる生き方を全うしたいと思いました。

先にも申し上げたように、神との出会いやお招きの経緯は人それぞれです。ミカエル氏は『人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。(引用:真の聖書福音と預言「二種類の基礎」』とまで仰ってくださっております。英断を下すために助言が必要であれば、是非ともミカエル氏に相談することを勧めます。

一般的に、英断は、これまでと異なる道への選択に対して使うことが多いと思います。それ故、勇気が要ることだと思います。簡単ではないからこそ大きな意義があると考えます。「英断を恐れるな」とは、手前自身の実感であり、それを是非ともお伝えしたく記事にさせていただきました。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

昨今、政府の目に余る醜態が止むことなく繰り広げられております。政府だけではなく、それを許す国民の堕落も深刻です。それは歴史上、見られてきた国が滅ぶ時の様相そのものではないかと思います。悪徳政府は憲法を尊重擁護せず、新世界秩序構築に向けた再編を最優先しており、やがて我らが見知ったこの社会の形が根本的に改悪されて、全く異なった暗黒社会に変貌を遂げる岐路に今はあります。聖書の預言通り、不穏な状況が起き始め、社会的にも、また、個々が精神的にも揺り動かされている時だと思います。今回は、「苦難に解決はある」と題して、この不安定で切羽詰まった中にあっても、背水の陣で挑むべき真に価値あることについて、苦難に対する真の解決について述べて参ります。

 

まず、題名にある「苦難」について定義したいと思います。この記事においては二つの意味を想定しております。

一つは、この世を支配する悪しき者(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)の下にあって、不正義が横行し、その影響を受けることへの苦痛です。一例として、コロナ犯罪があります。殺人者と化した政府や報道機関等に惑わされて接種した者、中には強制された者もおり、その結果として死亡したり、心身に故障を抱える事態が多数発生しております。また、接種者を媒介して、未接種者にも体調不良を来すなど最悪の大量殺人兵器と言えます。こちら(X)の通り、日本では超過死亡が四十万人を超え、世界的にも千三百万人が亡くなったとされ、これは大量虐殺です。それにも拘らず、日本の報道機関はこれを報じず、Xの「ノート」では「後遺症を裏付ける科学的根拠はありません」などと平気で「問題が無い」と主張する有り様です。かつて河野太郎氏が「ワクチン接種で死んだ者は居ない」と発言しましたが、こちら(X)の国会答弁では、「あくまで当時の資料に基づく」とだけ吐き捨てるように言い放ち、おおよそ被害者への思いやりも労りもない、悪魔のような返答をしております。これほどの悪(不正義)が裁かれず、今も尚、この悪が闊歩する現実を見るのは、苦痛以外の何者でもないと思います。当然、これだけでなく、真の聖書福音と預言「日本人の問題」の一連の記事で貧困、就労、税等のあらゆる生活環境が悪化させられ、生き辛くなった日本社会の実態が詳かにされている通りです。これらを野放しにしている国民の問題もありますが、巨悪によってもたらされているのは、肉体的、精神的、社会的な苦難です。

二つ目は、神への忠実(神の律法、掟、戒めを守ること)が阻害されたり、反キリスト行為が横行することへの霊的苦痛です。主イエスと新しい契約を結べば、心に律法が刻まれます(ヘブライ人への手紙十章十六節参照)。それ故、律法違犯に対して、非常に大きな苦痛を感じます。実際には、世の誘惑に遭い肉の欲を刺激されたり、世の多数派にくみせずに真っ直ぐな道を歩くことで様々な妨害や抵抗を受けることがあります。現実には、これらとの戦いが常に待ち受けます。それにも拘らず、世の「キリスト者」、つまりはカトリックやプロテスタント等、キリストの名を語るパウロ教カルトは律法廃止論を唱えるため、そもそもこのような霊的苦痛を感じません。彼らが世に蔓延っているため、真に聖書に依拠した福音が知られておらず、偽福音だらけのこの嘆かわしい状況にも苦痛を感じざるを得ません。日本は古代イスラエルを受け継ぐ国です。しかし、多くの日本人は日本国内にあるヘブライ文化の名残を認識せず(参照:真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである)、むしろ偶像崇拝(宗教、拝金主義等)が極まり、西洋化し、正義心も愛も欠如し、堕落しきっております。在るべき姿を認識せず、在るべき姿から著しく乖離している状況は、嘆かわしい限りです。房付き和服が古代イスラエルの服装であることや和食、日本語などの日本らしさ、武士道に見る高潔な日本人の生き方等は、聖書にある神の律法、掟、戒めを守る等のヘブライ文化と繋がっております。これら、これまで誰も語ることの無かった内容をミカエル氏は伝道してくださいました。これはまさに世の終わり際に宣べ伝えられた救いをもたらす福音です。しかし、ノアの時と同様に、聞く耳の有る者は非常に少なく、殆どが異邦人の道(キリストの教えに留まらない道)が正しいと信じて、正しくないもの(真理以外の嘘)に従う多数派を形成しております。その中にあって、真の聖書福音という信念に固く立ち続けるためには、勇気が求められ、キリスト者としてのたゆまぬ努力も不可欠です。信仰のためには軋轢も厭わない行動が求められ、そこに摩擦が生じます。例えば、人の目を恐れたり、これまでの暮らしや生き方を捨てられないようであれば、神の律法、掟、戒めを守るのは困難です。「信じれば救われる」とは、主イエスの教えに反した嘘であり、実際には神の義(律法等に対する適法)を懸けた戦いがあり、それが損なわれることに何も感じないようであれば話になりません。近い将来、主イエスの名のために、キリスト者はあらゆる民に憎まれるようになる(マタイによる福音書二十四章九節参照)と予告されております。それでも尚、神に従い通すかが試されますが真のキリスト者ならば、神の律法、掟、戒めを守ることに喜びを感じるはずです。逆に、守れないことに苦痛を感じるはずです。世との妥協はあり得ず、最期までこの戦いは続きます。神を愛するが故に神の掟を守る、これがキリスト者をキリスト者たらしめる矜持です。

 

<腐敗、堕落を極める世>

イザヤ書五十六章九節から十二節に、新共同訳では「神を畏れぬ者」と副題が入れられております。そこでは、神が教えてくれた道に歩まず、むしろ私利私欲に塗れて堕落した国家の様相が書かれており、自らの状況を認識出来ない状況は、前後不覚の状態と言っても過言ではないと思います。

 

イザヤ書五十六章九節から十二節(参照)

野の全ての獣らよ、森の全ての獣らよ、食べに来るがよい。見張りは盲目で彼らは皆、何も悟らず、物言わぬ犬である。彼らは吠えず、伏して眠り、まどろみを愛する。この犬どもは強欲で飽くことがなく、彼らは皆、自分の持ち場からそれぞれが自分の利益のために自分の道を離れる自覚無き羊飼いである。「さあ、来なさい。我はぶどう酒を持ってこよう。そして、我らは強い酒をたらふく飲もう。明日は今日と同じように、もっと素晴らしくなるだろう。」

 

「見張り」とは、エゼキエル書三十三章に「見張りの務め」のことが書かれているように、「角笛を吹き鳴らして警告する者(エゼキエル書三十三章三節参照)」です。また、上記のイザヤ書五十六章十一節にあるように、本来は羊飼い、民を導く立場の者です。それが民に対して何の警告もせず、本来の役割を果たさず、自分たちの利益しか考えず、さながら今の政治そのものに映ります。

 

自民党の裏金問題の報道について、本来であれば、主導した議員の辞職は元より、自民党総裁である総理も責任を取るのが筋だと思いますが、当事者たちが何ら悪びれることもなく、責任もとらず、こちら(X)のような厚かましい発言をしたり、当事者である松野前官房長官に対する不信任決議が否決されるや否や、薄ら笑いを浮かべたりする始末です(参照:X)。この間の政府の低落からも「強欲で飽くことがなく、彼らは皆、自分の持ち場からそれぞれが自分の利益のために自分の道を離れる」とは、決して誇張ではなく、事実そのままです。

 

そして、太陽暦一月一日に石川県で人工地震が起こされました。地震について、建物の下敷きになっている方が太陽暦一月五日時点ですら百人以上いると報じられております(参照:毎日新聞)。しかし、政府はこちら(フォーカス台湾)の通り、台湾の救助隊の派遣申し出を断りました。こちら(中日スポーツ)では、『台湾の救助隊が日本にこれても道やら地形が崩れてて被災地に入れない可能性が高いんよ 台湾には感謝を述べつつ断るのは妥当なんよ』といった意見を紹介し、政府の決定を擁護しておりますが、こちら(BBC NEWS JAPAN)では英国放送記者が輪島市に(救助隊と規模は違えど)辿り着いております。生存率が低下する災害発生の七十二時間より前の初動こそ集中的に支援に当たるべきだったと思います。『支援のニーズがない』と外務省は返答したそうですが、そんなはずがなく、政府の返答には非常に疑問があります。むしろ、助ける気がないのだと思います。その一方で、在日米軍と協力(日経新聞)はするようであり、穿った見方かも知れませんが台湾有事を見越しての訓練の意味合いがあるのではないかと思いました。そして、SNSでは、これらの裏で憲法改悪が進められることへの懸念の声が多数あり、その通りなのだと思います。また、その他の重要案件、例えばワクチン死についても、問題から今は目を逸らされており、危険な状態だと思います。

 

 

増税問題、政府の少子化促進政策の数々からも『指導者が知性を欠いてると、多大な圧迫がある。(箴言二十八章十六節:引用 真の聖書福音と預言「日本人の問題点 二」)』の状態となっていることがよく分かります。他にも、イザヤ書五十六章十二節の『明日は今日と同じように、もっと素晴らしくなるだろう。』の言葉は、岸田総理が口にした『コロナ禍を乗り越えてだんだん元気になっていく日本を強く感じた。明日は必ず今日より良くなる、こうした日本をつくっていきたい(引用:朝日新聞)』とも似ております。現実を見ずに、自らが国を破壊しながら、根拠も無く「良くなる」と、平気でこのような白々しい発言が出てくることに激しい怒りを覚えます。このことに国民は大いに怒り、抗議するべきです。イザヤ書五十六章九節の冒頭にある『חַיְתוֹ(獣)』は、野生の獣だけではなく、生きている者、もっと言えば人間、群衆をも表すようです。『לֶאֱכֹל(食べる)』は、ただ単に食べるだけではなく、「貪る」「使い果たす」「焼き尽くす」「滅ぼす」の意味もあります。また、『חַיְתוֹ(獣)』は領地の外の「野」と「森」からやって来ることから、外国人が流入(移民受け入れ等)ではないかと思います。更に、『כֶּלֶב(犬)』には、「攻撃する」、比喩的に「男娼」の意味もあり、自国民を攻撃し、自国を売る売国奴そのものを実に的確に言い表していると思います。また、「神に従う人は家畜の求めるものすら知っていると言うのに、神に逆らう者の憐れみは残酷である(箴言十二章十節参照)」という聖句がありますが、その通りでもあると思います。この世の悪の一端である為政者は、その振る舞いの故に神に逆らう者であるのは間違いありません。そして、今回の地震においても、東日本大震災に比べて後手に回り、貧弱な支援しか出来ていない様(参照:X)は「神に逆らう者の憐れみは残酷」と言われている通りだと思います。

 

こちら(東京新聞)では、二千二十二年の日本の名目国内総生産(GDP)が先進国七カ国で最下位であったと、日本経済の低落を伝えております。こちら(年中ハッピー!くらしに役立つ便利手帳)では、『若い頃から欲しいものは頑張って買っていた私でも、もう購買意欲が無いです。今の私の生活水準に合わせないと苦しくなります』『物価や税金は上がるのに、給料が全くあがらなくて困っています。1年で1500円しか給料が上がらない国が経済成長できるとは思えない。(略)国会議員の給料だけが世界トップクラスなのはいかがなものかと。増税する前に議員定数を少しでも減らしたら?』といった声が紹介されております。日本の一人当たりのGDPが増えない要因に、二千年代初頭に人件費の安い支那に日本の大企業が投資するようになったことや、非正規雇用者が増えたことが要因のようです。『カナダの大学の経済学で取り上げられたそうだ。日本の貧困者は薬物もやらず、犯罪者の家族でもなく移民でもない。教育水準が低いわけでもなく、怠惰でもなく、勤勉で労働時間も長く、スキルが低いわけでもない。世界的にも例の無い、完全な「政策のミス」による貧困だと。』との見解が伝えられておりますが、厳密には、政策の失敗ではなく、故意です。そうでなければここまで低落しないはずです。故に、もっと政府に怒り、是正を要求するべきです。

 

 

一方、「以前の日々の方が良かったのではないかと言うな。これは賢い問いではない。(コヘレトの言葉七章十節参照)」ということも理解するべきです。例えば、拝金主義に狂った金満のバブル景気の頃が良かったかと言えば決してそうではありません。長期的には、日本が日本らしさを失ったのは江戸末期の国家転覆(明治維新)からであり、偽天皇や偽日本人による政府が据えられたことや(参照:真の聖書福音と預言「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」)、先の大戦では、敵国と通じていた総大将と標的にされた大勢の国民(参照:真の聖書福音と預言「聖書に対する誤解と戦争犯罪」)がおり、着々と日本破壊が進んだそれ以降の時代も果たして良かったと言えるのか甚だ疑問です。何より、日本にある古代イスラエルの痕跡を認識せず、日本人が自らの起源を知らず、異邦人の道(聖書真理ではない教え)、即ち、あらゆる偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)の道に歩んだことが問題です。聖書に回帰しなかった損失は甚だ大きいと言わざるを得ず、現在はその結果でしかありません。

 

イザヤ書は、冒頭よりユダ王国の滅び、また、それ以降も終末の預言が繰り返し書かれております。大元を辿れば、申命記二十八章にある神の祝福と呪いの通り、神と契約を結ばれた民は、神に従えば祝福があり、そうでなければ呪いが臨むとあり、この型がイザヤ書でも見られ、また、終末においても起こります。

 

イザヤ書一章二節から七節(参照)

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。我は子らを育てた。しかし、彼らは我に背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、我が民は気付かない。災いだ、罪深い国民よ、悪が甚だしい民よ、悪を行う者の子孫、堕落した者たち。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。何故、お前たちは背きを重ね、尚も打たれようとするのか。頭は病み、心は弱くなる。足の裏から頭まで、健全な所は全く無い。しかし、打ち傷、あざ、生傷、それらは塞がれず、包帯を当てられず、軟膏で和らげられてもいない。お前たちの国は荒廃し、お前たちの町々は火で焼かれる。お前たちの土地は、異邦人がお前たちの目の前でそれを食い荒らし、異邦人によってひっくり返されたように荒廃している。

 

この言葉の通り、家畜ですら主(あるじ)を知り、自らを誰が養っているかを知っております。しかし、人間だけが、自らの造り主を知らず、自らの起源を知りません。自分の寿命や健康のことも分からないにも拘らず、全てを知っているかのような錯覚に陥り、自分が進みたいように好き勝手に生きております。主イエスは『「あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。」これが最も重要で大切な掟や。更に、第二は、それと同じようであり、「あんたの隣人を自分自身のように愛するようになる。」これら二つの掟にすべての律法と預言者たちが掛かってる。(マタイによる福音書二十二章三十七節から四十節:引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)』と言われました。如何に人々がこれに反しているかが分かります。『חָטָא(罪深い)』は、「道に迷う」「非難する」「有罪判決を出す」などの意味があり、神の道(神の律法、掟、戒めを守る)から外れることを意味するのは明らかです。五節の『背きを重ね、尚も打たれようとするのか』の言葉から、呪いが臨んでおり(これから更に臨む)、本来であればそれに気付き、改心するべきです。また、『病む(חֳלִי)』の原語には、「病気」の他にも、「(社会・組織の)深刻な問題、弊害」の意味があります。更には、『רֹאשׁ(頭)』には、言葉通りの「(人体の)頭」だけではなく、社会的な意味での「長」「統治者」の意味もあり、広く社会全体が病んでいる状態の意味があるのだと思います。従来の社会の秩序がことごとく壊されて、不法がのさばる現在の無秩序状態はまさにこれに当たると思います。これだけでなく、ウイルス詐欺、気候変動詐欺など、嘘を基にしたあらゆる政策で人々の命や自由、人権を侵害して、大問題となっていることにも(それを為政者を始め、世の権威が広めている)、預言が現実となっていると思います。他にも、こちら(DISSIDENT)によるとmRNAワクチン接種を受けた人々は、ワクチンによって神経学的損傷による大きな人格変化をしていると専門家は警告しております。接種者が怒りっぽくなる、自己中心の度合いが強くなった、集中力を欠く、無気力となるなどの話が聞こえてきますが、神経学的損傷によるものと考えれば辻褄は合うと思います。こちら(NHK)では『「死にたい」と感じている子ども』がコロナ犯罪が始まる前の『1.6倍』にまで上昇しており、ただでさえワクチンで害を被っている他に、無駄な行動制限を加えた弊害は、潜在的なものも含めると甚だ大きいと言わざるを得ません。『לֵבָב(心)』の原語には、「勇気」「精神力」の意味もありますが、これが弱まる事態も既に起きていると思います。増税や憲法改悪の危険など、自身に直結することに大して声を上げるでも無く、その割にはこちら(X)のように、宝くじ売り場に六時間も並ぶ愚かな拝金主義者もおれば、一方ではこちら(News Everyday)のように『「自民党の汚職や不正を目の当たりにして、人々は非常にネガティブな気持ちになる。だが、投票してもしなくても大して変わらないと考えている」』とますます悪循環に陥っております。六節の『足の裏から頭まで、健全な所は全く無い』についても、いろいろな面が該当すると思いますが、例えばこちら(X)やこちら(ホントは?)を参照すれば、不健康に塗れて、健全な所が無い状態に陥っていると思います。「傷」に関わる原語も、それぞれ肉体的な傷の他に精神的な傷の意味もあり、『חַבּוּרָה(あざ)』には、「(恐怖のために)青ざめた」「元気がない」の意味もあり、これでもか、これでもかと攻撃されている日本の姿に重なって見えてなりません。『טָרִי(生傷)』には「化膿させる」の意味もあり、ワクチン接種者の皮膚の被害の所見(参照:X)が想起されますが、ヨハネの黙示録十六章二節では獣の刻印が打たれた者に「有害で重大な腫れ物」が生じたとあるので、これから起こることでもあるかもしれません。また、『זוּר(異邦人)』は、単に「外国人」の意味だけではなく、主たる意味は「脇に逸れる」であって、「普通ではない」「婚外性交をする(偶像崇拝)」の意味があります。これは、聖書真理を認めない道、罪の道を歩む者を指します。日本らしさ(ヘブライ文化)の対極に位置します。古代イスラエルの民が行き着いた東の島々たる日本は、今や異邦人に食い尽くされつつあります。そして、真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」の記事にあるように、異邦人(外国人)を国籍だけ日本に変えた「新しい日本人」を大量に作り、従来の日本人を滅ぼそうと目論んでおります。

 

 

イエズス会の工作員である河野太郎のこちらの発言(X)は支那国内で拡散されているそうです。これを受けて支那人が更に移住して来る可能性があります。元々、二千十五年時点で日本は既に移民受け入れ人数が世界の中で四位という状況となっております(参照:rumble)。太陽暦二千二十三年六月末時点で日本に在留する外国人は三百二十万人を超え、過去最多となりました(参照:NHK)。こちら(出入国在留管理庁)によると、支那人が七十八万人(全体の二割五分程)と、最も多いようです。前回記事でも台湾有事の危険について触れましたが、支那共産党は戦争動員法を整備して十八歳以上なら男女問わず強制的に徴兵すると定めており、これら国内にいる支那人が兵士と化し、そのまま日本が乗っ取られる危険があります。また、埼玉県川口市のクルド人による治安悪化は酷く、『騒音、改造車で暴走、たむろ、違法駐車、過積載トラック、脅迫、抗争、公園を占拠、ポイ捨て、不法滞在、違法な工事、不法就労、不法投棄、危険なナンパ、性被害。特にナンパは強引で拉致や誘拐に近いそうです。泣き寝入りする人も多い。(引用:X)』といった実態があります。こちら(東京新聞)では、群馬県大泉町が二千二十四年度から町職員の採用試験で国籍条項を撤廃し、永住権を持つ外国籍住民に門戸を開くと決定しました。外国人が更に増え、やがて外国人が日本人を凌ぐようになる懸念があります。

 

申命記二十八章十三節から十四節(参照)

今日我がお前に命じる、お前の神、主の掟を聞き、それを守り実行するなら、主は、お前を尾ではなく頭とされ、確かに、上にあり、下にはない。今日、我がお前に命じる言葉から逸れて、右に行っても左に行っても、他の神々を追ってそれらに仕えてもならない。

 

申命記二十八章四十三節から四十四節(参照)

お前の中にいる外国人(滞在者)はお前の上につく。そして、お前は低く身を落とす。

彼はお前に貸す。しかし、お前は彼に貸すことはない。彼は頭であり、お前は尾となる。

 

上段の十三節から十四節は神に従った時の祝福、下段は神に従わなかった時の呪いです。古代イスラエルも神に従わない故に、外国に滅ぼされました。今、同じようなことが繰り返されようとしております。仮に、熱心に世直しを行ったとしても、神に従わなければ、何かしらの形で呪いが臨みます。万物の主権者たる神とイスラエルの民は、「我はお前とだけこの契約を交わし、この誓いを立てるのではない。今日、我らが神、主の前にここで我らと共に立っている者と、また、今日我らと共にここにいない者も一緒である。(申命記二十九章十三節から十四節参照)」とあるように、今も尚有効だからです。だから、知らないということは損失でしかありません。「主の目はどこにでも(注がれ)悪人と善人を見つける(箴言十三章八節参照)」からです。聖書は宗教ではなく、真理であり、その預言は的中率十割、日本人こそ(但し、全員ではない)聖書に起源があるからです。

 

<神の怒りの日>

箴言十一章四節(参照)

富は怒りの日に役に立たないが、義は死から救い出す。

 

短い節ですが、この言葉に非常に重要な事柄が凝縮されております。「怒り」とは、神の激しい怒りのことです。レビ記二十六章にも、申命記と同様に神の祝福と呪いが書かれておりますが、「我は憤怒をもってお前たちに臨む。そして、確かに、我はお前たちの罪に対して、お前たちを七倍罰する。(レビ記二十六章二十八節参照)」と書かれているように、神が守るように命じられた神の律法、掟、戒めに対する違犯(罪)を神は罰すると明確に書かれております。そして、富とは、この世の富のことであり、悪魔に魂を売り、この地上に巨万の富を築いた者たち(支配層等)が想起されます。使いきれないほどの資産、社会的地位を得て、この世では天下を取っているかのように見えても、神の怒りの前には役に立ちません。なぜならば、天地を創造された神が、罪に塗れて堕落したこの天地ごと滅ぼされるからです。神が求めておられるのは正義であって、それは律法によって示された善悪の基準(倫理)に適うこと(適法、善)であって、この世の富は全く評価されません。「彼らは自分の銀を外に投げ捨て、自分の金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、彼らの銀も金も彼らを救うことが出来ない。自分の魂も満たせず、自分の腹も満たせない。それは彼らの躓き、罪となったからだ。(エゼキエル書七章十九節参照)」の箇所からも分かるように、この世の富の追求は却って罪を犯させる要因となります。まさに主イエスが神と富の両方に仕えることは出来ない(マタイによる福音書六章二十四節参照)と言われた通りです。

 

イザヤ書十三章九節から十一節(参照)

見よ、主の日が来る。残酷な、怒りと激しい憤りの日。据えられた地を荒廃させ、そこからその罪人を滅ぼす。各天の星々とそれらの星座は光を放たず、太陽は出て来ても暗く、月はその光を輝かさない。そして、我は悪と罪を犯す罪人たちの世を罰する。また、我は高慢な者たちの傲慢を終わらせ、圧政者たちの高ぶりを挫く。

 

上記は主の日、主イエスの来臨の日、この天地の終わりの日です。太陽や月が光を放たないことはマタイによる福音書二十四章二十九節の主イエスの終末に関する預言と一致します。こちらについてはぜひ、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」をご覧ください。個人的には、「高慢な者」「暴虐な者」の言葉が印象深く感じます。「高慢」は『自分が優れていると思って、他をあなどること(引用:スーパー大辞林)』です。また、「עָרִיץ(圧政者)」は言葉通り、権力のある側の者です。真の聖書福音と預言「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」で「地の権力者」である「商人」について解説されておりますが、これらが想起されます。ヨハネの黙示録十八章十七節では「莫大な富は一時で荒廃させられた(参照)」と書かれている通り、かつてないほどの繁栄、富、権力を手にしていたとしても、彼ら悪人はあっという間に神によって滅ぼされることが定められております。高慢な者、圧政者に該当するものは「地の商人」意外にも複数該当すると思います。個人的には、今の政府の閣僚、世界経済討論会(WEF)、連合国(UN)等を見ていると、当てはまることばかりだと感じます。

こちら(東京新聞)もその一つです。政府は健康保険証を太陽暦二千二十四年の十二月二日に廃止して個人番号券に統合すると発表しました。国民の個人番号券と関連付けた保険証への不信感が根強く、それ故に普及率も低いままで、普通に考えたら進められるはずがありません。それにも拘らず強引に進めるのはあまりにも横暴です。特に河野大臣の対応は、相変わらず正視に耐えないほどの酷さです。参考までにこちら(X)、(X)をご覧ください。『イデオロギー的に反対される方は、いつまで経っても不安だ、不安だと仰るでしょうから』と見当違いなことを言い、もはや会話が成立せず、異常です。言葉は通じても、話が通じません。「次期首相候補」とやらでたまに名前が上がるのですが、本当に勘弁してほしい人物です。当初言われていた「廃止は国民の不安払拭が大前提」の言葉は、空しく、嘘であり、悪質な言行不一致です。そもそも個人番号券と関連付ける必然性は無く、個人番号券の取得は任意であったはずが、いつも間にか強制となっております。現行の健康保険証が廃止される以上、資格確認書も使えなくなり意味が無くなります。こういったゴリ押しは圧政(権力で国民を押さえつける)です。健康保険証の次は、運転免許証に関連付けられ、やがて現金を廃止して電子通貨にされ、それも個人番号券に関連づけられ、更には、現在、支那で運用されている信用得点制度と一体化すれば、国民は奴隷と化します。支配層や支配層の息のかかった異常な政府に抵抗する人々は、売買もままならず日常生活を営むことが出来なくなります。政府に生殺与奪権を持たせることになり、非常に危険です。前回記事でオーストラリアで現金が廃止されることをお伝えしましたが、ギリシャ政府もこちら(メモ・独り言のblog)のように『2024年初頭から、500ユーロ超の取引における現金の使用を全面的に禁止することを導入しており、近い将来、経済全体で「使用不能」にすることを主な目標(同引用)』とするとしております。電子通貨になるということは、現金と異なり、政府(財務当局)に何を購入したかも全て筒抜けであり、『デジタル通貨は「ソフトウェア」であるため、当局が望めばいつでも、「自分が所有している」と思っている市民へのアクセスを拒否することができるため、自分自身のお金をコントロールすることさえ失う(同引用)』懸念があります。つまりは自由や私事権(プライバシー)を失うことを意味します。

二千十五年、大阪市が生活保護費の一部を電子通貨(プリペイドカード)で支給する試行事業を行ったことがありました。この時、日弁連は中止を求める声明を出しました。憲法十三条の私事権を侵害するので当然のことです。今となっては、超監視管理社会への布石としての社会実験だったのではないかと思えます。そして、弁護士会は声明で留まらず、訴訟を起こし、社会正義のために働くべきです。

 

関連して、埼玉県は、運転免許証や旅券(パスポート)の更新時の現金払いを廃止し、電子通貨又は信用券(クレジットカード)の支払いのみにすると発表しました。こちら(埼玉県)やこちら(埼玉県警察)のホームページでもその説明書きが載っております。これまでは更新手数料として、埼玉県収入証紙を購入してもらっておりましたが、その埼玉県収入証紙の販売が太陽暦の十二月末で終了、埼玉県収入証紙自体も太陽暦の来年三月末(今年度末)で終了となるようです。最初、SNSでこれを見たときに何の冗談かと思ったのですが、残念ながら事実でした。現金廃止は支配層の計画であり、それに乗っかる悪しき行為です。日本では地方自治体が率先してこれを始めて来るとは思いもしませんでした。そもそも信用券(クレジットカード)や電子通貨を用いれば、こちら(個人事業主メモ)のように手数料が生じ、総額で見れば決して安くはなく、県にとっても痛手なはずです。何よりこちら(X)にあるように、『日本銀行法第四十六条二項「前項の規定により日本銀行が発行する銀行券(以下「日本銀行券」という。)は、法貨として無制限に通用する』に抵触します。また、これも教わった事柄ですが、こちらには罰則が無いため、違反者を刑事罰に処することが出来ないという問題があるようです。しかし、警察が、公的機関が率先して法を犯すのは本末転倒で、あってはならないことです。埼玉県民は、このことを踏まえて埼玉県に猛抗議するべきです。また、他県であっても油断は出来ず、現金廃止は支配層の計画であり、どんどんと波及していく可能性が高いです。こちら(日本経済新聞)によると二千二十一年時点で多くの自治体が収入証紙の廃止を検討しており、着々と計画されていたことが分かります。また、こちら(PAY Blog)にあるように『キャッシュレス事業者のPayPay・d払い・auPAY・楽天ペイが全国の自治体と連携して決済金額の10~30%程度を還元するキャンペーンを開催しています。』と、自治体が率先して電子決済を利用を促進させております。この構図は個人番号券の「マイナポイント」にも似ております。餌で釣り、電子通貨による決済の利便性を謳って、しかし、それに乗っかった先が超監視管理の奴隷社会では、あまりに酷い結末です。これらに乗っかることなく、反対、抵抗するべきです。

