こんにちは。
今回は「もし預言者が遣わされていなかったら」と題してお伝え致します。
一、自分自身を何に献げるか
真の聖書福音と預言「天地の隔たり」の記事はご覧になったでしょうか。マタイによる福音書二十二章十五節から二十二節から読み解ける真理について解説しております。個人的には「この箇所にここまで深い意図があったのか」「知っていたつもりでも実は分かっておらず、初めて知った」と驚きました。教わらなければ分からない聖書の神意があり、それを学べるのは大変ありがたく、学ぶほどに主イエスをより深く知れると感じます。
ここからは記事の感想に触れていきます。
(以下、この項での二重括弧は真の聖書福音と預言「天地の隔たり」からの引用)
個人的に当該記事を読んで以下の聖句が思い起こされました。
◉あんた方の富がある所に、あんた方の心もあるだろう。
(マタイによる福音書六章二十一節 引用:真の聖書福音と預言「ゲツセマネの祈り」)
「富」は大切にしているもの(無形のものを含む)を指します。『心もある』とは強い関心がある、夢中にさせられている状態を指すと考えます。何事も、その人の心の在処にこそ、その人が大事にしているものがあります。それは突き詰めれば、その対象が世の事にあるのか、あるいは神に向いているのかの二択になります(ヨハネの手紙一 二章十五節から十七節参照)。
◉我によって気分を害されへん者は聖なる者や。
(マタイによる福音書十一章六節 ミカエル氏訳)
何故かような事を言わはるのか。理由はいたって単純であり、神の民か悪魔の子かを分かつ基準の一つになるからや。神に選ばれぬ悪魔の子は、主イエスを嫌い、主イエスの教えを忌々しく思い、従わへんし、聞く耳も持たへんからや。実際、世の九割九分九厘以上の人間が主イエスの教えに逆らう反キリストやし、権力者や富裕層や有名人等は言わずもがな。
(略)主イエスによって気分を害されへん者、即ち、主イエスの教えに納得して素直に受け入れて実践する者は聖なる神の民である
(略)受け入れるということは、その言うことに従うことを意味し、行いが伴わへんのに「受け入れてます」と口先で言うなら嘘つきになることに要注意や。
◯悪を体現しているファリサイ派の人々の心の在処
マタイによる福音書二十二章十五節のとおり、ファリサイ派の人々は主イエスに何も言えず『ばつが悪いと感じ』ることしか出来ず、『出て行かされ』ました。これが神に逆らう者すべての末路であろうと思います。そして、彼らは自己愛でしか事を受け取れず、そのため改心出来ず、復讐を考える始末です。この時点でレビ記十九章十九節に違犯しております。彼らは自分達の権威や自尊心を守ることにしか関心が無いのが明らかです。
『ファリサイ派の悪い所は、ほんまは彼らが悪いとか間違うてるのが分かってるにも拘らず、悔い改めず、神の道を歩む正しい人を嫌い、貶めようとしたり、無理にでもこの世から排除しようとする点や』
『彼らは悪魔の支配下にあり、悪魔が欲する事を行うものや。悪魔が欲することは、主なる神を憎んで逆らい、一人でも多くの人間を滅ぼすことや』
『彼らの理性だけでは、その悪い本性には抗えへんということや(ヨハネ八章四十四節)』
この指摘は非常に重要だと思いました。彼らは神が嫌悪する「自分は正しい」という高慢の病に罹り(箴言十六章五節、ペトロの手紙一 五章五節等参照)、主イエスによって気分を害され、主イエスを排除しようとする行いによって「悪魔の支配下の地獄の子」であることを表しております。主イエスの「確かに、お前たちを殺す者が、自分は神に仕えていると思う時が来る。(ヨハネによる福音書十六章三節参照)」の御言葉からもそれが分かります。まさに彼らの一連の行為は悪魔と同じであり、マタイによる福音書十二章三十節のとおり、神の味方にはなれずに敵となっております。心が悪ければ行いも悪く、これぞ見極めの「標」となっております。
現代でも誤りを指摘されても聞く耳を持たず、敵対心を燃やすパウロ教徒ら(律法廃止論の偽福音、多数派)にも共通します。やはり同じ根のファリサイ派だと分かります。その悪しき根が現代に至るまでパン種の如く膨らみ続け(マタイによる福音書十三章三十三節、真の聖書福音と預言「種を蒔く人の例え」参照)、間違った教えで非常に多くの人を滅びに導き(地獄の子とした)ました。現代のファリサイ派(パウロ教徒)の人々は、信仰の要である律法を捨て、主イエスよりも偽使徒パウロの教えに固執し(過去のファリサイ派の人々と同じ:マタイによる福音書十五章一節から二十節参照)、かつては装って居た外見すら見失い(洋服を着る)、「道を逸れた異教徒」「キリストの名を語る反キリスト」となっているのは間違いありません。曲がった彼らが神の目に適うはずもなく、聖書に書かれたとおりの末路へと至ります。まさに『パウロの書簡は「神による篩(ふるい)」です。にわか信仰の偽り者をふるい落とし(引用:真の聖書福音と預言「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」)』ますが、その篩は実に強力です。決して一筋縄ではいきません。しかし、この終末において、この問題はミカエル氏が解消してくださり、偽福音を弾劾され、真の聖書福音が世に知られるようになりました。本当に耳を傾けるべき対象を間違えないようにしましょう。ここが大きな分かれ道です。
◯献げる対象を間違えてはならない
