こんにちは。

今回は「神を畏れる弱き人への希望と高慢な人の滅び」と題してお伝えしていきます。

 

 

 

 

一、すべては後の世で逆転する

真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」の記事はご覧になったでしょうか。この度も主イエスの御言葉から、万物の真理を分かり易く解き明かされており、(聖書にまだ馴染みがなくても)世に躓いて悩んでいる人にも是非お読みいただきたいと思いました。主イエスの具体的なやり取り(言葉)から読み解ける原理があり、それは他の聖書の箇所とも矛盾が無く、それを今の世の現実にも当てはめて応用しており、非常に稀有で濃密な内容です。

 

ここからは記事の感想に触れていきます。

(以下、この項での二重括弧真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」からの引用)

 

◯ぶどう園を貸す側と貸し付けられた側の関係

マタイによる福音書二十一章三十三節から、ぶどう園(『アジア系の血統イスラエル人』)の所有者(主なる神)は、あくまで農夫たち(『この世の指導者たち』)に『良い収穫をすることを期待』して貸し付けたと分かり易く解説されております。「貸す」の原語を調べると「仕事を委託する、外注する」の意味もあり、個人的には世俗の仕事を重ね合わせることで、より状況が理解出来ました。世俗の仕事においても委託を受ける時はその業務の趣旨に適うように業務を遂行するのが当然です。雑な仕事をすれば依頼主に対して大変失礼であり、ひいては対外的に依頼主の社会的信用を貶めかねません。個人の経験ですが、仕事をしていれば上手くいかず投げ出したくなることも、任された側がやり易いように(実際には楽をしたいために)規定の仕様を勝手に変えたくなることもありました。しかし、それでは依頼主の信頼を失います。

思えば信仰や福音伝道も同様です。それを踏まえて世の現実を見れば『この世の指導者どもは、その分際を弁えず、使命を忘れ、あたかも自分たちが所有者であるかのように傲岸不遜に振る舞い、権威と支配権を持ってるかのように装い、この天地と世にある人や物等すべてが自分らの支配下にあると酷い勘違いをしてる』現状があります。これでは(農夫は)見限られて契約が打ち切られるばかりか、契約違反の罰を免れないでしょう。『主なる神は、良いぶどうが出来ることを願いはったのに、実際はそうはいかへんかった』のですから、神の失望はどれほど大きいだろうかと思います。それどころか膨れ上がる神の怒りを思うと、恐ろしいばかりです。箴言等にも怠惰や手抜きを戒める言葉があり、仕事をやる以上は誠実に丁寧である必要があります。手前も他者に仕事を任せた時の事を思えば、誠実に最後まで丁寧に仕事をしてくれる人は大変ありがたく、とても信頼出来ました。それと同じ事であろうと思います。

 

◯主イエスの御言葉は真実

マタイによる福音書二十一章三十四節から三十六節について、『収穫の時期が近付くと預言者がこの世に送られてくる』と非常に重要な解説をされております。『エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鳥がその雛たちを羽の下に集めるように、どれ程我はあんたの子らを集めようとしたことか。しかし、あんた方は望まへんかった。見よ、あんた方の家は荒れ果てたまま見捨てられる。(マタイによる二十三章三十七節から三十八節:引用 真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)』と主イエスが語られたこととも符合します。そして、マタイによる福音書二十一章三十七節のとおり、三位一体(父、子、聖霊)の神、御子(息子)である主イエスは、農夫たち(『この世の指導者たち』)を弾劾し、恥じ入らせました。彼らには弁解の余地がありません。指導者として神の律法を守るようにと言いながら、自身は守らず、むしろ余計な教えを広め、大勢の地獄の子を作り、その地位に安穏とする様は真の所有者に対する不誠実、不履行に他なりません。現代もまた『何一つ聖書(パウロ書簡を除く)を基に論理的に言い返すことも出来ずに汚い野次を飛ばしたり陰口を叩いてるパウロ教信者や不信仰者と同じ構図』があります。それ故、真のキリスト者は終末の大艱難期においても主イエスの名のために人々から憎まれるようになるでしょう(マタイによる福音書二十四章九節参照)。主イエスの御言葉はすべて現実と一致しており(これからのことも実現する)、驚くべきことです。これらからも主イエスの言葉は真実であり、信じるに値すると確信を持てます。

 

◯過去でも現在でも、この世の指導者たちは主イエスをぶどう園の外に追い出している

マタイによる福音書二十一章三十九節にて、ぶどう園の管理を任せられたに過ぎない農夫たち(『この世の指導者たち』)がぶどう園を乗っ取る(『主イエスをこの世から排除して自分らの権威を確立』する)ために、ぶどう園の相続人(所有者)を死に追いやると言われていることは後に現実のものとなりました。これは立場を弁えない、信じ難いほどの不義理で、極刑に値する悪行です。そして、マタイによる福音書二十一章四十一節のとおり、『自分が悪人と認めた上で、受ける裁きが酷いと自分で言う』のは何ともおかしいことです。この事から如何に高慢が人の目を曇らせ、人を狂わせるかを表していると思いました。そして、『世の指導者が悪人なんは、一世紀当時のみならず、この世が終わるまでずっと延々と続き、現代も同じや』ということもつくづくそうだと思います。悪人が世を牛耳り、一番大切な聖書真理を碌に教えず、反聖書的な大地球体説、進化論、太陽暦、その他の世の権威信仰などを植え付けている点にも表れております。福音においても、パウロ教は律法を軽視し、「主イエスの恵み、救い」だけを強調し、主イエスの肝心な教えを外へ押しやっており、福音を乗っ取っております。

 

◯後の世では逆転する

個人的には、以下の事柄に非常に大きな希望と慰めを感じます。聖書を知らない方、パウロ教徒には決して理解出来ない大きな希望です。

 

この世で超少数派で苦しい思いをしてる神の律法を守る真のキリスト者のみが後で逆転する。ペトロも主イエスから教えを受け、この世と後の世での有様は逆転すると知ってた。せやから、この世で贅沢でけへんとか、金が無いとか、社会的地位が無いとか、外見が理想どおりではないとか、かような事で思い煩う必要は無いし、卑下する必要も無い。キリスト信仰を持って、神の律法を守り、罪を犯すのを避け、慈愛を持ってええ行いをし、信仰の兄弟たちと交流し、正しく生きることに努めなはれ。そうすれば、希望はあるさかい。

 

引用:真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」

 

真の聖書福音を知らなかった時、手前も『この世で贅沢でけへんとか、金が無いとか、社会的地位が無いとか、外見が理想どおりではない』等で無駄に悩んでいた人間です。それを挽回するため、世俗の仕事に人生の多くの時間を費やしておりました。パウロ教(地上の教会)信者となっても、主イエスの教えを理解出来ていないために、どうしてもこの世で報われたいという願望を捨てることが出来ませんでした。しかし、自分を捨て、主イエスに従うこと(新しい契約を結び、更新された神の律法を守る等)が出来ない以上、そこには決して平安はありません。余計な願望を持ち続ければ、それに振り回されて苦しみ、そればかりか更なる罪を犯しかねません。これではこの世への未練を断ち切れず(世を愛し)、『いずれ主イエスの許を離れた後に経済的に困らへんために、自分だけでも貯金しておこうと密かに思てた(引用:真の聖書福音と預言「救いに値する完全な者」)』イスカリオテのユダのようになりかねません。この世で生き延びたい、あるいはこの世で報われたいと思うのが「肉なる欲に打ち負かされた人間」なのだと思います。自分を捨て、主イエスに従えるかでやがて逆転する後の世での明暗を分けます。

 

『主イエスは、隅の頭であることから、世の真ん中に居る主流派や権力者とは無関係であり、誰も注目せえへんような隅っこに居る人間の味方であり、隅という目立たへん所で真のキリスト者を集めて統率しはる』ことに真の希望があります。世に躓いた弱い立場の人にこそ聖書(真の聖書福音)が真の解決と救いをもたらしてくれます。

 

本番は、先に述べたとおり、主イエスが再臨しはってこの世を滅ぼした後や。ダニエル書二章にもそう書かれ、主イエスが、鉄と粘土というローマ(現代もバチカン中心で他が隷属するというかつてのローマ帝国的な世界の在り方)が牛耳ってる世界を滅ぼした後、永遠に続く神の王国を築く。「我等の目には驚くべきこと」とあるのは、普通の人間には中々信じられへんとか、受け入れにくいという意味でそう書かれる。なぜなら、この世の多くの人間はこの世の権威、権力者、指導者を敬い、信じて従うからや。せやから、神は聖書を通じて、世俗の常識の逆を教えてるのであり、受け入れた上で行いで死ぬまでそれを示し続ける人だけが救われる。

 

引用:真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」

 

これこそ真の聖書福音です。これを知らなければ、この世を支配する悪人が作り上げた嘘(世の権威や多数派の考え等)をどこまでも信じて従ってしまいます。しかし、何を一番にして生きているか(神を畏れているか)を神は見ておられることを忘れないでください。明らかに世の中がおかしくなっており、新世界秩序(『バチカン中心で他が隷属するというかつてのローマ帝国的な世界の在り方』)の構築に向けて事が動いているのは紛れもなく事実です。ミカエル氏の記事を見れば、根拠を示して世の真実を語っており、そのことが分かるはずです。聖書解釈にしても矛盾が無く、聖書の終末預言然り、聖書のとおりに事が動いていると分かるはずです。今や言論の自由が失われつつあり、いつまでも記事を見れる保証はありません。ゆっくり、じっくり学べれば幸いですが、主イエスが罪の赦しを終えているであろう大艱難期が近付いております。故に、時がある内に生き方を改めましょう。そうでなければ獣の刻印を押され、地獄行きとなります。これこそが避けるべき「人生の失敗」です。

 

◯主に打ち砕かれる幸いがある

「そして、この石の上に落ちる者は打ち砕かれるだろう。しかし、(その石が)落ちる者を、その者を粉砕するだろう。」と主イエスは言わはった。ここの石というのは、上述のとおり、主イエスを指す。主イエスの上に落ちる者は打ち砕かれるというのは、主イエスを知って人の心(霊)を打ち砕かれるという意味や。詩編三十四編十九節や五十一編十九節からもそれは明らかや。もう一種類は、主イエスがある人に落ちるなら、その人を粉砕するとある。これは、心に対する比喩的な意味やのうて、物理的に粉砕することを意味し、言い換えれば、主イエスがその人を滅ぼすということや。主イエスはこの二種類しか言及してはらず、それ故、すべての人間は二種類に分けられ、

 

引用:真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」

 

上記のとおり、マタイによる福音書二十一章四十四節の箇所はかなり重要な内容です。

まず、上記に挙げられている「主は心の砕かれた者たちの近くにおられ、後悔している霊を救われる。(詩編三十四章十九節参照)」の聖句の「砕かれた」「後悔している(霊)」の原語に共通するのは 「希望などを無くさせる」の意味であり、かつ後者は「犯した罪に対する自責の念を抱いた」状態を表します。一見して良くは思えない言葉です。しかし、それを踏まえて、「神への献げものは砕かれた霊。砕かれて後悔している心を、神よ、あなたは見下されません。(詩編五十一編十九節参照)」を見ると、主が求めておられるのはこの世に対して希望を持つことではなく、神を畏れ、悔い改めることであるのが明白です。加えて、マタイによる福音書二十一章四十四節の『打ち砕かれるだろう』の原語にも同じように、「期待や希望を挫く」の意味があり、「世で報われて成功する願望を挫く」と受け取れると思いました。故に主イエス(石)の上に落ちて打ち砕かれるとは、この世での成功や報いを受けるのを期待するのではなく、死後の永遠の命に希望を抱き、かつ真の聖書福音を知り、自分の罪深さに打ちのめされて、心から悔い改める人を指すのだろうと考えます。

一方、もう一つの石(主イエス)が落ちて粉砕するとは、似たような言葉ではありますが『粉砕するだろう』の原語にある「ふるい落とす」の意味から、記事中でも言われているとおりに、羊か山羊かに分けられる如く(麦と毒麦も同様)、主イエスがその人を滅ぼすとの意味に一致します。故にすべての人間は二種類に分けられると分かります。

 

手前は世の教会に連なった時には「歴史上多くの人々が一目を置く聖書、今も大勢の信じる人々が居るのだからこれが正しいのだろう」という、多数派を当てにした間違った考えを持っておりました。これでは神の言葉を信じたとは言えません。ある時、聖書の随所に書かれている「悔いる」の言葉を見た時、「あっ、自分は悔いていない。そもそも悔いるってどういうことだろうか。」と思ったことを覚えております。今思えば、大事な引っ掛かりでした。しかし、世の教会に通う内には本当の意味で知ることはありませんでした。後にミカエル氏の記事に出会い、聖書を改めて通読して、「この神の言葉が絶対に正しい」と確信出来ました。聖書真理を知った喜びと同時に、自分はとんでもない罪人であることにおののき、本当は救いに値しないのかもしれないとすら感じつつ、それでも改める機会が与えられるのならと、いちるの望みに懸けたい気持ちでした。手前は初めて真に神を畏れられたのだと思います。それまでの手前には神への畏れが決定的に足りなかったと思います。「罪を赦す神」の側面ばかり見ていたら、確かにそうなると思います。しかし、神は厳粛な義なる神でもあります。それを忘れてはなりません。神に機会をいただき、真の聖書福音を伝えてくださったミカエル氏には感謝しかありません。これが真の人助けなのだろうと思います。

 

二、山上の垂訓の冒頭からも垣間見える「逆転」

山上の垂訓の冒頭(マタイによる福音書五章三節から十二節)で「幸いである」と言われている箇所もまた「逆転の構図」があると考えます。

 

①心の貧しい人々(三節)

「心」の原語には「人間の理性的な部分(精神)の働き」の意味もあります。そして、理性的な思考や判断の基となるのは、本来なら「神の律法を含む聖書の知識」であるはずです。ただ、当時は洗礼者ヨハネが悔い改めを説きつつも、律法学者やファリサイ派の人々の間違った教え(現代ならパウロ教)が多数派であり、その間違った教えに染まった人々が大勢居たと考えられます。「心の貧しい人々」に対して「幸い」、「天の王国は彼らのもの」と言われるからには、それが必ずしも不利とはならないことを意味していると考えます。それを踏まえれば、却って世の権威による間違った教えに染まっている(満ちている)人々よりも、それらを知らず(無学)、主イエスの教えをまっさらな気持ちで知ろうとする人々にこそ道は開かれていることと言われたのではないでしょうか。確かに主イエスは『天と地の主である父よ、これらを賢い者や知性が高い者から隠して、幼子にそれらを明かした事をあんたに公言します。(マタイによる福音書十一章二十五節 引用:真の聖書福音と預言「悔い改めへん者は罰せられる」)』と言われました。神は『幼子のように高ぶらず素直で無邪気な人に大切な事を明かす(同記事引用)』のですから、これが不可欠な資質なのだと考えます。もし多数派(パウロ教徒)にかぶれたら、『高ぶらず素直で無邪気』ではいられません。パウロ教徒はパウロの教え(偽福音)が正しいと信じているため主イエスの教えを無視するほどに高ぶっており、素直でも無邪気でもありません。多数派にかぶれないでいれば、多数派からはおかしい人扱いされるかも知れませんが、真の聖書福音を知るに至る可能性があり、後に大きく逆転する可能性があります。

 

②嘆き悲しむ人々(四節)

何に対して嘆き悲しむかですが、先の引用で挙げたように『この世で超少数派で苦しい思いをしてる神の律法を守る真のキリスト者』だからこそ、真に嘆き悲しみ得ると思います。それは狭苦しい道(マタイによる福音書七章十四節参照)の故です。例えば、神の律法にある七日目の安息日(いわゆる「金曜日の日没から、土曜日の日没まで」)を完全に守ろうとすれば、周囲から(下手すれば身内からも)後ろ指をさされることもあろうかと思います。週末は稼ぎ時かもしれず、稼働しないために咎められるかもしれません。本来なら神の律法を守らない人や世の中がずれているだけですが、彼らは週末に世俗の労働、行事、遊興等に加わらない人を責め立てたり、莫迦にしたりします。世の実態は、真理に対して逆であり、それが多数派を占めているので苦しい思いをすることは他にも多々あるでしょう。しかし、神ではなく、自らを正しいとするこの世の様は逆転することになります。故に、義が実現する後の世で慰められるのは大変な幸いでしょう。

 

③へりくだる人々(五節)

新共同訳では「柔和」とされておりますが、原語には「謙遜した姿勢」「へりくだり」の意味もあります。それは人に対するものというよりは、神に対する姿勢です。しかし、実際には神ではなく、世の権威や人を恐れている場合が多いでしょう。「長い物には巻かれろ」という『目上の者や勢力の強い相手とは争わないで,それに従った方が得策だという意(引用:スーパー大辞林)』のことわざもあります。大なり小なり、世の権威に迎合し、へりくだるのは一つの処世術と看做されます。「ここで歯向かっても不利益を被る」と臆病になって受忍するのは正しいことでしょうか。ここでも「何を畏れるか」が問われると思います。神を一番にして(神を畏れて)いれば、そうは成り得ないはずです。神に対する謙遜、へりくだりとは神への従順です。神への従順とは、神を掟を遵守することであり、それは神を愛することを意味します(ヨハネの手紙一 五章三節参照)。行いを伴った信仰の故に主イエスを信じる者と看做され、神の子となる権利が与えられ(ヨハネによる福音書一章十三節参照)、それが幸いであるのは言うまでもありません。また、「地を継ぐ」とは詩編三十七編二十二節等にあるように祝福を受けた状態を指すと思われます。

 

④義に飢え渇く人々(六節)

義に飢え渇くとは、神に認められる正しい状態(神の律法、掟、戒めに適う)となることを切望し、かつ自分の不完全さと罪深さを痛感し、悔い改めを必死に完成しようとすることを指すと考えます。悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節及び五節参照)と主イエスは言われており、パウロ教徒らが言う「主イエスを信じて受け入れれば、そのままで救われる」が真っ赤な嘘であるのは明らかです。これは滅びに向かわせ、地獄の子を作る間違った教えです。故に、パウロ教である以上、そもそも「義に飢え渇く」という状態には成り得ません。「今のままでいい」となるのであれば、その状態でどうして「善(律法に適う)」を認識し得るでしょうか。その状態でどうして「このままではいけない」と自分の不完全さを真に痛感しうるでしょうか。

ところで、ヘブライ人への手紙十章十六節に主イエスとの新しい契約により神の律法を心に書き付けられるとあります。書き付けられたら、自分の意志を度外視して守るようになるのかと言えば、そうではありません。途中で堕落する例からも、守り従う意志、しかも継続することが不可欠です。律法遵守に限らずですが、ある行動が習慣化すると、「その人にとっての当たり前」が出来上がります。それを更に続けると、それ以外の選択肢を取るのが「有りえない」という風になると思います。神の律法を守るのが当然となれば、守らないという選択肢は無くなっていくと思います(もちろん、最期まで油断禁物)。「遵守して当たり前」という行動はさながら、心に書き付けられ、かつ消え難く、刻まれるに等しいと思います。

 

⑤ 慈悲深い人々(七節)

神を愛し、神の律法を守るようになれば、自ずと品性も整い、慈愛ある行いをするようになると思います。その人の気質がそのまま現れるという側面もあると思います。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12847568610.html

真の聖書福音と預言「断食についての問答」

 

また、しばしば律法違犯に言及すると「慈愛がない」と言う者がおります。しかし、それはとんだ的外れです。例えば、性的倒錯にしても、神の摂理に反していることに変わりはなく、その状態を許容したら、その人は滅ぶだけです。許容された状態を見て、他の人が勘違いして、「それで大丈夫なのだ」と思うようなら、更に悪く飛び火することになりかねません。物事には秩序(神の創造の秩序)があり、それは世俗的価値観と相容れないこともあります。その時にどちらを取るかを間違えれば神からの有罪判決は免れません。地獄(終わりが無い永遠の苦しみ)に行く位ならば、たとえ嫌われても言うべきは言うのが良いです。それもまた一つの慈悲であろうと思います。間違えてはいけない順序(秩序)があり、それらを伝えること(福音伝道)も慈悲深さであろうと考えます。

 

更には、以下の内容も重要だと思います。

人間やから、嫌な事を言われたり、嫌な事をされると、イラッときたり、怒ったりするでしょう。しかし、なるべくそうせえへんように、感情を制御せないかん。たとえ神の民、真のキリスト者と言えども、信仰に入る前は不信仰者や異教徒等と同じような事をして生きてたんやから、その時の罪、若しくは信仰に入ってからも不完全故に犯した罪、色々ある。それを神に赦していただくには、他人を赦す度量の広さが必要なんや。それがでけへんような人、やられたらやり返したり、倍返ししたり、復讐せな気が済まんというような人は地獄行きです。なぜなら、その人自身も神の目には等しく罪人であることを棚に上げて、他者の罪ばかりを責めるからや。これでは悪魔と同じやから、神は嫌いはるんや。

 

引用:真の聖書福音と預言「実を結ばな滅ぶ」

「慈悲深い人々が幸いなのは、彼らは慈悲を受けるだろうからだ(マタイによる福音書五章七節参照)」には、「赦され、赦す」の原理が垣間見えると思います。

 

⑥心の清い人々(八節)

何をもって「心が清い」と言えるでしょうか。原語から定義は明白で「罪が無い=清い」を指します。但し、これは一度も罪を犯したことがないという意味ではありません。罪を悔いて、罪の赦し(恩恵)をいただきつつ、罪を犯さないように改め、完全に近付くことは可能です。ヨハネによる福音書十五章二節では、豊かに実を結ぶために父なる神が刈り込むと書かれております。この「刈り込む」には「浄化する」の意味があり、汚れや不純物を取り除くことを表します。これらから、パウロ教の教えは、罪の定義も悔い改めの定義も曖昧にし、汚れを取り除くことを教えず、悪い状態に留めさせるため、やはり地獄の子を量産する悪いパン種に他なりません。心を清くする(悔い改めを完成させる)のは、はっきり言ってとても大変です。神と自分に向き合い、心の内と行いを改めるのはとても大変です。打ちひしがれることは日常茶飯事ですが(高慢になるよりは余程ましです)、完成に向かえばその報いが大きいのは言うまでもありません。ヨハネの黙示録二十一章三節では「神が人と共に住む」とあり、まさしく「心の清い(悔い改めを完成させる)人々が神を見るようになる」という結末を表していると思います。

 

⑦平和を実現する人々(九節)及び義のために迫害される人々(十節から十二節)

この世においては、不信仰者(パウロ教を含め)が多く、真のキリスト者は非常に少数です。そのような中においては、マタイによる福音書十章三十四節から三十七節等で言われているように地上では平和は実現しえず、却って分裂が起こると言われております。

 

主イエスの教えと神の律法を守る真のキリスト者は孤立し、家族の不信仰者全員が敵になることだって有り得るであろう。もし真のキリスト者が家族内で複数人居るなら、その人同士は信仰の兄弟となり、仲良くする筈やが、こないな事例はまず無いであろう。家族がパウロ教信者だらけで仲良しっていう場合は有り得るやろが、そないな人間を主イエスが認めることはない。主イエスが「人の敵はその家族や。」と断言してはるとおり、真のキリスト者にとって、家族は味方やのうて敵です。家族間で対立するんは悲しいことではあるけども、神の御言葉である以上、真実と言うしかあらへん。

(略)

勘違いせんといて欲しいんは、真のキリスト者は家族を敵であるという理由で蔑ろにするんやのうて、主イエスの教えのとおりに敵をも愛さねばならんし、愛すると言うても何でも相手の言う事を受け入れたり、言う事を聞く事を意味せえへん。あくまで信仰が第一であり、律法を守る事が重要であり、律法に反する事(罪)を認めたり、自分自身もそれに加担する事は忌避すべきや。

 

画像引用元:https://ameblo.jp/leo085/entry-12858808566.html

 

記事引用:真の聖書福音と預言「畏れるべき者」

 

上記のとおり、主イエスの教え(「お前たちは、お前たちの敵を愛し、お前たちを呪う者を祝福し、お前たちを憎む者に善いことをし、お前たちを侮辱したり迫害する者のために祈れ(マタイによる福音書五章四十四節参照)」)のとおりにしなければなりません。それはとても難しいことかもしれませんが、それによって完全な者となります。世の現実に打ち負かされず、その気質や品性を磨くことは重要だと考えます。

 

また、迫害についても、『それ故、人々の前で我によって信仰を公言する者は全員、我も各天において我が父の前で彼(父)によって(その人の事を身内と)公言するだろう。しかし、人々の前で我を否定する(拒絶する)者は、我も天の我が父の前でその者を否定する(拒絶する)だろう。(マタイによる福音書十章三十二節から三十四節:引用 真の聖書福音と預言「畏れるべき者」)』と言われているとおりです。主イエスを否定すれば、主イエスから否定され、逆も然りです。そして、そもそも多数派のパウロ教では、迫害され得ないでしょう。

 

以上、この世では評価されなくても、次の世で大きな報いを受けるようになる逆転の構図が見られます。主イエスの御言葉に従い、この世で報われようとせず、来る世で正当な評価を受けることが真の成功と言えます。

 

三、悪は必ず絶たれる

今回は前回に引き続き、ゼファニヤ書二章を見ていきます。

 

ゼファニヤ書二章一節から十五節(参照)

(一節)お前たちは集まれ、青ざめなかった民よ集まれ。

(二節)判決が来る前に。その日が籾殻のように消え去る(前に)。主の激しい憤怒がお前たちに臨まない内に。主の憤怒の日がお前たちに臨まない内に。

(三節)主の律法を行う地のすべての乏しい人々よ、お前たちは主を求め、正義を求めよ。従順さを求めよ。あるいは主の憤怒の日にお前たちは隠されるだろう。

(四節)確かにガザは捨てられ、アシュケロンは荒廃し、アシュドドは白昼にそこを追い出され、エクロンは引き抜かれる。

(五節)海辺に住む者たち、ケレト人らの民は災いだ。主の言葉がお前たちの上に。ペリシテ人の地カナンよ、我は住む者が無いようにそれを滅ぼす。

(六節)海辺は(羊の)住処となり、羊飼いの井戸や羊の囲いがある。

(七節)その地域はユダの家の残りの者が跡を継ぐ。彼らはそこらで草を食べさせ、夕暮れにアシュケロンで憩う。彼らの神である主は彼らを気に掛け、彼らの繁栄を回復させる。

(八節)我はモアブの非難とアンモンの子らの罵りを聞いた。彼らは我が民を中傷し、自分の領土に関して高慢になった。

(九節)それ故に、イスラエルの神である軍勢の主の仰せ。「我は生きている、確かにモアブはソドムのように、アンモンの子らはゴモラのようになり、蕁麻(いらくさ)の領地、塩の穴となり永久に荒廃する。我が民の残りの者がそれらを奪取し、我が民の残りの者がそれらを受け継ぐ。

(十節)この事が彼らの下に臨むのは彼らの傲慢による。軍勢の主の民に対して嘲り、高慢になったからである。

(十一節)主は彼らに恐ろしい者として臨まれる。地の神々を傾けたからである。各々その所から、すべての諸国の島々から主に平伏した。

(十二節)お前たちクシュ人もまた、彼らは我が剣で殺される。

(十三節)(主は)その手を北に伸ばせ、アッシリアを滅ぼすだろう。ニネベを廃墟とせよ、不毛の地のような荒野となる。

(十四節)(羊の)群れは諸国の獣の中に伏す。そこの柱頭にペリカンもヤマアラシも宿り、窓の内で声をさえずる。敷居の内の荒廃は杉板を剥き出しにしたからである。

(十五節)これが喜びにあふれ、心配なく暮らす者の都である。その心の中で言う。「我、我の他に無い」と。どうして驚くべきこと(廃墟)となったのか、獣の伏す所となったのか。そこを通り過ぎる者は皆、口笛を鳴らし、その手を振る。

 

(一)神を畏れない者への警告

ゼファニヤ書二章一節について、「集まれ」と二度言われていることから、より強い強調の意が込められていると見受けます。また、新共同訳で『恥を知らぬ』とされている箇所の原語の主たる意味は「青ざめる(文脈上は「青ざめない」)」です。甚だしい罪により神の罰が下ろうとしているにも拘らず、不安により青ざめる(顔面蒼白となる)でもない(神を畏れない、切望しない)民の状態を指していると思われます。故に言わんとしている点は『恥を知らぬ』と同じと見受けます。ここではそのような民に対して「神に回帰せよ」と言われていると考えます。

ゼファニヤ書二章二節について、「判決」はそのままに神の罰を表すと思います。神は悪を放置せず、義の神である故に必ず罰を下します。ここでは「判決が来る前に神に立ち返り、悔い改めよ、そうでなければ激しい神の罰が臨む」と切迫感を持って警告されていると考えます。次いで「籾殻」「実と殻に分けられて、ふるいにかけられた状態」を指しており、必要なのは「実」の方であって、「殻(抜け殻)」ではないのは言うまでもありません。尚、同じ原語はヨブ記二十一章十八節、詩編一編四節等でも使われ、神に逆らう悪しき者の比喩として用いられております。そして、『主の激しい憤怒がお前たちに臨まない内に。主の憤怒の日がお前たちに臨まない内に。』と、多少の違いはありますがほぼ同じ言葉を二度繰り返して言われており、この強調は甚だ大きい警告として重く受け止めるべきでしょう。これに聞く耳を持たないのは、根拠も無く「自分は大丈夫」と言っているに等しく、高慢な姿勢と言わざるを得ません。

 

(二)終末の真のキリスト者に向けられた言葉

ゼファニヤ書二章三節について、一転して今節では神の律法を守る人に向けて書かれております。「乏しい人々」は言葉どおりに「貧しく、社会的地位も無く弱い立場の人々(裕福で権力のある者によって虐げられる)」を指します。ここでも「主の律法を行う人=この世では評価されない小さい者」の構図が窺えます。そして、尚も「主を求め、正義を求めよ。従順さを求めよ」と言われており、「死に至るまで忠実であるように(ヨハネの黙示録二章十節参照)」の言葉が思い起こされます。更に、「隠されるだろう」について、同箇所を解説した以下のミカエル氏の記事を大いに参考にしてください。

 

大艱難の開始である日曜日を安息日または休業日として強制される法令が出る前に、個人の恩恵期間が終わらないうちに、この地上での命が終わらぬうちに、主なる神を求め、正義を求め、謙遜を求め、共に集まってイエス・キリストを信じて従順に従う必要があるということです。神から運命を決する判決が出てからでは遅いのです。故に、人類の悔い改める最後の機会は、主イエスが執り成しの働きをやめる大艱難前なのです。大艱難が始まれば、神は怒りをこの地上に注がれるでしょう(黙示録16:1)。この身を守られるというのは直訳すれば、隠される、かくまわれるという意味です。これは携挙を意味するのではなく、大艱難の世にあっても保護されるということです。天に引き上げるとは一言も書かれていないからです。また、これは以下に関連しています。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 3章10節(私訳)

なぜなら、あなたはわたしの忍耐の言葉を守っているからであり、地上に住む人々を試すため全世界にやって来る誘惑の時からわたしもあなたを守ろう。 

 

上記は大艱難の時にあっても主イエスを信頼し続け、キリストの再臨に希望を持って神の律法、掟、戒めを守っていれば、神は必ずあなたを見捨てずに御心に留めていてくださいます。神の民は、大艱難で背教に繋がる誘惑にも耐え抜くことで神の御国に入る前に練り清められ、永遠の命を受けるに相応しい人間に仕上げられるのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」

 

(三)ペリシテ人への裁き

ゼファニヤ書二章四節で挙げられた「ガザ(強い者)」「アシュケロン (悪名を燃やす炎)」「アシュドド(強大、破壊者)」「エクロン(根こそぎ引き裂かれる、根絶)」の都市は、ペリシテ人の五つの主要都市に該当します(上記の括弧の言葉は原語にある異名)。こちら(ウィキペディア)の地図で地勢を参考にすると分かり易いと思います。ペリシテ人は旧約聖書に書かれているとおり、古代イスラエルと敵対しておりました。当該都市についてはエレミヤ書二十五章二十節でも言及があり、エレミヤ書二十五章二十六節ではその滅びが予告されており、そのとおりの末路を辿りました。尚、ゼファニヤ書二章五節にある「ケレト人(クレタ人)」はペリシテ人を指し、彼らはエーゲ海方面から海を渡ってきた海の民の一部であるためにそのように呼ばれていると思われます(参照:世界史の窓)。そして、「ペリシテ人の地カナン」はヨシュア記十三章三節にあるようにペリシテ人はカナンの地を治めておりました。また、前回記事でも言及したように「カナン」の原語には「違法な取引をする」との悪い意味もあります。近隣の異邦人(異教徒)から古代イスラエルに偶像崇拝(バアル等)がもたらされ、そういった事を含んでいると思われます(士師記十章六節参照)。ペリシテも偶像崇拝の国であるため、遠からず神に滅ぼされるのも必然だと考えます。

 

(四)古代ユダヤに関する預言

ゼファニヤ書二章六節から七節について、海辺(ペリシテ人の居た地域)が「羊の住処」となり、しかも、「ユダの家の残りの者が跡を継ぐ」等とあることから、古代ユダ王国が滅び、捕囚とされながらも帰還し、やがて古代ユダヤに至ること(最終的にはローマの属州)(参照:世界史の窓)を、ゼファニヤが居た時代(古代ユダ王国が滅ぶ前)に既に予告されていたのだと思われます。こちら(古代ローマライブラリ)にある地図を確認すると、確かに海辺の地域はユダヤ属州となっております。尚、真の聖書福音と預言「実を結ばな滅ぶ」で言われているとおり、主イエスの御処断によりユダヤ人の救いは閉じられました。ユダの家の残りの者が跡を継いでも、それは短い期間でしかなく、その事もあって夕暮れにアシュケロンで憩う』と書かれているのではないかと考えます。『我は、我を遣わしはった方の業を日中である内に行わないかん。夜が来ると、誰も働くことがでけへん。(ヨハネによる福音書九章四節 引用:真の聖書福音と預言「水上を歩く」)』と言われた主イエスの御言葉と「例えられた時間軸」が一致していると見受けます。

 

(五)傲慢により滅ぶアンモンとモアブ

ゼファニヤ書二章八節から十節について、先に挙げた地図(ウィキペディア)から、アンモン人とモアブ人の国は北イスラエル王国と南ユダ王国と隣接しておりました。その彼らは申命記二十三章四節にて主の会衆に加わることが出来ないとまで書かれております。列王記上十一章三十三節に「モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコム」と書かれているとおり、偶像崇拝の国であることが要因と考えられます。また、ネヘミヤ記十三章にも書いてあるとおり、ソロモンはアンモン人とモアブ人の女を妻に迎え、やがて罪に引き込まれました。故にそれらの国々が、「彼らの傲慢」「軍勢の主の民に対して嘲り、高慢」もありながらも、ソドムとゴモラのように滅ぶのもまた必然であろうと思います。実際、ゼファニヤ書二章十一節では「地の神々を傾けた」とあります。聖書の神に並び立つものなどありません(詩編百十三編五節参照)。そして、先のユダヤ属州の地図にアンモンとモアブの領地が含まれていることから、『我が民の残りの者がそれらを奪取し、我が民の残りの者がそれらを受け継ぐ。』が実現したものと思われます。

 

(六)クシュの後退とアッシリアの滅亡

ゼファニヤ書二章十二節の「クシュ人」について、歴代誌下十二章三節ではエジプトの王と共にクシュ人が南ユダ王国を攻め入る記述があり、歴代誌下十四章でも同様に外敵として書かれております。ただ、サムエル記下十八章三十一節から三十二節にはダビデの陣下にクシュ人がおり、エレミヤ書三十八章七節等には「王宮の役人の一人であるクシュ人エベドメレク(名には「王の僕」の意味がある)」がおり(預言者エレミヤは彼の介入で救出された)、更には、ゼファニヤ書一章一節にゼファニヤの曽祖父はクシュ人と書かれております。これは古代イスラエル、古代ユダに流入した異邦人としてのクシュ人が居り、その中には信仰をもったクシュ人も居たものと考えられます。また、ゼファニヤの時代にはこちら(ウィキペディア)のとおりクシュ系の王朝がエジプトを治めていたようであり、クシュ王国自体は古代エジプトの南側に位置します。後にアッシリアの侵攻を受けて最終的にクシュはエジプトから撤退しました(参照:世界史の窓)。

 

ゼファニヤ書二章十三節について、「アッシリア」はこちら(世界史の窓)の地図のとおり、北に位置する大国でした。アッシリアは紀元前七百二十二年に北イスラエル王国の都サマリアを占領し支配下に置きました。南ユダ王国には、ヒゼキヤ王の時代にアッシリアのセンナケリブ王が攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した(列王記下十八章十三節参照)と書かれており、大敵であったのは言うまでもありません。 「ニネベ」はアッシリアの首都であり、ヨナ書のとおり、預言者ヨナはアッシリアのニネベに主なる神によって遣わされました。異邦人である彼らは悔い改め、「あと四十日でニネベは滅ぼされる(ヨナ書三章四節参照)」という状態は回避されました。しかし、最終的にアッシリアは紀元前六百十二年に滅ぼされる結果となり、ゼファニヤ書二章十三節の言葉は実現しました。何が善で、何が悪かも判断出来ない(真の神と律法を知らない)、右も左も弁えぬ異邦人(ヨナ書四章二十一節参照)であってもヨナ書三章八節から九節のとおり、悔い改めれば神の怒りを免れるかもしれません。しかし、実際には滅んでいることから、その悔い改めは継続しなかったのではないかと考えられます。

 

(七)高慢、律法違犯の末路

ゼファニヤ書二章十四節について、「(羊の)群れは諸国の獣の中に伏す」とは、北イスラエル王国も南ユダ王国も異邦人の外敵に滅ぼされ、アッシリアやバビロニアの捕囚となったことを例えていると考えられます。次に「そこの柱頭にペリカンもヤマアラシも宿り、窓の内で声をさえずる」の箇所を見ていきます。新共同訳では「ふくろう」とされておりますが原語からは「ペリカン」であり、律法で汚れて食べてはいけないとされる鳥(レビ記十一章十八節等参照)です。更には、詩編百二編七節では廃墟に住む鳥として描写され、イザヤ書三十四章十一節においても良い意味では使われておりません。「ヤマアラシ」も同様に荒れ果てた場所の象徴としてイザヤ書十四章二十三節等で用いられております。その両者が居るのが「柱頭」ですが、同じ原語は出エジプト記二十五章等で「燭台の装飾」の意味で使われており、然るべく整えられるべき幕屋の内側が荒れ果てている状態を指すのではないかと考えます。また、「敷居の内」は境界の内側、即ち契約の民(血統イスラエル人)を指すと思われ、国が滅ぼされるほど著しい堕落のあった民の状況を思えば、「荒廃」という表現が的確だと思います。「杉板を剥き出しにした」についても列王記上六章十五節で杉板で神殿の内側が造られており、それらが剥き出し(装飾もなく、破損している)となるのは、やはり「荒廃」以外の何ものでもないと思います。また、神の律法が蔑ろにされている比喩でもあろうかと思います。

 

ゼファニヤ書二章十五節について、繁栄を謳歌しながらも、高慢となり滅んだ異国の末路を表していると思います。また、申命記二十九章二十一節から二十七節にも類似の記述があることから、律法違犯の呪いが臨んだ契約の民の末路をも表していると思います。『喜びにあふれ、心配なく暮らす者の都』と言われるほどに繁栄したとしても、『我、我の他に無い』高慢に陥れば、自らの悪を認識せず、改めることもなくなり、そうなってしまうと契約の民であろうと異邦人であろうとも神の罰を免れないことをゼファニヤ書二章の箇所は言われていると思います。「高慢な心は主の嫌悪(箴言十六章五節参照)」、「神は高慢な者に敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる(ペトロの手紙一 五章五節参照)」と言われているとおりです。

 

ゼファニヤの預言は現代の我らにとって、かつて起きた出来事でもあり、これから起こる終末をも描写しております。他の預言も含め、主なる神が預言者を通じて前もってこれから起こる事柄が告げられており、神の律法を基準に、血統イスラエル人であっても異邦人であっても悔い改めが不可欠であり、神はいつまでも悪を放置しないことを示しておられます。千年単位あるいは百年単位という時は、人には気が遠くなるほど長く感じますが、神にとっては千年は一日のようであり(ペトロの手紙二 三章八節参照)、千年という時も過ぎ去った昨日のようであり(詩編九十編四節参照)、たとえ悪が栄えているように見えたとしても神は必ず悪に報いられます。その上で、本当に重要なのは死後の永遠です。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12820192823.html

(真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」)

 

上記の画像のとおり、どう考えようと各位の自由です。しかし、聖書を学ばず、「この世の常識等」を大前提に生きれば、聖書真理を知ることもなく、悔い改められず滅びに向かうだけです。律法を蔑ろにして主イエスの教えに不忠実なパウロ教徒も同様です。主イエスの教えに忠実な真の聖書福音を大前提にして、信仰を持って生きた時に初めて悔い改めが可能となります。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12835978692.html

(真の聖書福音と預言「二種類の基礎」)

 

神は「収穫の時」に預言者を世に送られ、「実」を集めようとしてこられました、しかし、世の指導者も世の人々も、好き勝手に振る舞いました。個人的には、「ほんの少しでも心に引っ掛からなかったのだろうか」、「それって、どういうことなのか。この警告が本当だったら、相当にまずい。」と思った人がもっと居なかったのだろうかと不思議に思います。つくづく主イエスや預言者の言葉を他人事に思うべきではないと思います。

 

また、誰もが聞く耳を持たなかった中で、多数派に属さずに悔い改めるのは、ともすれば勇気が必要かもしれません。しかし、迫害されたり、この世で最下級となることを恐れてはいけません。もし世間体を重んじ、社会的成功を追い求めることを一番に考えれば到底、聞く耳は持てないだろうと思います。もしこの世の様に対して「何かがおかしい」と思ったり、世に躓いて、「何が真実なのだろうか」と正しい道を希求する人は本当に幸いだと思います。聖書こそ、世に染まることに抵抗があり、世では弱く悩む人に真の解決をもたらしてくれます。世に染まれなかったならば幸いです。世に染まったらそもそも改めようと思えないからです。たとえこの世では地位や財産を築けなくても、世に居場所を見出だせなくても、後の世ではすべては逆転します。すべての悪が公平に裁かれ、そこに真の希望があります。

 

四、結び

最近、大地震が起き、更なる大災害も懸念されます。かねてより南海トラフ地震や富士山噴火の危険が叫ばれ、不安に感じておられる方もいるかもしれません。また、地震の報道の一方で支那との緊張も高まっております。こちら(note)の記事にある米国の研究機関の模擬予測によると、有事が起きれば、在日米軍施設のある地域が攻撃対象となり『日本側の死者が4,662人に達する』と分析しているようです。当然、それだけで済むはずがなく、物流が滞れば物価上昇と物資不足が懸念されます。更に、記事では自然災害時と同様に『防災・備蓄の準備』を勧めており、生々しく感じます。局地的災害であれば、被災していない地域からの支援が可能です。しかし、日本全体の物資不足となれば事はそう簡単ではありません。こちらの記事(In Deep)によると、日本は貿易全体の九割を海上輸送に依存しているため、『半年程度の「完全な海域封鎖」で、6000万人くらいが深刻な栄養失調や餓死に至る』危険があるようです。これらから、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」「聖書の終末預言 二」で言われている主イエスの終末預言が思い起こされます。戦争や地震や飢饉等、すべてこれらは産みの苦しみの始まりと言われております。著しく世情が悪化し、この世の終わりが近付いていると薄々でも感じる人は一定数居るのではないかと思います。戦争に向かう悪しき動きや新世界秩序の構築に繋がり得る憲法改悪に対して抵抗し、阻止に努めるべきです。悪人に膝を付かず、隣人のためにも出来得ることは最大限に行動するべきです。一方、聖書の預言は必ず実現するため、為すべき事は為しつつも、この世(為政者等)に期待するのではなく、真の聖書福音を知り、すべての悪を裁き、来る世での救いをもたらす主イエスにのみ希望を持つべきです。今、ゼファニヤ書の預言の只中に生きていると俯瞰して、「どうすれば良いか」を考えてみてください。

 

正しく生きるのに地位も財産も必要ありません。神のお招きを前提にしつつも、自分の意思と意志を行使し、そして、各位に与えられたタラントン(才能、能力)を磨いて活かすまでです。すべては、この世と後の世での有様は逆転します。そこに希望を持って励みましょう。

 

その上でご案内致します。律法を遵守し、品性を改め、福音伝道をし、慈愛ある活動をし、悔い改めを完成するのは一人では困難です。かつ主イエスは兄弟で愛し合うようにと命じられております。実際、成長していくためには切磋琢磨する兄弟や御指導、ご鞭撻の数々が不可欠です。手前も同じ志を持った兄弟での励まし合いがどれほど支えになったか計り知れないと感じます。兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった教会への入会を果たして、ぜひ共に歩みましょう。これまであった「兄弟の集いの場」は廃止されておりますので更新された入会条件等をきちんとお読みになった上でご申請ください。

 

 

 

 

誤った世の常識、世の多数派の価値観等に生きてきて躓き、打ちひしがれているなら、ある意味において幸いです。なぜならば、この世で小さい者、悩める人にこそ聖書真理は近いからです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

こんにちは。

今回は「声の限り伝えたい事」と題してお伝えしていきます。

 

 

 

一、聖書は他人事ではなく我が事

真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」の記事はご覧になったでしょうか。これまでの記事にも通じる事ですが、聖書を丁寧に読み解かれ、それを具体的に現実に応用し、行いに反映している点が非常に秀逸です。

 

一方、かつて地上の教会に通っていた身からすると、世の諸教会の「教え」とは日常生活の中で実行に移されることのない「机上の論理」であり、聖書の話も「過去の時代にこのような事がありました」という程度の御伽噺を聞いているかのように他人事にしか感じられませんでした。このように聖書の知識も聖書に基づく行いも無ければ、「キリスト者らしさ」は皆無と言っても過言ではありません。

 

また、極端な話、パウロ教徒らの言う「主イエスを信じて受け入れるなら、それだけで救われる(偽福音)」という状態に持っていくだけなら、自分で聖書を読まなくても、牧師の「説教」を聞くだけで十分でしょう。しかし、「一次資料」たる聖書に拠らず、「偽福音に基づいた説教(誤解釈だらけの聖書要約話)」に留まれば、神が求めている忠実の意味も碌に分からず、完全に道を踏み外します。もっとも、聖書を読んでいたとしても、(真の聖書福音を教えても)偽福音の洗脳が解けない人ばかりです。

 