 

 

話を「高慢」に戻します。この世の権力者ではなくとも、高慢な者は多数存在します。それは聖書真理を信じない者です。確かに神のお招きがなければ信仰は始まりませんが、聖書を宗教と決めつけたり、神など居ないと言い放つ人々が多いです。聖書真理は言葉通りに、全ての理、真実です。自らの起源について、聖書に拠らずして知ることは出来ません。進化論という嘘を全面的に信じているのか分かりませんが、自らのこれまでの物事の認識を改めるのを嫌い、自らの上に立つ神、真理を認めたくない人々が圧倒的に多いのが現実です。罪や裁きについても、自分が何故悪いのか、裁かれなければならないのか、自分は間違っていないし、自分を悪く言う神の方が間違っているとすら言う者もおります。しかし、万物を創造され、主権者であるのは神です。

この世はすべての事柄が神の主権の下で行われ、善いことも悪いこともすべて必然です。普通の人間はすべて生まれつき罪に対して弱い傾向を持って生まれ、普通の生活をしていれば必ず罪を犯す罪人です。人間が制定した法律や法廷で裁かれなければ犯罪者ではないから罪人ではなく自分は善人だと思う者は高慢という第二の死に至る病気に罹っています。このような高慢の病に罹っている人は、地上の医者、病院、いかなる薬によっても治されることはありません。それはただ主イエス・キリストへの信仰によってのみ治されるのです。
聖書は明確に神の律法(モーセの律法)、掟、戒めに背いたら罪を犯すことになり、それをもって罪人とされると教えています。基準は神の律法なのであり、人間が制定した法律等ではないのです。聖書は明確に神の律法(モーセの律法)、掟、戒めに背いたら罪を犯すことになり、それをもって罪人とされると教えています。基準は神の律法なのであり、人間が制定した法律等ではないのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「主権は神にあり、人間にあらず」

 

 

人間に主権がないからであり、人間にはすべてを知ることが許されておらず、この地上のことも天上のこともあなたがたが知らないことが多くあり、知らない所ですべて推し進められているからで、天地や万物を創造された主なる神がすべてを掌握されているからです。だから、すべての人間は神によって造られた被造物に過ぎないという分際を弁えて低くあり、神を畏れて信じ、神の律法、掟、戒めを守ることこそが人間の本分なのです。

 

引用:神の律法と真理に逆らう人々は滅びる

かく言う自分も、信仰を持つ前には、確かに「罪」や「悔い改め」と言われても理解出来ない時はありました。また、聖書に反発する思いを抱いたことがあるのも事実です。そんな状態から、何故信じることが出来たのかと言われれば、聖書を知る機会は最初から幾らでもありましたが、少しずつ関心を持ち、そこから理解出来た時(機会)が与えられ、その時に「信じる」と応答したことが始まりです。例えば、世の悪、世の真実に気付いた人々にも、何かがおかしいと思った最初のきっかけがあり、それを理解出来た時があったはずです。何故「目覚められた」のかと尋ねれば、きっと「世の中の何かがおかしい」と思い始めた所に、その理解出来ていない空白を埋める、符合する真実がぴったりと収まったからだと思います。信仰も同様だと思います。世の教え、世の常識に従って生きてきて、何かがおかしいと感じ、人生に行き詰まり(手前の場合。しかし、必ずしもそのような経験を経るとは限らない)、苦しさが起きている原因を知り、この世の悪がそれらを為していること、彼らが為していることは反キリスト行為と括ることが出来ます。また、その反対の「正しい」ことがあり、それが聖書に一貫して書かれている善と悪の基準、主イエスの救い、的中率十割の預言、過去の歴史、世の終わりと裁き等が、実にまっすぐな道筋を形作っていると理解出来ました。手前の場合は、最初から全てを理解出来た訳ではなく、時間をかけて少しずつです。これらを教えてくれたのがミカエル氏の記事であり、全てが符合し、確信に至りました。この確信を得る過程は、人によって千差万別だと思います。コヘレトの言葉三章一節「全てに時があり、天の下、時には全て目的がある。(参照)」と書かれておりますが、人それぞれに神の御計画があって、それぞれの導かれ方があるのだと思います。全ては、この神を認め、畏れることが出来るか、これに懸かっております。この世を支配する悪しき者は反キリストなので、主イエスの教えに留まることを妨げます。主イエスを知らない状態(真の聖書福音を知らず偽福音を信じる状態を含む)、反発する状態を標準とする世を作っているため、真の信仰を嘲笑ったり、根拠無く虚構だと看做したり、莫迦にするよう人々を仕向けます。偶に「聖書真理こそ傲慢だ」と言うものがおりますが、世の実態を聖書真理という高次な視点で捉えると、真理を認めない者こそ高慢でしかありません。真理は相対的なものではなく、絶対だからです。宗教や思想と並べて考えること自体が間違いです。

同時に、律法廃止論等のパウロ教信者(プロテスタント等)、主イエスの教えから著しくかけ離れた異教カトリックもまた、自らの聖書からの乖離を認めず、自分は正しいと言っている点において高慢です。手前はかつては地上の教会(プロテスタント)に通っていたにわかキリスト者でした。恥ずかしながら福音を殆ど理解せず、世の教会に通い、献金し、教会組織から肯定されることで自分を保っておりました。このような主体性が無い状態だと教会組織に隷属し続ける要因となります。今、世の諸教会に通っている方はこれらの危険性に早く気付いてください。長く通うほどに情も湧いてきて、離れ難くなります。手前は、偽福音を教えられていたことすら、当時は理解出来ておりませんでしたが、言行不一致で口先だけ、内部の不祥事を隠す教会に幻滅して離れました。福音にしろ、平素の言行にしろ、何かしらの「矛盾」があった時こそ、考えるべきです。矛盾のある道は正しい道ではありません。ミカエル氏は先ず自分で複数回、聖書を通読することを教えております。手前もこれが最も重要だと認識します。誰かの教え(特に、偽教師)に拠るのではなく、自分で聖書の文脈を理解することで基本的理解が作られます。文脈を押さえると、ミカエル氏が如何に聖書に矛盾の無い解釈をしておられるかがよく分かり、確信に至ります。ミカエル氏が新しいことを言っているのではなく、聖書の言っていることそのままを分かり易く伝えているだけです。「新しい」と感じるのなら、それは世の諸教会の教えが間違っているので新鮮に感じるだけです。現実、世や生活の実態や自分の実感と聖書の言葉が一致すると、より揺らがなくなります。自分が偽福音の洗脳から解かれ、真の聖書福音を信じることが出来たように、同じようにプロテスタント等から目覚めることを期待するのですが、現実としてはなかなか厳しいです。パウロ教神学を学んでいる者こそ却って聖書を曲解し、神の名を語り、主イエスの教えを否定していることも認識せず、反キリストに留まろうとします。カルト信者とは、まさにこのことを言うのだと思います。世の法において、ある行為が法に適っているか否かを裁判所が判断し、有罪か無罪かを決めます。同じように、律法(善悪の基準)はマタイによる福音書五章十七節で主イエスが言われたように廃止されておらず(但し、更新はされている。要参照:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」)、律法に則って、適法か否かを自己検証します。律法が廃止されたと看做せば、善悪の基準が崩壊し無秩序となります。結果として、大勢が真に罪を悔いて、改めることが出来ず、第二の死へと至ります。これこそがサタンが意図したことであり、また、神が御許可されたふるい(ルカによる福音書二十二章三十一節参照)だと思います。だからこそ、自分で聖書を読んで、世の権威たる神学(偽福音)に惑わされず、見出だす(マタイによる福音書七章十四節参照)必要があります。見出だすとは、言葉通りに「見つけ出す」ことであって、与えられるだけではなく、主体性が伴うことです。

ゆえに、人間として生まれてきたからには、生まれたしるしのためにも、何としてでも世を捨てて仏道に入るのが、望ましいことなのである。一生涯、ただ欲望を満たすことばかりに熱中して、心の救済をはからないような者は、けものや虫けらと一向に変わらないではないか。

 

引用:「すらすら読める徒然草」、発行:講談社、著者:中野孝次

上記は徒然草五十八段の現代語訳です。「仏道」に救いはありませんが、「仏道」をキリスト道に置き換えれば、その通りの内容だと思います。また、ただ欲望を満たして生きるのは獣と変わらないとは、実に確信を突いたことを言っております。ダニエル書四章でネブカドネツァル王は罪を悔い改めず、傲慢さの故に、神によって獣のように草を喰らい、雨露に濡れていきました。しかし、ある時、理性が戻りました(ダニエル書四章三十一節参照)。理性が戻って、真っ先にしたことは神に栄光を帰したことです。ネブカドネツァル王は「我は至高の御方を祝福する。永遠に生きていおられる御方を崇め讃える。その支配は永遠。その王国は代々に。地に住む全て人々は無きに等しい。各天の軍隊も地の人々もその御意志に従って動かされる。その手を留める者はおらず、何をするのかと言える者もいない。(ダニエル書四章三十一節から三十二節参照)」と言いました。神を畏れることは知識の始まり、そして、人の本分、人間らしさでもあると思います。

光悦の母妙秀が、一人でも貧困に悩む者がいる限り己れひとり富貴であるのは許されぬと考え、みずからの生を簡素の極限まで貧しくした(略)

そのように所得の欲望から自己を解放することが、かえってわれわれの心を自由にし、ゆたかなものにする(略)

かれらは権力とかよりもはるかに高い価値として、人間の品位というものがあることを身をもって示しています。脱浴が高雅な心に至る前提である、欲望から自由になることが人をいのちへと導くことを示しています。

 

引用:「清貧の思想」、発行:草思社、著者:中野孝次

上記も、キリスト者ではないものの、慈愛と高潔さの体現について言及しております。高尚さを良しとする所は武士道にも通じ、真のキリスト者もかくあるべきです。これに神の律法、掟、戒めを守ることが加われば、より完成されたキリスト者の姿が浮き彫りになります。武士道と同様に、古来、日本人にはこのような生き方を良しとする感性がありました。それは聖書真理と非常に親和性があり、むしろ真理が核に据えられることで完成すると言えます。それは高慢、高ぶりとは対極の性質です。

 

<やり抜く力>

ゼファニヤ書二章三節(参照)

主を求めよ、地の全ての従順な者たちよ、主の御命令を行い、正義を求めよ。 従順さを求めよ。主の怒りの日にお前たちは隠されるだろう。

 

「主の御命令を行い、正義を求めよ」と書いてあるのですから、キリスト者は支配層の為す反キリスト行為の数々、新世界秩序構築の動きに抵抗し、その悪を弾劾するべきです。ただ、現実としてはヨハネの黙示録にある通り、暗黒社会は残念ながら現実となってしまいます。勿論、だからと言って、黙っていては黙認するようなものであり、それでは宜しくありません。正義を示し、体現する必要があります。そして、やがてこの悪は神によって裁かれ、滅ぼされます。人ではなく、神が全てに報いてくださいます。これが苦難の解決です。「復讐は我に(属し)、我が報復する。(ヘブライ人への手紙十章三十節参照)」と言われているように、神はこの悪を放置せず、必ず罰をお与えになります。「ἐκδίκησις(復讐)」には、「(悪業などに対する)報い」「刑罰」の意味があり。そこに公平、正義の概念があります。同時に、キリスト者を自称していても不完全であったら意味がありません。上記聖句の箇所を解説してある真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」の記事もぜひご覧ください。『人類の悔い改める最後の機会は、主イエスが執り成しの働きをやめる大艱難前(上記引用)』であり『主なる神を求め、正義を求め、謙遜を求め、共に集まってイエス・キリストを信じて従順に従う(上記引用)』必要があります。今は既に艱難期であり、大艱難が目前です。『神の民は、大艱難で背教に繋がる誘惑にも耐え抜くことで神の御国に入る前に練り清められ、永遠の命を受けるに相応しい人間に仕上げられるのです。(上記引用)』とある通り、そもそも耐えきれなかったら全てが水の泡です。

 

また、真の聖書福音と預言「成功するためには」の記事で言われているように、『神の王国に入るのが成功』であり、『人生において究極の失敗は地獄行きになること』です。苦難の真の解決は、悪が滅ぼされること共に、キリスト者は神に認められ、救いにあずかることです。そのためにもキリスト者として、為すべきを為さねばなりません。以下の内容は非常に重要で、個人的にも自分への戒めとして繰り返し見返している箇所です。

聖書に書かれてることを守り、実行し、それを死ぬまで継続すればええだけの話なんであり、何も複雑なことは無く、簡単なことです。違いは、継続してるか否かで、覚悟があるか否かです。やらへん人や途中でやめる人は、覚悟が甘いんや。

(略)

伝えたいのは、「継続することは誰にでも出来る」ということ。

(略)

これと決めたら、それを「やり抜く力」がある人が成功するというのが普遍的な真理と言えよう。逆に、やり抜かへん人、継続的に努力せえへん人は必然的に負け組になる。

(略)

神の王国に入りたいのなら、その目標は神に認められる「完全な者となる」ことであり、現時点の自分の状態と比べて足らへんことをどんどん埋めて行く。そのために、聖書を複数回通読して勉強したり、律法を守り、伝道する、兄弟と交流する等といった努力をせないかんやろ。こない簡単なことも分からん人や行わへん人は地獄行きになって当然です。やらへん理由や言い訳を考える暇があれば、「さっさとやれ」ってことです。

 

引用:真の聖書福音と預言「成功するためには」

『継続することは誰にでも出来る』『やり抜く力』は特に着目すべき点だと思います。マタイによる福音書二十五章のタラントンの教えにもある通り、能力に応じて与えられたタラントンが異なり、能力に応じて、五タラントンは五タラントンを、二タラントンは二タラントンを儲けて主人に認められております。決して、出来ないことを要求された訳ではありません。世俗の人間の言葉で恐縮ですが、古代ギリシアのストア派の哲学者エピクテトスは自分の権能下にあるものに全力を注ぐようにと言っております(参照:マインドセットサロン)。普通に考えても理に適った話であり、これを世俗のことだけに用いるのではなく、信仰にこそ活かすべきだと思います。

数年前、『やり抜く力』という書籍が注目されたことがありました。数学教員である著者が『数学的概念の呑み込みがずば抜けて速い子よりも、こつこつ努力を重ねてきた生徒のほうが学期の成績が良かった(引用:ライフハッカー)』と言っており、これも信仰に活かせる話だと思います。同時に励ましを受ける話でもあると思います。まさしく継続することは誰にでも出来ることだからです。

 

個人的には、受験勉強や資格勉強を思い出すと理解しやすいと感じました。最初は、まず目標を明確にすることから始まります。そして、(基礎理解があったとしても)実際に過去問を解いたり、模擬試験に挑むと合格には程遠い現実(自分の力量不足)に直面するのが多くの方に共通するのではないかと思います。まずはこの現実を見据える所が始まりです。そこからどう準備出来るかが明暗を分けます。手前は一度、ある資格試験で失敗したことがあります。一年に一回しか実施されない試験なので相応に準備して臨んだつもりでした。しかし、結果はたった一問足りずに落ちました。呆然とし、悔しさが込み上げました。情けないことに試験を終えてから、勉強の仕方、日々の姿勢、覚悟や心構えが足りなかったことに後から気付きました。悔しがるのがおこがましい、自分の怠慢さに対してあれほど腹が立ったことはありません。それから、帳面に、何が悪かったのか、次の試験(一年後)までどう過ごすべきかを、書き殴った記憶があります。結果(合格)に相応しくない積み上げ方をすれば、結果は得られません。当たり前過ぎることですが、自分を客観視出来ないとそんなことにすら気付かなくなります。「なぜ失敗したか」「改善点はどこか」「これからどうすると良いか」等を地道に考えることでしか、成功に近付けないと思います。失敗をしっかり見据えることで、後悔から実践的な教訓へと昇華することが出来ます。これが手前の得た学びであり、おそらくは信仰においてもそうなのだと思います。実際に口で言うほど容易くはなく、同じ失敗を繰り返すことはしばしば、時には「自分はもう駄目なのか」とサタンの暗示が働くことがあります。しかしながら、「つまらないことを考える暇があるなら、どうすれば良いかを考えよう、自分がすべき、出来る改善は何か」を考える日々です。あと一歩のぎりぎりの頑張りをどれほど積み上げられるかなのだと思いますが、自分との戦いの側面がとても大きいと感じます。

 

ミカエル氏が記事で『自分の考えを外に出す、書き出す』ことが大事と言っており、手前も同感です。個人的に、学びや反省を書き出すようにしております。頭の中で考えただけでは浮かんでは消えるだけで、大して残りません。しかし、文字にすると考えが可視化され、後で振り返ることも出来ます。ブログ記事も書くことで考えが整理され、自分の覚悟が定まります。何より、書くことは自分と向き合うために不可欠だと手前は感じます。その積み重ねが自分を鍛えてくれます。以下は、図書『やり抜く力』に書かれている、ある作家の言葉です。

 

(引用開始)

私のすべての作品において、失敗はおそらくもっとも重要な要素です。書くことは、失敗することだからです──何度も何度も、嫌というほど

(略)

書くことが大変なのは、

紙の上にさらされたおのれの惨めさ、情けなさを

直視しなければならないからだ

そして寝床にもぐる

 

翌朝、目が覚めると

あの惨めな情けない原稿を

手直しする

惨めで情けない状態から少しはマシになるまで

そしてまた寝床にもぐる

 

翌日も

もう少し手直しする

悪くないと思えるまで

そしてまた寝床にもぐる

 

さらにもういちど手直しする

それでどうにか人並みになる

そこでもういちどやってみる

運がよければ

うまくなれるかもしれない

 

それをやり遂げたら

成功したってことなんだ

 

引用:「やり抜く力 GRIT」、発行:ダイヤモンド社、著者:アンジェラ・ダックワース

 

名が知られた作家であっても、これだけの努力や苦労をしているのかと驚きました。キリスト者もきっと同様で、行動すれば失敗は付き物です。行動すれば、惨めで無様な自分と嫌でも向き合うことになります。しかし、出来ない状態に留まることはもっと辛く、少しでも改善するために、出来ることを模索します。手応えを少しでも感じられることを期待して、繰り返して、その連続です。僭越ですが、手前のような者でも、上記引用の内容にはとても共感を覚えました。また、真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」で『主イエスが人間に求めてはる「完全な者」(マタイ五章四十八節参照)になることを目指す必要がある。中途半端は成立せず、ふるい落とされるのみ。悔い改めや成長を怠る者は落とされる。偏差値八十は、上位0.1%や。要するに、千人に一人ということ。』の言葉と共に、『「キリスト者」成長早見表』が記されております。記事にあるように『千人に一人』とは『コヘレトの言葉七章二十八節にあるとおり、男で救われるんは千人に一人と言う確率(上記引用)』です。これほどまでに突き抜けるには、『やり抜く力』の上記引用にあるように、現実を直視し、自分に向き合い、ひたすら努力を重ねることが不可欠なのだと思います。それでもやり抜きたいと思うのは、神への愛の故です。それは「涙と共に種を蒔く者は、喜びの内に刈り取る事になる(詩編百二十六編五節参照)」過程そのものです。そして、時は迫りながらも、まだ失敗を教訓にして、励む機会(時)があることはとてもありがたいことです。もう機会が無いことこそ絶望であると思います。このことは忘れてならないことです。

 

<結び>

箴言三章三節(参照) 

お前は憐れみと真理を捨てるな。それらをお前の首に結び、これらをお前の心の板に書き記せ。 

 

箴言七章二節から三節(参照)

我が掟を守って生きよ。そして、我が律法をお前の目の瞳のように守れ。それらをお前の指に結び、心の中の板にそれらを書き記せ。 

 

誰でも、真の信仰がある者は主イエスの教え(神の律法、掟、戒め)が心に刻まれ、不信仰者(偽福音信仰を含む)には反キリスト、異邦人の道が心に刻まれているのだと思います。正しい信念にしろ、誤った信念にしろ、何かしらが心の中に刻まれているのは間違いありません。それが行いに反映されるからです。上記聖句の『לוּחַ(板)』は、石や金属や木などの刻む板(銘板)の意味があります。そして、原義には「(光を反射して)きらきら輝く」の意味があり、何やら象徴的だと思いました。光は真理であり、永遠の命に至る福音であると思いますす。それらを受けるからこそ、きらめくのだと思います。

 

この世では悪魔崇拝、反キリストの支配層が、超監視管理・奴隷社会を構築しようと世の仕組みを著しく改悪し、人口削減の真っ最中です。これらの悪を弾劾して正義を示しつつ、実際にこの悪を滅ぼすのは神だけです。だから、一時的に隆盛を誇る彼らに屈せず、絶望せず、永遠の栄冠に向けて、これまでの人生で経験してきた以上の努力を積み重ねるべきです。苦難の解決は、正義と公正の神の裁き、正しい行いに対する報いとしての永遠の命にあります。

 

この世での社会的成功は真の成功を意味しません。それでも世において必死に成果を出すために努力があるように、信仰においても同様に、あるいは、それ以上の努力が必要です。神がそれを命じておられるからです。神の命じる完全な者とは、ただ与えられるのではなく、人が神と永遠に共にいるに値する程に成長して到達する境地です。そして、励むこと、励み続ける意思は、自分の権能下にあることです。時のある内に、出来る限りのことを行って参りましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は『真の勝利と問われる勇気』と題して、勝利の意味、世に屈せず神に従い通す勇気についてお話していきます。

 

  誤った希望

 

かつて無いほどの世の悪化の只中にいて、一体、人々は今、何に期待を寄せ、何に希望を抱いているのだろうかと思うことがあります。知れば知るほどに、支配層が世の権威を動員して、大勢の人々を惑わしているのが明らかです。しかし、真実を知る者は少数です。政府の言うことが正しい(おかしい所が有るとの認識はあっても、政府が不法に満ちる程に腐敗して、売国や人口削減を進めているとまでは思っていない)と思う者が多数で、この構造が変わるのは厳しい情勢です。ごく少数の支配層に、奴隷として従わねば抹殺される超監視管理、超共産主義社会(新世界秩序)が構築されようとしているとSNS(X)で言及した所、そんな社会に対して「何の楽しみも無い」との返答が寄せられたことがありました。この言葉をよく考えると、かつてのように生活に汲々とせず、豊かで、自由であることを願っているようにも聞こえ、「昔は良かった」と懐古しているだけのように感じました。かつて、バブル景気と呼ばれる時期がありました。今から三十年ほど前です。異常な好景気となり、若者が高級車を乗り回したり、就職活動で企業に出向けば交通費がもらえ、庶民がこぞって投資に精を出したと、今では信じられないようなことがあったようです。まさに拝金主義、物質主義が極まったかのような様相は、常軌を逸していると感じざるを得ません。もし「その頃が良かった」と思うのなら、そんな生き方に疑問を持てずに熱狂している様は、コロナ犯罪を認識せず、世の喧伝に酔いしれているという意味では、大して変わらない構造だと思います。故に、懐古したとて、そこには欲に塗れた偽りの平和があるだけで、そこには希望はありません。

こちら(X )で、『気付いた人』という口座名の方が『この世のカラクリ〜世界の仕組み編〜』と題した動画を作成しておりました。内容は悪魔崇拝者の支配層による世の支配構造と実態について説明しており、ざっと見たところ、個人的には複雑な話を分かり易くまとめていると思いました。ただ、決定的な誤りもいくつか散見されました。隠されている(一部分はあからさまにされているが)真実が明らかにされているのは良いのですが、やはり世の事柄だけしか伝えていないことが問題です。支配層について、悪魔崇拝者であると言及しているのは良いことですが、それが何を指すのか、何故、支配層は悪魔を崇拝するのかを伝えなければ、戦い方を間違えることになります。Xで「悪魔崇拝」に関する投稿をすると比較的閲覧数が多いと個人的には感じます。しかし、ただ神秘的、超自然的と感じて、興味本位で見る方が多いだけのように見受けます。悪魔崇拝について、ミカエル氏の真の聖書福音と預言「悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗」に詳しく書いてあるのでぜひご覧いただきたいのですが、『悪魔崇拝とは、その名のとおり、聖書や主イエスの教えにことごとく反し、神に反抗する者である悪魔と悪魔的なもの(堕天使、獣、太陽神、悪霊、あらゆる偶像、その他)を崇拝すること(引用)』です。この悪魔とは、聖書に記された、かつての天使、高慢故に神に逆らい堕落した堕天使、この世を支配する権威を持つ者、偽りを用いて人を罪に誘惑し自らの滅びに道連れにする者、第二の死が確定した者です。悪魔が悪魔たる所以は、上記引用にあるように主イエスの教えに留まらないこと、反キリストであることにあります。善と悪の基準は神の聖なる律法によって示されており、悪魔と悪魔崇拝者がしないこと(出来ないこと)は律法遵守です。彼らにとっては律法違犯が標準です。

 

律法に適う生活様式、真の世界観である聖書真理は、総じてヘブライ文化と言え、その反対、それ以外は「異邦人の道(マタイによる福音書十章五節参照)」です。古代イスラエルの末裔がいる日本においても、殆どの人々が著しく異邦人の道に陥っております。悪魔崇拝者の支配層が、自分たち以外の大勢を奴隷にする暗黒社会を築こうとしている(それは彼らにとっての楽園、そして、人々にとっては地獄)ことは確かに大問題なのですが、それだけを知っても無意味です。なぜならば、律法違犯は唯一の真の神によって裁かれ、有罪判決を受ければ滅ぼされることになるからです。先の動画の大きな間違いの最たるものとして、聖書のことを「予言書」と言ったり「(支配層の)計画書」と書いておりますが完全に間違いです。

聖書は宗教ではないし、支配層の計画書でもない。既に申したとおり、支配層も最終的には悪魔(堕天使)と共に地獄行きになることを聖書は予告してるんやから、支配層に都合のええ計画書である訳がないやろ。こないなことを言うド無知の愚か者をたまに見かけるが、彼らの思慮の浅さもかなり酷い。その者どもは、嘘で他人を惑わした罪を負う上、迷惑極まりない。前にも言うたとおり、聖書(パウロの偽福音や偽教義を除く)は人が正しく生きて行くための指導書、歴史書、預言書、言葉であるイエス・キリストそのものである。この世を支配する悪人どもが聖書の教えを宗教扱いして、人々を聖書とキリストから遠ざけてることに気付け。聖書拒絶者こそが異常であることに気付け。

 

引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」

 

 

「目覚めよ」と人に言いながら、たとえ無自覚であっても、真理から目を背けさせるのであれば、それは非常に悪い行為です。意図せずに、結果としてそうであったとしても、真実に虚実を混ぜるのは悪質です。繰り返しますが、世の動き、真相だけ伝えても不十分です。巨悪の存在に気付いても、真の善悪の基準(律法、真理)を知らなければ、無知故に罪を犯し、知らなかったことで免罪とはなりません。そして、聖書の預言は必ず実現します。獣が支配する世界が起こるのは不可避です。事実、大勢がその事実を認めておらず、流れを変えるには至りません。悪を弾劾し、不服従を貫くことは確かに必要なことです。しかしながら、『彼らの計画を阻止しましょう(動画三十七分二十七秒)』が目的となっては不十分です。真の希望は、この悪諸共に腐敗したこの天地を滅ぼし、復活し、神の裁きに適い、無罪判決を受けて、永遠の命をいただき神と共に生きることです。そこでは、死も悲しみも労苦も無く(ヨハネの黙示録二十一章四節参照)、この世とは根本的に異なる平安があります。そのために求められることは、神の律法、掟、戒めを守ることです。また、律法遵守を阻む肉の弱さ、誘惑等に打ち勝つことです。ただ神にのみ従うということです。それ故に、この世(悪)に従うか、神に従うか、どちらに服従するかの戦いの過程が人生であり、人生という競技の意味です。つまりは、唯一の真の神だけを礼拝するということです。正しい世への抵抗の仕方や勝利条件を知らずして、「目覚めた」ということは有り得ません。

散々真のキリスト者が伝道してきた内容を信じず、拒否したり莫迦にしたりしたのに、キリストがほんまに再臨しはったのを見て、「不信仰で好き放題してきた自分らは終わった…地獄行きだ…」と直感で理解し、悲しむものと思われる。不信仰であるとか、異教徒(パウロ教徒を含む)であって、聖書の真理に聞き従うんを拒否した報いが否応無しに与えられるだろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」

上記をご覧になって、どう思われるでしょうか。手前は上記の言葉がとても現実的に感じられました。まさにこのような状態が起こるのでしょう。この世の終わりの時には、ヨハネの黙示録十三章にある獣が支配する新世界秩序が構築されている時で、殆どの者が獣に屈していると思われ、その時には絶望しかないでしょう。ミカエル氏が、『獣の刻印とはこないな獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印や。(引用:キリスト道』と言われている通り、世の真相に聡い人々がしているように、終末に急速に普及する悪しき制度や体制、物理的なマイクロチップや電子刺青を避けても、一方では、西洋かぶれや聖書真理を信じない異邦人の道に従うなら(現時点で世の殆どの人がそうである)獣の刻印を押されます。「目覚める」というのなら悪しき世の真実を知るだけではなく、聖書真理に関する知識(これこそが本物の知識)を持ち、神の律法、掟、戒めを守り主の裁きを待つという霊的備えをしてこそ、本当に目覚めたと言えます。

 

 

  勝利と勇気について

 

過去記事(正しく在れば、負い目は無い)でも勝利という概念に幾らか触れましたが、今回は少し異なった切り口で考察して参ります。

 

