こんにちは。
今回は「終末の預言者に耳を傾けよ」と題してお伝えしていきます。
一、世の終わりが近い
◯イランの戦争について
偽イスラエルと米国がイランに一方的に攻撃を始め、戦争の影響が拡大しております(※「偽イスラエル」である理由は真の聖書福音と預言「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」をご覧ください)。この戦争の目的は、ロスチャイルド家が中央銀行の無いイランを支配下に置くためだと言われております(参照:メモ・独り言blog)。ベネズエラ侵攻も同様の理由でしたが、こちら(アメブロ)によるとベネズエラ侵攻後に偽イスラエルがイランに『次はお前だ、すぐだ』と宣言していたようです。そして、偽イスラエルが米国を戦争に引きずり込んだことを認めております(参照:アメブロ)。何ら大義名分は無く、偽ユダヤのロスチャイルド家が米国を操り、イランを支配下に置こうとして起こされた戦争です。支配層の私利私欲のために戦争が起こされている現実をしかと見据えるべきです。
◯日本の懸念
方々で「国際法違反のだまし討ち攻撃」と非難の声が挙がっているにも拘らず、日本政府は米国を支持し隷従を強めております。こちら(西日本新聞)によると『自衛隊派遣を求められるシナリオもひそかに検討している』『首相は可能な限り協力したい考え』と、どこまでも米国の属国丸出しで情けなくなります。ホルムズ海峡の実質封鎖の原因を作ったのは偽イスラエルと米国です。また、イランの『ホルムズ海峡は敵国を除き開放されている(引用:FNNプライムオンライン)』と言っており(通行自体は可能)、むしろ実質封鎖をしたのは英国のロイズ保険です。ロイズが保険を停止したためであり、それは「航行禁止令」に等しいようです(参照:note)。『世界の大半は、イランがホルムズ海峡を封鎖したと考えている。しかし、ホルムズ海峡を封鎖したのはイランではなく、事実上、ロンドン金融街、具体的には保険会社と再保険会社の独占状態にあるロイズ市場である。(引用:X)』という指摘のとおりだと思います。偽イスラエル、米国、金融が今回の戦争に絡んでいると見受けます。そういったからくりを踏まえて、自衛隊を派遣してどうにかなる筋合いではないと考えます。そもそも『自衛隊艦船の派遣には(1)安全保障関連法に基づく米軍支援(2)自衛隊法が定める海上警備行動(3)防衛省設置法に基づく調査・研究-などが考えられるが、いずれも現に戦闘中のホルムズ海峡に艦船を派遣する法的根拠になり得ない。(引用:東京新聞)』と言われているとおりです。真の聖書福音と預言「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」等の記事で言われているように第三次世界大戦へと拡大していく懸念があり、不用意な行動により日本は巻き込まれる懸念があります。そのため、現行憲法を遵守し(集団的自衛権の行使は違憲)、公式、非公式問わず無用な米国の要求を退けるべきです。
現段階のホルムズ海峡の実質封鎖だけでも影響は甚大です。石油が無くなれば、石油から生成される多くの物資も不足し、社会が回らなくなる懸念があります(参照:In Deep)。また、同じくホルムズ海峡を経由する液化天然ガスが無くなれば、世界的にも肥料不足や肥料の高騰による食糧価格の上昇も懸念されます(参照:In Deep)。特に食料自給率が低く、輸入依存の日本が最も困る事態は、食糧不足による飢饉です。日本政府はこれまでも故意に国内農業を冷遇して食料自給率を下げ続けました。輸入依存、円安の状態も故意に作り、高市政権になってからは不必要な問題発言により支那から輸入制限をされております。高市総理は以下の画像のように問題だらけにも拘らず碌に追及されず、時に逃げ、時に居直る悪態からして信用に値しません。総理の座に就いて良い人物ではなく、引きずり下さなければ国民が更なる害を被るだけです。
画像引用:https://x.com/lovemana0505/status/2033666700856725840
八方塞がりの状況を故意に作り続けて現在に至りますが、戦前の様相と重なります。かつて『ABCD包囲網によって石油・鉄などの供給を断たれた日本では、「もう外交では解決できない」「自力で資源を確保(=奪取)するしかない」という世論が高まり(引用:note)』、開戦に至りました。このままでは、やがて戦前のように「戦争しかない」という誤った流れが作られかねません。こちら(アメブロ)で説明されているように既に日本をイランとの戦争に巻き込もうとする言説があります。絶対に政府に戦争をさせてはなりません。
画像引用:https://x.com/KNHjyohokyoku/status/2033473298579833204
上記の危惧と怒りについて手前も同感です。そして、イラン関連以外の危機として、支那やロシアが日本政府の度を越した「防衛力強化」に対して敵国条項をちらつかせております(参照:NEWSTOMO、X:Sputnik 日本)。これは反日国の顔色を窺うという意味ではなく、日本の置かれた状況を見据えず墓穴を掘る浅はかな行動が問題だということです。
