こんにちは。
今回は「神を畏れる弱き人への希望と高慢な人の滅び」と題してお伝えしていきます。
一、すべては後の世で逆転する
真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」の記事はご覧になったでしょうか。この度も主イエスの御言葉から、万物の真理を分かり易く解き明かされており、(聖書にまだ馴染みがなくても)世に躓いて悩んでいる人にも是非お読みいただきたいと思いました。主イエスの具体的なやり取り(言葉)から読み解ける原理があり、それは他の聖書の箇所とも矛盾が無く、それを今の世の現実にも当てはめて応用しており、非常に稀有で濃密な内容です。
ここからは記事の感想に触れていきます。
(以下、この項での二重括弧は真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」からの引用)
◯ぶどう園を貸す側と貸し付けられた側の関係
マタイによる福音書二十一章三十三節から、ぶどう園(『アジア系の血統イスラエル人』)の所有者(主なる神)は、あくまで農夫たち(『この世の指導者たち』)に『良い収穫をすることを期待』して貸し付けたと分かり易く解説されております。「貸す」の原語を調べると「仕事を委託する、外注する」の意味もあり、個人的には世俗の仕事を重ね合わせることで、より状況が理解出来ました。世俗の仕事においても委託を受ける時はその業務の趣旨に適うように業務を遂行するのが当然です。雑な仕事をすれば依頼主に対して大変失礼であり、ひいては対外的に依頼主の社会的信用を貶めかねません。個人の経験ですが、仕事をしていれば上手くいかず投げ出したくなることも、任された側がやり易いように(実際には楽をしたいために)規定の仕様を勝手に変えたくなることもありました。しかし、それでは依頼主の信頼を失います。
思えば信仰や福音伝道も同様です。それを踏まえて世の現実を見れば『この世の指導者どもは、その分際を弁えず、使命を忘れ、あたかも自分たちが所有者であるかのように傲岸不遜に振る舞い、権威と支配権を持ってるかのように装い、この天地と世にある人や物等すべてが自分らの支配下にあると酷い勘違いをしてる』現状があります。これでは(農夫は)見限られて契約が打ち切られるばかりか、契約違反の罰を免れないでしょう。『主なる神は、良いぶどうが出来ることを願いはったのに、実際はそうはいかへんかった』のですから、神の失望はどれほど大きいだろうかと思います。それどころか膨れ上がる神の怒りを思うと、恐ろしいばかりです。箴言等にも怠惰や手抜きを戒める言葉があり、仕事をやる以上は誠実に丁寧である必要があります。手前も他者に仕事を任せた時の事を思えば、誠実に最後まで丁寧に仕事をしてくれる人は大変ありがたく、とても信頼出来ました。それと同じ事であろうと思います。
◯主イエスの御言葉は真実
マタイによる福音書二十一章三十四節から三十六節について、『収穫の時期が近付くと預言者がこの世に送られてくる』と非常に重要な解説をされております。『エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鳥がその雛たちを羽の下に集めるように、どれ程我はあんたの子らを集めようとしたことか。しかし、あんた方は望まへんかった。見よ、あんた方の家は荒れ果てたまま見捨てられる。(マタイによる二十三章三十七節から三十八節:引用 真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)』と主イエスが語られたこととも符合します。そして、マタイによる福音書二十一章三十七節のとおり、三位一体(父、子、聖霊)の神、御子(息子)である主イエスは、農夫たち(『この世の指導者たち』)を弾劾し、恥じ入らせました。彼らには弁解の余地がありません。指導者として神の律法を守るようにと言いながら、自身は守らず、むしろ余計な教えを広め、大勢の地獄の子を作り、その地位に安穏とする様は真の所有者に対する不誠実、不履行に他なりません。現代もまた『何一つ聖書(パウロ書簡を除く)を基に論理的に言い返すことも出来ずに汚い野次を飛ばしたり陰口を叩いてるパウロ教信者や不信仰者と同じ構図』があります。それ故、真のキリスト者は終末の大艱難期においても主イエスの名のために人々から憎まれるようになるでしょう(マタイによる福音書二十四章九節参照)。主イエスの御言葉はすべて現実と一致しており(これからのことも実現する)、驚くべきことです。これらからも主イエスの言葉は真実であり、信じるに値すると確信を持てます。