ヨハネによる福音書十六章三十三節(私訳)

我によってお前たちが安らぎを得るためにこれらをお前たちに話した。お前たちは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。我は世に勝利した。

 

ヨハネの手紙一 四章四節(私訳)

子たちよ、お前たちは神に属している。そして、お前たちは彼ら(偽預言者ら)に打ち勝った。なぜならお前達の内に居られる方は世に居る者よりも偉大だからである。

 

ヨハネの手紙一 五章四節から五節(私訳)

神から生まれた者は世に打ち勝つからである。これは世に打ち勝つ勝利、我らの信仰である。誰が世に打つ勝つか。主イエスが神の子であると信じる者を除いては無い。

 

上記は、主イエスと使徒ヨハネの言葉です。上記で共通して用いられている『νικάω(勝利)』の原語を見ていきます。言葉通り、また、比喩的な意味も含めて原義は「征服する」「服従させる(従順にする)」「抑える」の意味です。そもそも、勝利という言葉(概念)の前提として、複数間でどれが優位に立つのかということがあり、それを意味しているのだと思います。更に、「(困難を)克服する」「(習慣を)打ち破る」「勝つ(打ち負かす)」「(努力して)獲得する」といった具体的な意味が続きます。これらを踏まえて、罪を犯す肉の欲や世からの誘惑を克服し、異邦人の習慣(外来語や洋服等の西洋かぶれ、創造の秩序に基づかない世の「常識」等)を打ち破り、聖書真理、神の律法に基づいた信念や生活様式を獲得することが必要です。

『答えは、すべての意志を神に委ねるのか、サタンに委ねるのかの違いです。即ち、神とサタンのどちらにひれ伏すかという問題です。どちらにも委ねへん、「自分の心は自分のもんや」という人はサタンや悪霊に操られます。自分で気付かへんだけ、認めたくないと勝手に思い込んどるだけで、実際はそうなんです。そういう自我の強さは傲慢さに繋がり、神に敵対しとるからです。そう仕向けることでサタンはそういう人を滅ぼせるさかい。

真の聖書福音と預言「主イエスの受肉」)』

 

律法を守ることについての論争は長年され続けており、これこそ神とサタンとの戦いでもあり、神に属する人間と世に属する人間との戦いでもあります。主なる神は、御自身がお選びになった人間とそれ以外の人間を区別するために、神と神の民の間のしるしとして安息日をはじめとする律法をお与えになり、誰がまことの神か、創造主かを人間に示してくださいました。サタンは、神の律法を守ろうとする人間を憎み、サタンに仕えたり惑わされた人間を使って神の民を迫害したり、耳触りの良い虚偽の教えで騙して仲間に取り込もうとしたりします。これは一種の神による鍛錬でもあります。それらにも屈せずに神の律法を守り通す者が神の民となるのです。

真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」

 

結局、神とサタンの間で何が争われているかというのは、神の律法と人間の心なのです。天の父なる神は、主イエス・キリストを心から信じる神の民に聖霊をお与えになります。そして、神の民は神の力によってまず心から変えられて言動も良い方向に変えられ、神の律法を心に書き付けられて守り、最終的にキリストに近い品性へと造り変えられていきます。反対に、サタンも同じように、世に属する人間たちの心を支配するようになります。サタンに心を支配された人間は、神の律法を無視して罪を犯し続けて罪の奴隷になります。悪いことをしてもやめられず、その内に罪悪感を一切感じることが無くなり、悔い改めや回心ができなくなります。

真の聖書福音と預言「音楽の功罪」

律法違犯者、且つ、人々に律法違犯を唆して永遠の滅びに道連れにしようとする悪魔に対して、また、自分自身(自我)に対して打ち勝ち、罪を犯さないようになる(罪に打ち勝つようになる)ことが勝利であると分かるはずです。そして、勝利のためには、勝利を希求するだけではなく、一番は全身全霊で神を愛すること、その思いと行いに応じて神は力をお与えになるはずです。

 

ペトロの手紙二 二章十九節(参照)

彼らに自由を約束しているが、この者たち自身は堕落の奴隷である。人は、打ち負かされたものに同様に奴隷とされるからである。

 

上記の聖句箇所は、不義な者が、信仰に入って間もない者を惑わすことに言及している箇所です。人は打ち負かされたものに奴隷とされるとは、個人的に、最初は分かりにくい箇所だと思いました。しかし、実践していく中で徐々に分かってきました。例えば、安息日より仕事を優先すれば、自身は律法違犯を選び取った、神以外に従ったと言えます。同時に、改めなければ違犯の故に有罪となり、滅びが待ち受けます。奴隷とは、ある物事に心を奪われ、そのことのためにしか行動出来なくなる状態です。これほど不自由なことはありません。肉の欲に負ければ、そのためにしか行動出来なくなります。一方、世俗の用事を優先せず、自分の欲求を自制して、安息日を守れば、神の下に在ると言えます。神に従う者は、神への奉仕者(謹んで仕える者)です。神に従うことは、流されずに明確な意思や自発性を持たなければ決して出来得ません。神に従うことも悪魔に従うことも個人の選択の結果ですが、誘惑され、罪によって滅びの縄目に陥るなら罪の奴隷です。それに対して、神に従う人には罪からの解放(自由)があります。繰り返しますが、肉の欲に負けて罪の奴隷となるか、自分を捨て神の僕となるかで明暗を分けます。『δουλόω(奴隷とされる)』には、「僕とされる」の意味もあるからです。ちなみに、ここでの『ἡττάομαι(堕落)』は「最悪の状態となる」ことであり、まさに世俗に打ち負かされては何も良いことがありません。やがて永遠の滅びが待ち受けます。

 

ヤコブの手紙四章七節(私訳)

従って、お前たちは神に服従し、悪魔に抵抗しなさい。すると、お前たちから逃げるだろう。

 

ὑποτάσσω(服従する)』とは、「従属する」「従う(守る)」「影響を受ける」「支配下にある」などの意味があります。そもそも服従と聞いてどんな思いを抱くでしょうか。「自分の好きなようにしていたい」と自我優位に思う人も少なからずいるでしょう。しかし、世には神に従うか、それ以外かの二択しかありません。知らないということは恐ろしく、何も知らなければ好きなように生きて、神の目には堕落するだけです。

 

サタンは、創世記のアダムとエバを唆した場面において、また、主イエスを荒野で誘惑した時も選択を迫っております。律法に適うか、違犯するかは常に選択の問題です。神と富の両方に仕えることは出来ない(マタイによる福音書六章二十四節参照)や完全であれ(マタイによる福音書五章二十四節参照)といった言葉からも、完全に律法に適わなければ、半端は違犯と看做されます。我らは、誰しもが、今この時も常に、この選択をしているのだと思います。この日常生活の只中においてです。それは日常の只中が常に戦いの場であり、戦いの連続であることを意味すると思います。

 

日常生活の只中で選択について、以下の話が参考になると思います。

ルカでは、「暴飲暴食や酩酊や生活の煩いで、あんた方の心が負荷を掛けられ過ぎひんように、自分たち自身に注意しなはれ」と書かれ、より具体的に戒めがなされてるのに大きな差異があると言える。暴飲暴食も酩酊もまったく体にも良くないし、人間が冷静で過ちを犯さへん状態であるためにも必要なことや。また、生活の煩いというのは、生活費という金銭の悩みであったり、家族や職場や友人等といった人間関係での悩みであったり、そういったこの世での生活に関する思い煩いを指す。あまりにもそういったことに悩まされたり、多大な労力や時間や費用を掛けさせられてると、心や時間の余裕が無くなり、落ち着いて聖書を読んだり、研究したり、伝道したりでけへんであろう。「そんな余裕が無い」っていう状態がまさしく生活の煩いを抱えてる状態と言え、それでは救われるのは難しいだろう。信仰が無い人程、そうなり易い。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」

個人的にはこの話にとても共感を覚えます。まず、「暴飲暴食や酩酊」についてです。会社勤めをしていた時(仕事人間であった時)、心身にかかる負荷があまりにも大きかった故、手前は暴飲暴食を繰り返しておりました。結果、疲労のためだけではなく、過食や飲酒による体調不要も少なからずあったと思います。食べすぎ、飲み過ぎで不調を起こし、それで薬を服用するというどうしようもない状態でした。そもそも、そんな状態に薬など無意味で、最初から飲食を節制すれば良いだけです。栄養剤の類も巷には溢れておりますが、添加物満載で糖分等がやたらと多いものを「栄養剤」と称して摂取する方が異常です。体調不良、過労時に、宣伝広告に洗脳されるがまま飲用しておりましたが、これも同様に最初から就労も含めた生活環境を本気で整えて、余計なものに頼らないようにするべきです。却って体調が悪くなる懸念もありますが、対症療法的で、問題が起こる構造がある限り、何度でも問題が起き続けます。自分から不健康になるようにしておきながら、その不健康を紛らわし緩和させる行動を取るのは矛盾でしかありません。そして、心身の負荷は単に長時間労働によるものでもなく、良くない人間関係、過剰な業務割り当て、過密労働なども背景にあります。そのような負荷にさらされ続けると抑うつ状態に陥ったり、「やっていられない」との憂さからそれを代償するために暴飲暴食、買い物、賭博等にのめり込む場合があります。それは刹那的な代償行動です。厄介なのは自覚しながらもなかなか抜け出せないことです。『μέθη(酩酊)』には、必ずしも酒で酔うこと以外にも「(狂気に近い)興奮や陶酔」「中毒」の意味もあり、まさに依存症の類も当てはまると思われます。『κραιπάλη(暴飲暴食)』にも「(酒類等で)堕落させる」の意味があるので同様だと思います。これらは、単に自制しようと立ち向かうだけでは対処しきれないと思います。なぜなら大元の過剰な負荷の発生源が無くならない限り、苦しいことに変わりはないからです。悪い代償行動に向かわないように自制することは不可欠で大事です。それでも、『自制心の強さは、筋肉と同じように変化します。個人差があるだけでなく、同じ人でも状況によって強い場合と弱い場合があるのです。鍛え上げた二頭筋でも激しく使えば疲労するように、自制心も疲労します。(引用:「やってのける」ハイディ・グラント・ハルバーソン著)』とあるように自制心も使うほどに強められるようですが「疲労する」ともあります。『最近の研究では、買いものなどのちょっとした判断や、人にいい印象を与えようとするなど、日常的な些細な行動でも、多くのエネルギーが消費されていることがわかっています。(同引用)』からも、日常の様々なことでも精神力は消費されているようなので、張り詰め過ぎずにいられる、余計な負荷がかからない環境に移行するのが最善であると思います。『生活の煩い』についても同じことが言えます。

 

関連して、こちら(ヤフーニュース)にて、大学を卒業してから働き始めたばかりの新社会人である『TikTokerブリエルさんが、「原則9時~17時の労働で頭がおかしくなりそう」と涙ながらに訴える動画が世界的に話題になり、賛否を呼んでいます。』との記事があり、個人的には興味深く拝見しました。少し昔ならば「これくらいで何を言っているんだ。甘えるな。昔は…」という説教が飛んできそうです。今でも「まだましな方だ」と思う方が多いのではないかと思います。職業、労働時間、給与や生活水準、私事や余暇の確保など、どれを優先するかはそれぞれの考え方次第です。それを踏まえた上で、キリスト者は、キリスト者としての生活の目線で考える必要があります。前回記事(主イエスを模範とした終末時代の生き方)でも触れたように、主イエスは福音を宣べ伝えよ(マルコによる福音書十六章十五節等参照)と御命令されました。世俗の仕事に最大限励めとは言っておりません。主イエスは大工の仕事をされた後、福音伝道に全てを注がれました。但し、世俗の仕事をしてはならないということではありません。福音伝道のために、あくまで自分の才能と能力を磨き、活かし、福音伝道の働きをすることを求めておられるのです。記事の話について言えば、九時から十七時までの労働は普通の会社勤めとしては短い部類に入りますが、それでも十分に心身は疲労します。それから家に入って夕食を摂り、家事をすればあっという間に寝る時間となり、ましてや疲れていれば何もする気になれず、それに対して空しさを覚えるのは何もおかしなことではないと手前は今では思います。むしろ、それに空しさを感じるだけまともで、多くはそれが当たり前と思い、それに異議を唱える者に対して「なっていない」と叱責してしまうのだと思います。実際には、生活のこともあるので、世俗の仕事を全くしないでいられるのは稀だとは思います。それでも、世俗の仕事に拘束され過ぎないように、不必要に仕事を負わないようにするに越したことはありません。その上で、最低限、食べていかれるために必要な分だけ稼ぐというやり方を考えて、余裕を作るのが最善だと思います。ヤフーコメントに『やりたいこと、労働時間・日数、勤務地、給与水準など、残念ながら世の中の大半の仕事はトレードオフの関係にあると思うから、何かを取るなら何かを捨てなければならない。昔よりは労働環境の自由度は増してると思うし、自分のスタイルに合った仕事を探せば良いと思う。もし給与もそれなりに高くて自分の好きなスタイルで働きたいなら、自分の能力・価値とアウトプットを高める努力をするしかないと思う。』という意見があり、妥当な考えだと思いました。望む環境を手に入れるには、何かを手放し、最小の労働で稼ぐには、相応の就労技能が不可欠で、それを磨く努力も不可欠です。そして、福音伝道をやってみると分かるのですが、隙間時間でやるような「間に合わせ」では決してやれません。学び、聖書研究をして、記事等を作成するには、相応の労力が必要です。時間だけでなく気持ちの余裕も、向上心も自分の課題に向き合う精神力も必要です。仕事に心身の体力全てを奪われると何も出来なくなります。詰まる所、律法遵守のことも含めて、キリスト者としての生活環境(地域、住居、就労、家計、家族関係、その他の人間関係、適切な生活水準等)の整備が、今後のキリスト者としての在り様を大きく左右すると思います。人は環境に影響されます。だから、ここでも現実的にどうやっていけるかを理性を尽くして考えることが不可欠です。言わば、キリスト者として生活していくための生活設計、戦略です。繰り返しますが、世での暮らし向きの向上を追求せず、食べていかれるための就労環境を整え、出来る限りに余裕を作り、福音伝道に全力で当たることが不可欠です。『暴飲暴食や酩酊や生活の煩いで、あんた方の心が負荷を掛けられ過ぎひんように、自分たち自身に注意しなはれ』と書かれた箇所には、とても深い教訓が込められていると思います。

 

もう一点、『心が負荷を掛けられ過ぎひんように』について、エサウのことも教訓にするべく見ていきます。エサウは空腹のあまり、たった一度の食事のために長子の権利を明け渡してしまいました。

 

創世記二十五章二十九節から三十三節(参照)

ヤコブは汁物を煮ていた。そして、エサウが野からやって来て、彼はひどく疲れていた。エサウはヤコブに言った。「どうかその赤い汁物を食べさせてくれ。我はとても疲れ切っているから。」そのため彼の名はエドム(赤)と呼ばれた。そして、ヤコブは言った。「貴方の長子の権利を今日、我に売ってください。」エサウは言った。「見よ、我は死にそうだ。この長子の権利が私に何の益があるだろうか。」そして、ヤコブは言った。「今日、我に誓約してください。」すると、エサウはヤコブに誓約し、ヤコブへ長子の権利を売り渡した。

 

エサウが浅はかにも長子の権利を売り渡した時、エサウは酷く疲れておりました。『עָיֵף(ひどく疲れる)』は、「元気の無い」「活気の無い」「弱った」「喉が渇く」などの意味があります。誰だって疲れれば、余裕が無く、自制心も低下して、普段の落ち着いている時であればしない失敗をしてしまうことは、経験があるのではないかと思います。そして、『עֵשָׂו(エサウ)』の名前の原語には、創世記二十五章二十五節にあるように「毛むくじゃら」の意味もありますが、「大雑把」「無作法」といった意味もあります。もしかすると、エサウはただ単に疲れてしまったが故の一度きりの過ちというだけで無いのかもしれません。元々がそのような性質であったのならば、もしこのことが起きていなかったとしても、違う場面で同じような別の過ちが起きていた可能性があるのではないかと個人的には思いました。ヘブライ人への手紙十二章十六節から十七節では『誰でも一つの食べ物のために自らの長子の権利を手放したエサウのような婚外性交する者や冒涜する者にならないように。お前たちは心得よ。その後、祝福を受け継ごうとしたが拒絶されたからだ。涙を流して祝福を懇願したにもかかわらず、取り消しの機会を得られなかったからだ。(私訳)』と書かれております。エサウのことを婚外性交(即ち、偶像崇拝)する者、冒涜する者(不信仰)とまで形容されていることから、エサウの無分別が最悪のものであることがわかります。「エサウは長子の権利を軽視した。(創世記二十五章三十四節参照)」の『בָּזָה(軽視する)』の原語には、「侮る」「軽蔑する」「拒絶する」「するに値しないと思う」の意味があります。現代の我らにとっては、福音を聞いて、存命中に神への忠実を神に示す機会があるにも拘らず、神の律法よりも世俗を優先することに例えられるかもしれないと思いました。確かに、葛藤を覚える場面があるのは事実です。それでも、熟慮して、現実場面に神の律法を適用して判断する分別が不可欠です。自戒を込めて、「大雑把」であっては、抜けが生じるのだと思います。同じく、自戒を込めて「一時が万事」ということもあります。『わずか一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができる。一つの小さな事柄の調子が他のすべての場合に現れる。(出典:デジタル大辞泉 小学館)』の意味ですが、エサウの話にも表れていると思います。

 

ダニエル書十一章三十一節から三十二節

そして、集団が立ち上がり、彼らは力の聖域を汚す。また、彼らは永続するものを排除し、ぞっとする忌まわしいものを置く。(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」

契約に違反する者を甘言によって堕落させる。自分の神を知っている民は確固として行動する。(私訳)

 

真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」にて説明されている通り、かつて起き、またこれからも起こるであろう預言です。大艱難期には、世界統一宗教と世界統一政府が構築され、そこに獣であるローマ教皇が君臨します。律法を守ろうともしない違犯者は、まさしく神との契約に違反する者であり、「信じれば救われる」などの偽福音もまさしく甘言(相手の気持ちをさそうようにうまくいう言葉。「引用:スーパー大辞林」)です。神との契約は申命記に書かれている通りに従順を条件とし、従順には祝福を、不従順には罰が下ります。そして、『甘言(חֲלַקָּה)』の原語には、「滑らか」「調子のいい」「人に取り入るような」「ごますり」という意味もあります。まさしく甘言の意味である「相手の気持ちをさそうようにうまくいう言葉(引用:スーパー大辞林)」そのものです。誘うのは堕落させるためです。故に、福音の正しい知識を持つと共に、行いへの適用は厳格でなければ、容易に惑わされて世に屈してしまうと思います。

 

ところで、現在、戦争と憲法改悪の動きがひたひたと迫っております。言うまでもなく、日本が戦争に巻き込まれれば大勢の命が奪われます。万が一にも戦地に赴くようなことがあれば、「国を守るために」と政府等の煽動者や政府に惑わされた人々は、かつての戦中のように調子の良いことを言うと思われます。しかし、その時、人を殺める行為が合法化されたとしても、間違い無く律法違犯です。これらに加担しないことも大事ですが、一番はそのような悪い動きを未然に止めたり、そのために抗うことこそ大事です。いざ事が起きれば止めるのは至難だからです。憲法が改悪されれば、国に従わないことが悪と看做され、律法違犯を強いられるようになります。仕方がないでは済まされず、今この時こそ、この世全体の悪い動きに抗い、不服従を貫かねばなりません。こちら(NHK)の報道で『「台湾有事」などの際 先島諸島の住民の避難で県に協力要請』とありました。記事によると『沖縄県の先島諸島の住民の避難先として九州・山口での受け入れを計画」「万が一の場合に備え、沖縄県の離島から12万人を避難させる手順を検討しているが、次のステップとして避難先での受け入れについて検討を進める時期に来た』とかなり具体的に、九州の各県に打診している段階となっているのが不気味です。先島諸島は確かに台湾に近い位置ですが、本来であれば、日本は当事者として関係する訳でもなく、被害を受けるなど許されざることです。但し、自らが参戦すれば話は別で、やはり日本が戦争をする前提となっているのだと思われます。このことはかなり危険な戦争の兆候と思います。それにも拘らず、(個人的な印象ですが)報道があっさりしていて、このことを懸念する声があまり聞こえないと感じました。以下、兄弟から教えていただいた情報を基に記します。こちら(NHK)によると、日本は米国の要望に従って離島や艦艇から作戦を行う長射程ミサイル部隊を創設し、支那と戦うために米軍の新たな海兵隊である部隊海兵沿岸連隊(MLR)を沖縄本島、先島諸島などの離島等に配備する計画を立てております。これらは、ここ数年で台湾に近い石垣島や与那国島などに自衛隊施設が相次いで開設された動きとも符合すると思います。そして、沖縄の島々に部隊が配備されている以上、支那の攻撃の的になるのは間違い無く、そのため並行して避難の計画が進められていると考えられます。また、こちらの記事 (現代新書) で千九百五十八年の台湾海峡危機に関する極秘報告書には『米軍が策定していた台湾有事の作戦計画「OPLAN25‐58」では、中国沿岸部の航空基地や砲台を小型核兵器で破壊しても中国が台湾への攻撃を止めない場合、中国の戦争遂行能力そのものを無力化するために、戦略核兵器で上海などの大都市を攻撃する計画でした。(引用)』とあるとおり、過去には核兵器使用を想定していたことから、今もその選択肢が残されていると考えるのが自然です。ミカエル氏が『こちら(YouTube)のとおり、日本に対する敵意をむき出しにしており、台湾問題について介入したり何か支那の軍隊に対し、たとえ兵士一人、飛行機一機、船一隻を日本が投入するだけで、支那は応戦するだけでなく、日本に対して全面的な戦争を開始し、核爆弾を使用すると堂々と言うてる。これを許可してるユーチューブ運営も反日であることは明白やろ。(引用:「キリスト道 改憲問題」)』と言及しているように、日本が米軍の計画のための道連れどころか、真っ先に標的にされる危険が大いにあります。『日本の自民党政権は、アメリカと「一蓮托生」と言わんばかりに、自ら進んで「防壁」としての役割を果たそうとしています。しかし、万が一にもアメリカと中国が戦争する事態となれば、「戦場」となるのは日本なのです。「一蓮托生」は「死ぬも生きるも一緒」という意味ですが、戦争になったときに圧倒的に死ぬのは日本人なのです。(引用:現代新書』と、恐ろしくも、しかし、現実的に起こり得る事態です。

 

 

それだけでなく、こちら (nippon.com)によると日本は電機電子製品を支那と台湾に大きく依存しており、いざ戦争が始まればこれらの供給は途絶え、経済的な損失は大きく、更には、食料等についても自給率の低い日本は大打撃を受けるのは必至です。こちら(毎日新聞)の通り、『農林水産省の有識者検討会は6日、凶作や有事、輸入の途絶などの不測の事態が起きた際の対応策をまとめた。食料供給の減少が見込まれた段階で政府が対策本部を設置し、農家や商社などに食料の確保を要請、指示する。食料安全保障の強化が狙いで、2024年の通常国会に関連法案の提出を目指す。』との情報がありました。『有事、輸入の途絶』とは、戦争しか考えられず、台湾有事のことが前提にあると思われます。海上輸送の停止が起これば、食料の供給がままならず、これこそがその事態に当てはまります。さつまいもの転作に言及していることからも戦争が想起され、実際、X投稿でも戦争を懸念する投稿が多数見受けられました。参考までにこちら(X)やこちら(X)です。政府自ら、国内農業、畜産業を破壊しておきながら、また、自ら戦争の準備を進めながら、『不測の事態』とは白々しい限りです。『それぞれの段階で計画作成の指示に従わない場合は、罰則(罰金)を設ける』の言葉からも何が何でも国民を支配しようとする悪意をひしひしと感じます。更には、支那においては、十八歳以上なら男女問わず強制的に徴兵するとの戦争動員法が既に施行されており、国内にいる大勢の支那人が日本人に対して牙を剥くことも考えられます。前後して、日本国憲法が自民改憲案通りに改悪され、徴兵から戦争へと進むことを悪徳政府や官僚らは目論んでいると考えられます。

 

 

自民党の歴代首相が憲法改悪に言及しておりますが、こちら(読売新聞)に『11月3日「文化の日」に「明治の日」併記を、超党派議連が祝日法改正案を提出へ』との報道がありました。わざわざ「明治の日」と言うからには理由が有りそうです。明治は国家転覆(明治維新)によって出来上がった時代です。偽天皇が据えられ、偽日本人が政府中枢に居座るようになり、急速に日本らしさが失われた悪しき時の始まりであり、そのような明治という時代を記念する意義は無いと思います。また、大日本帝国憲法(明治憲法)では国民は臣民(君主に支配される民)とされ、憲法改悪を目論む者たちの悪意が「明治の日」にも表れていると思います。また、杉田水脈議員がこちら(X)のように、『人権の定義に法的根拠が無い』と滅茶苦茶なことを言っており、こちら(X)では大日本帝国憲法の『「法律の留保に基づく臣民の権利」と同様』との指摘がありました。この発言と「明治の日」の報道と、衆議院憲法審査会(参照:NHK)が同時期であることから、それぞれが意図してなされているのではないかと感じた次第です。彼らは一様に周到であり、それに対して国民は何と無知で無防備なことかと思わざるを得ません。いざ事が起きて、その時に振り返って、どこからおかしくなったか、どこからだったら止められたのかを考えたら、政府の暴走が起きて違憲行為が頻発した時期、特にここ数年が岐路であったと分かるはずです。mRNAワクチンを勧める政府や報道に惑わされているように、憲法改悪や徴兵にも従えば、その先は確実な戦死であり、また、生き延びたとしても戦争に加担して殺人を犯した事実は消えません。その時の尋常ならざる肉体的かつ精神的な消耗は、真っ当な思考力を奪うことでしょう。その時、ローマ教皇を頂点とする世界統一宗教が甘言を用いて、偶像崇拝へと誘うことでしょう。故に、今出来る憲法改悪阻止や戦争の準備の阻止に全力を傾けるべきです。

 

ダニエル書十一章三十三節(私訳)

民の知識を持っている者たちは大勢を指導するがその時、剣、炎、監禁、略奪によって倒される。

 

上記の『שָׂכַל(知識を持っている)』は、新共同訳では「目覚めた」となっております。同じ原語が使われている他の聖句箇所に「我は、我に教えるあらゆる人たちよりも知識がある。なぜなら、あなたの証言が我が祈りだからだ。(詩編百十九編九十九節:参照)」「賢い者たちは天空の輝きのように照らす。 そして、永遠に星のように多くの人を義に立ち返らせる。(ダニエル書十二章三節:参照)」「大勢が清められ、白くされ、精錬される。 しかし、悪人は悪事を行い、悪人は誰も悟らない。だが、よく考える者は悟る。(ダニエル書十二章十節:参照)」などがあります。共通しているのは賢さ(知識、知恵)や熟考などの意味があることです。ここでの賢さは、『「主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。」(詩編百十一編十節拙訳)と「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節拙訳)と複数に渡って記述があるとおり、聖書を知らず、主を畏れて神の律法に服従せん人が賢い訳がない。(引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』とある通りです。真理によって、真の善悪の基準を知ることが出来、たとえ世の権力者が甘言を用いても、その嘘を見破ることが出来ます。支配層が国家を操り、為そうとしていることがどれほど危険なのかを見据え、反対して、不服従を貫かねばなりません。

 

また、戦争のことだけでなく、こちら(メモ・独り言のblog)にあるように、豪州が現金を廃止し『社会参加に必要な「デジタル・パスポート」の携帯をすべての国民に義務付ける方向で動いています。』といった国民奴隷化の動きにも警戒が必要です。SNSの利用に際して、「デジタル・パスポート」の提出が強制されるとあり、支配層の公式発表(つまり、偽り)を暴くSNSに対しては、連合国(UN)や世界経済討論会(WEF)が苦々しく思っているのは、言論弾圧まがいの施策を言い出していることからも明らかで、いよいよ言論弾圧に向けて動き出したと考えられます。そして、『2024年に現金、小切手、電話による支払いを段階的に廃止し、デジタルのみの取引に移行する』とあることから、来年から再来年にかけて激変を迎えそうです。これはオーストラリアのみならず他国も追随すると思われます。

 

他にも、過去記事でも触れましたが、感染爆発に関する条約等に関する動きがあります。動きとは、例えばこちら(さてはてメモ帳)とこちら(さてはてメモ帳)です。記事のとおり、ニュージーランドとフィリピンは国際保健規則の改正に同意しないことを世界保健機関に伝えたとあり、このように毅然とした対応が出来ていることは非常に良いことで日本とは大違いです。ニュージーランドは、前首相が支配層の手先のような人物でワクチンを義務化した人物でしたが、首相が交代したことで方針が変わったようです。こちらの情報(X)では、ある医療機関でのワクチン接種者の死亡率が三割近くもあり、凄まじい状況が起きております。日本とは違い、さすがに国民も気付いたと思われます。新しいニュージーランド政府も『国内法がいかなる国際協定よりも優先されることを再確認する』と真っ当なことを言っております(但し、妄信は出来ないので要注意)。そして、前首相が急に退陣したのが昨年末ですが、深刻な事態が表面化する前に逃亡したのではないかと思えました。

 

 