また、こちら(時事.com)によると、統合幕僚長はミサイル『配備先が敵の標的になり得るとする地元住民らの不安について問われ「ご指摘のようなことよりも、抑止力や対処力を高める効果の方が大だ」』と言い放ちました。国民ではなく国体しか考えていないのでしょう。憲法前文には、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し」と書かれており、国民抜きに国政の権威は有り得ません。統合幕僚長も行政機関に位置する者として自身の立場を弁えるべきです。国民(住民)を軽視するのは由々しき問題発言です。憲法を守らなければ秩序は乱れるだけであり、放っておいたらますます政府が暴走する危険があります。よって違憲行為には国民が猛抗議し、憲法改悪にも猛抗議するべきです。憲法十二条にある「国民の不断の努力」を為していきましょう。
◯世の終わりが近い
ここまでに挙げた動きからも主イエスの終末預言の様相を呈していると分かるはずです。
キリスト者なら、支配層による茶番戦争とはいえ、先の大戦から七十年程度続いた平和の時を経て戦争のことを聞くようになった最近、世の終わりの始めなのかと心の準備をし、今の内にキリスト者としてやるべきことをすべきと言える。
黙示録十三章にあるとおり、悪魔の代理人たる獣に従わねば生きて行かれへんような社会にするのが悪魔と悪魔崇拝者である支配層の最終目的であり、聖書はその悪魔と支配層の悪事を前もって知らせてくれて、ローマ教皇や偽ユダヤ人どもの支配層やその傀儡である政府に従わぬようにと警告してるのであり、支配層の悪事を擁護してるのでもないし、世の権威に従うように勧めてるのでもない。
悪の多数派に従わず、抵抗し、自身のこれまでの生き方や行いを悔い改めましょう。そうでなければ、その末路は地獄行きです(参照:真の聖書福音と預言「地獄行きを甘く見るな」)。そして、上記の図のとおり、支配構造の頂点にいる悪魔は、この世の人間を支配して自身と共に地獄に道連れにしようとしております。故に、真の戦いの構図と勝利条件は、悪を離れて最期まで神に従い通す事(忠実)です。この霊的戦いが本質である事を忘れてはなりません。そのためにも世俗の仕事で忙殺させられたり、世の出来事に動揺させられて聖書の学びと実践が停滞してはなりません。
二、終末の預言者のエリヤ
先月に続き、残りのマラキ書の箇所を見ていきます。
マラキ書三章十三節から二十四節(参照)
(十三節)「お前たちの言葉は我に敵対して酷くなった」と主は仰せになった。「我らはあなたに対して、何を互いに話したでしょうか」とお前たちは言う。
(十四節)「神に仕えるのは無駄、たとえ我らが神の命令を遵守したとしても、軍勢の主の前に会葬者のように歩んだとしても何の利得があるか」とお前たちは言った。
(十五節)「今や我らは高慢な者を祝福された人と呼ぶ。悪を行う者らも確立され、神を試みても逃れた。」
(十六節)その時、主を畏れる人々は各々その兄弟と互いに話した。そして、主は耳を傾けて聞かれた。主の名を重んじる人々や主を畏れる人々のために主の御前で記録の書は記された。
(十七節)軍勢の主は仰せになった。「彼らは我がものとなる。その日に我は宝とし、人が自分に仕える子を憐れむように彼らを憐れむ。
(十八節)そして、お前たちは立ち返るようになり、善人と悪人、神に仕える者と仕えなかった者を見分けるようになる。
(十九節)見よ、炉のように燃える日が必ず来る。すべて高慢な者ども、悪を為す者は皆、麦わらとなって彼らを焼き尽くす。来る日、彼らの根も枝も残さない。」と軍勢の主が仰せになった。
(二十節)「しかし、我が名を恐れているお前たちには義の太陽が昇り、その翼には癒しがある。お前たちは牛舎の子牛のように跳ね回って出て来る。
(二十一節)我が定める日にお前たちは悪人たちを踏みつけ、彼らはお前たちの足裏の下で必ず灰となる。」と軍勢の主は仰せになった。
(二十二節)お前たちは我が僕モーセの律法を思い起こせ、我がホレブで全イスラエルのために命じた数々の掟と戒めを思い起こせ。
(二十三節)見よ、我は恐るべき大いなる主の日が来る前に預言者エリヤをお前たちに遣わす。
(二十四節)彼は父たちの心を子らに、子らの心を彼らの父たちに向けさせる。我が来て呪いで地を打たないように。
(一)パウロ教は神の目に悪である
マラキ書三章十三節にて、主なる神は「お前たちの言葉は我に敵対して酷くなった」と仰せになりました。しかし、それに対する民の返答は「我らはあなたに対して、何を互いに話したでしょうか」というものでした。マラキ書一章六節、二章十七節、三章七節と同様に自分が何をしているか分かっておりません。自分が悪い事をしておきながらそれを自覚出来ない(客観視出来ない)のは、相当に深刻で恐ろしい状況です。この事から、以下の聖句が思い起こされます。
◯ヤコブの手紙一章二十三節から二十四節(参照)
もし御言葉の傍観者となって実行者とならないのなら、その人は鏡で生まれつきの自分の顔を見る人に似ている。自分自身を(鏡で)見ても、立ち去って、自分がどのようだったか直ぐに忘れるからである。
生まれつきの顔というのは悔い改める前の状態であり、自由の完全な律法が鏡や。その鏡を見て自分の間違うてる点を直さなあかんのや。聖書の真理を見聞きしても見るだけや聞くだけで終わってるなら、何の意味も無いんや。