デナリオン硬貨のくだりについて、手前は教わって初めてこの真意(神意)を知りました。ここまで深い意図が込められていたかと驚くばかりです。マタイによる福音書二十二章二十一節の訳について、新共同訳の「返す」であれば、その言葉の「本来の場所や持ち主に戻す」の意味からして、確かにそれでは『ローマ皇帝の所有であると認めてしまうことになる』と理解出来ました。しかし、あくまで『神から貸し付けられた身分』『すべては、創造主である主なる神が真の所有者』であるのは間違いありません。尚、「納める」を確認すると「単に受け取り手に渡す」「相応しい場所にきちんと入れる」の意味があり、『この世の富なんていう無価値な物なんて、欲しければくれてやる』『神の民となる真のキリスト者なら、神に自分自身の命も体も献げるように』と適切に分けられてもいるのだと見受けました。如何に「納める」の訳が相応しいかが分かり感服致しました。
『この世の権力者や不信仰の悪い人間に献身しても何にもならず、後で滅びが待つだけやが、神のために献身すれば(主イエスの信仰を持ち、律法を死ぬまで守り、伝道し、慈愛ある行いをすることを指す)、神は必ずその者を救いはる。主イエスは、すべての人間に対して神に自分を献げるように求めてはる。』から、確かに世の事に必死になっても、結局は悪人の金儲けに利用され、搾取され、世の事ばかりに耽ることになり(聖書に目を向けない)、悪人を利するだけであったと痛感します。一方、世を愛さず、世俗と距離を取り、自分自身を律法に適うように清め、真の聖書福音を伝道する事、即ち、自分を正しく用いる(神に献身する)事がどれほど真っ直ぐで素晴らしいことかと思います。「自分の存在意義は此処にあったのだ」と天命を知ると、とても心が晴々とします。
神を知らず、ただただ世の繁栄、この世での安定を追い求めるだけの競技に駆り立てられるのは非常に空しいことです。それを苦痛に感じ、たとえ逃れても、聖書真理を知らなければ世の洗脳が解けないために心の何処かで「自分は社会からの落伍者なのではないか」と苦しめられることもあります。自分が何の為に生まれて、自分の使い道が分からず彷徨い続けるのもなかなかの苦痛です。我らは断じて支配層の所有ではありません。『改めて、自分の所有者は誰かと考え、神から出た者(ヨハネ一 四章六節)と思うなら、この世の権力者や会社等に自分を献げるのを早々にやめ、神に自身を献げなはれ。そうせえへん人は「神のもの」ではなく、救われへん。神のものにならへん者は皆、悪魔とこの世の権力者に従って彼らのもの(彼らの所有)になり、救われへん。』の言葉は光明です。まさに『天地の隔たり』があります。献身する対象を間違えないようにしましょう。
画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12912518819.html
二、預言者は神に献げるに足る人を用意する
今回はマラキ書の預言を見ていきます。マラキ書は、ユダ王国が滅び、ユダの民がバビロニアに捕囚となりながらも、帰還した後の時代に書かれた預言書と言われております。その内容は終末にも関わる非常に重要な箇所です。
マラキ書三章一節から十二節(参照)
(一節)「見よ、我は我が使者を遣わし、我が前に道を備える。お前たちが求める主は突然、御自身の神殿へ来られる。見よ、即ち、お前たちが喜ぶ契約の使者が来る」と軍勢の主が仰せになる。
(二節)「しかし、その来る日に誰が耐えられるだろうか。また、誰が立って居られるだろうか。彼は精錬する者の火のようであり、(衣服を)洗う灰汁のようである。
(三節)彼は銀を精錬して清める者として座し、レビの子らを浄化し、彼らを金や銀のように清める。彼らは義をもって献げものを献げるようになる。
(四節)そして、ユダとエルサレムの献げものは古の日々のように、長い間続いてきた時代のように主に喜ばれるようになる。
(五節)我は審判のためにお前たちへ近付く。魔術師、姦淫する者、偽りの誓いをする者、雇われた者の賃金を詐取する者、寡婦や孤児や外国人から奪い取る者、我を畏れない者に対して我は速やかに証人となる。」と軍勢の主が仰せになる。
(六節)「確かに、我は変わらない。ヤコブの子らは滅びない。
(七節)実にお前たちの先祖の時代から、お前たちは我が掟から離れて守らなかった。お前たちは我へ立ち返れ。我もまたお前たちへ戻ろう。軍勢の主は仰せになった。」しかし、お前たちは言う。「何において我らは立ち返るのでしょうか。」
(八節)「人は神を騙した。お前たちは確かに我を騙す者である。」お前たちは言う。「何によってあなたを騙したでしょうか。」「十分の一(献げもの)と献納物である。
(九節)お前たちは呪いによって呪われている。お前たちこの民全体が我を騙す者である。
(十節)お前たちは家の倉へ十分の一(献げもの)すべてを携えよ。我が家にある食べ物とせよ。さあ、我を吟味せよ。」と軍勢の主は仰せになった。「これによって、もし我がお前に天の窓を開くなら、お前たちに十分な祝福を無くなるまで注がないだろうか。
(十一節)我はお前たちのために食い尽くすものを叱責する。我はお前たちのために農地の実りを滅ぼさず、お前たちのためにぶどう畑では不作とならないようにする」と軍勢の主は仰せになった。
(十二節)「あらゆる諸国の民は、お前たちを祝福された人と呼ぶ。お前たちは非常に喜ばしい民となるからだ」と軍勢の主は仰せになった。
(一)預言された洗礼者ヨハネと主イエス
マラキ書三章一節をご覧いただくと既視感を覚えるのではないかと思います。それは主イエスが引用されており、福音書には当該箇所の預言が実現した様が書かれているからです。