こちら(BrainDead World)では、『イタリアで、ワクチン有害情報を隠蔽したとして、元保健大臣を「殺人容疑」でローマ検察庁が捜査を開始』との情報がありました。真っ当なことで、日本でもこうあるべきですが、今の司法の状況から厳しいと思います。また、イタリアの動きも、まだ捜査段階で逮捕、起訴した訳ではないので慎重に見ていく必要があります。ガス抜きで終わる可能性が無いとは言えないからです。それでも、出来る限り、感染爆発に関する条約の締結阻止のためにも、もっと多くの国々でこのような動きが起きるべきです。イタリアでは日本とは異なり、政府の悪に気付いている人々が多いそうですが、正しいことを言わずに黙っていては、悪に屈したも同然です。

 

先の憲法改悪に関する画像の中で、戦中の特高警察によって、政府に従わない者に対する拷問の絵があります。漫画「はだしのゲン」などにも同様の場面が記されており、これは過去に現実に起きたことです。政府が戦前回帰を目指している以上、起こり得ると危機感を持つべきです。『歴史は繰り返す。まさに、「かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。太陽の下、新しいことは何もあらへん。」(コヘレトの言葉一章九節拙訳)のとおりや。せやから、歴史や過去の教訓から学べと言うんや。(引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)』の通りです。この状況下で世に屈せずに居るには、非常に勇気が要ることだと思います。自分を捨て、神の義を信じ、神を愛さねば、聖霊の導きがなければ、到底為し得ないことです。勇気について、以下のような説明があります。

普通の人が、恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じることを恐れずに(自分の信念を貫き)向かっていく積極的で強い心意気のこと。勇ましい強い心をいう。

(略)

さまざまな勇気

一概に「勇気」と言っても様々な種類がある。例えば、正義のための勇気なら「義勇」になる。ここでは様々な勇気を紹介する。

 

義勇(正義のための勇気)

知(智)勇(知恵と勇気)

沈勇(勇気があり、落ち着いている)

蛮勇(乱暴で、向こう見ずな勇気)

武勇(武術に優れており、勇ましい)

 

引用:ウィキペディア

今の日本の社会は、偽りを信じる多数派が殆どであり、その中で悪徳政府らの言うことを批判することや従わないでいることには、勇気が要るのかもしれません。しかし、間違ったことに従うのは恥です。まさに、今、問われており、これからも大艱難において、正しさを貫けるかが問われ続けます。引用にある蛮勇、武勇はその時には不要です。義勇、知勇、沈勇が必要です。特に、「正義」に対する定義を、聖書の言葉から確信を得て、体現することが大前提です。

 

歴代誌下 十五章七節から八節(私訳)

お前たちは勇敢であれ、手を緩めるな。それはお前たちの働きに報いがあるからである。

アサはこれらの言葉と預言者オデドの預言を聞いてから、勇気を出して、ユダヤとベニヤミンの全地から、エフライムの山から奪った町々から忌まわしいものを捨て、主の(神殿の)入口の前にある主の祭壇を修繕した。

 

上記は「勇気(חָזַק)」の言葉を用いた一箇所ですが、原語には「耐える」「立ち直る」「(苦痛に耐える)精神力」などの忍耐を含む意味から「雄々しく」「強固」「強い」などの勇ましさの意味、そして、「確立」「確固」といった確かさを表す意味もあります。これらは義勇、知勇、沈勇にも通じると思います。

 

 

  結び

 

昨今、「自己肯定感」という言葉が多用されていると思います。自信を喪失し、何が正しいか、自分はどうするべきかを見失っている人々が多いためではないかと想像します。そういった需要がある故、自己肯定感を強める手段に触れたネット上の記事やSNS投稿を頻繁に見かけるようになったと感じます。一例として、こちら(プレジデントオンライン)です。自分を見失わずに、神の視点を持って、事に臨むと置き換えるならば、信仰と似ていると思いました。記事にある枠組みを活かして、真のキリスト者の心構えを記してみました。

 

一、他人からの評価ではなく神からの評価

人からどう見られるか、人からどう評価されるかを意識して振る舞うと、善悪の基準(神の律法)から逸脱して道を踏み外しかねません。神は、自分に何を望んでおられるのかを一番に考え、神の目に適えば良いのだと弁え知るべきです。

 

二、自分に与えられた能力(才能)を最大限に活かす

前回記事でも触れたタラントンの教えの通り、神は、僕の能力に応じてタラントンをお預けになりました。他人と同じような働きが出来るかどうかではなく、自分のこれまでの経験や持っている技量を活かし、磨き、それを用いて、福音伝道をすることが全てです。

 

三、成功と失敗

神と富の両方に仕えることが出来ない(マタイによる福音書六章二十四節参照)、悪い者が支配するこの世(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)であることを踏まえると、社会的地位や名誉や富は成功を意味しません。真の成功は、世に、罪に打ち勝ち、神から無罪判決を受ける(永遠の命を受ける)ことです。世に、罪に屈することが失敗であり、その過程は決して簡単なものではありません。何度失敗してもやり直して、最後には勝利出来るようになりましょう。「涙と共に種を蒔く者は、喜びの内に刈り取る事になる(詩編百二十六編五節参照)」の過程を経ることを忘れてはなりません。

 

四、不測の事態

今は、艱難期です。世の終わりに何が起こるかは主イエスが福音書にて教えておられ、ヨハネの黙示録でもこれから必ず起こることとして、既に我らに伝えております。故に、基本的に不測の事態は無いのだと思います。むしろ、聖書の言葉と展開する現実場面の一致をたくさん目撃することになるのだと思います。「知らなかった」「聞いてない」とならないように真の聖書福音の理解、聖書研究は弛まず続ける必要があります。そして、神に付く者はごく少数ではあるが、多数派を恐れず、勇気を持って真のキリスト者の真っ直ぐな道を貫きましょう。

 

これらから、自己肯定を高めようと自我に固執するのではなく、真理という文脈に則り、自分を捨て、神の御命令に適うように振る舞えば自ずと自分を見失うことがなく、世に屈することもなく、勝利者へと近付けるのだと思います。そこに自ずと勇気を帯びていることでしょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今の世相は、現在進行でこれまでの社会構造が壊され、支配層による新世界秩序構築に向けた再編の只中にあると言えます。この比類無き悪意の中、大きな再設定に向かう動乱に翻弄されず、世の悪への抵抗を当然するべきです。世の悪に抗う最善の方法は、一言で言えば、神の律法、掟、戒めを守ることです。それは同時に、真理を知ることも、信じることも、行動することも阻もうとするサタンとの熾烈な戦いの過程でもあります。今回は「終末時代の生き方」と題して、主イエスを模範とした世の悪に打ち勝つ生き方について述べて参ります。

 

  壊されゆく従来の社会

 

こちら(X)に百年前の日本を映した動画があります。投稿者も和服の良さに言及しており、動画では皆が笑顔で溢れております。返信投稿も肯定的内容が多く、むしろ当時の活気に対する羨望すら感じさせます。『貴重な映像を投稿していただき、ありがとうございます。子供からおじさん、おばあちゃんまで着物やマント、帽子の着こなしが素敵すぎて、何度も繰り返し拝見してます。(引用:X )』と言っている方もおり、同様に感じる方はきっと多いのではないかと思います。一方、『今の日本国は若者がマスクして顔を隠し暗く自ら命を絶つ国 それが今の日本国(引用:X )』と百年前の活気と現代の落差を嘆く投稿もありました。日本人に元気が無いということはコロナ犯罪以前からも聞かれていたことではありますが、追い打ちをかけるような現在の状況を見れば上記のように言いたくなるのも分かります(但し、百年前が安泰であったという訳ではなく、今よりはましという程度です)。ミカエル氏の記事でも昔の日本の画像等を紹介しており、その中の真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」の記事において『米国の指令により戦後急速にヘブライ文化を受け継ぐ日本文化が衰退させられ、異教の西洋から持ち込まれた悪魔崇拝の一種と言える。せやから、拙者は西洋かぶれするなと言うてる。不信仰で異教徒だらけで神に逆らう者が多い西洋人の真似なんかしても何一つええことはないんやから。』と指摘されていることが、事の本質です。ヘブライ文化を受け継ぐ日本文化(日本語、和服、和食、武士道に代表される生き様、その他の生活様式)が在って、それが日本人に共有されていることこそ日本であることの証しです。それが消失寸前で、異邦人の文化(外来語、洋服、その他の慣習)が主たる位置を占めるようでは、日本人全体が、「異邦人の道に行ってはならない(マタイによる福音書十章五節参照)」の主イエスの言葉に反している状況です。神に逆らって栄えるはずがありません。ましてや聖書真理に立ち返ることもない状況では申命記にあるような呪い、旧約の歴史書にある古代イスラエルの衰退が今も同じように臨むだけです。日本の衰退はここ数年の事柄だけではなく、百年前よりもっと以前から始まっております。真の聖書福音と預言「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」等でも言及されている通り、江戸末期の明治維新という国家転覆(約百五十年前)から急速に日本らしさが失われました。百五十年という時をどう捉えるかですが、一人の人間の人生時間に置き換えればとても長く感じられるため、ぴんと来ないかもしれません。しかし、歴史という時間軸で捉えれば近い時期に相当します。この世には六千年という時が設けられ、和服は古代イスラエルの民の服装(に近い)であることからも同等の歴史を持つはずです。それが六千年の終盤のたった百五十年の中であっという間に廃れたことを考えれば、如何に日本文化(ヘブライ文化)が急速に消え失せているかが分かります。千年を一日のように(ペトロの手紙二 三章八節参照)捉えれば六千年は六日間であり、百五十年は(一日二十四時間で計算すれば)四時間足らずです。この僅かな時で急速に廃れるのは異常です。『洋服を着てる時点で「自分は異教徒です」と主なる神への反逆を全身で表現、かつ、主張してるに等しく、売国奴でもある。知らなかった時に犯した過去の罪は、主イエスを信じて悔い改め、神の律法を守るようになれば赦される。過去がどうだったとかやのうて、現在及びこれからのことを言うてるんや。悔い改める(律法違犯をやめて遵守する)なら赦されるが、自分らの罪を認めずに悔い改めへん(律法を破り続ける)のなら赦されず地獄行き。これが単純明快な主イエス・キリストの教えや。もしこれを読んでるのが、日本人でないとしても、皆同じく改める必要がある。(真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)』のご指摘の通り、高い視座で俯瞰して、今の状況を見据える必要があります。

 

日本文化の衰退のみならず、経済面では産業の破壊も深刻です。コロナ犯罪で飲食店等が特に大きな損害を受けたのは記憶に新しいと思います。当時、政府は無利子、無担保(通称、ゼロゼロ融資)を実施しました。融資の総額は二年間で総額四十二兆円にも達するそうです(参照:NHK)。中小企業の半分近くが融資を受け、そして、返済が始まりましたが実際には返済出来ず倒産する中小企業が相次いでおります。こちら(読売新聞)によると、二千二十三年上半期の企業倒産が前年比三十七パーセント増、「ゼロゼロ融資」を利用した企業の倒産件数は四十四パーセント増と底が抜けた状態になりつつあります。

また、こちら(アメブロ)では、ある自動車販売店にて『コロナ禍に入り生産ラインが止まり、新車を受注しても納期未定みたいな時期が長らく続きましたが、あれは景気の良いニュースのようで、結局お客様側に車を届けて初めてお金が動くので、実際は絵に描いた餅状態。そのせいで中古車販売は過去最高益だったらしいですが、2023年に入りピタリと売れなくなったそう。そりゃそうです、新車が流れないと状態の良い中古車も出てこなくなります。それで今は、たくさん新車の発表はしていますが、すぐに生産ラインを停止しているのが現状のようです。目標台数みたいなものを事前に決めておいて、その台数が売れた時点で生産終了』という作れない、売れない、利益も上げられない、業界全体の流通も停滞する事態が起きているようです。これでは現場の従業員のやる気も低下し、効率が下がり、生産性も下がり、ますます悪い連鎖が起きるのも当然です。一見して、何とか事業活動がされているように見えても、いつ目に見えた本格的な崩壊(それも連鎖的に)が訪れてもおかしくない状況にあると思います。

 

そして、経済や産業の動向のみならず、人口減少も深刻です。こちら(X)より、「接種前比の超過死亡数」が太陽暦二千二十三年八月時点の情報で三十八万人を超えるとの情報がありました。また、こちら(X)では、『イスラエルと豪州における年齢層別ワクチン致死率(vDFR)の分析から、ワクチン投与数をちょうど1000で割ると死亡人数の推定値が得られると示唆。』との規則性が見られるようで『2023年7月10日:日本は4億回接種達成、ワクチン接種による死亡人数の推定値が40万人となる』となるようです。先の「接種前比の超過死亡数」と概ね近い数値だと思いました。かねてよりワクチンのロットによっては有害事象が多いことは知られており、そのように割り当てられている可能性は考えられます。戦時の東京大空襲、広島、長崎の原爆の死者数よりも多く、また、何かしら日常生活に支障をきたした人々の数を加えると、恐ろしい状況になっていると思います。そして、最近、芸能人などの著名人の死亡が相次いで報道されており、ワクチンとの関連が濃厚と思われますが、超過死亡の多さも含めて全く触れない報道機関の姿勢(知らないふりを続ける不作為)はおぞましい限りです。また、それは医療機関とて同様で、これだけ死者数が増えればどんなに鈍くても気付くはずですが、それについて声を挙げたという話はほとんど見受けられません。更に、日本の十二歳から十九歳までの新型コロナワクチン接種率は、二回接種済みが約七割、三回接種済みが約四割に達しており(太陽暦二千二十三年十月時点)ます。そのため、ひどい頭痛や倦怠感のために不登校が続き、休学や退学を余儀なくされている児童がおります。こちら(アゴラ)によると、慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)の臨床像を示しているそうで、当の厚労省がワクチン後遺症を認めていないことも相まって、医療機関を受診しても怪訝な顔をされるなどまともに対応されていない実態があるようです。子供たちが人生を壊され、また、未来を担う子供たちのほとんどがワクチンを接種しており、社会全体の先行きとして非常に厳しい状況です。

 

そんな中、世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が『全世界に向けてパンデミック条約の制定と国際保健規則(IHR)の改正、締約国会議の創設を提言(引用:CoRoNano)』と提言しました。こちらのnoteの記事では、いわゆるパンデミック条約の危険性がまとめられておりますが、記事内の最上段の動画では、ウイルス詐欺に乗っかり畜産業を制限することや、支配層が偽と看做す情報(真実)の拡散(いわゆるインフォデミック)への対策をとること、「ソーシャルリスニング」という名の思想調査など、ろくでもない内容が並んでおりました。条約が締結されれば、検閲が強化されたり、ワクチンが強制接種されるのは目に見えております。検閲や強制等があれば、憲法に反する内容のため、締結されたとしても憲法九十八条一項により無効となる対象です。おそらく政府や与党は、合法であることを主張するためにも憲法改悪を強行すると考えられます。しかしながら、国政は国民に福利を享受させるのが役割なのであって(憲法前文が根拠)、ましてやでっち上げられた偽ウイルス対策のために人権を制限するような自民改憲案自体は、憲法前文により排除されるべき対象です。そのため、強行して改憲しても無効で、従う必要はありません。ただ、懸念されるのは、法を蔑ろにする人治主義の政府はお構いなしに改憲をごり押しして、それが合法だと振る舞う危険があるため改憲は何としても阻止するべきです(参照:真の聖書福音と預言「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」)。

 

 

また、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスとイスラエルの軍事衝突が起きました。イスラムと偽ユダヤの衝突について盛んに報道されており、下図のように世界各地に飛び火しかけております。これについては、真の聖書福音と預言「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」の記事にあるように最終的に大規模な戦争(第三次世界大戦)となり、『その戦いの果てにイスラム教も最終的にローマ教皇に従うことで吸収されて世界統一宗教という形に収まって終わるのだろう』との流れになっていくことが考えられます。ウクライナ戦争と同様に仕組まれた戦争であるため、どちらかに肩入れしたりせず、この争いがどこに向かいつつあるのか(実際には、支配層の世界再編、新世界秩序構築に向かう)を、報道に惑わされずに見ていく必要があります。

 

 

関連して、『次は台湾です ホワイトハウスがイスラエル、ウクライナ、台湾への追加軍事支援を議会に要求(引用:X)』との情報があり、日本が台湾有事に巻き込まれるのも目前に迫っております。支那で「外国国家免除法」が成立し(参照:superred2020kiroku’s blog)、これまで成立した戦争関連の法と共に着々と支那は戦争の準備をしていると思われます。日本はこのような時期に汚染水等のことで支那と対立の火種をわざわざ作ったり、その前には麻生副総裁が台湾有事を煽るような発言をする始末です。それでいて支那から多数の移民を受け入れており、政府の対応は完全に矛盾しており、むしろ混乱を作るのが目的なのだと分かります。普通に考えれば、戦争など違憲であることから許されざることです。しかし、人治主義の政府によって改憲が強行され、無効であることも省みず人々に「軍役」を強要しようものなら、一気に台湾有事に進んで行き、戦争の最前線に日本人が立たされる懸念があります。僅かでも懸念されるなら、絶対にそのような余地を残さないように反対しなければなりません。主イエスの終末預言にある、戦争と戦争の風評が聞かれる状況が実現しつつあります。

 

 

  この世の悪に対してどう向き合うか

 

これらの世の悪に対してどう対峙するか、良からぬことが起きているとは誰の目にも明らかですが、無関心でいたり、ただ眺めているだけでも駄目です。支配層は人外な悪い計画を実行しており、それに無知であることも、ただ生き延びることを考えるのも、現実逃避するのも、いたずらに不安に駆られて揺り動かされていても宜しくありません。世の権威(連合国、世界経済討論会、各国政府、報道機関等)が扇動する政策が、明らかに人のためではなく、彼らが目論む新世界秩序の構築のためにあることをまず認識するべきです。コロナ犯罪と同様に、誘導先があって、そこに至らせるために全てがやらせとして「在りもしない問題」として起こされていること(支配層の手口)をこれまでの出来事からも十分に学べるはずです。

 

 

彼らの人外な思想や行為が悪魔崇拝に基づいており、その悪魔は聖書に記された神への反逆者です。彼らは、人々に聖書真理を知られないように進化論などの嘘や偶像たる宗教や偽福音を教え、神の律法を守らせないように仕向けます。その結果として、大勢が滅びに至ります。律法を遵守しない者たちの誘導に乗ってはいけません。彼らの誘導は聖書真理に照らして何ら実を結ぶに値することは無く、偽りに満ちていることから、彼らは聖書の黙示録に預言された悪しき存在であることが分かります。聖書預言は確実に起こるため、ヨハネの黙示録十三章にある獣の秩序が構築されるのは避けられません。新世界秩序が暗黒社会である所以は、構築の過程で大勢の命を奪うこと、その後も肉体の命と引き換えに律法違犯を強要し、第二の死に至らせることです。これらに対して、悪の実態を人々に伝え、世の権威に従わず抵抗し、聖書真理を伝え、神の律法を最期まで守ることによって抗うのみです。それが唯一の勝利条件です、逆に、世に屈服する(神を否む、神に従い通せない)ことが彼らの狙いです。たとえこの悪い世で命を失ったとしても、全ての不義を裁かれる神の正義に委ね、良き報いを得られることに希望を抱いて、最期まで神に従い通すことが終末時代の唯一の正しい生き方です。


 

主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節)」「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節)」(引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』の聖句は、何度も引用させていただいておりますが、とても重要なことであり、何度でも伝えます。主への畏れを持ち、真理を自分の基軸とし、心と行いを律しない限り、全ては無益に終わります。この世を支配する悪は最後に神に滅ぼされますが、人々を自らの奴隷にして地獄に道連れにしようとします。この世の終わり際は悪の支配が極まり、大勢が命を失いますが、その激しい精錬過程によって鍛えられるとも聖書には記されております(ゼカリヤ書十三章九節、ペトロの手紙一 一章七節等参照)。悪魔が滅ぼされるのは神の律法(善悪の基準)に違犯しているからです。悪魔のみならず、神の律法に違犯した者は皆、有罪判決を受けます。神の律法は守ろうと思って守るのではなく、神への愛の故に、また、その過程で聖霊をいただくことによって成し得ます。聖書真理を知らずに道を間違っても、偽福音を信じたり、真理を知っても何かしらの理由(怠惰、高慢、生活の煩い等)で道から逸れても駄目です。命に至る道での戦い(神を選ぶか、サタンとこの世を選ぶか)は非常に熾烈であることが終末に関わる預言から分かります。

 

狭く苦しい道である(マタイによる福音書七章十四節参照)とは決して誇張ではありません。これでは誰が救われるのかと思わなくもないです。しかし、予め主イエスがそのように予告された通りなのであって、それ以上でもそれ以下でもありません。確かに言えることは、主イエスは「自分を捨てて、我に従いなさい(マタイによる福音書十六章二十四節等参照)」と言われたのですから、それに従うことが命に至る唯一の道です。主イエスは我らの模範であり(ペトロの手紙一 二章二十一節参照)、どうするべきかは主イエスの言動に倣うべきであり、また、教えてくださります。主イエスに倣うことの意義は「お前たちの師はキリスト一人である(マタイによる福音書二十三章十節参照)」とある通りです。『師(καθηγητής)』は「教師」「指導者」であり「判断基準」や「道しるべ」でもあります。まさしく主イエスは模範となられました(ヨハネによる福音書十三章十五節・ペトロの手紙一 二章二十一節参照)。主を畏れ神の知識を得ていくことや神の律法を守ることを前提に、主イエスに倣って終末時代を生きるために以下の五点に留意するべきと考えて挙げさせていただきます。

 

一、悔い改める

洗礼者ヨハネは「お前たちは悔い改めよ。各天の国は近付いた(マタイによる福音書三章二節参照)」と言いました。悔い改めの定義については過去記事でも触れてきましたが、これをきちんと理解できているかどうかが明暗を分けます。また、一度で全てを改めることは不可能と言っても過言ではなく、失敗は教訓にして、諦めずに、完全へと近付いていく必要があります。悔い改められる時(罪が赦される恩恵期間)は有限であり、限られたこの時を何にも優って大事にするべきです。主イエスも悔い改めよ(マタイによる福音書四章十七節参照)と言われ、罪人を招いて悔い改めさせるために我は来た(ルカによる福音書五章三十二節参照)、悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)とそれが超重要で不可欠であることを繰り返し言及されております。『悔い改め(μετανοέω)』には、「以後、考えを変える」「倫理的に良心の呵責を感じて考え直す」「後悔する」といった意味があります。「良心の呵責を感じる」のは、正しい善悪の基準(倫理)を知ったからであり、考えを変えれば行いも変わるのは必定です。行いの重要性は他の聖句箇所でも言われております(マタイによる福音書二十三章三節、ヨハネによる福音書十四章十五節等参照)。ところがパウロ教信者は、主イエスを信じて受け入れて、罪が赦されたから大丈夫なのだと平気で言いますが、こういった全く悔い改めない彼らの嘘(偽福音)には騙されないようにしてください。

 

マタイによる福音書十三章十四節から十五節(私訳)

イザヤの預言は彼らによって成就される。曰く、お前たちは聞くには聞くだろう。しかし、決して理解しなかった。お前たちは見ることは見るだろう。しかし、決して理解しなかった。この民の心が鈍くされ、耳にはぼんやりと聞こえ、彼らの目を閉じたからである。彼らは少しも目に見ようともせず、耳に聞こうとせず、心に理解しようとせず、改めようとせず、我も彼らを癒そうとしなかった。

 

改心する(ἐπιστρέφω)」は、新共同訳では「悔い改め」となっておりますが、意味としては「改める」と心の動きと共に行いも含まれております。また、「癒す(ἰάομαι)」には、「治す」「解決する」の他に、「完全とする(欠けが無い)」といった意味がありました。ここでは、比喩的に罪から解放される、救いをもたらすとの意味があると考えられます。ちなみに、マタイによる福音書九章三十五節から三十六節(私訳)『イエスはあらゆる街や村を行き回り、それらの会堂で教え、(神の)王国の福音を伝え、人々のあらゆる病気や病弱を癒し、更に、群衆を見た時、羊飼いが居ない羊のように力無く、散らされた彼らを憐れんだ。』の箇所にある『θεραπεύω(癒す)』の原語には「神を崇拝する」の意味があり、十三章十五節の「癒す(ἰάομαι)」にある「完全とする(欠けが無い)」、救いをもたらす等の意味から、悔い改める(改心する)ことの重要性が複合的に理解できる箇所だと思います。また、癒すからには、治された状態(解決像)があるはずで、マタイによる福音書九章三十五節『νόσος(病気)』の原語にある「肉体的な病だけでなく、善悪の判断に関する能力欠如による社会的な問題や弊害」の意味からも、聖書の真理によって、世の事柄を判断し、内容によっては忌避し、考えも、行いも改めていく必要があります。真の神を知らずにさまよった結果として、世の悪に絡め取られて、命を失ったり、心身の面でも経済の面でも弱らせられていることに通じると思います。

 

聖書の真理を知り、今の実生活全てに応用して、自らの考えのみならず、行いをも正す必要があります。かつては知らずに世に従ったとしても、悔い改めて生きる以上は、正しい行いをして、高潔な品性を持つように自らを磨き、真理の知識を深く学ぶことは不可欠です。過去記事「神に裁かれる者として」の中でも引用したのですが、『現代法学では、裁判は「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論じられている。(略)事実認定が行われたら、次に、この「事実」に対して法律を適用することになる。(引用:ウィキペディア)』とあります。悔い改め(改心)とは、神が定めた善悪の基準(神の律法、掟、戒め)に適うように自分を律することです。それは非常に高い精神の働きが求められます。この反対が、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 四」で言われている『自分で主体的に考えることがでけへんような人間、自分の良心や理性で自分自身を制御出来ずに外部から制御される人間がゾンビということや。』だと思います。勿論、知識の習得や思考の度合いにもそれぞれ差異があるので、最初から完全に自己を制御するのは難しいです。だからこそ、出来ている人に学び、兄弟で励まし合うことが不可欠です。残りの時が少なくなっておりますが、まだ恩恵期間が終わっている訳でもありません。志の有る方は急ぎ兄弟の集いから、神のイスラエル教会に入会し、学びと実践に努めましょう。

 

 

 

 

 

二、悪しき世の権威に従わない

繰り返しますが、この世全体は悪い者の支配下にあります(ヨハネによる福音書一  五章十九節参照)。だから聖書真理に基づいて社会が構成されておらず、あらゆる偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)に基づいております。世に従って生きればそれだけで神に反する生き方(世に属する)となります。マタイによる福音書四章八節から十一節にあるように、主イエスは悪魔から試みを受けました。『サタンはイエスを非常に高い山に連れて行き、イエスに世界の国々の全てとそれらの壮大さを見せ、イエスに言う。「もし、我にひれ伏して崇めるならばこれら全てをお前に与えよう。」(マタイによる福音書四章八節から九節:私訳)』とのくだりです。主イエスはただ神にのみ仕えよとの聖書の言葉に従い、サタンの誘惑を拒否しました。

また、主イエスは逮捕されて、総督であるピラトから、『「あんたを十字架刑に処す権限も、釈放する権限もある」(ヨハネ十九章十節参照)と言うた言葉に対して、「天から与えられたのでないなら、あんたは我に対して何の権限も無い。それ故、我をあんたに引き渡した者は、より大きな罪や。」(ヨハネ十九章十一節拙訳)と言わはった。このように、主イエスは毅然としており、地上の権力者なんかに媚びることもなければ、その権限をも認めへんかった。(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)』と、平伏することもなく実に堂々としておられました。更には、捕縛された場面でも相手が武装しているにも拘らず、自らは反撃して暴力を振るうこともありませんでした(マタイによる福音書二十六章五十節から五十四節参照)。ただ神を畏れ、神の御心を思い、非暴力不服従の姿勢を示されました。

今を生きる我らにとっての日常的なことで言えば、聖書を読み、創造の秩序からこの世と人間の始まりを知り、生きている間に真に為すべきことを知り、古代イスラエル文化に回帰して和服や和食を大切にし、日本語を重んじて西洋かぶれせず、政府や報道機関等の言う嘘を見抜き、学歴や地位や財産等を志向せずに神を一番にし、安息日等の律法を守ることです。また、巨視的には、ワクチンや戦争などの人口削減、経済や生活の破壊を通して新世界秩序の構築に向かわせる再編の動き(大きな再設定)を見抜き、それらに反対の意思を示し、置かれたところで出来る限りの行動をすること(隣人愛の実践、福音伝道等)が大事です。総じて、『獣の刻印とはこないな獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印や。ワクチンを避けるのも当然必要なことであり、支配層の所有物になりたくなければ、接種は断固拒否で、ローマ教皇を頂点とするカトリック、その他世の「キリスト教」と自称する教会に所属することも従うことも忌避すべきです。(引用:キリスト道)』とあるように、身体的、精神的、社会的、霊的(真理)あらゆる面で世の悪を拒絶することです。これは世を捨て、世俗と距離を取って生きなければ為し得ません。世の友となっては決して出来得ません。そうした覚悟が求められます。

 