律法に照らす事により、自身の言行が、律法に対して適法であるか、違犯があるかが明らかになります。それが神の目に映るその人の「真実の姿」です。
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◯神の御認識を推論する
(大前提)
神の律法、掟、戒めの遵守が不可欠である
↓
(事実)
民には◯◯の言行がある
↓
(結論)
それ故に「お前たちの言葉は我に敵対して酷くなった(マラキ書三章十三節参照)」と神は判断された
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上記が神の御認識になると考えます。民が認識していない「神に敵対する言葉」に相応する「事実」が何であるか、また、何故それが生じたのかをよくよく考える必要があります。詳細は後述致します。
次に、マラキ書三章十四節を見ていきます。
人々は『「神に仕えるのは無駄、たとえ我らが神の命令を遵守したとしても、軍勢の主の前に会葬者のように歩んだとしても何の利得があるか」とお前たちは言った』と神は御指摘されております。
まず「神に仕える」には以下のような意味があります。
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◯「神に仕える(עָבַד)」
・目的に適う
・物事を果たす
・神の役に立つ
・人を助ける
・神を満足させる
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共通して口先だけではなく、行いが伴うと分かります。そして、「目的に適う」ためには「神の御意志」の把握が不可欠です。
次に「何の利得があるか」の「利得」は言葉どおりに「利益」を指します。おそらくは「この世での見返り」を求めていると思われます。言うなれば「神の命令を聞いた所で何か旨み(利益)がある訳でもないのに」といった所でしょうか。利益信仰は不信心です。「この世での幸せ」を追い求めているが故にこのような発想となるのだと考えられます。
また、「何の利得があるか」と疑問を呈する事は、「神の命令を守っても無駄だ」と言っているに等しいです。まさしく偽使徒パウロはそのような趣旨の発言をしました。
「律法の行いによっては、誰も神の前で義とされへんやろうからや。律法によっては、罪の認識やから。」(ローマ三章二十節拙訳)
→文字どおり、パウロは律法を守り行っても義とされへんから無駄と律法を貶し、律法廃止論を唱えてる。
(略)
「それでも、かつてほんまに神を知らず、元来神ではない神々に隷属しとった。しかし、今や神を知った、むしろ、神から知られたのに、どうして再び弱く無力の原理に戻り、再び改めて隷属することをあんた方は望むんか。あんた方は、日、月、時節、年を守ってる。あんた方のために無駄に労苦したんやないかと、あんた方を心配してる。我のようになれ。兄弟たちよ、我はあんた方に願う。なぜなら、我もあんた方のようになったからで、あんた方は我を一切不当に扱わへんかった。」(ガラテヤ四章八節〜十二節拙訳)
→パウロは、聖書や律法を「弱く無力な原理」と貶し、律法が定める日、月、時節、年、即ち、拙者が過去記事「太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度」で示した「聖書暦」や安息日を守ることを莫迦にし、律法を守ることを隷属すると悪いことかのように故意に言うてるのも特徴や。
そして、「会葬者のように」とは、言葉どおりに葬儀で嘆き悲しむ様子を表しております。これが何に相応するかと考えれば、この世を謳歌せず、神を畏れて生きる様と考えます。「主は心の砕かれた者たちの近くにおられ、後悔している霊を救われる。(詩編三十四章十九節参照)」「神への献げものは砕かれた霊。砕かれて後悔している心を、神よ、あなたは見下されません。(詩編五十一編十九節参照)」からも、主がこれを求めておられると分かります。マタイによる福音書二十一章四十四節にある「石(主イエス)の上に落ちて打ち砕かれる」とは、この世での成功や報いを受けるのを期待するのではなく、死後の永遠の命に希望を抱き、かつ律法によって照らされて露わにされた自分の真の姿(罪深さ)に打ちのめされて、心から悔い改める人を指すと考えます。これこそ主イエスが説いた「狭苦しい道(マタイによる福音書七章十四節参照)」です。苦しむ過程は神の律法に適うように自身を清める過程そのものであり、それを嫌うようでは神の民には相応しくありません。
総じてマラキ書三章十四節にて主なる神が言われている事は、民が神の律法、掟、戒めを軽視し、世の友となっている(神の敵となる)状態(ヤコブの手紙四章四節参照)を指すと考えられます。そして、当該箇所は偽使徒パウロの偽福音を的確に言い当てていると思います。これこそがマラキ書三章十三節で神が「お前たちの言葉は我に敵対して酷くなった」と言われた事の一つとして考えられます。
マラキ書三章十五節の「今や我らは高慢な者を祝福された人と呼ぶ」について、普通に見れば「そんな莫迦な、何故そう思えるのか」と突っ込みたくなる内容です。本来、求められる姿勢は以下です。
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◯求められる真のキリスト者の姿勢
(大前提)