主イエスは、「見よ、我はあんたの出現の前に我が使者を遣わし、彼はあんたの前にあんたの道を用意するだろう』と述べられてるのは、この人やからや。確かにあんた方に言うとく。女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れへんかった。しかし、各天の王国で最も小さな者は、彼よりも偉大や。」と言わはった。主イエスは、ここでマラキ書三章一節を引用しはった。「我」という一人称は神であり、「あんたの出現」とは救世主(メシア)の地上での出現を意味し、「我が使者」というのは神の使者や。ここで言われてる神の使者こそが洗礼者ヨハネであり、彼という代名詞からも男性であり、合致してる。そして、「あんたの前」とは、「救世主の前」という意味であり、即ち、主イエスの前という意味や。洗礼者ヨハネは主イエスの公生涯での宣教の前から活動し、主イエスの御前にも立った人やったさかい、これも合致してる。「あんたの道」とは、主イエスの道、キリスト道であり、洗礼者ヨハネは主イエスの前に悔い改め(律法違犯をやめる)を説いてキリスト道を用意する存在で、主イエスは明確に洗礼者ヨハネがそれやと指摘しはった。以上より、聖書にあるマラキ預言が実現し、主イエスの御説明は見事に一致してるのを確認出来る。
上記の引用のとおりです。「使者(מַלְאָךְ)」の原語には「神の代理人」の意味があります。主に天使や預言者に対して使われます。まさにマタイによる福音書二十一章三十三節から四十六節にある主イエスの「ぶどう園の例え」にある「ぶどう園の家主(所有者=神)」から遣わされた「僕(預言者)」です。
この神の使者は、神の御前に「道を備える」ために遣わされております。「道を備える」の原語には、「秩序が乱れているものを綺麗にする(取り除く)」の意味があります。同じ原語が詩編八十編十節、イザヤ書四十章三節、五十七章十四節等で使われており、各々を見ていただくと言葉の解像度がより上がると思います。更に、秩序が乱れている状態とは、神の律法が守られず、善悪の区別がつかない状態、律法違犯が横行している状態と考えられます。即ち、現代(終末)もまた同様の状況です。
続いて、「お前たちが求める主は突然、御自身の神殿へ来られる」とは、主イエスの初臨と考えられます。順序から洗礼者ヨハネ(神の使者)が先んじて道を整え、それから主イエスが福音を説いているからです。「お前たちが求める」については、ルカによる福音書三章十五節に人々がメシア(救い主)の到来を待ち望んでいたことが書かれているとおりです。終末においても救いが待ち望まれ、同様の状況があります。「来られる」ことが「突然」と言われているのはメシア(救い主)の到来がイザヤ書等で予告されていながらも、人には詳細時期が分からず、突然に思えるからだと思います。これは終末にも言えます。主イエスの来臨の時は父なる神だけがご存じであり(マタイによる福音書二十四章三十六節参照)、主の日は夜の盗人のように来る(ペトロの手紙二 三章十節参照)からです。故に、我らに出来るのは神の言葉を信頼して、いつ来ても良いように準備しておく事です。
尚、「(お前たちが求める)主」の原語も非常に興味深く、通常の「主(なる神)」とは異なり、神にも人にも使われる「主(支配する者)」であり、「人となった神=主イエス」に用いられているためと考えられます。
そして、「お前たちが喜ぶ契約の使者」について、先にあった「神から遣わされた洗礼者ヨハネ(ヨハネによる福音書一章六節参照)」を指す「我が使者(מַלְאָכִי)」と同じ原語なのですが、ここでは「主なる神から遣わされた主イエス(ヨハネによる福音書三章十七節参照)」を指すと考えます。主イエスが神との契約を更新されおり、これを出来るのは父なる神から遣わされた御子の主イエス(ヨハネによる福音書五章二十三節等参照)以外には考えられないからです。後に主イエスは新しい契約(エレミヤ書三十一章一節、ヘブライ人への手紙九章十五節等参照)を結ばれております。終末においても、主イエスが来臨される際にも、この契約(神の律法遵守)が問われるのも当然であろうと思います。
ところで、ぶどう園の例えにあるように『収穫の時期が近付くと預言者がこの世に送られて(引用:真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」)』来ます。それは終末においても、過去の預言者が送られた時代においても同様です。もし、預言者が遣わされていなかったら、一体どうなっているでしょうか。おそらくは神の律法に違犯しても(罪を犯す)、その事を「たいしたことはない」「自分は大丈夫」と勘違いしたり、そもそも神の律法を気にも留めない人が殆どのため、「誰も救われる人が居ない」という事態が起こると思います。現代においても偽福音のパウロ教が跋扈(ばっこ)していることから、ミカエル氏が真の聖書福音を説かなければ誰も主イエスが説いた福音(更新された律法の遵守、新しい契約を結ぶ等)を理解し得ず、悔い改めの意味も分からないままになっていたのではないかと思います。故に預言者の働きとは非常に尊いものです。もし、預言者が遣わされていなければ、それは準備無しに難関試験に挑むようなものだと思います。しかも、聖書真理を知らなければ、難関試験を受けることが定められていることすら知らず、知らない内に試験が始まり、知らない内に結果が出ます。
マタイによる福音書二十二章一節十一節には以下のように書いてあります。
「しかし、王が食卓で横たわる人たちを見るために来て、そこに婚礼の衣服を着てへんかった者を見付けた。」とあるとおり、神は婚宴に来た人が相応しいかどうか直々に確認しはる。勿論、人間がこの世で普通に生活してる間にや。この世できちんと神を畏れ敬い、神が制定しはった律法を守ってるか、平素の行いが善いか、すべて選考対象にされてると思わなあかん。
主イエスは例え話を通して、確かに我らに伝えております。また、以下の審判に関わる時期の認識も非常に重要です。
キリスト再臨までずっと主イエス・キリストが罪を赦す働きをすると思わないでください。いつ救いの機会が終わるか分かりません。過去記事にも書きましたが、キリスト再臨時は世の終わりです。大艱難が起こる前、即ち、現在から大艱難の始まる前までの人々の様子を見て、事前に審判を下し終え、大艱難を迎えます。大艱難末期に、救うと神がお決めになった極めて少数の真のクリスチャンを携挙し、残りの人間をすべて滅ぼされるのです。天から降って来られて、その時に判断して、火と硫黄を降らせることをなさるのはではありません。携挙対象者を決めるには事前に審判をしていなくてはなりません。裁判もせずに判決文を書くことができないのと同じことです。今も、私たちに公に知らされることなく、天において審判されているのです。