太陽暦二千二十三年十月十一日、人間の体内にマイクロチップを埋め込む話が報道されておりました。こちら(日経ビジネス)の通り『マイクロチップ埋め込んだ21歳 生体認証に新風』との題名で、マイクロチップを埋め込んだ手をかざしてドアを開錠するなど映画さながらな使われ方が紹介されております。そして、やはり個人番号券とマイクロチップの情報を関連付けるとの一文がありました。支那では信用得点制度によって、例えば、自動車走行時に速度違反をすると即時に違反が検知され、口座から罰金が引き落とされる仕組みが既に稼働しております。これらを日本で実用化するには個人番号券で国民を一括管理する必要があり、ましてやそれらが体内にチップで埋められれば、もはや逃げようがなく、現金も廃止されて電子通貨のみとなれば、まさにヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印であり、それがなければ買うことも売ることもできない世界が実現します。要は、そのような技術が既に確立されているので、支配層の駒である政府が、いつ理由をこじ付けて導入し強制してくるか分かったものではありません。だからそのようなものは最初から忌避するべきで、親しむべきではありません。動物へのマイクロチップ装着は既に行われており(参照:動物検疫所)、人間が家畜や飼われた動物のような扱いをされることは目に見えており、やがては支配層に恭順しないと生きられない社会になるのが目に見えております。先の記事は『新たな生体認証』という言い方から、現在使われている指紋認証や顔認証の延長として、より心理的抵抗を少なくさせて、これを世の標準とさせていく意図があると思われます。若き経営者が最新技術を駆使して、夢のような快適な生き方を提供するという心象戦略を仕掛けているように思えてなりません。また、真の聖書福音と預言「動画三回目投稿 新しい契約」「早よ行動せんのなら日本は滅びる」の記事でも紹介されているように、マイクロソフト関連会社が電子刺青の特許を既に取得しており、マイクロチップよりも侵襲性が低い(と思われる)電子刺青へと促されるようになるのではないかと、その布石としての一手なのではないかと思いました。ミカエル氏がかねてよりずっと警鐘を鳴らしてきた事柄ではありますが、いよいよ露わになってきたと感じております。マイクロチップまたは電子刺青が個人番号券や信用得点制度と一体化した時、政府が国民の生殺与奪権を持つでしょう。その時、権力者が神の律法に反する事柄を強制するようになり、従わねば黙示録にあるように殺されるようになるでしょう。mRNAワクチンでも神が創造された人間が持つ自然な遺伝子が改変されて、自覚も無いまま大罪を犯してしまうといった事象が既に起きております。無知は「善悪の判断に関する能力」の欠如に他ならず、神よりも自分の命を愛することは「善悪の判断に関する能力」の不行使です。

 

 

 

三、真実と福音を伝える

世の悪や世の真実について、自分の内にだけ留めていたのでは不十分です。ただ知識欲を満たすだけでは自己愛を強めるばかりです。大事な情報、貴重な情報は周知して共有するのが望ましいと考えます。前回記事でも触れましたが、新型コロナワクチン接種後、障害が生じて車椅子が必要となった方が、ヤフーやグーグルの検索で調べても詳細な情報が出て来ず、Xでようやく真実情報を知ることが出来たというものでした(Xの情報は玉石混交で見分けが重要ではあるが、報道よりも真実を伝えている)。以前、Xの大型口座の方が多数の真実情報の発信をしていることについて「正直、お金にもならないが、真実や世のおかしさを伝えることのほうが大事だという気持ちの方が優る」といった趣旨のことを言っておりました。その方は不信仰者でしたが、儲けを考えずに行っているその心意気は素晴らしいと思いました。間違った情報は論外ですが、真実を伝えようとする行動には「他者のため」という慈愛が根底にあると思います。また、義憤ということもあるでしょう。それも回り回って他者に還元されていく慈愛だと思います。何も知らずに、無知なまま滅ぼされて良いはずがなく、悪をのさばらせた要因として我ら一人ひとりの怠慢(無知、無関心、無慈悲等)にも要因があり、それらをも改めなければなりません。

医療従事者が悪魔の使いとなって、危険薬物を手に「ルール」と「思いやり」を免罪符に、殺戮を繰り返します。

今の多くの医療従事者の白痴ぶりはもはや病的で単なる異常信仰者ですから必ずやります。

 

改憲阻止と同時にパンデミック条約、国際保健規則の阻止ということですから非常に過酷ですが、やらなければ死ぬ可能性が高まるだけです。

 

これこそ、やるかやらないかであって、日本人を、また人間を問われているのだろうと思います。

もはや死ぬ覚悟がなければ生き残れないという状況です。

最後は運でしょうが、運を引き寄せるのも、「自分」です。

 

闘いの中に活路が見えることはよくあります。

それを「光」と呼ぶのかもしれません。

 

引用:note(知識と実践と真実と〜知行合一〜)

上記の通り、『日本人を、また人間を問われている』と手前も思います。この異常な世の実態を伝え、暗黒社会へまっしぐらとなる憲法改悪や感染爆発に関する条約等は、自分のためだけではなく、大勢の日本国民のためでもあり、止めなければなりません。この危険を認識しながら、全く何もしないということはあり得ず、その姿勢に古代イスラエルの末裔としての日本人の生き様やキリスト者としての人間性が問われていると思います。ただ、残念ながら大勢の国民が悪の実態を認識せず、「今だけ、金だけ、自分だけ」で生きてきており、更には大勢がワクチン接種をして自分で物事を考えられずゾンビ化しており、大勢が改まるのは厳しいのが現実です。何より、聖書では獣を拝まねば殺される、かつてない大艱難が預言されており、それは必ず起こります。だからこそ、希望を持つ対象は、世直しではなく、全ての不義を裁かれる主イエスの正義と死後の報い(永遠の命)でなければなりません。主イエスが世の終わりに関する預言をお与えくださった意味を考えるべきです。

上記の引用に『闘いの中に活路が見えることはよくあります。それを「光」と呼ぶのかもしれません。』と書いておりますが、「世直し」という意味での闘いでは光は見えないと思われます。暗黒社会が現実のものとなるのは間違いなく、そうなった時には絶望しかありません。絶望した時に投げ遣りになったり、悪に屈したりするかもしれません。そうなると、これまでの闘いが何であったのかの意味を失う可能性もあります。しかし、聖書真理に立てば、世における権勢や生存が勝利条件ではなく、たとえ命を失っても聖書の神に従い通すことが勝利条件であり、真のキリスト者としての証拠でもあります。命を失っても屈服を拒み、精神の自由(悪を拝まず、主イエスのみを崇拝する)を手放さない生き様は旧約の預言者や主イエスやお示しくださいました。それに倣う時と機会が間もなく訪れようとしております。

 

そして、主イエスは、御自身も福音を宣べ伝えられ、キリスト者にも福音を宣べ伝えよ(マルコによる福音書十六章十五節等参照)とも言われました。福音(罪の赦しと永遠の命を得る機会)は、現実生活と切り離された事柄ではありません。この世の、各位が生きているあらゆる場面において、残りの生涯を通じて、全身全霊で神を愛し通して、神に忠実であることを神にお示しすることになるからです。その妨げになるのが、世の悪による偽り、妨害、世への恭順や屈服です。この世の支配者(悪魔)は、支配層(悪魔崇拝者)を配下に、悪の極みの新世界秩序を構築しようとしております。彼らにとっては、反キリストが標準であり、社会の仕組みも聖書に反する仕組みであり、世の動きと福音が大いに関係することです。誰もが聞き入れ、誰もが救われる訳ではありませんが、神がお選びになった失われた羊に向けて真実と福音を伝えることがキリスト者の正しい(神の御命令に適う)務めです。

 

マタイによる福音書二十五章十四節から三十節のタラントンの例えについて、福音伝道の働きと絡めて触れていきます。

 

マタイによる福音書二十五章十四節から十六節(参照)

(各天の王国は)ある人が遠い国へ行くようである。彼は自分の僕を呼び、自分の財産を彼らに委ねた。ある僕には五タラントン、別の僕には二タラントン、更に別の僕には一タラントンを彼らの能力に応じて託した。そして、直ちに彼は旅立った。それから、五タラントンを受け取った者は行って、それで精を出して働いた。そして、他の五タラントンを稼いだ。

 

ここが天の王国の例えであることから、「財産」自体は天に宝を積む(マタイによる福音書六章二十節参照)の例えの通り、神の目に善しと評価されること全般を指すと思います。それは各位の行いであったり、また、それを「委ねて」いることからも真の聖書福音などの正しい聖書の知識をも指すと思います。「能力(δύναμις)」には言葉通りに、その人固有の力、内在する力、その人が発揮する力です。各タラントンを主人(「ある人」)は僕に預けました。ここでは、具体的に何をするのかの指示は見受けられません。ただ、「委ねた」「託した」とあるだけです。推測となりますが、タラントンを預けられた段階で、僕は「主人(ある人)の意図を既に理解している」ことが求められていたと思います。このことは現代の我らのキリスト信仰そのものです。我らは聖書を与えられ、聖書を正しく読むことで何をするべきかを知るでしょう。『人には何が善で、主がお前に何を求めておられるかはお前に告げられていた。法に適うことを行い、慈悲を愛し、お前の神と共にへりくだって歩めば良いということである。(ミカ書六章八節:私訳)』の言葉が思い起こされます。だから、その指示を誤解釈してはいけません。誤解釈の最たる例は、パウロ教徒らの「行いは不要」とする律法廃止論が挙げられます。そして、新共同訳では僕は「商売」をしたとありますが「ἐργάζομαι(精を出して働く)」には、骨を折って働くことが主たる意味です。確かに「商売」の意味もあるのですが、原語から判断するに、ただ儲ければ良いと言う訳ではなく、また、楽して稼げば良いという訳でもありません。骨を折って働くことには、真剣さも、自己研鑽も、時間をかけることも求められると思います。自分に委ねられた分だけしっかりと働くことが求められております。ここではやはり、福音伝道という働きの意味があると思います。二十四章二十四節と二十六節では「σπείρω(種を蒔く)」の言葉が用いられておりますが、種を蒔くとは『悪を蒔く者は災難を刈り取る。(箴言二十二章八節:私訳)』『義を蒔く者には真の報いがある。(箴言十一章十八節:私訳)』などの言葉からも分かるように何かしらの報いを前提とした行いの意味が窺えます。現代の我らにとって、マタイの本聖句は主イエスの宣教命令(マルコによる福音書十六章十五節等参照)が前提にあります。救われるべき失われた羊に福音が届けられ、救われることは神の御心だからです(マタイによる福音書十五章二十四節、ヨハネによる福音書十章二十八節等参照)。ただ、誰が失われた羊であるかは人間には分かりません。最期まで忠実であることが求められるため、全ては招き、選ばれた神だけがご存じです。ここでは、自分の能力に応じて、一生懸命に福音伝道をする、能力を行使しきることが求められているのだと思います。人には能力に差異があって当然です。決して出来ないことが求められている訳ではないことにも注目するべきです。誰かと比べる訳でもありません。自分の経験を踏まえてですが、人は自分の能力は過大評価しがちだと思います(正確には、正しく客観的評価が出来ないことが多い)。その割には自分に出来る事を過小評価しがちだと思います。それゆえ、怠惰に陥りやすいと思います。先には自己研鑽とも言いましたが、自らの怠惰さに負けず、自分に打ち勝つ心が最も重要です。そして、興味深いのは多くを預けられた者はきちんと稼いでいるにも拘らず、一タラントンを預かった者は「我は恐れて、行って、貴方のタラントンを地に隠しました。(マタイによる福音書二十五章二十五節参照)」と全く稼ぐことが出来ておりません。単純な物言いは危険だとは思いますが、能力が高くない者は能力の活かし方をも不得手なのかもしれません。勉強に置き換えると、偏差値の高い人ほど基本的にはよく勉強し、低い人はそうではありません。そのような傾向は確かにあると思います。手前も能力は高くない故、我が事のように感じます。また、「κρύπτω(隠した)」とは、言葉通りに「秘密にする」ことです。福音を宣べ伝えなかったどころか、敢えて知っていて隠したのは非常に宜しくない行為です。知らないよりは、知っていたにも拘らず伝えなかった不作為の方が質が悪いのは言うまでもありません。現実社会において、ただ怠惰なだけではなく、人の目を恐れることで福音を恥とする(ローマの信徒への手紙一章十六節参照)ことすら残念ながら起き得ることです。「持っている者は皆、与えられ、豊かになるであろう。しかし、持っていない者は、持っているものさえも取り上げられるだろう。(マタイによる福音書二十五章二十九節参照)」とあるため要注意です。ちなみに、知られていることですが「τάλαντον(タラントン)」は、当時の「通貨」でもあり、「才能」をも意味します。能力に応じて託されたタラントンの多寡は、そのまま才能でもあり、持ち腐れでは役に立たない僕と言われて仕方がありません。手前自身にこそ突き刺さりますが、この箇所は厳しくも、そうならないようにと注意されているのだと思います。まさしく戒めです。

 

今は世の終わりの時で、福音伝道が可能な時は少ないと思われます。マタイによる福音書二十章一節から十六節にぶどう園の労働者の例えがあります。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けから出かけました。九時、十二時、十五時、十七時とそれぞれの時刻に労働者を募り、一日一デナリオンの約束で雇いました。報酬は最後に来た者から、一デナリオンずつ払いました。朝から働いていた人は、最後に来た人より多くもらえると思いましたが同じ一デナリオンでした。「この人たちは最後の一時間を働いて、彼らを日中の暑さと負担に耐えた我らと同じに扱った。(ヨハネによる福音書二十章十二節参照)」と不平を言いました。「我が自分のものをしたいようにするのは正しくないのか。我は気前が良いから、お前の目(妬み)は悪くなっているのか。このように、最後の者が最初となり、最初の者が最後となるだろう。多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は殆どいないからである。(マタイにより福音書二十章十五節から十六節参照)」との言葉から、どんなに遅く働き手となったとしても最後まで働いていることが報酬を得られる条件となっております。早いか遅いかよりも、最後まで勤め上げることが大事だと分かります。早くに神に招かれたからと言って、遅く招かれた人よりも多くを得るのではなく、神は基準を満たす者に対して平等なのだと思います。また、罪に関して言えば「悪人が自身の犯した全ての罪から立ち返り、我が掟をすべて守り、法に適って正しいことを行うなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。(エゼキエル書十八章二十一節参照)」「しかし、正しい(法に適う)人が正しさから離れ、不法を犯し、悪人が行う全ての忌まわしい行為に従なら、彼は生きられるだろうか。 彼が行ったすべての正しさは自身の罪と不法行為の故に覚えられず、自分が犯した罪によって彼は死ぬであろう。(エゼキエル書十八章二十四節参照)」の言葉からも、信仰に入ればそれで良いという訳ではないことが分かります。先にキリスト者として、神に拠る正しさを知り、法に適う行いをしたとしても途中から堕落したら元も子もありません。また、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は殆どいないからである。(マタイにより福音書二十章十六節参照)」という一文が新共同訳では欠落しておりますが、原典には記されております。この言葉の通りに、招かれるのが早くても遅くても、最後まで忠実であることが如何に難しいかを物語っております。今は世の終わり間際で、今この時は今聖句箇所にある十七時の状態、残り一時間足らずの労働の機会が残されている状況に等しいと思います。主イエスの御命令通り、自らも律法を守り、真の聖書福音を(偽福音伝道では駄目)恐れずに伝えるべきです。

 

四、敵対者に善いことをする

マタイによる福音書五章三十三節(私訳)

しかし、我は言う。お前たちは、お前たちの敵を愛し、お前たちを呪う者を祝福し、お前たちを憎む者に善いことをし、お前たちを侮辱したり迫害する者のために祈れ。

 

マタイによる福音書五章三十三節について、新共同訳では「お前たちを呪う者を祝福し、お前たちを憎む者に善いことをし、お前たちを侮辱したり」の部分が欠落しております。しかし、原典では上記の一文があります。中でも「善いことをせよ」との行動部分に言及していることは重要だと思います。同じ内容に言及しているルカによる福音書六章二十七節でも欠落しておりますが、同じく「善いことをせよ」の一文があります(参照:真の聖書福音と預言「本物の愛」)。そして、「愛せよ」「祝福せよ」「善いことをせよ」「祈れ」の四つの動詞がそれぞれ「命令形」となっていることにも留意が必要です。自分を愛してくれる人を愛するのは当然であり、それは誰でも行っていることである(マタイによる福音書六章四十六節から四十七節及びルカによる福音書六章三十二節から三十四節参照)と言われている通りです。ましてや、これから過酷を極める大艱難期では、主の名のためにあらゆる民族に嫌われる(マタイによる福音書二十四章参照)のですから、真のキリスト者に肯定的な人だけを対象とするのであれば、もはや他者に対して「愛する」「祝福する」「善いことをする」「祈る」ことも出来なくなります。大艱難期は悔い改めができなくなっている時期ですが、今はまだそこに至ってはおりません。どこかで誰かが見ている可能性もあり、また、一時的に敵対しているようでも改心する可能性もあります。『お前たちは地の塩である。しかし、もし塩が塩気を無くしたら、何によって塩味を付けられるだろうか。これからは何の役にも立たず、また、外へ投げ捨てられ、人々によって踏みつけられる。お前たちは世の光である。山の上にある都は隠れられない。灯火を灯して、それを升の下に置きはしない。しかし、燭台を上に置けば家の中を全て照らす。このように、お前たちの光を人々の前に輝かせよ。お前たちの価値ある行いを見て、各天にいるお前たちの御父を崇めるようになるためである。(マタイによる福音書五章十三節から十六節:私訳))』の聖句にある通り、光で照らすべきです。

 

人々がお前たちにすることはお前たちが望むことであるように、お前たちもまた彼らに同じようにしなさい。(ルカによる福音書六章三十一節:私訳)の聖句がありますが、これは表面的に受け取れば人間的道徳にも適う事柄です。しかし、マタイによる福音書五章三十三節の原典にあるように「親切にする」のではなく「善いことをする」ことの意味を考えるべきです。「καλῶς(善い)」の原語は、「倫理的に申し分なく完全」であるとの意味です。それは神の律法、掟、戒めに適うということです。「親切」の言葉だけに着目するならば、場合によっては情を優先して、相手の心に波風立てないように、伝えるべきことを伝えない事態が起こり得ます。しかし、そんな顔色を窺うような表面的なことよりも、目を向けるべきことがあります。それは、死後の永遠を決める神の裁きであり、第二の死という有罪判決です。聖書にある火の池などの地獄の描写は実に恐ろしく、相手が誰であってもそのように滅ぶことを望まないのが普通ではないでしょうか。出来るなら有罪判決を回避して欲しいと思うと思います。また、「καταρωμένους(呪う)」の原語には、「凶運」「破滅」「(有罪の)判決」「(厳刑の)の宣告」の意味があります。「呪う者」は神が為される裁きに勝手に言及しているばかりか「訴え出るサタン(ゼカリヤ書三章一節参照)」をも想起させます。さながら人を呪う行為はサタンに倣っているようにも感じます。主イエスは、敵を愛する姿勢を説かれ、ファリサイ派の人々や律法学者を弾劾しつつも、為すべき善を伝えました。安易に相手を肯定することは敵を愛することを意味せず、改めてもらうために厳しく指摘したり、叱責することで最悪を回避出来て良い方向に向かうならば、それは善きことだと考えます(同時に、相手が応えるかどうかは相手次第であることにも留意が必要です)。

 

 

五、孤独を恐れない

過去記事でも触れましたが、ワクチン関連で親族や友人との関係に亀裂が走った方々がおります。国民の八割以上がワクチンを接種していることから、もはや世の多数とは相容れないのはやむを得ないと思います。そうかと言って、真実を知りながら何も知らなかった時のように能天気には生きられません。ワクチンの危険を認識せずに進んで受け入れる様子は、はっきりいって異常でしかなく、ワクチンに限らず政府が人口削減を促進していること(憲法を改悪して戦争を始めようとしている、日本人を抑圧しながら移民を優遇する、経済を悪化させながら増税して日本人の生活環境を悪化させる等)などを認識せずにいるのも同様です。今の日本社会において、明確に真実の立場を取る者は少数であるのは事実だと思います。身近に誰も理解者がいなければ「孤独」を感じるかもしれません。しかし、間違った大勢で群れても無意味です。また、「孤独」と聞くと、少数派でいることが悪いかのような前提が今の社会にあると思います。こちら(X)で『学校は "権威 "への反応を習慣化するために「12年間の義務教育」を設けた』とあるように、皆が同じように従順であるように「躾け」られております。「躾(しつけ)」の漢字は「身」と「美」で構成されているにも拘らず、その実態は権威に従順な機械かのようであるのは何とも皮肉です。間違いだらけの多数に従うことは無意味で、むしろ堕落です。もし、そこで「安心」を感じているのなら誤った安心感です。大勢と同じでないと寂しい、孤独を感じるというのも植え付けられた価値観である可能性もあります。間違った多数を拒絶することは正しいことであり、本来は「分別(物事の道理を判断する)出来ている」と言うべきなのだと思います。なぜなら、聖書に記された正しい生き方だからです。たとえ世が認めなくても、神の真理が絶対です。旧約の預言者は(人には都合が悪いと感じる)神からの言葉を告げた故に多数に嫌われ迫害されました。主イエスも同様です。弟子たちの多くが離れ去って、主イエスと行動を共にしなくなり、主イエスがお選びになった十二人の弟子だけが残りました(ヨハネによる福音書六章六十六節参照)。このことは主イエスの終末預言にある、多くの人が信仰から脱落した(マタイによる福音書二十四章十節参照)ことにも重なります。真理よりも世の常識や自分の生活を優先すればそのようになってしまうのだと思います。また、十二人の弟子は主イエスが直接にお選びになったことから、世の終わりにも主に招かれただけで選ばれていない者は同様に脱落するのだと思います。また、『我が平和をもたらすために地上に来たのであろうと考えてはならない。我は平和ではなく剣をもたらすために来た。我は人をその父に対して、娘をその母に対して、義理の娘をその義理の母に対して不和をもたらすために来たからである。それゆえに、その家族はその者の敵となる。我よりも父もしくは母を愛する者は我がものに値しない。我よりも息子もしくは娘を愛する者は我がものに値しない。自分の十字架を受け入れない者や我が後に従わない者は我がものに値しない。(マタイによる福音書十章三十四節から三十九節:私訳)』とあることからも、皆が一緒にということは起こり得ません。主イエスがわざわざこのように警告してくださっているのですから、そのような心づもりでいるべきです。ちなみに、「μάχαιρα(剣)」には、比喩的に「争い、戦争」「司法の罰」の意味があります。そして、「διχάσαι(不和)」には「分離」「相違」の意味があります。家族間において、真に神に従うか否かが問われる時に違いが出て、神を一番としない不信仰を神は裁かれるのだと思います。神の言葉は剣であり、主イエスの口から剣が出ていることはヨハネの黙示録一章十六節、二章十六節、十九章十五節、十九章二十一節等に記されている通りです。罰を受けるような選択をする者たちと同じになっては道を逸らすだけです。大事なのは、真の聖書福音に対する信仰を分つ相手です。主イエスは信仰の兄弟で愛し合いなさい(ヨハネの手紙十三章三十四節参照)と言われました。共に神を信仰し、世に抗い、互いに励まし合える兄弟の存在は、この世において仲間や同士以上の存在です。兄弟で愛し合うことは主イエスの新しい戒めであり、これによっても決して孤独にはならないと思います。 また、「使徒たちは、自分たちが神の名のために虐待されるに値されたことを喜びながら、最高法院の前から立ち去った。(使徒言行録五章四十一節参照)」とあるように、困難を経ても尚、喜びがあります。万物の主権者である神の御心に沿うことは何よりの光栄であり、人に認められるよりも優ります。神と兄弟と信仰によって共に居ることが出来れば、尚のこと、孤独ではないと思います。

 

 

  結び

 

世の悪の実態を伝える者たちはよく「目を覚ませ」という言い回しをします。それは世の悪に無自覚で、世の権威を盲信している人たちへの警告としてです。しかしながら、世の悪や悪い仕組みにだけ言及していたのでは不十分です。その悪が、何を拠り所に活動しているのかを知れば、悪魔であることが分かります。悪魔は一時的にこの世を支配する力が与えられており、悪魔崇拝者は自らの魂を売り、刹那の繁栄を手にします。彼らは悪魔と同様に神を憎み、古代イスラエルの民の末裔のいる日本を憎み、神に選ばれた者をも惑わそうと徹底的に攻撃をしてきます。だからこそ、却って世の権威がひたすら聖書真理を隠そうとしていることや実現してきた聖書預言の数々、人となって来られた主イエス、その素晴らしき教え、首尾一貫する聖書の筋道(パウロ書簡を除く)を知れば、聖書が真理であると分かります。真の聖書福音にしか救いはありません。世の真相を知るだけでは「目を覚ます」ことを意味しません。もう一段階の高い視座(聖書真理)が不可欠です。

 

マタイによる福音書二十四章四十二節(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」

せやから、目を覚ましていなはれ。何刻、あんた方の主が来るのか、あんた方は知らへんさかい。

 

「γρηγορέω(目を覚ませ)」には、用心深く、油断なく、起こることを待ち受けることが含まれます。何故用心するのか、油断してはならないのか、何を待ち受けるのか、総じて神が人に何を求めておられるかを知らないようでは話になりません。人には、一度死ぬことと、死後に裁きに遭うことが定められているからです。

 

戦争や戦争の噂、死亡超過、腐敗と無秩序が極まる政治を日々、目にするのは確かに気が滅入り、苦痛です。この困難の中にあって、自分が真に何を為すことについて、やり切れるかを何度も何度も試され、問われることと思います。しかし、最期まで世の悪や自己愛に打ち負かされず、自分を捨てて、神に聞き従い、信仰の兄弟と愛し合い、隣人に善い事をし、最期には罪に打ち勝てるように。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「真の秩序と神に拠る幸福」と題して、神の創造の秩序が真の秩序であり、死後の永遠を神の王国で生きられることが真の希望であることについて述べていきます。

 

  悪い世の偽りの秩序

 

コロナ犯罪が起きて約三年、明らかに世の中がおかしいと気付く人は以前よりも増えてきたように見受けます。それはコロナ犯罪だけに端を発するのではなく、(日本国民の生活が脅かされる)政府の愚行が余りにも目に余るようになったからだと思います。例えば、個人番号券制度について、任意であったはずがいつの間にか医療保険証と関連付けられ、紙の保険証は廃止されることが勝手に決められました。個人情報が漏洩し、日本国憲法十三条の私事権が侵害されているにも拘らずです。更に、個人番号券と一体化した医療保険証を所持せず、資格確認書を利用して受診した場合には窓口負担が割高となります。これは、正当な理由が無く、属性や信条を理由に不利に扱うことであり、憲法十四条で禁止されている差別に該当するため、到底このような行為が許されるべきではありません。他にも預金口座は既に関連付けられ、更に、運転免許証等の生活に不可欠な基盤との一体化も予定されており、政府が管理する個人番号券が土台にあることを考えれば、政府に生殺与奪権を握られる懸念があることに気付くべきです。一旦出来上がったら元に戻すことは困難です。

こちら(東京新聞)では、経団連が少子化対策の財源について『消費税などの増税から逃げてはいけない」』と国民生活を無視して勝手なことを言い、政府に増税を提言する始末です。彼らは政党に献金を行い、影響力を行使し、政党はまるで彼らが株主やテレビ番組の広告主であるかのようにへつらいます。とかく大企業や会社経営者らによる経団連等は国政を私物化し、国民主権を蔑ろにしております。選挙を経た訳でも無く、国会議員のように公務員として法的義務を負う訳では無く、ただ経済力と社会的地位があるだけで国政を意のままに操ろうとする傲慢が目に余ります。現在に至る国民生活の悪化を見れば明らかなように、彼らの提言を採用した所でろくな結果を生みません。

こちら(読売新聞)では、長野県安曇野市において、滞納していた水道料金を支払ったにも拘らず、水道料金の検針・徴収等を委託されたヴェオリア・ジェネッツ社が七十日間も給水を再開しなかったとの不祥事がありました。『委託業者の担当者が、今後の水道料金の支払いに不安を感じた』という主観的理由で命に直結する水道を開栓せずにいたとは命の軽視が甚だしく信じられない出来事です。実際、七十日も水道が停められてどうやって生活していたのか、当事者の生活実態も気になりますが、だからこそ本当は滞納の背景を行政がきちんと把握するべきなのだと思います。ネット上にあるヴェオリア社の水道事業業務求人サイトを見ると、「口コミ」では同社の弛んだ社内の雰囲気を指摘する声が有り、まともな人ほど短期離職する傾向にあるとの見解があり、こんな会社に委託しているかと思うとぞっとします。民営化の弊害であり、起こるべくして起きた事件なのだと思わされます。市は男性に謝罪したとありますが、それで済む話ではありません。本来であれば市と委託業者を相手取って不法行為に基づく損害賠償請求をするなど責任を追及するべきです。そうしなければ弛んだ市と委託業者はまた同じことを繰り返す可能性があります。同様に、民営化の害として、物価高騰に経営が悪化して、給食事業が停止した(Business Journal)との報道もありました。二千十年代には民営化を進める動きが既にありました(参照:日経新聞)。給食は、かつては市町村直営の機関で作っていたと認識しております。しかし、民営化されたことで、破綻して提供出来ない事態が生じております。本来、速やかに元に戻すべきです。民営化の問題を起きてから嘆いても遅く、この構図は憲法改悪や個人番号券などあらゆることに通じます。想像力と思考力を働かせて、如何に最悪を防ぐかが大事であると分かります。

また、こちら(Yahoo!ニュース)では、令和四年の国民生活基礎調査から、日本の相対的貧困率が米国や南朝鮮よりも悪化して、先進国で最悪となったことが明らかとなりました。「真の聖書福音と預言 日本人の問題点 二」の記事でも触れておりますが、南朝鮮にも平均給与所得額を追い越されたわけですから、このようになるのも当然の帰結です。他の記事でも言われておりますが、これでは未婚率も上昇し、少子高齢化が進み、国が滅ぶ条件がますます揃いつつあります。こちら(TBS NEWS DIG)では、空腹に耐えかねて百四十円のパンを盗んだ男性の話があります。六十二歳とのことで、年金を早めに受給すれば金額は減り、扶養してくれる家族がいなければあっという間に困窮してしまいます。中年世代の手前としては、ある程度に豊かであったはずの社会がどんどんと崩れていく様相をまざまざと感じております。ほんの十年前、二十年前の生活と比べても悪い方に一変しており、明らかに政府によって悪い方向へ促進させられていると分かります。