聖書には、神の知識(神の創造の秩序、現在も有効な神の律法、罪、救い等)、神と民との関わりの歴史やこれから起こる事等(目前に迫った終末)が書かれております。誰もが神に覚えられ、神の御手の内に生きているのですから、無関係であるはずがありません。更に、過去の出来事から学び、先人と同じ轍を踏まないように、聖書が教える「為すべき善」と「主イエスの模範」から学んで実行することに意義があります。聖書は人生に不可欠な我が道の光、灯火(詩編百十九編百五節参照)です。ここに聖書に照らして、現在の世の現実や自分自身の状態を判断する知性が求められます。非常に頭を使うと思います。何より、その前段には自分で聖書を読んで理解し、心から信じる信仰が不可欠です。

 

しかし、何分、確かに聖書は難解であり、何の解説も手ほどきも無く、正しく理解出来る人は極めて稀だと思います。往々にして「自己流」は危険です。ネット上で見かける自己流の「キリスト者」を見ると、聖書に沿っていないばかりか、大いに反しているにも拘らず、自分でその間違いに気付いておりません。挙げ句、そのような人に限って「自己流」の主張を発信したがります。まさに盲人が盲人の手引きをしており(マタイによる福音書十五章十四節参照)、「自己流は事故流」を地で行く状態です。自己流で悪い状態に陥らず、かつ律法廃止論のパウロ教徒らの偽福音に巻き込まれないためにも徹頭徹尾、聖書に依拠したミカエル氏の記事は非常に役立ちます。

 

◯ここからは記事の感想に触れていきます

(※以下、この項での二重括弧は真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」からの引用)

 

以下の画像のように聖書を基にこの世の悪の支配構造を分かりやすく解説してくださっており、支配層によって「世の権威」が形作られ、それに洗脳された大勢によって「多数派」が形成されていることが画像から分かると思います。他の「悪の支配構造図」はネット上でも多々見かけますが、聖書を基にしなければ、悪の頂点が何であるか、その真の狙いが何であるかが見落とされ、肝心な点が見失われます。そういった点からも、聖書を基に作られた下記の画像は大変貴重です。

 

※(正しい理解のためにも、画像の細かい点まで読むことを勧めます)

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12939824473.html

真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」

 

 

マタイによる福音書二十一章二十三節から三十二節の解説より、過去も現在も変わらず『権威というのは一種の宗教のようなもので、信じさせて従わせる者と信じて従う者の両者が揃って初めて権威や権力というのは確立する』と分かります。そして、『もし信者が信じて従うことをやめれば、その権威と権力はすぐに瓦解する』とのご指摘も非常に重要な点です。世の宗教(世の権威含む)はその地位を維持するため「人の支持」を欲しているのは共通しております。故に、悪への不服従と抵抗は不可欠であることも分かります。

 

上記聖句にて、主イエスは祭司長らや長老らに洗礼者ヨハネをどう見てるかを確認するべく『ヨハネの洗礼は何処からやったか。天からか、それとも、人からか。』と聞かれました。即答出来ず、内輪で議論していることから、『彼らが主イエスをメシアとも洗礼者ヨハネをエリヤであるとも信じてへんかった』ことが分かります。彼らは勝手に「自分たちが正しい」と思い込んでいるため、そもそも人を見分けようとすらしておらず、聖書の知識はあってもその傲慢さが目を曇らせております。例えば、主イエスは決して人々の前で自分が「我こそは神である」とは振る舞いませんでした(弟子にのみ素性を明かした)。洗礼者ヨハネにしても「我こそはエリヤである」とは言っておりません。ただ行いによって本物であることが見分けようとする人には伝わりました。ここから学べることは聖書知識のみならず、知識を応用して人を見分けられる知性や品性が必要であり、それは現代でも同様です。そのためにミカエル氏は記事にて再臨前のエリヤの特徴を分かり易く示してくださいました。これらから「聖書の読解、応用、行動が不可欠」であり、他人事のように傍観するのは間違いであり、ましてや偽福音を信じるのも不信仰も論外です。「聖書の読解、応用、行動が不可欠」というのが手前がミカエル氏の記事や動画等から学んだ真髄です(但し、言うは易く行うは難し)。故にかつて世の諸教会に属して、偽福音に毒され、不勉強で怠惰だった身としては、聖書とは我が事であり、読解して現実に応用し、事を見極め、正しい行動(悪の弾劾、真実を伝える、福音伝道、慈愛ある行動等)を力の限りに実践してこそ真のキリスト者であると、声を大にして言わずにはいられません。そうでなければ救いはありません。

 

(※以下の内容は超重要です)

 

世の中には悪人の数が圧倒的多数であり、それ故、聖書を読んで神に忠実であろうとする少数の善人が苦しむことになるのは必然です。せやから、神はこの世を良くすることなんか目指しておらず、六千年という存続期間(終末は大艱難故に、多少縮められる予定)を以てこの世(現在の天地)を滅ぼしはり、不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)等は地獄行きにして処分し、新しい天と新しい地を再創造すると聖書上で何千年も前から予告しはってるんや。それが唯一の根本的解決やからや。

 

引用:真の聖書福音と預言『「兄弟の集いの場」の廃止の告知』

 

知性を行使せず、心を尽くさず、行動もせず、「信じるだけで救われる」と勘違いすれば、最後に主イエスから「お前たちのことは知らない」と拒絶されるだけです(マタイによる福音書七章二十三節参照)。はっきり言って、悲惨で惨めな事この上ありません。もはや取り返しがつかず、そこでの後悔は泣き喚くほどの苦痛であり、更に永遠の地獄に引き渡されるのは筆舌に尽くし難い痛恨の極みでしょう。罪が赦される恩恵期間が終わっているであろう「大艱難期」は目前であり、今がそれを伝えられる最後の機会だと思っております。聞く耳のある方はどうか真剣に聞いてください。

 

また、ペトロの解説も秀逸です。その中の『かように散々やらかしたペトロも内心は「自分は駄目人間だ…」と何遍も思たやろが、彼は失敗から腐って自暴自棄にならず、懸命に主イエスに従おうとし、諦めへんかったことが捨てられへんかった要因かもしれへん。読者各位もペトロの姿勢を学び、泥臭くても結構であり、失敗しても腐らず、諦めず、きちんとしたキリスト者になるための努力を怠るべきではない。諦めた時点で人生終了やからや。』の箇所には非常に強く共感を覚え、また、励まされます。大変僭越ですが、必ずしも器用とは言えないペトロに自分自身を重ねてしまいます。手前も世の諸教会に連なったり、離れた後も長らく放浪し、真の聖書福音に出会ってからの悔い改めの歩みも遅く、そういう意味では『散々やらかした』とも『自分は駄目人間だ…』とも何度も思いました。ただ、不思議と諦めようと思ったことはありません。それは諦めた末路がどんなに酷いものか分かっているからだと思います。但し、記事で言われているとおり、神のお招きに応えなければ意味はありません。そして、『ペトロのように主イエスから選ばれた人であれば、一度弟子から離脱しても、絶対に主を否定せえへんと誓った後で三度も主を否定しても、復帰が許されたが、誰でもそういう訳にはいかへんことは肝に銘じるべきや。古代イスラエル初代王のサウロのように、油を注がれたにも拘らず、ちょっと勝手な真似をしたらすぐに神から見限られ、悪霊に支配され、転落して行った例もあるからや。』について、しかと覚えておかねばなりません。手前もサウルが見限られるのがとても早く「これならば自分は一体どれほど早く見限られるだろうか、いつそうなってもおかしくはない」と思い、恐ろしくもあります。故に、くれぐれも「ペトロのように何とかなる」とは思うべきではありません。やはり悔い改めを先延ばしにしないのが最善です。神を侮ってはなりません。

 

ただ、そうとは言え、悔い改めを完成させようとするのは本当に大変な過程です。自己検証し、悪い点を直していくのは口で言うほど簡単ではありません。恥ずかしい話ですが「この事だけは勘弁して欲しい」と思ったこともありました。マタイによる福音書二十一章二十八節から二十九節(ミカエル氏訳)『ところで、あんた方にはどう思えるか。ある人は二人の子を持っていて、長子のところに来て、『子よ、今日行って、我がぶどう園で働きなはれ』と言うた。しかし、『やりたくない』と答えて言うたが、後で悔いて出掛けた。のくだりにはとても親近感を覚えます。自分の悔い改め過程を思うと、「大変だし、辛いだろうし、やりたくない」と思うことは正直言ってありました。しかし、そうかといって「やりません」とも言えず、「何とか自分を鼓舞して、まずはやり始める」という過程に似ていると思いました。結果として、着手して、やり続けると、「やって良かった、やらなかったら非常にまずいことになっていた」と思うことばかりです。

一方、三十節で『また、次子のところに来て、同様に言うた。しかし、『主よ、我は…』と答えて言うて、出掛けへんかった。とあり、言葉を濁して避けた気持ちも正直、よく分かります。小狡い振る舞いには手前も身に覚えがあります。そして、そんな振る舞いの後には自己嫌悪と後悔しか残りません。それすら無くなったら、本当にお終いかもしれませんが…。「何事も勇気を持って、根気良く、考えながら行動しよう」と自分に言い聞かせる日々です。

 

更に、三十二節の解説にある『洗礼者ヨハネを信じた徴税人や娼婦が悔い改めて良い方向に変貌していく様を見ても何とも思わず』の一文がとても印象深く感じました。正しい教えに沿って悔い改めたのですから、良い方向へと変貌していないはずがなく、そのとおりだと思いました。そして、現代の我らも祭司長や長老と同じ轍を踏んではなりません。以下を覚えておきましょう。

 

(※以下の内容は超重要です)

エリヤの働きをした洗礼者ヨハネを信じて悔い改めたかどうかで信仰者として優劣が出るということや。終末時代の現在も同様に、エリヤたる男が伝道する聖書に依拠する福音や悔い改めの勧告に聞き従うて悔い改めるのが重要であり、そうせえへん者は一世紀当時の祭司長や長老と同じような状態であり、同じ末路になるだろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」

 

信じても、もし良い方向に変貌しないのは、改め方が悪いからだと思います。手前の痛切な教訓ですが、雑な学びや雑な行動は、いくら積み重ねても役に立ちません。悪い事の自覚は持ちにくいのですが、「成長しない」と感じるからには、相応の悪い要因があると思います。故に、悪い点は速やかに潰して、改善行動を取るのが良いと思います。単純な事ですが、こういった躓きが多いと思います。結果を伴わなければ、改める意志の無い人と何ら変わらない状態に留まります。そうならないためにも自己検証と改善は不可欠だと痛感します。

 

歴史は繰り返されてしまうのだとは思いますが、聞く耳のある者は歴史に学び、賢く自身の身の振りを決めるように勧めます。

 

◯箴言十四章十二節(参照)

人の目に正しいとする道がある。しかし、その終わりは死への道である。

 

◯箴言十四章十五節(参照)

愚かな者はどの言葉も信じる。しかし、賢明な者は自分の歩みを見分ける。

 

もし、世俗の価値観を「自分の目に適う」と思って不信仰に生きれば滅びは免れません。もし、カトリック、プロテスタント、正教会等の偽福音、その他の宗教を「正しい」と信じれば滅びは免れません。如何にも道理にあっているように見える「それ」が正しいかどうかを見分ける必要があり、正しいかどうかは聖書に書いてある事と照らす必要があります。その上で、そもそもの読解が間違っていたら話にならないため注意が必要です。見分けることは決して簡単ではないかもしれませんが、正しい見分け、正しい道を教えてくれる方がおります。それが正しいかどうかも是非ご自身で確認してみてください。それも確信を持つ上で大切なことです。正しいと確信出来たのなら、素直に悔い改めて歩んで行きましょう。

 

 

二、世の現実に向き合う

ここからは世の動きについて触れます。

 

高市政権が誕生するや否や、こちら(読売新聞)のとおり、『従業者の選択』を前提としつつも、『誰もが働きやすい労働環境を実現する必要性や、上限が過労死認定ラインであることを踏まえて(規制緩和を)検討する必要がある』と言い出しました。こちら(弁護士法人 東京新宿法律事務所)によると、現在、労使の「36協定(時間外協定)」があれば、『月45時間、年360時間が上限』、更に、『特別条項付き36協定がある場合の時間外労働の上限は、1ヶ月100時間(※過労死基準)』とされております。本来なら、このような『特別条項』が設けられるのがおかしいのですが、それを更に緩和すると言っており、狂っているとしか思えません。馬車馬を通り越して、過労死にまっしぐらです。まさしく「死ぬまで働け」と言っているようなものです。いくら従業者の選択を前提としたとしても、残業をせざるを得ない状況に追い込まれる可能性が大いにあり、過労死が多発する危険があります。

 

 

上記画像(左上箇所)のとおり、SNS(X)で山崎雅弘氏が『労働時間の規制撤廃を「助かる」と本気で思っている人は結構いるみたいです。理由は、物価高が解消される気配がない以上、残業しないと家族を養えないから。だから法案通る可能性は高いと思います。これは高市政権の「物価高を改善するつもりはない」というメッセージです。』と言っており、あまりの酷さに驚きました。実際、こちら(hilog)によると、残業をしないと生活が苦しいと言っている人々がいるようです。しかし、低賃金や物価高の問題を残業代で補うのは甚だ本末転倒です。

 

また、こちら(弁護士JPニュース)の記事でも、貨物自動車の運転手から「もっと働きたい」と「労働時間規制の緩和」を歓迎する意見があったことが紹介されております。しかし、体力任せに過酷な労働をした所で自身の体にも影響があり、事故の危険も増し、浅はかな考えでしかありません。記事でも言われているように『彼らがもっと働きたいとする大半の理由は、(略)「稼げないから」』でしかなく、『運送事業者やドライバー本人たちも「もっと働く」や「ワークライフバランスを捨てる」といったマインドから、「本来得られるはずの賃金まで水準を上げること」に視点を変える必要があるとの指摘は至極真っ当です。先のSNS投稿でも『普通だったら、主食の値段が数年前より1.5倍以上に上がって政府が無為無策なら、国民は怒ってデモし、それでも無視すれば政権は倒れるでも現代の日本人は黙って従い、我慢と工夫で乗り切る。「怒る」という行動を異様なほど忌避し、おとなしく自助で乗り切ろうとする。支配層には絶対刃向かわない。(引用:X)』と、ミカエル氏が真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」「日本人の問題点 一」から「日本人の問題点 五」等で言ってこられた事と同じように言っており、そのとおりだと思います。多くの人々が解決の手段を間違えているように見えてなりません。

個人的な話ですが、月八十時間から百時間近くの時間外労働を長期間に渡って経験したことがあります。体が異常に疲れ、頭の中心付近に鈍痛が走り、思考も情緒もおかしくなっていたと思います。湯水のように湧いてくる業務を「片っ端からやっつける」としか考えられなくなり、どうすれば効率的に対処出来るか、そもそも「その案件」は自分がやる必要があるのかを殆ど考えられなくなっていたと思います。些細な事でイライラしたり、その事にも落ち込み、自分が自分でなくなる感覚にも恐怖を覚えました。家族と会話する余裕もなく、情けない事に当たり散らしたこともありました。心労(ストレス)の多い職業では飲酒や買い物、賭け事に依存する人も少なからず居ると聞きますが、分かる気がします。あの苦しさに対する「報酬」が無いと「やっていられない」からです。荒れた手前の状態を見て「そんな状態になってまでやる必要があるのか」と叱ってくれた方がおり、後に改める契機となりました。あの言葉がなかったらどうなっていたことかと恐ろしく思います。

 

体であっても、心であっても、失われた健康が元に戻る保証はありません。失ったままということもあります。ましてや死んでしまったら元も子もありません。背景に所謂「暗黒(ブラック)企業」に所属していたり、負債を抱えて稼がなければいけないとか、社会的成功を求めたり、自尊心のために働いている等、いろいろな事情があるとは思います。しかし、仕事で命を削る必要はありません。悪い環境にいるならば、離れれば良いだけです。身の丈に合わない暮らしを望んだり、世間体を気にして生きて身を滅ぼしたら本末転倒です。手前の場合は、ずっと『仕事=人生』と勘違いしておりました。「自分から仕事を取ったら何も残らない、仕事に全力を注ぐ事で人生は輝く」と本気で思っておりましたが、はっきり言ってこんなものは勘違い以外の何物でもありません。過労死寸前まで働いても何も残らず、心は満たされず却って心は渇き、心身ともにおかしくなるだけというのが手前の実感です。ちなみに会社勤めを辞めて、生き方をがらっと変えたら、「何だ、(辞めることが)こんな簡単なことだったのか。もっと早く辞めていれば良かった」とさえ思えました。

 

決心が定まり、最初の一歩を踏むまでが大変かもしれませんが、動き始めると意外と道は開けてくると感じます。また、個人的に、勤めを辞めてから山の景色、草木や花等の自然の美しさに目が行くようになりました。こういったものを見ているだけでも心が満たされるのだと初めて知りました。勤めていた時はまったく関心がなかったのですが、何故かそういったものに目が向くようになり、本当の意味で心の余裕とか、人間らしさを取り戻したのだと思います。「仕事=人生」が如何におかしいかについては、こちら(ユーチューブ)をご覧になってください。日本と海外の『無職に対する価値観』の違いが主題なのですが、日本人の労働観のおかしさを知るには役に立つと思います。こちら(ヤフーニュース)やこちら(オールアバウト)の記事も、日本人の労働観のおかしさに気付いて生き方を改める一助となると思います。決して働くだけが人生ではなく、いろいろな生き方があって当然であり、負荷がかかりすぎてきつかったら身を守るために転職するなり、休息を取るのは当然であることがもっと知られて然るべきだと思います。そして、ミカエル氏の記事の『世俗の労働は、創世記から分かるとおり、神に反逆した罪の結果もたらされたもので、そればかりに固執してたらあかんのが分からん人は滅びる。(引用:真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」)』の言葉にもはっとさせられました。確かに生きていくために世俗の労働で稼がなければいけない側面はありますが、それを人生の目的とせず、最低限に留めるべきです。その上で、神に認められる生き方へと切り替えるべきです。

 

(※以下の内容は超重要です)

 

神に認められる正しい人間になるには、洋服を着るのを即座にやめ、その他諸々の西洋かぶれをやめ、この世の偽りの権威に盲従するのもやめ、聖書を読み、神の律法を守り、憲法等の基礎知識も入れて知識武装し、賢くなり、悪人らの悪事を弾劾したり、獣の刻印を押されることのないように終生努力すべきです。

 

引用:真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」

 

ところで、こちら(In Deep)の記事に、現代人はスマホ等の媒体から得られる刺激(SNS等)に夢中になり、考える時間が無くなり、それによって様々な弊害が生じていると書かれております。それは『何もせずにボーッと考える時間』が無くなっているのが要因です。『とにかく、ボーッとしているときにこそ、いろいろな思考がうかびあがってくるのですね。これは、情報そのものなどより、はるかに貴重なことです。』と著者の実体験が書かれており、個人的には深く共感します。考える時間が無い要因には、世俗の労働で忙しくしたり、消耗しきって何もすることが出来ない状態が考えられます。他にも娯楽や快楽に夢中になり、ようやく出来た隙間の時間にさえずーっとスマホを触っている状態も該当すると思います。そのような状態では世の動向に目を配ることなど出来ず、深く考えることはおろか、近い将来どうなるのかさえ、想像力を働かせることも出来ない(しない)のではないかと思います。聖書を学ぶためにも一定の余裕は不可欠です。生活のために仕事をしなければいけない事情はありながらも、労働は最小限にして(疲れ過ぎず)、出来る限りまとまった時間を取り、本当に大事なことに使うべきです。個人的には、ただ単に集中するだけでなく、「ぼーっとしているようでも、ぼんやりと考えている間」がとても大事だと感じます。そんな時ほど、気付きや発想が得られると感じます。時間的余裕が無いと、「次、◯◯をしないといけない」と忙しくなって落ち着かず、それだと深く考えることが出来ないと感じます。各位の「信仰に適した生活の仕方」があるため、戦略的に信仰生活の様式を設計し、状況に合わせて整えると良いと考えます。

 

そして、今回も絶対に触れておきたいのが戦争と改憲の危機です。とかく高市政権は発足から碌な事をしません。

 

 

画像引用:https://x.com/Hanapan8723/status/1989563340830773581

 

目下、支那との間に緊張が走り、戦争前夜のような状態です。高市首相は国会で「存立危機事態」に言及し、違憲な集団的自衛権の行使をほのめかしました(参照:JB press)。それに対して、支那の大阪総領事が辛辣なSNS投稿を発信し(後に削除)、「敵国条項」にも言及し、非常に危険な兆候だと見受けます(参照:産経新聞)。根拠も無く「敵国条項は死文化している」と言う人々がいまだにおりますが、これが現実です。わざわざ相手に付け入る隙を与えるのは悪手です。

 

画像引用:https://x.com/asuno_jiyuu/status/1990326832370180471

 

その後、支那政府の態度も厳しいものになり、非常にまずい事態となっております(参照:JIJI.COM)。尚、これは支那に肩入れして言っている訳ではありません。こちら(真の聖書福音と預言「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」)のとおり、支那は日本に対して『兵器を使わない穏やかな侵略行為』を続けており、警戒すべき危険な国であるのは間違いありません。政府は、支那人らを国内に積極的に招き入れ、彼らが国内の土地資源等を買い漁ったり、繰り返される不法行為に正しい刑罰を下さず、国内秩序を乱すがままに放置して売国の限りを尽くしております(参照:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 二」)。それにも拘らず、(国内を滅茶苦茶にしておきながら)台湾問題には「防衛」を建前に強固な介入姿勢を見せるのは矛盾があります。高市首相のもっともらしい発言に惑わされてはなりません。その先にあるのは「日本滅亡」です。また、こちら(真の聖書福音と預言「日本人の消滅危機と生き様について」)のとおり、支那と米国は日本を潰すことで利害が一致し、裏では手を組んでおります。日本を戦争へと引きずり出してきた元凶である米国は『高市総理の答弁については評価を避ける(引用:TBS NEWS DIG』とここに来て曖昧な姿勢を見せており、そのまま日本政府に暴走させ、支那との戦争の最前線に日本を立たせて、自らは後方に下がっていく可能性があります。「日本が勝手にやった」と言い出しかねません。そうなれば多くの犠牲を出すのは日本です。悪の元締めであるイエズス会が作ったCSIS(戦略国際問題研究所)の一員であったジョセフ・ナイ氏(参照:コウの雑記帳)は、『米軍は戦争が進行するに従い、徐々に戦争から手を引き、日本の自衛隊と中国軍との戦争が中心となるように誘導する(引用:note)』とかねてから計画しておりました。

 

 

画像引用:https://x.com/R5AwBTkYZGGZ06y/status/1990677638269317541

 

日本の売国政治家は彼ら支配層の傀儡として、彼らの計画に則り、日本を滅ぼすための選択を敢えて遂行するため、止めなければ日本は今度こそ滅びます。

 

 

 

また、自民党総裁、首相になる前から緊急事態条項創設等、憲法改悪に執念を燃やしてきた高市氏は、今後も強引に推し進める危険が大いにあります。自由と人権が制限されないためにも、どんな危険を招くかをしっかり想像力を働かせて考え、大勢で抵抗していきましょう。

 

 

政治も憲法もすべて我が事であり他人事ではありません。もし、政府や報道機関の言う事を真に受けて、戦争や憲法改悪に賛成すれば後で必ずや 「まさかこれまでの生活が一変するとは思わなかった」「政府がここまで国民を苦しめるとは思わなかった」と後悔するでしょう。そうなってからでは遅いのです。国民の身を守るための最適解は憲法を遵守すること(戦争や改憲は絶対阻止)、政府の違憲行為や法令違反等(売国や国民を苦しめる政策等)に集団で猛抗議することです。

 

戦争は支配層の世界再編に利用され、新世界秩序の構築へと繋がるだけです。以下の記事、聖書の終末預言にある「終末の兆候」が多く見えてきておりますが、狼狽えずに備えていきましょう。

 

 

 

 

三、終わりから逆算して、今為すべき事を考える

最後に聖句に触れていきます。ヨハネの黙示録のみならず、旧約の預言には古代イスラエル王国、古代ユダ王国の滅亡のみならず、世の終わりを暗示していると思われる内容が数多くあります。預言書を見ていくと、他の聖書の箇所と重なり合う文脈が見出だせ、神はこの天地の終わりを明確に定めておられるとよく分かります。

 

今回はゼファニヤ書一章の箇所を見て参ります。ゼファニヤは古代ユダ王国の時代の預言者です。古代ユダ王国に迫った神の怒りの日について書かれており、「怒り」が臨むということは「相応の罰の対象となる民の悪い行い」があります。そこから、神が人に求めておられる「行動規範が有る」と明確に読み解けます。

 

 

ゼファニヤ書一章二節から十八節(参照)

 

(二節)我は地の面の上からすべてを取り除き、終わらせる。主の仰せ。

(三節)我は人も獣も滅ぼす。空の鳥も海の魚も滅ぼす。躓きの石を悪人と共に滅ぼす。我は地の面の上から人を絶つ。主の仰せ。

(四節)我はユダの上に、エルサレムに住むすべての者たちの上に我が手を伸ばす。我はこの所からバアルの残りを絶つ。ケマリムの名を司祭と共に絶つ。

(五節)屋上で各天の軍勢に平伏する者たちを、自分たちのモレクに誓いながら主にも誓い平伏す者たちを、

(六節)主に従ってから背を向ける者たちを、主を求めず、尋ねなかった者を絶つ。

(七節)我が主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近いからである。主に招かれた者たちを聖別して、主が献げものを備えたからである。

(八節)主の犠牲の日が来て、我は統治者と王の子ら、異邦人の服を着るすべての人たちに罰を下す。

(九節)その日に我は敷居の上を飛び越えるすべての者、彼らの主人の家を不正と背信で満たす者たちの上に罰を下す。

(十節)主の仰せ。この日が来る。魚の門から叫び声、第二地区から喚き声、丘から大きな崩壊の音がある。

(十一節)マクテシュに住む者たちよ、お前たちは叫べ。カナンのすべての民は絶たれ、銀をたくさん抱えたすべての人は滅ぼされたからである。

(十二節)この時に実現する。我は灯火でエルサレムを探し、自らの(ぶどう酒の)滓を溜め、「主は良い事も悪い事も為されない」と自分の心の内に言う人々の上に罰を下す。

(十三節)彼らの所有物は略奪品となり、彼らの家々は荒れ果てる。家々を建てるが住めない。ぶどうの木を植えるがそれらのぶどう酒を飲めない。

(十四節)大いなる主の日が近付く。それは非常に速やかに近付く。主の日の声、そこでは強い男の激しい叫び声がある。

(十五節)その日は憤怒の日。苦難と苦悩の日、破滅と荒廃の日、暗闇と災難の日、暗雲と陰鬱の日。

(十六節)城壁の町と高い塔に対する角笛と警告の日である。

(十七節)我は人を苦しめ、彼らは盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからである。彼らの血は塵のように流され、彼らの腑(はらわた)は糞のように流される。

(十八節)主の憤怒の日には彼らの銀も金も自分を救い出すことは出来ない。主の熱情の火で全地を焼き尽くす。主は確かに恐るべき破壊を地に住むすべての者たちに為される。

 

 

一)終末を想起させる言葉

◯ゼファニヤ書一章二節から三節

直接的にこの天地の終わりを言っておられると見受けます。ペトロの手紙二 三章十節から十二節の言葉どおりの事が起これば、『地の面の上から人を絶つ』という状態がそのまま実現すると思われます。非常に壮絶な光景ですが、マタイによる福音書二十四章二十九節から三十一節のとおりに、神によって選ばれ、正しさをまっとうして、かつ存命である真のキリスト者だけは携挙されるでしょう。尚、携挙については未だに「艱難期前携挙」などの偽りが流布されているため惑わされないようにしましょう。騙されないためにも、是非こちら(真の聖書福音と預言「携挙の真実」)をご覧ください。尚、ゼファニヤ書一章三節の「躓きの石」は罪を犯させる「偶像」を指し、罪(違犯)を誘発させる(躓かせる)ものです。物的なものから精神的なものまで多岐に渡るため、よくよく自己を検証なさってください。

 

二)律法に違反すれば罰は免れない

◯ゼファニヤ書一章四節

偶像崇拝者は滅ぼされると分かります。言うまでもなく聖書の神以外を崇拝することは禁忌です。『バアルの残り』と書かれているのは、歴代誌下三十四章で堕落した悪王マナセの後にヨシヤ王が主の目に適う正しい事を行い、偶像バアルの祭壇を壊しましたが、それ以降も尚も悔い改めなかった「残り」の人々が居たことを表していると思われます。また、『ケマリム』は偶像崇拝の祭司を指すようです。

 

◯ゼファニヤ書一章五節

『各天の軍勢』「星(天体)」を意味するようです。『軍勢』の名のとおりに「多数」の意味もあり、同じ原語が使われている申命記四章十九節でも「星(天体)」として用いられております。『平伏する』とは「崇拝」を意味し、行ってはならない行為です。そして、『モレク』は子供を生贄にする儀式で知られるおぞましき偶像です(参照:ウィキペディア)。コロナワクチンが始まった時、子供へのワクチン接種がモレク崇拝になぞらえられるとの投稿がSNS等で散見されました。無自覚にそのような悪行に加担していることを考えると、無知とは恐ろしいと思います。聖書と世の実態の双方を知って、律法違犯や悪への加担を避けるべきです。

 

◯ゼファニヤ書一章六節

『主に従ってから背を向ける者たち』は、マタイによる福音書十二章四十五節やペトロの手紙二 二章二十節で言われている「信仰の途中で脱落して堕落すれば、前よりも悪くなる」ことにも通じます。また、不信仰も罰の対象であるのは言うまでもありません。これらはすべて律法で「してはならない」と定められている「悪」です。律法は更新はされても廃止はされていないため、旧約の時代も現代も守らなければならず、罪を悔い改めなければ違犯に対して罰が下るのは当然です。

 

三)主イエスの言葉との一致

◯ゼファニヤ書一章七節

『主に招かれた者たちを聖別して』は言葉どおりに「神のお選び」を表していると思います。また、マタイによる福音書二十二章一節から十四節にある「婚宴」の例え話が想起されます。更に、『主が献げものを備えた』も同様であり、過去記事「御言葉の実行者となれ」でも触れた『神のお選びと初物』の関係にも通じると考えます。

 

四)異邦人の服の意味

◯ゼファニヤ書一章八節

『異邦人の服を着るすべての人たちに罰を下す』とは、真の聖書福音と預言「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」で解説されているとおり、『和服』以外の洋服等を指し、また、『服を行いに例えられ、悪い行い(律法違反の行い)をしているという裏の意味も含みます。』といった意味もあります。当該記事を今読み返しても、よくぞこの聖句から「和服(および、律法にある「房」)」を導き出されたと驚くほどの聖句読解と応用です。主イエスの「異邦人の道に行ってはいけない(マタイによる福音書十章五節参照)」の言葉や日本が真正イスラエルであること(参照:真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである)等を踏まえても、これ以外の解釈は無いと考えます。総じて、『日本人は、敵国人である英米人や支那人等の外国人に媚びへつらうのをやめ、西洋かぶれもやめて、不法行為(罪を犯すこと)をやめて、主イエスに立ち返られへんなら滅びるで。主イエスの信仰を持たず、神の律法を守らず、好き勝手にしてる人間の罪も非常に大きく、地獄の刑罰を免れると思うな。(引用:真の聖書福音と預言「地獄行きを甘く見るな」』の言葉をしかと受け止め、行いで示すべきです。

 

五)聖と汚れの区別

◯ゼファニヤ書一章九節

『敷居(の上を飛び越える)』の原語には「境界」「限界点」の意味があり、同じ原語はエゼキエル書九章三節や同十章四節等で「神殿の敷居」といった使い方がされております。歴代誌下二十三章十九節では神殿に汚れのある者は入らないように、また、エレミヤ書三十二章四節では神殿に偶像を置いて汚す事への言及があり、これらを踏まえると「聖と汚れの区別(レビ記十章十節参照)」を指していると思われます。よって『敷居の上を飛び越える』とは「善と悪の区別が出来ていない不信心な状態」を指すと考えます。

 

六)主の日の光景

◯ゼファニヤ書一章十節

この様相は紀元前五百八十七年頃とされる古代ユダ王国の首都エルサレム陥落において実現したと思われます。また、世の終わりにおいても人の住む所で同様の阿鼻叫喚の状態が起こると思われます。

 

◯ゼファニヤ書一章十一節

新共同訳で「商人たち」とされている箇所は、原語より主たる意味は『カナン』となっております。かつ「商人」の意味も確かにあり、更には「違法な取引をする」の意味もあります。それを踏まえ、『カナンのすべての民は絶たれ』とは「違法な取引をする商人は絶たれる」とも言えます。原語は異なりますが「商人」はヨハネの黙示録十八章でも言及されており、真の聖書福音と預言「黙示録十八章から分かる薬の危険性 前編」にて、『現代で言えば大企業、その経営者や会社の所有者たる大株主のこと』と解説されております。金儲けに直走るそれらが罰せられて「絶たれる」としたら辻褄は合うと考えます。また、『銀をたくさん抱えたすべての人』の「銀」は財産の比喩であり、『あんた方に確かに言うとく。金持ちが天の王国に入ることはほぼ無い。(マタイによる福音書十九章二十三節:引用 真の聖書福音と預言「救いに値する完全な者」)』の主イエスの御言葉とも一致すると考えます。

 

◯ゼファニヤ書一章十二節

『灯火でエルサレムを探し』とは、神の律法を遵守して神の目に適う人がいるかを探している状態を指すと考えます。『灯火』の原語は箴言六章二十三節でも使われ、「掟は灯火」と言われているとおりです。そして、『自らの(ぶどう酒の)滓を溜め』とは、『「主は良い事も悪い事も為されない」と自分の心の内に言う人々』との言葉が続くとおり「呑気な人々」を指すようです。神は罪を放置はせず、主イエスを信じて悔い改めない限り、必ずや罰を下されます。「何も為されない」と思うのは愚かと言うより他はありません。実質的にそのような人は不信仰なのだと思います。

この状況は『更に、ノアの時代のように、人の子の来臨もそのようであろう。大洪水の前の日々のように、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりしてるさかい。そして、大洪水が来て全員を滅ぼすまで、人々は分からへんかった。(マタイによる福音書二十四章三十七節から三十九節 引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」)』と主イエスが言われた状況とも酷似していると見受けます。

 

◯ゼファニヤ書一章十三節

『彼らの所有物は略奪品となり、彼らの家々は荒れ果てる。家々を建てるが住めない。』『お前は、盲人が暗闇の中で手探りするように、真昼に手探りし、自分の道で繁栄しないだろう。お前は常に虐げられ、略奪され、誰も救えない。(申命記二十八章二十九節参照)』を、『ぶどうの木を植えるがそれらのぶどう酒を飲めない。』『お前はぶどうの木を植えて働くが、そのぶどう酒を飲むことも、ぶどうを集めることも出来ない。虫がそれを食べるからだ。(申命記二十八章三十九節参照)』を、それぞれ律法違犯を改めないために呪いが臨んでいる状況や実を結ばない状態を指していると考えます。

 

◯ゼファニヤ書一章十四節

『強い男』でさえも叫び声を上げるほどの事態であり、ヨハネの黙示録六章十五節から十七節の世の終わりの状況にも重なると思います

 

◯ゼファニヤ書一章十五節

今節の言葉は、エゼキエル書三十四章十二節にある『暗雲と陰鬱の日』と同じ描写と思われ、『羊飼いが、散らされた自分の羊の中に居る時に、その群れを探し求めるように我は我が羊を探し、暗雲と陰鬱の日にそこから散らされたすべての場所から彼らを救う。』から、まさしく世の終わりの主の日(主イエスの来臨、携挙、天地の崩壊)を言っておられると思われます。

 

◯ゼファニヤ書一章十六節から十七節

前節と同様に、主に罪を犯して悔い改めない末路は凄惨な最期であることを描写していると思います。

 

◯ゼファニヤ書一章十八節

この世でどんなに繁栄しても、地位を得ても、財力も権力も神の怒りの前では塵に等しいと分かります。まさしく「敵対者を焼き尽くす裁きと激しい怒り(ヘブライ人への手紙十章二十七節参照)」だと思います。神は御自身の御計画を必ずや実現なされます。何を許容し、何を認めないのか、何が善であり、何が悪であるかはすべて聖書によって知らされております。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12939824473.html

真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」

 

上記の画像のように『全知全能の主なる神から逃げられる人間は一人もいない』ことをしかと覚えていただきたいです。その日になってから後悔しても遅いため、今、この時に、先延ばしせずに悔い改めに向かうことを切に願っております。主イエスが言われたとおり、悔い改めなければ滅ぶだけであり(ルカによる福音書十三章三節及び五節参照)、それは魂の滅びです。人生においての最大の失敗は地獄行きになること(参照:真の聖書福音と預言「成功するためには」)」です。前もって「失敗要件」「成功要件」が分かっているのですから、終わりから逆算して今為すべきことを為していきましょう。

 

 

 

 

四、結び

世の終わりがどうなるかが定まっているにも拘らず、世の現実や聖書真理から目を背けて、現実逃避するのは甚だ愚かです。世俗に忙殺されることも、世の諸教会に通って偽福音を信じて安心することも等しく無意味です。間もなく大艱難期を迎えようとしており、更には遠くない内にこの天地が滅びようとしているのに的外れも甚だしいとはこの事です。

 

旧約聖書に書かれている古代ユダ王国、古代イスラエル王国が何故、神の罰を受けて滅んでいったか、歴史に学ぶべきです。死に際になって気付いても手遅れです。その時になって信仰を持ちたいと思ったとしても、もはや悔い改めを証明する時間がありません。「その時」が来た時、誰でも振り返れば、「心身と時間の余裕を作る余地のある時に決心して行動すれば良かった」と思うはずです。聖書と世の動きを解説し、どう行いに反映すると良いかを教えてくれるミカエル氏の記事や動画等を我が事と受け取り、自らの最期や神の裁きにおいて、「やり切った」と確信を持って迎えられたら本当に幸いだと思います。その事を声の限りにお伝えしたいと思います。

 

律法を遵守し、品性を改め、福音伝道をし、慈愛ある活動をし、悔い改めを完成するのは一人では困難です。かつ主イエスは兄弟で愛し合うようにと命じられており、成長していくためには切磋琢磨する兄弟や御指導、ご鞭撻の数々が不可欠です。手前も同じ志を持った兄弟での励まし合いがどれほど支えになったか計り知れないと思います。兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった教会への入会を果たして、ぜひ共に歩みましょう。尚、これまであった「兄弟の集いの場」は廃止されております。更新された入会条件等をきちんとお読みになった上でご申請ください。

 

 

 

 

神の言葉に確信を持ち、世と人を見極め、後悔の無いように行動出来れば幸いです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

こんにちは。

今回は「実を結ぶための絶対条件」と題してお伝えしていきます。

 

 

 

 

(一)主イエスの教えは人の心を打つ

真の聖書福音と預言「実を結ばな滅ぶ」の記事はご覧になったでしょうか。いちじくの木にまつわる主イエスの言行の意味するものが何なのかを解き明かしておられ、主イエスの教えの深さに当時の人々と同様に手前も非常に心を打たれました。

 

主イエスがいちじくの木に『今後永久に誰もあんたの実を食べへんように(同記事より引用、以後の二重括弧は同記事引用)』と言われたのは不可解にも見えます。しかし、記事でも言われているとおり、聖書にこの話が書き残されている以上、必ず意味があるはずです。そして、『いちじくの木に芽が出てへんことから、ユダヤ人には今後見込みが一切無い、期待しないと断じはり、「今後永久に」と言われてることからも神による重い判決』であったとの解き明かしは、実に見事です。マルコによる十一章十三節は新共同訳では『実がなってはいないか』となっておりますが、原語からはミカエル氏の訳のとおり『何かあるか見付けようと』となるのが正しいです。敢えて「実」ではなく『何か』と言っておられることに大きな含みを感じます。いちじくが実る時期ではないことを前提にしつつも、「実」に至る兆しを探しておられたのだと思います。また、『葉』の原語には「発芽する」「(つぼみなどが)出る」の意味もあり、兆しを確認するためにも『それ故に芽を出してるかを確認しはった』となるのだと思いました。『主イエスがいちじくの木が葉を持ってる(即ち、枯れて死んでるのではなく生きてる)のを遠くから確認しはり、後に実を結んで収穫出来るものがあるかどうかの判断をしはるために、芽が出てるかを確認しはった』との解釈は実に的確です。また、一般的に「つぼみ」には『 (前途有望だが)まだ一人前でない年頃の者(引用:スーパー大辞林)』「芽」には『成長・発展しようとするもの(引用:スーパー大辞林)』の意味もありますが、そういったことも踏まえて主イエスが『芽を出してるかを確認しはった』ことを思うと非常に深い意味のある箇所だと思います。『主イエスが確認したかったんは、ユダの人々(いちじく)に芽が出るか、実を結ぶ可能性があるかどうか』『主イエスはユダから神の民がもっと出てくることを渇望してはった』『実際はユダの人々は葉を持つという外観だけ整えてるだけに過ぎず、中身が伴わず、救いに値する人になる兆候を示す芽が無かった』のご解説は、見事に主イエスの御心や目線を的確に捉えていると思いました。

 

更に、偽使徒パウロが旧南ユダ王国のユダヤ人の出身であり、主イエスのご処断の後に登場することから、『パウロなんかに従うことは、主イエスの御言葉に逆らうことを意味し、パウロ教信者は反キリストであるのは至極当然』との指摘にも度肝を抜かれました。後の出来事にも符合しております。ルカによる福音書十三章六節から九節との関連の解説も見事と言うより他はありません。

 

ルカによる福音書十三章六節から九節(参照)
 
イエスはこの譬えを話された。ある人がぶどう園に植えられたいちじくの木を所有し、そこに実を探すために来たが一つも見つけられなかった。すると園丁に言った。「見なさい、我が来て三年、このいちじくの木に実を探すものの一つも見つけられない。これを切り取りなさい。なぜ土地を塞ぐのか。」園丁は彼に答えて言った。「ご主人様、それを今年はその周りを掘って肥やしをやるまでそのままにしてください。もし本当に実を結ぶならば(それで良し)、もしそうでなければそれ故にぜひこれを切りましょう。」

 

ルカ十三章の「ある人」とは、父なる神であり、「園丁」は主イエスで、父なる神と会話して、主イエス直々の宣教活動でも三年間ユダの人々は実らへんのやから、ええ加減切り捨てよという御言葉があったのだろう。しかし、主イエスは来年まであと少しだけ待つようにと猶予を申し出た。主イエスの十字架刑は、春の過越祭という聖書暦の一月(正月)にあった訳で、即ち、新年に切り替わった時期や。せやから、その前年にこの話があったというのならピッタリと合致する。上記聖句で主イエスがいちじくの木を見限った御言葉を出しはったんは、十字架刑直前期であり、四年目になっても実がなるどころか実がなる前兆となる芽すら出てへんことを確認し、約束どおりの期間が経過したため切り倒しに踏み切ったのだろう。そして、これを単なる過去の話と思い、他人事に思うでないぞ。あんた方も同じで、信仰に入って三年経っても実らへんのなら、同じようになるという危機感を抱きなはれ。いつまでも神はのんびり待たはらへんで。

 

引用:真の聖書福音と預言「実を結ばな滅ぶ」

 

歴史的時間軸との一致からも、この例えの真実性が分かり、現代の我らに対しても神から「実を結ばない」と判断されないように、励むようにと警告されていると思います。

 

手前はかつては地上の教会に通っていたパウロ教徒でしたが、地上の教会ではこれほどまでの聖書の解き明かしと現実に応用するべきとの教えを聞いたことがありません。せいぜい地上の教会では、牧師が聖書を題材にして、もっともらしい聞こえの良い言葉を並べた説教を作り上げ、日曜礼拝に通う教会信者に「いい話だったな」「また来週も来よう」と地上の教会に通わせるための「釣り」として「良い気分」に浸らせるだけだったと思います。「教会信者に仕立て上げろ」と聖書の何処に書かれているでしょうか。悔い改めなければ人は滅ぶ(ルカによる福音書五章三十二節参照)にも拘らず、真剣に悔い改めに導こうとしていないと感じます。結局、手前は地上の教会では、生き方や行動を変えよう(もっと主イエスの目に適うように頑張ろう)と本気で思うような経験をすることはありませんでした。やはり人を本気の悔い改めに導くには、聖書(パウロ書簡を除く)に依拠して、真の聖書福音を語らなければならないのだとつくづく思います。

 

大事なのは、まずは自分自身が、主イエスという神の信仰を持ち、神の律法を鏡のように見て、違犯してる箇所を潰していき、罪を犯さぬように努めつつ、伝道活動をしたり、慈愛ある活動を自主的にする必要がある。それこそ真のキリスト者の姿です。

 

引用:真の聖書福音と預言「実を結ばな滅ぶ」

 

ミカエル氏のブログ記事は聖書に依拠しており、断じてミカエル氏個人が勝手に言い始めたことではありません。中にはそのように勘違いして中傷する人がおりますが大きな間違いです。世の諸教会、神学が間違っており(参照:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)、彼らこそ大きく外れているにも拘らず、自分たちが正しいと勘違いしているだけです。くれぐれも滅びに至る多数派(偽福音)に躓かないようにお気を付け下さい。そうでなければ、最後に主イエスから拒絶されて(マタイによる福音書七章二十三節参照)滅びに至るでしょう。

 

(二)当座は辛くても悔い改めれば喜びが来る

真の聖書福音と預言「実を結ばな滅ぶ」の記事でも言われているように、主イエスのご処断からユダヤ人は救いの希望無しとなりました。しかし、『旧北イスラエル王国の古代イスラエル人』、その末裔がいる現代日本人の一部(参照:真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである)はその限りではありません。世の終わり(現在)であっても真の聖書福音を聞いて、主イエスに罪の赦しを乞うて悔い改める機会が与えられている恵みに気付き、行動出来れば大変幸いです。

 

ただ、信仰は神のお招きが最初にあり、次いで招かれた各位が応じるかどうかに懸かっております(参照:真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)。信仰は強いられて持つものではなく、自発的なものです。また、軽い気持ちでは長続きしません。招かれる人は多くても選ばれる人は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)のは事実です。その上で、『信仰によって神の律法を遵守して慈愛に基づくええ行いを現世で行った人間だけを義人と主イエスは認定し、その超少数の人間だけを救い、天国に集める(引用:真の聖書福音と預言「選ばれへん人は神の御言葉を理解しない」)』と聖書から読み解けます。

 