審判は、今まさに行われております。大艱難期に入る前に決まるため、尚更に今を世俗の事で忙しくしている場合ではありません。本当に時間がありません。受験に例えるなら、期日が迫っているものとして大急ぎで準備するべきです。準備とは聖書を読んで理解し、悔い改めを完成させることです。いつ試験を迎えても大丈夫と確信を持っていられるようにすることです(ヨハネの手紙一 二章二十八節、三章二十一節参照)。
(二)預言者の働き
マラキ書三章二節の「しかし、その来る日に誰が耐えられるだろうか。また、誰が立って居られるだろうか。」について、終末(現代)においては主イエスが来る日(主の日)と考えられます。現代のファリサイ派であるパウロ教徒を含めたすべての不信仰者が世の多数(九割九分九厘以上)を占めている状態ですが、どんな抵抗をしようとも間も無く神の正しい裁きが下り、主イエスによってこの天地が滅ぼされれます。言葉どおりに誰も耐えることも立って居ることも出来ません。
続いて「彼は精錬する者の火のようであり、(衣服を)洗う灰汁のようである」の「彼」とは「主イエス」を指すと考えます。「精錬する者の火のよう」とは、浄化の働きの比喩です。ゼカリヤ書十三章九節にも同様の記述があり、また、エレミヤ書二十三章二十九節にて、神の言葉は「火」に例えられております。故に神の言葉に試され、神の言葉に適うことが問われると考えます。そして、まさに主イエスは「言葉」です(ヨハネによる福音書一章一節参照)。
更に、「(衣服を)洗う」とは、同じ原語が詩編五十一編四節やエレミヤ書二章二十二節で使われており、「清め」を表しております。「彼らは大艱難から来る者たちで小羊の血で彼らの衣を白くした(ヨハネの黙示録七章十四節参照)」とも言われており、激しい試しに屈せずに最期まで主イエスの御言葉に忠実であったことから、主イエスによって清くされた(聖別された)と考えられます。
(三)神に自らを初物として献げる
マラキ書三章三節の「彼は銀を精錬して清める者として座し」について、ここでは王や裁き主として「座す」の意味があるようであり、やはり「彼」とは主イエスを指すと考えます。
そして、前節に続いて「精錬」の言葉が繰り返されております。精錬は金属から不純物を取り除くことであり(鍛える)、「清める」にも同様の意味があります。それによって罪による死から人々を救うことになりますが、鍛えられる以上、当然、苦しさは伴うと思います。手前の真のキリスト者としての歩みを思えば、基本的には苦しさは当然のようにあります。自分を捨て、肉に打ち勝つのは容易ではなく、霊的戦いは日常茶飯事です。皮肉な言い方ですが、もしそれから逃れたければ、世俗の事に没頭する(屈する)と良いでしょう。見事に世俗に心を奪われて、信仰に割くべき時間や労力を失うのは必至だと思います。その位に危険なのだという趣旨で受け止めてくだされば幸いです。たとえ本当の問題から目を背けても、現実は何も変わりません。まっとうな良心があれば、逃避するほどに心が疼くでしょう。負荷の無い鍛錬は有り得ません。少しずつでも成長を実感出来ると、不可能では無いと分かります。「成らぬは人の為さぬ(不作為)なり」です。
次に「レビの子らを浄化し、彼らを金や銀のように清める」について、順に見ていきます。まず、レビ人は民数記三章にあるように祭司職を主なる神から仰せつかりました。そして、幕屋で主に近付き従事する彼らは自身を清め、自らを奉納物とすること(出エジプト十九章二十二節、民数記八章六節、十五節等参照)を命じられております。その後、主イエスの御功績により律法が更新されて祭司制度等は無くなりました(参照:真の聖書福音と預言「日本は多民族国家、日本人の一部は古代イスラエル人」)。そして、その上で使徒ペトロは「お前たちも生ける石として霊の家、聖なる祭司職に築き上げられ、イエス・キリストによって神に受け入れられる霊的な献げものを献げる。(ペトロの手紙一 二章五節参照)」と、真のキリスト者が祭司となると言われております。同様の内容はペトロの手紙一 二章九節、ヨハネの黙示録二十章六節でも言われております。これらから、「レビの子らを浄化し、彼らを金や銀のように清める」とは、主イエスが真のキリスト者を完全となる(マタイによる福音書五章四十八節参照)ように精錬する事を指すと考えます。
続いて、「彼らは義をもって献げものを献げるようになる」とは、真に悔い改めた者が「真のキリスト者」となる、即ち、「献げもの=初物(レビ記二十三章十五節、エレミヤ書二章三節、ヤコブの手紙一章十八節、ヨハネの黙示録十四章四節等参照)」となり、自身を神に献げることを指していると考えます。これ自体が律法の型に沿っております。それ故、マラキ書三章四節にあるように「古の日々のように、長い間続いてきた時代のように主に喜ばれるようになる」のだと思います。そして、その事は、『主イエスが「神のものは神に納めなはれ。」と言わはった趣旨は、神の民となる真のキリスト者なら、神に自分自身の命も体も献げるようにという意味や。(引用:真の聖書福音と預言「天地の隔たり」)』とも合致すると考えます。
(四)神は人々をご覧になり、証人となる
マラキ書三章五節の「我は審判のためにお前たちへ近付く」について、先に述べたとおり、人々がこの世で普通に生活している間に神は直々に確認されます。神はすべてをご存じであり、隠す事はできません(ヘブライ人への手紙四章十三節参照)。その上で、神が「証人(事実を証明する人)」となると言われております。尚、サムエル記上十二章五節やエレミヤ書二十九章二十三節等で主なる神が証人となると言われており、当該聖句とも一致します。