他にも、内閣感染症危機管理統括庁が太陽暦九月一日に発足しており、以前から次の感染予告として『BA.2.86』が示唆されており、早速に国内で確認されたとの報道がありました(参照:note)。出来過ぎているのは全て自作自演だからでしょう。米国ではマスク着用義務が再燃しており(参照:Forbes japan)、こちら(BrainDead World)によると『全米7州に50以上の病院を持つ医療組織が「すべての医療従事者に新たなワクチンの接種義務」を通達』したとのことです。うんざりする光景がまたもや繰り広げられようとしております。こちら(X)では『今回のワクチン打った人が政府の発表の通りに約8,000万人いるとして、2021年からの超過死亡者数が既に36万人。接種者の0.4% 250人に1人が既にワクチンで死んだことになる。自分の知り合いも21年から9人亡くなってる。』とあり、甚大なワクチン死が生じていることが分かります。こういった情報は本来であれば新聞やテレビで報道されるべきですが、支配層に掌握された報道機関は全く報じません。そればかりか、こちら(JIJI.COM)のように、『違法投稿削除、指針策定要請へ ネット中傷対策で運営者に』『国内外を問わず、SNSなどの運営事業者に対し、違法な投稿を迅速かつ適切に削除する「責務を課すべきだ」と明記。事業者に投稿削除の判断基準などに関する指針を策定・公表させることを目指す。』とあることから、ユーチューブと同様に政府等の見解と異なる情報、特にコロナ犯罪関連の情報が規制されることが濃厚と考えられます。事実、世界経済討論会(WEF)は新型コロナウイルスについて、政府の公式見解に疑問を呈したり、従うことを拒否した者には『COVID強制収容所』に投獄するように要求しております(参照:メモ・独り言のblog)。

 

画像引用 https://x.com/nobu_conscience/status/1706595117451333734?s=20

 

上記は検閲によって言論が規制されている実態を露わにしております。新型コロナワクチン接種後、障害が生じて車椅子が必要となった女性の声として『Yahooで調べてもグーグルで調べても全く何も出てきません』『Twitterを開けてみて愕然としました』と言っております。Xの情報は玉石混交ではありますが、それでも報道機関の情報よりも真実を伝えております。SNSのような自由な言論空間が世の権威たる報道よりも有益とは皮肉です。そうしたこともあって、こちら(X)によると連合国(UN)は、Xの『誤情報拡散に苛立ち、誤情報対策の中央機関を設立』する予定のようです。まずは、新型コロナウイルス(コロナ犯罪)と気候変動(詐欺)が対象のようですが、人口削減には欠かせない事柄なのだと思われます。事実、「気象変動」(詐欺)については、こちら(Total News World)によると元米国大統領のクリントン氏とローマ教皇が『気候変動の「大惨事」に対処する緊急性を強調し、「手遅れになる前に」地球規模の沸騰と戦うことを誓った』と発言しており、中でもローマ教皇は『「大惨事」は「利己的な心に煽られた消費者の貪欲さ」の産物』『「気候変動」に対処するための共産主義的な政策を提案した』と主張しております。このローマ教皇こそ新世界秩序に君臨する、ヨハネの黙示録に記されている獣です。気候変動についてはキリスト道(本拠)の当該箇所、参考動画をご覧いただくとその嘘の実態がよく分かります。『「気候変動は巨大産業」、「温暖化に関わる仕事は宗教。賛同せえへんと異端者、異常者扱いされる。」とまで言われてる。構図がコロナ犯罪とまったく一緒』とある通りです。なぜこのような嘘をでっち上げるかと言えば、この嘘を利用して大きな再設定(グレート・リセット)を行うためです。そのことがクリントン氏とローマ教皇の発言からも分かると思います。何より、これらは連合国(UN)の『持続可能な開発のための2030アジェンダ/SDGs(参照:環境省)』としても謳われていることであり、如何に世の権威が主導してこれらの悪を為しているかが分かります。当然、国内においても岸田総理が以下の画像にもあるように『グレートリセット』と言及していることから、全て足並みを揃えていることが分かります。

それぞれの政策等が、表向きは良い意図がある「正しい」こととして進められております。しかし、その末路はかつて無いほどの暗黒社会です。

 

 

支配層の言う「問題(気候変動や感染爆発など)」は最初からありません。善意を装って、人々を、社会を正しく導く装いをしながら、その内実は獰猛な狼であり、滅ぼすこと(人口削減)が狙いです。「お前たちは偽預言者を警戒せよ。彼らは羊の皮を身にまとってお前たちの所に来るが、心の奥は貪欲な狼である。(マタイによる福音書七章十五節参照)」の言葉は彼らにも当てはまります。マタイによる福音書十章十六節でも主イエスは十二使徒たちに「我はお前たちを狼の群れに羊を送り込むように遣わす。だから、蛇のように賢く、鳩のように純粋であれ。(参照)」とも言われましたが、狼は「残忍な者」「貪欲な者」を意味し、翌節では「狼の群れを警戒せよ(参照)」と御命令されている程です。同じように、これまで挙げて通りにこの世全体が、世の権威たる悪しき者に支配されている(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)のですから、警戒して当然です。何かにつけて、世の悪に言及すれば『陰謀論』と決めつけて一笑に付す動きは今でも変わりありません。彼らの言う理屈(世の権威の公式見解)に合わないから、あるいは、明確な根拠が無い等と彼らは言います。確かに、各論の細かい点、例えば気象変動詐欺におけるコンピュータの予測、コロナ犯罪における遺伝子配列云々となると門外漢には分かりかねる点が多々あります。しかし、『そもそも、コンピュータで予測等をしたって、それは「机上の空論」でしかあらへん。この事実にええ加減気付くべきやな。物理っていう学問自体嘘が多いし、数字を捏ねくり回すだけで実体が伴わへん。ただ小難しい計算や理論等で煙に巻き、騙す。これこそ支配層の狙いや。(引用:キリスト道)』とあるようにこれこそ彼らの常套手段です。こちら(字幕大王)では、コロナ信者の理系大学院卒の研究者が小難しい理屈を並べ立ててコロナ犯罪を擁護していることについて触れておりますが、拠って立つ「新型コロナウイルスの存在証明」が無いが故に、論破されております。そもそもが嘘の上に成り立っているので、各論の詳細を知らなくても話の骨格や大筋の矛盾に気付くことが出来るのだと分かります。支配層及びその子飼いたる世の権威(連合国、政府等)の誘導が足並みを揃えていることや、あまりに出来過ぎている出来事が起きていること、聞こえは良くても人々のためにはならない悪い結果が予測出来る政府等の政策があれば大いに警戒するべきです。最近は、確かに「新世界秩序」や「mRNAワクチン(酸化グラフェン)によるloB(internet of Body)」の話を出しても、一時期よりは耳を傾ける人が増えたように思います。しかし、ただ気付いただけで満足したり、気付いた者同士で群れるだけでは意味がありません。実際、支配層に世が牛耳られている構造は強固で揺るがないからです。世の悪を糾弾し、人々にも知らせ、大勢で悪に抵抗するべきです。残念ながら、日本では諸外国のように大勢で抗議をすることも叶わない程に人々は眠り続けております。また、的中率十割の聖書預言からも世の悪化が止められないのも事実です。神がご計画したことは必ず成るからです。それではどこに希望があるのか。希望は主イエスを信じる信仰に在ります。主イエスは近い将来に来臨され、神に従わない罪人を滅ぼし、神に従う正しい者をお救いになります。その裁きは正しく確実です。神に認められた者は、この世とは異なり人間の汚れが一切存在しない永遠に存続する神の王国で、復活して神と共に生きることが出来ます。これが希望です。この世には一切の希望はなく、全ては新しい天と地で生きることが唯一の希望です。あらゆる悪は裁かれ、そこには存在しません。個人的な話ですが、初めて「永遠の命」の言葉を聞いた時に、この世の延長の世界としての御国があるのだと勘違いして捉えたことがあります。完全なる誤解なのですが、手前は(誤解したその内容に)何の希望も持てませんでした。またこの世と同じ苦痛があるのかと思うと、それが永遠に続くのかと思うと筆舌に尽くしがたい拷問のように思えました。それならばずっと眠りについていた方がましだとさえ思いました。しかし、実際には死も悲しみも涙も労苦も無い(ヨハネの黙示録二十一章四節参照)とある通りです。そして、時は既に終末であり、この天地が存続する期間もあと僅かです。世の真実を知ろうとする人は少なからずおります。しかし、聖書を手に取り主イエスを信じようとする者は非常に少ないです。確かに主イエスに招かれなければ、心から信仰を持つことは不可能です。それでも、世の真実を知るだけでは、将来の見通しが暗く、何の希望も持てずに悲観的にしか生きられないのではないでしょうか。束の間の息抜き程度に食べることや眠ることや娯楽や知識欲を満たした所で、全ては無に帰します。世の真実を知るだけの理解力があるならば、却ってこの虚無感に押しつぶされそうにならないでしょうか。手前は信仰を持つ前に「この世に終わりが来たら」と考えただけで虚無感に押し潰され発狂しそうな気分を味わったことがあります。目を背けることでしかその虚無感を凌げませんでしたが、聖書を知れば神の創造の秩序、御計画、救いがあることが分かります。ここに辿り着かずして、世の真実を知ることが出来たとしても、その理解力は真の知性とは言えません。神を畏れることで、神を知り、神の秩序を知ることが出来ます。それこそが真の知性です。

 

 

  真の秩序

 

支配層は新世界秩序を構築しようとしております。それは今の既存の社会の枠組みとは全く異なる超監視管理・超共産主義社会です。支配層が管理がしやすい人口が削減された社会、ごく少数の支配層と大勢の支配される層から成る、反キリスト色が極まったサタンの秩序です。支配層の一員であるビル・ゲイツは、過去に堂々と人が増えすぎたので人口削減する必要があると述べました(参照:ユーチューブ)。気候変動(実際は嘘)を防ぐために二酸化炭素を削減する、生態系を維持するといった一応の建前を言いつつも言っていることは大量殺人です。世のあらゆる法においても殺人は重大な不法行為(犯罪)であり、法に拠らずしても良心に照らしてやってはならないことです。もちろん律法においても重罪です。そもそも辻褄の合わない支配層の理屈で地の人口を減らすとは勝手極まりない傲慢な考えです。主なる神は「産めよ増えよ(創世記一章二十八節、九章七節、三十五章十一節参照)」とは仰いましたが、その逆のことを言ったことはありません。如何に支配層の言う「(新世界)秩序」が神の言葉に反しているかが分かります。そもそも秩序とは『① 物事の正しい順序。② 社会の諸要素が相互に一定の関係・規則によって結びつき、調和を保っている状態(引用:スーパー大辞林)』です。そして、「新世界秩序」に至らなくても、聖書の真理が世の人々の基軸に据えられず、地球球体説や進化論などの偽りが常識として教えられている状態からして、既にこの世は偽りの秩序の下にあります。創世記にあるように悪しき者もまた世の始まりには既に存在していたためです。この世はまさに神とサタン、神に従う人間と世に従う人間との戦いの舞台です。但し、神に従う者は圧倒的に少数(マタイによる福音書二十二章十四節参照)で、キリストの名を口にしたとしても神の律法、掟、戒めを守る真のキリスト者は殆どいないため、惑わされないように注意が必要です。

 

ところで日本語聖書で「秩序」と検索すると、新共同・新改約・口語訳でも、さほど多くの箇所で用いられてはおりません。その中で共通して「秩序」と訳されていた箇所はヨブ記十章二十二節「闇の国、闇のようである。 秩序の無い死の影、光が暗闇のようである。(参照)」です。「光が暗闇のよう」とは矛盾した、倒錯した言い回しだと思います。ここではヨブが陰府について言及しており、その様はまさしく闇が覆い、今の天と地のように光があって闇がある(創世記一章五節参照)秩序とは、根本的に異なる空間なのでしょう。『秩序(סֶדֶר)』の原語を確認すると、このヘブライ語は当該箇所でしか用いられていない単語でした。そして、「秩序」以外にも「計画」「(きちんとした)配置」「命令」「順序」といった意味があります。これらの言葉から主なる神の御性質が十分に窺えます。

 

『計画』について、「最初から終わりを告げ、古代からまだ行われていないことを宣言する。我が計画と我が目的は全て成就する。(イザヤ書四十六章十節参照)」「我は最初から過ぎたことを告げてきた。我が口から出た事を伝えた。 突如、我は事を為し、実現した。(イザヤ書四十八章三節参照)」「お前たちは我が近くに来て、これを聞け。 我は最初から密かには語っていない。 事が起こる時から我は居る。(イザヤ書四十八章十六節参照)」などと神は言っておられます。全知全能の神は全てを見越しており、始まりと終わりも全てをご存じであり、救いに関わることも全ては神のご計画の内にあります。

 

また、『配置』についても、例えば「我は、貴方の各天を、貴方の指の業を、貴方が配置された月や星を思います。(詩編八章四節参照)」と天体も神が規則正しく配置されたことを言っておられます。また、「天の下では、全てに季節があり、あらゆる目的には時がある。(コヘレトの言葉三章一節参照)」の言葉に始まり、三章一節以下にて、生まれるにも死ぬにも、愛するにも時があると語られ『神がその時になさる全ては素晴らしい。また、人々の心に永遠を置かれた。(結果的に)人は神のなされる御業の初まりから終わりまでを分からない。(コヘレトの言葉三章十一節:私訳)』と言われました。これらは御計画と関連しますが、時を適切に配置していることが分かります。この人知を超えた神の配置(秩序)は深淵と言っても良いほどの神の奥深さであり、神を崇めずにはいられない思いに手前は駆られます。教わった事柄ですが、我らは、心に永遠という途方もなさを思うが故に、いつ何があるかが分からなくなり、今の状態もずっと続くのではないかと錯覚してしまいます。時には限りがあると頭では分かっても、なかなかそれを踏まえた行動が簡単には出来ないことは誰もが経験しているのではないかと思います。『あんた方は明日のことやあんた方の命がどうなるか知らのんや。あんた方は少しの間現れて、すぐ後で消される蒸気や。(ヤコブの手紙四章十四節:引用 真の聖書福音と預言「多数派に属す者は破滅に至る」)と言われているのですから、その言葉を弁えて、終わり間際のこの時の意味を理解して、現実逃避せずに備えるべきです。神は万物を適切に配置し、また、御計画されております。

 

「命令」については、例えば『アブラハムが我が声に従い、我が命令、掟、戒め、律法を守ったからである。(創世記二十六章五節:私訳)』と神の御命令についての言及があります。『מִשְׁמֶרֶת(命令)』は「責任を課す」という意味があり、原義は「注意して見る」ことや「見張る」といった意味もあります。更には、「法令」や「布告」の意味もあり、それ自体に法的な意味合いがあり、神の律法・掟・戒めに通じるものと考えられます。主なる神の仰せなのですから、そのような意味を持つのも当然であると思います。御命令されるからには意味があり、神は善で義なる御方であるが故、悪や不義とは何ら無縁であり、そのようなことをお赦しになりません。聖別される主は、罪(悪・違犯)を犯して人が死ぬことがないようにとご配慮の故に神の御命令を守るようにと言われました(レビ記二十二章九節参照)。また、『イスラエルの人々に言い、彼らに命じなさい。彼らの後世まで着物の端に房を作り、端の房を青い糸で結びなさい。それはお前たちの房とし、それを見て、すべての主の掟を思い出し、それらを守りなさい。お前たちは後に偶像崇拝を犯し、お前たちの心と目が従ってそれらを見出だそうとしてはならない。(民数記十五章三十八節から四十節:私訳)』と、着物の房は主の掟を思い出すためのものであるとも書かれております。ちなみに『מִצְוָה(掟)』の原義は「命令」であり、神の命令が如何に秩序を形作っているかが分かります。他にも、神からの『御命令』であることを考えると、命令に関する事項を厳粛に受け止める必要があります。例えば、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」にて、『主イエスは、「いちじくの木の例えから学びなはれ。」と御命令しはってるにも拘らず、パウロ教徒はその主イエスの御命令に逆らい、この世の情勢について学ぼうとせず、律法を守らんでええとか艱難期前に携挙される等といった虚偽の作り話を言う牧師等といった偽教師の言うことを鵜呑みにし、真実の情報を拒絶する。せやから、この点においてもパウロ教徒は主イエスに逆らう反キリストと言える。こないな愚民は、不信仰者と共に支配層の家畜となる故、支配層と同様に神から忌み嫌われる悪人や。』とミカエル氏が言っております。聖書で数多ある『御命令』を果たして、どのくらいの人が御命令として確と受け止めているでしょうか。パウロ教徒がパウロ教徒である所以は、神の言葉よりもパウロ書簡に端を発する「神学」を優先することにあります。主イエスは掟を守れ(マタイによる福音書十九章十七節参照)と言われたにも拘らず、神の掟を守らず、人間の言い伝え(パウロ教神学等)を固く守っている(マルコの福音書七章八節参照)のが実態です。手前も教わりながら聖書研究をする中で、命令形で書かれていることの意味を意識するようになりました。最初の頃は命令形か否かの違い、話し手の意図をきちんと考慮出来ずにおりました。しかし、仮に、自分が話す側となれば、命令するからには相応の意味があり、決して軽く受け取ってはならないと分かります。神の言葉に対する注意深さを持てるか否かが命運を分けます。

 

最後に「順序」について触れます。『最初に、神は各天と地を創造された。(創世記一章一節:私訳)』『我はアルファでありオメガであり、初まりであり終わりであり、最初であり最後である。(ヨハネの黙示録二十二章十三節参照)』と単純にして明快に順序について触れております。万物を創造されたのは神であり、この天地を終わらせるのもまた神です。何が先で、何が後に来るかは、全て神に拠り、神が御計画され、神が掌握されております。『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」』『主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節:引用 真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)創造主たる神が創造された世界に存在しながら、神を認めず、その中で自分勝手に生きることはただの愚か(無分別)でしかありません。不信仰者は、自分の信じたいものを信じ、自己中心を否定されることを嫌い、大概は神を否定することを口にします。また、世に生きる上での不平不満を神にぶつけることもしばしばです。本来の順序、人間の上位にある神が人々に認識されず、不遜且つ不敬な行為が横行しているのがこの世の実態です。

 

申命記二十七章十八節(私訳)

盲人を道に迷わせる者は呪われる。民は皆「然り」と言った。

 

盲人(עִוֵּר)』は、文脈上は文字通りの肉体的な意味での盲人(目の見えない人)であり、盲人を道に迷わせてはならないと言っております。常識的に考えてもその通りであり、そのようなことは普通であれば考えもしないことです。もしそれを行い得るのであれば、その悪意たるやおぞましさを覚えます。数ヶ月前に、路上生活者にコンビニで商品をおごると装い、商品が入った買い物かごを女性に持たせたまま、会計所前に置き去りにする様子を動画に撮影してSNSで拡散していたという事案がありました(参照:産経新聞)。善意を装って悪意を為す構図は盲人を迷わす行為に似ております。本来、盲人を案内しようとすることは善意ですが、過失によって結果的に迷わせてしまったのとは異なり、意図的に「迷わせている」のですから、それは悪意に他なりません。さながら、悪魔崇拝者の支配層のようです。騙す、嘘をつくは悪魔の性質です(創世記三章六節、ヨハネによる福音書八章四十四節参照)。そして、『盲人(עִוֵּר)』の原語自体には、比喩的な意味も有り、「気付いていない」「見境がない」「盲目的」などの不知、精神的な状態を表す意味があります。そのような観点で捉えると「盲人」とは、誰にとっても決して遠くない事柄であると分かります。むしろ、我々は誰しもが盲人であった所から始まっていると言えます。聖書真理を最初からきちんと教わり、知っていたという人は殆ど居ないと思われます。真の神の民としての国家は途絶えており、今やこの日本に末裔を残すのみです。それでも正しく聖書真理を受け継ぐ仕組みは無いに等しいです。神の秩序(真理)を教わることはなく、学校教育や社会全般を通して、偽りの秩序(地球球体説、進化論、政府・行政等の世の権威信仰、太陽暦、西洋かぶれ、科学信仰、学歴信仰、拝金主義、多数派志向、地位・名誉志向、この世を謳歌する等)を植え付けられるのが実態です。主イエスはファリサイ派の人々に対して、「彼らは盲人の案内をする盲人であり、盲人が案内をすれば二人とも穴に落ちてしまう(マタイによる福音書十五章十四節参照)」と言われました。現実社会を見ると、偽福音の問題もありますがそれ以前にも、偽りを植え付けられた世の大人が、自らを教養を身につけた正しい人と信じて疑わず、せっせと偽りを教え続けている様は同じ構図であると思います。マタイによる福音書十五章十四節の『τυφλός(盲人)』は文脈の通り、精神的に、知的に「盲目」であることを指しております。また、原語としても申命記と同様に身体的な意味と両方の意味があります。更には原義に「不透明な」「曇った」の意味があることが個人的には印象深く感じました。案内する方の「盲人」も完全に見えないのであれば、自分は見えるとは認識しません。しかし、不透明だったり、曇った状態であれば、幾分かは「見える」と思って過信してしまう危険があるのではないかと思いました。また、『βόθυνος(穴)』には、「溝」「落とし穴(罠)」「地獄」との意味があるのも非常に印象深く、単に失敗しただけでは済まない酷い結果が伺えます。偽福音信者にしろ、世の権威信者にしろ、真の聖書福音に辿り着かなければその末路は酷いものとなるのは変わらないと思います。

 

そして、「秩序」の反対は「無秩序」です。新共同訳で『秩序を乱す』と書いてある箇所がレビ記十八章二十三節と二十章十二節にあり、それぞれ獣姦と姦淫をしてはならないと書いてる律法の箇所です。『תֶּבֶל(秩序を乱す)』の原語は上記二箇所のみで使われており、主に性的倒錯に対して、神の創造の秩序への侵害としての「混乱」の意味があります。原義は「入り混じったもの」ですが、それによって神の秩序への相反を引き起こすため、秩序を乱すとの言い方はその通りと考えられます。また、新共同訳で「無秩序の神ではない(コリントの信徒への手紙一 十四章三十三節参照)」とある箇所について、原語を確認すると、こちらも先と同様に『ἀκαταστασία(混乱)』とありました。他にも「不安定」「異常」の意味があり、やはり本来在るべきものから外れていることを表しております。

以上、ここまで原語にある「秩序」の言葉に着目して見えてくるのは、神の創造の秩序であることは明白です。

 

 

詩編十九章九節(私訳)

主の命令は真っ直ぐで心を喜ばせる。主の掟は純潔で目を明るくする。

 

詩編六十四章十一節(私訳)

正しい者は主によって喜び、主を信頼する。心が真っ直ぐな者は皆、神に栄光を帰す。

 

「真っ直ぐ」という性質については過去記事で何度も触れましたが、改めて触れさせていただきます。詩編十九章九節について、「פִּקּוּדִים(命令)」の原義は「決められた」であり、それは「」でもあり「(神の)御命令」でもあります。言うなれば神の秩序を構成するものであり、それは『יָשָׁר(真っ直ぐ)』であると言われております。人は本来、それに従うように造られました。また、『יָשָׁר(真っ直ぐ)』の原語に「満足する」「喜ぶ」の意味が含まれていることも象徴的です。まさにこの聖句の通りです。その反対については、「彼らの道は曲がっていて、それらの道の故に手に負えない(箴言二章十五節参照)」とある通りです。『עִקֵּשׁ(曲がった)』には、まさしく「間違った」「事実に反する」「不正な」の意味があります。神を認めない道はどこまでいっても真理に反して間違い続けます。万物の根幹は、神だからです。

 

ところで、「曲がった」について、下記の画像のように、司法においても医療業界においても、上層部等周囲の顔色を窺い、正義が蔑ろにされる現実があります。正義を愛する神(詩篇三十七編二十八節参照)の御性質からして、また、『為すべき善を知りながら行わへんのは、その人には罪や。(ヤコブの手紙四章十七節 引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』の言葉からしても、神が忌み嫌う行為でしょう。何より、神を思わず、保身のために権威ある者を優先するのは偶像崇拝とも言えるでしょう。まさに曲がった道です。

 

 

また、以下のようにmRNAワクチンに欠かせない技術を開発した者が「ノーベル賞」を受賞したようで、ワクチン信者が「世の権威が認めているのだぞ、どうだ」と言わんばかりの投稿が散見されました。

 

画像引用:https://x.com/watch_sss/status/1709006985084170362?s=20

 

実に愚かな発言です。『ノーベル賞というのは偽りの名誉賞で、偽ユダヤ人(特にロスチャイルド家)の利益や目的達成の功労者に贈られるもので、受賞者の大半は世界に貢献した偉人ではありません。(引用:真の聖書福音と預言「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」)』の通りであって、世の権威を形作っている支配層に認められたに過ぎず、むしろ神の目には不名誉以外の何者でもありません。支配層の嘘を肯定したいがための見え見えの芝居です。むしろ、嘘であることを公表しているようなものです。ただ、偽りの秩序しか知らない世の権威信者にとっては非常に有効なのでしょう。確かに、世に従えば賞賛を浴びます。逆に、偽りの世の秩序を弾劾すれば、世の権威によって弾圧を受けます。世の権威にとって都合が悪いと看做されることは、真実であり、真実であるが故に迫害を受けます。それが極まると獣と獣の像を拝まない者は殺される(ヨハネの黙示録十三章参照)ようになるのが目前に迫った大艱難期です。

 

 

しかし、聖書は「お前は不正義な者を羨むな、その道を決して選ぶな。(箴言三章三十一節参照)」と言っております。同様の聖句は詩篇三十七章一節でも言われており、「お前の心は罪人の故に妬むな、それどころか、いつも主を畏れよ(箴言二十三章十七節参照)」との戒めを肝に銘じるべきです。

 

また、ここ数年来、世の悪を暴露する動画等もたくさん作られるようになりSNSや動画投稿サイトでも視聴出来ます。個人的に最近見かけた中で、以下の画像にある動画が気になりました。

 

 

元動画はユーチューブ(真実の扉)で見ることが出来ます。過去記事で紹介したことがある社会風刺の動画(Steve Cutts)にも似ていて、教育や政治や医療、報道、等の歪んだ世の常識や実態を分かりやすく伝えているとは思います。大勢が目覚めて、支配層に従うのを止めればその虚像が脆くも崩れ去るとの内容もその通りで、悪を悪と指摘し、周知し、真実を伝えること自体は良いことだと思います。しかし、聖書預言では悪がこの世を支配し、特に大艱難と言われる終末はかつて無いほどに世は悪化するとあります。最後、その悪もろともに天地を滅ぼし、全てを裁くのは来臨された主イエスです。一般的にこの社会で認識される善悪は、構成される社会文化等によって変動する危うさがあります。しかし、聖書は明確に、全人類に関係し適用される善と悪が何であるかを伝えております。しかし、上記動画では真理に拠らず、むしろ『自分自身が希望の光である』とニューエイジ・スピリチュアルに誘導しております。真実に虚実を混ぜる内容で非常に巧妙であり、同時に非常に有害です。世を支配する悪がなぜ存在するか、人間の起源がどこにあるかの根本に答えられなければ小手先でしかありません。詰まる所、真理である聖書に一致しない話は全て嘘です。もっともらしく見えても、真理や神の律法・掟・戒めの遵守、神に認められる品性に到達すること等に言及しない話は全て偽りです。何より、動画の冒頭で『人類の覚醒を呼びかける』とありますが、真の秩序(神の創造の秩序)は聖書の神に在り、主イエスは人に悔い改めを求めております(ルカによる福音書十三章三節等)。それ故、この動画は明確に誤誘導工作であると分かります。


 

  真の幸福

 