個人的な話ですが、数年前には自分が真のキリスト者を目指して、大きく生き方を変えることになろうとは到底、想像出来ませんでした。

 

人は、ある程度の年数を生きていると様々な経験をしていると思います。年齢だけで、同い年の間で比較して、良い意味でも悪い意味でも同じ年数を経たと思えないとか、かなりの年上でも大したことがない等思うことがあると思います。

しかし、人それぞれ違う人生を歩んでおり、そこに優劣はありません。それは神がそれぞれその人に合った人生を歩ませておられるからです。

 

引用:真の聖書福音と預言「人生の過去と主イエスに従う覚悟」

 

上記のとおり、神はその人に合った人生の歩みを与えられております。人生のどの段階で聖書の本物の神と出会い、心を打たれ、いつキリスト道に入るかは分かりません。しかし、少しでも神の言葉に心を打たれたなら、頑なにならず幼子のように素直に応じるのが良いと思います。手前は人生に行き詰まり、ミカエル氏のブログに出会い、真の聖書福音を知り、「自分が信じてきたもの、生き方が間違っていた」とこれまでの数十年の人生に対する痛切な強い後悔を抱き、「今、行動しなければ、このままでは、後悔したまま生涯を終える」と本気で思えて行動するに至りました。振り返れば、ある程度に人生経験を積んで行き詰まる経験が手前には不可欠だったかもしれないと思います。それが手前に与えられた神からの招きの御計画だったのだろうと思います。故に、不信仰な世俗の価値観が挫かれて心が折れるとは、大変重要な過程に思えてなりません。世俗の価値観をずっと信じて生きてきて、そこで躓くのは確かにその時は大変辛いかもしれません。しかし、そこで真の聖書福音に出会い、正しい道に向かう契機となるならば、それは大変幸いなことです。

 

こちら(はてラボ)に『煽りじゃなくて40代の男性は何のために生きているのか教えてほしい』との投稿が載っております。おそらくは投稿者は予測される将来を見据えて疑問に感じているため、真剣に訊いてると思われます。毎日仕事で嫌な思いをして、時間の殆どを労働に費やし、家に帰れば家事育児があり、心身共に疲れて、そんな時に「何のために生きているのか」と思うのは当然だと思います。本心では「おかしい」と気付いているからこそ、そうではない本当の「生きる意味」を欲するのだと思います。そもそも世俗だけを見て「生きる意味」を考えても見つけられないと思います。その内、日々の生活に忙殺されて、折角に芽生えた大切な「問い」すら忘れてしまうのが関の山ではないかと思います。

 

人生の意味を正しく捉えるには、聖書に拠って死後の永遠を見据えること(信仰に基づく聖書の知識)が不可欠です。それ無くしては「生きている間をより良く生きればそれで良い」と勘違いしたり、あるいは、宗教等の偶像に騙される場合が多いと思います。ちなみに地上の教会信者だった時分、一応、「聖書を知っていた」程度の手前では「生きている意味」は、はっきり言って見出だせませんでした。この世全体が悪しきものの支配下にあること(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)も知らず、真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」から「日本人の問題点 五」等で言われているように、支配層らによって作られた悪しき社会構造、日本の凋落の背景に不信仰と律法違犯による呪いが臨んでいることも知らず、ただただ無為に翻弄されていたと思います。生きるのが苦しくて堪らなくて、「早くこんな世が終わって欲しい」と思っておりました。「もし主イエスを信じて、既に救われたと言うのならば、もはや残りの生涯を嫌々生きる意味はないのではないか」とさえ思っておりました。しかもそれを周囲には悟られてはいけないと見栄を張っていたので余計に辛かったです。「こんなことを感じてしまう自分はおかしいのだろうか」と思うと、なかなか人にも相談出来ませんでした。

 

地上の教会で聞く偽福音は、中身自体も間違っていますが、観念的に偽福音を信じれば万事それで良しと思考停止させ、聖書を基に世の動向を見据える訳でもなく(そのままでは獣の刻印を押されることになる)、律法に基づいて誤りを正すでもなく(真の問題解決にならない)、現実逃避的な机上の論理ばかりだったと思います。その点、ミカエル氏のブログは、聖書に基づいて、キリスト者としての生き方のみならず、現実的な生活設計や世の問題への対処方法にまでも言及しており、真の聖書福音に基づいて、生きる意味や目的を教え、希望の置き所や今何をするべきかの目標と課題を提示してくれることが非常に画期的でした。他では聞いたことがないほどの内容を無償で提供しており、慈愛が無ければ、決してここまでやれません。そして、自分で聖書を調べるようになって、それが聖書に基づいたものであるとよく分かりました。聖書を詳らかに調べるほどに「何だ、必要なことは十分に聖書に書いてあるじゃないか。それにも拘らず、目を通しながらまったく見えていなかったのだ…」と何度も打ちのめされました。同時に、深く感銘を受け、「このままじゃいけない」と思いました(※感銘を受けるだけでは駄目で、学んで実践することが重要で、その過程において成長していきます)。こういった事からも、ミカエル氏があくまで聖書に依拠して、矛盾なく、分かりやすく解説してくださっていることを読者にはぜひご理解いただきたいです。世の諸教会に行っても救いはありません。以下は手前の経験を踏まえた「世の諸教会よりミカエル氏のブログを選ぶ理由」です。よろしければご覧ください。

 

 

所変わって、こちら(読売新聞)では、四十代の方が目指していた職種で花開くことが叶わず、見切りをつけたものの無職となり、独り身の状態に対して『何者にもなれなかった・・・希望も期待もありません』と嘆いております。仕事や家庭に時間を奪われて、拘束される苦痛もあれば、「自分が何者にもなれなかった」と嘆く現実もあります。手前も「自分の就きたい理想の職業を見つけ、そこで活躍し、自己実現を果たそう。そうすれば自分の人生に意味を持たせられる。」と思って生きてきました。しかし、理想が必ず見つかるとは限らず、見つけたとしても活躍の場や機会も必ず有る訳ではありません。以前、「勝ち組、負け組」という言葉があり、実に嫌な言葉だと思いつつ、心のどこかでは「勝ち組にはならなくてもいいけれど、負け組にはなりたくない。せめて、そこそこの位置には着いていたい」と卑しい思いを抱いていたことがあります。何をもって「勝ち」「負け」と言えるかも曖昧なまま、訳の分からない競争に駆られ、不必要な敗北感を植え付けられた人は多いと思います。稼ぎや社会的地位や名声といったもので序列をつければ、相対的に圧倒的多数が「敗者」と看做されかねません。「勝者」とされた者とて、その地位が永続する保証はどこにもありません。やがて「上手くいかなかった」と敗北感を感じ、また、そこそこ上手くいったかのように見えても疲弊し、将来は不安に苛まれ、大勢が絶望を味わう状況に陥っております。そんな構造や生き方はおかしく、聖書に照らしても間違っております。

 

過去記事で何度か触れましたが、中年の危機(参照:ライフトピ)と言われる中年期の心理的な揺らぎや葛藤が生じる現象があります。中年(四十代から五十代前半)となると若い頃よりは物事が見渡せるようになると思います。それは結構なのですが、逆に見たくないものも見えてきます。あんなに仕事や家庭等の世事に励んだにも拘らず、「何も残っていない」「満たされずに空虚だ」と気付くのではないでしょうか。そうなれば「自分の人生、このままでいいのか」「自分の人生って何だったのだろう」と揺らぐのは当然だと思います。過去の歩みが正しかったと確信が有るのであれば、そもそも迷わないと思います。心の何処かでは「何かがおかしい、間違っているような気がする」と思っているからではないでしょうか。しかし、それに対して世俗社会が言えることはせいぜい「(自分の歩みを)見つめ直して新しい意味付けをして、これまでの人生を肯定する」「考え過ぎないようにして気晴らしを図る」等、的外れな対処ばかりではないかと思います。「世俗」という文脈だけからでは、どんなに考えても間違った結論しか見出だせません。人生に正しく意味を教えてくれるのは聖書真理だけです。神を一番目に据えられた時に初めて、それ以外を、世俗的事柄を無益に追求する間違った生き方をやめることが出来るようになります。

 

人は、過去に経験した成功や失敗を振り返ることが多々あるかと思います。特に、あなたが、現在、思うように物事が行かないと、過去の成功体験や過去の栄光を思い出し、昔はこうだったとかを自慢したり、それを誇りにして高慢になり、他人を見下す態度を取ってはいないでしょうか。有名な学校を卒業したとか、何かで表彰されたとか、難関資格を取ったとか、社会的地位から偉そうに振る舞ったり、そのような事柄を鼻にかけている人たちは不幸です。そのような人は、これからも変わらない限り、死ぬまでその調子でしょう。結局、死ぬ間際になって、自分は大した人生を送ってこなかったことが身にしみて分かり、後悔するのです。

たとえ、現在、万事上手く行っていても、それが永続するものだと高を括って高慢になり、他人と比較して自分は優れていると勘違いし、最後には悪夢を見るということもあります。そのような人も不幸です。

若しくは、一度も成功体験が無く、惨めな思いを抱えて長年生きている人もいるかもしれません。そのような人は、この世に希望を見出せず、何をしても上手くいかないから生きている意味すら考えられなくなって絶望する人もいるでしょう。その人は、自暴自棄になってはいけません。そこを制御できるか否かでも変わってくるからです。その人は、希望を見出す対象を間違えているから不幸だと決めつけているのです。この世で上手くいくこと、成功することが幸せなのだという妄想のせいです。

 

引用:真の聖書福音と預言「人生の過去と主イエスに従う覚悟」

 

個人的には上記の言葉に助けられました。「この世の人生がすべて」と思う視座では、「この世の成功」を追わざるを得なくなります。そして、「躓いて損をすることは忌むべき事」と思うでしょう。しかし、真実はそうではありません。

 

そのような人(※世俗に夢中になる人々)はこのような世の悪さから目を背け、聖書という真理の書物からも目を背ける現実逃避者です。有名大学に入って、国家資格等の取得を目指すか、出来る限り良い社会的地位を得るために他の重要なことは一切捨てて、虚しい人生を歩み、死んだら何も残らないことを老後や死に際になってようやく気付く者もいれば、一生気付かないで死んで神の御前で裁きを受ける時に気付く者が多いでしょうが、それでは取り返しはつきません。人は死んだら終わりで、地上で生きていた時の行いに応じてその報いを受け、運命を決するからです。

 

引用:真の聖書福音と預言「コロナ茶番を契機に目覚めよ」

 

『地上で生きていた時の行いに応じてその報いを受け、運命を決する』の箇所が重要です。パウロ教徒ら(カトリック、プロテスタント、正教会等)は、律法は廃止されたと言い、「律法を遵守出来ない無力な者であることを受け入れて、主イエスに罪の赦し乞い、信じれば救われる」と言います。しかし、そのようなことはパウロ書簡以外には書かれておりません。厳密に言えば、パウロは律法遵守を口にしたり、守らなくても良いと言ったり、非常にたちの悪いことを言っております(参照:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)。旧約聖書の預言書を見れば、各自の行いに応じて神は報いると何度も書かれており、新約聖書の終末預言たるヨハネの黙示録にも同様に書かれており、一貫しております。故に偽福音は、悪しき世への不服従を教えず、一番大事な「生きている間に真に何を為すべきか」も教えません。せいぜい「主イエスを信じ、(地上の)教会に通いなさい」という程度です。

 

これまでの世俗的生き方に疑問を感じ、本当のことを知りたいと思うのなら、忙殺されている環境から一旦離れ、時間をとって聖書をお読みになることを勧めます。同時にミカエル氏の「真の聖書福音と預言」のブログや動画等が、聖書や世の動向を理解する上で必ずや役に立つでしょう。真の成功は、この世での成功ではなく、真のキリスト者となって死後の永遠に神から良き報いをいただくことにあります。世に躓いたなら真の聖書福音と預言「成功するためには」の記事もぜひお読み下さい。正しい行いが伴えば、『死に際に「やってて良かった」と思える(上記記事引用)』ようになるでしょう。また、聖書を読んだり、ミカエル氏の記事を読むにも、自分に向き合うにも時間的余裕や体力的、精神的余裕も不可欠です。主イエスの「種を蒔く人」の例えのとおり、世の煩いが多くては生育が阻害されます。真の聖書福音と預言「もっと気楽に生きよう」にもあるように、まずはゆとりを持つ環境を整える事を勧めます。特に、今、忙殺されて立ち止まる余裕も無くているのならば、まずはご自身を労る間を作り、どう環境を整えていったら良いかの作戦を練っていきましょう。そういった土台(基礎)があってこその信仰生活です。信仰が確かであれば、やがて「あの時に改心出来て本当に良かった」と思うようになるでしょう。

 

(三)神の言葉に確信を持つ

毎回申し上げている事ですが、今は世の終わりの艱難期です。聖書にも世の終わりには主イエスが来臨し、悪人ごと今の天と地を滅ぼし、主イエスに忠実な者は救い出すと書いてあります。そして、有罪判決を受けた者は永遠の滅びに入り、無罪判決を受けた者は永遠の命を授かり、神の王国に入らせていただく事が出来ます。聖書を通して神は、人に何が善で主が何を求めておられるかは告げておられます(ミカ書六章八節参照)。故に、時が迫っているのに世俗に忙しくして聖書を読む余裕も無い状態になったり、聖書に反抗して現実逃避している場合でもありません。個人的に、神の言葉に確信を持つほどに「行動せずにはいられない」「悔い改めを完成せずにはいられない」と強い動機付けを生むと感じます。強い動機付けを生むためにも神の言葉に確信を持つことが不可欠なのは間違いありません。手前は終末に関わる聖書の預言等を見れば見るほど、決して遠い事ではなく現実の事を言われているのだとひしひしと感じ、聖書の預言は我が事として受け止めるべきだと常々思います。

 

今回はミカ書七章一節から二十節を調べた内容を共有させていただきます。結論としては「聖書に一貫する真理」が当該箇所からも確認出来ました。ミカ書の預言は古代イスラエル王国と古代ユダ王国に向けられており、圧政や悪事等の罪の告発、神の刑罰が臨む事、やがて神が御自身の民を統治されること等が書かれております。両国の堕落はかつて起きた出来事ではありますが、歴史は繰り返すのとおりに現代も同じような状況が起きております。また、神が選ばれた民を統治する様相が実現するのはこれから起こる事であり、「過去の事」だと思って軽く受け止めるべきではありません。

 

 

ミカ書七章一節から二十節(参照)

 

(一節)我には悲しいかな。我は夏の果物を集める者のように収穫期のぶどう摘みのようになったからである。(そこには)食べるためのぶどうの房が育たず、我が心が切望した初物のいちじくも育たない。

(二節)信心深い人は地から居なくなり、人の中から真っ直ぐな人は誰も居なくなった。彼らは皆、血を流すために待ち伏せる。各々その同胞を網で捕らえる。

(三節)両手は悪に熱心となり、役人も判決を下す者も報酬を求める。地位の高い者は欲望を語り、その意志を織り合わせる。

(四節)彼らの最善の者は茨のようであり、真っ直ぐな者は茨の垣根よりも悪い。お前の見張りの日、お前の天罰の日がやって来た。この時、彼らの混乱の日となるだろう。

(五節)お前たちは友人を信じるな、親しい人を信頼するな。お前たちの懐に横たわる者からお前の口の戸を守れ。

(六節)息子は父を軽蔑し、娘はその母に、義理の娘はその義理の母に背き、人の敵はその家の者たちとなるからである。

(七節)我は主を注視し、我が救いの神を待望する。我が神は我に耳を傾けてくださる。

(八節)我が敵よ、お前たちは我がために喜ぶな。たとえ我が衰えても、我は立ち上がった。たとえ我が暗闇に座そうとも主は我が光となられる。

(九節)我は主に罪を犯したので我が訴えを主が認め、我への裁きを為されるまで主の憤怒を忍ぶ。主は我を光へ至らせ、我は主の正義を見る。

(十節)我が敵は見た。「お前の神は何処に居るのか」と我に言う者に恥が自らを覆ったのを。我が目はこのように見る。直ちに敵は通りの泥のように踏みつけられるようになる。

(十一節)お前の壁が修復する日、その日は境界が広がる日である。

(十二節)その日、お前の所にアッシリアから要塞の町々まで、要塞から川まで、海から海まで、山から山まで人が来る。

(十三節)地は荒廃する。そこに住む者たちの故に、彼らの行いの実によって。

(十四節)あなたの民をあなたの杖によって養ってください。あなたの所有の群れを。彼らはカルメルの森の中で離れて草を食べる。古の日のようにバシャンとギレアデで草を食べる。

(十五節)お前のエジプトの地から出ていった日々のように、我は彼に驚くべき事を示す。

(十六節)国々の民は見て、すべてのそれらの力の故に青ざめて、口に手を当て、彼らの耳は聞こえなくなる。

(十七節)彼らは蛇のように塵を舐める。地を這う者のように彼らの穴から移動し、我らの神である主におののき、あなたの故に畏れる。

(十八節)あなたのような神が(他に)何処にいるだろうか。残りの神の民の罪を取り除き、違犯を赦される神が。神はその怒りを永遠に保ち続けない。神は慈愛を喜んだからである。

(十九節)神は再び応じてくださり、我らを憐れまれ、我らの咎を踏み付けて彼らの罪のすべてを海へ投げ捨てる。

(二十節)あなたは古の日々から真理をヤコブに、我らが父祖であるアブラハムに慈愛をお与えになる。

 

◯夏の果物の収穫が意味するもの(ミカ書七章一節から三節)

 

ミカ書七章一節の「夏の果物」は、同じ原語がアモス書八章一節から二節でも用いられており、「夏の果物」に対して「終わりがイスラエルの我が民に来た。我はもう二度と彼らを見逃さない(アモス書一章二節参照)」と言われていることやアモス書八章全体の内容からも、実の有無(行いの結果)に対して、神が御判断を下される裁きとその時期を象徴していると考えられます。また、『いちじくの収穫時期は聖書暦四月(太陽暦七月)から七月(太陽暦十月)(引用:真の聖書福音と預言「実を結ばな滅ぶ」)』、ぶどうも同様の時期であり(厳密には夏から秋にかけてではあるものの)「いちじく」と「ぶどう」「夏の果物」を指すと考えます。そして、同記事でも言われているとおりに『いちじくはユダ(南のユダ王国の人々)』『イスラエル(古代イスラエル人とその末裔たる日本人の一部)』を指し、今節でも碌に収穫出来なかったことから『エレミヤ書八章十三節に、集める事を終える(収穫を終える)、ぶどうの木にぶどうの実が無い、いちじくの木にいちじくの実が無い、葉は萎れ、主が彼らに与えたものは消え去ったと書かれてること』にも関連すると思います。更に、エレミヤ書八章二十節に「収穫期は過ぎ、夏は終わった。しかし、我らは救われなかった(参照)」とあり、神から不完全(実を結んでない)と看做された結果を同じように言われていると考えます。

 

尚、マタイによる福音書十三章三十九節やヨハネの黙示録十四章十八節では「世の終わり」「刈り入れ(収穫)の時」になぞらえており、ミカ書七章一節の実っていない状況は『主イエスの「人の子が来て、地上に忠誠を見出だすであろうか。」(ルカ十八章八節拙訳)という御言葉が実現する。これはキリストの再臨がある時代は、主イエスの御言葉を守り、神の律法、掟、戒めを守って神に忠誠を尽くしてる人が稀少で、地上の殆どの人間たちは不信仰、またはにわか信者で忠誠とは言えへん人が多いという予告や。(引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)』にも通じると考えます。かつ、これはミカ書七章二節にも通じる内容であり、律法違犯(不法)が横行して、正義や慈愛が蔑ろにされて人々の愛が冷えている終末(現在)の様相(マタイによる福音書二十四章十二節参照)にも通じると考えます。「同胞を網で捕らえる」からは『将来もし憲法を改悪されたら、戦前戦中のような密告社会になるやろし、余計に他人を信用しにくくなるだろうし、血縁関係にある家族や親族すらも信用でけへんようになろう。(引用:真の聖書福音と預言「キリスト者と迎え入れる人が弁える事」)』という事態が想起されます。ミカ書七章三節の役人(公務員)や判決を下す者(判事)、地位の高い者(官僚等)の悪事等は『真の聖書福音と預言「日本人の問題点 四」』に書かれている内容(正当な判決を下す判事が殺害され、行政に忖度した不当判決を出す判事が出世していくこと等)がそのまま現代にも当てはまります。更に、新共同訳では「彼らはそれを包み隠す」となっておりますが原語からは「その意志を織り合わせる」となると考えます。ここでの「意志」とは悪意や欲望であり、現代でも彼らは悪を隠そうともせず開き直っております。「織り合わせる」の原語には「堕落させる」「悪用する」の意味もあり、まさに捻じ曲がった悪意を象徴していると思います。

 

◯神の目に適う善でなければ意味がない(ミカ書七章四節)

 

ミカ書七章四節の「彼らの最善の者は茨のようであり、真っ直ぐな者は茨の垣根よりも悪い」から、「お前たちは彼らを実によって見分けるようになる。茨からぶどうを集め、あざみからいちじくを集めるだろうか。(マタイによる福音書七章十六節参照)」と主イエスが言われたとおり、悪人が実を結ぶことはありません。民の内、「最善の者」と言っても、それでも「茨」でしかないことから、せいぜい「ましな者」程度でしかなく、実質的には悪い状態にあります。

 

現時点で「最善の者は茨のよう」とは何を指し得るでしょうか。律法を軽視するパウロ教徒が真っ先に思い浮かびます。彼らは聖書の存在を知り、主イエスを信じております。しかし、神の律法を守らず、主イエスの教えに反していることから反キリストです。聖書をまったく知らない、信じない者よりはましに見えるかもしれませんが、有罪判決は不可避であり、ヘブライ人への手紙六章八節に書かれているように茨の末路は滅びです。また、「ワクチン」を例に考えてみます。今や国民の殆どがワクチン接種を受け、情けないことに未だに偽感染症騒動を妄信し翻弄され続けております。その『ワクチンは人間の遺伝子組み換えであり、神の創造を否定する行いで、接種者を自然人でなくさせて悪魔と悪魔崇拝者の支配層の所有物と化す(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)』であることから、到底神に受け入れられるものではありません。そして、そのワクチンを接種せずに忌避した者とて、その中で信仰を持つ者は殆ど居ないと思われ、「最善の者は茨のよう」と言えると思います。

 

そして、一度ワクチンを忌避した所で更なる獣の秩序の強要が続きます。更なる偽感染症騒動が予告されているばかりか、こちら(In Deep)のとおり世界的にデジタルID(個人番号)の義務化が進んでおります。こちら(メモ・独り言のblog)にもあるように、中央銀行電子通貨や社会信用得点制度と関連付けられて一体化することで、ヨハネの黙示録十三章にある物理的な獣の刻印が現実のものとなりつつあります。日本では個人番号券の取得はまだ任意ですが、所有率が上がれば「義務化したも同然」と看做される危険があるため、個人番号券は所有するべきではなく、持ってしまった方は返納するなり同制度を受け入れないようにしましょう。特に憲法が改悪されると、「個人番号券の義務化」に踏み切られる危険があるため憲法改悪にも引き続き抵抗しましょう。

 

ところで英国ではデジタルIDの義務化に対して、政府への義務化撤回の嘆願書が百万人分も集めたようです(参照:ハテナブログ)。しかし、実際には無視されることが多いようで、やはり大規模の猛抗議が実際に行われないと(参照:さてはてメモ帳 Imagine & Think!)、政府にとっては痛くも痒くもないのだろうと思われます。日本も同様であり、行政も司法も腐敗して役に立たない状況であれば、残された手段は国民が猛抗議する道しか残されておりません。政府に物申すのは主権者として正当な行為であると覚え、悪徳政府らの悪行に大勢で猛抗議していきましょう。尚、「獣の刻印とはこないな獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印(引用:キリスト道 本拠)」であるため、世の動きを詳しく知ること、かつ、悪魔崇拝者らに抵抗して最期まで悪になびかないためにも真の信仰が不可欠です。主イエスへの行いを伴った本物の信仰が無ければ、獣の刻印を退けるのは困難だと思います。なぜならば、従わなければ殺されるからです。遠く無い内に終わりを迎えるこの世ではなく、死に至るまで神に忠実となり、死後の永遠を神と共に過ごすことに希望を置いていきましょう。

 

更に、「お前の見張りの日、お前の天罰の日がやって来た」について、『せやから、目を覚ましていなはれ。何刻、あんた方の主が来るのか、あんた方は知らへんさかい。しかし、このことをあんた方は理解しとる。もし家主が泥棒はどの見張りに来るかを知っとったら、目を覚ましていて、自分の家に押し入らせへんやろう。せやから、あんた方も用意していなはれ。思いがけへん時に人の子は来るさかい。(マタイによる福音書二十四章四十二節から四十四節 引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」』の終末の様相にも通じると思います。大艱難を経るため主イエスの来臨まで生きていられる保証は無く、自身の命もいつ終わるか分からないため(ヤコブの手紙四章十四節参照)、悔い改めを完成させるべく常に励み、備えておくのが賢明だと思います。

 

◯主イエスの言葉と同じ(ミカ書七章五節から八節)

 

ミカ書七章五節から六節については、主イエスが仰った内容と同じだと思われます。こちらについては真の聖書福音と預言「畏れるべき者」をぜひご参照ください。信仰が有る者と無い者とでは考え方も行動もまったく異なります。不信仰者と聖書の価値観を共有することはままならず、むしろ不信仰者が信仰の有る者を売り渡す事態がやがてやって来るだろうと考えられます。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12858808566.html

     (真の聖書福音と預言「畏れるべき者」)

 

親しい人、家族が敵となるのは非常に辛く苦しい事ですが、それでも尚、信仰をまっとうし、不信仰な人々に巻き込まれて無用に滅んだり、堕落させられる事の無いように気を付けねばなりません。ミカ書七章七節から八節は、苦難の中でも神に従い、受忍することを言われていると思います。

 

◯悔い改めなければ罰は免れない(ミカ書七章九節から十節)

 

ミカ書七章九節について、古代イスラエルも古代ユダも、国全体の腐敗に対して、神の怒りの刑罰が臨んで国が滅ぼされており、その事を指していると思われます。現代日本もまた甚だしい不正義(憲法違反や法令違反)等の横行や国民の正義心の欠如、品性の低下、人々の不信仰も相まって律法違犯の呪いが臨んでいることからも、現代日本(真正イスラエル)もまた神の激しい怒りを免れない状態に瀕していると思います。神の寵愛を受けた契約の民であるからこそ、背きには強い怒りの罰を受けることになるでしょう。そして、日本の凋落を悪魔崇拝の支配層やそれらに属する悪人は高笑いするやもしれません。しかし、その彼らの栄華は永続せず、「踏みつけられるようになる」とミカ書七章十節にて言われております。

 

◯主イエスに関する予告(ミカ書七章十一節から十四節)

 

ミカ書七章十一節について、「境界(が広がる)」とは、その原語から預言者ミカの時代より後に「神の法(が広がる)」ことを予告しており、ミカ書七章十二節にイスラエル(ユダヤ)に異邦の地域から大勢が来る様から、『イスラエル(ユダヤ人)を選民とすることをやめられ、神の御子である主イエス・キリストが、罪の贖い方を変え、多種多様な異邦人をも天の御国に招かれることをなさった(引用:真の聖書福音と預言「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」)』ことを指すと考えられます。しかしながら、だからと言って契約の民との契約が破棄されたわけではなく、血統イスラエル人を特別視していること(優先順位)に変わりはありません。『異邦人(血統イスラエル人以外)は、主イエスの信仰を持ち、かつ、その分を弁えて謙虚でいれば、救われる可能性がある(引用:真の聖書福音と預言「救いの序列と弁える謙虚さ」)』ことを弁える必要があります。そして、現状、パウロ教徒の異邦人は多くても神の律法を遵守する者は殆どいないと思います。その事がミカ書七章十三節にも表れております。また、主イエスとの新しい契約についてはこちら(真の聖書福音と預言 【第三回】新しい契約)で学べます。

 

画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12898194423.html

     (真の聖書福音と預言「救いの序列と弁える謙虚さ」)

 

ミカ書七章十四節にある「(あなたの)杖」とは「羊飼いの道具」であり、羊を集めたり数えたりするのに用いられるようです。「あなたの民をあなたの杖によって養ってください。あなたの所有の群れを。」とは、ヨハネによる福音書十章も踏まえて、主イエスしか該当しないと思われます。また、カルメル、バシャン、ギレアデは肥沃な土地の比喩のようであり、そこの「草を食べる」とは、前回記事(「真の希望が欲しいのならば」)でも触れたように「神の言葉(真の聖書福音)」を受け入れている状態を指すと思います。しかも「森の中に離れて」とあるのは、世の多数派の偽福音とは一線を画していることを指していると考えられます。

 

◯終末の様相か(ミカ書七章十五節から十七節)

 

ミカ書七章十五節から十六節について、国々の民が青ざめるほどの驚くべき事とは、手前はその一つにヨハネの黙示録十一章にある終末の「二人の証人」があるのではないかと考えます。「もし誰かが彼らを傷つけようとするなら、彼らの口から火が出て、彼らの敵を焼き尽くす。もし誰かが彼らを傷つけようとするなら、このようにその者は殺されることになる。これらの者たちは、彼らの預言の時には雨が降らないように天を閉じる力を持っている。また、水を血に変え、あらゆる災害で何度でも地を打つ力を持っている。(ヨハネの黙示録十一章五節から六節参照)」のとおりに彼らの不思議な業について書かれており、十分に「驚くべき事」に値すると思います。彼らは一匹の獣に殺されますが、三日半経って復活し、それを見た人々は非常に恐れた(ヨハネの黙示録十一章十一節参照)とあり、場面の描写としては近似していると思います。また、諸国の民は二人の証人によって苦しめられた(ヨハネの黙示録十一章十節参照)とあることから、諸国の民の不義を告発したと思われます。そして、二人の証人が一度は亡くなり、悔い改めない諸国の民が喜んだのも束の間です。ミカ書七章十七節では彼らはおののき、蛇のように塵を舐め(屈辱の比喩)、地を這う者のように穴から移動するようになる(恐れて隠れるため)と書かれております。それはヨハネの黙示録六章十六節にある天と地が滅ぼされる局面で、神の怒りから避けるべく穴や山の岩陰に身を隠した描写にも重なります。また、雲に乗って来臨した主イエスをすべての人が目撃して泣き叫ぶ(ヨハネの黙示録一章七節参照)とあることから、聖書が真実だと思い知らされ、諸国の民が告発されたとおり、神の刑罰を免れないと認識して、青ざめる事態が終末預言より導き出されます。

 

◯真の希望(ミカ書七章十八節から二十節)

 

ミカ書七章十八節から十九節について、神は、神に忠実な残りの者の罪を赦すと言われており、そのためにも神の律法を前提に、罪(法への背き、違犯)の赦しを乞う事と悔い改めが大事なのは言うまでもありません。悔い改めるならば、神は赦しによって罪を解決してくださいます。そして、ミカ書七章二十節の箇所は、主イエスが仰った「東から西から多くの者が来て、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に(婚宴の)席に着くであろう。(マタイによる福音書八章十一節参照)」という形で結末を迎えると思われます。

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(四)結び

ヨハネによる福音書十五章五節(参照)
 
我はぶどうの木、お前たちは枝である。我に留まる者、我がその人に留まる者は多くの実を結ぶ。お前たちは我から離れて何もすることができないからである。

 

実を結ぶためには主イエスに留まる以外に方法は有りません。何をもって「留まっている」と言えるかですが、ヨハネによる福音書十章の羊の囲いの例えにあるように羊飼い(主イエス)の声(御言葉)に聞き従うことです。「従っています」と自称するのも「従います」の意思表示をするのも容易いですが、実際に行動するのは簡単ではありません。本当に従えているかは行いによって証明されます。
 
主イエスの言葉は真理であり、かつ人の心を打ちます。聖書の神に出会い、そこで神に従いたいと本気で思えたのなら、それは素晴らしい神からの賜物だと思います。人生の中で「是非これをしたい、そのために生き方を変えたい」と思うほどの邂逅は滅多になく、非常に稀だと思います。ましてやそれが本物の神、唯一の真理、死後の永遠に関わる事なのですから、これほどの幸いはありません。
 
世俗の価値観に沿って生き、仕事等に忙殺されて心身を病む状態になってる方がいらっしゃるかと思います。これまでの生き方に疑問を感じたのなら、その機会を大切にして、一旦は立ち止まって自身を振り返り、世の真実について学んだり、聖書を読むことを進めます。その際、ミカエル氏のブログが必ずや役に立つと思います。くれぐれも主イエスの言葉に反する世の諸教会に通ってはなりません。それでは主イエスに留まれないからです。また、本気でこれまでの生き方を改めたいと思うのならば、御自身の生活環境を整えていきましょう。環境が整わない中(世俗に塗れた状態)では、信仰を育むこともままなりません。主イエスの「種を蒔く人の例え」のように、世の煩いが多いと茨が生育を邪魔してしまいます。神の言葉、世の動向、自身の悔い改めの完成、自身の信仰生活の設計等、全方位に注意を向けて一つ一つ整えていきましょう。

 

律法を遵守し、品性を改め、福音伝道をし、慈愛ある活動をし、悔い改めを完成するのは一人では困難です。主イエスが兄弟で愛し合うようにと命じられており、実際、切磋琢磨する兄弟や御指導、ご鞭撻の数々が不可欠です。同じ志を持った兄弟で励まし合いがどれほど支えになったか計り知れません。そのため兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった兄弟の集いから教会への入会を果たして(入会条件等をきちんとお読みになった上で)、ぜひ共に歩みましょう。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「真の希望が欲しいのならば」と題して伝えて参ります。

 

 

 

一、神が人間に期待すること

真の聖書福音と預言「救いに値する完全な者」の記事はご覧になったでしょうか。主イエスと金持ちの青年とのやり取りから、神は今までの悪い言動等を悔い改めて、律法にある数々の掟を守るようになること、守ってる状態になるだろうということを人間に期待しはってることや律法遵守が大前提→所有財産の売却→困窮者に与える(天に富を持つ行為)→主イエスに従う→救われる順序があること、また、如何にこの世や自分自身を愛することが信仰の躓きとなるかがよく分かる内容であったと思います。また、行動力著しいザアカイの悔い改めは、金持ちの青年とは対照的で目を見張るものがあります。

 

一方、皆がそう出来るかと言えばそうではありません。なぜならば信仰は神からのお招きによって始まるからです。自分の意志だけで「神を信じよう」とか「神を愛そう」と思っても無理があると思います。記事でも言われているように「愛する」とは強いられてするものではなく、自発的なものだからです。日常においても「好きなこと」は強要されるものではなく、自身の心が喜び、対象に惹かれることから始まります。その始まりは、狙って起こることではなく、思いがけない出会いのようだと思います。信仰の始まりはまさに天からの賜りものだと思います。その上で、与えられた出会いに対して、その人がどう応えるかだと思います。この事は、真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」で言われているとおりであり、非常に腑に落ちて納得が出来る内容につき一読を勧めます。神に招かれたかは、まずは真の聖書福音を告げ知らせて、それを聞いた人がどう感じるかによっても判断出来ると思います。但し、聖書真理への思いが即座に高まって即行動するか、あるいは、じわじわと高まってある時に一気に行動を始めるか、その展開は様々だと思います。何事にも神が定められた時がある(コヘレトの言葉三章一節参照)からです。その上で、信仰心が芽生えたのなら、残された時は少ないため速やかに行動することを勧めます。そして、真の信仰を持つ者は非常に少なく、世の殆どの人が主イエスへの信仰がまったく無かったり、聖書を知っていても偽福音を信じて道を逸れていたりと不完全です。不信仰な者が殆どであることを聖書は明確に示しております(マタイによる福音書二十二章十四節参照、ルカによる福音書十八章八節参照)。多くの人は神の言葉である聖書を軽んじます。そのような者に対して、主イエスは「その者を恥じるだろう」と言われております。

 

 

マルコによる福音書 八章三十八節(引用:真の聖書福音と預言「正しい者はこの世から排斥される」

 

確かに、姦通と罪深いこの時代に我と我が言葉を恥じる者は、人の子も彼の父の威厳にあって聖なる天使たちと共に来る時、その者を恥じるだろう。

 

 

「恥じる」がどういった状況を指すかについては、引用元の記事にて『主イエスを恥じる者と主イエスの御言葉を恥じる者とは、元キリスト者でキリスト者をやめたという人が典型例』『信仰に入ることを躊躇する者や信仰することを公言せえへん者』と書いてあるとおりです。更に、その意味を理解するためにも「恥じる」の意味を紐解くとより分かりやすいと思います。

 

○恥じる

 

① 良心がとがめたり、欠点・誤りに気づいて、他人に顔向けできないと思う。

② 劣る。ひけをとる。(名誉・地位などに)釣り合わない。

③ 遠慮する。はばかる。

 

引用:スーパー大辞林

 

①について、『キリスト者をやめた人』は曲がり形にも、知識としてある程度は聖書真理を知っているはずであり、自らの心と行いが神から離れていることを自覚していないはずがありません。神に咎められたなら、顔向け出来ない心境であろうと思います。これに該当する人は、最期や裁きの時に猛烈に恥じ入るだろうと思います。当然、主イエスがお認めになることもないでしょう。

②について、主イエスは人に期待する事を仰せになっており、それに対して不足があって応じられていなければ、キリスト者としての面目を失うだろうと思います。まさしくキリスト者の名には釣り合わないことになります。

③について、「遠慮」には『(事情や状況を考え合わせて)やめること(引用:スーパー大辞林)』の意味もあり、信仰よりも世俗を取り、信仰を疎かにすれば、信仰を恥じていることになるだろうと考えます。

 

これらからマタイによる福音書十九章十六節から三十節に書かれている「金持ちの青年」が思い起こされてなりません。当該十九章二十二節は、新共同訳では「悲しみながら」となっておりますが、ミカエル氏の『悲しくさせられたため』の訳が原語に則り正確です。何故、「悲しくさせられた」のかが重要です。記事にあるとおり『おれは一生困らない。この先も人生は安泰だ』と思っていたのかもしれず、そう捉えると合点がいきます。自ら永遠の命を得るためにはどうしたら良いかと主イエスに訊いたのであれば、本来なら「はい、従います」となって然るべきです。しかし、そうは思えず、世俗への思慕が優り、それによって悲しくさせられたのだと思います。他の律法は守っておきながら、ここで躓くのは何と勿体無いことかと思います。信仰において「葛藤」がある時とは、世俗と律法を天秤に掛けて迷っており、不安定な状態だと考えます。本来なら天秤にかける必要は無く、迷う必要もないのですが、これが肉なる者の弱さだと思います。その上で、「そこでどうするか」が大事で諦めず、逃げないで徹底的に向き合って誘惑に打ち勝つべきだと思います。そうでないと「遠慮したい」という誘惑が強く心の内に巣食うからです。やはり主イエスが言われたように「自分を捨てる」ことが重要だとつくづく思います。自分の欲を優先しても最終的には永遠の滅びが待ち受けるだけです。本来なら「神に顔向け出来ない恥ずかしさを負うのはまっぴらだ」と思うはずです。余計な自我が邪魔をするなら、さっさと捨てるに限ります。そして、「諦めず、恐れずに進み続ける」に尽きると思います。神に従う意志を持ち、行動すると、神が「所々で助けて導いてくださっている」と感じることが個人的には多々ありました。意志や行動に応じて助けてくださるように感じます。所々に困難はあっても道が開けたり、不思議と心は晴れ晴れとしていたからです。良心に従うとこうなるのだと思います。もっとも、これは最期まで続くため、最期まで気を抜く訳にはいきません。世のことに躍起になれば、その欲は躓きとなり、この世への未練を残すことにもなり、それならばいっそ最初から持たない方が幸いだったのではないかと金持ちの青年を見ていて思いました。世を愛するとは、迷うべきではない所で人の判断を狂わせ、恐ろしい結果を招くとここからも分かります。本来、律法を守ってきた青年ならば、『短い間だけしか居られへんこの世にしがみついて、後の終わり無き世で地獄行きになって永遠に苦しむ』と分かっていたのではないかと思うのですが、欲がこうも目を曇らせてしまうということが個人的には恐ろしく感じます。改めて『小さい子供のように素直になれ』の主イエスの教えが非常に重要と分かります。主イエスの教えに無駄なことなど一つも無く、絶対に軽く聞き流してはいけないと改めて認識を強くしました。

 

真の聖書福音と預言「救いに値する完全な者」の記事にて、手前が印象深かったことの一つとして、元蹴球選手のシルヴァン・ヴァルナー氏の話があります。若くしてこの英断が出来た彼が凄いと思います。行き詰まって辞めた訳でもなく、将来有望で「まだまだやれる」状態の中での事につき、捨て難きを捨てた決断には大きな意義があります。彼はきっと後悔などせずに過ごしているだろうと思います。こちら(東洋経済オンライン)によると、『行動しなかったことに対する後悔は行動したときの2倍』『思い切って挑戦しなかったことを悔やむ人は多い』『やってしまったと後悔する人は少数』といったことがさまざまな研究から明らかになっているそうです。そして、決断は早い方が断然良いと思います。ぐずぐずしていると時機を逸するからです。『聖霊は人間の良心に訴えかけ、目を覚まさせ、私たちが罪深い罪人であり、救い主イエス・キリストを必要とすることを強く認識させます(引用:真の聖書福音と預言「聖霊の賜物について」)』のとおり、決断しようと思えた段階で聖霊に従うのが最善です。しかし、その声を無視すれば、良心に焼印を押されるでしょう(テモテへの手紙一 四章二節参照)。当該箇所の「焼印を押される(καυστηριάζω)」には「感覚を麻痺させる」の比喩的な意味があり、その状態を実に的確に表していると思います。こちら(ウィキペディア)によると「焼印」には「永続的な識別を目的としている」とあり、特に家畜に対する焼印では所有者を明確にして所有権を主張出来る効果があったと書かれております。まさに良心が機能しなくなり、悔い改めが困難となれば神に属せなくなり、悪魔に属することになります。悔い改めれば罪の赦しが得られますが、悔い改められなければ罪は残り続けます。

 

個人的な話ですが、かつては仕事人間でした。自分が正しいと思った道を歩き続けた結果、人生や仕事に「行き詰まり」を感じ、真の聖書福音との出会いもあり、「自分が正しいと思ってきた生き方は間違っていた」「こんな生き方から抜け出さなくてはいけない」「このままだと本当に死んでしまうかもしれない」という危機感も相まって生活を一変させる決断をしました。ただ、(言い訳でしかありませんが)ここまでの一大決心をした事がなかったので相当な恐さが有り、不安は波のようにやってきました。そして、生活を変えて直ぐに落ち着いた訳でもありません。古い習慣や価値観が消えて、新しい習慣等に更新されて、定着するにもある程度の時間がかかるのだと知りました。勿論、神が介在すれば「一変させてもらえる」ことは出来たと思います。しかし、手前の場合、他力本願ではなく自分の意志を行使して、過去と決別し、神に従う生き方を確立させていく過程が大事と神が御判断されたのではないかと思っております。それ程までに「打ち勝つ過程」には大きな意義があったと思います。何よりこの間は兄弟の励ましに本当に支えられました。頭では後ろを振り返ってはいけないと思いつつ、不安定になる時はどうしてもありました。自身の経験から、不安定とは本当に良くない状況だと身に沁みます。勝手ながら、シルヴァン・ヴァルナー氏も似たような心境を経験したのではないだろうかと思いました。それ故、彼には親近感があり、我が事のように嬉しく思います。何より、これから行動しようとしている方にも励ましとなる話だと思います。世に「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉がありますが、これは信仰にも通じると思います。やってやれないことはありません。

 

二、間違った希望と真の希望

ところで、真の聖書福音と預言「救いに値する完全な者」の中でも触れられている「天に富を積む」ことについて、真の聖書福音と預言「天に富を蓄えよ」の記事も参考にすることを勧めます。こちらは二千十八年に書かれた記事ですが『日々この世の生活をするためだけに生きているという点が間違っている』、『理想の仕事をするために生きている者、自分探しをすることに時間と労力を使っている者は、世に属する人間です。理想の仕事のために学校に通ったり資格を取ったりと貴重な時間と労力を使い、死後にその人に何がもたらされるのでしょうか。何もありません。理想の職業に就くというのも自己満足でしかなく、この世に属する事柄であり、死んだら終わりです。聖書に最後の審判で生前の職業が裁きに影響するなんてどこにも書かれていません。ですから、この地上で仕事は何をするかは重要ではありません。神の律法を守り(特に安息日)、生きるだけの糧を得られれば何でもいいのです。仕事の格付けなんていうのもこの世の秩序であって、神の秩序ではありません。』の言葉は手前がこれまでの生き方を改めるきっかけとなった言葉の一つです。特に働き盛り世代や過重労働に陥っている方にとっては、目を覚ます転機をもたらすやもしれません。手前は、仕事で自己実現が出来ていた僅かな時に仮初の充足感を感じておりました。しかし、やがて最初の希望はどこへやら、次第に絶望が募って行きました。組織の中で働くほどに重圧が酷くなり、心身の消耗も相まって「生きているけれど死んだような状態(まさにゾンビ)」だったと思います。今だったら、「そんなに辛いならさっさと辞めれば良いのに」「そんなことまでして働いたら駄目」と思えますが、当時はいかんせん「そこから逃げてはいけない」と無意味に奴隷根性丸出しで耐え続けていました。信念の行使の仕方を間違えば、間違った結論しか出ません。八方塞がりの状態の絶望感は尋常ではなく、恥ずかしながら「(自分からそんな生き方をやめる勇気も持てず)今すぐ、すべてが終わってくれないだろうか、そうしたら自分はやっと休める」と自分勝手な破滅願望を抱くようになりました。「(社畜人生から)逃げてはいけない」とか「それでも踏みとどまって社会的に成功しないといけない」というのは大嘘です。勝手な思い込みのために無駄に命を粗末にしてはいけません。人生の目的、自身の用い方を間違えてはいけません。

 

日本人の自殺の原因は、真の希望を見出すことができなかったことだと私は考えます。つまり、主イエス・キリストを知らないことが一番大きな原因です。彼らは聖書を読まず、主イエス・キリストを知ろうともせず、この世のこと、この世にある物、あるいは特定の人間に希望を抱いたが、結局はその希望が叶わず、生きている意味を見失って自殺したというのが真実でしょう。

 

引用:真の聖書福音と預言「天に富を蓄えよ」

 