① 魔術師
いわゆる魔法使いの類は、悪魔に繋がることになる故、出エジプト記二十二章十七節、申命記十八章十節、歴代史下三十三章六節、ヨハネの黙示録二十一章八節・二十二章十五節にて明確に禁止されております。真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」でも言及されている事柄が参考になるでしょう。また、「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」で説明されている「薬」についての内容も参考になりますので是非ご覧ください。
② 姦淫する者(偶像崇拝者)
言葉どおりの姦淫も律法違犯(レビ記二十章十節、マタイによる福音書五章二十八節、三十二節等参照)ですが、姦淫の比喩である偶像崇拝(仏教、イスラム教、パウロ教等、それ以外にも神以上に自分や世俗を一番にする事も含まれる)も罪(レビ記十九章四節、ヨハネの黙示録九章二十節、二十一章八節・二十二章十五節参照)です。聖書真理を知らなければ避け得ず、必ずと言って良い程にそれに陥っていることでしょう。
③ 偽りの誓いをする者
「偽りの誓い」の大きな問題は嘘をつくことです。律法でも欺きや嘘は法度であり(レビ記十九章十一節から十二節参照)、嘘つきは地獄行き(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)と言われているとおりです。悪意のある嘘、欺き、偽りが論外なのは当然の事として、浅はかにも出来もしない事を言い、実行出来ずに嘘になってしまう事にも要注意です。故に愚かさを戒め、賢くならねばなりません(自戒を込めて)。
尚、「誓い」自体については民数記三十章三節にて、誓った事は必ず実行するようにと規定されておりましたが、主イエスはそれらを引用して「誓ってはならない」と言われ(マタイによる福音書五章三十三節から三十七節、ヤコブの手紙五章十二節参照)、律法を更新されました。
④ 雇われた人の賃金を詐取する者
賃金は日払い(日没前に支払う)とする規定があります(申命記二十四章十五節参照)。また、詐取された賃金が叫び声を上げている(ヤコブの手紙五章四節参照)との聖句もあります。何故、賃金の詐取が起きているかについては、暦が関係しております。
何故太陽暦が詐欺なのかは、太陰太陽暦から見たら約三年に一回必ず一か月分の差分を生じるからです。約三年に一回は一年十三か月になるんやから、その分給与も上乗せになるはずがならへんのやから太陽暦の下での月給制や年俸制は毎年十二回しか給与支払がないさかい、三年に一回は一か月分を搾取されとるっちゅうことです。官公庁、企業、経営者、株主にとっては人件費の支出を減らせるという長所があるが、被雇用者の労働者にとっては損でしかないし搾取されとるんです。このことに気付いた人っておるでしょうか。誰も居てへんのちゃいますか。
手前は教わるまで、上記にまったく気が付きませんでした。明治政府が従来の太陰太陽暦(聖書歴)から太陽暦に変えたことが如何に悪いかが分かります。気付かれ難い事であるが故、如何に悪質かが分かるというものです。また、賃金未払い、不当に低賃金で働かせる悪徳企業、残業未払い等も該当すると考えます。
⑤ 寡婦や孤児や外国人から奪い取る者
寡婦や孤児は社会的、経済的にも立場が弱く、律法でも彼らを苦しめてはならない等、規定があります(出エジプト記二十二章二十一節、申命記二十四章十七節等参照)。また、外国人は一時的な滞在者であり、同胞と同じように虐待、搾取してはならないと律法に規定しております(出エジプト記二十二章二十節、申命記二十四章十四節等参照)。これらは隣人愛とその実践であると思います。
尚、昨今は移民政策により急増した外国人の犯罪やその他の日本の秩序を乱す行為が横行しております。ここで重要なのは彼らのすべてを受け入れて、為すがままにさせることではありません。順序(秩序)が大事であり、日本の文化等を尊重し、日本の秩序に従うのであれば問題はありません。しかし、明らかにそうではない乗っ取り、不法、不当な行為は許容してはならず、然るべき処罰を下し、本国へ送還するのは正当な主権の行使です。こちら(アメブロ)で言われているように、不寛容な人々に寛容であると、その当事国は破壊されるだけです。
⑥ 神を畏れない者
出エジプト記二十章三節、申命記四章三十五節等に他に神は居ないと主なる神が言われております。そして、神を知ることで神を畏れることが可能となります。『主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節:引用:引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)』『主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節:同引用』のとおり、神を畏れることで神の創造の秩序を守るようになり、自ずと神の律法を守るようになり、分別が可能となるでしょう。そこには慈愛と正義、良き品性が伴います。故に不信仰はあらゆる問題の根本です。神を知らず、神を畏れなければ、罪深い肉の性質に抗えず、自制出来ず、罪を犯し続けるだけで、その行く末は第二の死です(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)。また、古代イスラエルの民は不信仰のために(安息に)入ることができなかった(ヘブライ人への手紙三章十九節参照)のですから、単に神を知っているとか、敬虔な振りをしていたのでは不十分であり、神の律法を守ることが不可欠です。