本来、秩序は一つしかなく、神の創造の秩序だけです。しかし、主イエスの再臨まで、悪がこの世を支配することは聖書に書いており、それまでの間は、今も神の秩序(真理)が隠され、偽りの秩序(地球球体説、進化論、政府・行政等の世の権威信仰、太陽暦、西洋かぶれ、科学信仰、学歴信仰、拝金主義、多数派志向、地位・名誉志向、この世を謳歌する等)が圧倒的多数に当然のこととして受け入れられております。普通に考えれば、途轍もない逆風です。不信仰者は多く、聖書が長い期間この世に存続出来ているにしても、誤訳や偽福音に覆われて、真理が全くと言って良いほど認識されておりません。しかし、『ヤシャルの書によれば、真の信仰者の多くは大洪水前に亡くなり、七十万人も人々が居る中でたった八名だけが救われ、百二十年もの時間がありながら人々は全然信仰を持とうとか律法を守って善を行う気が無く、好き勝手に世俗的に生活しとったということや。(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」)』とノアの時の記述にあるように、終末の今もノアの時のようであることからも、そもそも救われる者は非常に少ないことは神の御計画の内です。果たして誰が救われるだろうかと思う状況がありますが、神の民の定員(ヨハネの黙示録六章十一節参照)は確かにあり、神に選ばれた者ははっきりと神の道を見出だすようになるのだと思います。『神がお選びになった神の民は、ローマ教皇を通じてサタンからの攻撃と試練を受けることで、信仰が鍛えられ、清められます。試練と苦難は、神がお選びになった民をより聖なる者とする方法の一つです。真の聖書福音と預言「聖書預言の正しい解釈方法」)』や『神は愛ですが、愛故に実の子を地上で生きる間は永遠の命を与えるに相応しい者にするために厳しく訓練したり試練に遭わせて鍛えます。父なる神は愛だから、人間を苦しめないのでしょうか。決してそうではありません。父なる神は御子イエスをあらゆる試練や苦難を経験させ、最期は十字架刑という死刑にすることも許可されたのです。主イエスは神の律法違反をせず、罪がまったく無いのに拘らずです。それなのに、罪深い人間たちが何故安易に艱難と死を経験しない携挙にあずからせるのか普通に考えて有り得ないです。主イエスも「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と仰っており、苦難を避けることができるとは一言も仰っていません。苦難があるからこそ臆病にならず勇気を出せと鼓舞されています。(引用:真の聖書福音と預言「正月と日本人の現実」)』とあるように、困難があればあるほどその分、鍛えられることを忘れてはなりません。確かに、この世では悩みがあります。コロナ犯罪に気付かず、ワクチンを接種した者は日本人の八割にも達します。コロナ犯罪は世の悪の一角、一面に過ぎず、支配層は古代イスラエルの民の末裔のいる日本を滅ぼそうと、憲法改悪を目論んだり、食の安全や健康が脅かされております。これらの悪の根源が反キリスト(悪魔崇拝の支配層等)にあることを知っている者は更に少なく、その中で神の律法・掟・戒めを守ろうとしている者となると殆どいないと感じます。無知、不信仰の中で生活することは、はっきり言って苦痛に感じることが多いです。だからこそ真のキリスト者を目指す兄弟との交わりが不可欠で、どれほど支えられていることか計り知れません。神の秩序を知れば、元のような悪い世の秩序に従った生き方に戻ることなど考えられません。自分自身について言えば、かつて自分が頼りにしていたもの(社会的地位、稼ぎ、財産、世の多数派に属して安心する等)を結果的に全て捨て去ることになりました。過去の価値観からみれば、丸腰になったような心許なさを覚えることも確かにあります。自分は社会的には弱者となり、この悪い世においては居場所が無いのだと明確に感じます。しかしながら、これこそこの世を仮住まいして生きることなのだと実感します。人は裸で生まれ、裸で死にます。何も物を持って行くことは出来ませんが、生きている時の信仰と忠実は神に覚えられて認められることでしょう。ましてや、世の終わりは非常に近く、今の生き方がそのまま神の審判に直結します。今、自分を自分たらしめていることは、神の律法、掟、戒めを守ることだけ、それが全てであることを感じます。主イエスもこのような思いで歩まれたのだろうと想像することがあります。だからこそ主イエスの生き方に倣う必要があります。そして、大変であっても真っ直ぐ歩むことの安心感は確かにあり、この感覚は原語にある通りの「喜び」「満足」なのだと思います。

 

以下、とても大事な事柄を紹介します。

彼らは火の池に入れられて滅びたくないという理由から無理をしてでも神に従おうとして神の律法を守ろうと試みるのですが、必ずどこかでつまずきます。そうこうするうちに、神の律法に従うのが苦痛でたまらなくなり、従うのをやめます。そして、これではいけないとまた無理に従おうとしてもまた同じことの繰り返しで失敗します。彼らが神の律法に従うのが完全に無理だと悟った時、神の律法を変更したカトリック、神の律法を廃止されたことにするプロテスタントという二大背教勢力のいずれかに大多数が加わり、似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚するのです。

(略)

神を愛し、神の律法、掟、戒めを守って生活し、神の御心を行い、兄弟で愛し合い、キリストに近い品性を形成することがこの世でなすべきことです。その過程での行いが天に富を積むことになるのです。自然にそうなるのです。これは永遠の命欲しさに主イエスを信仰するという利益信仰ではありません。利益信仰をしている人は真のクリスチャンではありません。神からの一方的な憐れみと恵みを受ければ、神に立ち返り、神を愛し、神の律法、掟、戒めを喜んで守ります。そして、神の御心を行うことで神の栄光を現すことになります。人々はこの真のクリスチャンの信仰から来る行いを通して、主イエス・キリストの真の姿を知るようになるのです。世に出回る偶像(絵画、彫刻等)のことではなく、品性です。キリストに近い品性は、誰の手によっても変えたり、奪ったりすることはできませんし、他人に分け与えることもできません。完全に不可侵で不可分であり、個人に属する性質のものです。

 

引用:真の聖書福音と預言「天に富を蓄えよ」

上段の箇所について、率直に怖さを覚える内容です。特に『これではいけないとまた無理に従おうとして』の箇所は同じ失敗を繰り返した時の自分の姿が重なります。ただ『無理に』であったかとなるとそうではありません。失敗したにも拘らず言うのは矛盾するかもしれませんが「心から従いたい」「そうなりたい」「それ以外はあり得ない」の思いが強かったです。脱落する時とは、良心に焼き印が押されてそのように思えなくなるのだろうと想像します。だから、「失敗は繰り返さない」ことを肝に銘じなければなりません。『似た者を周囲に見つけて安心して大丈夫だと錯覚する』とは、かつて安息日を守るのを大変に感じて別の解釈があるのではないかと勝手な願望を抱いた自分の姿が重なり、また、世の多数派に属して安心を得ていた過去の習慣が思い出されてなりません。偽りの世の秩序に従う多数派に惑わされて、神の秩序を曲げるようでは神の民に相応しくありません。だから、世の慣いや自分を優先する思いは断ち切らないとどこまでも誘惑に遭います。誘惑される要素があるほどに誘惑され続け、頻度が多いほどに屈する危険が増すと思います。故に、パン種(悪い教えや習慣等)を取り除くようにして、性質(品性)を向上させて、悪い元を断たねばなりません。引用後段の『神からの一方的な憐れみと恵みを受ければ、神に立ち返り、神を愛し、神の律法、掟、戒めを喜んで守ります。』について、以前よりは頭で理解するも、より実感出来るようになったと感じます。思えば自分から為したことなど少なく、人生において、所々に「ここだ」と導きを出していただいたことが多かったと感じます。招かれて、それに応じられるかどうか、それがひたすら問われていたと思います。そして、『キリストに近い品性』とは、手前がにわかキリスト者であった時代から、朧げながら欲していた状態であったと最近気が付きました。決して、優れた者になりたいなどの願望によるのではなく、高潔さに対する敬意があって、これに至れば自分の人生で果たすべきことは全て果たしたと思えます。

 

この世の偽りの秩序は、人から称賛されたり、地位や名誉を得て繁栄すること、多くの富を持つことが幸福であると教えます。結局は、世における自分の欲望の充足が全てだと教えます。主イエスもサタンからそのように誘惑されました。

 

世俗の欲望が満たされないと不幸だという誤った考えを人々は植え付けられております。この異常な価値観に馴染めなかったり、「挫折した」と感じた者たちが大勢、希望を無くして自殺しているのが現状だと思います。しかし、偽りの秩序の下で成功するのが希望と思うのは完全に誤りです。もはや妄想と言っても良い位の誤りです。また、朧げながら死後の世界や天国を信じて、この世で「善を為した」「正しく生きた」と思っても真に正しい基準(律法等)を適用すればその実態は違反だらけでしかなく、善には程遠く無意味です。主イエスを信じる信仰を持っていても、律法廃止論を信じたり、部分的に律法を守れば良いとの偽福音を信じているだけでも同様に不完全で有罪となります。また、形だけ善の基準を満たしても片手落ちです。心の中の思い、品性などが清いことを神は求めております。これらは偽りの秩序の幸福感とは決して交わりません。一方、真の幸福は、この世の偽りの秩序の下での成功ではなく、死後の永遠を、第二の死ではなく、神の王国で神と共に生きることにあります。

 

ヨハネの黙示録十四章十三節(兄弟共同検討訳を一部修正)

また、我は天から我に告げる声を聞いた。「書き記せ。『今後、主にあって死ぬ人は幸いである』と。」「然り。」と“霊”が言う。彼らがその労苦を解かれて安らぎを得るだろうし、更に、彼らの業が彼らについて行く。

上記は、真のクリスチャンである神の民としてキリストの再臨前に死んでキリストの再臨時に復活して新しい天と新しい地で永遠の安息にあずかることができる約束について述べています。しかし、不信仰の者、異教徒、神に不従順なにわかクリスチャンは主の安息にあずかる道に行くことはできません。それは私が過去に既に述べてきたことです。真のクリスチャンにとっては、その後に安らぎが待っていると知っているのですから、死んでこの世を去ることは恐怖ではありません。しかし、世に属する人間は、この世を去ることになる死を異常に怖がります。なぜなら、次の世に希望を見出せないからです。

 

引用:真の聖書福音と預言「神の裁きは福音であり、迫害は喜びである」

「この世が全て」という考え方は、死後の永遠を放棄させる誤った考えです。真の幸福は、天に宝を積み、死後の永遠に良き報いを受けることにあります。また、『更に、わたしに言う。「書き記せ。幸いだ。小羊の婚礼の晩餐に招かれた者たちは。」また、我に言う。「これらは、神の真実の言葉である。」(ヨハネの黙示録十九章九節:兄弟共同検討訳を一部修正)』などの聖句にある『μακάριος(幸い)』は、単に幸運なのではなく、欽定版聖書にもあるようにbless(祝福)であり、「最高位の祝福」を指します。即ち、永遠の命です。

 

 

  結び

 

悪しき者が支配するこの世は、近い将来に終わりを迎えます。世の終わり(主イエスの来臨)が近いからです。世を支配する者たちもそれを知っているため、偽りの秩序を更に強化した新世界秩序を構築しようとしております。それは自由の無い、この世全体が監獄のような暗黒社会です。そこではヨハネの黙示録十三章にあるように新世界秩序に君臨する獣(ローマ教皇)に従わなければ殺される恐ろしき社会です。この激しい試しの中で、真のキリスト者は自分の命を取るか、神への忠実(神の律法・掟・戒めを守る)を取るか、究極の二択を迫られます。また、大艱難期は人々が真に悔い改めることが出来ない(恩恵期間の終了)時でもあるため、それまでにキリストに近い品性を持つように成長出来ていなければなりません。そのため、早く準備を整えるようにと何度も繰り返し警告している次第です。

 

聖書は、人間には想像もつかないような高い視座を教えてくれます。聖書にある神の言葉は永遠です。永遠の言葉を数千年前の人々と我らは同じように共有しており、過去の出来事が今起きたかのように、人が今居るかのように捉えることが出来ます。聖書の言葉は古くもあるが新しくもあるという不思議な存在です。聖書には、神の言葉であるが故に、万物を俯瞰する神の視座があります。素直に読めば、そこに神の秩序があることが分かるはずです。記事中に挙げた世の動きを俯瞰すれば、存在しないものが在るかのように看做されたり、正しいことをしている素振りを見せながら最悪の社会を作ろうとするなど、無秩序が過ぎることが多々あります。果たして、この無秩序が起こる意味とは何なのでしょうか。それは『永遠の命を受けるにはそれなりにきつい試練をくぐって洗練する必要があると神はお考えである。それがこの世の存在意義であり、この世で揉まれて洗練され、試用期間を経て適格者になって次の世で永遠に生きることが認められる。そういう計画なんや。真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)』であると考えます。

 

こちら(ユーチューブ:「rの住人ピエロ【哲学】」)の動画にて、「抽象度が高い」ということについて説明しております。「抽象度が高い」ことの定義付けは明確にされておりませんが、手前は「物事を俯瞰的に捉えて、そこで起きていることの本質を見抜く」ということだと捉えており、それは聖書という万物の上位概念(神の創造の秩序)を知ることで真に抽象度が高くなるのだと思います。ちなみにこちらの動画制作者は不信仰であり、動画の内容全てに賛同するものではなく、あくまで、「抽象度が高い」ことを説明するためだけに引用致します。動画において、現実のさまざまな場面から共通点を探し、法則性を見出だし、自ずと視点が高くなることについて言及しております。『部分から全体を想像できる』、また、『全体から部分を想像できる』といった言い回しから、先に示した画像にある、全ての道は新世界秩序に繋がる構図の理解もその応用だとおもいます。また、聖書預言を現実に適用して考えることも抽象度を高くして理解することに繋がると思います。以下、動画の説明内容を一部抜粋します。

抽象度が高くなれば感情に支配されることが無くなっていき(略)、目の前の悲劇も実は人生という長い道のりにおいては一種のイベントでしかない。人生を見た上では目の前の出来事は構成要素でしかない。だから何もしなくてもいずれ過ぎ去っていくし、だからそれは必然的にやってくる。(略)抽象度が低いとは視点が低いということ。視点が低い人にとっては見えているものが全て、故に悲劇が来ればその悲劇にどっぷり頭までつかり、考える間もなく呑まれる。

詰まる所、『視点が低い』とは、聖書真理を知らない状態であり、世の偽りの秩序にどっぷりと浸かって、呑まれて、疑わずに生きている状態と言えます。ミカエル氏が真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」の記事でお示しくださった以下の画像は、そのことをとても分かりやすく示していると思います。

 

 

真の秩序とは神の御計画に基づいた神の配置であり、神の御命令に従うこと、ご計画の順序通りに運ぶ(流れ)ことであると言えます。その秩序に矛盾はなく、真っ直ぐです。その真っ直ぐさに喜びがあり、たとえこの世では苦難があっても、報われることに希望があります。それが真の幸福です。残り少ない時ですが、失われた羊が回心し悔い改めに導かれることを切に願っております。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は『神に裁かれる者として』と題して、聖書に一貫して書かれている神の裁きがあるという前提、神に裁きの基準に適う生き方についてお伝えいたします。

 基本的事項

 

ヘブライ人への手紙九章二十七節(私訳)

人間には一度死ぬこと、更に、後にこれについて裁きを受けることが定められているために。

 

上記の聖句には、人間には肉体の死が訪れること、死んだ後に裁きを受けることが定まっていると書かれております。この真理について、契約の民である古代イスラエル人にとっては預言者を通じて知らされており、当然のこととして理解されていたものと思います。しかし、その後、国家としてのイスラエル(及びユダヤ)は滅亡し、国家として真理の知識、神の律法・掟・戒めなどが共有されることは無くなりました。その滅亡の背景には古代イスラエル(及びユダヤ)の目を覆わんばかりの腐敗があり、予告されていた通り、民の契約違反により神の罰が臨みました。民の腐敗もさることながら、羊飼いと形容される民の指導者であるべき人々が、羊飼いであることを弁えずにそれぞれ自分の好む道に向かって自分の利益を追い求めました(イザヤ書五十六章十一節参照)。『我が民はさまよう羊だ。彼らの羊飼いは彼らを山々に逸らし迷わせた。彼らは山から丘へ歩き回り彼らの休息の場を忘れた。彼らを見つける者は皆、彼らをむさぼった。彼らの敵たちは言った。「我らに罪はなく、彼らが主、義の在り処、彼らの先祖の希望の主に罪を犯したためである。」(エレミヤ書五十章六節から七節:私訳)』と神から離れて、信仰を、在るべき生き方を見失った民の様子が記されております。神の知識を得ている民ですらこのように堕落するのですから、偽福音を知る機会はあったとしても、真の聖書福音をほとんど知らないであろう現代の人々の堕落の様は、その無知と無自覚も相まって一層酷い様相なのだと思います。

 

神を畏れることでしか得られない真の知識があります。神がおられる根拠として聖書がありますが、聖書を読むことなく、こちら(X:旧ツイッター)のように聖書を嘲笑する者が少なからずおります。神は霊であり(ヨハネによる福音書四章二十四節参照)、物質や物体では無く、 目に見えない(ヨハネによる福音書一 四章二十節参照)存在であるため不可視です。しかし、神は古代イスラエルの預言者を通じて語ってくださり、与えてくださった言葉の数々と起きた出来事を照合すれば、言葉と事実が一致すると分かります。例外として、パウロ書簡では神の言葉(旧約聖書、主イエスの言葉等)との不一致がありますが(それは「ふるい」である)、それ以外は著者も書かれた時代も異なるにも拘らず一貫しており、「お前たちは主の書を探し求めて読め。これらの者はどれも一方を欠くことは無い。我が口が命じ、主の霊が集めたものだからだ。(イザヤ書三十四章十六節参照)」と預言者を介するものの全て神が語られているが故の符合です。神の霊は、一つの大本たる父なる神の言葉を伝えているのですから矛盾などするはずがありません。言葉を介して、言葉は神を表しております。神は言葉であり(ヨハネによる福音書一章一節参照)、 見ないのに信じる者は幸い。(ヨハネによる福音書二十章二十九節参照)と言われている通りです。そして、神はご自身を「我は在る(出エジプト記三章十四節参照)」と言われました。新共同訳と新改訳では「ある」と平仮名表記、口語訳は「有る」と訳されております。『הָיָה(在る)』の意味は「存在する」「実存する」「実現する」などの意味で、ここでは存在を表していると考えられます。こちら(スッキリ)でも『「有る」は所有を表す。「在る」は存在を表す。』と言われており、ここでは「有る」ではなく、「在る」とされるべきです。主イエスは、ヨハネによる福音書八章二十四節・二十八節等でも同じように『εἰμι(在る)』と言われております。人は草が枯れて花が萎むように限りある儚い存在であっても、神の言葉は永遠である(イザヤ書四十章八節参照)ことから、創造主である神は永遠に存在するため「我は在る(存在する)者」と言い得るのだと思います。

 

神を畏れる(神を認める)ことで得られる知識があります。重要なことの一つとして、裁きに遭うということです。これは、全ての人間の前提、人生の根幹として据えられるべき事柄です。裁きの日本語的意味は、『正邪・理非の判断をすること。また、その判断。審判。(引用:スーパー大辞林)』です。この言葉だけからでも、善悪の判断の基準が存在すること、その判断を下す者がいること、この世界に対する秩序が存在することが窺えます。裁きが成立するからには、我ら人間にとっての上位者があることが明らかであり、それこそ創造主なる神、創造の秩序であり、聖書にある神の真理と言えるものです。

 

仏教(偶像崇拝の宗教)にも死後に裁きに遭い、「地獄」が在ることが書かれており、聖書を知らない方にとってはこちらの方が馴染みがあるかもしれません。しかし、聖書にある裁きは仏教由来などでは無く、逆です。聖書こそ本元です。聖書のヨハネの黙示録二十一章八節等にある「第二の死」やマルコによる福音書九章四十八節(私訳)『ここ(地獄)ではそこの蛆は死なず、火は消されることはない。』と主イエスが言及している地獄の話に酷似しております。こちら(ウィキペディア)によると初期仏教は印度(インド)で紀元前四百五十年頃に始まったとあります。イザヤ書六十六章二十四節では『彼らは出て、我に逆らって罪を犯した人々の死体を見た。実に、彼らの蛆は死なず、彼らの火は消えない。彼らは全ての肉なる者にとって嫌悪となる。(私訳)』と地獄と思われるものに言及しております。預言者イザヤが生きた時代は紀元前七百年代であることから、何かしら古代イスラエルの民から伝え聞いたものが仏教の中に取り入れられていったと捉えるのが自然です。時に、聖書を疑う者の中には「古代ペルシアや古代ローマ等にあった宗教が聖書に似ている」として、「聖書がそれを真似ている」と類似点だけを挙げて主張する者が見受けられますがとんでもない勘違いです。聖書は古代イスラエル起源で、世にあるどの宗教も時期的に聖書よりもかなり後であり、聖書にある要素を勝手に取り込んでいったと言うべきです。現代でもこちら(真の聖書福音と預言 「主権は神にあり、人間にあらず」)にあるように、聖書は遊技(ゲーム)等の題材として多く使われている実態があり、同じような構図です。不信仰者にも非常に多くの影響を与えたのは聖書です。また、改ざんされた聖書(神の言葉)、偽福音ばかりが幅を利かせ、原典に基づいた正しい日本語訳聖書や真に聖書に依拠した正しい聖書福音が希少であるのが現実です。そのため、その前提で真に正しいものは何かと真偽を見抜く姿勢と知恵が求められます。

 

「裁き」の言葉から紐解くと、裁きの前提として在るものが浮き彫りとなります。聖書真理に拠れば、裁きとは、各位の人生における神からの問い(神の律法・掟・戒めの遵守)に対する審判の時です。それは極めて厳粛です。その厳かさから、決して、人生の時を本来の目的以外に用いてはならなかったと分かるはずです。福音書にある金持ちとラザロの話にあるように、死んでからこうするべきだったと後悔することの無いように、知ることの許される、生きている時の内に神の御心に適うように在らねばなりません。死んだ者は知ることが出来ず、何の働きも出来ません(コヘレト九章五節参照)。死者はダニエル書十二章二節にあるように『地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は永遠の生命に、ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。(兄弟共同検討訳)』、『善を遂行した者は命の復活へ、悪を行った者は断罪の復活へと出てくることになるからだ。(ヨハネによる福音書五章二十九節:私訳)』と裁きの時に復活します。その時にようやく意識が生じて、やがて身に起きていることを理解していくのでしょう。この絶望感たるや筆舌に尽くしがたい時であると思います。聖書を読み、主イエスを信じた者であっても、裁きの後に『主よ、主よ』と言った所で不法(律法違犯)を働いておれば主イエスからはお前たちのことは知らない、不法を働く者は離れよ(マタイによる福音書七章二十二節から二十三節参照)と言われるだけです。以下のように、福音書で主イエスが言われた予告から、現在世に広まっている偽福音が真の福音でないことが明らかです。

十二、(神の)王国の福音があらゆる民への証しのために、全世界で宣べ伝えられた時、終わりが来る

この主イエスの予告こそが世の諸教会が吹聴する偽使徒パウロ由来の偽福音と偽教義が神の王国の福音ではない、即ち、パウロと世の主流派が信じて吹聴してる偽福音は、主イエスと十二使徒が宣べ伝えた福音ではないという証拠になってる。もし世の諸教会が吹聴するパウロ教の偽福音がそれならば、世の終わりがとうの昔に来てる筈やが、そうではないんやからね。せやから、偽使徒パウロの偽福音は、主イエスが宣べ伝えはった王国の福音やないということの証明や。また、世の終わりの直前に真の福音が全世界に広まると示されてる故、四世紀から二十一世紀の現在まで主流となってる偽使徒パウロの教えとそれを支持する諸教会や諸教派はすべて偽りと分かる。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」

世の終わりが目前に迫り、ミカエル氏が神の律法、掟、戒めを守ることを、真の聖書福音を宣べ伝えてくださいました。ところが、それに大勢が反発しております。偽福音を信じる自称キリスト者や福音を聞き入れない不信仰者、または信じてもほとんど行動しない者ばかりであることから、滅びに至る道と門が広いとは事実であると分かります。マタイによる福音書八章十二節、十三章四十二節等には泣き喚いて歯ぎしりする場面があります。もう取り返しがつかない絶望感に満ちた様はまさに断末魔の叫びなのだと思います。生きている間に、神の知識を知ることが如何に重要か、悔い改める機会が如何に貴重かが分かります。「知らなかった」「ここまでとは思わなかった」と言っても通じません。その時になって「あの時、聞いておれば」「自らの中の(微かであっても)良心の声を聞いておれば」と後悔しても遅いです。今は、真の福音が宣べ伝えられている途上と思われ、今この時が最後の機会です。

 

以下に伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」と題された文を紹介します。悪い者が支配するこの世では偽りが闊歩しております。しかし、「騙されたけれども自分には非が無い」とは決して言えないこと、嘘を信じた側の責任があることがここから学べます。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

(略)

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

引用:戦争責任者の問題(伊丹万作)

伊丹万作氏は上記の戦争責任についての文章を政府ではなく一般人に向けて書かれました。一人一人の盲目的で受動的な姿勢に責任の一端があることを明確に言われております。そして、このことはコロナ犯罪にも同じように言えることであり、ミカエル氏がキリスト道で『従ってるから、終わらんのや。従うことで自分らの首を絞めてることに気付けよ。』と言っていることに重なります。また、個人的には伊丹氏が信念の欠如に言及していることが印象深く感じます。何の信念も持たなければ、誰かの強力な考えや大きな声に流され、乗っ取られることを言っているのだと思います。信念とは固く信じて疑わない心や行動の基礎となる態度であり、キリスト信仰もまた信念たり得ます。本来、聖書真理こそ信念として据えられるべきで、本物の信念(信仰)が無ければ他のものが本物に取って代わる危険があります。それが世の権威という宗教です。それ故、要注意です。誰もが、何かしらを信じて生きております。「そうでは無い」と主張しても自覚が無いためにそう思うだけです。聖書真理を知らないという状況は世の偽り(地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等)を信じている状況に他なりません。これらがどれほど罪深いかは聖書真理によって知ることが出来ます。無知は罪深く、無知を擁護することは出来ません。無知であったから無罪ということにはなりません。そうは言っても一人で全てを知るのが難しいのも事実です。手前もミカエル氏の伝道により、世の真実と真の聖書福音を知っただけの立場です。本来は世の大勢と大して違いはありません。違いは聞いて、調べて、神に従おうと行動に移しただけです。

この世で必死に生きようとしても虚しいことばかりです。経済的に安定しようとひたすら働いても、奴隷のような生活を送る羽目になります。遵法意識が希薄で、人を人と思わないいわゆる「ブラック」な労働環境が増え、尋常ならざる心身の負荷にさらされ、それでも稼ぎは決して多くはなく、心身を病んでいくのは当然の帰結です。今や、かつてのように普通に結婚して、家庭を持ち、少しばかりの楽しみ程度の贅沢すらも出来ない状況が起きております。自殺者も非常に多く、児童でも不登校も多く、多くの人々がこの世に希望を持てないでおります。この世自体が偽りに満ちてるからです。昨今は新世界秩序の構築に向けてワクチン等による人口削減は進められ、政府は仕事をするふりをして国民生活に害を為すことばかりに積極的です。正義感を持ち、また、隣人のためにこの悪を弾劾することも大事です。同時に、神の御計画においては世が悪くなることは避けられず、世直し自体を目的とせず、来る次の世での永遠の命に希望を持ち、この世においては悪を拒絶して神に従い通す姿勢でいることが重要です。そして、罪を犯さないために、罪を犯しやすい肉の性質があっても誘惑に負けず、自分を捨てて罪に打ち勝たねばなりません。これが最も難関だと思います。「生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、それが誰にでも望むことである(コヘレトの言葉九章三節参照)」と書かれております。そのため自我との戦いが不可欠です。「純白の衣をまとい、頭に香油を絶やすな(コヘレトの言葉九章八節参照)」との言葉があります。純白は高潔な行いであり、香油とは聖霊を指します。聖霊は主イエスと新しい契約を結び神の律法を守ることで与えられ(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)、聖霊が人間を使役してくださいます(エゼキエル書三十六章二十六節から二十七節参照)。それによって正しい行いが可能となります。一方、一つの違犯は多くの善を損ない(コヘレトの言葉九章十八節参照)、正しい(律法を守る)人であっても正しい行いから離れ、不法行為をするならばこれまでの正しさは覚えられず、罪の故に死ぬ(エゼキエル書十八章二十四節参照)とあるため要注意です。

 

 

 

 『裁き』の言葉を紐解く

 

「裁き」には司法律法による民の間での裁きもありますが、主には「世の終わりの神の裁き」について言及していきます。

冒頭に挙げたヘブライ人への手紙九章二十七節にある『裁き(τοῦτοκρίσις)』の言葉を見ていきます。主たる意味は「決定」「結論」「判決」の意味で、「神の法による裁き」「正義」を含み、「告発」「有罪判決」「断罪」などの意味も窺えます。まさに世においての裁判と同じような概念がここにも見受けられます。新約聖書の原典たる古代ギリシア語で「裁き」を意味する言葉は複数ありますが、例えば同じヘブライ人への手紙の「主は御自身の民を裁かれるだろう(十章三十節参照)」の「κρίνω」の言葉では「識別する」「はっきりと認める」が主たる意味としてあり、他にも「試みる」「罰する」「判決を下す」など広い意味が見受けられました。後者では特定する、見極めるといった意味合いがあり、まさに裁判の審理を思わせるような意味があるのが個人的には印象的でした。

 

まず神の裁きにも共通する世の法や裁判の基本となる考え方を見ていきます。

罪刑法定主義

 

犯罪として処罰するためには、何を犯罪とし、これをいかに処罰するかをあらかじめ法律により明確に定めておかなければならない、という近代刑法上の基本原則。これに対し、罪刑を法執行者の専断にゆだねる考え方を罪刑専断主義という。近代刑法学の父とよばれるフォイエルバハは、この原則を「法律がなければ犯罪はなく、刑罰もない」Nullum crimen, nulla poena sine legeという標語により適確に表現している。

 

引用:コトバンク

聖書においてもこの原理が働いております。主なる神は、アダムとエバに善悪の知識の木からは食べてはならないと命じられました(創世記二章十七節参照)。それも食べたら必ず死ぬとまで事前に警告されました。則るべき事柄(法)としての神のご命令に背いた結果、エデンの園を追い出され、肉体に死が訪れるようになりました。『罪刑法定主義』の「刑」の文字の意味は『法律や規則によって科せられる罰。刑罰。(引用:スーパー大辞林)』であり、まさに違犯の結果としての罰、報いです。

また、「アブラハムが我が声に従い、我が命令、戒め、法令、律法を守ったからである。(創世記二十六章五節参照)」と書かれていることから、モーセの律法以前にアブラハムの時代で既に律法が存在して守られていたことは明らかです。そして、真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」で書かれている通りに、主イエスを仲介者とする「新しい契約」を経て、祭司律法や石打ちなどの司法律法や食物規定は守らずに良くなりましたが、あくまでこの世で死刑にしないだけであって、罪を容認してるのではなく、悔い改めずに罪を犯し続けるなら地獄行きになるため要注意です。悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節・五節参照)ことには変わりありません。『決して食べるな、食べれば必ず死ぬとやってはいけないことを神から事前に警告されてたのに、蛇(悪魔)が言うた嘘を信じて、神に逆らう人間が悪いんですよ。せやから、神を恨むんは筋違いやし、神の御言葉や神の掟に逆ろうて違犯して罪を犯すと死を招くことが明らかであり、これは永遠に変わらぬ真理である。せやから、太古から神の掟を遵守せないかんのは不変で、主イエスが重ねて教えはったとおり、永遠の命を受けるには神の掟を守る必要があり、十戒に限定もされへん。(引用:真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」)』とあるように神から、何を罪とするかは示されていることに留意するべきで、これが大前提です。