そもそも神の律法、掟、戒めは守って当然である
↓
(事実)
主イエスの弟子となり、罪の赦しを乞い、必死に悔い改めて、最期まで神に従い通す
↓
(結論)
それであれば、過去の罪は赦され、神の律法、掟、戒めに照らしても違犯が認められない(無罪=神の王国への入国が許される)
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「高慢な者」と言われるからには、傲慢不遜な言行の事実があるはずです(品性も悪い)。しかもそれはサムエル記上十五章二十三節や箴言二十一章四節等にもあるように、神が忌み嫌う品性です。それが「祝福された人」と真逆な結論を導き出しているのは、大前提が間違っていると考えられます。
更に「悪を行う者らも確立された」とは、律法違犯の悪を行っても安泰するだろうという勘違いを指していると考えます。普通に考えて、悪を行って固く立つなど有り得ず、聖書はそのようには教えておりません。律法に違犯していた悪人であっても悔い改めて、悪から離れて正しい事を行うなら生きる(エゼキエル書三十三章十四節から十九節参照)と書いてあります。悪は必ず裁かれます。
また、「神を試みても逃れた」について、神を試みるのは罪であり(申命記六章十六節参照)、その罪を改めない限り、その罪が消えず有罪判決は免れません。
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◯パウロ教徒の間違った認識
(大前提)
確かに神の律法はあったが、律法は廃止されて行いは不要と偽使徒パウロが言った
↓
(事実)
それゆえ「主イエスを信じれば救われる」と口で言うのみであった
↓
(結論)
それでも罪が赦されて救われると考えている
※しかし、それは間違っている
間違った「大前提」を基にしたため、間違った行動を選択した。また、その「大前提」には聖書全体の文脈から齟齬がある事に気付かず、終末のエリヤの真の聖書福音と預言にも耳を傾けず悔い改めなかった。そのため罪の記録が残り有罪と判断される。
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当人たちの中では筋が通っているつもりなのでしょう。しかし、間違った大前提によって導き出された間違った結論でしかありません。それ故、『その時、我はその者らに公然と明言するだろう。「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。」(マタイによる福音書七章二十三節 引用:真の聖書福音と預言「キリスト者と迎え入れる人が弁える事」)』と主イエスに言われてびっくり仰天するのでしょう。もはや、その時になってからでは取り返しがつきません。
(二)神を畏れる人は神の目に善である
マラキ書三章十六節は前節までと打って変わって、神を畏れる人々の話に遷移しております。ここで「主を畏れる人々」と複数形で書かれているのは、主イエスが与えた新しい掟の「互いに愛し合う(ヨハネによる福音書十三章三十四節参照)」や「我が名において二、三人が集まる所に、彼らの中に我は居る。(マタイによる福音書十八章二十節参照)」も踏まえていると考えられます。主イエスの御言葉と見事に符合します。
そして、真のキリスト者の会話に主なる神が耳を傾けてくださり、彼らは「記録の書」に記されております。申命記三十一章二十六節やイザヤ書三十章八節にあるとおり、書物は古来より証しとして用いられております。エゼキエル三章二十節では、正しかった人でも道を逸れて悪を行えば、それまでに為してきた事は覚えられないとあります。それを踏まえて、マラキ書三章十六節の内容は、最期までキリスト道をまっとうしたが故に覚えられて「記録の書」に証しとして記されたと考えられます。また、前回記事でも触れましたがサムエル記上十二章五節やエレミヤ書二十九章二十三節等で主なる神が証人となると言われております。かつマタイによる福音書二十二章十一節で『「しかし、王が食卓で横たわる人たちを見るために来て、そこに婚礼の衣服を着てへんかった者を見付けた。」とあるとおり、神は婚宴に来た人が相応しいかどうか直々に確認しはる。勿論、人間がこの世で普通に生活してる間にや。この世できちんと神を畏れ敬い、神が制定しはった律法を守ってるか、平素の行いが善いか、すべて選考対象にされてると思わなあかん。(引用:真の聖書福音と預言「神の王国に相応しいように準備せよ」)』の箇所とも符合します。
マラキ書三章十七節について、順に見ていきます。
「彼らは我がものとなる」とは、言葉どおりに真のキリスト者が「神の所有」となることを指しております。前回記事でも触れたとおり、真のキリスト者は初物として神に献げられるようになる(レビ記二十三章十五節、エレミヤ書二章三節、ヤコブの手紙一章十八節、ヨハネの黙示録十四章四節等参照)のですから、神のもの(所有)と言われているのは当然です。また、『神のために献身すれば(主イエスの信仰を持ち、律法を死ぬまで守り、伝道し、慈愛ある行いをすることを指す)、神は必ずその者を救いはる。主イエスは、すべての人間に対して神に自分を献げるように求めてはる。(引用:真の聖書福音と預言「天地の隔たり」)』にも通じます。