我らは神に問われており、「ありのまま」でいたら有罪判決が下るのは必至です。主イエスが仰ったように悔い改めなければ滅びます。これらから、『罪の記録は、行いのみならず、心の中の様子まで書かれています。それで永遠の安息の地に入るのに相応しい品性を持つ者かどうか神によって裁きの座で吟味されるのです。ですから、なるべく毎日が贖罪日であるかのように考えて慎ましく生活するべき(引用:真の聖書福音と預言「罪への正しい認識と愛の重要性」)』だと、手前も思います。
(五)神は契約を必ず履行される
マラキ書三章六節について、主なる神は変わらず、そして、ヤコブの子らは滅びないと言われおります。これは創世記十七章にあるアブラハムとの契約(アブラハムとその子孫の神となり、彼らの数を増やす)が前提にあると思われます。それ故にヤコブの子らが神に逆らい、罰を受けても尚、神は滅ぼし尽くす事はしない(エレミヤ書三十章十一節、四十六章二十八節等参照)と言われ、そのとおりになりました。また、主イエスは「彼(主イエス)は永遠にヤコブの家を治めるであろう。そして彼の王国には終わりがないであろう。(ルカによる福音書一章三十三節参照)」と言われており、ヨハネの黙示録二十一章にある新しい天と地へと至ると考えられます。同二十一章三節には「彼ら(真のキリスト者)の神となる」との言葉があり、神は一貫して契約を履行されております。故に後は我らが神に応えることに懸かっております。
(六)ヤコブの子らへの戒め
マラキ書三章七節は、当初から神の掟を守らず離反してきたヤコブの子らへの戒めです。神は「お前たちは我へ立ち返れ。我もまたお前たちへ戻ろう。」とまで仰っているにも拘らず、民の返答は「何において我らは立ち返るのでしょうか」という的外れな返答でした。何故そう言われるのかが分かっていない致命的な状態は、まさに主イエスが盲人と言われた状態となっている事(マタイによる福音書十五章十四節参照)と考えられます。
言うておくが、これも過去の話と片付けるべき事やない。現代にも適用される。偽使徒パウロはファリサイ派なんやから、キリストを悪用したパウロを教祖として信奉してるパウロ教信者どももファリサイ派であるのは論理的帰結であり、即ち、世の諸教会(カトリック、プロテスタント、正教会等)や諸教派は皆、ファリサイ派であるということであり、上記聖句の戒めどおり、世の諸教会の関係者は盲人であり、それらに通ったり属してる信者どもも盲人であり、その双方が滅びるということを主イエスは言うてはるんや。せやから、拙者が宣べ伝えてる真の聖書福音と預言は、反キリストであるファリサイ派どもにとっては耳触りが悪く、一世紀当時主イエスに怒って反抗したのと同じように、拙者に対して怒って反抗してる。なぜなら、世の多数派は、何も重要な事を理解してへん盲人であるからや。
真の聖書福音を知る前の自分(地上の教会に通っていた時)が、もし「お前たちは我へ立ち返れ」と言われたら、恥ずかしいことに「何において我らは立ち返るのでしょうか」と真顔で言っただろうと思います。無知とは実に恐ろしい事です。まずはそれを認めて地道に改めていきましょう。
マラキ書三章八節について、「騙した」「騙す」の原語の主たる意味は「隠す」であり、加えて「欺く」「盗む(騙し取る)」といった意味があります。言葉だけから考えれば、神に何かを隠して欺き、騙し取っていることになりますが、それにはどんな事実が当てはまるでしょうか。
続きを見ていくと、「十分の一(献げもの)と献納物」について騙したと神は言われております。先にも述べたように主イエスの御功績により律法が更新されて祭司制度等は不要となりましたが、奉納物は先に述べたように「献げもの=初物(レビ記二十三章十五節、エレミヤ書二章三節、ヤコブの手紙一章十八節、ヨハネの黙示録十四章四節参照)」として存続していると考えられます。尚、「十分の一(献げもの)」については、主イエスがマタイによる福音書二十三章二十三節にて守るようにと言われており、これを現実的にどうするかについては、以下が参考になります。
十分の一の献げ物は当然するべきでしょう。私はそれを否定しておらず、当記事では「(地上の教会に)十分の一献金をすれば良い」と思い込んでいる人について非難しています。つまり、私の意図は、地上の教会のためにお金を払って満足するなということです。教会に貢いでも無意味だからです。そもそも、聖書に献金という指示はなく、「お金」じゃなくても良いのです。どんな形であれ、無償で奉仕活動をしたり、生活に困っている人に必要な物を買ってあげる、福音伝道をする、他に何か有益なことをしてあげる等することで神のために仕事をしてその労力を献げることであっても良いと思います。これは一例なので限定列挙ではなく、色々な神への献げ方があります。
先のマラキ書三章三節のとおり、献げる者は自身を清くします。自身を献げることから、汚れていてはいけません。そして、「罪を隠すものは成功しないが、罪を懺悔して捨てる人は憐れみを受ける(箴言二十八章十三節参照)」と言われている箇所があり、これが手がかりになると思います。これを踏まえてパウロ教徒らを見ると、口先だけで悔い改めたと言うが実際には懺悔せず、律法違犯は改っておりません。それにも拘らず、「自分たちは主イエスを信じて救われた」と勘違いし、神の救いを得ようとしております。その様は、救いを「騙し取る」と言えるのではないかと考えます。主イエスがファリサイ派の人々や律法学者らに『この民は、我に口先で近付き、口先で我を敬うが、彼らの心は我から遠くにある。 それで、人間の戒めや教えを教えながら、無駄に我を礼拝する。(マタイによる福音書十五章八節から九節:引用 真の聖書福音と預言「人間の言い伝えよりも神の掟を守れ」)』と言われている事が的確に表していると考えます。