◯過去でも現在でも、この世の指導者たちは主イエスをぶどう園の外に追い出している
マタイによる福音書二十一章三十九節にて、ぶどう園の管理を任せられたに過ぎない農夫たち(『この世の指導者たち』)がぶどう園を乗っ取る(『主イエスをこの世から排除して自分らの権威を確立』する)ために、ぶどう園の相続人(所有者)を死に追いやると言われていることは後に現実のものとなりました。これは立場を弁えない、信じ難いほどの不義理で、極刑に値する悪行です。そして、マタイによる福音書二十一章四十一節のとおり、『自分が悪人と認めた上で、受ける裁きが酷いと自分で言う』のは何ともおかしいことです。この事から如何に高慢が人の目を曇らせ、人を狂わせるかを表していると思いました。そして、『世の指導者が悪人なんは、一世紀当時のみならず、この世が終わるまでずっと延々と続き、現代も同じや』ということもつくづくそうだと思います。悪人が世を牛耳り、一番大切な聖書真理を碌に教えず、反聖書的な大地球体説、進化論、太陽暦、その他の世の権威信仰などを植え付けている点にも表れております。福音においても、パウロ教は律法を軽視し、「主イエスの恵み、救い」だけを強調し、主イエスの肝心な教えを外へ押しやっており、福音を乗っ取っております。
◯後の世では逆転する
個人的には、以下の事柄に非常に大きな希望と慰めを感じます。聖書を知らない方、パウロ教徒には決して理解出来ない大きな希望です。
この世で超少数派で苦しい思いをしてる神の律法を守る真のキリスト者のみが後で逆転する。ペトロも主イエスから教えを受け、この世と後の世での有様は逆転すると知ってた。せやから、この世で贅沢でけへんとか、金が無いとか、社会的地位が無いとか、外見が理想どおりではないとか、かような事で思い煩う必要は無いし、卑下する必要も無い。キリスト信仰を持って、神の律法を守り、罪を犯すのを避け、慈愛を持ってええ行いをし、信仰の兄弟たちと交流し、正しく生きることに努めなはれ。そうすれば、希望はあるさかい。
真の聖書福音を知らなかった時、手前も『この世で贅沢でけへんとか、金が無いとか、社会的地位が無いとか、外見が理想どおりではない』等で無駄に悩んでいた人間です。それを挽回するため、世俗の仕事に人生の多くの時間を費やしておりました。パウロ教(地上の教会)信者となっても、主イエスの教えを理解出来ていないために、どうしてもこの世で報われたいという願望を捨てることが出来ませんでした。しかし、自分を捨て、主イエスに従うこと(新しい契約を結び、更新された神の律法を守る等)が出来ない以上、そこには決して平安はありません。余計な願望を持ち続ければ、それに振り回されて苦しみ、そればかりか更なる罪を犯しかねません。これではこの世への未練を断ち切れず(世を愛し)、『いずれ主イエスの許を離れた後に経済的に困らへんために、自分だけでも貯金しておこうと密かに思てた(引用:真の聖書福音と預言「救いに値する完全な者」)』イスカリオテのユダのようになりかねません。この世で生き延びたい、あるいはこの世で報われたいと思うのが「肉なる欲に打ち負かされた人間」なのだと思います。自分を捨て、主イエスに従えるかでやがて逆転する後の世での明暗を分けます。
『主イエスは、隅の頭であることから、世の真ん中に居る主流派や権力者とは無関係であり、誰も注目せえへんような隅っこに居る人間の味方であり、隅という目立たへん所で真のキリスト者を集めて統率しはる』ことに真の希望があります。世に躓いた弱い立場の人にこそ聖書(真の聖書福音)が真の解決と救いをもたらしてくれます。