次に「その日に我は宝とし」から、マタイによる福音書十三章四十四節から四十五節にて、神の民となる人に対して「宝」「真珠」と言われていることが重なります。たとえこの世では評価されなくても、神がお選びになった忠実な僕はそれほどの価値があると、神は大きな愛を示してくださっております(参照:真の聖書福音と預言「偉大な人ほど人に敬われへん」)。
「人が自分に仕える子を憐れむように彼らを憐れむ」について、「憐れむ」の原語には「惜しむ」、即ち「無駄に失われないように大切にする」の意味もあります。そして、先に挙げた「仕える」と同じ原語が使われております。世俗の会社においても経営者や上司の意向を汲んできっちり仕事をしてくれる社員は非常に有能な宝であり、普通ならば大切にするはずです。神にとってもきちんと言いつけに応じる僕は同様であろうと思います。
マラキ書三章十八節について、「お前たちは立ち返るようになり」が最初にあって、それから「善人と悪人、神に仕える者と仕えなかった者を見分けるようになる」という順序が示されているのが個人的には印象深く感じました。神に立ち返らない内は聖書真理がよく分からないため、そもそも見分けられないでしょう。ここでの「立ち返る」とは神の律法、掟、戒めに立ち返り、回心することです。同じ原語が「悪の道と悪事から立ち帰れ(エレミヤ書二十五章五節参照)」「律法に立ち帰るために(ネヘミヤ記九章二十九節参照)」等で使われており、これらの文脈も重ね合わせると、より意味する事が分かると思います。尚、善人と悪人の定義は原語の意味からも明らかです。
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◯善人(צַדִּיק)
神に向かって行いと品性が義に適っている、法に適う、正しい人
◯悪人(רָשָׁע)
神に対する倫理的(善悪の基準=神の律法)間違い、間違ったことをした人
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前提に神の律法、掟、戒めがあり、神を畏れて、神の秩序に従う敬虔さが無ければ、そもそも理解出来ません。先にも挙げた「仕える」の定義を踏まえ、神の御意志も理解出来ないでしょう。故に神に立ち返ることがすべての始まり、基礎となります。詩編百十一編十節、箴言一章七節にあるとおりです。神を畏れることで、神の秩序を受け入れられるようになります。それによって聖書に基づいた正しい判断が可能となり、本当に正しい理解力(洞察力)が始まります。聖書の善悪の基準を知らなければ、正しい行動を取れないのは当然です。世の常識や自分の好む所に基づいて行動するからです。残念な事にこの世は不信仰者が圧倒的に多く、パウロ教徒も含め、矯正(誤りを正すこと)を酷く嫌う人ばかりであるのが現実です。
(三)悪人の主の日の光景
マラキ書三章十九節について、一転して悪人への裁きが書かれた凄惨な描写であり、主の日の様相を記していると考えられます。過去記事(声の限り伝えたい事)でも触れたゼファニヤ書一章等の内容に酷似しております。主イエスの来臨時は、ペトロの手紙二 三章十節から十二節にあるように今の天と地が火で滅ぼされます。それは大艱難末期であり、その時に存命である真のキリスト者だけが携挙されます(マタイによる福音書二十四章三十一節参照)。尚、燃える炉は詩編二十一編十節にもあるように神の怒りの比喩です。マタイによる福音書十三章にある毒麦の例えでも燃える炉(四十二節参照)の言及があり、世の終わりに麦以外の毒麦が焼かれる(四十節参照)描写とも一致します。
そして、「彼らの根も枝も残さない」から、一切の悪が文字どおりに根こそぎ滅ぼされます。詩編五十二編七節の聖句の実現でもあります。
更に、手前も含め、真のキリスト者を目指す者にとっても、パウロ教徒にとっても「人は我が内に留まらなければ、その人は枝のように外へ投げ捨てられて枯らされる。そして、それらを集め、火に投げ入れて焼かれる。(ヨハネによる福音書十五章七節参照)」の言葉を戒めとして、主イエスの御言葉に留まることの意味をしかと踏まえ、実行していく必要があります。
ところで、本筋からは外れますが、ヨハネの黙示録十九章十五節では、主イエスの口から「鋭い剣」が出ていると言われております。「剣」とはヘブライ人への手紙四章十二節にあるように「神の言葉」を指します。ヨハネの黙示録二章十六節では、主イエスが「悔い改めよ」と御命令され、そうでなければ「我が口の剣で戦う」と言われております。主イエスは裁く権威をお持ちであり(ヨハネによる福音書五章二十七節参照)、本来ならば「戦い」は成立し得ないと思いますが、神が前もって告げた御言葉に対して適うか否かを問い、判決を下すことを例えているのだと思います。悔い改められていなければ有罪であり、人は神の言葉の前には自身の行いによってのみ応えられると考えます。