 

規制的機能

犯罪を規定し、それを犯した場合に刑罰が加えられると宣言することで、一般国民に対して犯罪を犯さないように警告する機能

 

法益保護機能

法益に対する侵害行為を犯罪として規定することで、国民の法益を守る機能

 

保障機能

何が犯罪かを明確に示すことで、国家権力の行使しうる範囲を限界づけ、国民の基本的人権を守る機能

 

引用:ゴリハル「罪刑法定主義って何?罪刑法定主義と4つの派生原則を解説」

上記は「罪刑法定主義による効果」について述べたものの一部の引用です。この内容も常識的に考えて理に適うもので、これによって社会秩序が保たれております。ミカエル氏は『律法は軛やないし、法は秩序維持のためにも必要であり必須なもの。人間の法律かて同じやん。法律も何も存在せえへんとか、全部廃止されて無効となれば、無秩序で無法地帯になり、誰も取り締まれず、罰を与えへられへんようになり、多くの人が悪事をやりたい放題で、悲惨な社会になる(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」)』と言われていることに通じます。他にも以下も神の法にも通じる重要な事柄であると思われるため引用いたします。

慣習法の禁止

刑罰を科すには、必ず一般に公布された成文法規に根拠があることを要しており、存在が不明確な慣習法によって処罰することは許されません。

(略)

 

類推解釈の禁止

類推解釈とは、刑罰法規を、その法規に用いられている語句の可能な意味の限界を超えて解釈し、法規に規定のない事実に対して適用することをいいます。

 

引用:ゴリハル「罪刑法定主義って何?罪刑法定主義と4つの派生原則を解説」

これらも常識的に考えて当然だと思います。モーセの律法、福音書にある主イエスの言葉等は全て文字(聖書)として我らに与えられており、聖書(言葉)に依拠するものであって決して曖昧なものではありません。そして、『類推解釈の禁止』にある『その法規に用いられている語句の可能な意味の限界を超えて解釈』について、安息日は第七日目の日没から日没(すなわち金曜日の日没から土曜日の日没:レビ記二十三章三十二節参照)であるにも拘らず「日曜日」と看做すパウロ教徒の悪しき業が思い起こされました。また、安息日が「古代イスラエル人に命じられたのだから自分達には適用されない」と愚かなことを言う者がかつておりました。今や福音は異邦人にまで及んでおり、神の民に安息日が残されている(ヘブライ人への手紙四章九節参照)と書いてあるので出鱈目な解釈は大敵です。法規自体の曲解も問題ですが、「律法廃止論」「キリストの律法」といった曲解創作などの「法規の存在」自体に関わる誤解釈も大いに問題であり、それらに惑わされてはなりません。

 

次に、裁判(裁き)について見ていきます。

現代法学では、裁判は「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論じられている。

ここでいう「事実」、すなわち判決の基本となる「事実」には、不要証事実と要証事実がある。不要証事実は、裁判所の認定権が排除されているのに対し、要証事実の認定(つまり、主張されていることが本当に起きたのか起きていないのかの真偽を判断すること)は、証拠に基づいて裁判所の自由な心証判断によってなされる。

事実認定が行われたら、次に、この「事実」に対して法律を適用することになる。

 

引用:ウィキペディア

手前は裁判や司法については特段詳しくありません。それでも順序立てて考えた場合に、「まず法が在る→(判決の基となる)事実の存在→法律の適用→判決(審判)」の順番を辿るのは当然のことであり、とても分かり易い説明だと思いました。ちなみに聖書の律法において、事実認定の際には「いかなる罪でもその人が犯した罪については一人の証人では立証されず、二人の証人の口によって、あるいは三人の証人の口によって立証される。(申命記十九章十五節参照)」とされ、新約聖書でも同様の前提に在ることが分かります。更には、偽証してはならない(申命記五章二十節参照)と厳しく戒められております。これは民の間のことですが公正といった精神が窺えます。

 

改めて、『法律の適用』について、人間の裁判とは異なり、神の裁きは正しく完全です(詩編九十八編九節等参照)。「我は真理の道を選び取った。貴方の裁きに適うように(詩編百十九編三十節参照)」と真のキリスト者として歩むのならば、人生は一度きりでやり直しが効かないのですから、人間の側から自らの行いが正しいかどうか、律法等を基に自己検証出来るようでなければなりません。この点において偽福音のパウロ教徒の律法廃止論は話になりません。『律法が廃止された』との主張は善悪の基準が廃止されたと言っているに等しく、何でもありの無秩序に陥り、普通に考えて神がそのようなことをされるはずがありません。また、実際にどの程度守られているかの結果が重要です。中には「十戒だけ守ればいい」という主張がありますが、根拠が無く無意味です。他にも、こちら(X:旧ツイッター)のように『中には事情があって全ての戒めを守る事が不可能な方もおられます愛の神がその様な方を裁かれるでしょうか?』と言う者もおります。一見、もっともらしい言葉に聞こえますが、『事情』とは何を指すのでしょうか。この人の言う『事情』が何を指すのか、具体的には言及されておりません。しかし、『愛の神がその様な方を裁かれるでしょうか』の言葉から、福音の三要素(偽福音)を信じる者たちに通じる生温さを手前は感じます。事情を言い出したらきりがありません。例えば安息日について、もし「どうしても外せない仕事があって」ということが赦されるなら、正直これほど助かることはありません。『事情』などという曖昧な言い方が通るならば、「蟻の穴から堤も崩れる」ことになりかねません。もっとも、主イエスは安息日に善い事をするのは適法であり、許されている(マタイによる福音書十二章十二節参照)と仰いました。この箇所に対して「主イエスも安息日を破ったのだから…」と主張する者を見たことがありますが、とんでもない勘違いです。主イエスは神であり律法を制定した側であり、更新する権限をもお持ちであると捉えるべきです。これらから、法をどう解釈するか、どう適用するかを考える上で聖書研究が不可欠であると思います。一箇所の字面だけではなく、関連する箇所でどのように言われているか、また、原典の意味する内容も含めて詳らかにしていくと、聖書は人間に何を為すべきかを十分に教えてくれていると思います。もちろん、容易に分かる事ばかりではありませんが、求めれば与えられ、探せば見出だす(マタイによる福音書七章七節参照)とは、その通りなのだと実感します。真の聖書福音と預言「悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗」の記事コメント「2」で『肩の力を入れる必要はありません。聖書を読み、神の律法、掟、戒めを学んで守り、主イエス・キリストを心から信じて神の御心を行う生活をすれば良いのです。また、常に主イエスのことを思い、祈り、清く正しく生きることです。そのためには、聖書を注意深く研究する必要があります。世の教会やいい加減な信仰をするにわかクリスチャンと戯れないことです。世の友になることは神の敵となることも忘れないように(ヤコブ4:4参照)。』と言われているように注意深く、神の言葉を研究する必要があると手前も深く同意いたします。そして、いい加減な信仰をするキリスト者と戯れないことも大事だと思います。「神か、世か」で深く葛藤している時に、例えば『普段から神を信じていて、その上で、事情があるのだから仕方がないよ』と言われたら、かなり強力な罪への誘惑となるでしょう。悪魔からの誘惑そのものと言えます。『使徒ペトロでさえ、聖霊を受ける前、主イエスがエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されて三日目に復活することを予告した時にそれを諌めたら、「我が背後に下がれ、サタン。我が罪へと引き付ける者よ。なぜなら、あんたは神のことを考えず、それらの人間のことを考えてるからや。」マタイ十六章二十三節拙訳)と主イエスからサタンと呼ばれ、叱責を受けた。真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)』とあるように、良かれと思った言葉でも、神を思わず人間のことを考えて、律法違犯に導くことにもなりかねません。

 

エゼキエル書十八章三十節から三十二節(私訳)

それ故に、我はお前たちを裁くだろう。イスラエルの家は誰でもその道に従って。神である我が主の仰せである。お前たちの全ての罪から向きを変えて、(神に)立ち返れ。罪がお前たちの躓きとならないように。お前たちの犯した全ての罪をお前たちの許から投げ捨てよ。お前の新しい心と霊を作れ。どうしてイスラエルの家が滅んで良いだろうか。我は滅ぶ者の死を喜ばない。神である我が主の神意。お前たちは立ち返って、生きよ。

 

預言者エゼキエルの言葉は、かつて起こったことでもあり、これから起こることでもあり、来る神の裁きのことでもあります。

ここで個別に原典を見ていきます。上記三十節にある『ִּדְרָכָיו(この道に従って)』の「道」は言葉通りに道路でもありますが、比喩的には「人生の軌跡」「行動様式」の意味があります。当然ですが、行いが問われます。具体的には、善悪の判断を基に「行い」と「品性」が問われます。これは真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」でも言われているように、行いがあればそれで良いということではなく、主イエスの教えを守りつつ、品性も整っている必要があります。そもそも品性が整っていなければ神の掟を守りようがありません。אֶשְׁפֹּט(裁く)』については、「判決を下す」が主たる意味ですが「潔白を証明する、又は罰する」の意味もあります。実際には罰せられる者が殆どであるとは思いますが、無罪(潔白)が有罪(罰)のどちらかしかありません。この世にある事柄全てにおいても、神に従うか、悪に従うかの二択しかありません。中間は無く、神に従い通せないのであれば全て有罪となること(ヤコブの手紙二章十節参照)を知っておかなければなりません。余談ですが『潔白』の意味も興味深いです。『①心やおこないが正しいこと。うしろぐらいところがないこと。また、そのさま。② 清くて白いさま。(引用:スーパー大辞林)』とは、まさにヨハネの黙示録三章五節にあるように神に認められたものに着せられる白い衣を想起します。普段目にする何気ない言葉にもこのような共通点があるのは個人的に非常に興味深く感じます。また、『新しい心と霊を作れ』の『חָדָשׁ(新しい)』には「新生した」「今までとは違う」の意味があります。主イエスは悔い改めを説かれました(ルカによる福音書五章三十二節等参照)。それは主の御心に適うことであり、今までの生き方を改めて神に向かうならば、それは一新した心であり霊と言えるのではないでしょうか。神の求める犠牲は打ち砕かれた霊で打ち砕かれ悔いる心を神は侮られない(詩編五十一章十九節参照)とあることや。真の聖書福音と預言「世の悪に抵抗しなさい」のコメント欄「7」にある『神はアダムに何をして生きる者としたんか。霊を注いだんですよ。そうして初めて人は生きる者となった。肉体だけでは死んだものです。つまり、聖霊とは別に人間には霊があるということです。それが肉体に宿り、この世界で生きる者になってる。死んだら肉体を捨てて神の許に戻り、裁きを受ける。こういうことです。神は、一時的にこの世界に人間を送り込み、その霊を一時的に手放すんですよ。しかし、人間の死後にその霊が戻ってくる。せやから、神は神の民の霊を渇望してるんですよ。神の民だけは後の世で永遠に神と共に暮らすんです。最初から神に選ばれへん頑なに不信仰の者や異教徒、選ばれてると愚かにも高慢に思ってる自称キリスト者たちも永遠の破滅に至るんです。彼らは神から渇望されてるとは言えへんからね。その行いの悪さ、品性の悪さからも明らかや。』の言葉からも、新生した心と霊は神に喜ばれるのだと思います。逆に自らの行いを改めなければ神に立ち返ることは出来ません。「彼らは悪行のゆえに、神に立ち帰ることが出来ない。婚外性交の霊が彼らの中にあり主を知り得ないからだ。(ホセア書五章四節参照)」 とある通りです。まさに、神の掟を守らない、即ち、不法行為(悪行)が改められないのは、婚外性交の霊(悪霊)が影響しているのだと思います。婚外性交とは、言葉通りには姦淫の罪であり、唯一の真の神ではなく他の神(偶像)を拝むことです。まさに、神の掟を守ることで聖霊が与えられる(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)ことの逆を行く行為です。

 

ミカ書六章八節(私訳)

人には何が善で、主がお前に何を求めておられるかはお前に告げられていた。法に適うことを行い、慈悲を愛し、お前の神と共にへりくだって歩めば良いということである。

 

アモス書三章七節

確かに、我が主なる神はその忠告を僕である預言者らに明らかにしないでは言われた事を為されない。

 

主が為されることは預言者たちを通じて必ず伝えられており、条件が示されずに突然に罰せられる訳ではありません。かつて、ヨハネの黙示録に書かれている大艱難について、艱難前携挙を信じている者が、「これは携挙されなかった人たちの状況を書いているのだから、死に至るまでの忠実等を自分たちが問われているのでは無い」と言っているのを目にしたことがあります。『お前たちの信仰の試練は、朽ちる金の火による試しよりはるかに価値があり、イエス・キリストの来臨の時に称賛、名誉、栄光に至る。(ペトロの手紙一 一章七節:私訳)』の言葉から、試しによって信仰は本物に至るとあります。もし、大艱難を経ないのであれば、その品性も完成されず、もし、そのまま携挙されるのであれば、不完全な者と完全な者が混在する不釣り合いな状況が生じます。この者の言うことに矛盾があり嘘であることが分かりますが、ここでお伝えしたいのは、神の言葉に立ち止まって、これはどういう意味なのかとじっくりと調べることが大切です。繰り返しますが、神の言葉に拠ることがキリスト者の全てと言えるからです。

 

次に、いくらか重複しますが神の裁きを多角的を見ていきます。

いつ、神の裁きはあるか

ヨハネの黙示録十四章七節(兄弟共同検討訳)

「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。なぜなら神の裁きの時が来ているからである。そして、天と地、海と水の源を造られた方を礼拝しなさい。」

ヨハネの黙示録のこの箇所は大艱難末期と思われます。有罪か、無罪かの判決が下される時です。

罪の記録を消す、消さないの判断を審判といいます。つまり、神による審判です。私たちが真に悔い改め、生まれ変わってキリストに近い品性を持っているかの審判が行われます。これは、複数の過去記事で既に申したとおり、審判はキリストの再臨前に行われます。(略)今、審判は天において行われているのです。まだ先ですが、すべての麦が十分に育った時、即ち、真のクリスチャンが予定定員に達した時、刈り入れ時である世に終わりが来て、刈り取られます。また、毒麦のたとえから、この世の悪人たち全員がすぐに裁かれないのが分かります。麦の成長のために、毒麦も必要悪ということです。

引用:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)」

その上で、判決自体は、主イエスが来臨する世の終わりの時と思われますが、判決のための審議(審判過程)は上記のように現在進行していることに深く留意するべきです。まだ、その時が来ていないからと侮るようではいけません。実際、判決が下ってからは『そして、地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は永遠の生命に、ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。(ダニエル書十二章二節:兄弟共同検討訳)』と有罪か、無罪かによって、各々の報いを受けるだけの状態です。

神の律法・掟・戒めを守られるようになるには時間がかかり、完全な者たりえる品性となるにも時間がかかります。今この時の歩みが死後の永遠を決める非常に重要な時です。

 

何処で、神の裁きが行われるのか

上記の引用にあるように天において審判が行われます。また、当然ながら、裁きから逃れることは出来ません。主の裁きは全地に臨む(詩編百五編七節参照)、また、神はあらゆる行い、隠された事柄、それが善であるか悪であるかに拘らず裁かれる(コヘレトの言葉十二章四節参照)とあるからです。

 

◉誰が、裁きを行うのか

主よ、貴方は正しく、貴方の裁きは真っ直ぐです(詩編百十九編百三十七節参照)」の言葉からも言うまでも無く、裁くのは神です。また、お前たちは裁くな(マタイによる福音書七章一節参照)と主イエスは言われており、死後の永遠に関わる裁きは人が関与出来ることではありません。天使たちも主の御前に訴え出たりしない(ペトロの手紙二 二章十一節参照)とあります。一方、『大祭司ヨシュアが主の御使いの前に立ち、その右に立つサタンが彼を訴えるのを我に見せた。(ゼカリヤ書三章一節:私訳)』との言葉がありますが、『サタンはお前たちを小麦のようにふるいにかける事を神に求めた。(ルカによる福音書 二十二章三十一節:参照)』とあることから、神はサタンに人間をふるいにかけることを許した側面があります。そのため、より人を不利に陥らせるようにサタンが動いていることに留意して抵抗しなければなりません。誘惑を退け、罪に打ち勝つことで完全な信仰に至ります。

 

誰に対して(神の)裁きを行うのか

既に述べたように、全ての人が裁かれます。「神は正しい人も悪人も裁かれるだろう。あらゆる出来事と行為には時がある。(コヘレトの言葉三章十七節参照)」とある通りです。また、ここでも正しい人と悪人の二つの区分しかないことに留意するべきです。また、『正しい(צַדִּיק)』の言葉の意味には「適法」「ぴったり」の意味もあり、全ては神の法が基準です。

 

何に対する裁きを行うのか

ユダの手紙 十五節(私訳)

全ての人に裁きを執行するために、神を敬わなかった全ての不信心な者たちの不敬な行い全て、罪深く不信心な者たちが神に敵対して口にした恐れを知らない(言葉)の全てを罰するために。

 

ここまで上げてきたように、生きている間の振る舞い、品性が神の律法・掟・戒めに適うか、総じて、悔い改めたか否か(悔い改めに相応しい実を結んだか)が問われます。

 

なぜ、神の裁きを行うのか

ヘブライ人への手紙の三章から四章にかけて神の安息への言及があります。荒れ野の四十年を引き合いに、不従順に対しては安息にあずからせないと言われております。神は、今の天と地を滅ぼされ、それは同時に全ての罪を滅ぼすことでもあり。残されたのは新生して罪とは無関係になった真のキリスト者しか居ないことになります。

神は、なすべきことを六日間、即ち、六千年で今の世界の歴史を終えられることを創世記の冒頭で暗に宣言されていたのです。キリストの再臨後、最後の審判を終え、獣と偽預言者のような反キリストとサタン、悪魔や陰府も火の池(地獄)に投げ込まれ、第七の日以降から永遠に本当の安息につかれるということです。その時には、悪は完全に滅びているので、もはや神の民は罪とは無関係になり、神は人間を常に見張ったり、裁くことも考えなくてよくなるからです。この第七の日には終わりがありません。それは創世記からも明白です。天地創造の時、第一の日から始まり、第六の日が終わるまでずっと「夕べがあり、朝があった。」と繰り返していましたが、第七の日の後にはこれがありません。また、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2:2)とあり、六日で仕事を完成、即ち、この世の六千年という歴史を、最後に悪を滅ぼして、神が人類歴史を導く仕事を終えることで完成ということです。つまり、第七の日が終わることのない時、即ち、永遠の安息である、黙示録21章以降に書かれる新しい天と新しい地のことを示しているのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「千年王国の真実 後編」

全ては七日目の永遠の安息に向かうための過程として、神の裁きは不可欠なのだと思います。

 

どうやって、神の裁きが行われるのか

ヨハネの黙示録二十章十二節(兄弟検討訳、一部訂正)

また、我は死者たちや、小さな者たちや大きな者たちも、神の御前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれ、更にもう一つの書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれたこと、彼らの業に応じて裁かれた。

 

これまでの内容と重複しますが、天において、「人の心を造られた神は、あらゆる人の業を見分ける(詩編三十三編十五節参照) 」とあるように人間各位の全てが知られております。それを基に天で審判が行われ、大艱難末期の主イエスの来臨の時に判決が下ります。有罪であれば第二の死(火の地獄)、無罪であれば永遠の命を得て神の王国で神と永遠に住まわせていただけます。

 

マタイによる福音書十三章三十節(私訳)

両方とも一緒に収穫するまでそのままにしなさい。収穫の時に我は刈り入れをする者たちに言うだろう。「先ず毒麦を集めてこれらを焼き尽くすために束にして縛りなさい。しかし、小麦は我が穀倉へ集めなさい。」

 

収穫(裁き)の時まで毒麦(有罪とされる者)と麦(無罪とされる者、真のキリスト者)はそのまま一緒に置かれますが、麦は「我が穀倉(神の王国)」に集められます。

 

マタイによる福音書二十五章三十一節から三十三節(私訳)

その時、人の子がその栄光を携えて、その聖なる御使いを皆伴って来る時、その栄光の王座に着く。全ての民はその御前に集められ、山羊から羊を分けるように彼らを相互から分けるようになる。確かに、羊を右側に置くが山羊を左側に置くだろう。

 

ここでは山羊の中から羊が分けております。山羊は神に不従順で有罪とされた者であり、その中から分けているのは従わないのが大勢(ほとんど)であり、羊(真のキリスト者)は彼らに比べて少数であるのが窺えます。

 

毒麦か麦か、山羊か羊か、有罪か無罪かが、生きている時の行い(品性を含む)に応じて判決が下されます。

 

どうなるとよいか

人には罪を犯しやすい性質があり、そのままの状態で罪を犯さない人は誰一人おりません(コヘレトの言葉七章二十節参照)。神の真理(創造の秩序、律法等)を知ることで自分が死刑に値する罪人で、そのままでは滅ぼされる定めであることを弁え知り、救い主であるイエスを受け入れ、これまでこの世の支配者である悪魔によって偽りによって騙されて無知でいたことを知り、これまでの生き方、生活様式、心の中、信念まで改めて、神の律法・掟・戒めを死に至るまで守り通すことです。先に挙げたゼカリヤ書三章一節でサタンが告発する場面の話がありましたが、サタンから告発される罪を隠し持たないことが大事です。世俗の仕事において、特に会社勤めをしていると組織内部の監査、または、外部からの監査、特に法的に管轄する監督官庁からの監査といったものがあります。個人的に何度か経験しましたが毎回とても緊張します。「問われる」という立場がそうさせるのもありますが、何事も当人が最大限に努力しても、他者の目には何かしら漏れがあることが多いと個人的には感じます。また、重大なのは、平素から基準違反が無い状態であるか、基準未達があれば都度に検証を行い、それに対する対処を速やかに行なっていたかといった日々の姿勢です。律法もそうであると思います。そこで後ろめたさがあると緊張度が増します。突かれては困ることがあれば尚更です。何の後ろめたさもなくて堂々としていられるのが最善で、サタンも告発のしようがありません。また、日々、失敗があったとしても(正直、罪悪感に苛まれたり落ち込みますが)切り替えて、同じ失敗を繰り返さないように前向きになることが大事だと思います。もう駄目だと自棄になったり挫折するようであれば、サタンにとっては「してやったり」だと思います。

 

ヤコブの手紙二章十二節(私訳)

お前たちは、自由(解放)の律法によって判決を言い渡される者としてこのように語り、振る舞いなさい。

 

ποιεῖτε(振る舞いなさい)』の言葉の意味は「作る」「行う」です。その他にも「忍耐する」「守る」などの努力に関わる意味合いが見受けられるのが個人的には印象的でした。『サタンから告発される罪を隠し持たない』ことを踏まえると如何に普段の振る舞いが重要であるか、神の律法を守り、忍耐することが重要かが窺えます。律法を「束縛」と捉える偽福音論者(パウロ教徒)が多いですが律法は神によって与えられた道徳的教え、愛に関する教えです。この世においては、肉の弱さも相まって誘惑への陥りやすさがあり、そのままでは滅ぼざるを得ない束縛と悲惨さがありますが、律法を守ることによってそれらから解放(自由)される機会を得ます。また、(引用:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)」の記事のコメント「8」にて『誰でも苦難を乗り越えると、より強くなり、また品性も磨かれるもんや。苦難を知らず、挫折を知らんのは必ずいつか壁にぶち当たり、その崩れ方も酷くなるもんやろ。(略)子供の頃から上手く行かへんことだらけ、思うように行かへんことだらけで、忍耐を強いられた人なら、たとえ困難があろうとも人生はそういうもんやと思い、乗り越えられる。このように、主なる神は、神の民として迎え入れる人には苦難の道を与えはる。甘やかされて育つ人なんか求めはらへんし、努力や忍耐をせえへん人も要らんと思し召しやろ。主イエスも「最期まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ十章二十二節、二十四章十三節)と教えはったとおりや。』の言葉が相応しいと思います。忍耐が求められる苦しさの背景には様々な要素がありますが、大勢が堕落している中、信仰の兄弟との交わりがありつつも、基本は一人で行動しなければならず、多数の中で群れて生きてきた時間が長いほどに最初は辛く感じることがあるかもしれません。以下のようなX(旧ツイッター)の投稿を見かけました。

 

画像引用:https://twitter.com/trxprince/status/1698324312091226356?s=20

 

確かに、コロナ犯罪によって国民が分断されたと思います。分断といっても真っ二つに割れるといった比率ではなく、高接種率を考慮すると、コロナ犯罪を認識している者は非常に少数なのだと思います。家族内でもコロナ犯罪を認識しないが故に分断されるのはもはや珍しい光景ではなく、世の洗脳が酷いためにそうならざるを得ないのが実際だと思います。今やキリスト者を自称するものであってもコロナ犯罪を認識しない者がいる中で『自分の信念を曲げない』と言えるのは稀有な姿勢だと思います。自分の人生は自分で決めるとの言葉もありますが、行い(決断を含め)は全て自分の意思なのだと改めて認識させられます。悪を認識せず、盲信したり、mRNAワクチンを接種して不可逆的に神が作られた遺伝子を改変するのはこの世の悪を受け入れて従ったも同然です。どの報道機関もまともにコロナ犯罪を取り扱わず、政府や医師会等の犯罪が野放しにされて傷ましく嘆かわしい程の無秩序です。

更には、こちら(NHK)にあるように太陽暦九月一日に『内閣感染症危機管理統括庁』が発足し、感染症対策を一元的に担う司令塔として設けられました。こちら(note:知識と実践と真実と〜知行合一〜)にあるように次なる偽感染騒動が予告されております。そして、合わせるかのように、こちら(さてはてメモ帳)では連合国(UN)が『サイバー軍を立ち上げ、アジェンダ2030を積極的に推進する一方で、「偽情報」とレッテルを貼ったものはすべて弾圧する』との動きを見せております。X(旧ツイッター)の『学歴・職歴と生体情報の収集開始を予告(引用:Gigazine)』との利用規約改悪も言論弾圧を想定していると思われます。こちら(メモ・独り言のblog)では、世界経済討論会(WEF)が『我々は神です、あなた方が我々の邪魔をすれば、あなたは死ぬことになる』とヨハネの黙示録十三章の様相を想起させる主張をしております。『新たな世界統一宗教が到来し、気候科学、テクノ共産主義、優生学の祭壇に礼拝を捧げることで全人類を統一させる』と書いてある世界統一宗教の頂点に獣であるローマ教皇が予定通りに君臨することでしょう。そして、律法違犯を強要させられ、従わなければ殺されるでしょう。しかし、真に重要なのはこの世での命ではありません。先の投稿者は投稿内容からは信仰が無い方とお見受けしました。不信仰者ですらこのような矜持を見せている以上、ましてや予告済みの大艱難に対してめげている場合ではありません。やがて兄弟間の交流が不可能で一人になる状況に置かれたとしても、ただ神の言葉に拠り、主イエスへの信仰を糧に歩むべきです。

 

 

 結び

 

世の悪の実態についてすら知らない人々は、虚しい仕事に勤しみ、日々の生活に追われ、それ以外は娯楽等と戯れているのではないでしょうか。それでは無意味で世の悪に従い、世に属していることに他なりません。罪に塗れたその生き方を続けては、そう遠くない内にこの天地と共に神によって滅ぼされます。世の悪の実態を知っている者でも、真相情報ばかりに留まっていては不十分です。悪しきこの世には希望が全く無く、やがて神によって滅ぼされるだけだからです。世を支配する悪しき者が何故それを起こしているのか、彼らは何者なのか、この後どうなるのかを紐解いていけば聖書の預言通りに事が進んでいることが分かり、聖書が真理であることが認識出来ると思います。今の生き方で良いのだとは決して思わないでください。本物を知ればそれ以外が偽物であると分かるはずです。確かに、世に洗脳された期間が長い程、にわかには受け入れがたいかもしれません。それでも真の聖書福音を聴くことができる内に一刻も早くこれまでの生き方を改めるべきです。主イエスに真に従い通すことで救われること、つまりは新しい天と地で永遠の命を得て、罪とは無縁の世界にあずかることが希望です。

 

イザヤ書二十六章九節から十節(私訳)

我が心は夜に貴方を慕う。然り、我が霊は我が内で貴方を探し求める。貴方の地への裁きの時、地に住む人々は正しさを学ぶからである。悪人は慈悲を受けても正しさを学ばない。真っ直ぐな地で不正が行われ、主の荘厳さを見ようとしない。

 

ここでの『צֶדֶק(正しさ)』とは、倫理的な正しさです。倫理とは、人として守るべき道であり、善と悪の基準、つまりは神の律法・掟・戒めです。その時が来れば、伝えられた真の聖書福音を思い起こすことでしょう。その時にどの立場になっているかは貴方次第です。真のキリスト者が世に抗う唯一の方法は、悪に従わず神の律法・掟・戒めを守ることです。『子たちよ、今やお前たちは御子の内に留まりなさい。御子が現れるその時、我らが確信を持つために。御子の到来の時、御子の御前で恥じないために。(ヨハネの手紙一 二章二十八節:私訳)』と確信を持って準備出来ているように。裁かれる者として、ただただ神の目に適うように。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。