本番は、先に述べたとおり、主イエスが再臨しはってこの世を滅ぼした後や。ダニエル書二章にもそう書かれ、主イエスが、鉄と粘土というローマ(現代もバチカン中心で他が隷属するというかつてのローマ帝国的な世界の在り方)が牛耳ってる世界を滅ぼした後、永遠に続く神の王国を築く。「我等の目には驚くべきこと」とあるのは、普通の人間には中々信じられへんとか、受け入れにくいという意味でそう書かれる。なぜなら、この世の多くの人間はこの世の権威、権力者、指導者を敬い、信じて従うからや。せやから、神は聖書を通じて、世俗の常識の逆を教えてるのであり、受け入れた上で行いで死ぬまでそれを示し続ける人だけが救われる。
これこそ真の聖書福音です。これを知らなければ、この世を支配する悪人が作り上げた嘘(世の権威や多数派の考え等)をどこまでも信じて従ってしまいます。しかし、何を一番にして生きているか(神を畏れているか)を神は見ておられることを忘れないでください。明らかに世の中がおかしくなっており、新世界秩序(『バチカン中心で他が隷属するというかつてのローマ帝国的な世界の在り方』)の構築に向けて事が動いているのは紛れもなく事実です。ミカエル氏の記事を見れば、根拠を示して世の真実を語っており、そのことが分かるはずです。聖書解釈にしても矛盾が無く、聖書の終末預言然り、聖書のとおりに事が動いていると分かるはずです。今や言論の自由が失われつつあり、いつまでも記事を見れる保証はありません。ゆっくり、じっくり学べれば幸いですが、主イエスが罪の赦しを終えているであろう大艱難期が近付いております。故に、時がある内に生き方を改めましょう。そうでなければ獣の刻印を押され、地獄行きとなります。これこそが避けるべき「人生の失敗」です。
◯主に打ち砕かれる幸いがある
「そして、この石の上に落ちる者は打ち砕かれるだろう。しかし、(その石が)落ちる者を、その者を粉砕するだろう。」と主イエスは言わはった。ここの石というのは、上述のとおり、主イエスを指す。主イエスの上に落ちる者は打ち砕かれるというのは、主イエスを知って人の心(霊)を打ち砕かれるという意味や。詩編三十四編十九節や五十一編十九節からもそれは明らかや。もう一種類は、主イエスがある人に落ちるなら、その人を粉砕するとある。これは、心に対する比喩的な意味やのうて、物理的に粉砕することを意味し、言い換えれば、主イエスがその人を滅ぼすということや。主イエスはこの二種類しか言及してはらず、それ故、すべての人間は二種類に分けられ、
上記のとおり、マタイによる福音書二十一章四十四節の箇所はかなり重要な内容です。
まず、上記に挙げられている「主は心の砕かれた者たちの近くにおられ、後悔している霊を救われる。(詩編三十四章十九節参照)」の聖句の「砕かれた」「後悔している(霊)」の原語に共通するのは 「希望などを無くさせる」の意味であり、かつ後者は「犯した罪に対する自責の念を抱いた」状態を表します。一見して良くは思えない言葉です。しかし、それを踏まえて、「神への献げものは砕かれた霊。砕かれて後悔している心を、神よ、あなたは見下されません。(詩編五十一編十九節参照)」を見ると、主が求めておられるのはこの世に対して希望を持つことではなく、神を畏れ、悔い改めることであるのが明白です。加えて、マタイによる福音書二十一章四十四節の『打ち砕かれるだろう』の原語にも同じように、「期待や希望を挫く」の意味があり、「世で報われて成功する願望を挫く」と受け取れると思いました。故に主イエス(石)の上に落ちて打ち砕かれるとは、この世での成功や報いを受けるのを期待するのではなく、死後の永遠の命に希望を抱き、かつ真の聖書福音を知り、自分の罪深さに打ちのめされて、心から悔い改める人を指すのだろうと考えます。
一方、もう一つの石(主イエス)が落ちて粉砕するとは、似たような言葉ではありますが『粉砕するだろう』の原語にある「ふるい落とす」の意味から、記事中でも言われているとおりに、羊か山羊かに分けられる如く(麦と毒麦も同様)、主イエスがその人を滅ぼすとの意味に一致します。故にすべての人間は二種類に分けられると分かります。