その上で、ルカによる福音書二章三十五節では「剣がお前自身の魂を突き抜けるだろう。多くの心の思いが明らかにされるために。(参照)」と主イエスへの言及があります。この「剣」には「極度の苦悩があたかも心を貫くように」といった比喩的な意味があるようです。一般的にも「言葉が刺さる」と言う場合には、かけられた言葉によって「精神的な痛みを覚える」ことを指します。神の言葉に「精神的な痛みを覚える」とはどんな時でしょうか。考えられるのは神の御言葉に応えられていない、適っていない等の不十分な時だと思います。個人的には、安息日遵守がままならなかった時、安息日に関する聖句を見るのが辛くて堪りませんでした。遵守出来ていないため、後ろめたくなるからです。一方、律法に違犯して苦しくて堪らないのは正常な反応とも言えます。そう感じなくなったら良心に焼印を押されたも同然です。苦しさに目を背けたら、いよいよ終わりが近付きます。しかし、悔い改めて遵守出来るようになると疚しさもなくなり、精神的な痛みは無くなります。どの戒めに照らしても神に対して恥じ入ることが無くなる(詩編百十九編六節参照)のがキリストの弟子の目標です。手前はまだ完全ではありません。事柄によっては神の言葉に貫かれて痛みを覚えます。一般的に心の中に肉なる思いが多いほどに苦しさが埋め尽くすと思います。自分を捨てられていないため、神の言葉を実行したくても出来ない半端な状態にあるからです。しかし、どうすれば良いかは主イエスが既に教えてくださいました。後は各々が実践するまでです。これらから神の言葉に適い、疾しさも後ろめたさも無い状態となるべく悔い改めを完成させていきましょう。
(四)報われる者の主の日の光景
マラキ書三章二十節は、対照的に神の名を畏れる真のキリスト者について書かれております。彼らには「義の太陽が昇り、その翼には癒しがある」と言われております。ここでの「太陽」はヨハネの黙示録一章十六節、二十一章二十三節、二十二章五節から神御自身が照らすとある光を指すと考えます。まさに神の御栄光たる「義の太陽」であり、神の王国に入られた真のキリスト者だけが見られます。そして、「翼」は「夜明け」、「癒し」は「救済」の比喩のようです。困難を経て罪に打ち勝ち、永遠の命にあずかれる喜びは言葉では言い尽くせないと思います。更に、「牛舎の子牛」とは繁栄の例えのようです。また、「跳ね回る」の原語には「誇らしく行動する」の意味があり、罪に打ち勝って勝利した者の威容を表していると考えます。マラキ書三章二十一節もまさにその状態を表していると思います。「悪人たちを踏みつけ、彼らはお前たちの足裏の下で」は、まさに悪人を足元に置いております。この事は、マタイによる福音書二十二章四十四節やヘブライ人への手紙十章十三節で言われている真のキリスト者の勝利を表していると考えます。尚、足裏の下の「灰」とは、「苦悩と悲しみ」の比喩であり、『この世で超少数派で苦しい思いをしてる神の律法を守る真のキリスト者のみが後で逆転する(引用:真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」)』という構図がここからも見て取れます。
(五)終末の預言者
マラキ書三章二十二節について、主なる神は「モーセの律法を思い起こせ」と言われております。断じて律法の一部の十戒だけではありません。また、後に主イエスが律法は廃止されていない(マタイによる福音書五章十七節から十八節参照)とも言われました。但し、主イエスの御功績により変更が生じているのは事実です。
拙者は過去からずっと律法を守るようにと言い続けてきたが、それは主イエスを仲介者とする「新しい契約」の範囲内においてであり、古い契約に拘泥するのではない。過越祭の守り方の変更や(復活祭は、異教(カトリック等)の祭り)、石打ちの司法律法をやらずとも良い(この世で死刑にしないだけで罪を容認してるのではなく、悔い改めずに罪を犯し続けるなら地獄行きになる)等と主イエスがこの地に来はって以来、モーセの律法を全廃にすることはせえへんが、律法の守り方には一部変更があるんは揺るがぬ事実や。拙者は大分前からその事について言及してきた。それにも拘らず、世間には、この区別が全然出来ておらず、誤った解釈をしたり、聖書を曲解し、誤った事を頑なに信じたり、嘘を言い広めてる者が多い。もしモーセの律法をそのまま旧契約のとおりに守るべきと言う自称キリスト者が居るならイエス・キリストの教えに逆らっており、新しい契約を結んでへんと言え、その者はキリスト者ではない。偽使徒パウロの律法廃止論を信じて、モーセの律法を全部無視して守らへん者もキリスト者ではないし、十戒だけ守ればええと言うてる者どももキリスト者ではない。これらはすべて信仰の偽装者であり、彼らに騙されてはならん。
自分一人で聖書を読んで上記を見出だすのは難しいと思います。しかし、現代(終末)の預言者が上記のように解き明かしてくださっているのですから、その御解説に素直に耳を傾けるべきです。
ところで「モーセ(מֹשֶׁה)」の原語には「救出する」の意味があります。モーセの在命中、その後の古代イスラエル、現在に至るまで、守るべき神の律法を伝えてくれているのですから、言葉どおりであると思います。
マラキ書三章二十三節について、「我は恐るべき大いなる主の日が来る前に預言者エリヤをお前たちに遣わす」から、特に「恐るべき大いなる主の日」から終末期を指すと考えられます。同じ言い回しはヨエル書三章四節でもされており、マタイによる福音書二十四章二十九節にある終末の描写の表現にも酷似します。かつ前回記事でも触れたとおり、「ぶどう園の例え」にある『収穫の時期が近付くと預言者がこの世に送られて(引用:真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」)』来ます。ましてや世の終わりに救われる真のキリスト者への言及が福音書や黙示録に記されている以上、必ずや預言者が遣わされているはずです。