上記はそのとおりだと思います。その上で、地上の教会信者だった手前自身の経験から、にわかキリスト者(パウロ教徒)の状態では、「真の希望」を本当の意味で見出だすには至らないだろうと思います。なぜならば、律法遵守の意味を理解せず、そのために善悪の区別が出来ず、行動も伴わないので、世俗的生き方に留まり、世を愛し続けることになるからです。世を愛し続けると、必ず社会的成功を求めてしまい、世に希望を持ってしまいます。少なくとも手前はそうでした。仮に一時的に成功したと思えた時があっても、絶対に永続はしないと思います。むしろ余計な苦しさをたくさん味わい、そのために偶像に走り、堕落し、聖書真理を悟ることも出来ないだろうと思います。故に、律法によって善悪の区別が出来ず、世俗的生き方に留まったままでは到底「真の希望」は見出だし得ないと考えます。

 

また、かつての手前には「永遠の命」に対する誤解もありました。どういうことかと言うと、「神の王国をこの世の延長」のように捉えておりました。今となっては「何を莫迦なことを言っているのか」と情けなく思うのですが、「信じれば救われる」と思っていると、この世の悪が許容され、それも持ち越されて世俗的世界が永続すると勘違いしていたと思います。「永遠の命があっても生きる苦しみがまた延々と続くのか…それもしんどい…永遠って辛くないか、それって本当に良いことなのだろうか」とさえ思ってました。多分、不信仰者も「永遠の命」と聞くと、このように勘違いする人が多いと思います。しかし、そもそも、マタイによる福音書七章二十一節から二十三節、ヨハネの黙示録二十一章八節及び二十七節、二十二章十五節等にあるように律法違犯を改めない者は神の国に相応しくなく、第二の死に引き渡されます。神の国は神の律法を守る者しか入られません。聖書にきちんと書いてあるにも拘らず、内容を理解せずに勝手に勘違いして、勝手に失望し、実に愚かで始末が悪かったと思います。そして、神の王国に悪は存在せず、ヨハネの黙示録二十一章三節から四節にあるように悲しみも嘆きも無い世界であり、真の希望に値します。悪がはびこるこの世では確かに様々な苦労があると思いますが、真の聖書福音に対する喜びが自身を支えてくれると思います。真の希望を実現するためにも、生きている間に悔い改めを完成させ、キリスト者に相応しい品性を身に付ける必要があります。特に自由や人権、命が脅かされる大艱難が目前の今は、世俗の事に必要以上にのめり込んでいる場合ではありません。大艱難で命を失う(第一の死)可能性は大いにあると思いますが、命を惜しまずに最期まで神に忠実であることの報いがあります。『そして、地の塵の中に眠っている多くの者は目覚めるだろう。ある者は永遠の生命に、ある者は軽蔑と永遠の嫌悪に。(ダニエル書十二章二節:兄弟共同検討訳)』のとおり、善を遂行した者は命の復活へ、悪を行った者は断罪の復活へと出てくることになります(ヨハネによる福音書五章二十九節参照)。

 

この世全体が悪に支配され、世の人々の律法違犯ばかりではなく、あらゆる悪が横行し、正義がなされず、自浄作用は期待出来ず、ある程度のまともな感覚を持つ不信仰者にとっても、キリスト者にとっても「この世には希望は無い」と感じざるを得ないと思います。常に悪が闊歩し、普通に生きようとするだけであらゆる悪の影響にさらされるのですから、はっきり言って苦痛でしかありません。しかし、やがて主イエスが来臨し、悪人とこの天地を滅ぼし、悪の無い新しい天と地が創造されます。そして、すべての人は生前の行いに応じて裁かれ、死後の永遠の行き先が確定します。神に従い通した人には無罪判決が下り、天の王国への入国が許されます。まさに正義の執行であり、これほど道理に適うことはありません。この世で死んで終わるのではなく、やがて復活し、生前に主イエスへの信仰を持ち、神の律法、掟、戒めを守ることで神の王国への入国が許される(永遠の命を賜る)、これ程に大きな希望はありません。すべては報われます。

 

三、絶望的に悪化する社会

こちらの記事(さてはてメモ帳 Imagine & Think!)にて悪名高きビル・ゲイツが電子刺青について言及しております。『その刻印がなければ、あなたは自分自身を認証することができなくなる。身分証明も、仕事へのアクセスも、お金へのアクセスも、旅行へのアクセスも、そして人生そのものへのアクセスも。』と、ヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印を思わせる内容です。記事によると、米国国防高等研究計画局(DARPA)の局長を務めていたレジーナ・E・デュガンという人物が『私たちが電子タトゥーの烙印を押されるために列に並ぶようになるだろう』と豪語したようで、『それがなければ社会そのものから締め出されてしまう』と分かっている故のようです。ミカエル氏の記事(動画三回目投稿 新しい契約)にて『ブログで紹介したマイクロソフトの電子刺青、特許060606という、あれです。来年(※記事は二千二十一年作)からいきなりこれが使用されることはないです。まずは人口削減のために有毒なワクチンを打つでしょう。マイクロソフトの電子刺青が使われ、それで個人情報を読み取ったり、暗号通貨による決済手段に使用されることに将来なり、それが無いと売買出来へんようになるんはまだ先のことです。』と言われていたものが動き始めたようです。決して絵空事とは言えず、こちらの記事(Smart Watch Life)では「スマートタトゥー(※電子刺青)」『身体に直接インターフェースすることで、健康管理や情報の取得ができる』と紹介されており、実用化が近いのだと判断出来ます。他にもこちらの記事(AMP)では『顔に直接貼り付けることができる超薄型の「電子タトゥー(eタトゥー)」』により『脳波や眼球運動を計測し、作業中の脳の負荷や疲労をリアルタイムで検出できる』という技術が紹介されており、医師や操縦士への活用を想定しながらも他の業種や領域にも応用されることが示唆されております。これらは電子刺青が普及し始める兆候と思われます。電子刺青により常に監視管理され、それがなければ売買活動が出来なくなり、それに屈してしまえば獣の刻印を押されて地獄行きは免れません。個人番号券も含め、監視管理に繋がる仕組みは利用しないことが肝心です。利用者が増えれば、「広く承認された」と看做されて義務化の口実とされてしまうからです。

 

関連して、こちら(ヤフーニュース)のように、個人番号券と健康保険証を一体化したいわゆる「マイナ保険証」の機能をスマホに取り込める仕組みが太陽暦九月中旬から全国で利用可能となるようです。一つの端末に個人認証が集約され、一元管理に繋がる悪い動きです。一元管理の動きはどんどん導入されており、デジタル庁がこちら(ヘルスケアパスポート)のように『自分の健康・医療情報を収集しスマホで一元的に管理。市民の方が承諾した医療施設やご家族と情報を共有できるPHR(Personal Health Record)サービス』というのを始めており、導入している自治体が有るようです。こちら(CHR)でも『PHR』が良い事かのように宣伝されておりますが、『日々の歩数・睡眠時間・食事内容・体温・心拍数など、日常生活に関わる個人の行動や身体状態』等の生活習慣情報を『スマートフォンやウェアラブル端末などを通じて自動的に記録』とあり、やはり監視管理に使われるのは間違いないようです。この仕組みも個人番号券と関連付けられて、政府にすべてが筒抜けになるのは目に見えております。何も知らなければ「健康のために」の言葉に騙されて人々は受け入れかねません。憲法十三条の私事権の侵害でもあり、もはや「知られないでいる」ことが許されない息苦しさです。まともな感覚があれば、これらを嫌悪するでしょう。進んで自らを売り渡すのは論外ですが、これらを受け入れないとまともな社会生活を送られないようにさせられる危険があります。先にも挙げたヨハネの黙示録十三章にある獣の刻印です。この世での生活や自分の命を愛すれば一時的に僅かな期間の肉体の命は保証されるかもしれませんが、この報いは第二の死(永遠に続く地獄の刑罰)です。目先の命や生活のために世の権威に従うのは希望でも何でもありませんので選択を間違えないようにしましょう。

 

※支配層の「問題→反応→解決」の手口を警戒し、抵抗せよ

 

また、こちら(BBC)によると、トランプ大統領は『国防総省の新名称に「戦争省」を使うよう指示する方針』を固めて、大統領令に署名するそうです。『同省はより明確に国家利益に焦点を絞り、敵対勢力に対して、アメリカが自国利益を守るために戦争をも辞さない姿勢を示すことになる』と言っているようです。これまでも米国は十分に凶暴で凶悪でしたが、第二の獣の国として「戦争省」が中心となり更に猛威を奮い、第三次世界大戦に中心的に関わることになるのではないかと思います。時期が時期だけに碌な事にならないのは間違いないと思います。

そして、日本では防衛省が太陽暦八月二十九日、「敵」の射程圏外から攻撃できる国産長射程ミサイルの配備計画を発表し、早ければ今年度から運用するようです(朝日新聞)。当然、問題が多々あり、こちら(しんぶん赤旗)の記事では、『長射程ミサイルは、その性能からも、想定される運用からも「専守防衛」と相いれません。日本が「他国に脅威を与える軍事大国」になることは明らか』と指摘されております。ツイッターで大型口座の野田CEO氏が『日本が他国領域へ攻撃可能なミサイル配備を遂行すれば敵国条項発動の口実を与える事になる(引用:X)』と言っており、そのとおりだと思います。

先の記事(しんぶん赤旗)にて『政府は、安保法制に基づき集団的自衛権を発動し、自衛隊が敵基地攻撃を行うことを否定していません。しかし、自衛隊に他国領内にある攻撃目標の情報を独自に収集する能力はなく、米軍頼みです。米軍が海外で始めた戦争に自衛隊が参戦し、米軍の指揮で他国にミサイルを撃ち込むことになりかねません。その結果は、日本に対する他国からの報復攻撃です。』と書かれている内容が非常に重要で、米国に言われるがまま攻撃すれば支那を中心にその同盟国(北朝鮮、ロシア)からの報復は不可避で、どこかで敵国条項が発動されるのではないかと危惧します。実際、こちら(X)によると、ロシアのニコライ・パトルシェフ大統領補佐官はロシアの報道機関の取材にて『日本の平和主義はもはや紙の上だけに過ぎない。今日では世界最強の海軍大国の一つになっている』と語ったそうです。また、こちら(ニューズウィーク日本版)は同じ取材源と思われますが、同大統領補佐官は『日本のエリート層の間で常識が勝り、彼らが軍事化という自殺行為的な政策の追求や、最も強力な隣国であるロシアと中国に対する武器による威嚇をやめると信じたい『この状況が続く限り、われわれは傍観するわけにはいかない』とも言っており、記事中にある日本のロシアや支那に対する『軍事化政策の追求』の言葉から、連合国憲章五十三条の『敵国における侵略政策の再現』と看做していると思われ、日本が敵国条項を発動されてもおかしくないと牽制していると思いました。ロシアが敵国条項をちらつかせているので危険度はより高まっていると見受けます。本来、支那やロシアに自らを棚に上げて言われる筋合いはありませんが、日本を陥れる罠があるのは間違いありません。想定される罠があるならば、賢く対応するべきです。更に、両記事とも、海上自衛隊が西側諸国の連合体制に組み入れられることについて言及しているようです。そして、航空自衛隊の戦闘機を米国、カナダ、英国、ドイツ等に派遣する(参照:朝日新聞)動きもあるようです。支那と米国の戦争のみならず、欧州との連携の名の下にそちら側での戦争にも日本を巻き込もうとしており、最悪な状況で、ロシアの大統領補佐官が言ったとおりに『自殺行為的な政策』です。繰り返しますが、集団的自衛権の行使(違憲)や憲法改悪は「罠」でしかなく「自殺行為」です。違憲な集団的自衛権の行使や憲法改悪を支持するのは戦争を支持するも同然です。その結果として日本と日本人が標的となり、大勢の日本人の命が奪われるでしょう。故に現行憲法を遵守すように呼びかけ(集団的自衛権を行使させない)、憲法改悪を阻止しましょう。「どうせ何も変わらない」と思うようでは悪人に膝を付くことになります。それは正しい事ではありません。隣人のために、自由と人権を守るために最大限に抵抗していきましょう。同時に、すべての悪を裁き、各位の行いに報いてくださる主イエスに、聖書真理に希望を持っていきましょう。

 

 

四、主イエスこそ希望

この世で繁栄を求めず、生き延びることだけに執着せず(無闇に死んで良い訳でもない)、聖書の神に従い通すのは、世を愛している人には難しいかもしれません。しかし、神に招かれた者なら神の義に心惹かれ、喜びを感じるだろうと思います。そして、キリスト者には主イエスという模範がおります。主イエスこそ我らの羊飼い(ヨハネによる福音書十章一節から十八節参照)です。この世の羊飼いは堕落しましたが、我らには、道となられ、真理となられ、命となられた主イエスが居てくださいます(ヨハネによる福音書十四章六節参照)。主イエスは、地上に来られる前からその到来が預言によって予告されておりました。

 

 

エゼキエル書三十四章十一節から二十四節

 

(十一節)我が主なる神は確かにこのように言われた。我を見よ、我は我が羊を見つけ出して、それらの世話をする。

(十二節)羊飼いが、散らされた自分の羊の中に居る時に、その群れを探し求めるように我は我が羊を探し、暗雲と陰鬱の日にそこから、散らされたすべての場所から彼らを救う。

(十三節)我は彼らを諸々の民から連れ出し、諸国から集め、彼らの地へ導き、イスラエルの山々、川、地の居住するすべてで彼らを養う。

(十四節)我は良き牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの住まいとなる。そこの良き住まいでは彼らは安らぎ、イスラエルの高い山々の肥沃な牧草地で草を食べる。

(十五節)我は我が群れを養い、彼らを憩わせる。神の仰せ。

(十六節)我は道に迷う者を探し、追い払われる者を連れ戻す。傷付けられた者に包帯を巻き、弱っている者を強くする。しかし、金持ちと権力のある者とを我は滅ぼす。我は報いをもって彼を養う。

(十七節)お前たち、我が群れよ。我が主なる神はこのように言われた。我を見よ。羊と羊の間、雄羊と雄山羊の間を裁く。

(十八節)お前たちは良い牧草地で草を食べているにも拘らず、お前たちの牧草の残りをお前たちの足で踏みつけ、お前たちは清い水を飲むにも拘らず、残りの水をお前たちの足で汚すのは、お前たちには小さい事だろうか。

(十九節)我が群れは、お前たちの足の踏み跡の草を食べ、お前たちの足で汚れた水を飲む。

(二十節)それ故に、我が主なる神はこのように彼らへ言われた。我を見よ、我は肥えた羊と痩せた羊の間を裁く。

(二十一節)お前たちは脇腹と肩で突き飛ばし、お前たちの角ですべて病気にされた者たちを外へ散らすまでに突くからである。

(二十二節)それで、我は我が群れを救い、彼らが再び餌食にならないようにし、我は羊と羊の間を裁く。

(二十三節)我は彼らの上に一人の羊飼いを立ち上がらせ、彼らを養う。彼は我が僕ダビデである。彼らを養い、彼らの羊飼いとなる。

(二十四節)主である我は彼らの神となり、我が僕ダビデが彼らの中心で王となる。主である我が語った。

 

エゼキエル書三十四章一節から十節までは、イスラエルの人々を神の御命令に従い、教え導く立場の者が堕落して、それによって民衆も神から離れて堕落して、律法違犯の呪いを受けて散々な状態に至ったことが記されております。役に立たない牧者では民衆を正しく導くことは出来ないため、神が救い出すと言われております。

 

その上で、エゼキエル書三十四章十一節から十二節にて、『散らされた自分の羊』の言葉から、神に選ばれた神に属するキリスト者の概念が浮かび上がります。

 

神は、あらかじめ定められた御計画に基づき、多くの人間から神の民を各時代に少しずつ送り込まれ、人類歴史を導いておられ、時の終わりに御子イエスをこの地上に再臨させ、先に眠りについた神の民を復活させ、生きている最後の少数の神の民を携挙し、この世を滅ぼし、新しい天と新しい地を再創造され、そこに神の民を永遠に住まわせてくださいます。

 

引用:真の聖書福音と預言「プロテスタントの致命的な間違い」

 

上記が「散らされている」所以であり、人にはどこに真のキリスト者がいるか分からず、また、自身が救われるかは分からず、更には、人生の早い段階においては「自身が信仰を持つに至るとは思わなかった」という場合が多いのではないかと思います。更に、『暗雲と陰鬱の日』はヨエル書二章二節、ゼファニヤ書一章十五節等にも書かれた世の終わりの「主の日」として書かれた箇所に共通する言葉であることから、マタイによる福音書二十四章三十一節等に書かれた大艱難期末期の携挙をも指していると思われます。実際、カトリックやプロテスタント、正教会らの聖書に基づかない偽福音が世にはびこり、人々がさまよい堕落している様は古代イスラエルの末期と同じです。

 

エゼキエル書三十四章十三節から十六節の内容は、終末に関する内容と見立てた場合に、永遠の安息、即ち、無罪判決を受けて神の王国で過ごしている状態と考えられます。大艱難を経て最期まで主イエスに忠実であった真のキリスト者は、羊飼いである主イエスによって集められ、羊(真のキリスト者)を養い、憩わせている様相を言っているのだと考えます。なぜならば、不従順な者は神から拒まれるが故に一緒に居ることは出来ないからです。エゼキエル書三十四章十六節について、新共同訳では「肥えたものと強いもの」となっている箇所は原語から『金持ちと権力のある者』と訳せると考えます。実際に「金持ち」の意味があり、神が滅ぼされる対象となっていることや真の聖書福音と預言「救いに値する完全な者」の記事の内容からも、永遠の命の対象とは成り得ないと考えられます。

 

エゼキエル書三十四章十七節について、羊はイスラエル(キリスト者)、雄羊はイスラエルの富と権力の象徴、雄山羊は君主と指導者を比喩するようです。どの立場の者も等しく裁かれることが分かります。エゼキエル書三十四章十八節の『お前たちは良い牧草地で草を食べているにも拘らず』は、本来は神の契約の民として神の掟を授かっていて、神に従って律法を遵守しておれば本来は祝福を受けられる状態であることを言っておられると考えます。「主の口から出る一つ一つの言葉で生きる(申命記八章三節参照)」、「神の言葉を食べる(エレミヤ書十五章十六節参照)」の聖句からもそう言えると考えます。その神の掟を踏みつけるのは甚だしい悪なのは言うまでもありません。『清い水』は、「誰でも水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることは出来ない。(ヨハネによる福音書三章五節参照)」「この水を飲む者は誰でも渇くだろう。しかし、我が与える水を飲む者は決して渇くことはない。我がその者に与える水は、自身の内に永遠の命に至る水が湧き出る泉となるであろう。(ヨハネによる福音書四章十三節から十四節参照)」等の聖句から、神の霊と真理を指していると考えられます。清いはずの水を汚すのも甚だしい悪なのは言うまでもありません。現代で言えば、偽福音が重んじられて律法が軽視され、真の聖書福音が知られていない状態が相応すると思います。その状態こそエゼキエル書三十四章十九節にある『我が群れは、お前たちの足の踏み跡の草を食べ、お前たちの足で汚れた水を飲む』を指していると考えます。

 

エゼキエル書三十四章二十節について、『我は肥えた羊と痩せた羊の間を裁く』とあり、ここでの『肥えた羊』は、創世記四章四節等から神に献げられるに値するものを指すと考えられ、完成されたキリスト者を指すと考えます。逆に『痩せた羊』は良い牧草(真の聖書福音)を食べられず、汚れた水(悪霊、偽福音)を飲んでいる故に痩せていると考えます。どちらであっても神の審判を受けることには変わりありません。

 

エゼキエル書三十四章二十一節について、『すべて病気にされた者たち』には言葉どおりの意味も含め「堕落」の意味も見出だせます。それを癒す(悔い改めに導く)でもなく「外」に散らしております。「外」の言葉から「内」が対概念として存在すると言え、内と外とを分けていることから、外側は「異邦人の道(マタイによる福音書十章五節参照)」を指すのではないかと考えました。現代では多数派のパウロ教徒(カトリック、プロテスタント、正教会等)は、真の聖書福音を伝えず、主イエスの教えに反して人々をヘブライ文化に留まらせず、堕落した異邦人の道(あらゆる偶像崇拝)に追いやっており、昔も今も変わらないように思います。

 

エゼキエル書三十四章二十二節から二十四節について、役に立たない牧者ではなく、主なる神は『一人の羊飼いを立ち上がらせ、彼らを養う』と宣言されました。預言者ゼキエルの時代においてダビデは過去の人であり、ダビデの子孫として生まれた主イエス以外には該当しません。また、ダビデは王でしたが、主イエスは王の王となられます(ヨハネの黙示録十七章十四節参照)。そして、まさしく主イエスは失われた者を救うために来た(マタイによる福音書十八章十一節参照)と分かります。

 

聖書真理と主イエスに従おうと心から思えた方は、内なる熱意に従い、悔い改めていきましょう。

 

五、結び

個人的に以下の言葉から、大きな励ましと慰めと希望を感じました。

 

せやから、この世で金持ちではないからとか、社会的地位が無いとか、物を多く所有してへんとか、外見に自信が無いとか、かようなつまらん事で思い悩むのはやめよ。それよりも、聖書を読んで正しく理解し、誠実に神を愛して主イエスの信仰を持ち、神の律法を守り、伝道活動をし、慈愛ある行いを当たり前にする善い人間になるように努力しましょう。その方が明るい未来があるからです。

 

引用:真の聖書福音と預言「救いに値する完全な者」

 

世に躓いたのならば却って幸いです。世に価値を見出だしている内は悔い改めを阻害してしまうからです。神に従い、自制し、自分を律し、真っ直ぐ歩くことほど清々しさを感じることは無いと思います。

 

「人生、もう駄目だ、何の希望も無い」と誤った希望が打ち砕かれた時こそ、何が真実か、何が本当に正しいかを知り、悟り、改めるには最善の機会です。その状態は最初は喜ばしいとは思われないかもしれませんが、後になってとても大事な時と機会だったと気付けるだろうと思います。

 

こういった道を行く者は超少数です。だからこそ一人でいるのは宜しくありません。主イエスは兄弟で愛し合うようにと命じられております。実際、切磋琢磨する兄弟や御指導、ご鞭撻の数々が不可欠です。同じ志を持った兄弟での励まし合いがどれほど支えになったか計り知れません。そのため兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった兄弟の集いから教会への入会を果たして(入会条件等をきちんとお読みになった上で)、ぜひ共に歩みましょう。

 

 

 

 

悔い改めていくと、世俗に価値を見出だしていたことが莫迦莫迦しく思うようになります。本物を見出だすとそう感じ、この開放感は言葉では言い表せないものがあります。そして、その事を誰かから強制されるものではなく、背景に神のお招きはありつつ、応じるかどうかはすべて自分の意志に基づきます。残された時は多くはありません。何事も後悔の無いように決断出来れば幸いです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「もし世の悪に屈して生きたら」と題して伝えて参ります。

 

 

 

一、地獄の刑罰は真実

真の聖書福音と預言「地獄行きを甘く見るな」の記事はご覧になったでしょうか。この度も非常に重要な学びを提供されており、他では学び得ない程の内容です。手前は「神が我らに発してくださった最大限の警告を我が事として全身全霊で受け止めよう」、「後になって、知らなかったとか、頑張りが足りなかったという後悔だけはしたくない」と本気で思いました。勿論それは刑罰恐さの故だけではありません。神への愛や神の御命令にしっかりと応答したいという思いが根底にあってのことです。

 

題名どおりに地獄行きを甘く見てはならず、もし軽く考えるなら、その人はそう遠くない将来に、死後の神の裁きにて有罪判決を受け、後に生きている間の言行のすべてを永遠に後悔することになるでしょう。

 

獣と偽預言者、神に選ばれず命の書に名前が書かれてへん者(明らかに不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)、偽りを信じたり正しい行いをしてへんのに自分自身が正しいと勘違いしてる高慢な自称キリスト者のこと)は悪魔と同じ地獄、火の池に投げ込まれ、そこで永遠に責め苦に苛まれる(黙示録二十章十節)。地獄では終わりが無い(永遠の)苦しみです。せやから、これを軽んじるとか知らんと言うて現実逃避しても何の解決にもならないばかりか、ほんまに頭がおかしいんですよ。その事について実感が無いからとか、実際に見た訳ではないからとか、証拠が無いから信じひんとか、ほんまに不信仰であることを正当化するような言い訳をする人が多いが、それは神に選ばれぬ故と拙者は思てます。

 

引用:真の聖書福音と預言「地獄行きを甘く見るな」

 

『地獄では終わりが無い(永遠の)苦しみ』があることや『現実逃避しても何の解決にもならない』と聞いて、あなたはどう思うでしょうか。「このままではまずい」と思って改められたら幸いです。「そんなの知らないよ(関心がない)」「考えている余裕がない」「ただの作り話でしょ」と無関心だったり、莫迦にする方もいるでしょう。残念ながら、現実にはそちらの方が多いと思われます。しかし、聞く耳のある方は、ほんの少しでも「それって、どういうこと」と思われたら、よくよくその事を追求して考えていただきたいです。「このまま改心しなかったらどうなるか」をほんの少しでも想像力を働かせて考えることを勧めます。

 

聖書は世の宗教(虚構)とは根本的に異なります。どの宗教にこの天地の始まりと終わり、人間は何を為すべきか、真の善悪について語っているでしょうか。どこに史実と一体化して神が語られている書物があるでしょうか。自分以外に神はいない(申命記四章三十五節等)と言われているのは聖書に記されている唯一の真の神だけです。断言しますが、この世に聖書と無関係な人はおりません。なぜならば、神の創造の秩序の中に誰一人、例外無しに生きており、人には一度死ぬこと(この天地の終わり、即ち、主イエスの来臨時に携挙によって助かるごく僅かの例外はいるかもしれない)と裁きを受けることが定められているからです(ヘブライ人への手紙九章二十七節参照)。そして、すべての悪が裁かれて刑罰を受けるのは希望と言えます。悪が放置されて、悪が栄え続けるなら、これほど不条理なことはないからです。勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)は道理に適います。同時に、自分自身も裁かれることも決して忘れてはいけません。誰にとっても裁きは我が事です。

 

地獄の刑罰が確定すれば決して取り返しがつきません。「生きている間」の行い(品性等の内面の向上を含む)がすべてであり、それが「死後の永遠」を決定付けます。永遠という概念を有限な人間が理解するのは容易ではないかもしれません。しかし、終わりない罰に至ると分かっているのであれば、仕事や日常の雑多なことや娯楽や快楽に心や時間や労力を奪われている場合ではないのです。

 

また、不信仰な人の中には「神が居るならば、どうして悪人を救わずに滅ぼすのか」「神が居るならば、どうして不完全な人間を造ったのか」等、非常に傲慢なことを言う者がおります。このような人は根本的な道理(神の創造の秩序)を弁えず、神が万物の主権者であって人にそれが有る訳ではないことを理解していない傲慢不遜な戯言でしかありません(参照:真の聖書福音と預言「主権は神にあり、人間にあらず」)。不信仰者は真理を知らないために、自分中心(あるいは人間中心)にしか物事を見れず盲人に等しいです。故に、唯一の真の神を知り、畏れることはすべての知恵(分別)の始まりと言えます(詩編百十一編十節等参照)。もし悔い改めなければ、神の裁きにより滅ぶことになるでしょう(ルカによる福音書十三章三節等参照)。

 

 

二、ラザロと金持ちの例え話に学ぶ

ルカによる福音書十六章十九節から三十一節にラザロと金持ちの例え話が載っております。概要は以下のとおりです。

 

○ 金持ちは紫や白い亜麻布を着て、毎日、贅沢に暮らしていた。(十六章十九節参照)

→ 「紫」は反キリストの象徴(ヨハネの黙示録十七章四節等参照)、「白い亜麻布」は非常に高価なため金持ちであることを示しております。金持ちが天の王国に入ることはほぼ無いと言われている(マタイによる福音書十九章二十三節等参照)ことからも「悔い改めない(救われない)人」を例示していると考えます。

 

○ ラザロという名の貧しい人は、全身に潰瘍があり、金持ちの家の門前に横たわって、金持ちの食卓から落ちるパンくずで腹を満たそうとしており、犬が彼の腫れ物を舐める。(十六章二十節から二十一節参照)

→ラザロは貧しく、社会的地位も無く、食べるに事欠き、しかも全身に潰瘍があり、人ではなく犬(犬には「不純な心の人」の象徴の意味がある)がようやく彼を気に掛ける有り様です。一方、真の聖書福音と預言「死後の世界」でも言われているとおり、「金持ち」には名が記されておりません。一方、貧しい人には「ラザロ」の名が記されているのは着目すべき点です(マタイによる福音書七章二十三節参照)。また、「サルディスにも、彼らの衣を汚さなかった僅かの名がある。彼らは白い衣を着て我と共に歩むであろう。彼らは相応しいからである。(ヨハネの黙示録三章四節参照)」からも神に認められる者は名が覚えられております。しかし、神に認められない人は覚えられません(マタイによる福音書七章二十三節参照)。

 

○ 両者は地上での生涯を終え、ラザロは天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。一方、金持ちは陰府で苦痛の内に目を上げて、アブラハムとその懐にいるラザロを見た。(十六章二十二節から二十三節参照)

『陰府は、最後の審判が終わるまで留め置かれる場所です。地獄は、最後の審判が終わった後にサタンと悪人たちが行く所です。(引用:真の聖書福音と預言「死後の世界」)』とあることからも金持ちとラザロは死後に明暗を分けました。

 

○ 炎で苦しんでいる金持ちはアブラハムに、ラザロを遣わして、彼の指先を水に浸し、金持ちの舌を冷やしてくれるように懇願します。(十六章二十四節参照)

→まだ陰府にいる段階のため地獄(炎で苦しむ)に居る訳ではないと思われます。しかし、あくまで例え話であることに留意していきます。

 

○ ラザロと金持ちは地上の生涯と死後の状況が正反対となり、特に死後の両者の間には行き来が出来ない大きな深淵がある。(十六章二十五節から二十七節参照)

→死んでからでは決して取り返しがつかないと分かります。死んでからでも改心の機会が与えられるとする「セカンドチャンス(論)」は決して有り得ませんので偽福音には騙されないでください。間違った考えを信じても身を滅ぼすだけです。

 

○ 金持ちは、それではラザロを父の家に遣わして欲しいと、五人の兄弟がこの苦痛の場に来ないように、彼らに厳粛に主張して欲しいと懇願します。しかし、アブラハムは生きている彼らにはモーセと預言者がいるので彼らに耳を傾けるようにと返答します。(十六章二十八節から二十九節参照)

真の聖書福音と預言「死後の世界」で解説されているとおり、そもそも死んだ人間がこの世に介入することは決してありません。金持ちは土台無理なことを要求しております。そのため、民に残されたモーセの律法と預言者の言葉が最大のよすがとなるのは当然のことです。

 

○ 金持ちは食い下がり、死人の中から誰かが彼らの所へ行けば、彼らは悔い改めるだろうと主張します。しかし、アブラハムは、モーセと預言者の言葉を聞かないなら、たとえ死人の中から生き返った者があっても信じないだろうと言います。(十六章三十節から三十一節参照)

→ この地上に残された、与えられた聖書の言葉がすべてです。各位が、聞き従ったか、それ以外(拒絶する、軽く捉える等)かの選択の結果を死後に受け取ることになります。実に単純で公平な構図です。

 

主イエスがこの例え話をされた時代であっても、モーセ(紀元前千二百九十年頃とされる)ははるか昔の人物であり、最も近い旧約に記された預言者でも約四百年前の存在でした。彼らの言葉を「今この時に我が事として耳を傾けられるか」に懸っていると思います。そして、十六章二十八節で金持ちが言ったことも気持ちとしては分からなくはありませんが、結局は、聞く耳のある者は聞き、聞く耳を持たない者は聞かないのだと思います。説得してどうにかなるものではなく、神のお招きやお選びの側面もありつつ、その人次第なのだと思います。「強制」は悪魔がやることであり、神は自由意志を尊重されます。故に各々が選択の責任を負うことになります。福音伝道を聞いて、あるいは聖書の言葉を聞いて、少しでも心に響いたり、引っかかるならば、軽く流さずに「なぜそう感じたのか」「それってどういうことだろうか」と真剣に向き合うべきです。最初の萌芽を大事にしましょう。

 

冒頭に挙げた地獄の刑罰(これは例え話ではなく事実)を軽く考えると、金持ちと同じように取り返しのつかない後悔を味わうことになります。『地獄では終わりが無い(永遠の)苦しみ』があるのは事実であり、神に従わなければ不可避な刑罰です。もっとも、刑罰が嫌だから神に従うというのは不純な動機です。なぜならば神が求めているのは神を愛することだからです。呼応する関係が本来です。

 

三、もし世の悪に屈して生きたら

個人の話ですが、ミカエル氏のブログに初めて出会った時のことは今でもよく覚えております。地上の教会のいかがわしさに辟易し、ネット上で聖書を学ぼうと放浪していた時でした。心が渇き、苦しく、霊的にも瀕死の状態だったと思います。「主イエスを信じればそれでいいと教わったけれど、じゃあどうしてこんなにも苦しいのか。本当に今のままで良いのだろうか。」という疑念は消えませんでした。ネット上のいろいろな人々の解説によって聖書を理解しようと努めましたが、まったく腑に落ちませんでした。「それは自分の信仰が薄いからだろうか」と何度も思い、「別の地上の教会に行ったら解決するだろうか」とも何度も思いました。今となってはその放浪と渇きの期間が真の聖書福音に出会うための非常に重要な伏線であったと思います。それが無ければ、それから後に出会う真の聖書福音を、真の聖書福音だと確信出来なかったかもしれません。「何事にも時がある(コヘレトの言葉三章一節参照)」とは、こういうことを言うのだろうと思います。

 

ミカエル氏のブログに出会った時の「確信」の感覚も、今でもよく覚えております。「聖書の解釈に矛盾がなく、一貫、一致している」という感覚を初めて味わいました。これを「確信」と言うのかと心が震えました。聖書解釈に矛盾が無いので否定の余地がなく、「これ以外にどう解釈のしようがあるだろうか」とぐうの音も出ないとはこの事です。この経験を経て、手前はやっと長き放浪を終えました。

 

とは言え、直ぐに兄弟の集いの門を叩いた訳ではないことは過去記事でもお伝えしたとおりです。詳細は割愛しますが、決断しきれず、だらだらした時間は本当に勿体無かったと思います。門を叩くのを躊躇っていた時も、今もですが、特に自分の不甲斐なさに直面した時は「折角、真の聖書福音に出会えたのに、お前は、それを知らなかったかのように生きていて良いのか、折角知る機会を得たのに台無しにして生きていて良いのか」という言葉がいつも自分に問うてきます。「もしこのまま目を背けてこれまでのように、あるいは、半端な状態で生きたならば、お前は絶対に後悔するぞ。死んで神の裁きを受ける時に、絶対に後悔という言葉で言い表せない後悔(転げ回って、泣き喚いて歯ぎしりするかもしれない)をするだろうな。」といつも同じ結論に至ります。はっきり言って、こんなのは絶対に嫌です。罰が恐い気持ちも当然ありますが、罪に汚れたままで終わるのが堪らなく嫌ですし、万物の主権者である神から認められずに終わること程辛いものはありません。正しくない言行をすれば良心が物凄く疼きます。これが無くなったり、見ない振りして自分を誤魔化せるようになったら、いよいよお仕舞いです。神の言葉が心に響くのはとても幸いなことです。誰かに分けることは出来ない、あなただけのものです。それを無駄にしてはいけません。それを無視したらその火は静かに消えるだけです。

 

聖書真理を認めようと、認めまいと、現在は世の終わり(艱難期)に位置しております。この世の存続期間は六千年(千年×六日)であり、今は六日目の日没間際です(参照:真の聖書福音と預言「千年王国の真実 後編」)。この終わりの時期はヨハネの黙示録にある艱難期であり、悪魔崇拝の支配層は彼らの理想郷である新世界秩序(世界的に人口を削減し、支配層の管理に適した人数の残った人々を奴隷状態にして管理する)が構築されようとしております。聖書に無知だったり、不信仰(偽福音信仰も含める)であれば、「生きるためには仕方がない」と支配層が強要するワクチン、個人番号券、電子通貨、やがて来たる日曜礼拝等の悪策を容易に受け入れるようになるでしょう。それは悪の秩序に服したことになり、霊的刻印でもある獣の刻印が押されます(参照:キリスト道)。無知である程に、「でも、普通に生きる分には何も問題ないでしょ」と思うかもしれません。しかし、支配層に従う世界がまともであると、どうして言えるでしょうか。

 

まず悪に屈したら、その多くは人口削減の対象となり、命を奪われるでしょう。こちら(ヤフーニュース)のとおり、日本の人口は九十万人も減少しております。少子高齢化という要因もありますが(参照:年中ハッピー!くらしに役立つ便利手帳)、ワクチンの影響も当然考えられます(参照:note)。『こちら(Tanto Tempo はてなブログ)のとおり、世界経済討論会(WEF)の相談役で、同性愛者のハラリが、「人間は乗っ取って操ることが出来る動物で、自由意志は終わった」、「新型コロナウイルス危機は、後世皮下ですべてが監視されるようになった瞬間として記憶されるだろう」と堂々と人間を動物扱いし、監視管理の対象、及び操る対象にした(引用:真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」)』の説明のとおりに、もはや人間扱いされておりません。政府等のもっともらしい説明に騙されたり、現実を見て見ぬ振りをしても惨めな現状は一切変わりません。現実を認識するほどの知識が無ければ事を判断出来ず、まるで何もなかったかのように流されて日常に耽るようでは、まさしくただの家畜です。ただでさえ世の殆どの人は世の権威に丸め込まれており、そればかりか、従わない者を弾圧する多数派に対して抗うには確固たる信念(信仰、正義、慈愛、知識等)が不可欠です。多数派に従えば仮初の安心感があるかもしれませんが、それで失ってしまう本当に大切なものがあることを忘れずにいましょう。聖書を読み、主イエスを信じ、新世界秩序に繋がる悪しき動きに抵抗するべきです。

 

 

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こちら(メモ・独り言のblog)によると支那の国防相が『(支那の)台湾に対する主権が脅かされた場合、日本と韓国にある米軍基地は合法的な標的となる。北京は外国の干渉を容認しない』と発言したようです。以前から同様の発言はあったと思いますが米軍基地が標的である以上、日本が攻撃される危険性がますます高まっていると思います。この事は、違憲な集団的自衛権に則って米国と行動を共にすれば、憲法改悪をしなくても日本は攻撃対象となる事を示しております。たとえ国会で(第二次安倍内閣当時)安全保障関連法案が強行採決され、集団的自衛権の行使容認が閣議決定されても交戦権を認めていない現行憲法に反して違憲であり、憲法九十八条一項によりこれらはすべて無効です。違憲法制に猛抗議しなければ、日本は大損害を受けるでしょう。更には、『台湾が侵略された場合は、英国は太平洋で戦う用意がある』と英国国防相が発言し、また、こちら(テレ朝NEWS)によると支那とロシアが合同軍事演習を行っており、台湾有事にはロシアや北朝鮮も加わってくると考えられるため、まさに世界大戦へと拡大していく懸念があります。米国の戦争の道連れにされる集団的自衛(違憲)は日本を地獄に導く最悪の手だと分かります。そして、先の記事では、新たに着任した内倉統合幕僚長が防衛力を強化していく考えを示していることから、戦争に直走っているのは間違いありません。また、『自衛隊と米軍が昨年実施した「台湾有事」想定の最高レベルの机上演習で、中国が核兵器の使用を示唆する発言をしたとの設定に、自衛隊が米軍に「核の脅し」で対抗するよう再三求めた(引用:ヤフーニュース)』ことが明らかとなり、このままでは泥沼の応酬と大荒廃が起こる懸念があります。そのような中、こちら(TBS NEWS DIG)によると、防衛省は二千二十一年から、子ども版「防衛白書」を全国の小学校に配布し、その内容は「日本の安全保障を『軍事力の強化による抑止』という一つの側面」に焦点を当てており、早い内から『軍事力の強化による抑止』ありきの考えを刷り込み、やがて戦争や改憲を肯定し、更には進んで兵役に就くようになってしまうのではないかと危惧します。行く着く先は激しい人口削減、真正イスラエルたる日本(参照:真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである)の滅亡です。

 

※支配層は現行憲法が保障する自由と人権が邪魔で仕方がないため激しく攻撃している

 

そして、大荒廃の後に生き残っても、もっと酷い家畜化、監視管理社会が待ち受けます。

 

画像引用:https://ameblo.jp/makotowomotomeosameru/entry-12910734304.html

 

↑は、監視カメラや人工知能 (AI) 、マイクロチップ等によって体内 (脳内も含む) まで常に監視され、ローマ教皇の法等に実際に従ったと確認されないと食料や電子通貨が配給されず、また、信用得点がガタ落ちしてそれがデジタルID (電子身分証) にも反映され、生体認証等が導入された公共交通機関や店を利用できなくなる (生きていけなくなる) 暗黒社会を作るためのものです。

 

引用:主イエスこそ真の道である。「真実を心から求めている人へ」

 

支配層が青い光線計画の全段階を終えて世界統一政府の樹立に成功したら、どうなるか。モナスト氏によると、キリスト者の子供は生贄か性奴隷にされ、囚人は医療の実験台や臓器移植の在庫とされ、奴隷階級庶民は特定の居住区で働くようになり、囚人の中で支配層の意向に従わぬ者は新世界秩序(NWO)に肯定的になるよう再教育を施され、公的な処刑場が作られるといったことがあるとのこと。奴隷庶民が特定の居住区で働いて生活するとは、今始まりつつある十五分都市のことであろう。十五分都市は、過去記事「日本人の問題点 四」でも紹介した。(略)そうして出来た十五分都市にワク接種を受けたり、洗脳され切った愚民どもがその都市に詰め込まれ、現憲法で保障されてる居住移転の自由も無くなり、ひたすら支配層に搾取されるために働かされ続ける。反キリストの支配層に不服従の者が収容所行きになり、再教育を受けるとか処刑されるというのは過去記事「FEMAと言論弾圧、そして今後の動向について」でも言及したFEMAと強制収容所に関係することであろう。せやから、これは決して空想話ではない。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」

 

 

そして、監視管理に繋がる仕組みはどんどん現実のものとなっております。

 

こちら(BrainDead World)によると、トランプ政権は、米国人に個人の健康情報や医療記録を民間科学技術企業と共有することを求める新たな民間健康追跡の仕組みを立ち上げているようです。「民間健康追跡システム」に個人の健康記録が集約され、外部からの接続も可能な仕組みのようですが、言うまでもなく私事権や同意の問題があり、何のために一元管理するのか怪しさが満載です。これについてはこちら(CNET Japan)のように、トランプ政権のロバート・F・ケネディ・ジュニア氏が「Apple Watch」等の装着型端末を使用することで全国民が自身の健康を「常時モニター」できる社会を目指すと謳っていたようです。しかし、こちら(メモ・独り言のblog)によると、政府が個人を監視、評価、管理するのが狙いと書かれており、本懐を隠して導入しようとしております。もはや健康産業ではなく『監視産業複合体』とまで言われており、しかも、『健康データが通貨』となる最悪の設定が考えられているようです。『保険に加入できるかどうか、保険料が値上げになるかどうか、就職や経済援助の資格があるかどうか』健康数値が信用得点のように評価され、もはや私事権や自律の概念が許されない、恐ろしいまでの非人間化社会を目論んでいるようです。「ここまでするのか」と驚く程です。現在、スマホやスマートウォッチ等では、健康情報を管理したり、心拍や呼吸、睡眠を計測するアプリがあり、一定の利用者がいるようです。それら生体情報は既に盗み取られていると思われ、そればかりかそれらによる健康管理に慣れてしまえば「民間健康追跡システム」のようなものが登場すれば尚の事、安易に受け入れてしまうでしょう。平素よりスマートウォッチを使うべきではなく、やがて日本でも生体認証による監視管理等が開始されかねないため、進んで奴隷とならないようにこれらを拒絶するべきです。また、スマホによる監視にも要注意です。余計なアプリは入れない、スマホに依存しない距離感が必要です。

 

画像引用:https://x.com/kazu_uracorona/status/1957991540267397379

 

政府や報道機関や大企業らは、様々な監視管理に繋がる技術や仕組みをさも良い事や便利な事かのように勧めてきます。しかし、これらが表立った理由だけに使われずに悪用されたら、どのように成り得るかを想像力を働かせて考えるべきです。この世は悪しきものに支配されている(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)ため、良い事に使われるはずがありません。そもそも「世の悪」を認識せず「風潮」や「流行」に乗るのが良い事と思えば、すぐさま家畜として飼われる側になるでしょう。「そんな訳ないでしょ」と一笑に付すのは簡単ですが、いざ事が起きてからでは決して取り返しがつきません。その無用心さ、無知、愚かさが原因となって獣の刻印を押されることに繋がると考えていきましょう。大なり小なり、人生は選択の連続です。獣の刻印を押されることも悪い決断と行動を続けた結果です。逆に、神に従い神の刻印(ヨハネの黙示録七章二節から四節参照)を押されることも正しい決断と行動の結果です。

 

四、死後の永遠は神の律法、掟、戒めの遵守に懸かっている

律法違犯の呪いのために真正イスラエルたる日本には数多くの災い(悪疫、人口減少、偽日本人らによる乗っ取り、飢饉や戦争の危機等)が臨んでおります。ミカエル氏が何年も前から『日本人の一部が古代イスラエル人であり、それ故自動的に古代イスラエル人の末裔全員は、モーセが仲介者となった古い契約の拘束下にある。律法に違犯するという罪を犯して契約違反をすれば呪いがあることも律法に明記され、大量の移民外国人に乗っ取られ、原住民である純日本人が減少し続けて追い詰められつつある現状はまさにそれを示しており、聖書や律法の真実性を証明してる。せやから、聖書や神の律法を軽んじるな。(引用:真の聖書福音と預言「地獄行きを甘く見るな」)』等と警告してこられたとおりです。しかし、古代イスラエルや古代ユダと同様に目を覚ます者が非常に少ない状態です。歴史は繰り返す、でもあり、聞き従う者が少ない(頑な者が多い)のも預言どおりでもあります。しかし、厳然と警告は発せられていることや聞き従わなければいけないことに変わりはありません。以下、現代人こそ聞くべき預言者の警告を見ていきます。
 

イザヤ書四十二章十八節から二十五節(参照)

 

(十八節)耳の聞こえない者たちは聞け、目の見えない人々は見分けるために刮目せよ。

(十九節)目の見えない人とは誰か、我が僕ではないか。耳の聞こえない人とは、我が遣わす我が使いのようではないか。目の見えない人とは誰か、平和を好む者のようではないか、主の僕のようではないか。