マラキ書三章九節の「お前たちは呪いによって呪われている」について、マラキ書三章五節にある律法違犯からして、申命記二十八章で言われている「呪い」が臨むのが不可避です。それにも拘らず、「主イエスを信じて救われた〜」「聖霊を賜り〜」と言うようでは「お前たちこの民全体が我を騙す者である」と言われても仕方ないと思います。
(七)神が喜ばれる献げもの
マラキ書三章十節の「お前たちは家の倉へ十分の一(献げもの)すべてを携えよ。我が家にある食べ物とせよ。」について、これまでの流れを踏まえて、神の喜ばれる善行を神の倉に携えるように(天に富を蓄えるように)言われていると考えられます。尚、「食べ物」については、主イエスが「我が食べ物とは、我を遣わした方の御意志を行い、その御業を成し遂げることである。(ヨハネによる福音書四章三十四節参照)」と言われていることから、神の御意志に適う行いが該当すると分かります。
次に「さあ、我を吟味せよ」についてですが、新共同訳では「試してみよ」と書かれております。本来は神を試してはならない(マタイによる福音書四章七節、申命記六章十六節参照)はずです。ただ、ここでは敢えて「命令形」で書かれております(「例外」と窺える)。更に、今節をよく見ると、「正しい事をすれば、正しい報いがあるのは当然である」という趣旨で書かれていると手前は読み取りました。故に「疑いの気持ちを持って試す」のではなく、「神との契約に基づく祝福があるのだから、その結果を確かに見届けよ」という趣旨と考えます。そのため誤解を生まない意図も込めて、「吟味せよ」の言葉が妥当ではないかと考えました。尚、「これによって、もし我がお前に天の窓を開くなら、お前たちに十分な祝福を無くなるまで注がないだろうか。」とは、正しく応答した真のキリスト者に神が祝福を注ぎ続けること(祝福が尽きることは決して有り得ず、それが永遠に続く)を意味するようです。
マラキ書三章十一節にて、「我はお前たちのために食い尽くすものを叱責する」と言われております。「食い尽くすもの」は新共同訳で「いなご」と書かれておりますが、原語にはそこまでの意味はありませんでした。ただ、比喩としては「いなご」に相応すると見受けます。ちなみに、マラキ書三章十二節にある「あらゆる諸国の民」には「異邦人」「異教徒」の意味だけでなく、比喩的に「いなごの大群」の意味があります。そして、神が叱責すると、すべての事が抑制されます。主イエスが風と湖を叱り、凪とされたとおりです(マタイによる福音書八章二十六節参照)。
次いで、「我はお前たちのために農地の実りを滅ぼさず、お前たちのためにぶどう畑では不作とならないようにする」から、ぶどう(イスラエルの民)が完全に実を結ばないようにはしないこと(救われる者が無くならないようにする)を意味していると考えます。そのために「食い尽くすもの(いなご=異邦人ら)」を抑制することから、イスラエルの民が現代に至るまで外敵から守られ存続することを意味しているのではないかと考えます。それは古代イスラエルの末裔がいる現代日本(真正イスラエル)に向けた言葉でもあると思いました。実に長い時を経て(しかし、神の目には短い)、予告されたとおりに実現しております。但し、「豊作」とは決して言っておらず、あくまで「滅ぼさない(全滅ではない)」「不毛とはしない」であることから、やはり実を結ぶ(真のキリスト者)のは少数と窺えます。
マラキ書三章十二節について、「祝福された人」の原語には「真っ直ぐ」「正しい」「誠実」等の意味があり、内容から明らかに「神の民=救われた真のキリスト者」を指しております。ここでは不信仰な異邦人(異教徒)が真のキリスト者を非常に喜ばしい民となる故に「祝福された人」と言っております。大団円を比喩的に表現されているのだと思われますが、現実には神の民とならない殆どが地獄行きになります。
総じて、神に献げるに足るようになるためには、回心が不可欠です。その始まりには、現代においても預言者による「道を備える」働きがあります。これによってようやく人は目覚め得るのだろうと思います。
三、結び
ミカエル氏は、聖書を基に地上の生涯は試用期間のようであると分かり易く教えてくださいました。まさに神によって試されており、「人生を通じた試験」と言えます。
これを踏まえて、最後に手前の失敗談と信仰にも通じる教訓を述べます。
<失敗談>
過去にある試験を受けました。試験は年に一回、その資格がなければその業務に従事出来ません。合格率は高くはありませんが司法試験のような難関さがある訳でもありません。それ故、手前は舐めておりました。「普通に勉強すれば受かるはずだ」と。試験はその分野の教則本から出題されます。しかし、非常に分厚く、口にするのも憚られますが「こんなのいちいち覚えていられない、要点だけ掴みたい」との傲慢な思いから、解説本と過去問を購入して、それを基に勉強しました。
しかし、迎えた試験当日、そこでとんでもない間違いを犯した事に気付きました。制度の大改訂があり、手前が購入した解説本にはその改訂内容が碌に載っておりませんでした。書籍の選定からして誤りました。また、改訂された制度からの出題が多く(改訂があれば当然)、過去問では太刀打ち出来ませんでした。もし教則本から学んでいれば少しは何とかなったかもしれません。愕然として試験を終え、後に各社から出る回答速報を見て更に血の気が引きました。正式な正答が出て確認した所、ほんの僅か足りず手前は不合格でした。泣き叫びたい位の気持ちでした。しかし、どう考えても、自分は合格を手にするに値しなかったということだけははっきりと自覚出来ました。自分で自分を殴りたい気持ちでした。先に述べたように、根本的に試験を舐めて、自分を過信しておりました。そんな姿勢で詰んだ努力など質も量も不十分で、粗悪な積み上げが通じるほど本番試験は甘くありません。僅かという小さな未達に見えて、その実、もっと大きな未達があったのは間違いありません。