主イエスの初臨前にエリヤの働きをした洗礼者ヨハネの特徴は、男性である(生まれつきの性であり、性転換や男装によって男と偽装する者を除く)、世の諸教会や諸教派に属さへん、世俗権力に与せえへん、多くの所有財産を持たへん、金持ちではない、世の悪に染まらぬ世捨て人、奇跡等と目に見える業をせずそれによって人々を惑わさへん、パウロ教信者ではない、神の律法を守って擁護する、他人の律法違犯(不法行為)を咎める、主イエスを証しする、自分の栄光を求めへん、聖書(パウロ書簡を除く)から外れた教えをせえへん、他者に先立って分け隔てなく多くの人々に向けて悔い改めを説く男や。せやから、既にエリヤらしき活動をしてる人より後で真似て同じ事を言う人といった二番煎じ以降は該当せえへん。それらの特徴をすべて満たす男がキリストの再臨前のエリヤであると、まともな人間なら理解出来る筈や。一つでも欠けていれば、それはエリヤではない。
主なる神は「見よ、我は我が使者を遣わし、我が前に道を備える(マラキ書三章一節参照)」と言われました。悪人が支配するこの世では真の聖書福音が知られておらず、律法廃止論等の偽福音が横行しております。まさに神の秩序が乱され、堕落が著しい状態です。聖書自体は世に知られてはいるのですが、神の篩(ふるい)たるパウロ書簡の影響は大きく、人々が自発的に自律的に単独で自身を清めるのは非常に難しいのが現実です。
神はすべてご存知で、多くの人間が聖書だけを読んでも真理を理解できないことをご存知なのです。ですから、正しい伝道者、真の預言者、またはその両方を備える者が必要なのです。サタンは、そこにも目をつけ、偽りの教義で多くの人々を騙して取り込む偽教師や偽預言者を用意しています。多くの人々は、聖書を読んでもよく理解できず、参考になる教材や教えてくれる人を探している内に偽教師や偽預言者の教義に引っかかって影響された結果、間違った信仰を持ってそれが絶対的に正しいと思い込んで高慢になってしまうことが少なくありません。これは実際に多く発生していることです。
マラキ書三章一節の「道を備える」の原語には「秩序が乱れているものを綺麗にする(取り除く)」の意味があります。故に終末のエリヤも洗礼者ヨハネの時のように世の権威を恐れずに間違った教え(偽福音)を弾劾し、まさしくパン種(マタイによる福音書十六章六節参照)を取り除きます。その上で、真の聖書福音と預言を伝えて、神の律法、掟、戒めに基づいて人々に悔い改めを説きます。ここ数年来、このような働きをした人がミカエル氏以外、他に誰が居るでしょうか。数年前、マラキ書三章二十三節を読んだ時、「今この時、預言された終末のエリヤがこの世にいるのかもしれない」と驚きつつも待ち望む気持ちがありました。ミカエル氏の教会で真の聖書福音と預言、房付き和服や聖書暦等を学ばせていただきながら、「きっと世界の何処かに自分たちと同じように真の聖書福音を見出だした預言者が居るに違いない」と思っておりました。しかし、時が経ち、世がますます悪化しても、ミカエル氏以上のお働きをする人は待てど暮らせど現れず、いよいよ大艱難が間近かと感じる時期に入りました。自分で聖書の学びと鍛錬をしてみてよく分かるのですが、成長というのは時間がかかります。地道にコツコツの繰り返し、実が成る如く一定の過程が不可欠です。そして、『大艱難が起こる前、即ち、現在から大艱難の始まる前までの人々の様子を見て、事前に審判を下し終え、大艱難を迎えます。(引用:真の聖書福音と預言「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」)』とあることから、今から終末のエリヤが活動し始めたのでは遅く、今既に、二千十七年から真の聖書福音と預言を説いたミカエル氏以外に該当する人物は居ないと手前は考えます。先に挙げたエリヤの要件にもすべて当てはまります。手前はミカエル氏と言葉を交わすまで、これ程までに聖書に依拠して、聖書の教えを体現し、人の言行から心奥を見抜き、的確に改善点を指摘する人に出会ったことがありません。「世の中にこのような人がいるのか」と、とても驚いたものです。このように、真の聖書福音と預言をこの終末に説いてくださる方が今、確かに居られる事をここに申し上げておきます。
画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12862424375.html
(真の聖書福音と預言「洗礼者ヨハネとキリストの再臨前のエリヤ」)
マラキ書三章二十四節について、終末の預言者は「父たちの心を子らに、子らの心を彼らの父たちに向けさせる」とあります。「父」と「子」はそれぞれ複数形なので御父と御子ではなく、人間を指すようです。これについてはマラキ書一章六節で子が父を、僕が主人を敬う関係を信仰に例えていることから、ここでも神を恐れ敬うことや神の創造の秩序を守る事を言われていると考えます。また、箴言三章十二節やヨハネの黙示録三章十九節等には愛する息子を懲らしめるといったことが書かれており、熱心に悔い改めさせて正しく導く事を例えて言われていると考えます。そして、「彼はエリヤの霊と力によって主の前に先行し、父たちの心を子らへ向け、不従順な者らを正しい者たちの知恵に向け、主のために備えられた民を用意する。(ルカによる福音書一章十七節参照)」と同様の事が福音書でも書かれており、終末の預言者もまた洗礼者ヨハネと同様に人々を悔い改めさせる働きをすると分かります。また、「呪いで地を打つ」とは、律法違犯による罰(呪い)、即ち、各々の行いに対して報いがあること(エゼキエル書三十三章十二節から二十節参照)を指していると考えます。