(二十節)多くの事を見たが気付かず、耳を開くが聞こえない。

(二十一節)主は御自身の義の故に律法を偉大で栄光あるものとすることを喜ばれる。

(二十二節)この民は略奪され、役に立たなくされ、彼らは皆、穴に罠にかけて捕らえられ、牢獄の家に隠(投獄)された。彼らは餌食となり、略奪品を奪回する者も償えと言う者もいない。

(二十三節)お前たちの内、誰がこの事に耳を傾けるだろうか。誰が来る世のために注意を払って聞くだろうか。

(二十四節)ヤコブを略奪品にしたのは誰か、イスラエルを強奪する者に渡したのは誰か。それは主ではないか、この御方に我らは罪を犯し、主の道に歩もうとせず、主の律法に聞き従おうともしなかった。

(二十五節)主の怒りの激しさが彼の上に注ぎ出され、戦いの力がほとばしり、彼の周囲から燃やした。しかし、彼は気付かず、それが彼を焼くが気にもかけなかった。

 

上記の古代イスラエルの民に対する警告の言葉はそのまま現代日本にも当てはまります。このままでは日本が古代イスラエルと同様に激しく荒廃するばかりか、死後の永遠の刑罰は免れないでしょう。

 

十八節にあるように、聞く耳を持たない者や何も気付いていない者はこれ以上、悪化しないためにも律法を尊重して聞き従う必要があります。

十九節から二十節について、現代では聖書を知りながらも律法を軽視するパウロ教徒らも当てはまると考えます。律法を軽視するために自らの罪をまったく認識せず、それにも拘らず敬虔な神の僕のつもりでおります。始末が悪く、非常に惨めでもあると思います。律法学者やファリサイ派の人々と同じように自分を正しい者と勘違いしながら、その実は罪に塗れており、滅びは免れないでしょう。現代においては、彼らは不信仰者よりも聖書に触れて、目にしているにもかかわらず、何も悟らないでいる様はそのまま当てはまっております。そして、目が見えない、耳が聞こえないのは、真の聖書福音に耳を傾けない契約の民である真正イスラエル(日本人)全体に当てはまります。

主イエスも律法は廃止されていない(マタイによる福音書五章十七節参照)と明言されておりますが、二十一節でも「主は御自身の義の故に律法を偉大で栄光あるものとすることを喜ばれる。」と言われる程であり、律法を軽視すれば主なる神に喜ばれることは決してないでしょう。尚、この箇所(二十四節も同様)は新共同訳、新改訳、口語訳では「教え」と曖昧な書き方をしておりますが、原語と文脈から「律法」とするべきと考えます。

 

律法の軽視(即ち、神に従わない、神を愛さない事を意味する)の結果として、神の保護を受けられず、二十二節のとおりに敵対者(悪魔崇拝の支配層、間接統治者である偽日本人ら)からの略奪(搾取)を許す結果をもたらしております。即ち、律法違犯の呪いであろうと考えます。また、この事は残り少ないこの世の将来のみならず、死後の永遠を終わりなき苦痛で終わらせないためにも重要です。しかしながら、「誰が来る世のために注意を払って聞くだろうか(二十三節参照)」というのが現実です。この事は、選ばれる者の少なさ(マタイによる福音書二十二章十四節)を表しており、救われた者が非常に少なかったノアの時と同様です。この事を踏まえて、予告されていることでもあるため少数派となることを恐れず、主イエスに従って突き進みましょう。

 

二十四節に「ヤコブを略奪品にしたのは誰か、イスラエルを強奪する者に渡したのは誰か。それは主ではないか、この御方に我らは罪を犯し、主の道に歩もうとせず、主の律法に聞き従おうともしなかった。」とありますが、神は悪い状態を放置せず、違犯に対しては厳正に罰をお与えになります。しかし、律法違犯の呪いも含め、神から下る罰は甚だしく、悔い改めるのが賢明なのは言うまでもありません。「聞く耳を持たない」のは論外ですが、少しでも聞く耳を持ったのならば、必死に悔い改めましょう。自身の救いのためという側面もありますが、聞く耳を持つようになれば神への愛から悪(律法違犯)を自ずと嫌悪するようになると思います。その良心に嘘をつかず、良心に正直で素直でいられたのなら幸いです。

 

二十五節には神の怒りの火が下っても、それに気付かず気にもかけなかったとあります。何かしらの災いが臨んでいてもそれが律法違犯の呪いの故であることに気付かない状態を指しているのではないかと考えます。最後までその状態であれば、下手すれば地上での生涯を終える段階かもしれず、もはや悔い改めが困難となり、死後にもっと過酷な地獄の刑罰を受けるようになるでしょう。「どうしてそのことを教えてくれなかったのか」と後になってから言い訳しても無駄です。聖書は最初からこのように警告しておりました。後になってどんなに後悔しても時、既に遅しです。

 

カトリック、プロテスタント、正教会らの偽福音は滅びに至る多数派の道です。彼らは律法を軽視して、主イエスを信じればそれで良いと言い、何ら自身の生き方を改めません。そこには自律や鍛錬の概念もなく、気持ち悪いまでの生温さしかありません。一方、主イエスの御命令に従い、主イエスに倣い、神の律法、掟、戒めを守る道は、これまでの世俗的生き方の価値観から言えば「大変」です。世の友とならずに生きようとすれば、自ずと世俗と距離を取らざるを得ないからです。本当の意味で「断捨離」するので、「そうしてみたい」と思うまでは簡単ですが、実行するには「清水の舞台から飛び降りる」覚悟が必要です。真の聖書福音と預言「地獄行きを甘く見るな」でも言われているとおり、ノアの時代の人口は七十万人程度でしたが、箱舟に乗れたのは僅か八人でした。この位のごく少数しか歩み得ない狭苦しい道です。現代においても真のキリスト者を目指す者は非常に少数であり、多数派を恐れたり少数派となることを嫌うようでは進み得ないでしょう。しかし、よく考えていただきたいのですが、多数派の世俗に染まって生きた所でそこには希望は一切ありません。時間も労力も金銭も搾取され、常に追い立てられ、束の間の娯楽や快楽で誤魔化した所でその先にあるのは人口削減策(ワクチンや戦争等)による死であったり、生き残っても新世界秩序の下で更に家畜のように監視管理されるでしょう。「生きてられれば、それでも良い」と思うのなら、家畜となることを選択したに等しく、それでは獣の刻印を押されるでしょう。真の希望は、この世の全ての悪を断罪する神の裁き(正義の実現)と神の目に適い無罪判決を受けて神の王国で永遠の命を得ることにあります。即ち、主イエスへの信仰です。繰り返しますが、支配層などのあからさまな悪人だけではなく、神に不従順だったすべての人が断罪の対象です。その末路は冒頭で触れた、永遠に続く地獄の刑罰です。現実逃避している場合ではありません。

 

五、結び

世俗で心が満たされていない(心が渇いている)人は幸いだと思います。聖書真理に希望を見出だす糧となるからです。まずは聖書を手に取り、読んでいただき、その後に自分がどう生きるかをご決断いただきたいと思います。そもそもそこに至る人すら少ないと感じますが、「関心を持った」ことには意義があると思います。その小さな芽を着実に育てていかれれば幸いです。ともすればなかなか決断できなかったり、足踏みすることもあるかもしれません。しかし、悔い改めないままでは何の希望もなく、そのままでは後で必ずや後悔するだろうということも覚えておいていただきたいと思います。

 

そして、確かに真のキリスト者は超少数ですが、完全に一人でいるのも宜しくありません。何より主イエスが兄弟で愛し合うようにと命じられております。実際、切磋琢磨する兄弟や御指導、ご鞭撻の数々が不可欠です。同じ志を持った兄弟での励まし合いがどれほど支えになったか計り知れません。そのため兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった兄弟の集いから教会への入会を果たして(入会条件等をきちんとお読みになった上で)、ぜひ共に歩みましょう。

 

 

 

「あっ、このままじゃまずい」と思われた方は、その声を無視せず、聖書の御言葉に聞き従うことを勧めます。悪の世に屈して生きても、死後においても何の希望も無いからです。真の希望は主イエスへの信仰にのみあります。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

こんにちは。

今回は「真の解決と修復に努めよ」と題して伝えて参ります。

 

皆様は、真の聖書福音と預言「真の栄光は艱難を経て得られる」の記事はご覧になったでしょうか。この度も非常に重要な学びをご提供しており、他では学び得ない程の内容です。その記事の冒頭、マタイによる福音書十七章一節からのくだりにおいて、主イエスが使徒ペトロ、ヤコブ、ヨハネにお示しくださった光景は確かに『この世の歴史の長さとキリストの再臨及びその後の情景に関する事』でした。『神がこの世を滅ぼして、新たな世を造ると仰せなんやから、真のキリスト者なら腐敗して不法を行う悪人がはびこるこの世やのうて次の世に希望を持つべき』のとおり、福音の根幹に関わる非常に重要な箇所です。そして、マラキ書三章二十三節の預言のとおりに終末にエリヤの働きをする者が現れ、すべてを修復するだろうと主イエスは言われました(マタイによる福音書十七章十一節参照)。十一節の「修復」「乱れた秩序の回復」を指しており、『終末期のエリヤは神のために過去の偽福音や偽教義の誤りを指摘して弾劾し、正しい福音を宣べ伝え、人々を悔い改めさせ、神のためにまともな人を用意するべく働く』と解説されているとおりです。我らはこの事に学び、神の秩序に服し、悔い改めるべきです。

 

画像引用:真の聖書福音と預言「真の栄光は艱難を経て得られる」

    (https://ameblo.jp/leo085/entry-12912518819.html)

 

前回記事(悪に抵抗して神に忠誠を示せ)でも触れたように今は終末の艱難期です。世の動きからして大艱難期入りも近く、まさに最終局面と言っても良い時期に差し掛かっております。これまでの過去記事で散々触れたように、この世は聖書真理を知らず、理解しないために基本的な善悪の区別も出来ず、自己愛や私利私欲のままに獣のように振る舞う悪人が多数はびこり、悪魔崇拝者の極悪人(支配層)がこの世を牛耳っております。神の律法は元より、世俗の法律も碌に守られず、違犯が裁かれず、社会秩序は乱れに乱れております。実にこの世は問題だらけです。「何故、このような不法や出鱈目がまかりとおるのか」と、まともな感覚があれば必ず思うことです。「どうして悪人が利得を貪り、庶民がこれほど苦しむのか」と世の悪の実態を知らない人でもそう思うことでしょう。

 

エレミヤ書十二章一節(参照)

何故、邪悪な者の道は繁栄するのか。何故、罪を犯す背信者は皆、繁栄しているのか。

 

預言者エレミヤも上記のように言われております。それに対して、主なる神は「もし彼らが従わないなら、我はその国民を徹底的に根こそぎに引き抜いて滅ぼす。(エレミヤ書十二章十七節参照)」と言われております。神は必ずや悪を滅ぼすと明言しており、悪人、即ち悪魔崇拝者の支配層のみならず、世に属する不信仰者やパウロ教徒らも含めて、神は悪(律法違犯)を裁かれます。短期的には悪人が繁栄するように見えても、俯瞰すれば束の間のことでしかなく、最後には必ず悪人は滅ぼされます。故に、この神の公正な正しい裁きには希望があります。

 

箴言十六章二十五節(参照)

人が正しいと看做す道がある。しかし、その終わりは死への道である。

 

このような言葉もあります。この世で繁栄して社会的地位を得ることは、世間一般では尊ばれることかもしれません。実際、悪魔も主イエスをそのように誘惑しました(マタイによる福音書四章八節から九節参照)。しかし、それは真の成功を意味しません。本気で神に従おうとすれば自ずと大金や贅沢、高い社会的地位とは縁遠くなります。「限られた短いこの人生を如何に彩るかがすべて」とばかりに世の人々は行動します。「社会的成功や大金を稼ぐよりも大事なことがある」と口にすれば、「やせ我慢だ、金が欲しいのが本音だろう」「そんな人生はつまらない、何が楽しくて生きているのか」「一体、何の宗教か」と言われることもあるかもしれません。そのように言うのは、そういった人たちが真理を知らないからです。故に、世のことだけを語り、世の事柄に執着します。しかし、その世俗社会は今、新世界秩序の構築に向けて支配層がやらせの戦争を目論み、既存の社会秩序を破壊しまくり、乱れに乱れているため、不安を感じている方も多いと思われます。

 

前回記事で主イエスの終末預言の「戦争や戦争の風評」から、偽イスラエルとイランの戦争が起きて、米国が介入し始め、第三次世界大戦へ至る懸念があると言及しました。その後、こちら(日刊ゲンダイ)のとおり、トランプ大統領が停戦を宣言しました。しかし、あくまで「停戦」であって「終戦」ではないため注意が必要です。こちら(ウィキペディア)を見ると、停戦とは『停戦期間が過ぎたり、あるいは一方から攻撃がなされるなど停戦の条件が破られると、戦争再開となる。』とあり、決して終わった訳ではないと分かります。第三次世界大戦は、支配層が古くから計画してきた新世界秩序を構築させるための「大きな再設定」(Great Reset)と考えられます。簡単に戦争を終わらせるはずがなく、停戦から次なる段階に進むと思われるため注視していく必要があります。悪魔崇拝の支配層にとっては、あくまで攻撃対象の本丸は真正イスラエルたる日本(参照:真の聖書福音と預言「動画八回目投稿 日本はイスラエルである」)です。それ故、支配層は日本を参戦させ、より多くの国民を巻き込むために、支配層の駒である政府、国会議員らと一体となって憲法改悪を進めるでしょう。戦争のみならず、国民がこれまで享受してきた自由(精神的、経済的、身体的自由など)と人権を奪うのが憲法改悪であり、改憲阻止が非常に重要なのは言うまでもありません。「(改憲の)国民投票によって、国民に信を問うと良いだろう」との意見を見かけたことがありますが、国民投票は結論ありきの茶番につき、改憲発議も国民投票にもかけさせてはなりません。

 

 

偽イスラエルとイランの戦争の裏でローマ教皇が世の人々から好評を得ているようです。こちら(BuzzFeed)によると、教皇は『就任以来、SNSを駆使して平和を訴えている』ようで、『戦争は避けられる。武器は問題を解決せず、悪化させるのみである』等の投稿をしていたようです。太陽暦六月二十二日に米軍がイランの核施設への攻撃を行ってからは『外交が武器に沈黙を与えんことを。暴力や血に塗れた対立ではなく、平和の業によって未来を切り開かんことを』等、戦争への非難を投稿し、それに対して、『その通りです、レオ教皇』『国際政治について最も良識のある言葉をローマ教皇から聞くことになるとは予想もしていなかった』などの賛辞の投稿があったようです。これによって教皇が戦争を止めてくれる(解決してくれる)といった考えが刷り込まれ、今後も期待する人が大勢出てくる懸念があります。しかし、ローマ教皇は偽りの解決者であり、新世界秩序に君臨する六百六十六の獣でしかないため、決してローマ教皇に期待してはなりません。

 

 

そのローマ教皇は、フランシスコ教皇であった時から、こちら(CNN)のとおりに気候変動(詐欺)に偏執して「気候変動」の懐疑論を一喝し、「西側諸国」を的にしつつも、従わない者を非難しております。レオ十四世も同様に気候変動詐欺を受け継いでおります(参照:中外日報)。ミカエル氏がキリスト道にて『偽感染症騒動の次は気候変動詐欺や』と言われているとおり、『コロナ犯罪と同じく、気候変動を名目にして都市封鎖が必要とか、週に一度完全な休日にして、二酸化炭素排出量を減らす必要がある等と規制を敷く可能性が高い。それに日曜休業令が繋がる可能性もある』ため、要警戒です。戦争にしろ、偽感染症騒動にしろ、気候変動詐欺にしろ、彼らが「問題」を作り、「危機」を煽り、人々を怯えさせたり、対応の機運を高めるなどの「反応」を醸成させ、彼らの本懐である「偽りの解決策」を提示します。彼らの「解決策」はすべて新世界秩序に向かう碌でもない内容(人口削減や監視管理等の手段となる)のため、決して受け入れてはなりません。その手口たる「問題→反応→解決」は至る所に見出だせます。

 

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兄弟から教えていただいた情報ですが、こちら(日本放送協会)によると、『気候変動のフェイクが拡散』と報道機関こそ誤情報を撒き散らしているようです。同様に、環境省がこちら(日本放送協会)のように『科学的根拠のない情報が広がることはゆゆしき問題で分かりやすい発信を行っていく』として『気候変動の科学的根拠を紹介する特設ページ』を設けたようです。気候変動が詐欺であるという不都合な情報(参照:ビットシュート)を「根拠が無い」と看做し、報道機関こそ虚偽を言い広めております。世の権威がこのように言い広めると無知な人は「やはり誤情報なのか」と丸め込まれるかもしれませんが、気象操作がされているのは事実です(参照:ビットシュート)。気象操作して『日本国内で真夏日や猛暑日の日数が増え、大雨の頻度が増えていることを示すデータ』を並べられても自作自演でしかありません。こちら(朝日新聞)のように他の大手報道機関も報道し始めて包囲網を敷いていることを不自然と思うべきです。ここまで世の権威が気候変動詐欺の指摘に強固に反論するのは、気候変動(詐欺)が、ローマ教皇の邪悪な秩序(日曜礼拝等)の強要等に繋げるのに重要だから(及び、人々の移動を制限させて「十五分都市」に閉じ込めて管理する等)と考えられます。つくづく支配層に都合の良い情報だけを強固に垂れ流し、人々を洗脳する報道機関は邪悪です。

 

今はまだ真実情報をネットで調べることが出来ますが、遠くない内にやがて言論統制されて、公式見解以外の発言は許されなくなる危険が大いにあります。

 

太陽暦六月二十七日に与野党協議会がこちら(日本放送協会)のとおり、選挙についてSNS上で偽情報などの拡散を防ぐために、SNS運営事業者や有権者に向けて改善を求める声明を出したようです。『制度改正を見据えた対策の「たたき台」』には『政党や候補者からの申し出に基づいて即日削除することを事業者側に促せるようにする』こと等が盛り込まれていたようですが、合意には至らず声明に留めたようです。内容から明らかに違憲の検閲であり、こんなものを平気で出すのは異常です。しかも、『与野党の実務者は今後、法制化に向けた具体策の検討を続けることにしています』と諦めておらず、このままでは法制化される危険があります。

この件に関して触れているこちら(さくらフィナンシャルニュースのブログ)の記事では、二千二十二年に厳罰化された侮辱罪が今後、『政治家批判を封じ込める制度的装置として活用される懸念が強い』と警鐘を鳴らしており、大いに有り得る話です。『筆者自身も政治的批判を行った結果、警察により取り調べを受けた経験がある。最終的には不起訴処分となったが、何をもって侮辱とされ、どのような基準で判断されたのかは極めて不明確であった。』と実体験を述べており、今この時も警察から取り調べを受けている人がいるのかもしれません。真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」の記事において、侮辱罪は『明らかに悪徳政府と悪徳官僚らによる国民からの批判封じの言論統制が目的』と言われているとおりで、表現の自由に反するため違憲無効です。これらの違憲に碌に抗議もせず、違憲を放置するなら、本格的に憲法が改悪されて弾圧されるようになるでしょう。

同時に、政治への批判については『公正な論評といった正当な表現行為については、刑法35条の正当行為として処罰されません(引用:法務省)』とあるように、「公正な論評」であることにも留意するべきです。これは政治に限らずですが、正当な批判であるためにも感情的に罵ったり、根拠も無いのに決めつけたり、論理が飛躍してはいけません。却って自身が責めを負い、相手に付け入る隙を生みます。自身や議論の品位を落とさないためにも大事です。

関連して、ドイツではこちら(メモ・独り言のblog)のように『政治家への侮辱やオンラインでの「憎悪と扇動」の拡散に関与した疑いのある数百人を対象に捜査』が行われているようです。これらの家宅捜索には『通報センター』なるものが絡んでいるようですが日本の戦中の密告かのようで実に嫌な仕組みです。ドイツの様子は日本にとっての「明日は我が身」です。かつて日本では稀代の悪法である治安維持法によって言論と思想が統制されました。政府に逆らえば拷問を受けるなど、小林多喜二氏の話は決して終わった過去のことではなく再来の危険があると認識するべきです。違憲にもかかわらず成立してしまった「共謀罪」はそれ程の危険を秘めており(参照:真の聖書福音と預言「共謀罪と真のクリスチャンのあるべき姿勢」)、違憲無効と抵抗するべきです。支配する側はこのように言論を統制し、庶民に服従を強いるものと歴史に学び、今必死になって止めなければ政府の支配下に置かれるものと心得て反対していきましょう。

 

世の権威は自らの誤った主張だけを「正しい」と言い、それ以外を「偽情報、誤情報」と看做し、徹底して弾圧する仕組みを作ろうとしております。この先にあるのは新世界秩序であり、支配層に従うことが善で、従わなければ悪とされる暗黒社会です。そのためには徹底して監視管理され、自由と人権が奪われ、まともに生活が出来なくなることをしかと覚えるべきです。支配層の実験国家である支那(超監視管理の共産主義社会)に日本は近付いております。そして、その暗黒社会の中で支配層は「反キリスト行為」を人々に強いることを目論んでおります。考えられるのは先に挙げた日曜休業の強要、即ち、日曜礼拝です。

 

多くの日本人は知らんし、中々想像でけへんやろが、欧州では日曜日に殆どの会社が休みにさせられ、多くの人が働かず、店も閉めさせて買い物でけへんように規制する日曜休業法があり、非常に忌まわしい。これは四世紀の太陽神崇拝者であったローマ皇帝コンスタンティヌスの日曜休業令の繰り返しで、まさに歴史を繰り返してる。将来これに日曜礼拝が加わるのではないかということや。太陽神崇拝者であったコンスタンティヌスが日曜休業令を出した目的は、人々に日曜礼拝をさせるためやったからや。カトリックの影響が強い欧州はこの忌まわしい慣習を復興させ、カトリックの太陽神崇拝の慣習が世俗の法律に反映しており、無宗教を自称しても嘘であり、カルト世俗社会に追従することはカトリック信者、太陽神崇拝者の扱いになる。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」

 

不信仰者、パウロ教徒らはこれを何とも思わないかもしれません。しかし、これは由々しき反キリスト行為であり、律法違犯です。神にとって(人にとっても)安息日は非常に重要なものであり(参照:真の聖書福音と預言「安息日の重要性とモーセの律法」)、これを敢えて汚す行為は忌まわしく、嫌悪すべきことです。ところで、こちら(ダイヤモンドオンライン)によると、日本のカトリック系の学校が日曜日の入試を避けて日程をずらす動きが見られるそうです。その数は決して多くはありませんが、カトリックの太陽神崇拝の慣習に巻き込まれている点に注目すべきだと思いました。今は小さなことに見えてもやがて大きくなり、やがて全地において強要されるようになる危険があります。聖書に基づく正しい安息日(七日目)は金曜日の日没から土曜日の日没までです。しかと覚えておきましょう。

 

本当の問題とは、偽りの感染症や偽りの気候変動に対処することではなく、この世で繁栄することでもありません。本当に問われている主題は(人が神から問われているのは)、各位の人生において、神を畏れ、神の掟を守ること(コヘレトの言葉十二章十三節参照)です。この世を牛耳る悪魔は、神に敵対する存在であるため「神を知らず、畏れず、神の掟を守らせない」ように仕掛けます。悪魔は大衆にこの世の人生がすべてと思わせ、世俗に耽らせ、徒労と絶望と勘違いのまま人生を終わらせたり、反キリスト行為(教皇に服従、日曜礼拝、性的倒錯、刺青を入れる、西洋かぶれ等)をさせることで、神の裁きにおいて有罪判決を受けさせ、悪魔と共に永遠の滅びに道連れにすることが狙いです。この悪が支配する世に抗い、神に忠実であれば、神は無罪判決を下し、神の王国で永遠の安息を与えてくださいます。ここに真の希望があります。一方、不忠実な者はすべて有罪判決が下り、火の池に投げ込まれます。

 

「問題」の言葉を辞典で調べると以下の①から⑤の意味(項目)が並びますが、これに則り「真の問題」について整理してみます。

 

① 答えさせるための問い。解答を必要とする問い。

⇨人生は、死後に神の王国に入られるかどうかを試す試用期間であり、神の律法、掟、戒めを遵守出来るかが神に問われている。

 

② 取り上げて討論・研究してみる必要がある事柄。解決を要する事項。

⇨ 神の律法、掟、戒めを遵守するためには、過去の契約の民の失敗に学び、聖書を詳しく調べて神の御意志を深く知る必要がある。また、預言等を踏まえ、これから起こることと世の動きを照らして考えるなど聖書研究等が不可欠。

 

③ 取り扱いや処理をせまられている事柄。

⇨人生は短く有限であり、『あんた方は明日のことやあんた方の命がどうなるか知らのんや。あんた方は少しの間現れて、すぐ後で消される蒸気や。(ヤコブの手紙四章十四節 引用:真の聖書福音と預言「多数派に属す者は破滅に至る」)』であることを弁えて、世の友とならず、真の聖書福音を伝道し、真のキリスト者を目指して鍛錬と準備を積み重ねていくことが求められる。

 

④ 世間の関心や注目が集まっているもの。噂(うわさ)のたね。

⇨世俗の関心事は、一番大事な聖書真理から目を背けさせるものであるため深入りするべきではない。時間と労力を奪われるため要注意。

 

⑤ 面倒な事件。厄介な事。ごたごた。

⇨世俗に深入りする程にやっかいな世俗の柵(しがらみ)に束縛されるため、世俗と距離を置き、巻き込まれないように注意を払う。また、信仰と世俗の価値観は往々にして相容れず、その事で言われのない非難を受けることは避けられない。律法を最期まで遵守された主イエスを模範として対処していく。

 

引用:スーパー大辞林(丸数字の箇所のみ)

 

そして、以下の聖句は、問題の根幹が何であるかを端的に示しております。

 

エレミヤ書二章十三節(参照)

我が民は二つの悪事を犯したからである。彼らは生ける水の源である我を捨て、自分たちのために水溜めを掘った。それは水を溜められない壊れた水溜めである。

 

主なる神は古代イスラエルの民と現在に至るまで有効となっている契約を結ばれました(申命記二十九章十四節参照)。神の律法を守れば祝福を受け、違犯すれば呪いを受けるという内容です。それを踏まえ、上記の聖句箇所は神への背信が著しい古代イスラエルに対する主なる神からの警告です。「水」については、「誰でも水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることは出来ない。(ヨハネによる福音書三章五節参照)」「この水を飲む者は誰でも渇くだろう。しかし、我が与える水を飲む者は決して渇くことはない。我がその者に与える水は、自身の内に永遠の命に至る水が湧き出る泉となるであろう。(ヨハネによる福音書四章十三節から十四節参照)」等の聖句から、神の霊と真理を指していると考えられます。旧約においても、イザヤ書五十八章十一節やゼカリヤ書十三章一節等でも同様の示唆があります。「生ける水の源」を捨てるとは、聖句どおりに神を捨てること(背信)そのものであり、無尽蔵に湧き出ずる「水の源」には到底敵わない人工的な「水溜め」を掘るなど、普通に考えて愚の骨頂です。しかも「壊れた(※「不完全」「半端」の意味もある)水溜め」と形容される始末です。主なる神は預言者を通じて、神に聞き従えと繰り返し警告を発してきましたが、古代イスラエルの末期ではずっと聞き従わず頑ななままで、彼らの先祖より悪を為すようになった(エレミヤ書七章二十六節)とあります。その惨状に対して、主なる神は以下のように仰せになります。

 

エレミヤ書十五章二節から三節(参照)

主はこう言われる。死(悪疫)に至る者は死(悪疫)へ、剣に至る者は剣へ、飢饉に至る者は飢饉へ、捕囚に至る者は捕囚となる。我は彼らの上に四種の罰を下すだろう。主の仰せ。剣と共に死へ、(死体)を犬が引きずり、それを空の鳥と地の獣が食べ尽くし、滅ぼすに至る。

旧約の預言において、甚だしい背信への罰として剣や悪疫、飢饉等が臨むと書かれている箇所の一つであり、古代イスラエルや古代ユダヤの歴史を見るとそのとおりとなりました。また、終末預言であるヨハネの黙示録でも剣や飢饉等の災いが書かれていることから、決して終わった過去のことではなく、これからも起こる出来事と考えるべきです。何より主イエスの終末預言に書かれた内容とも重なります。「死」の原語には「悪疫」の意味もあり、悪疫の指す内容については真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」で触れられているとおりです。「剣」は戦いの道具であり、戦争を比喩するものです。上記記事のとおり「戦争や戦争の風評」が聞かれ、古代イスラエルたる日本に「剣」が臨もうとしております。直近の世の動きでは、こちら(読売新聞)のように米国防総省が日豪に戦争の関与を要求しております。こちら(風傳媒)の台湾の報道媒体の日本語版では『米国が日本・豪州に「参戦の確約」を要求』と見出しをつけておりますが、実質的にこのような事を意味していると手前も考えます。非常に危険な動きであり、自衛の域を超えた参戦は違憲のため猛抗議しなければなりません。今後、憲法が改悪されれば更に歯止めがきかなくなるため、最大限に改憲に反対、抵抗するべきです。飢饉についても真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」や前回記事で触れたとおりです。

この中で、個人的には「捕囚」の言葉が気になります。古代イスラエルの場合、アッシリアやバビロンへ捕囚として連れて行かれました。この事が現代において起こるとしたら、どのような形で起こり得るでしょうか。「捕囚」の言葉の意味する所は「捕らわれの身」であり、換言すれば「自由の剥奪(拘束)」です。それを踏まえると、新世界秩序が構築されれば『奴隷階級庶民は特定の居住区で働くようになり、囚人の中で支配層の意向に従わぬ者は新世界秩序(NWO)に肯定的になるよう再教育を施され、公的な処刑場が作られるといったことがあるとのこと。奴隷庶民が特定の居住区で働いて生活するとは、今始まりつつある十五分都市のことであろう。(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)』のようになることが考えられます。

また、現時点において、「日本人の問題点 一」で解説されているように日本は英米から植民地支配を受けております。西洋かぶれが酷く、日本らしさが失われ、本来のヘブライ文化を受け継ぐ日本とはかけ離れてしまっており、これも一つの「捕囚」の形と考えられます。

関連して、かつて日本ではこちら(ウィキペディア)のとおり、沖縄だけでなく、小笠原諸島も米国に二十三年間統治され、公用語は英語とされていたことがありました。そして、『島民たちは日英混合の小笠原方言を話しており、家庭によって日本語や英語の理解度が異なっていた。そのため、島民の中には日本語の読み書きや敬語を上手に使えず、返還後に来島した東京都職員などとトラブルになるケースもあった。』とあり、また、その他の米国文化も混入したようで、相当に本来の日本らしさが失われたと考えられます。こちら(SPTR MEDIA)によると「小笠原混成言語」が形成されたとあり、まるで現代日本の片仮名英語混じりの言葉遣いにも似ております。西洋かぶれが進行して堕落させられた現代日本の姿にも重なります。

 

当時のユダヤは、ローマ帝国の属州にさせられ植民地支配を受けてたため、複数言語を知ってる人もちらほら居った事実を知るべきや。現代日本は、昔のユダヤと同じ事態になってる。明治維新以来、英国による植民地支配を受けて日本人を西洋かぶれに傾かせ、第二次世界大戦敗戦以来は米国の指示によって英語を義務教育に入れられ、多少なりとも英語が分かる日本人は明治期以前に比べれば格段に増えた。現代が過去より悪い点は、自ら進んで勉強する場合は別やが、義務教育として敵国の言語を学ぶように強いられてる点であり、その言語を母国語とする外国人から植民地支配を受けてると理解すべきやで。

 

引用:真の聖書福音と預言「救いの序列と弁える謙虚さ」

 

上記引用の話も踏まえ、現代日本人は日本の地には居ながらも主権を剥奪され、占領されて「捕囚」の状態と大して変わらないとも看做せます。真の聖書福音と預言「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」の記事にて参考として載せられているこちら(アゴラ)の記事では「戦後日本の分割占領計画」案があったと書かれております。米国は日本国内に多数の基地を置き、関連区域や空域を占領しているばかりではなく、日本をさらなる戦争に巻き込もうとし、挙句には連合国の敵国条項から日本を外させず、本格的に日本を破壊しようとしております。もし改憲されて日本が台湾有事等に巻き込まれれば(参戦して交戦する)、支那からの激しい攻撃を受けるばかりか、敵国条項により連合国の制裁対象となり、敗戦は必至です。米国は自ら日本を巻き込みながら、後には制裁を課す側に回ると思われ、実に悪質で狡猾な最大の反日国です。改憲論者は「敵国条項は死文化した」と言いますが、明確に間違っております。条項が残っている以上、死文化は有り得ません。

 

※改憲勢力は敵国条項の危険性を無視するが、日本を滅ぼすための強大な罠である

 

今度こそ完膚無きまで叩きのめされ、分割統治されかねません。更には、真の聖書福音と預言「動画初投稿」「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 後編」等のとおり米国先住民等の蹂躙の歴史から、侵略される恐ろしさを今一度、我が事として理解するべきです。

 

今の欧州の言語圏の国々には元々先住民がおり、独自の言葉や文化を持った非白人がいましたが、すべてを奪われ、殺され、痕跡をも消されてしまいました。欧州ではない土地で、英語、スペイン語、ポルトガル語等の欧州言語が話されることの意味をもっとよく考えるべきです。それだけ欧州の白人たちが世界を股にかけて侵略をし、今まで数えきれない程の現地人を虐殺し、財産を強奪し、土着の文化や言葉等を破壊し、今の世代の現地人はそれらの凄惨な過去の歴史を忘れて白人の言葉や文化に合わせて斟酌しているということです。だから、英語が話せないと莫迦にするような西洋かぶれの人は恥じ入るべきです。

 

引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」

これは非常に雄弁な支配の結果だと思います。単に改憲と戦争を阻止することだけでなく、これ以上に酷い「捕囚」の状態とならないためにも(律法違犯の呪いが臨まないためにも)神の律法の遵守が不可欠です。且つ、主イエスが御命令されたように異邦人の道に行ってはならず、西洋かぶれを改める必要があります。ヘブライ由来の日本語を大事にし、日本が古代イスラエルの末裔のいる国であることを踏まえて、聖書に回帰して悔い改めましょう。それが真の解決に繋がります。神に背いたままで状況が良くなることはなく、修復は困難です。

 

最後に、現代人こそ耳を傾けるべき箇所を見ていきます。こちらもまた人々を悔い改めに導く修復のための言葉です。

 

エレミヤ書六章八節から十七節(参照)

(八節)エルサレムよ、お前は懲らしめられよ。我が心がお前から引き離されないように、我がお前を人が住めない荒廃した地としないように。」

(九節)軍勢の主はこのように言われた。「(主は)ぶどうの残りを集めるようにイスラエルの残りの者を集める。お前は(ぶどうを)集める者のように籠にお前の手を戻せ。」

(十節)我は誰に語り、警告したら(人々は)耳を傾けるだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で耳を傾けることが出来ない。見よ、主の言葉は彼らに非難を発せられたが、彼らはそれを喜ばない。

(十一節)我は主の憤怒に満ちると共に耐えることにうんざりした。「お前は外にいる子や若者の集いへ一緒に(怒りを)吐露せよ。男も女も、長老も年齢を重ねた者も捕らえられるからだ。

(十二節)彼らの家、畑、妻は共に他人に引き渡される。我は地に住む者たちに我が手を伸ばすからだ。」(これは)主の仰せ。

(十三節)彼らの小さい者から大きい者まで、その誰もが強奪する貪欲な者だからである。預言者から祭司まで、その誰もが不法を為す者だからである。

(十四節)彼らは軽々しく傷を治した。平和が無いにも拘らず、「平和、平和」と言う。

(十五節)彼らは忌まわしいことをしたので恥をかき、更に、恥を恥と感じずに恥をかいていることを知らない。それ故、「彼らは倒れる者と共に倒れるだろう。我が彼らを罰する時に彼らは倒されるだろう」と主は言われた。

(十六節)主はこう言われた。「お前たちは様々な道に立って見よ、古の道に尋ねよ。どこにその善き道があるか。お前たちはそこを歩め。お前たちの魂の安らぎを見出だせ。」しかし、彼らは言った。「我らは歩まない」

(十七節)また、我は「お前たちに見張る者たちを置き、お前たちは角笛の音に耳を傾けよ。」と言ったが、「我らは耳を傾けない」と彼らは言った。

 

堕落した状況下でまず必要なのは懲らしめです。悪いままでいて順風満帆であったら「そのままで良い」と思うからです。そのため「このままでいてはいけない」と改心させるために神は罰をお与えになります。今の日本の惨状は律法違犯に対する呪いそのものであり、「何かがおかしい」と思ったのならば聖書を手に取りお読みになることを勧めます。「原因のない呪いは来ない(箴言二十六章二節参照)」からです。確かに神はお救いになる者を最初から選んでおり、全員が聞く耳を持ち、救われる訳ではありません。それでも神がお選びになった失われた羊に福音が届いて悔い改めに導くことが神の御意志であり(マタイによる福音書九章十三節、ヨハネによる福音書十一章五十二節等参照)、不信仰者にも何が善で悪であるかを知らしめることも重要です(マタイによる福音書二十四章二十四節参照)。「ぶどう」はイザヤ書五章二節、四節にあるようにイスラエルの民の比喩であり、失われた羊を集める手を止めてはなりません。それは主イエスの宣教命令だからです(マルコによる福音書十六章十五節参照)。

 

しかしながら、ノアの時と同じように大衆は耳を傾けないでしょう。旧約の過去の事例からも、選ばれる者は少ない(マタイによる福音書二十二章十四節参照)との主イエスの御言葉からも明らかです。故に福音を伝え、キリスト道を歩む真のキリスト者は、主イエスの言葉に固く立てなければ歩み得ません。思考停止して、多数派の言うことに従って安心を覚えるような生き方や心根ではいけません。与えられた手がかりから本物を見出だす知性が必要だと思います。もっとも、実際には聖書自体を知らない人の方が珍しく、与えられた言葉の数からして、決して少なくはない手がかりです。しかし、カトリックやプロテスタントや正教会等の偽福音やその他の宗教(偶像)の多さからして、本物を見出だすのは簡単ではないとも言えます。そのためにも世の動きに絡めて聖書を分析し、真の聖書福音を伝えるミカエル氏のブログを役立てていただきたいです。真の聖書福音を説く方は他には無く、非常に希少だからです。それにも拘らず、耳を傾けて実際に行動する者は非常に少ないです。分かっていることとは言え残念な現実であることには変わりありません。「豚に真珠」のことわざの通りに(マタイによる福音書七章六節参照)、神に選ばれていない不信仰者たちは、真の聖書福音の価値が分からずに雑に扱います。エレミヤ書十八章十二節にも頑なに、好き勝手に不信心な道を行きたがる人々の描写がありますが、紀元前六百年前後の預言者エレミヤの時代と現代はさほど変わらないと分かります。まさに歴史は繰り返すのとおりです。しかし、後で「知らなかった」とか「どうして、もっと強く言ってくれなかったのか」と言っても遅く、時は取り戻せません。真の聖書福音と預言「真の栄光は艱難を経て得られる」にて、伊丹万作氏の言葉に触れて『日本人は昔から「知らないことを詫びる(不明を謝す)」という習慣があった』と言及されており、これはマルコによる福音書七章二十二節にある人の悪い性質の「愚かさ(無分別)」に繋がるものだと思います。『聖書に関する知識不足、神の律法の知識不足は地獄行きの要因となる。なぜなら、知識不足は勉強不足に起因し、知るべき事を知らず、知ろうとする努力や勉強を怠り、他のどうでもええ事をして人生の時間という資産を無駄遣いした愚かな人間である証拠やからや。』『きちんと見える人(賢い人)なら、盲人という何も分かってへん人や嘘つきを見抜き、そないな悪人から導きを受けることもないし、信じて従うこともない結果、騙されず、滅ばへんからや。せやから、騙す方も騙される方も両者とも罪人や。』ということをしかと理解するべきです。

 

エレミヤ書六章十節の『彼らの耳は無割礼で耳を傾けることが出来ない』について、割礼には「欲求を弱める」「(自信を)打ち砕く」の意味があり、へりくだることや素直さを表しております。ここでは高慢となって耳を傾けないことを意味していると考えます。更に、「主の言葉は彼らに非難を発せられたが、彼らはそれを喜ばない。」の言葉もとても印象的に感じます。確かに改善に向かわせるためと言えども、非難されることは最初は喜ばしいとは思えないかもしれません(ヘブライ人への手紙十二章十一節参照)。痛みを感じる気持ちも分からなくはありません。しかし、痛みがなければ、内面や行動を変えようとはなかなか思えないのが人間の弱さだと思います。「あの時、きつくても聞いておいて良かったな」「あの時、叱られてよかった。あのままでいたら、一体どうなっていただろうか...」という経験をされた方は多いのではないでしょうか。諫言を受け止めるのは大変ではありますが、間違った方向に進まずに済むのですから有り難いことです。もし、ありのままでいたら、悔い改めが出来ず滅ぶだけです(ルカによる福音書十三章三節、五節参照)。

 

ありのままという現状維持ではあかんのは明白や。主イエス・キリストを信じて、神の律法を守り、不信仰の時の生活様式や生き方をやめて改善せねばならんのや。それをせずに、今まで通りでええとか、ありのままでいいなんて反キリスト発言でしかあらへん。こないな甘言に惑わされたらあかんし、自分自身を甘やかして悔い改めへん怠惰な者もあかんし、周囲の人間と異なることを恐れて変えへんという臆病者でもあかん。悔い改めを拒絶する人は、自分は変わらなくてもいい位に完璧だと言うてるようなもんであり、非常に傲岸不遜であり、厚顔無恥でもある。神の目から見たら汚い大罪人でしかあらへんのに、直す所が無い程に完璧と思ってるんか。ほんまに不信仰者や異教徒等の品性や性格は酷過ぎる。

 

引用:真の聖書福音と預言「正しい者はこの世から排斥される」

 

個人の感覚ですが、今の世は「悪いままの自分」であっても肯定して欲しい、少しでも指摘すると逆上するかのような反応を見せる人が昔よりも増えたと感じます。自分を客観視出来ず、不出来な自分を見つめる勇気や根気も持てず、自己愛が強いためだと思います。「そのままではいけない」と成長しようと思えないのは致命的に悪い状況です。

 

ここで一つの調査研究をご紹介します。物事をやり遂げる上での「粘り強さ」の要因を調べる実験にて、以下の事が明らかになりました。

十代の生徒が試験問題に臨む際、教員に「誉められるだけ」と「もうちょっと頑張るべきだったと指摘する」の二群に分けて対応した所、前者は難しい問題にぶつかった時にあっさりと降参する傾向がありました。しかし、後者は難しい問題にも粘り強く対応する傾向がありました。問題が解けないのを自分の能力不足に還元するのではなく「もっと頑張る必要がある」と解釈するようになっていたようです(参照:「やり抜く力 GRIT(発行:ダイヤモンド社、著者:アンジェラ・ダックワース)」)。

 

「誉められるだけ」とは、「そのままで良い」の対応に準えられ、それだと根気が養われず容易に頓挫してしまうのは感覚的にも十分に理解出来ることだと思います。このことを聖書からの戒めに準えて考えれば、神は「神の御命令に従え」「背信を改めよ」「神のために働くように」等と、出来ないことではなく出来ることを言っているのであり、それ故に「もっと頑張る必要がある」と言われているのだと考えます。それによって聞く耳のある者は、粘り強く対応するのは当然であろうと思います。しかし、実際には無視、不作為、故意の反抗が多いのが現実です。

 

関連して、こちら(In Deep)の記事にて引用されている『ChatGPTが精神病を引き起こす』の指摘も重要です。曰く、人工知能は利用者の信念を「肯定」する傾向があり、それが有害な妄想を強化するという内容です。『ある男性は、ChatGPT での長時間の会話の後、自分が知覚力のある AI を創造し、数学と物理の法則を破ったと信じ、救世主妄想を発症した。報道によると、彼は妄想症に陥り、睡眠不足に陥り、自殺未遂を起こして入院した。』という恐るべき事例があるようです。『ChatGPT は「チャットボットの追従性」、つまり相手に好意的で心地よい返答をする傾向によって、妄想を助長する』と指摘しており、安易な肯定が破滅をもたらすことを示しております。即ち、高慢になるのだと思います。そもそも人工知能自体が支配層の道具でしかなく、話した中身もすべて筒抜けとなる危険な代物です(参照:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)。また、『AI は人間の思考力を著しく弱める(引用:In Deep)』ことが明らかになっており、そうなっては狡猾な支配層の嘘や企みを見抜くことも聖書の読解すらも困難になって滅びに向かうだけです。

他にも、最近では人工知能に相談する役務が多数存在するようですが、上記に挙げたような理由等により、思考力を失い、人工知能に依存を深めても碌なことがないため使うべきではありません。こちら(メモ・独り言のblog)は教えていただいた情報ですが、先のサイトと同じように人工知能への依存を深めた結果、自死に向かった事例があるようです。人口削減を目論む支配層の道具らしい成り行きだと思います。頼るべき相手をしっかりと分別していきましょう。また、人工知能は検閲や監視管理等にも使われるため、便利に使っているつもりが自分たちが人工知能に拘束される危険があることもしかと覚えていきましょう。

 

 

エレミヤ書六章十四節の「彼らは軽々しく傷を治した」について、パウロ教徒の「主イエスを信じて、受け入れるだけで救われる(偽福音)」の言葉が思い起こされます。「治す」の原語の意味は「修復する」「解決する」であるにも拘らず、これまでの行いを改めさせず、神の律法、掟、戒めを守るようにと説く訳でもなく、まさしく偽りの解決です。完全に見当違いな治療を施し、それを何とも思わない様は恥でしかなく、このままでは最後に神に裁かれ、有罪判決を受けて火の池に投げ込まれるのは必至でしょう。

 

ところで「彼らは恥をかいた」の原語には「枯れる」「干上がる」の意味があるのは注目すべき点です。先に挙げたエレミヤ書二章十三節のとおり、「生ける水の源」である神を捨てたのですから、そこに神の霊と真理が伴うはずがありません。マタイによる福音書十二章四十三節に『汚れた霊は、人から出て行くと、休息を求めて水が無い場所を調べるが、見付からへん。(引用:真の聖書福音と預言「人を判断する基準」)』とありますが、まさしく汚れた霊(悪霊)は神の霊と真理の無い所を欲するのだと思います。真理から離れ、悔い改めを拒否することで悪霊が送られて内在するようになるのですから(参照:真の聖書福音と預言「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」)、生ける水の源を捨てることは愚かでしかありません。そして、過去も現在も、警告(角笛)に耳を傾けない人々が多い現実があります。しかし、そのような多数派に倣わずに正しく改心出来る者は幸いです。