それから着手したのは徹底的な課題分析、今後一年間の計画の立案でした。何より「この後悔を忘れるな」と何度も言い聞かせました。何が物事の成否を分けるのかを痛感したので、手間を惜しまず、しかし、的外れな努力はしないように、きちんと教わるべき相手から学び、大前提たる教則本を基礎から学び直し、過去問や予想問題を繰り返しました。そして、二度目の試験日終了後、確信がありました。決して傲慢になって言う訳ではなく、正しく答えられたという手応えがありました。
手前の人生における大事な宝とも言える教訓です。この失敗を味わわないくらいなら、味わっておいた方が断然良かったとさえ思えるからです。「またあの失敗を繰り返してはいないか」「本番で自分の間違いに気付いて、取り返しがつかないと愕然とする思いをまたしたいのか」「合格に値する努力を積んでいるか」等の思いに今も支えられております。そして、驚くほどに、この教訓が信仰に活きております。
<教訓>
◯「これくらい大丈夫」という根拠のない自信が大敵
⇨偽福音を信じて安易に「救われる」と思ってはいけない。真のキリスト者を目指しているだけで満足していたら意味が無い。そもそも合格に値するほどの努力をしているか(悔い改めてるか、伝道が出来ているか)。下手に大丈夫と思うが故に自分を疑わず、検証もしないために根本的間違いに気付けない。故に最大限に警戒するべき。
◯大前提たる教則本から学ぶのを怠るな
⇨すべての基本である聖書を通読しなければ、聖書真理の根本が分かるはずがない。神の律法を理解出来ていなければ、行動に反映出来るはずがない。
◯解説本で楽して学ぼうとするな
⇨世の諸教会の牧師ら(パウロ教徒)の話を聞き、聖書解説の書籍や動画を見て、福音を分かった気になるな(それらはすべて間違い)。学ぶ相手を間違ったら、受かるものも受からない。無知、怠惰、愚かという悪い条件を満たしてしまっていることに気付け。聖書を自分で読んで理解し、研究し、体現しなければ意味が無い。
◯「独学で何とかなる」という見込み違い
⇨分からないのであれば、分かる人に学ぶより他はない。自分より優れた人に学んだり、共に励む仲間がいれば心強い。自分の間違いや不足にも気付け、継続して頑張れる。また、世の試験では確かに独学は通じるかもしれない。しかし、真の聖書福音においては聖霊に導かれた預言者を通してでなければ、ほぼ分からないだろう。独学で何となる人は神に導かれた極めて稀な人であり、普通はそうではないと考える。
◯不合格ではすべてが台無し
⇨神が求めているのは完全であり、一つの落ち度ですべては台無しとなる。自分は大丈夫と勘違いして絶望を味わうのは、この落差には、泣き喚きたくなるほどの苦痛があり、マタイによる福音書十三章四十七節から五十節、二十二章十二節から十三節等を見る度にその事を思い出す。世俗の試験は「また来年」が通じるが、神の審判は一度きり。そのため、この世のあらゆる試験よりも、死後の永遠を決める最難関で超重要なものにつき、人生で他には無いという位に、慎重に思慮深く対処しなければならない。励む機会がある内に神の問いに正しく応えられているかを確認し、必死に改善に努める機会があるありがたさをも噛み締めて、最大限に努力をするべき。
あの時の事を思い出す度、「機会がある幸いを思わない日は無い」と言っても過言ではありません。それ程に時間は貴重です。
そして、繰り返しになりますが、この終末において、もし預言者が遣わされていなかったら、一体どうなっているでしょうか。おそらくは誰も正しい服装(房付き和服)が分からず、西洋かぶれ(異邦人の道)や太陽暦の悪さ、偽使徒パウロが反キリストであると気付けなかっただろうと思います。誰も律法を守れず、誰も本気で励もうとはせず、救われる人が居なくなるのではないかと思います。
マラキ書二章十七節(参照)
お前たちは、お前たちの言葉によって主を疲れさせている。しかし、お前たちは言う。「我は何によって疲れさせているでしょうか。」「悪を行う者すべて、主の目に良い事であり、主は彼らを喜ばれる、または裁きの神は何処におられるのか」とお前たちが言う時である。
上記は、終末の我らにこそ向けられた言葉ではないかと思いました。悔い改めず「主イエスを信じて受け入れれば救われる(有罪判決を受けない)」という誤りは、「悪を行う者すべて、主の目に良い事であり、主は彼らを喜ばれる、または裁きの神は何処におられるのか」と言っているに等しいからです。神はすべてをご存じであり、マラキ書が書かれた時代から約二千四百年以上も先の事(現代=終末)を実によく言い当てていると思います。「我は何によって疲れさせているでしょうか」の言葉から、明らかに自分の状況を理解出来ておりません。こういった人がマタイによる福音書七章二十一節から二十三節にあるように不法(律法違犯)に無頓着で悔い改めないために主イエスから「知らない」と言われるのでしょう。しかし、他人事に思う訳にはいきません。誰しもが最初は不信仰で罪深く、盲人だったからです。「見えていない」という自覚すら持てなかったのです。故に、この終末に真の聖書福音を教える預言者の言う事に、聞く耳のある方は耳を傾けてください。
尚、ミカエル氏のブログは、アメブロからサブスタックへ移行します。そのため教会への入会について、当面受付を停止しております。『移行が落ち着いたら募集をサブスタック上でかけます』とあるため、時期を待ち、兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる入会希望者はその間に準備に努めましょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。




































