三、結び
ミカエル氏のブログを初めて見た時、聖書は一筋の真っ直ぐな道を示していると、はっきりと認識出来ました。「そうだったのか、そうだったのか...やはり聖書は正しかった」と思った時の事は、はっきりと覚えております。神の律法、掟、戒めに従うのが正しいと、照準が定まれば、やるべき事は一つです。キリスト道を歩む事です。しかし、当時は歩もうとすればする程に恐れも湧いてきました。まだ世俗的生活を土台にしていたからです。
◯エゼキエル書三十三章三十一節(参照)
そして、民の入り口のように彼らはお前の許へ来て、我が民のようにお前の前に座り、お前の言葉の数々を聞くが、それらを実行しない。彼らは口では好意を示すが彼らの心は自分の利得に走るからである。
自分の生き方や生活を変えるのは大変です。だから「素晴らしい話(福音)を聞いた」と思っても、行動するかどうかは別問題です。上記の聖句に続く節では「彼らはお前の言葉の数々を聞くが、それらを実行しない。(エゼキエル書三十三章三十四節参照)」と言われており、「これが多数派の姿勢なのだ」と言われていると思います。
ちなみにエゼキエル書三十三章は、見張り(預言者)が人々に警告して悔い改めを説くという箇所です。今は最後の収穫期、かつての収穫期と同様に終末のエリヤが働いている時であり、上記の場面は現代の我らが、我が事と受け取るべき戒めでしょう。
過去も今も多くの偽預言者と偽教師が居る。拙者が過去に弾劾してきた人たち、その教えの内容も明らかに聖書に反すると証明してきた。しかし、多くの人々は真理を愛さず、偽りを愛してやまへん。その証拠は、拙者の許に来る人の少なさと彼らのような偽預言者と偽教師に追従する人の多さから明らかにそれは証明されてる。三年程前はある程度ブログ訪問者数が居ったが、今はかつての半分以下や。見事に多くの人が離れ去って、偽りに耳を傾けて脱落して行ったことを示してる。
ミカエル氏は二千二十三年時点で上記のように言っており、彼の説く聖書に依拠した真の聖書福音に耐えかねて大勢が離れていったと思われます。しかし、聖書真理を目を背けた所で現実は何も変わりません。神の審判は今も進行中であり、かつて無かった程の大艱難は目前であり、その末期に実現する主イエスの来臨(現在の天と地が滅び、各位に裁きが下る)も遠くありません。
マタイによる福音書十七章十一節から十二節(ミカエル氏訳)
確かに、まずエリヤが来て、すべてを修復するだろう。しかし、あんた方に言うとく。エリヤは既に来たのに、人々は彼を認識せず、それどころか、人々が望む事を何でも彼にした。
終末期のエリヤは神のために過去の偽福音や偽教義の誤りを指摘して弾劾し、正しい福音を宣べ伝え、人々を悔い改めさせ、神のためにまともな人を用意するべく働く。これが「すべてを修復する」の意味。
主イエスは洗礼者ヨハネについて、上記のように言われました。そして、終末のエリヤについても世の殆どの人が認識しておりません。それは大勢が真の聖書福音を知らないために、そもそも人を見分けられないからでしょう。しかし、神の律法、掟、戒めに照らせば、ミカエル氏以外には該当者がおりません。彼が働かなければ、誰が神の御前にまともなキリスト者足り得るでしょうか。それ程までに神の律法は多数派の偽福音によって誤解を受けて、無きものにされてしまう寸前にありました。
◯エゼキエル書三十三章三十三節(参照)
そして、これが実現する時、彼らは預言者が彼らの中に居たと知るようになる。
世の殆どの人は終末のエリヤを認識しません。しかし、真の聖書福音と預言が主イエスの終末預言のとおり、全世界に福音が伝わり(マタイによる福音書二十四章十四節参照)、主イエスの来臨を目の当たりにした時に人々は預言者がこの時代に居たと知るようになるのでしょう。
何度も繰り返し言い続けている事ですが時がある内に聖書を読み、悔い改めましょう。聖書に背を向けてこの世にしがみ付いても待ち受けるのは永遠の滅びです。戦争や飢饉等は確かに恐ろしいですが、そればかりに気を取られても無益です。時間切れになってから気付いても手遅れです。
尚、ミカエル氏のブログは、アメブロからサブスタックへ移行しました。そして、教会への入会は、当面受付を停止しております。『移行が落ち着いたら募集をサブスタック上でかけます』とあるため、時期を待ち、兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる入会希望者はその間に準備に努めましょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。






































