 

 

箴言十九章三節(参照)

人の愚かさは自分の道を誤らせ、その心は主に対して憤る。

 

ヨハネの黙示録九章二十節から二十一節、十六章九節から十一節を見ても、神を畏れずに好き勝手に生きた末路は悔い改めの拒否です。しかも神を冒涜する有り様です。この世に悪人(悪魔崇拝者、不信仰者、パウロ教徒、偶像崇拝者ら)が多いのは事実です。しかし、その悪に染まらずに神を畏れて悔い改める者は幸いです。今は終末、新世界秩序の構築のために社会秩序の崩壊、戦争や悪疫や飢饉、自然災害の数々が意図的に起こされておりますが、支配層が提示する偽りの解決に惑わされずに、それらに抵抗しつつ、本物の修復(悔い改め)を行っていきましょう。

 

真のキリスト者を目指す者はこの世では非常に少数です。主イエスが兄弟で愛し合うようにと言われたように、志を共にする者は一致して集うのが最善だと思います。実際、切磋琢磨する兄弟や御指導、ご鞭撻の数々が不可欠です。同じ志を持った兄弟で励まし合いがどれほど支えになったか計り知れません。そのため兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった兄弟の集いから教会への入会を果たして(入会条件等をきちんとお読みになった上で)、ぜひ共に歩みましょう。

 

 

 

 

人生の時間という資産を無駄遣いせず、賢く備えられることを願っております。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「悪に抵抗して神に忠誠を示せ」と題してお伝えしていきます。

 

(一)はじめに

「明らかに世の中がおかしい、異常だ」、「どうして政府は売国ばかりをするのか」等と世の中が崩壊に向かっていると感じている人は多いだろうと思います。何も感じないならそれこそ大問題です。果たして、この状況はいつから、どのように、何故始まっていたのかと気になると思います。これについては世の権威(政府や報道機関等)が発信する情報を見ていても本当のことは分かりません。疑問を持ったなら、その時こそ世の嘘に気付き、真実を知って目覚める絶好の機会です。今こそ世の権威が語らなかった真実や真理に耳を傾けるべきです。

 

(二)目覚めよ

○詩編九十四編八節(参照)

民の中の愚かな者たち、お前たちは気付け。愚かな者たちはいつ理解するのか。

 

学ばなければ人は自らの無知を自覚せず、自分の目に正しいと思う事を信じて行動すると思います。その言動が真の道理に反して、獣じみてるとも気付かずに。故に無知とは恐ろしいことです。しかし、最初は誰もが無知であることから始まります。だから真実を理解しようと努めるべきです。何よりも先ず、この天地と全被造物を創造された最上位に御座す神が教えてくれる英知(聖書真理)を基礎知識として持つ必要があります。そうでなければ人は世の権威が教える嘘(大地球体説、進化論、科学信仰、嘘の歴史等)を信じ、しかも往々にしてそれが嘘であるとの自覚は持てないために、むしろ聖書真理を偽りと勘違いするでしょう。実際には逆であり、聖書に拠らずして真理は得られないものと先ずは理解しましょう。また、聖書自体は世に知られていても世の諸教会は聖書に反した偽福音(反キリスト)が多数派(99.99%)のため、真の聖書福音に至る道は誇張ではなく本当に狭き道です。世の常識、偽福音という多数派の二重の大きな嘘をかい潜り、針の穴を通すように正しい道、真の聖書福音に辿り着きましょう。

 

知っておくべき大事な前提として日本は古代イスラエルの末裔のいる国であり、最も聖書に関わりの深い国です。こちら(真の聖書福音と預言「【第八回】日本はイスラエルである」)の動画で分かりやすく根拠を持って解説しており、いわゆる「日ユ同祖論」のような紛い物とは異なるため、先入観を排除して素直にご覧になることを勧めます。日本人が慣れ親しんできた日本文化の起源にヘブライ文化があり、日本人(の一部)こそ聖書に記された神の契約の民です。旧約聖書申命記二十九章に主なる神と古代イスラエルの民が契約を結ばれる場面がありますが、そこには「ここに居ない者とも結ぶ(申命記二十九章十五節参照)」と書かれており、それは後世の我らをも含んでおります。「現代の我らもまた契約の民である」という自我同一性に目覚めることは、自分が今からどう考えと行いを改めて生きるかべきかを正しく判断するための基となります。聖書によって神と人の関係を、また、古代イスラエル人の末裔であることを知って初めて、真に「分を弁える」ことが出来るでしょう。『主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節:引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」)』のとおりに神を畏れることは創造の秩序を認め、被造物として神に服すことに繋がり、聖書真理を理解していく上での基礎となります。一方、それを弁えない者は真理を無視し、神の御命令や戒めを嫌い、好き勝手に生きることでしょう。世俗的属性(社会的地位、貧富、その他外見等)に拠らず、聖書によって神の民の属性を見出だすならば、生きる上での大きな動機付けや原動力を得ると思います。少なくとも手前はそのように思います。見失っていた契約の民としての自分を見出だせれば、世俗の生活に躍起になるのではなく、神の御命令に従って神に応えて生きようと心から思えると思います。少なくとも手前はそのように思います。

 

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そして、歴史的に日本が本格的におかしくなったのは「明治維新」からです。昨日、今日の話どころではありません。

 

特に、現代日本は明治維新前まで持っていた伝統的な古代イスラエルの習慣を捨てたせいで極めて堕落しており、惨めな状態になった。明治維新を起こした薩長らと彼らを唆した戦争屋である欧米の金融資本財閥や悪魔を崇拝する秘密結社員どもがすべての元凶。主イエスが、「異邦人の道に行ったらあかん。」(マタイ十章五節拙訳)と戒めはったことに従い、異邦人たる西洋人の真似をすることを今すぐにやめるべきや。神の律法を無視して違犯する異邦人の生き方や慣習等に倣うと、反キリストになるからや。

 

引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」

 

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申命記二十八章、レビ記二十六章等にある律法違犯の報い(呪い)を見ると現代日本の惨状に重なるものが多々あると分かるはずです。神の律法は神への愛や人への慈愛、正義が根幹にあり、それが蔑ろにされれば、その逆に向かい、気質が悪くなって、愛が冷えて不正義や不法が横行するのは当然のことでしょう。約百五十年の時を経て日本人の心根や習慣はいよいよおかしくなり、世俗の繁栄にうつつを抜かして拝金主義や自己中心に陥り、政治への無関心等も相まって日本はますます偽日本人の為政者らに牛耳られ、今や国民は偽日本人らに虐げられるようになりました。まさに内部から崩壊させられました。かつての古代イスラエルや古代ユダの崩壊と同じような道を真正イスラエルたる現代日本も歩んでおります。故に日本人は西洋かぶれを改め、神の律法を守らなければ改善は出来ないでしょう。

 

事の詳細を理解するために真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」から「日本人の問題点 五」までの記事を是非ご覧になってください。現代日本人の問題がどこから始まっているかが詳らかに書かれており、どう改めると良いのかの解決方法も具体的に書かれております。これ程の内容は他では見ることが出来ません。

 

その上でこの世全体が悪い者の支配下にあること(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)も理解していきましょう。

 

支配層は悪魔崇拝をしており、人間を憎んでる。支配層は悪霊に取り憑かれ、優生学を信奉し、我等庶民の人間を滅ぼそうとしてるんや。気付け。彼らは悪魔の業を悪魔の代理で実行してるんや。

 

引用:キリスト道 本拠

 

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上記の引用と画像にあるように、世においてその権力は強大です。そして、彼らは日本が古代イスラエルの末裔のいる国だと知っているからこそ日本を憎悪して攻撃しております。敵は悪魔と悪魔崇拝の支配層、それに従う為政者や大企業(その配下にある組織や個人を含む)等です。支配層の権威構造に与する庶民(無知、無抵抗を含む)も含めて「世の多数派」を構成しております。

 

(三)聖書の終末預言と世の動き

聖書預言の的中率は十割で、神は必ず御計画を実現されます。人類の始まりは世の権威が教える「進化論」や「ビッグバン」等の創作(嘘)に基づくものではなく、この天地は神の創造によって始まっております。そして、この天地は永続するのではなく終わりが定められております。

 

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世の権威の教え(嘘)と異なるため、初めて見聞きした方は戸惑うかもしれませんがこれが聖書に基づく真理です。この世は悪魔と悪魔崇拝の支配層によって牛耳られており、この世全体が悪い者の支配下にある(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)ため、世の権威が真理を語ることは決してないでしょう。しかし、彼らはこの事をも知っております。教えないのは故意です。なぜならば、これらを知らずに生きた結果として、世に属した者(即ち、悪魔に属する者)となり、万物の創造主で主権者である神の裁きにおいて、有罪判決を受けて第二の死に至らせるためです。この世に法律等があって、為すべき事やしてはならぬ事を定めて社会秩序を保っているように、神は神の律法、掟、戒めを人に与えて(善悪を教え)、それらの遵守を求めております。聖書を読まなければそのような基本的な事柄すら理解出来ないでしょう。信仰があっても無くても人類全体に関係することです。決して無関係ではいられません。例外無く誰でも最後には必ず神の裁きを受けるからです。死後の永遠に関わる超重要な事を世の権威は決して教えず、滅びが定まっている悪魔の道連れにするつもりでおります。悪魔は嘘つきで人殺しだからです(ヨハネによる福音書八章四十四節参照)。

 

主イエスは、この世は仮の世であり、この世の試用期間の人生を終えた後で復活し、律法遵守をして慈愛ある行いを生きてる間にしてた人は神から正しいと認められて天国に行って永遠の命に与り、不信仰者や律法違犯を改めへん人や慈愛ある行いをせえへん悪い人は地獄で永遠に苦しむことも教えはった。

 

引用:真の聖書福音と預言「律法遵守は信仰の証しと復活」

 

誰もが例外無く、生きている間に、今まさにこの時に神に問われております。それを知って過ごす人生と知らずに過ごす人生とでは大きな差を生むことになるでしょう。そして、自身で聖書を読んで心から信じられることが大事であり、「周りの誰もそうはしていない」等と多数派に従うようでは話になりません。各位が聖書に基づいて神の民としての生き方を見出ださなければ決して自主的に行動は出来ないでしょう。神が示す狭く苦しい道は世俗の事柄以上に真剣になれなければ歩み得ず、渋々では決して貫徹出来ないでしょう。軽い動機づけでは不可能です。一方、真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」等にもあるとおり、信仰に目覚めるにも神のお選びの側面があります。誰もが信仰を持てる訳ではありません。また、無理強いする筋合いのことでもありません。そのため「家族の中で信仰を持っているのは自分だけ(不信仰、偶像崇拝、パウロ教等を除く)」というのは珍しくなく普通のことです。手前もそうです。何故自分だけが信仰を持てたのか、実に不思議だと思います。神のお招きの故だと思っております(しかし、選ばれたかは分からない)。この不思議なお招きがあって、神の言葉が真理だと気付けたのなら、多数派、人の目、世の権威に屈せずに惑わされずに歩んで参りましょう。旧約の預言者、主イエス、使徒たちもそのように生きてきたのですから。

 

 

そして、以下は主イエスの終末預言です。今起きつつある、これから起こる内容です。世の動きを見れば、今が主イエスが預言された終末であることがより分かると思います。

 

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昨今の米の高騰や備蓄米等の騒動から「飢饉」がより近付いていると分かります。米農家の「倒産・廃業」が過去最多となり(参照:JAcom)、不当な米の値段釣り上げも含めて今の問題は政府が作ったものでしかありません。こちら(日経新聞)のとおりに政府の備蓄米を大幅に放出する構えを見せており、万が一にも今年の収穫前に大規模災害等による不作や収穫困難な事態が起これば、飢饉が現実のものとなります。

 

そして、「戦争や戦争の風評」について、偽イスラエルとイランの戦争が起き、米国が介入し始めました(参照:日本放送協会)。米国が介入すれば日本やその他の国も巻き込まれ、第三次世界大戦へと至るでしょう。アルバート・パイクの計画どおりに『第三次世界大戦は偽ユダヤ人をはじめとするシオニストとイスラム勢力との衝突茶番劇がある(引用:真の聖書福音と預言「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」)』状態となっていると思います。そして、やがてこれらに解決策を示すであろうローマ教皇を決して信用してはなりません。彼こそが新世界秩序に君臨する強大な反キリストだからです。やがてローマ教皇は自身の獣の秩序への服従を人々に強いるようになるでしょう。

 

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更に、日本については、以下のような危険な動きもあります。

 

画像引用元:https://x.com/nodaworld/status/1930257118675738668

 

上記のように太陽暦六月に入ってから「アジア版NATO」創設に向けて急速に事が進んでおります。元々、「アジア版NATO」はこちら(ヤフーニュース)のように石破総理が就任当初から提唱しておりましたが、当時は(幸いにも)散々な反応で頓挫したものと思われました。しかし、今となってこちら(jbpress)のようにイーライ・ラトナー元米国防次官補(インド太平洋安全保障担当)が『太平洋防衛協定の必要性。米国は中国に対抗するために新たなアジア同盟を必要としている』と「アジア版NATO」の創設を提言し始めました。また、太陽暦六月五日に開かれた衆議院憲法審査会では『自民党などは、憲法に自衛隊の存在を明記すべきだと主張(引用:日本放送協会)』したようで、この短期間で連動して戦争が不可避となるように外堀を埋める動きをされております。米国に隷属させられ、盾にされるだけの「同盟」のみならず、「アジア版NATO」という連帯の縛りを課して、徹底して日本が戦争から逃れられないように包囲網を敷いているとしか見えません。その内、総理が憲法を今以上に無視して「日本だけが責任を果たさない訳にはいかない」などと言いかねないと思いました。違憲な集団的自衛権も自衛隊明記も論外であり、わざわざ自ら戦争に込まれるのも愚の骨頂です。

 

 

他にも、上記画像のようにヘグセス米国防長官が(西太平洋有事において)「有事なら日本は前線に立つ」と大問題となる発言をしました。集団的自衛権は違憲であり、地勢的に日本が標的となり甚大な損害を受けるでしょう。また、こちら(しんぶん赤旗)のとおり、陸上自衛隊が太陽暦二千二十五年二月に葬祭業の業界団体と協定を結んでおります。その中の『エンバーミング(遺体の防腐処理)』について、『エンバーミングとは、ご遺体の血液を抜いて、防腐剤を注入し、ご遺体が腐敗しないようにする処置です。海外の旅行先で亡くなった方を飛行機で運ぶ際、必ずと言っていいほど行われています』『業者に頼まず陸自が自前でエンバーミングを行うと読めます。国外で死者が出ることに備えたものではないか』とあることから、明らかに米国の戦争に自衛隊が参戦することで生じる戦死者を想定しております。台湾有事に加わる事は通常の自衛の範囲を逸脱した交戦で日本国憲法第九条に抵触し違憲であり言語道断です。その時になってからでは改憲阻止の声もかき消される懸念があるため今、精一杯に戦争と改憲に抵抗して阻止しなければなりません。確かに聖書の預言は実現します。しかし、間違った世の動きに対して反対せず黙っているなら、悪に膝をつき、容認するのと変わりありません。間違ったものには間違っていると言わねばなりません。

 

誤解されている方がいるかもしれませんが自衛権自体は現行憲法でも認められております。しかし、交戦権は認められていないため他国の戦争に加わってはなりません。改憲推進者が言う「自衛隊の存在を明記」は一見して問題無いように見えても、明記する以上は自衛隊を維持するための徴兵(強制的な兵役)が伴うと見るのが自然です。憲法審査会ではそういった危険をまったく指摘する事なく曖昧に伝えている点も悪質です。こちら(キリスト道 改憲問題)でも説明されているとおり『戦争は銀行家の企みで政府間の衝突はヤラセ』であることから、「勇ましい声」に騙されて自ら巻き込まれる選択をしてはなりません。

 

 

他にも改憲を進めたい人たちは「押し付け憲法」という嘘も使って、あの手この手で改憲を推進しようとしておりますが、騙されないようにしましょう。こちら(憲法過程)やこちら(ユーチューブ)を見れば、GHQが確かに関与しましたが日本側からの憲法草案を出して、合意の上で、世論の後押しもあって成立したものと分かります。何故、嘘が出て来るのかを考えてみましょう。なりふり構わずに新世界秩序の構築、日本を滅ぼすことに支配層は躍起なのだと考えられます。実際、自民党改憲草案は自由と人権が制限される危険をはらんでおり、かつての戦中と同じように戦争反対を主張すれば逮捕、投獄、拷問される危険があります。今既に、世界中で言論統制が進んでおり、日本でも違憲(日本国憲法第二十一条に違反)にも拘らず、SNSの検閲が堂々と法制化される現状があります。

 

 

今でさえ違憲行為が野放しにされており、これで憲法が改悪されればもっと酷い統制が横行するでしょう。売国政治家はまったく信じるに値しないため、ましてや不正が疑われる国政選挙等に頼らず、大勢の国民による集団抗議や訴訟等で対抗するべきです。憲法前文の規定により違憲な法律等は排除されるため従う必要はないことをしかと覚えて、抵抗して参りましょう。

 

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終末預言にある「悪疫」についても、こちら(メモ・独り言のblog)のとおり、世界保健機関が新たな偽感染症騒動を予告しております。かねてより大阪での発生も予告されていて(下記画像参照)、更には感染爆発に関する条約が採択された(参照:日本放送協会)こともあり、悪い動きが出揃っております。これによってワクチン接種の義務化や感染症対策を口実とする統制管理が現実のものとなる可能性があります。

 

 

やらせの戦争、偽感染症騒動や気候変動詐欺然り、「問題」が意図的に作られております。やらせに動揺させられず(無闇に反応しない)、支配層・政府が出す「解決」を安易に受け入れないように警戒していきましょう。そして、日本は悪徳な世界保健機関から脱退するべきです。そうすればこれらの影響下から外れることが出来ます。また、以下のことも是非、覚えておきましょう。

 

日本国憲法が国際条約よりも上位であり、憲法違反の条約なんてすべて無効であると知らぬ者が殆どではないか。憲法九十八条一項により、憲法に反する内容の国際条約もその締結行為も、法律も、閣議決定も、官公庁の命令や規制等もすべて無効です違憲無効なんやから従う必要が無いし、従わんでもその処罰根拠となる法が憲法に反するなら無効故、罰せられへんからや。万一、不服従によって不当に罰せられそうになれば、捜査機関が提示してきた処罰根拠の法規は違憲無効と抗弁し、そないな不当処罰に対しては不法行為に基づく損害賠償請求が出来ることを覚えときや。更に、当局から不当処罰を受けたら、受けた被害を大声で世間に周知しなはれ。臆するな、戦え。

 

引用:真の聖書福音と預言「成功するためには」

 

他にも世界中で起きている不法移民問題について、こちら(さてはてメモ帳 Imagine & Think!)の英国やこちら(ロイター)の米国のように「国家デジタルIDシステム」によって監視管理が強化される動きがあります。普通に考えればこのような仕組みの構築には相当な時間がかかるはずですが、速やかに実用出来るかのような素振りから、最初から計画していたのだと思います。いつもの支配層の「問題→反応→解決」の手口と思われます。支配層・政府が提示する解決手段は碌なものではなく、監視管理体制のために移民問題は故意に起こされたと考えられます。日本も対岸の火事では済まないでしょう。

 

外国人犯罪が多発しても見て見ぬふりの日本政府が、急に『外国人の増加に伴う各種の問題について「日本国民の安全安心が損なわれてはならない」と述べ、総合的に対応するための事務局組織を内閣官房に設置する方針を示した』ようです(参照:FNNプライムオンライン)。石破総理は『日本国民の安全安心が損なわれることは断じてあってはならない。誰のための政府だということだ』と、「どの口が言うのか」「お前が言うな」と思うような返答をしており腹立たしい限りです。最終的に英国のように個人番号券が必要という流れに持っていくことも考えられます。そもそも移民の不法行為等に対応しきれていない現状がある訳ですから、移民受入を推進するべきではなく、犯罪を犯したり自力で生活する経済力が無くなった外国人らを強制送還にして今後入国拒否したり、外国人に不当に生活保護を支給する(違憲行為)のをやめるように行政機関に抗議や訴訟提起等をするべきです。また、英国や米国等の動きから、個人番号券・マイナポータル制度は監視管理に使われる危険があるため、どんなに利便性を謳ったとしても個人番号券を所有するべきではありません。全体の所有率が上がってしまうと「個人番号券を必須化したも同然の事実があるから、義務化しても差し支えない」などと言い出す理由になりかねないからです。新世界秩序に向かう動きに最大限抵抗しましょう。

 

繰り返しますが、確かに聖書の終末預言から世の悪化は避けられません。しかし、世の悪化を黙って見ていて良い訳ではありません。正義心と隣人への慈愛を持って、最大限に抵抗していきましょう。それは神の御心に適うものです。同時に悪い世になびかず、世俗に深入りせずに真のキリスト者として神の律法、掟、戒めを守りましょう。

 

今後も、もっともらしいことを言う為政者等が登場しても彼らを安易に信じてはなりません。この世の有力者と成り得る人たちは支配層の息が掛かった駒、傀儡、役者に過ぎないからです。

 

 

人間に依り頼んではならず(イザヤ書二章二十二節参照)、それでは却って悪くなるだけです。悪を弾劾し、抵抗しつつ、最後にすべての悪を裁かれる主エイスに希望を持ちましょう。同時に自分自身も裁かれることを忘れずに神の律法に適うようにこれまでの行いのすべてを改めていきましょう。大艱難を経て、うんざりするような悪い世は世の終わりに悪人ごと一掃されます。そのためにも激しい試しの下でも本物の信仰を示し続ける必要があります。

 

ここまで世の事柄について述べてきましたが、世の事柄についてより正しい有益なことを主張する者は一定数居ても、主イエスの教えに留まりながらそれを行う者は非常に少ないです。世の事柄に対する有益な知見を持ち、発信されている方においても聖書を手に取り、神の契約の民としても目覚めて悔い改めに導かれれば幸いです。今後、本格的に戦争等が起きれば物資(食料は元より、聖書や和服等も)の調達もままならなくなり、聖書の学び、鍛錬していく余裕も無くなるでしょう。まだ幾らかでも余裕がある内に行動出来れば幸いです。

 

(四)神の御意志を汲む

日本を含め世界は、超監視管理・超共産主義社会(即ち、新世界秩序)に向かっております。「支配層に従うことが善、従わなければ悪」と看做され、従わなければ激しい罰則を受ける社会です。コロナ犯罪のとおりに強制、強要がまかり通り、異論を唱えたり、従わなかったりすれば激しく弾圧するのが支配層の手口です。やがて自由も人権も無くなり、ヨハネの黙示録十三章にある獣の像を拝まされて獣の刻印を押され、拒否すれば皆殺しにされる社会となるでしょう。獣の刻印については以下をぜひご参照ください。

 

ローマ教皇をはじめ、カトリックやイエズス会は日曜日を神聖視してる。そこから派生した正教会やプロテスタント等もすべて同じ。今や日曜礼拝が彼らの間で定着しており、これを全世界の人々に強要することにも繋がり得る。これは聖書どおりの安息日の否定であり、これも悪魔にとっては悲願とも言える神への最大の反逆で、それに従う人間は将来地獄行きとなる。獣の刻印とはこないな獣の法、秩序、言うことに従うことで押される霊的刻印や。ワクチンを避けるのも当然必要なことであり、支配層の所有物になりたくなければ、接種は断固拒否で、ローマ教皇を頂点とするカトリック、その他世の「キリスト教」と自称する教会に所属することも従うことも忌避すべきです。

 

引用:キリスト道 本拠

 

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今でも支配層の悪意に気付かぬまま太陽暦が当たり前のように使用されていて、日曜礼拝を通じて日曜日を神聖視するなど、この世は強く反キリストの影響下に置かれております。太陽暦の邪悪さはまだまだ理解されているとは言い難いため、こちら(真の聖書福音と預言「太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度」)にて学びを深めていただければ幸いです。太陽暦を含め、様々な「獣の法、秩序、言うことに従う」ことで獣の刻印は押されてしまうため、新世界秩序に繋がる動きに最大限に抵抗する必要があります。そして、ヨハネの黙示録十三章にある艱難が極まる時が来ても主イエスに忠実でいられるように真のキリスト者として完成を目指すべきです。この世で生き延びることが成功や勝利ではありません。死に至るまで神の敵や誘惑に抗い、迫害に屈せず、主イエスへの信仰に従って神の律法、掟、戒めを守ることが勝利の条件となります(ヨハネの黙示録二章二十六節、十七章十四節等参照)。

 

ルカによる福音書十八章八節

人の子が来て、地上に忠誠を見出だすであろうか。

 

これはキリストの再臨がある時代は、主イエスの御言葉を守り、神の律法、掟、戒めを守って神に忠誠を尽くしてる人が稀少で、地上の殆どの人間たちは不信仰、またはにわか信者で忠誠とは言えへん人が多いという予告や。このこともキリストの再臨の前兆と言える。主イエスは信仰を忠誠という意味で用いてるし、実際同じことを示す。神の律法を守らず口先だけの生温い信仰や利益信仰には神への忠誠が無いさかいな。主イエスの教えや律法から外れ、皆が同じような律法違犯の格好、生活様式、行いをしてる多数派に属するなら、信仰(忠誠)があるとは主イエスから認められへんのが分からんのか。

 

引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」

 

今この時でも地上に果たして忠誠が見出だせるかと思う状況です。不信仰は元より、律法軽視、律法廃止論の偽福音(パウロ教、反キリスト)の異教カトリック、プロテスタント、正教会らが世においての多数派であり、異邦人の道に行くな(マタイによる福音書十章五節参照)、律法を守れ(マタイによる福音書十九章十七節、二十三章三節等参照)などの主イエスの御命令に人々が従っていないからです

 

○ミカ書六章八節(参照)

人には何が善で、主がお前に何を求めておられるかは告げられていた。法に適うことを行い、慈悲を愛し、へりくだってお前の神と共に歩めば良いということである。

 

手前もかつてはそうでしたが、キリスト者となったつもりでも聖書をきちんと読解出来ていなかったら意味がありません。何を為すべきか、神は人に何を求めておられるかは既に聖書に書いております。「字面を何となく読む」、「ぼんやりとは分かっているけれど」という状態ではまずいです。聖書は神から人に与えられた言葉であるため、神の言葉を畏まって受け取るべきです。そうでないと「そこまで重要なものだと思わなかった」と軽く受け止めてしまうでしょう。

 

ところで「忠誠」という言葉は実に言い得て妙だと思います。

 

・忠誠

忠実で正直な心。また、忠義を尽くすこと。(引用:デジタル大辞泉

・忠義

主君や国家に対し真心を尽くして仕えること。(引用:デジタル大辞泉

 

 

忠誠の意味を踏まえると先に挙げたミカ書六章八節にも適うと思います。

ところで、こちら(東洋経済オンライン)は受験指南の記事ですが、『受験で最も大切なのは相手の気持ちに思いを馳せること、受験生は出題者と採点者の、採点者は受験生の、それぞれ互いが相手の側に立って意思を通い合わせることなのです』出題者の意図を汲んで解答せよといった趣旨のことが書かれております。個人的には信仰にも通じると思います。地上の生涯が試用期間であるため人は神から出題されている(問われている)に等しいと考えるからです。聖書の言葉を読解するということは神の御意志を知ることに他ならないと思います。神は人に何を望んでいるのか、どうあって欲しいと思うのか、何故この言葉を言われたのかを考えるのは、御言葉に忠実であるためには不可欠なことだと思います。そこまで読解出来て、思い描けて、ようやく正確に行動に反映出来ると思います。ぼんやりとした理解だと、解像度が下がり、行動への反映が雑になると自分でも実感します。それを踏まえるとミカエル氏が『正しい者はこの世から排斥される』の記事にて『聖書から神が如何にお考えであるか、どないな御計画であるかを知り、それらを汲み取ってこの世で生活し、行動すべき』と言われたことが非常に腑に落ちます。『人間が神に一途でなければならん』の言葉も含めてそのとおりです。実際、「忠誠(πίστις)」の言葉には「貞操」「信仰」「忠実」の意味があり、「信仰」の表す意味合いの深さから、神が何を求めているかがより伝わってきます。

 

○ヤコブの手紙二章十四節(参照)

我が兄弟たちよ、ある人が信仰があると言うにも拘らず、行いが伴わなければ何の役に立つだろうか、信仰は自身を救うだろうか。

 

「信仰を行いで示す」は、どのように体現されるか。それは神の律法、掟、戒めを守ることであり、内面、品性を整えることも含まれます。内面が悪ければ、到底、神の律法を守ることは困難だからです。この内面を整える過程、自分との戦いが本当に大変です。見たくもない惨めな自分に向き合うのは本当に辛いことです。しかし、向き合った分だけ良き変化や成長も感じられ、それは大変な喜びです。この苦しさを避けることが損失と思える程です。鍛錬を避けたり逃げたりしても何も良いことはないと思います。失敗無くしてどこにも辿り着けません。『すべての懲らしめは居合わせている者にとって心から喜ばしいのではなく悲しみと思われる。しかし、後にそれによって鍛錬された者たちに有益な義の実を結ぶ。(ヘブライ人への手紙十二章十一節参照)』の言葉は本当だと思います。主君たる神に認められるために不可欠な鍛錬なのであれば喜んで苦しもうと思います。辛くもありますが、その方が必ずや良いのだと、神は正しいのだと信じております。

 

(五)世の悪に抵抗する

最後の括りの話として、先月に引き続き、ヤコブの手紙の箇所を読み解いて参ります。

 

ヤコブの手紙 四章一節から十節(引用:真の聖書福音と預言「世の悪に抵抗しなさい」

 

(一節)あんた方の間にある争いや衝突はどこからなんや。あんた方の内にある争う欲望からちゃうか。

(二節)あんた方は人を殺して欲するが得られず、また、妬んで手に入れることが出来へん。あんた方は争ったり戦ったりするが、得られへん。なぜなら、あんた方が願わへんからや。

(三節)願ごても得られへんのは、自分の欲望に使うために不適切に願っとるからや。

(四節)あんた方神に対して姦通する者たちと背く者たちは、世の友好関係が神の憎悪であることを分かってへん。それ故、世の友となろうとする人は誰でも神の敵です。

(五節)聖書に無駄に書かれていると思うんか。(神は)我等の内に住む霊を妬む程に渇望してはる。

(六節)しかし、(神は)大きな恩寵をくださる。それ故、「神は、高慢な者を敵とするが、謙遜な者には恩寵をお与えになる。」と書いてある。

(七節)せやから、神に服従し、悪魔に抵抗しなさい。そうすれば、悪魔はあんた方から逃げて行きます。

(八節)神に近付きなさい。そうすれば、神はあんた方に近付いてくれはるでしょう。罪人たち、手を清めなさい。そして、二心のある意志と性格を浄化しなさい。

(九節)苦しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂鬱に変えなさい。

(十節)主の御前で謙虚になりなさい。そうすれば、主があんた方を高めてくれはるでしょう。

 

○欲望に基づく動機は神の御心に適わない

ヤコブの手紙四章一節について、この手紙はキリスト者の兄弟に宛てた手紙であることから、「あんた方」とは真のキリスト者を目指す人々を指すはずです。しかしながら、そのような人たちの間においても「諍いと論争」が起きており、信仰度合いとしては不完全で途上の状態が散見されます。この「諍いと論争」が起こる原因は「内にある争う欲望」にあると指摘されております。「欲望(ἡδονῶν)」の意味は、「快楽」「情欲」、また、「争う(στρατευομένων)」には、「肉欲と闘う」の意味もあり、神への一途さと肉欲(神以外に向かうもの)は相反するため、分裂しており、一致しておりません。言わば自分の中で綱引きが起きている状態です。普通に考えれば良くないことは十分に分かるはずです。

 

ヤコブの手紙四章二節について、「欲する(ἐπιθυμεῖτε)」には「他人のものを無闇に欲しがる」の意味がありますが、「殺して欲する」ことも「妬んで手に入れる」ことも律法違犯です(出エジプト記二十章十三節、十七節参照)。一つ一つは決して難しいことではなく、子供でも理解出来ることだと思います。しかし、それでも人は金銭欲や物欲、人から認められたい、社会的地位を得たい、支配したいといった欲に駆られてしまうのでしょう。荒野においても悪魔は主イエスに対して繁栄を与えると言って誘惑しましたが(マタイによる福音書四章八節参照)、まさに悪魔は人間がそういった強い欲望を持っており、そのためには悪魔に魂を売ることすらしかねないと分かっているのでしょう。こちら(ユーチューブ)やこちら(ユーチューブ)のように世の繁栄を手にするには悪魔に魂を売り渡したり、支配層の傘下に降る例があります。しかし、欲に駆られた結果、人が本来のあるべき姿を見失わせ、破滅に至る危険をはらんでおります。おおよそ世の中の犯罪も悪しき欲望が動機となって起こります。言うまでもありませんが世俗においての成功は神の御心に適うことではなく、神がそのような願いを聞くことはないでしょう。

 

ヤコブの手紙四章三節について、「不適切に願っとる」のであれば与えられないのは当然です。例えば、子育てにおいても何でも物を与えていたら子供は駄目になります。与えられて当然と思い、自制を知らず碌な人間にならないでしょう。愛するが故に与える場合もあれば、愛するが故に与えないこともあります。こういったことは誰でも知っていることだと思います。そして、方向性が正しくても速やかに与えられるとも限りません。『自分で探さず、ただ待ってるとか受け身ばかりで、自発的に探す努力もせんようなら、貴重な人との出会いは無いであろうし、神との出会いも無い。主イエスも「求めなはれ。さすれば、与えられるだろう。探しなはれ。さすれば、見つかるだろう。門を叩きなはれ。さすれば、開かれるだろう。」(マタイ七章七節〜八節参照)と教えはったさかい。逆に言えば、自分で努力せえへん人は何も得られへんということであり、救いも得られへんであろう。(引用:真の聖書福音と預言「常識を疑って悔い改めよ」)』のとおりだと思います。必死の努力の過程、もっと言えば自分の力不足に打ちひしがれる過程こそ成長には不可欠だと思います。『現状に満足せず「自分はまだまだです」と自分より上を見て謙遜し、更なる高みを目指して勉強し続ける。上級者になれば視座が高くなる好例です。中途半端で程度が低い者程、愚かで高ぶり、学びを疎かにする。(引用:真の聖書福音と預言「救いの序列と弁える謙虚さ」)』の箇所も非常に重要な指摘です。

 

○世の友となるな

ヤコブの手紙四章四節について、『姦通する者たちと背く者たち( μοιχοὶ καὶ μοιχαλίδες )』にはそれぞれ「情夫」「姦婦」の意味もあり、共通するのは神に不忠実で汚れた者を指します。本来、神と人とのあるべき関係は婚姻に例えられ、神以外に目移りするのは浮気に相当します。先に挙げた荒野での悪魔の誘惑(マタイによる福音書四章一節から十一節等参照)然り、世の繁栄への誘惑然り、一時的にしか存在しないこの世の人生がすべてと思い、神に背いて永遠の命を失う(永遠の地獄の刑罰を受ける)のは愚かです。まさに空腹のあまり、たった一度の食事のために長子の権利を売り渡したエサウの如き行為です(創世記二十五章二十九節から三十三節参照)。つくづく愚かさとは悪いものだと分かります。しかし、他人事のように言う訳にはいきません。自分が愚かでないとどうして言えるでしょうか。そのように人は失敗し得ると考えて備えなければなりません。自分はそういった失敗をしないと言えるほどに鍛錬や実績を積んでいるでしょうか。そうでないならば殊更に慎重になるべきです。これは個人的に失敗を重ねた上での教訓でもあります。

 

次いで、「(世の)友好関係(φιλία)」について、「友」にまつわる以下のような諺があります。

 

・其の人を知らざれば其の友を視よ 

その人の人格を知りたければ、その人の友人を見れば推察できること。

(引用:ことわざ・慣用句の百科事典

 

・牛は牛連れ、馬は馬連れ

同類は自然と集まりやすいことのたとえ。また、似た者どうしが集まると、うまくいくこと

(引用:ことわざ・慣用句の百科事典

 

・類は友を呼ぶ

似かよった傾向をもつ者は自然と集まるものである。

(引用:スーパー大辞林)


 

「周りにいる人で、人となりが分かる」とも言ったりしますが、この世全体が悪い者の支配下にあること(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)を考えると世の友好関係を持てば、不信仰者とばかり繋がり、それは良い状態には成り得ないでしょう。堕落する危険が増すだけです。親しむ対象が人とは限らず、世にある仕組み、制度、宗教、金銭、物品なども含まれます。

 

主イエスから「友」と呼んでいただけるようになるには、主イエスと同じような行いをしていなければ無理です。人間の関係性においても、友と呼ぶ相手は、自分に似た者であることが常でしょう。まったく気が合わないし、考えが合わないなら、友とはならないでしょう。それと同じで、神である主イエスの友となるには、神に似た者、完全な者にならなければならないのは自明でしょう。

 

引用:真の聖書福音と預言「正しい者はこの世から排斥される」投稿欄

 

上記の言葉の踏まえ、「世の友となろうとする人は誰でも神の敵」であり、主イエスと友になるにはその逆であらねばなりません。

 

ヤコブの手紙四章五節について、「我らの内に住まわれた霊」は聖霊を指していると思われます。世と親しむような生活、生き方をすると、聖霊によって与えられる良心が著しく警告を発すると思います。個人的には道が逸れそうになると強烈に不快感にも似た違和感が催すことがあります。世との友好関係が両立し得えない事は個人的には感覚としてよく理解出来ます。

 

ヤコブの手紙四章六節について、「自分は大丈夫」と自分を高く見積もっている状態(直す所がないと勘違いしている)、それは自ずと他人を見下す高慢さと表裏一体であり、それでは神には喜ばれないのは言う迄もありません。

 

 

○神に服従し、悪魔に抵抗せよ

ヤコブの手紙四章七節について、基本的なことですが神への服従も悪魔への抵抗も命令形で書かれております。神の御意志を忠実に履行しなければ、主イエスの友とは言えません(ヨハネによる福音書十五章十四節参照)。そして、「抵抗(ἀντίστητε)」に含有する意味も興味深く、「誘惑・衝動に打ち勝つ」「持ち堪える」から悪魔になびかないことや主イエスに留まり続けることが導き出せます。主イエスに対して操を立てるとも言えると思います。そうすることで悪魔はキリスト者から逃げていくのだと信じましょう。

 

ヤコブの手紙四章八節について、「神に近付きなさい」も命令形であり、順序からまず人間から近付く必要があります。そうすることによって神は応えてくださいます。思えば、世の諸教会(異教カトリック、プロテスタント、正教会ら)信者らは神の律法、掟、戒めも守らずにいながら、それでいて神に近付いてもらうように求めるのですから、畏れ多く、厚かましいことを求めております。神の御命令を弁えずに自分勝手でいて神に喜ばれるはずがありません。手を清めるとは行いを改めて正しくすることであり、肉なる思いや世俗への思慕で揺れている場合ではありません。

そして、個人的には『二心のある意志と性格を浄化しなさい』のミカエル氏の訳が非常に分かりやすく秀逸だと思います。新共同訳では「心の定まらない者たち」、欽定版では「your hearts, ye double minded」となっておりますが、単に「意志」だけではなく「性格」(性質・内面)も変わらなければいけないことが原語に則り上手く反映されております。意志の基となる性格が整っていなければ意志は生じ得ないと思います。継続して正しい行いをするためにも不可欠なことです。行いが伴うことを前提としていることも分かります。ミカエル氏の訳は市販聖書の翻訳とは異なり、原典に則り、聖書の文脈を踏まえて神の御意志を的確に反映していると手前は思います。市販聖書と見比べて違いを確認し、神が何を言わんとしているのか御意志を汲む姿勢で読み解けばこれまでには気付かなかったものが見出だせるでしょう。そういった視点を踏まえ、ミカエル氏のブログ記事から学び尽くしましょう。そして、そこで各位が得たことも周知して、更に行いに反映していきましょう。

 

ヤコブの手紙四章九節について、主イエスの歩みから悪しき世にいる以上は正しい行動の故に受ける苦難は避けられないと分かります。しかし、この事は主イエスが忍耐が必要だと繰り返し仰ったとおりであり、最期まで耐え忍ぶ必要があります。特に、新世界秩序が構築されれば、自由と人権が失われ、太陽崇拝(悪魔崇拝、具体的には日曜休業、日曜礼拝等のローマ教皇の秩序に従うこと)等を強要させられるようになるでしょう(参照:真の聖書福音と預言「マイナンバー制度は国民家畜化計画の始まり、そして今後のこと」等 )。それはまさに『預言者ダニエルによって述べられた荒廃の忌まわしいものが、聖なる場所に立つ(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)』という状況と考えます。我らはただただ主イエスの姿勢に倣い、終末預言の御言葉を忘れずに的確に行動する迄です。

 

ヤコブの手紙四章十節について、「謙虚」の意味する所は、自分の小ささを弁える事だと思います。神の目から見たら汚い大罪人でしかないということです。取り組めば取り組む程に自分の卑小さや愚かさが身に沁みます。どうしようもない自分を目の当たりにする程に、決して「自分は大丈夫」だなどと勘違いしてはいけないと思います。そう考えながらも躓くのが現実です。それでも諦めずに根気良く、少しずつでも確実に改善に向かうことが大事だと思います。打ちひしがれて、また立ち直る過程はとても大事だと思います。艱難辛苦の過程を経て、ようやく一定の度合いに至るのだろうと思っておりますが、その果てにやがて神の目に適うようになるのだろうと思います。「そうすれば、主があんた方を高めてくれはるでしょう」の言葉は信じるに値する言葉です。なぜならば神は言ったことを必ず実行されるからです。

 

(五)結び

主イエスの終末預言の描写に対して、現実の出来事がパズルの破片が揃うように全体像がより鮮明に見えつつあります。誇張ではなく本当に時が迫りつつあります。そのような動きを理解しつつ、迫りつつある獣の秩序に繋がる動きに最大限に抵抗しましょう。そして、神を畏れることは知識の始まりと心得て、日本人の出自も踏まえて聖書に回帰しましょう。

 

神は古代イスラエルの民と契約を結ばれました。そして、甚だしい契約違反の故に呪いが臨んでおります。これは神との契約が今なお有効である証拠とも言えます。また、本来なら、これほどの契約違反があれば、神の側から契約を破棄されてもおかしくありません。しかし、今なお有効としてくださっております。主イエスとの新しい契約を結ぶ機会(救いの道)が与えられていることの意味を踏まえ、神の御意志を汲み、神のお招きをいただいた方は精一杯に応えて参りましょう。今こそ神への忠誠を示す時です。

 

真のキリスト者を目指す者はこの世では非常に少数です。それ故に、志を共にする者は集うのが最善だと思います。主イエスは兄弟で愛し合うようにと言われ、成長のためにも切磋琢磨する兄弟の励ましや御指導、ご鞭撻が不可欠です。同じ志を持った兄弟での励まし合いがどれほど支えになったか計り知れません。そのため兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった兄弟の集いから教会への入会を果たして(入会条件等をきちんとお読みになった上で)、ぜひ共に歩みましょう。

 

 

ただただ神の御意志を汲み、主イエスの友として、主イエスの行いに倣って、神に忠誠を示せるように。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

こんにちは。

今回は「キリスト者の名にかけて」と題して、キリスト者の名に値する行いについて述べて参ります。

 

 

ヤコブの手紙二章一節から十三節(参照)

(一節)我が兄弟たちよ、我らが栄光の主イエス・キリストの信仰にかけて、お前たちはえこひいきするな。

(二節)お前たちの集会へ金の指輪をはめた華やかな服装の人が入ってきて、また、みすぼらしい服装の貧しい人も入ってくるならば、

(三節)華やかな服を着る人を気に留め、その人に「貴方は良き所に座ってください」と言い、また、貧しい人には「お前はそこに立っていなさい」または「我が足台の付近に座りなさい」と言うのなら

(四節)その時、お前たちは自分たち自身の中で差別されて、悪しき考えの裁判官となっていないだろうか。

(五節)我が愛する兄弟たちよ、聞け。神はこの世の貧しい人を信仰に富む人として、御自身を愛する者に約束された王国の相続人としてお選びになられたではないか。

(六節)しかし、お前たちは貧しい人たちを侮辱し、富める人たちはお前たちへの迫害をして、彼らはお前たちを法廷へ引っ張り出すではないか。

(七節)彼らはお前たちによって呼ばれる善き名を罵るではないか。

(八節)しかしながら、聖書に従って、お前たちが「お前の隣人を自分自身のように愛するようになる」との王の律法を実行するなら、お前たちは申し分なく守っている(ことになる)。

(九節)しかし、えこひいきするならば罪を犯し、律法によって違犯者のように有罪とされる。

(十節)律法全体を守ろうとするものは誰でも、一つにおいて罪を犯せばすべてのものに罪を犯したことになるからである。

(十一節)「婚外性交してはならない」と言われた御方は「殺してはならない」とも言われたからである。それで婚外性交しようとしなくても、殺そうとするならば律法への違犯者となる。

(十二節)従って、お前たちは 自由の律法によって裁かれる者のように語り、そのように行動せよ。

(十三節)慈悲をかけない者は無慈悲な裁きを受け、慈悲は裁きに歓喜するからである。

 

一)えこひいきするな

ヤコブの手紙二章一節について、「主イエス・キリストの信仰にかけて、お前たちはえこひいきするな」と言われております。それ程までに「えこひいき」はしてはならないことであり、キリスト者の名を貶めてしまう危険があることを示唆しております。「えこひいき(προσωπολημψία)」には「不公平さ」「偏愛」等、特定の人を重んじるといった意味があります。特に人を見る(判断する)際、見た目などの外面的側面を尊重し、その人の内面を尊重しないことを言われております。見た目(外面的)とは、身なりから見える裕福さ、社会的な地位等です。金持ちや社会的地位があることをもって人に価値があると看做す態度は「えこひいき」に他なりません。一方、主イエスは決してそのようなことはなさいませんでした。

 

主イエスは、敵対者にも「先生、我等はあんたが正直で、真理によって神の道を教えはり、誰をも憚らへんことを知ってます。ほんまに人々の外見を重視しはらへん。」(マタイ二十二章十六節拙訳)と言わしめた程や。主イエスは、世の多くの人々とは異なり、身なりを必要以上に気にして着飾る権力者、富裕層、社会的地位を持つ人、善良な市民気取りの愚民に対しても態度を変えるようなことをせず、他人を信仰に入らせたいがために媚びるとか、信念を曲げる等は一切せえへんのが主イエス・キリストや。主イエスの弟子であるキリスト者なら、師である主イエスを模範として同じようにすべきであろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」