手前は世の教会に連なった時には「歴史上多くの人々が一目を置く聖書、今も大勢の信じる人々が居るのだからこれが正しいのだろう」という、多数派を当てにした間違った考えを持っておりました。これでは神の言葉を信じたとは言えません。ある時、聖書の随所に書かれている「悔いる」の言葉を見た時、「あっ、自分は悔いていない。そもそも悔いるってどういうことだろうか。」と思ったことを覚えております。今思えば、大事な引っ掛かりでした。しかし、世の教会に通う内には本当の意味で知ることはありませんでした。後にミカエル氏の記事に出会い、聖書を改めて通読して、「この神の言葉が絶対に正しい」と確信出来ました。聖書真理を知った喜びと同時に、自分はとんでもない罪人であることにおののき、本当は救いに値しないのかもしれないとすら感じつつ、それでも改める機会が与えられるのならと、いちるの望みに懸けたい気持ちでした。手前は初めて真に神を畏れられたのだと思います。それまでの手前には神への畏れが決定的に足りなかったと思います。「罪を赦す神」の側面ばかり見ていたら、確かにそうなると思います。しかし、神は厳粛な義なる神でもあります。それを忘れてはなりません。神に機会をいただき、真の聖書福音を伝えてくださったミカエル氏には感謝しかありません。これが真の人助けなのだろうと思います。
二、山上の垂訓の冒頭からも垣間見える「逆転」
山上の垂訓の冒頭(マタイによる福音書五章三節から十二節)で「幸いである」と言われている箇所もまた「逆転の構図」があると考えます。
①心の貧しい人々(三節)
「心」の原語には「人間の理性的な部分(精神)の働き」の意味もあります。そして、理性的な思考や判断の基となるのは、本来なら「神の律法を含む聖書の知識」であるはずです。ただ、当時は洗礼者ヨハネが悔い改めを説きつつも、律法学者やファリサイ派の人々の間違った教え(現代ならパウロ教)が多数派であり、その間違った教えに染まった人々が大勢居たと考えられます。「心の貧しい人々」に対して「幸い」、「天の王国は彼らのもの」と言われるからには、それが必ずしも不利とはならないことを意味していると考えます。それを踏まえれば、却って世の権威による間違った教えに染まっている(満ちている)人々よりも、それらを知らず(無学)、主イエスの教えをまっさらな気持ちで知ろうとする人々にこそ道は開かれていることと言われたのではないでしょうか。確かに主イエスは『天と地の主である父よ、これらを賢い者や知性が高い者から隠して、幼子にそれらを明かした事をあんたに公言します。(マタイによる福音書十一章二十五節 引用:真の聖書福音と預言「悔い改めへん者は罰せられる」)』と言われました。神は『幼子のように高ぶらず素直で無邪気な人に大切な事を明かす(同記事引用)』のですから、これが不可欠な資質なのだと考えます。もし多数派(パウロ教徒)にかぶれたら、『高ぶらず素直で無邪気』ではいられません。パウロ教徒はパウロの教え(偽福音)が正しいと信じているため主イエスの教えを無視するほどに高ぶっており、素直でも無邪気でもありません。多数派にかぶれないでいれば、多数派からはおかしい人扱いされるかも知れませんが、真の聖書福音を知るに至る可能性があり、後に大きく逆転する可能性があります。
②嘆き悲しむ人々(四節)
何に対して嘆き悲しむかですが、先の引用で挙げたように『この世で超少数派で苦しい思いをしてる神の律法を守る真のキリスト者』だからこそ、真に嘆き悲しみ得ると思います。それは狭苦しい道(マタイによる福音書七章十四節参照)の故です。例えば、神の律法にある七日目の安息日(いわゆる「金曜日の日没から、土曜日の日没まで」)を完全に守ろうとすれば、周囲から(下手すれば身内からも)後ろ指をさされることもあろうかと思います。週末は稼ぎ時かもしれず、稼働しないために咎められるかもしれません。本来なら神の律法を守らない人や世の中がずれているだけですが、彼らは週末に世俗の労働、行事、遊興等に加わらない人を責め立てたり、莫迦にしたりします。世の実態は、真理に対して逆であり、それが多数派を占めているので苦しい思いをすることは他にも多々あるでしょう。しかし、神ではなく、自らを正しいとするこの世の様は逆転することになります。故に、義が実現する後の世で慰められるのは大変な幸いでしょう。