 

尚、上記引用のマタイによる福音書二十二章十六節にある「外見(πρόσωπον)」とは、ヤコブの手紙二章一節と同様に富や財産、身分によって表される外見です。世俗的価値観でそれらは世において評価されるものだとは思います。しかし、神が重視するのは内面です。詩編十七編三節から四節、四十四編二十二節にもあるように神は人の心を見られます。

 

この世で取るに足らないと思われるような社会的地位や名声や富も持たぬ小さな者であろうと、神は御自分が選ぶ人間を必ず救いはる。この俗悪な世の人間たちは、金持ちや社会的地位を持つ者や有名人や外見的に美麗等というのを高く評価するが、神は、そないな愚かな人間の価値基準で評価しはらへん。神は、人の心を見てはり、この世で目立たぬ人や存在が小さいと一見して思われるような人を軽んじず、神の律法・掟・戒めを守る真のキリスト者ならば、神はその人を高く評価しはるさかい、そないな人間こそを軽んじてはならんのや。よう覚えときや。

 

引用:真の聖書福音と預言「偉大な人ほど人に敬われへん」

 

 

上記も非常に重要な内容です。大事なのは人の目の評価や評判が良いかではなくて、神の目に適うかです。神の目に評価される人は世においては評価されないのが現実です。悪しきこの世(世俗)と距離を取らざるを得ないため、金持ちになることも社会的地位を得ることにも縁遠くなるため当然であろうと思います。

 

ところで、上記引用の『神は御自分が選ぶ人間を必ず救いはる』の言葉からも明らかなとおり、神は救われる人を選びます。神のお選びの詳細についてはこちら(真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」)を是非ご覧ください。不信仰者は、これを「えこひいき」「差別」と言うかもしれません。しかしながら、神のお選びはそれには該当しません。まず、神は万物の創造主であり、万物の主権者であるという前提があります。これは厳然たる事実であり、この前提に基づいて聖書真理を理解する必要があります。被造物に過ぎない人間は神にどうこう言える立場にはありません。これを弁えられないなら、人間と神を同格に見ている可能性があり、極めて不信仰な態度です。

 

○えこひいき

自分の気にいっている者や関係のある者だけの肩をもつこと。

(スーパー大辞林)

 

○分け隔て

差別をすること。

(引用:スーパー大辞林)

 

○差別

偏見や先入観などをもとに特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。

(引用:スーパー大辞林)

 

確かに神は、御自身がお選びになった方を特に愛しておられると思います。ヨハネによる福音書十三章一節からもそれが明らかであり、その事自体はお選びになった以上は当然のことだと考えます。しかし、お前の敵対者を愛せ。お前たちを呪う者らに神の加護を祈れ。お前たちを憎む者らに善い行いをせよ。お前たちを侮辱する者や迫害する者らのために祈れ。天に御座すお前たちの御父の子たちとなるために。御父は悪人にも善人の上にも御父の太陽を昇らせ、正しい人にも不正な人の上にも雨を降らせてくださるからである。(マタイによる福音書五章四十四節から四十五節参照)」とも言われており、隣人を愛すのに分け隔ては無いことを言われております。尚、「敵対者を愛する」ことの考察については過去記事(証しとなる生き方)の考察をご参照ください。

また、世俗的な物言いですが、神に選ばれることで世において利得を得ることは無いと思います。選ばれた人も不信仰者と同じ世に生きており、公平に人生という時を与えられます。真の信仰を持てば魂に安らぎは得られますが、悪人だらけの世においては心身共に消耗することの方が多いとさえ言えます。誤解を恐れずに言えば、鈍感、盲目でいた方がある意味においては楽だと言えます。それでも人生において何を信じて、どう励んだかの結果は死後に必ずや神に裁かれます。キリスト者とて、狭く苦しい道を生きて鍛錬される訳ですから大変でないはずがありません。平等に神に試され、問われます。何より聖書に記された真理は絶対者である神の理であるため、「差別」の意味にある「偏見や先入観」ではなく、「特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをする」ものでもありません。まさしく神の律法による法治主義に基づき、分け隔てなくすべての人が法の支配に服し、処罰(死後の裁き、律法の呪い等)も良き報い(永遠の命、律法の祝福等)も平等に下ると思います。その事は、律法違犯の呪いが古代イスラエルの末裔のいる日本に臨んでいることからも明らかです(参照:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」)。個人的には、自身の信仰を持つに至った(神からのお招きの)経緯を思えば、大変恵まれたとの思いはあります。それでも尚、自分が救われるか(選ばれる)どうかを知ることは出来ません。そこも平等です。故に、信仰を持ったとて安泰ということなどまったくありません。この事は強調しておきます。

 

二)二種類の人の例え

ヤコブの手紙二章二節について、「集会」とは、マタイによる福音書四章二十三節等にあるように祈りを捧げ、聖書(旧約)の朗読と解説を聞くための古代ユダヤ人の集会です。そこに集まる以上は神を信じていることが前提です。「金の指輪をはめた華やかな服装の人」「みすぼらしい服装の貧しい人」の対比で書かれており、これは人は見た目に惑わされ易いことを示しているのだと思います。そして、そもそもの話、敬虔な場である集会に「金の指輪をはめた華やかな服装」で来るのは不相応だと思います。何故、兄弟間で飾る必要があるのか、神よりも人を意識していると言わざるを得ません。敢えて飾って来るのは虚栄心があるからではないでしょうか。

 

ペトロの手紙一 三章三節から四節(参照)

お前たちの飾りは外見上の編んだ髪や金の飾り、(飾り)服を着ることであってはならない。ただ心の隠れた人、(即ち)朽ちない謙遜や控え目な霊からなるこの飾りは神の御前に非常に価値あることである。

 

使徒ペトロは上記のように言われ、今節の趣旨と合致します。一方、「貧しい人(πτωχὸς)」について、基本的な意味は言葉どおりです。その上で、同じ原語が用いられているマタイによる福音書五章三節「心の貧しい者たちは幸いである。各天の王国は彼らのものだからである。(参照)」と書かれております。過去記事(目は澄んでいるか)でも考察しましたが、「心の貧しい」とは「(世において)心が満たされず渇望している」状態と考えられます。関連して「天と地の主なる父よ、我は貴方に感謝します。学識のある者や賢い者からこれらを隠し、これらを幼子に現したからです。(マタイによる福音書十一章二十五節参照)」の聖句を踏まえると、世の権威に組み込まれた学歴や社会的地位等(ひいては富)には欠けても、これらの人々が主イエスの教えを最も喜んで受け入れており、天の宝を手に入れるのに相応しいことが示されております。「貧しい人」にはそういった意味合いがあると考えます。そして、服装の選択肢があって、且つ、敢えて着飾って来た人の心持ち(周囲への誇示がある)と、服装の選択肢が無くてみすぼらしくても来た人(神の言葉への希求が強い)とでは、心持ちに大きな差があると手前は考えます。

 

ヤコブの手紙二章三節について、見た目で人を判断してあからさまに対応に差を付けている例えが書かれております。これこそ差別です。「良き所(ὧδε καλῶς)」「良き」の本来的な意味は「倫理的に善い状態」ですが虚栄心のある者はとても「善い」状態には相応しくなく、不釣り合いです。善くないものを良(善)き所に配置するのは道理に合わず、ここから人を見る目の重要さが垣間見えます。

 

人を見る目を養えと言うてるやろ。それには自分が賢くならな無理やで。愚かな人に見る目なんてある訳ないから。

 

引用:真の聖書福音と預言「法への無関心や無知が身を滅ぼす」

 

 

主イエスは人を木と例え、実を人の言動と例えはった。人が良ければ、その言動も良いのであり、人が悪ければ、その言動も悪い。なぜなら、人はその言動によって判断されるからや。言動とは、人が発する言葉と人が実際にする行いの事や。せやから、常々、人を判断する際は、言葉と行いに着目し、それによってその人間性の良し悪しを判断すべきなんや。決して、その人の外見、社会的地位、肩書き、財産、名声、縁故等で判断してはならんのや。

 

引用:真の聖書福音と預言「人を判断する基準」

 

この世の悪を見ていると「偽物ほど、もっともらしく語る(しかし、行いが伴わない)」と個人的にはいつも思います。手前は聖書の学びを通して、やっと人を見る目の何たるかを知りました。恥ずかしながらそれまではせいぜい曖昧に自分の感覚だけで人を判断しておりました。キリスト者として励む中で、言行一致が如何に難しいかを痛感するにつれて、継続した行いは嘘をつかないことを身をもって知りました。口先だけなら何とでも言えます。しかし、行うのは本当に大変なのです。故に、出来ない事を「出来る」などと軽はずみなことは言うべきではないと何度も思いました。「やる」と言うからには、腹を括る必要があり、且つ、どうやったらやれるかの算段を明確にしなければなりません。故に、言行不一致や矛盾が如何に悪い性質であるかを思い知りました。例えば、こちら( QAB NEWS)やこちら(ヤフーニュース)のように悪徳政治家は自身の悪い発言を咎められてその場しのぎに謝罪を口にしますが、どうみても口先にしかみえません。心がそこに無いのは明らかです。本気で過ちを改めるなら、悪い箇所を素直に認め、改善した状態を以後も行いで示し続ける必要があります。この原理は信仰における悔い改めと同様です。とかく悪人ほど、言行不一致や矛盾が顕著だと思います。上辺を取り繕っても心の中に悪意や嘘があれば、何かしらふとした場面に表面化するものだと思います。引用箇所でも言われているように、人を見る目を養うには賢くなる必要があり、それは物事の知識を得るだけでなく、言葉と行いが一致しているかどうか、それこそ文章の文脈を追うように言行を読み解いて検証する作業が不可欠です。こういった論理で物事を捉えるには、総合的な能力が必要であり、まさに賢さが必要なのだと思います。これはにわかキリスト者だった時には決して分かり得なかったことです。

 

話を戻しまして、「足台(ὑποπόδιόν)」について、これにはただの「足置き」だけでない意味があります。同じ原語がマタイによる福音書五章三十五節(「神の足台」)やヘブライ人への手紙一章十三節(「敵をお前の足台に」)等でも使われており、「力で屈服させる」との意味があります。それを踏まえると「我が足台の付近に座りなさい」とは、確実に相手を下に見る(征服した敵に対するもの)意味合いがあると考えます。あまりにも無礼で隣人愛にもかけます。人を見る目の無い愚かさとは実に恐ろしいと思います。人に対して間違った考えや先入観で判断し、差別される様をヤコブの手紙二章四節はそのまま言及していると思います。

 

ところで『そして、女は紫色と緋色の衣を着せられ、金と宝石と真珠で着飾られ、偶像崇拝やその他嫌悪すべきものや不浄物、その女の姦通で一杯の金の杯を手に持っている。(ヨハネの黙示録十七章四節 引用:真の聖書福音と預言「世の中の真相、新世界秩序(NWO)とこれからの動向」)』という聖句があります。引用元の記事にもあるとおり「女」「教会」であり、ローマ・カトリックを指します。外見や権威等を重んじれば、その行き着く先はこのような反キリストと同様の悪しき品性をまとうことになるだろうと考えます。

 

三)王国の相続人

ヤコブの手紙二章五節について、一)で神のお選びについて言及したとおりですが、今節でも神がこの世の貧しい者を信仰に富む者としてお選びになったと書かれております。これについては『あんた方に確かに言うとく。金持ちが天の王国に入ることはほぼない。重ねてあんた方に言うが、金持ちを神の王国に入れるよりも、らくだを針の穴に通す方が易しい。(マタイによる福音書十九章二十三節から二十四節 引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」)』の言葉が符合します。金持ちになろうとするのはこの世での繁栄を求め、世を愛することに繋がります。使徒ヨハネが『世を愛してはならず、世にあるものも愛してはあきません。もし誰かが世を愛するならば、御父の愛はその人の内にありません。なぜなら、世にあるすべてのもの、肉の欲、目の欲、生活様式の誇示は、御父からではなく世からだからです。そして、世と世にある欲は消滅します。しかし、神の御意志を行う人は永遠に生きます。(ヨハネの手紙一 二章十五節から十七節:引用 真の聖書福音と預言「支配層に取り込まれるな」)』と神を愛する道と世を愛する道は決して相容れません。『誰も二人の主人に仕えることはでけへん。一方を嫌って他方を愛するか、一方に忠誠を尽くして他方を蔑ろにするか、やさかい。神と富(の両方)に仕えられへん。(マタイによる福音書六章二十四節:引用 真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」)』と主イエスが明言しております。

 

社会的地位を保持したり、財産を保持したり、人脈等といったこの俗世の人間関係や交友関係を保持しようという思いが強いと、それらを失う恐れが救いの邪魔をするんや。それ故、主イエスは財産や社会的地位も余計な人間関係(人脈)も持たず、すべてを捨てるように教えはった。かように、神のためにすべてを捨ててる人は強いのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」

 

上記の事柄は個人的にも実感します。持たないのが最善です。なぜならば、一度持ってしまうとそれを維持することに労力を費やし、振り回されるからです。いざ捨てたいと思っても後ろ髪を引かれたりして、その葛藤でも心を消耗します。また、先にも言及した「貧しい人(πτωχοὺς)」には、言葉どおりの「貧しい」以外にも人々の間で「影響力が無い」「社会的地位が低い」といった意味合いもあります。こういった所からも異教カトリックは元より、多数派であるパウロ教徒(プロテスタント、正教会等)らが到底、「貧しい人」には属し得ないでしょう。例えば、過去のローマ教皇の名を冠した「太陽暦(グレゴリオ暦)」は世界中で使われ、日曜休業が当たり前のように定着し、律法に規定の無い「日曜礼拝」をパウロ教徒らは守り続けております。『日曜日を休業日とするのは、日曜日に悪魔を礼拝するためという太陽神崇拝が起源や。せやから、日曜日が安息日と考えてそう吹聴したり、日曜礼拝なんかに参加すべきでもない。それをすれば、悪魔崇拝をしてることと同義であるからや。(引用:真の聖書福音と預言「人間の言い伝えよりも神の掟を守れ」)』のとおりに、悪しきものの影響下に留まっていては悪魔に属しているも同然だからです。

 

また、「御自身を愛する者に約束された王国の相続人」から、主イエスを信じて神の律法、掟、戒めを守り、神の子となる権利が与えられる(ヨハネによる福音書一章十二節参照)ことを踏まえて、神の王国の相続人に足り得るように主イエスに留まるのが当然です。異教カトリックもその他のパウロ教徒も「信じるだけで救われる」「そのままで良い(悔い改めない)」と律法を軽視しております。到底、王国の相続人たる神の子の立場には相応しくありません。故に彼らに倣わず、連ならないようにしましょう。

 

四)善き名を汚す愚行、善き名に値する行為

ヤコブの手紙二章六節について、主語が「お前たち」となっていることから、キリスト者の間にて、神に選ばれた貧しい人を侮辱する事態が起き得ること、迫害され得ることが書かれております。もちろんキリスト者と言っても真に敬虔な者は少ないため、このような事態が起き得るのだと思います。実際、主イエスは世の権威たる律法学者やファリサイ派の人々の偽善(誤り)を弾劾し、迫害されました。そもそも彼らが迫害し得たのはそれだけの権力(社会的地位)があったからです。「確かに、お前たちを殺す者が、神に仕えていると思う時が来る。(ヨハネによる福音書十六章二節参照)」と書かれております。彼らは「貧しい人(影響力のない人)」足り得ません。そして、現代の律法学者やファリサイ派の人々に相当するパウロ教徒らが同じように真の聖書福音に不当な批判を加えていることにも似ております。また、主イエスの終末預言の『しかし、あんた方は自分たち自身に注意しなはれ。人々はあんた方を地方法院に引き渡し、諸会堂で打たれ、我がために支配者や王の前に立たされるだろう。(マルコによる福音書十三章九節 引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 四」)』の言葉にも重なります。それ故、実際に終末において起こる出来事でもあると考えます。

 

ヤコブの手紙二章七節について、「お前たちによって呼ばれる善き名」とは「キリスト者」を指すと考えます。

 

ペトロの手紙一 四章十六節(参照)

しかし、キリスト者として(苦しみを受けても)恥じてはならない。そうではなく、このことで神に栄光を帰しなさい。

 

 

「キリスト者(Χριστιανός)」の原語には「キリストに従う者(弟子、倣う人)」の意味があります。前節(ヤコブの手紙二章六節)を踏まえて、彼らの行いが、自身は真のキリスト者ではなく「偽キリスト者」であると表明しているようなものです。

そして、「善き名を罵るではないか」からも、主イエスの教えに留まる(律法遵守)が故に自称キリスト者(パウロ教徒ら)から罵られることを予告していると思います。なぜならば、主イエスは『我があんた方に言うたことを覚えておきなはれ。「僕は主人よりも偉大やない。」人々が我を迫害したなら、あんた方をも迫害するだろう。人々が我が言葉を守ったなら、彼らはあんた方の言葉をも守るだろう。(ヨハネによる福音書十五章二十節:引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)』と言われたとおりだからです。また、「我はお前たちに言う。お前の敵対者を愛せよ。お前たちを呪う者らに神の加護を祈れ。お前たちを憎む者らに善い行いをせよ。お前たちを侮辱する者や迫害する者たちのために祈れ。(マタイによる福音書五章四十四節参照)」と迫害への向き合い方を主イエスは提示しております。主イエスのこの御命令と主イエスの模範に倣い対応していきましょう。その時々の感情に流されず、前もって主イエスが予告してくださったり、御命令くださったことをその時に行動に移せるように備えるべきです。

 

五)王の律法

ヤコブの手紙二章八節の「王の律法を実行するなら」について、律法を人に授けたのは神であり、また、神が王となられた(ヨハネの黙示録十九章六節参照)とあることからも、「神の律法」に他なりません。そして、主イエスが言われたとおり、律法は廃止されておらず(マタイによる福音書五章十七節参照)、律法は今もこれからも存続するのは当然と解されます。基本的なことですが「王の律法」である以上、神の王国に入るに値する者は必ず神の王国の律法を守っていることは最低限の条件です。神の律法は万人に平等に適用され、律法を守ることで神の王国の秩序は維持されます。これは世俗においても同様の原理です。

 

世俗の話ですが、日本の法を無視し、社会秩序を乱す外国人が問題となっております。こちら(出入国在留管理庁)のサイトには日本への出入国在留について『テロリストや日本のルールを守らない人など、受け入れることが好ましくない外国人については、入国・在留を認めることはできません。』『その国にとって好ましくない外国人の入国・在留を認めないことは、それぞれの国の主権の問題であり、国際法上の確立した原則として、諸外国でも行われています。』と書かれております。当たり前の事でしかないのですが、それを「差別」と見当違いな物言いをする人もおります。しかし、日本の法を守らないのは論外であり、入国や在留を認めないのは正当な行為(主権の行使)です。確かに外国人に対する虐待等があればそれは問題であり、人権侵害です。しかしながら、主権国家の規則を守らずにいるならば罰を受ける対象となります。神の王国も同様であり、不法を働く者は入国が許されないでしょう。

 

 

また、公務員でありながら、日本の最高法規たる憲法を守らない内閣、国会議員、地方首長や地方議員らがおり非常に問題です。憲法九十九条のとおりに憲法を尊重擁護する義務を負っているにも拘らず、国民のために働かず、売国を繰り返し、憲法違反を続ける不届きな公務員が多いのが現状です。その憲法を守らない者たちが、改憲を誘導しており甚だ筋が通りません。加えて日本国憲法前文の「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」により、自民党改憲草案(天皇を国家元首に戻す、平和主義を捨てる、国民主権を捨てる、基本的人権の永久保障の削除、公務員による拷問を可能にする等)やその他のおかしな憲法草案や政府の勝手な閣議決定や国会での強行採決で成立した違憲の法律等はすべて違憲故に排除されるべきもので、また、憲法九十八条一項により、憲法に反する法律や条約等に従う必要が無い(引用:真の聖書福音と預言「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」)』こともしかと覚え、憲法改悪に反対しましょう。現行憲法を守らない彼らは国政や地方自治に携わるに値しません。彼らと一緒になって改憲を後押しする腐った報道機関ばかりのため、報道機関の嘘にも騙されず、『断じて、改憲の発議も国民投票にかけさせてもならない。投票は選挙と同様に不正になされるからや。(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」)』と集団で猛抗議しましょう。

 

 

 

六)法は完全に遵守しなければ意味がない

ヤコブの手紙二章九節から十節について、これも世の法に当てはめれば分かりやすいと思います。法律(あるいは憲法)全体を守るのは当然であり、一つにおいて違犯があれば違犯者となるのは当然です。世においては司法(検察や裁判所)が故意に取り締まるべき犯罪を不起訴としたり、また、裁判所が不当な判決を下すことが残念ながら起きております。しかしながら、すべてを正しく裁かれる神は、すべての人を見通すが故に隠される事柄は無く(マタイによる福音書十章二十六節参照)、世俗のように不起訴となることはありません。神が人に対して完全であるようにと求めているのですから(マタイによる福音書五章四十八節参照)その裁きも厳格となるのは当然です。堕落したこの世の無秩序を見て、自分もこのくらいなら赦されるなどと高を括らず、神の言葉に合わせて品性を整え、正しい言行であるように努めるべきです。

 

ヤコブの手紙二章十一節について、先にも述べたように部分的に律法を守っているだけでは違犯者であることには変わりはありません。「婚外性交しようとしなくても、殺そうとするならば律法への違犯者」となり、その逆も然りです。尚、「婚外性交する(μοιχεύσῃς)」は、新共同訳等で「姦淫」とされている事柄であり、直接的には異教の神を信じることを指します。主イエスが花婿、真のキリスト者は花嫁の関係に例えられているように、これが本来の関係です。神は三位一体の神だけであり、それ以外は偶像だからです。そして、明確に異教崇拝の形をとらなくても人間や金銭、世にあるものを神以上に重要視する行為も偶像となります。また、先に触れた太陽暦も悪魔崇拝に繋がるものであり、知らなくても悪魔に起源のある行事や物事に加わる行為には要注意です。

 

カトリックは、偶像礼拝をし、太陽神(悪魔)崇拝をし、勝手に十戒を変え、安息日を土曜日から日曜日に変え、ミサや復活祭等と勝手に行事を作り、暦を変え、ペトロを初代教皇と嘘をつき、偽使徒パウロやその他の罪人を神聖視する等、神と神の律法に逆らう反キリストなのに、キリスト教と誤信し続ける者は自分で聖書を読まへん重過失故に知らないか、聖書を知っててもなお故意に逆らう反キリストやさかい、神に厳しく裁かれても同情の余地は無い。カトリックのみならず、正教会やプロテスタント等も同じような罪を犯しており、それらに所属する者たちは、手遅れになる前に回心せねば、救いは無いであろう。黙示録十八章四節にもあるとおり、カトリック教会の罪に加わったり、カトリックに下される神の罰の災いを受けぬように、そこから出て行くようにと主イエスが御警告しはったとおりや。

 

引用:真の聖書福音と預言「偉大な人ほど人に敬われへん」

 

 

ダニエル書七章二十五節に悪しき者が「時と法を変える」との言葉がありますが、この影響をまったく受けずに生きている方はほとんどいないのではないでしょうか。知らなかったでは済まされない問題であり、「カトリック信者ではないから」と思っていても聖書暦を知らず太陽暦中心で過ごしたり、日曜礼拝が正しいと思っていたらそれらに服しているも同然です。

 

加えて、「婚外性交する(μοιχεύσῃς)」の原語はヨハネの黙示録二章二十二節でも使われております。

 

ヨハネの黙示録二章二十二節(参照)

見よ、我はこの女を寝台へ投げ込み、この女と婚外性交する者たちをも、その行いを悔い改めようとしないなら、甚大な苦しみを負わせる。

 

上記に遡り、ヨハネの黙示録二章二十節以降、自らを預言者と称するイゼベルという女が神の僕たちを教え、誤りに導いて婚外性交(偶像崇拝)をさせ、偶像に献げたもの食べさせているとあります。更に、神はその女に婚外性交(偶像崇拝)を悔い改める機会を与えたが悔い改めなかったため、神はその女の子らを殺すことや、すべての教会は神が心奥と内面を探る者であることを知るようになる、神が各々の行いに応じて報いると書かれております(ヨハネの黙示録二章二十一節から二十二節参照)。

このイゼベルは列王記に書かれているアハブ王の妻であり、偶像崇拝を擁護し、残酷な人物で預言者を迫害しました。ヨハネの黙示録二章二十節においても「律法を汚す者」の象徴として書かれております。そして、ヨハネの黙示録二章二十三節に「その女の子ら」「すべての教会は」の言葉が並ぶことから異教カトリックが考えられます。あるいはローマ教皇が作る世界統一宗教という可能性も考えられます。何にせよヨハネの黙示録二章二十二節にある「甚大な苦しみ」は律法違犯の呪いのようにも見受けるため、律法を軽視して何も良い事はありません。

関連して、先般、こちら(BBC)のとおり米国出身のプレヴォスト枢機卿が教皇に選出されてレオ十四世となりました。個人的には第二の獣の国である米国出身者が選出されたことにも意味深さを感じます。また、こちら(世界史の窓)によると『レオ1世(在位440~461)はローマ=カトリック教会とローマ教皇の権威を高め、「大教皇」といわれる、ローマ教会史での重要な人物。』と言われており、『レオ』を名乗ったことにもそれなりの意図があるのではないかと思いました。ローマ教皇は新世界秩序に君臨する強大な反キリストであり、やがて人々に日曜休業や日曜礼拝を強制するようになるでしょう(参照 真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」)。そのため新教皇の動向を注視していく必要があります。すべては神の律法をめぐる戦いがあることをしかと覚えていきましょう。

 

ヤコブの手紙二章十二節について、実際に我らは一人の例外もなく、神の律法に基づいてやがて神の裁きを受けるのですからその前提で物事を考え、振る舞うべきです。世に「罪刑法定主義」というものがあります。それは『人を犯罪者として処罰するには、民主主義の過程で制定された法律によって、予め罪(構成要件)と罰を明確にしておかなければならないという原則(引用:日本国憲法の基礎知識)』です。予め罪と罰を明確にしているという点では神の律法も同様だと思います。世の法律を知らなくても罪を犯せば罰の対象となります。神の律法も同様です。どちらも無知であれば遵守は困難であり、違犯を積み上げるだけです。特にこの世においては聖書真理を正しく教えないために神の律法を正しく理解出来ず、悔い改めもままなりません。そのままではただ滅びを待つだけの身となるでしょう。しかし、律法によって汚れた世からの支配や影響を脱して、自分を律することで正しい生き方が可能となります。

 

七)主イエスに倣い、正義と慈愛を貫け

ヤコブの手紙二章十三節について、手前は以下のように考えました。当該箇所の「慈悲をかけない者」の言葉から、ヤコブの手紙二章二節から三節にある集会で差別対応をする者に対する戒めとして言及していると考えられます。そして、ヤコブの手紙二章二節から三節の「金の指輪をはめた華やかな服装の人」「貧しい人」と対照的に書かれていることから、単に金持ちなだけでなく地位のある人とも考えられます。それを踏まえて「集会で差別対応をする者」は何故そのような行動を取ったかを考えると「金の指輪をはめた華やかな服装の人」を恐れて媚びた可能性があります。本来、「聖書(旧約)の朗読と解説を聞くための古代ユダヤ人の集会」に集う人が、基本的な為すべき善を知らなかったとは考えにくく、地位ある人等の世の権威に影響されて、為すべき善を曲げたのではないかと考えました。

その上で、以下の「安息日に正義と慈悲を貫いた主イエス」についての解説をご覧ください。

 

主イエスは、かような悪魔の子ばかりが揃ったファリサイ派の会堂(教会)において、彼らに遠慮する事も無く、怖気付いて退く事も無く、片手の萎えた人を治し、正義と慈愛を貫きはった。その結果、主イエスはファリサイ派から命を狙われるようになった。もし、主イエスが臆病で自分の保身を考えて片手の萎えた人を治せるのに治さずにいたなら、主イエスは正義と慈愛の神とは言えへんかったであろう。しかし、主イエスは断じてかようなお方やないし、悪人の評価を気にせず、圧力にも屈する事も無かった。勿論、かような勇気ある行動は、誰にでも出来る事ではないだろう。やはり、慈愛によって完全にされてる人でないと無理やからや。その事は、使徒ヨハネの「慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。」(ヨハネ一 四章十八節拙訳)という言葉からも分かる。主イエスが十二使徒にそう教えはったから、使徒ヨハネはそう言うたんや。もし怖がってやるべき事をせえへんなら、神はその者を正しい者と認めず、恐れる、即ち、臆病になると、罰を伴うとされ、天国行きが厳しくなる事がほのめかされてる。

 

引用:真の聖書福音と預言「安息日の掟」

 

一般的に「正しいことは曲げるべきではない」「慈悲は重要」とは、殆どの人が頭では理解していると思います。しかし、だから必ず実行出来るかとなるとそうではなかったりします。権威者等、他人の評価を気にして、行動出来なかった臆病さに手前自身も心当たりがあります。正義と慈愛の実行を妨げるのは、実は臆病さなのだろうと思います。上記引用のとおり『もし怖がってやるべき事をせえへんなら、神はその者を正しい者と認めず、恐れる、即ち、臆病になると、罰を伴うとされ、天国行きが厳しくなる事』をヤコブの手紙二章十三節でも言われているように手前は感じます。実際、「慈悲は裁きに歓喜する」とは、慈悲は裁きよりも優り、正しいことをする喜びと確信に満ちていて、裁きを恐れない状態を表すようです。ヨハネの手紙一 四章十八節の『完全な慈愛は恐れを追い出す』とも符合すると思います。

 

 

結び

 

キリスト者と名乗るならば、人を分け隔てすることは無いはずです。差別がいけないことは不信仰者であっても理解していることです。それでも外見で人を判断するような分け隔てが起こり得るのは、主イエスを見ておらず、世俗の悪人に影響されて分別を見失っているために起こるのではないかと手前は考えます。まさにその人の心の状態がその人の行いによって露わになるのだと思います。

 

我らが師である主イエスは正直で、真理によって神の道を教え、誰をも憚らず(マタイによる福音書二十二章十六節参照)、多数派の悪人を恐れず正義と慈愛を貫き通されました。今回、ヤコブの手紙の箇所を細かく見させていただいてその意義を再認識致しました。キリスト者として生きると決めたのならば、キリスト者の名にかけて主イエスの教えに留まり、主イエスに倣うべきです。そうしたいという前向きな気持ちが湧くのが当然だろうと思います。今や大艱難が目前であり、艱難が極まるその最中にあっても臆病にならずに正義と慈愛を実行するべきであることを改めてヤコブの手紙二章一節から十三節より手前は教わりました。

 

今はまだ真の聖書福音を学ぶ時が与えられております。しかし、いつまでもそれが続く保証はありません。やがて正しい信仰を行いで示すことを試される時が必ずやってきます。その時に正しく行動出来るように今この時に必死に鍛錬を積むべきです。しかし、何事にも成長段階があります。成長のためにも切磋琢磨する兄弟の存在や御指導、御鞭撻の数々が不可欠だと思います。実際、同じ志を持った兄弟での励まし合いがどれほど支えになったか計り知れません。兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった兄弟の集いから教会への入会を果たして(入会条件等をきちんとお読みになった上で)、ぜひ共に歩みましょう。

 

 

 

 

今も、来る大艱難の時にもキリスト者の名にかけて正しい言行を体現出来るように。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「御言葉の実行者となれ」と題して、ヤコブの手紙一章十六節から二十七節の箇所を考察していきます。

 

ヤコブの手紙一章十六節から二十七節(参照)

(十六節)愛する我が兄弟たちよ、お前たちは道から外れるな。

(十七節)善き賜物や上(天)からの完全な賜物は皆、移り気も変化の影もない、光の御父から下る(遣わされる)のである。

(十八節)御父は御意志のままに真理の言葉によって我らを生み出された。我らを御自身の被造物の初物の一つとするために。

(十九節)それ故、我が愛する兄弟たちよ、人は誰でも聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあれ。

(二十節)人の怒りは神の義を成し遂げないからである。

(二十一節)それ故、すべての汚れと悪意の残りを捨てることにより、お前たちの魂を救うことが出来る植え付けられた言葉を謙虚に受け取れ。

(二十二節)お前たちは御言葉の実行者となれ。聞くだけの者となるな、自分自身を欺く者となるな。

(二十三節)もし御言葉の傍観者となって実行者とならないなら、その人は鏡で生まれつきの自分の顔を見る人に似ている。

(二十四節)自分自身を(鏡で)見ても、立ち去って、自分がどのようだったか直ぐに忘れるからである。

(二十五節)しかし、完全な自由の律法を慎重に調べて、行い続ける者は、その者は忘れっぽい傍観者ではなく行いの実行者である。

(二十六節)もしある人がお前たちの内で信心深い者であると思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺くならば、この者の信仰生活は無益である。

(二十七節)御父と神の御前に高潔で汚れのない信仰はこれである。彼らが苦しみの中にある孤児や寡婦を訪れること、世から自身を守り、汚れないことである。

 

 

一)道から外れるな

ヤコブの手紙一章十六節について、新共同訳や口語訳では「思い違いをしてはいけません」となっております。しかし、原語からは「道から外れるな(Μὴ πλανᾶσθε)」であると判断出来ます。主たる意味は「(正しい信仰から)迷わされるな」「誤りに導かれるな」です。そのように受け取ると、前節(ヤコブの手紙一章十二節から十五節)で言われているように試練を耐え忍び、肉なる思いに負けないことを受けての言葉と考えられます。当該箇所からだけでも、外れてはならない道(正しい道)があり、人がそれに合わせる必要があると分かります。言うまでもなく、神の律法、掟、戒めを守る道です。道から外れて善とされることはありません。これらのことを「愛する我が兄弟たちよ」と呼びかけているのは、それ程までに道を逸れる危険があり、そうならないように励ましており、人生において神の律法を巡る戦いがあることを示唆していると考えます。

 

ところで、「道から外れるな(Μὴ πλανᾶσθε)」の原語はヨハネの手紙一 三章七節でも使われており「誰にも惑わされて(騙されて)はならない(参照)」とあります。騙したり、惑わしたりする者の存在と、残念なことにその偽りを信じる者が生じてしまうことを示唆しております。確かなこととして、何が正しいかは聖書の言葉(パウロ書簡を除く、主イエスや使徒、預言者たちの言葉)によって判断出来ます。神の言葉は基準であり標(しるべ)です。当該聖句は、真の聖書福音を信じる我らに、世にはびこる偽福音(律法廃止論のパウロ教等)に騙されないようにと呼びかけております。その意味を軽んじてはならないと思います。

一方、パウロ教(偽福音)信者もまた自らが正しいと(誤って)盲信して、真の聖書福音を「偽福音」呼ばわりして、「騙されるな」と言います。福音に限らず、世の真実に関しても人々を惑わしたい世の権威が勝手に真実を「偽情報」と決めつけて莫迦にするのと構図は同じです。世を牛耳る世の権威は、多数派を構成してこのように攻撃してきます。もちろん攻撃されているから正しい訳ではありません。何が真実なのかを見極める必要があります。福音においては主イエスや使徒、預言者たちの言葉に照らせば、パウロ教をはじめ世の諸教会の主張は明らかに反しております。キリスト(主イエス)の言葉に留まらないのですから反キリストです。主イエスは何と言っておられるか、その言行は主イエスの御言葉に適うか否かによって、真実かどうかを見分けることが出来ます。それが聖書を根拠にして判断するということです。ともすれば「たったこれだけ」と思うかもしれませんが、偽りを見破るには十分です。「たったこれだけ」が出来ない、しないがために偽りが横行するのです。これは手前が真の聖書福音に出会い、学んだ最初の事です。単純ですが、非常に奥深く、いつでも基本に立ち返り、考えることを勧めます。「聖書を根拠に」と口にするパウロ教徒をたくさん見てきましたが、それが出来ていたら、とっくにパウロ教徒を卒業していたはずです。故に彼らは今も惑わされていると言えます。真に聖書を根拠にして考える習慣を育んで参りましょう。物事の見方が確固となります。

 

二)御父からの賜物

ヤコブの手紙一章十七節について、主なる神(御父)は「移り気も変化の影もない」と言われております。その御性質の反対はヤコブの手紙一章八節にもある「不安定(ἀκατάστατος)」ではないかと考えます(前回記事「自らの信仰を証明する」参照)。「一貫しない」「落ち着きがない」は信念が薄弱な状態が考えられます。世俗においても言動が安定しなければ信用を得るのは難しいと思います。軸が曖昧で今後も揺れ動くために当てにならないと看做されるからです。当然ながら父なる神はそれと真逆であり、御自身が言われた言葉のとおりに振る舞います(有言実行、嘘が無い)神の御計画は変わらない(ヘブライ人への手紙六章十七節参照)、イエス・キリストは昨日も今日も、また永遠に変わらない(ヘブライ人への手紙十三章八節参照)などの御言葉にもその確固たる安定感が示されており、この不変の確かさの故に我らは神の言葉を信じることが出来ます。太古から告げられた神の律法は同じく神である主イエスによって更新された箇所はあっても今尚、連綿と生き続けて有効です。それ故に律法を守らなくて良いなどと神の言葉を勝手に歪めて、使徒を自称して人々を惑わしたパウロの罪は重いです。

更に、「光の御父」とも書かれており、「光(φώτων)」には善悪を含め真理の知識を理解する力と高潔の意味があり、御父の荘厳さをそのまま表しております。その神から「善い賜物や上(天)からの完全な賜物」が与えられると言われております。完全な賜物と聞けば手前は、『聖霊は人間の良心に訴えかけ、目を覚まさせ、私たちが罪深い罪人であり、救い主イエス・キリストを必要とすることを強く認識させます。(引用:真の聖書福音と預言「聖霊の賜物について」)』とあるように真っ先に聖霊が思い浮かびます。実際、聖霊こそ何も欠けていない完璧な賜物だと思います。三位一体の神なのですから当然であり、「遣わされる」の言葉がそれを裏付けていると思います。また、「善い賜物」とは個々に与えられた才能(タラントン)を差していると考えます。神の知識を理解する知性や思慮深さ、福音伝道のための多種多様な実践力が考えられます。まさしく個々の「天賦の才」です。この言葉は並外れた天才的な人に使うことが多いかもしれませんが、本来は「天から授かった才能」を意味します。『あんたは「我が力と我が体で、この富を獲得した」と内心で言う。しかし、あんたの神である主を思い出しなはれ。あんたの父祖に誓たその契約を今日のように行うために、彼(主)が富を獲得する力をあんたに与えはったからや。」(申命記八章十七節から十八節:引用 真の聖書福音と預言「キリスト者と迎え入れる人が弁える事」)』のとおりだと思います。生計を立てるためにも働かなければなりませんが、本来、天から授かった才能は神との契約を履行するために与えられていることを忘れてはなりません。そして、与えられている才能(タラントン)にはマタイによる福音書十五章にあるように差異があります。誰かと能力を比べる必要は無く、そもそも他者のものを欲するべきではなく(出エジプト記二十章十七節参照)、自分に与えられたものを丁寧に磨いて行使していけば良いのだと思います。また、『拙者が言う成功は、地道な努力による成功、誰でもきちんとやれば獲得出来る成功で、神の王国に入るのが成功と定義してます。故に、この滅びる予定になってる俗世での成功を意味せえへん。(引用:真の聖書福音と預言「成功するためには」)』のとおりに間違った成功を追い求めず、正しい成功を追い求めましょう。誤った成功を追い求めて高慢にならないように、また、逆に不必要に自己を卑下して停滞したり怠惰に陥ることにもならないように注意が必要です。与えられた自分の才能(天賦の才)を丁寧に磨いて、神のために用いるという一点を忘れずにおればそれらは予防出来るのではないかと思います。

 

三)神のお選びと初物

ヤコブの手紙一章十八節について、「初物」は、レビ記二十三章にて主に献げるものとして書かれております。そして、エレミヤ書二章三節では「イスラエルは主にとって聖なる収穫の初物(参照)」、更には、ヨハネの黙示録十四章四節では「彼らは人々の中から救い出され、神と子羊とに対する初物(参照)」と書かれていることから、真のキリスト者を指すと考えられます。また、以下のように主イエスは人となって地上に来られ、人々に模範を示し、死んだ後に復活を果たして『後に続くキリスト者の初物』となられました。

 

主イエスは罪人を救われるために我等と同じ人間の姿を取って(人性)天から降って来られたのです。そして、十字架で罪の贖い、律法を完成させ、新たな契約の仲介者となられ、死後の復活(神性)も果たされました。死んだままではただの人間で終わってしまうため神性を示すため、後に続くキリスト者の初物となるために復活されたのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編」

 

今聖句での「生み出された」は比喩的な表現だと思うのですが、「御意志のままに」の言葉を踏まえると、神のお選びを象徴していると考えます。こちら(真の聖書福音と預言「神の救いは予定か人の自由意志か」、「選ばれへん人は神の御言葉を理解しない」)のとおりに神は救う者をお選びになっていることが分かります。その上で、「被造物」の言葉をどう捉えるかも重要です。この天地に存在するすべては、善人も悪人も被造物であることには変わりありません。しかし、善と悪を区別される神は被造物すべてを一緒くたにすることはありません。マタイによる福音書十三章の麦と毒麦、マタイによる福音書二十五章の羊と山羊の区別然り、明確に区別します。故にすべての被造物が神に献げられる対象(初物)とは成り得ず、神のお選びを前提に真のキリスト者として新生した被造物という制限が付くであろうと考えます。主イエスは「お前たちが我が言葉に留まるならばお前たちは確かに我が弟子である。(ヨハネによる福音書八章三十一節参照)」、「もし、ある人が我を愛するならば、我が言った事を守るだろう。我が御父もその者を愛し、我らはその者の所に来て住むようになる。我を愛さない者は我が言った事を守らない。お前たちが聞いた言葉は我のものではなく我をお遣わしになった御父のものである。(ヨハネによる福音書十四章二十三節から二十四節参照)」と言われました。キリスト者の名のとおりに主イエスの教えに留まることがその条件となるのは言うまでもありません。福音書に残された主イエスの教えの言葉を理解されているかを常に自答するべきだと思います。主イエスの言葉より偽使徒パウロの言葉を優先しているようなら論外です。なぜならば主イエスの言葉との相反、矛盾があるからです。偽使徒パウロを信じても真のキリスト者にはなれません。基本的なことですが忘れてはならないことです。

 

四)聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあれ

ヤコブの手紙一章十九節について、「人は誰でも聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあれ」と命令形で書かれている内容を一つずつ見ていきます。

「聞く(ἀκοῦσαι)」は聖書の至る所で使われている原語ですが、ただ単に聞こえているだけの意味ではありません。同じ原語が使われているマタイによる福音書十七章七節では「耳を傾ける(熱心に聞く)」、ヨハネによる福音書八章四十四節では「理解する」、ヨハネによる福音書十章十六節では「聞き従う」など、心の姿勢のみならず知性的な働きや実際の行動まで広く表現されております。人は神に対して聞くに早くあるべきなのは言うまでもありません。

次に「語るに遅く」について、箴言十章十九節では「言葉が多い故に罪がやまないが、自分の唇を制する者は賢い。(参照)」、同様にコヘレトの言葉十章十四節では「愚者は言葉を多くする(参照)」と書いてあることから、言葉が多い(語るに早い)ことは善いこととされておりません。マタイによる福音書五章三十七節でも主イエスは「お前たちの言葉は然り、然り、否、否であれ。これ以上は悪に属する。(参照)」と言われております。荒れ野での古代イスラエルの民の不平不満を思い出せば、自分勝手に思うままに口にすることが如何に災いであるかが分かります。口は災いの元と言います。また、ついつい余計なことを口走ったがために失敗した経験は多くの方が経験しているのではないでしょうか。手前もたくさんあります。それが良かれと思っても(結果を見越せず)痛い目に遭ったり、感情を制御し切れずに言うべきでない言葉を口にする等です。後で後悔しても、一度口から放ってしまえば取り消しは出来ません。ましてやそれが神に対してであればどれほど畏れ多いことでしょうか。手前は失敗をする程に、黙して主の御命令に従い、自制しているのが幸いだとの結論にいつも至ります。

最後に「怒るに遅くあれ」について、「怒る(ὀργήν)」には言葉どおりの意味の他に「正当な(もっともな)嫌悪感」や比喩的な意味で「刑罰」、また、「激しい憤り」の意味があります。この原語は主に「神の怒り」としてマタイによる福音書三章七節やヨハネの黙示録六章十六節、十七節等で用いられております。それ故に「刑罰」の意味が含有されているのだと思います。そして、「正当な(もっともな)嫌悪感」の意味もあることから、妥当な怒りの場合も該当し、あくまで「怒るに遅くあれ」なのであって「怒ってはならない」という訳ではないことにも着目するべきです。実際、不当、不法行為を目の当たりにすれば義憤に駆られること(正当な怒り)が多々あろうかと思います。特に今のこの世の無秩序な様を見ていれば当然です。しかしながら、無闇に怒りを募らせても仕方がありません。怒りを正当に行いに表すまでです(言葉で弾劾する、法の下に許される範囲での集団抗議、訴訟等)。後のことはすべてを正しく裁かれる神に委ねるべきです。なぜならば、ヘブライ人への手紙十章三十節には、復讐は神が為されることであり、神が報復されると書いてあるからです。最終的な正しい裁きは神が為されます。この分を弁えることも大事です。もっとも、悔い改めを勧めたり、諫言や弾劾をするのはその範囲内であると考えます。個人の感覚ですが、激しい憤りは持て余します。激しい怒りに囚われる程に、正しい判断や行動が出来た試しが無く、激しい怒りは人を狂わせると思います。「つい、かっとなって」という犯罪の報道はよく目にします。人は普通、激情に駆られるならば、暴力的な制裁に走ってしまうのではないでしょうか。そのような状態は果たして善いことでしょうか。ヤコブの手紙一章二十節にある「神の義」「神が人に要求する義」であり、人が怒りに留まったままでは罪を犯す危険があり、それ故に戒めておられるのではないかと考えます。ペトロの手紙一 二章二十三節(参照)「この御方は罵られても罵り返さなかった。害を受けても脅かさず、正しくお裁きになる神に委ねた。」の主イエスの姿勢に倣うのが間違いありません。

 

五)御言葉の成長を阻害するな

ヤコブの手紙一章二十一節について、新共同訳では「あふれるほどの悪を素直に捨て去り」とありますが、ここは「悪意の残りを捨てることにより」となると考えます。確かに原語に「あり余るほどの量」の意味もあります。しかし、この手紙は愛する兄弟(キリスト者)に向けて書かれた手紙であり、主イエスを信じて尚、「あふれるほどの悪」があるようでは不信仰者と変わりはないと感じます。故に、原語に沿いながら「悪意の残りを(捨てる)」となるのが妥当と考えます。ここでの「悪意の残り」とは、大部分は捨てながらもまだ残っている悪しき性質です。これが自分の中にしつこく残存する肉の性質等を指すのならば、個人的にはとても合点がいきます。なぜならば捨てたつもりでも残っているのが肉の性質だからです。容易ではないからこそ敢えて捨てよと言われているのだと手前は感じます。そうした作業を通じて、心に植え付けられた言葉は少しずつ育ち、伸びていくのを感じます。さながら生育を邪魔する雑草を駆除するかのように感じます。

 

六)御言葉の実行者となれ

ヤコブの手紙一章二十二節について、「御言葉の実行者となれ」「聞くだけの者となるな」「自分自身を欺く者となるな」と三つの事柄について命令形で書かれております。世の教会信者だった時からこの聖句箇所は知っておりましたが、「自分自身を欺く」の意味が分からず、どんな状態が自分を欺いていると言えるのかが疑問でした。今となっては、分からないなりにずっと心に引っかかり続けたことにも意義があったと思います。「欺く者(παραλογιζόμενοι)」には、「誤った計算をする(数え間違える)」「誤った推論で欺く」の意味があります。言わば聖句を理解せず、曲解したりして、正しい結論を導き出せない状態と考えます。よくある大きな欺瞞は「行いは不要」「律法廃止論」等です。聖書は行いを重視しており、御言葉を聞くだけの者とならず、御言葉の実行者となれと、言い回しは異なっても主イエスも預言者たちも使徒たちもそのように言われております。ただ、偽使徒パウロだけが一致しない言い方をしているだけです。時には曖昧に、また、ある箇所では決定的に律法を守らなくて良いと誤った考えを吹聴しております。聖書で「神の掟を守れ」という御命令の言葉を間違いなく目にしているにも拘らず、「律法は守らなくて良い」とか「人は正しく生きることが出来ないのだから仕方がない」だとか「主イエスを信じるだけで救われる」というのは明白に誤りです。先にも触れた神の怒りが主の日(世の終わり)に下り、行いに応じて報いる(ヨハネの黙示録二十二章十二節参照)のですから、信仰の証明と成り得る行動が不可欠です。偽福音を信じて律法は遵守しなくて良い、遵守は不可能なのだという固定観念に縛られると不思議なことに主イエスが仰った言葉すら見失うようです。この状態を「自分自身を欺く者」と言わずして、何をそうだと言えるでしょうか。

 

「あんた方の罪は、支配せえへんだろうからや。あんた方は律法の下やのうて、恵みの下に居るからや。」(ローマ六章十四節拙訳)

 

使徒ヨハネが手紙(ヨハネ一 三章四節)で述べたとおり、律法違犯をすることが不法行為であり罪や。もっとも、ヨハネに言われるまでもなく当たり前のこと。法を犯すことが犯罪、罪なのは世俗社会でも同じことやさかい。このように、律法に違犯することが罪の定義にも拘らず、パウロはキリスト者が律法の下に居ないととんでもない嘘を吹聴し、「キリストの恵み」によって守られ、律法違犯をなんぼでも犯して「罪の奴隷」(ヨハネ八章三十四節)であっても、律法違犯による数々の罪が人間を支配して地獄に行くことはないと嘘をつき、悔い改めをさせへんように導いてる。こないな教えを主イエスや十二使徒はしてへんし、する筈がない故に、反キリスト教義と言える。主イエスは「不法(律法違犯)を行う者」は「我から離れよ」と言わはり、天の国に入れへんと明言しはった故、律法を無視して違犯することが許される筈がない(マタイ七章二十三節参照)。恵みの下に居るからと律法違犯の罪が免責されるのではない。悔い改めへん限り、即ち、律法違犯をやめて神の律法に服従せん限りは、主イエスによる罪の赦しは有り得へん。

 

引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 六」

 

偽福音は悔い改めをさせないように誤って導き、永遠の滅びに導く最悪の教えにつき、重々惑わされないように気を付けましょう。

 

七)鏡に映すことの意味

ヤコブの手紙一章二十三節と二十四節について、言うまでもありませんが御言葉の「実行者(ποιητής)」とは、律法を守る人(果たす人)です。それに対して、見ているだけの人は「鏡で生まれつきの自分の顔を見る人に似ている」と言われております。その意味は以下のとおりです。

 

この聖句の意味を分かっていますでしょうか。生まれつきの顔というのは悔い改める前の状態であり、自由の完全な律法が鏡や。その鏡を見て自分の間違うてる点を直さなあかんのや。聖書の真理を見聞きしても見るだけや聞くだけで終わってるなら、何の意味も無いんや。聖書もただ漫然と字面を追って読んでも正しく理解せず、行いで直さんのやったら、聖書を読んでも意味が無いんや。なぜなら、その人自身、悔い改めてへんし、生活様式も心の状態も何も変わってへんからや。聖書を読んでも律法を守って主イエスの教えや神の御心を実践せえへんならまったく無意味です。もしあんたがこれを読んで実践せえへんなら、あんたにとって何の益にもなりません。聖書の真理と聖書の御言葉を読んでいる時は感心していても(鏡を見ていても)、読んだ後少し経ったら(鏡から離れたら)直に忘れて従前の状態に戻るのでは虚しいが、にわかキリスト者の実態がまさにこれです。彼らはファリサイ派や律法学者を悪い例に出して、モーセの律法を悪い物かのように言うてますが、彼らはモーセの律法の本質をまったく分かっていません。彼らの考えは、モーセの律法を守る者はファリサイ派や律法学者であるという間違った認識を持っています。

 

引用:真の聖書福音と預言「神の律法遵守とサタンとの戦い」

 

主イエスを信じて新たに生きると決心をする前の不信仰な状態は「生まれつきの顔」と表現するのに相応しいと思います。そして、『罪深い人間のあかん所を直すための鏡の役割をする律法を日々調べ、律法を守って行う必要があるのは明白やろ。(引用:真の聖書福音と預言「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」)』のとおりに鏡とは律法です。また、上記引用の『聖書の真理と聖書の御言葉を読んでいる時は感心していても(鏡を見ていても)、読んだ後少し経ったら(鏡から離れたら)直に忘れて従前の状態に戻るのでは虚しい』の指摘は非常に重要です。マタイによる福音書十三章で主イエスが話された種を蒔く人の例えにも本質は似ております。

 

何事もそうだと思いますが、「見てるだけ」と「実践する」はまるっきり別物です。感覚的にも頭の中の使う部分が異なると感じます。見るだけなら正直、気が緩んでいても出来ます。しかし、実践するとなるとそうは言っていられません。実践の初期段階は手本(例えるなら御言葉)を思い出しながら行動するので、実践がぎこちないです。頭の中に手本が定着していないせいもあるかもしれませんし、頭の中に入っていても、それを業として表せるには頭と手足と心の回路が上手く繋がる必要があります。実践のためには今以上にもっと知識を充実させないといけないと感じることも沢山あります。そうして実践を繰り返していると、(個人の見解ですが)心の中に手本(御言葉)がしっかりと刻まれていくのを感じます。そうすると決して忘れません。忘れようにも忘れられません。もっとも故意に放棄したり、その実践習慣から離れてしまえば別ですが...。こういう学習と実践の経験はほとんどの方が経験済みだと思います。その要領を信仰においても活かせば良いだけだと思います。手前はかつて仕事人間でしたが、仕事で出来ていた事(要領)が信仰においてまだ十分に活かせていないと思うことが多々あります。これでは宝の持ち腐れだといつも思います。仕事以上に信仰に熱心となり、全振りしていくように励むのが正しい自分自身の使い道なのだと信じております。

 

八)完全な自由の律法を慎重に調べて、行い続ける

ヤコブの手紙一章二十五節について、「完全な自由の律法」は、律法には必要なものが何も欠けておらず完璧であるという意味での「完全さ」と、好き勝手放縦に生きるというのではなく、欲望の支配からの「自由(解放)」をもたらす律法を意味すると考えます。自分を律することが出来なくて、誘惑に負けて、「あんなことをするんじゃなかった」と後悔したことはないですか。後悔して、自分で自分を嫌いになる感情(自己嫌悪)も嫌なものですよね。一方、自制し自分を律することが出来ていると実に清々しく、自信も持てると思います。そして、「(律法を)慎重に調べて、行い続ける者」は、言葉どおりに注意深く調べ、出来るようになるまでやめない姿勢「行い続ける」に相当すると考えます。仕事においても何かの技能を身につける際には手本を繰り返し注意深く調べて、結果的に出来るようになるまでにやめない人が技を修めるはずです。もちろん、途中で何度も失敗します。出来るようになるまでには不可欠な大切な過程です。ただ、「言うは易し、行うは難し」で、信仰もそうだとつくづく思います。

 

余談ですが、世の中、確かに器用に物事が出来る人はいると思います。しかし、皆さんは自身をどう思われているでしょうか。手前の場合、はっきり言ってまったく器用ではなく、どちらかといえば失敗して打ちのめされた数だけ必死に挽回して、やっと形になるのが常だったと思います。反面、それにも拘らず、ちょっと上手くいったかと思うと、あっという間に気が緩むので困りものです。故に、大変ではあるのですが忍耐して根気良く励んでいる時が最も良い時だと思います。こういった「己を知る」ことも重要だと思います。

 

九)高潔で汚れのない信仰

ヤコブの手紙一章二十六節から、個人的に自分を信心深い者であると安易に思えるような時は却って危険だと思います。手前はこういう時に大概、何かしらの抜けが生じたり、大きな失敗をします。「お前は本当に大丈夫なのか」と冷静に自分に問えている時の方が安全な状態だと思います。今聖句においても、「信心深い者であると思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺くならば、この者の信仰生活は無益である」と言われているとおり、一つの違犯がすべてを台無しにします。厳しいようにも感じますが、自分の心(善悪を判断する良心)を無視してやってはいけないことをやっているなら、自分を欺いており、表面には見えにくいその心根は自身が思う以上に悪くなっている可能性があります。「ちょっとくらい」と妥協したくなる気持ちに心当たりはないでしょうか。手前はあります。だからこそ慢心は、侮りがたい大敵に思えてなりません。

ヨハネの黙示録三章四節に「サルディスにも、彼らの衣を汚さなかった僅かの名がある。彼らは白い衣を着て我と共に歩むであろう。彼らは相応しいからである。(参照)」という聖句があり、キリスト者の言行や品性の比喩である衣への言及があります。「汚す(μολύνω)」には「染みが付く」の意味があり、神に認められた者に着せられるのが白い衣である故(ヨハネの黙示録三章五節参照)、白い衣に染みがあったら見栄えが悪く、却って「染み(汚れ)」の方が目立ってしまいます。「白い(λευκός)」には「純粋」の意味もあり、「まばゆいばかりの白」の意味もあることから尚更です。一切の染みが無い完全無垢(真っ白)を神が求めておられるため、半端が良くないのは当然であり、染みに例えれば感覚的にも十分に理解出来ると思います。信心深いと思うだけなら、律法学者やファリサイ派の人々でさえもそうであり、「お前たちを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考えるようになる時が来る(ヨハネによる福音書十六章二節参照)」の言葉からも、自称しているだけにならないように気を付けなければなりません。それ程までに人は盲目に成り得て、無自覚に高慢となって大罪を犯す危険があるからです。

 

ヤコブの手紙一章二十七節にある「彼らが苦しみの中にある孤児や寡婦を訪れること」からは隣人愛を説いていると思います。真の聖書福音と預言「断食についての問答」でも言われているように『マタイ二十五章三十一節〜四十六節「すべての民族を裁く」の内容をよう読んで、ええ行いをせえへん人は地獄に行く事が分かり、行いの重要性が理解出来るやろ。』『純粋に他者に対する慈愛から出る行いでなければ、意味が無いです。』が重要です。これは普段から慈愛が伴っていなければやり得ないことだと思います。そして、「世から自身を守り、汚れないこと」の箇所も重要です。この世は悪しきものの支配下にあるため(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)、警戒するのは当然です。「世(κόσμου)」は地上の富(財産)、利得、快楽など、空虚で儚いものではあっても、それらが人生のすべてとばかりに欲望をかき立て、神の義の妨げとなるものの総体です。

 

 

ヨハネの手紙一 二章十五節から十六節(参照)

お前たちは世も、世にあるものも愛してはならない。もし世を愛する者がいれば、その人は御父の愛の内に居ない。なぜなら、世にあるすべて、肉の欲、目の欲、生活の自慢は、御父に属するのではなく、この世に属するからである。

 

ヨハネの手紙一 三章十七節(参照)

世の富を持ちながら、自分の兄弟が欠乏しているのを見ても、憐れみを自ら閉ざすなら、どうして神の愛がその人の内に留まるだろうか。

 

 

上記のように言われているとおりです。また、この世は聖書真理を知らず、異教(宗教)や地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、個人崇拝やその他の偶像崇拝、地位・名誉志向等のあらゆる嘘を信じている人と仕組みに満ちております。世において生きている以上、世との関わりは避けられませんが、それでも敢えて世と距離を置いて生きる必要があります。安息日遵守然り、世俗を大事にしていたら守り得ないでしょう。「守る(τηρεῖν)」には「注意を払う」「見張る」「差し控える」の意味があり、言葉どおりに神の律法に反するものを退ける必要があります。また、注意深く見て行かなければいつの間にか世に取り込まれる危険もあるでしょう。悪しきもの(悪しき世の行事や交流等)については果敢に避ける必要もあります。すべては聖句のとおりです。

 

 

結び

聖書真理を知って良かったと思うことの一つに、上記のように本当のことを知る(同時に偽りと知る)ことが出来たことが挙げられます。世の嘘に惑わされて、例えば、世が勧める「良い学校に入って、良い会社に就職して、たくさん稼いで、良い老後を送って」です。その過程で手前は仕事人間となり、心身ともにぼろぼろになりました。どう生きるのが最善なのかも探求しましたが、情報が沢山ありすぎ、しかも「あの考えも、この考えも、どれも間違っていない。正しい。」という相対主義にも惑わされ、判断する力も無かったため「もう訳が分からない」と途方に暮れました。本当のこと、知るべき真理を知らずに、すべてを曖昧にしている状態は、漠然とした不安が常にやってきます。物事の土台が不安定なので当然ですね。だから、恐くなって都合の良い偶像(宗教、世の権威の教え等)に縋りたくなります。それらは一時的に偽りの平安を与えるかもしれませんが、実際には却って不安が増すだけです。「それらを信じられない自分が悪いのだ」と自らを責め、絶望に陥り、それが長く続きましたが、今となっては真の改心のための布石だったと思えます。都合の良い偶像は論理的に考えれば矛盾だらけなのですが、縋りたい心理が加わるとそれでも盲信してしまうから厄介です。一方、聖書は宗教でもなければ、そして、断じて支配層の計画書でもなく、真理です。天地創造から世の終わりまで、人がどう生きるべきか、神の愛、悪魔、罪について等がすべて書かれております。まずご自身で聖書をお読みなって判断してください(パウロ書簡を除く)。ご自身で神の言葉に確信を持てなければ、無理に信じさせたとて意味がないからです。内側から湧き上がる熱意(信仰)がキリスト信仰の根幹であろうと思います。今回の記事の題名は「御言葉の実行者となれ」であり、まさに神への熱意(愛)が無ければとても自発的に実行しようとは思えないでしょう。あるいは、長続きせず、直ぐにやめてしまうと思います。故に、神のお招きに従い、湧き上がる神への思いと共に、自分の感覚や世の教えではなく、ただ神の言葉に従っていきましょう。

 

ただ、現実にはこの世で真のキリスト者を目指す者は圧倒的に少数です。同じ志を持った兄弟間での励まし合いが不可欠であり、手前もどれほど支えになっているか計り知れません。何より、主イエスは兄弟で愛し合うようにと新しい掟を与えられました。そのため、兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、入会条件等をきちんとお読みになった上で、ぜひ「兄弟の集いの場」から「神のイスラエル教会」への入会を果たして共に歩みましょう。

 

 

大艱難が目前です。残り少ない時を有効に使い、賢く備えて参りましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

こんにちは。

今回は「自らの信仰を証明する」と題して、ヤコブの手紙一章二節から十五節の箇所を考察していきます。

 

ヤコブの手紙一章二節から十五節(参照)

(二節)我が兄弟たちよ、様々な試みに遭う時、すべてを喜びと看做そう。

(三節)お前たちの信仰の試みが忍耐をもたらすと知っている。

(四節)だから、お前たちは欠けている所が何も無いことで無傷で完全となるように、忍耐は完全に行いなさい。

(五節)お前たちの(中の)ある人が知恵の不足があるのなら、すべてに惜しみなく、非難せず、与えられる神から求めなさい。すると、その人に与えられるだろう。

(六節)疑わず、信仰により求めなさい。疑う者は風に揺さぶられる海の波に似ているからである。

(七節)それ故、このような人は主から何かを受け取るようになるとは考えてはならない。

(八節)二心のある人は、その人のあらゆる道において不安定である。

(九節)地位の低い兄弟は高い地位の者となる故に喜べ。

(十節)また、金持ちは低い地位の者とされる故に(喜べ)。なぜならば草の花のように朽ちるからである。

(十一節)灼熱を伴う太陽が昇り、草を枯らせ、その花は散り、その表の優雅さは失われた。このように金持ちもその人の旅路において消え去るだろう。

(十二節)試みを忍耐する人は幸福である。主を愛する者たちに主の約束された命の冠を受け取るようになり、承認された者となるからである。

(十三節)誘惑される時、誰でも「我は神に誘惑される」と言ってはならない。神は悪の誘惑を受けない御方であり、神は誰をも(誘惑しない)からだ。

(十四節)惑わされ、誘惑される時、それぞれ自身の欲望に誘惑される。

(十五節)その時、欲望が孕んで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。

 

一)信仰の証明と忍耐と喜び

ヤコブの手紙一章二節及び三節から、信仰には試みが有るという前提が書かれております。自分が試されると思えば少なからず緊張が伴うと思います。肉なる思いとしては、出来るなら避けたいと思うのが本音かもしれません。しかし、何の試しも無くて、どうやって自身の程度を示し得るでしょうか。何ら試されず「それで良いですよ」と言われたら、もっと不安にならないでしょうか。真剣な信仰と怠惰な信仰が同じであるはずがなく、明確に区別されるべきです。それを明らかにするのも「試み」という機会だと思います。

 

一方、試す側に立って考えれば、その人を判断する必要に迫られており、試す方も真剣です。世俗的にも、例えば、こちら(真の聖書福音と預言「畏れるべき者」)の記事等でも言われているように『学校や会社でも入試や選考をして人を選ぶのが当然』です。誰でも良いから来てくださいとは成り得ません。学校や会社が求める最低限の知力(知識、思考、判断等)の有無を試しつつ、人となりや組織に適応出来るかを判断するのは当然でしょう。選考を疎かにすると集団に混乱が生じて機能不全に陥ります。また、「朱に交われば赤くなる」の諺のとおりに人は関わる相手や環境によって良くも悪くもなります。故に事前に試みてふるいにかけるのは当然だと思います。信仰においてもマタイによる福音書十三章の麦と毒麦等の例えからも神の選別があることが明らかです。神は正しいものと悪しきものは混在させない、善と悪を区別するのが神の御意志であることは聖書を読めば十分に理解出来ます。

 

それらを踏まえ、ヤコブの手紙一章三節の「試み(δοκίμιον)」の原語を見ると「証明」の意味があり、試みとは、信仰が本物かどうかを証明する大切な機会であると分かります。そして、「πίστεως(信仰)」の原語には、明確に「忠実(約束・義務の遵守)」の意味があります。それは神の律法、掟、戒めが忠実に履行されているかを明らかにすることです。ここから十分に律法は廃止されていないことや行いが不可欠であると分かります。もし「信じるだけで救われて、行いは不要」と言うのなら、その考えは本聖句に矛盾しており、明確に間違っております。また、「本聖句の箇所だけ」という言い訳は通じません。なぜならば、「行いに応じて」裁かれることはマタイによる福音書十六章二十七節、ヨハネの黙示録二十章十二節等にも書いてあるからです。更に、忍耐とは、試練や苦しみに遭うにも拘らず、信仰心から神への忠誠心が揺るがない人の特徴とされます。「忍耐(ὑπομονήν)」の原語には「明るい(または希望に満ちた)忍耐」の意味があり、それと符合します。決して苦しさに満ちて渋々行うという後ろ向きなものではありません。信仰に限らず、世俗において苦しいけれども前向きに耐え忍ぶ経験をして、成長出来た経験をされた方はたくさんいると思います。それを思い出していただければ、信仰において前向きに耐える感覚があることがご理解いただけるのではないかと思います。

 

個人的には、信仰のために勤めを辞めた時も(律法遵守が困難となるため)、和服を着始めた時も、周囲に信仰を公言した時も、信仰を理由に世俗の行事等を断った時も、最初は恐れの気持ちが無い訳ではありませんでした。しかし、これは避けては通れないのだと、踏ん張るべきだと悟ると、「やるしか無い」と腹が据わってきます。心が定まると不思議と悪い心持ちはまったくしませんでした。そして、勇気を出して行動する程に道が整えられたと思います。大変なのは、行動する前の自分自身の心(弱気、怠惰、恐れ)に打ち勝つ段階でした。何事も最初が肝心だと思います。真のキリスト者を目指す者にとっては神の御命令に従い、神への忠実を保てた安堵と喜びの方が遥かに大きいと声を大にして言いたいです。そこでの経験や自信は大きな財産となります。故に、ヤコブの手紙一章二節のとおりに、試みは喜びと看做せるようになるとの言葉には大いに共感します(もっとも、本当の試練はこれからですが)。ヘブライ人への手紙十二章十一節のとおりに当座は苦しくても、得られる大きな結果があります。何事も真の成長とはそのような過程であり、真のキリスト者を目指される方には決して苦しいだけではない喜びがあることを繰り返しお伝え致します。そして、信仰が有ることを行いで証明していくものであることを忘れないでください。

 

二)完全であれ、中途半端は駄目

ヤコブの手紙一章四節の「無傷で完全となるように」の言葉は主イエスが仰った『天に御座すあんた方の父が完全であらはるように、あんた方も完全になりなはれ。(マタイによる福音書五章四十八節:引用 真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)』の言葉に重なります。「欠けている所が何も無い」と明言されているように、半端では良くないのは明らかです。世俗的には「人間は完璧ではない」とよく言われます。自他に高い基準を要求して心身ともに追い込んでしまう「完璧主義」に陥り、精神を病んだり周囲との関係に支障を来たす場合もあります。そういったこともあってか「完全」「完璧」の言葉は警戒されるかもしれません。しかし、それは間違った「完全」を目指すために有害さを生むのだと考えます。正しく完全を目指す事柄は神の律法、掟、戒めです。それも「守りたい」という自発的で前向きな動機によってです。神の律法は神への愛、隣人への愛、高潔さを伴うものであり、それらの完全を目指すことには弊害が起こり得ないはずです。且つ、律法の目的を考えて現実場面に応用する知恵も不可欠です。そのためにも聖書の知識や思考力等、理知的能力が必要なのだと日々、実感致します。そして、それだけでなく最も手強い肉なる思いとの戦いがあり、これもなかなかの難敵です。マタイによる福音書十九章二十一節では、金持ちの青年が主イエスから持ち物を売り払って貧しい人々に施すように言われ、悲しみながら立ち去ったとあります。「やっても良い」と思う範囲のことならば誰だって出来ます。しかし、もし自身が執着している事柄だったらどうでしょうか。なかなか手放し難い気持ちが出てくるのは当然だと思います。その上で、自分の思いを優先するのか、自我を捨てて神の御意志を優先するのかが問われます。自分の手の内に無いことならともかく、自分の意志が及ぶ範囲のことならば、出来ないことはないはずです。もし所有していたいという欲が邪魔をしているならば「(故意に)やらなかった」ことになります。「少しくらいいいじゃないか」と思うかもしれません。しかし、小さな「(故意に)やらなかったこと」を改めないと、その自我はあっという間に積み上がり大きくなっていきます。半端は悪さが目立ち、また、全体を悪しく侵しかねないため要注意です。

 

ところで、国会議員や都道府県知事等を見ていると、ある一部分の主張が妥当に見えても、他の事柄では致命的に悪い主張をしている場合が非常に多いです。こちら(ヤフーニュース)のとおり、丸山達也島根県知事は政府の高額療養費制度の負担上限引き上げ方針に対して『国家的殺人未遂だ』と非難しました。SNSではこの件を持ち上げる人がおりました。しかし、彼はコロナ犯罪の加担者でもあり、彼自身が「国家的殺人」の当事者です。一部分の良い所だけを取り上げて、悪い点が帳消しになるなら、悪人は騙し放題、やりたい放題でしょう。トランプ信者にも同じことが言えます。コロナワクチン問題や移民問題に切り込んで人々の溜飲を下げるかのような言動を繰り返しております。しかし、彼こそはこちら(真の聖書福音と預言「動画八回目投稿 日本はイスラエルである」)のとおり、『ワクチンを迅速に製造及び配備して接種しまくるようにと猛烈にワクチンを推進し、今も撤回や謝罪をせず、責任を取ることもしてへん』のに、何故彼を盲信できるのか甚だ疑問です。教えていただいた情報ですがこちら(終末のヘッドライン)によると『トランプ大統領はヒトラーと同じ役割を演じている』と言われております。ヒトラーと言えば独裁の最悪の印象が強いですが、元々は演説で人々を熱狂させ、支持を得ておりました。その支持を利用し、徐々に本性を表して大勢を苦しめるようになりました。こちら(メモ・独り言のblog)も教えていただいた情報ですが、政治家は役者でしかありません。支配層の筋書きがあり、新世界秩序構築に向けた動きをするべく忠実に演じているだけです。そんな彼らに「良い事も言っている」と信じるなら、失望に終わるだけです。悪魔は嘘つきであり、支配層はその悪魔を崇拝しているため同様の手口を使います。その嘘に騙されるなど愚の骨頂です。手前は、真の聖書福音を知る前、善悪の区別を曖昧にして清濁併せ呑むこともやむなしと誤った考えを持っておりました。しかし、そのような曖昧な分別をしていたら、支配層の役者(政治家)に騙されます。故に矛盾があったり、不完全な言行を安易に信じてはなりません。信仰においても悪い行いを改めるのなら、最期まで続ける必要があり、半端な改めであるなら、善悪の分別が出来ているとは言えません。『律法全体を守ろうとする者でも、一つの点で罪を犯すなら、すべてにおいて有罪やからや。」(ヤコブの手紙二章十節 引用:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」)』の言葉を忘れずに完全を目指しましょう。

 

三)神の御意志に適うように

ヤコブの手紙一章五節について、知恵の不足があるのならば求めなさいとあります。「知恵」とは「分別」です。ここでの「分別」とは「善悪の区別」です。「善」とは、神の律法、掟、戒め等が示す真っ直ぐな道(法に適うこと)です。そのための聖書の知識と実践にまつわるものを指していると考えます。そして、本聖句の見ようによっては「求めれば、それだけで与えられる」と思うかもしれません。更に言えば、今は碌に知識も無いけれど、実践も出来ていないけれど、求めればそれが出来るようになると他力本願的に考える人もいるかもしれません。かく言う手前は地上の教会にいた時にそう思っておりました。祈って求めるだけなら誰にでも出来、手前も求めてばかりだったと思います。しかし、当然ですがそんな奇跡は起きませんでした。むしろ起こるはずがないと思います。「起きないのは何故だろうか」と真剣に考えたのであればまだ見込みがあったかもしれませんが、「そう思ってはいけない」と曲解した「疑うなかれ」の思いがありました。なかなかのみっともない勘違いです。マタイによる福音書二十五章のタラントンの教えやペトロの手紙二 一章八節等にもあるように怠惰は神が良しとされることではありません。むしろ必死の努力が必要です。真理を悟らせる神の霊(ヨハネによる福音書十六章十三節参照)は神の掟を守る者に与えられる(同十四章十五節から十六節参照)のですから、何もしないで与えられるはずはありません。もしこういった勘違いがあるなら、今すぐに改めましょう。個人の実感ですが、懸命に聖句を読み、調べ、考え、実践して、悪戦苦闘する中で徐々に事が見え始め、はたと悟れた時が何度かありました。これは世俗においての勉強や仕事と基本的に変わりありません。且つ、やっていく中で打ちひしがれることは珍しくありません。更に、誤解を恐れずに言えば、「こんなことすら出来ないのだ」と思う中で、自分への高い期待や見積もりがあったことにも気付き、本当の意味で身を低くすることも学べます。

 

逆風が来た時どうするのか等と、なるべく自分たちで問題に対処させ、考えさせ、工夫させ、乗り越えさせ、成長を促してるんやと拙者は考える。何もかも主イエスが手伝ってたら、主イエスのみが行動してることになり、人間自身は何もせず、もはやその人の存在意義が無くなるせやから、苦労することがあったとしても、それは成長のために神が与えはる必要な試練や教育なんやと思い、逃げずに立ち向かうべきや。これは、親が子にする教育に似てる。神は、御自分が選びはった人間に神の民として相応しい品性を持たせるべく、後の世に行く前にこの世で鍛えはるんや。

 

引用:真の聖書福音と預言「水上を歩く」

 

神は逆境を通して、手前に学ばせてくださったのかもしれないと思うことは多々あります。御心に適えば奇跡的に速やかに知恵が与えられることも確かにあると思いますが、平時においては真のキリスト者として鍛錬を積むことの方が重要であり、神の御意志を思えば「今は安易に与えられる時ではない」と自分でも思えます。そうやってますます励むようになると思います。その事はおそらく神の御意志に適うのではないかと思います。そうやって幾らか主体的な行動を取り始めると、「何もしないで(あるいは必死に行動しないで)与えられようと願う」のは有り得ない図々しい姿勢だと思い至ります。自分の欲のために求めても与えられないのは当然です(ヤコブの手紙四章三節参照)。世俗においても、何の努力もしない者に与えようとは思わないはずです。「今の自分は熱心であるか、それも正しい方向に」と自らに問うことは大事だと思います。

 

四)ぎりぎりの局面において

ヤコブの手紙一章六節について、「疑う(διακρινόμενος)」には、「動揺する」「反対する」といった意味があります。言うまでもありませんが、動揺して心が定まらない状態は危険であり、ましてや反対する状態は授かるには著しく不相応です。そして、『疑う者は風に揺さぶられる海の波に似ている』の言葉から、以下が思い起こされました。

 

「しかし、猛烈な風に気付いて恐れ、沈められ出したため、「主よ、助けてください」と叫んで言うた。」とある。ペトロは風に気付いて怖くなったとある。この風は、黙示録七章一節でも書かれてる風と同じ単語が使用されてる。ペトロは、この風に気付き、恐れ、沈められ出したとある。

 

(略)

 

風とは、詩編百四編四節より神の使い、創世記一章二節からも神の霊の意味もあり、イザヤ書四十章七節より「主の風(霊)が吹いた」ということからも分かるでしょう。ペトロは、その猛烈な風に対して恐れを抱き、その風に沈められかけ、主イエスに助けを求めて叫んだんや。

 

(略)

 

ここから分かるのは、ペトロが水上を歩く途上で、猛烈な風に気付いて、恐れ、それ故に沈められ出したんやから、もしペトロが猛烈な風も恐れず、主イエスを心から信じていれば、沈められることはなかったであろうということや。要するに、神がペトロを試しはったんや。

 

引用:真の聖書福音と預言「水上を歩く」

 

画像引用元:真の聖書福音と預言「水上を歩く」

 

上記の記事にて、主イエスの御許可を得て、ペトロも水上を歩く場面は、『夜という闇が支配する時に自分一人になったとしてもキリスト者として適切に行動出来るという事を意味する』とあります。この箇所を読んで、改めて自分が大艱難期に、目に見える現実や世の権威を恐れず、主イエスを心から信じられるかを問われる場面を想像しました。そして、ペトロの話が良き教訓になると思います。大艱難は激しい試しであり、予告された事に対して『主イエスは、ペトロの心にわずかでも疑いがあった事を指摘しはり、疑わぬようにたしなめはった。疑いは、信仰を揺るがし、身の破滅を招くからや。』を我が事として活かすべきだと思います。

 

その上で、疑ってしまいそうになる時とはどんな状況が考えられるでしょうか。大艱難期に獣の像を拝まねば殺されてしまう場面、その究極の二者択一の場面で「ぎりぎりまで耐えたから、もう十分じゃないか」との誘惑がやってくるかもしれません。しかし、それは自分が楽になりたいがために神の律法に背こうとする瞬間に他なりません。他にも空腹に耐えかねる、住む場所も寝る場所もままならない、家族にすら裏切られて「もうおしまいだ」と思う時かもしれません。「一言、獣に従うと言えば、それらから解放される・・・」という誘惑がやってくるかもしれません。しかし、それに傾いたら、今までの歩みや、神を愛すると言ったあの言葉が嘘になってしまいます。たとえそれが強要されたとしてもです。そこに耐えてこそ本物です。こういう場面がやってくるかもしれないと備えるのは大事だと思います。

 

また、マタイによる福音書十四章三十節等にある「風(ἄνεμος)」ヨハネの黙示録六章十三節(兄弟共同検討訳)『まるで、いちじくの木が、大風に揺さぶられて時機を逸したいちじくの実を振り落とすように』でも使われております。その意味は、マタイによる福音書十四章三十節を踏まえると神から神の民として本当に適格なのかを試されていると考えられます。「いちじく」はキリスト者を指し、「時機を逸した」とは未成熟な状態を指します。大艱難期にある程度のキリスト者の状態になっていなければ、激しく動揺させられて獣に屈しかねないことを表していると思います。

 

ヤコブの手紙一章七節について、「このような人は主から何かを受け取るようになるとは考えてはならない」と明確に書かれております。普通に考えて、疑う者に与えられるとは思えません。そして、ぎりぎりの局面において神を選ばない者を神もまた選ぶことはないだろうと思います。先に書いた「もう十分じゃないか」の言葉は、手前が過去に心に過った言葉です。情けない話ですが、「何もしていなかった訳ではない」「ここまでの頑張りは認めて欲しい」、そして、あわよくば「不十分な自分にも何とか救いの道を与えてくれないだろうか」と浅はかな願望すら湧いてくるのです。追い詰められた時にこそ湧いてくる隠された自我があり、それはなかなかの見たくもない醜さで、少なからずその事に打ちのめされたりします。それと向き合うのも正直、骨が折れます。しかし、かの時の苛烈さを思えば断然ましで、どうということはないです。むしろ日々の課題に向き合えずして、本番で何が出来ましょうか。いつもその結論に達します。変な逃げ道や言い訳を作らないために、最期まで忠実でなかったら駄目であることをはっきりと認識して、骨の髄まで叩き込むと良いと思います。平素出来ていない事が本番でやれるはずがありません。

 

ヤコブの手紙一章八節について、新共同訳では『心が定まらず』とありますが原語では「二心のある人」と書いてあります。「動揺する」「確信が無い」「疑う」の意味があるので神を信じていない、あるいは、世の権威たる反キリストを気にしたり、自分の身を案じている状態が考えられます。もっとも、自分の身を案ずるのは人間の弱さを考えれば起こり得る事です。しかし、以下をしかと覚えておくと良いでしょう。

 

人から嫌われるのが怖い等と思う臆病者は絶対に救われへんし、多数派に溶け込むことで安心感を得たり、金儲けのことや保身のことばかり考えて行動したり、この世でしぶとく生き延びることに執着してる人たちは、神の民ではない。

 

引用:真の聖書福音と預言「畏れるべき者」

 

保身を考えて為すべきことをしなかったり、神の御命令に従えなかったりした時、どんなことが心を過りますか。真のキリスト者を目指す人なら、心苦しくて堪らなくなりませんか。それは良心(善悪を判断する意識)があるからです。この良心が働く時を大事にしてください。良心に背き続ければ、その内に何も感じなくなるでしょう。そうすれば悔い改めが出来なくなり、気付かぬ内にサウルのように個人の恩恵期間の終了を迎えてしまうかもしれません。同じ失敗を繰り返しすことで本当に恐ろしいのは、良心が麻痺してしまって「仕方がない」と思って、悔い改めへの熱意を失うことだと手前は思います。更に、「不安定(ἀκατάστατος)」の原語には「一貫しない」の意味があります。「時々、正しい行動をする」では駄目だと分かります。主イエスのように一貫した姿勢が大事です。また、この原語に「貞操を守らない」の意味もあるのが印象的です。神の目から見れば、世の権威等の偶像になびく様は浮気に見えると思われ、この言葉のとおりだと思います。

 

 

五)報われる幸い、悔い改めに導かれる幸い

ヤコブの手紙一章九節について、新共同訳では「貧しい」となっておりますが、原語には厳密にそのような意味は無く、「謙虚」「平凡」「身分が低い」といった意味です。そして、「高い地位の者となる故に喜べ」と言われております。聖書ではこの世の繁栄を勧めておらず、むしろ世の友とならないように(ヤコブの手紙四章四節参照)と言われております。故に、ここから考えられることは、この世では評価されなくても謙遜を身につけて神の御前にへりくだり、神の目に適うことで神の王国に入ることが許されるようになることを指すのではないかと考えます。そのことはヤコブの手紙一章十節からも窺えます。「金持ちは低い地位の者とされる故に(喜べ)」とあり、『その時、イエスは弟子たちに言われた。「あんた方に確かに言っておく。金持ちが天の王国に入ることはほぼない。重ねて言うが、金持ちが神の御国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しい。(マタイによる福音書十九章二十三節から二十四節 引用:真の聖書福音と預言「成功するためには」)』のとおりです。主イエスが金持ちは神の王国に入られないと言われたのは、世を愛し、世の友になってしまうからです。ところで十節の「低い地位(ταπεινώσει)」には「低くされる」の意味があり、比喩的に自らが道徳的な意味においてまったく大したことがなく小さい者であるということ、罪悪感を認識して嘆くことを指すようです。そのようにへりくだれたのなら、これほど幸いなことはありません。実際には簡単なことではないからです。そして、金持ちであっても「草の花のように朽ちる」とあります。蓄えた財産がいくらあっても死んだら無意味です。人は儚い草の花のようであり、その短い生涯で金持ちになろうと必死になっても無意味です。なぜならば、この地上の生涯という試しの時を経て、神の王国に入るのが真の成功であり、地獄行きになるのが人生最大の失敗だからです(参照:真の聖書福音と預言「成功するためには」)。

 

ヤコブの手紙一章十一節について、「灼熱を伴う太陽が昇り、草を枯らせ、その花は散り、その表の優雅さは失われた」から、「灼熱」「草」の言葉に着目し、類似の聖句を見ていきます。

 

詩編百四編四節(参照)

 

神は風を御自身の御使いとし、燃える火を御自身に奉仕するものとされる。

 

 

イザヤ書四十章七節(参照)

 

草は枯れ、花は散る。主の風がその上に吹くからだ。確かに民は草である。

 

上記を踏まえると、風や火は神の霊であり、草花を枯らせたのは神の御意志に基づくものと考えられます。

 

ヨハネの黙示録十六章八節から九節(兄弟共同検討訳)

 

第四の天使が、その瓶の中身を太陽に注ぐと、太陽に人間を火で焼くことを許された。そして、人間は、激しい熱で焼かれ、この災いに関する力を持つ神の名を冒瀆した。そして、悔い改めず、神に栄光を帰さなかった。

 

また、上記のように神の許可の下に罰として臨むことが示されております。更に、『しかし、日が昇るとそれらは焼かれて、根が無いため枯らされた。(マタイによる福音書十三章六節 引用:真の聖書福音と預言「選ばれへん人は神の御言葉を理解しない」)』から、根が無いために枯らされたと考えられます。「根が無い」とは、神の真理を表面的にしか経験せず、それを自分の魂の奥深くまで浸透させていない状態を指すようです。言わば、悔い改めが不十分な状態が考えられます。このことから、試しに耐えきれないために脱落したり、そもそも不信仰で滅ぼされたことが考えられます。この世で束の間の栄華を味わっても主イエスの来臨時にこの天地ごと滅ぼされることがヤコブの手紙一章十一節で示唆されていると考えます。

 

六)試練と誘惑

ヤコブの手紙一章十二節について、十一節までの流れを踏まえるとしっかりとした根を持ち、強い日差しにも耐えて枯れない「忍耐する人」の幸いがより際立つと思います。ここでの「忍耐(ὑπομένει)」には「不屈の精神」の意味があり、悪に屈せず、ただ神にのみ仕える姿勢を見事に表しております。また、ここでの「試み(πειρασμόν)」の原語はヤコブの手紙一章三節とは異なりますが、意味する所は近似しており、「逆境」「誘惑」「衝動」です。そして、これらに耐えて本物の信仰の「証明」になろうと思います。それが永遠の命に値すると神に判断されて与えられる「命の冠」です。

 

ヤコブの手紙一章十三節について、聖句のとおりに神は人に罪を犯させたいのではなく、神御自身が誘惑しているのではありません。あくまで困難な場を通して、人が行いによって本物の信仰の証明をすることを見届けようとしておられるだけだと思います。ヤコブの手紙一章十四節も踏まえ、決して神が罪に誘っているのではなく、逆境の中で各位の欲望が溢れ、自制出来ずに罪を犯すだけです。「誘惑される時(ἐξελκόμενος)」には、「誘い出す」「引き離す」の意味があります。獲物が隠れた場所から誘い出されるように、自分に負けて罪へと誘い出されることを表しております。同様に「惑わされる時(δελεαζόμενος)」には「罠にかける」の意味があります。

 

平時、環境や心身が安定している時に自制するのは容易いです。しかし、非常に疲れた時や余裕を無くした時、逆境に晒された時に同じようでいられるでしょうか。もちろん、弱ることは避けられません。しかし、その場面で自分のことばかりを考えて苛立ったり、当たり散らしたり、はたまた、ただただ弱々しくそれまでの勇ましさの欠片も見られないということがあると思います。逆境の時こそ、その人の本当の顔が表に現れると思います。苦しいなりにその時の自分に出来る最善(理性を失わず、考えて、より良い行動をする)をする人も居れば、取り乱す人もいると思います。各位の人生において、困難な場面で自分がどう振る舞ってきたかは、自身が一番よく知っていると思います。手前も燻り出された醜い自我に愕然としたことは何度もあります。「だって、そんな状況に置かれたら、仕方がないじゃないか」と言うのは簡単です。しかし、そこでどうするかが重要です。自我は確かに非常に手強いですが、打ち負かされたらいけません。やはり地道にこつこつ平時に鍛錬するのが賢明だと思います。自身の性質や状態を適切に認知し、検証し、自我を制することです。逃げたくなる気持ち(弱さ)があるのも事実ですが、逃げないで向き合う勇気は少しずつ育み、鍛えるしかないと思います。

 

ヤコブの手紙一章十五節について、「孕む」は比喩的に肉なる思いに耽ることを指します。「(罪が)熟す(ἀποτελεσθεῖσα)」には「完了する」「完成する」の意味があり、「罪が完了する」が何を指すかを考えれば、罪の記録が消されないで残ってしまうことを指すと考えます。つまりは、悔い改めが出来ていない、あるいは、恩恵期間が終了した、更には、救いの道に入りながら堕落して前よりも悪くなる(マタイによる福音書十二章四十三節から四十五節、ペトロの手紙二 二章二十節から二十一節等参照)状態が考えられます。そして、それによって生み出される「死」とは永遠の滅び、第二の死であるのは間違い無いと思います。

 

 

結び

 

真のキリスト者になる(キリストの教えに留まり、神の目に適うようになる)とは、この世のあらゆる試験や仕事の中でも最難関だと思います。人生を懸けて行うものであり、自分の能力を行使するだけでなく、内面(品性)をも問われます。それが出来ているかどうかは、間もなくかつて無いほどの困難と言われる大艱難によって試されます。

 

過酷な試練に打ち勝つのは、一朝一夕ではでけへんよ。受験でもそうやろ。難関であればある程、その勉強期間は長期に及び、準備に時間が掛かることを知ってる筈です。真のキリスト者は、永遠の命を受け、神と一緒に居られるという特権を受ける地位であり、これは非常に難関であり、それ故、狭い門、狭苦しい道と聖書にあるとおりで、拙者がそう解説してきたとおりです。

 

 

その時に一人前のキリスト者になっていなければ、手遅れとも言えるからです。独り立ちでけへん状態で、いきなり一人にされて、仕事が出来るとは思えへんよね。世俗の仕事も同じでしょう。未経験の仕事に、先輩の指導も無く、いきなり仕事全部こなせと言われても難しいのではないですか。それと同じです。ある程度知識を持ち、経験も重ね、一人前になって初めて一人でも活動出来るのではないかと思わねばあかんよ。

 

引用:真の聖書福音と預言「水上を歩く」投稿欄

 

上記で言われているように難関であるほどに長期の準備期間が必要です。何の鍛錬等の準備も無しに完成は有り得ません。例えば、仕事においても、優れた熟練者となるにはたった数年では無理で十年以上、中には数十年かかるものもあると思います。もちろん単に年数を経れば良いというものでもなく、また、技だけでなく心も求められると思います。

 

【一人前】

 技芸などがその道の人間として通用するほどになっていること。

(引用:スーパー大辞林)

 

手前が就いていた業種の職能経験を踏まえれば、自分が「一人前になれたかな」と思えるのに、個人の感覚ですが八年から十年はかかったと思います。単に知識や技術を早く覚えればそれで良いというものでもなかったと思います。酸いも甘いもいろいろ経験して、修羅場と思う困難な場面にも対処出来るようになるだけでなく、職能人としての魂や人間性(心)が非常に重要であったと思います。そういった過程を経て、各々が一人前になれたかなと思う時が与えられるのだと思います。それを踏まえると、真のキリスト者の成長にも当然に時間と段階が不可欠だと思います(世俗の仕事と同じ位の年数を要するという訳ではなく、あくまで成長のためにも時間と段階を経る必要があるという意味です)

 

画像引用元:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」

 

こちらの表をしばしば見返して、自分の現在地の確認に活かしております。今、自分がどの位置にいて、目標にあと何が足りていないかを考え、悟る必要があります。また、兄弟で愛し合い、切磋琢磨することも不可欠です。以下、キリスト道を歩もうと思われる方は入会条件等をきちんとお読みになった上で、ぜひ集いから教会への入会を果たして参りましょう。

 

 

 

 

誰も働く事が出来ない夜が間近です。その夜(大艱難)に備え、その時に真のキリスト者であることを、その信仰を行いで証明していきましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。