③へりくだる人々(五節)
新共同訳では「柔和」とされておりますが、原語には「謙遜した姿勢」や「へりくだり」の意味もあります。それは人に対するものというよりは、神に対する姿勢です。しかし、実際には神ではなく、世の権威や人を恐れている場合が多いでしょう。「長い物には巻かれろ」という『目上の者や勢力の強い相手とは争わないで,それに従った方が得策だという意(引用:スーパー大辞林)』のことわざもあります。大なり小なり、世の権威に迎合し、へりくだるのは一つの処世術と看做されます。「ここで歯向かっても不利益を被る」と臆病になって受忍するのは正しいことでしょうか。ここでも「何を畏れるか」が問われると思います。神を一番にして(神を畏れて)いれば、そうは成り得ないはずです。神に対する謙遜、へりくだりとは神への従順です。神への従順とは、神を掟を遵守することであり、それは神を愛することを意味します(ヨハネの手紙一 五章三節参照)。行いを伴った信仰の故に主イエスを信じる者と看做され、神の子となる権利が与えられ(ヨハネによる福音書一章十三節参照)、それが幸いであるのは言うまでもありません。また、「地を継ぐ」とは詩編三十七編二十二節等にあるように祝福を受けた状態を指すと思われます。
④義に飢え渇く人々(六節)
義に飢え渇くとは、神に認められる正しい状態(神の律法、掟、戒めに適う)となることを切望し、かつ自分の不完全さと罪深さを痛感し、悔い改めを必死に完成しようとすることを指すと考えます。悔い改めなければ滅ぶ(ルカによる福音書十三章三節及び五節参照)と主イエスは言われており、パウロ教徒らが言う「主イエスを信じて受け入れれば、そのままで救われる」が真っ赤な嘘であるのは明らかです。これは滅びに向かわせ、地獄の子を作る間違った教えです。故に、パウロ教である以上、そもそも「義に飢え渇く」という状態には成り得ません。「今のままでいい」となるのであれば、その状態でどうして「善(律法に適う)」を認識し得るでしょうか。その状態でどうして「このままではいけない」と自分の不完全さを真に痛感しうるでしょうか。
ところで、ヘブライ人への手紙十章十六節に主イエスとの新しい契約により神の律法を心に書き付けられるとあります。書き付けられたら、自分の意志を度外視して守るようになるのかと言えば、そうではありません。途中で堕落する例からも、守り従う意志、しかも継続することが不可欠です。律法遵守に限らずですが、ある行動が習慣化すると、「その人にとっての当たり前」が出来上がります。それを更に続けると、それ以外の選択肢を取るのが「有りえない」という風になると思います。神の律法を守るのが当然となれば、守らないという選択肢は無くなっていくと思います(もちろん、最期まで油断禁物)。「遵守して当たり前」という行動はさながら、心に書き付けられ、かつ消え難く、刻まれるに等しいと思います。
⑤ 慈悲深い人々(七節)
神を愛し、神の律法を守るようになれば、自ずと品性も整い、慈愛ある行いをするようになると思います。その人の気質がそのまま現れるという側面もあると思います。
画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12847568610.html
また、しばしば律法違犯に言及すると「慈愛がない」と言う者がおります。しかし、それはとんだ的外れです。例えば、性的倒錯にしても、神の摂理に反していることに変わりはなく、その状態を許容したら、その人は滅ぶだけです。許容された状態を見て、他の人が勘違いして、「それで大丈夫なのだ」と思うようなら、更に悪く飛び火することになりかねません。物事には秩序(神の創造の秩序)があり、それは世俗的価値観と相容れないこともあります。その時にどちらを取るかを間違えれば神からの有罪判決は免れません。地獄(終わりが無い永遠の苦しみ)に行く位ならば、たとえ嫌われても言うべきは言うのが良いです。それもまた一つの慈悲であろうと思います。間違えてはいけない順序(秩序)があり、それらを伝えること(福音伝道)も慈悲深さであろうと考えます。
更には、以下の内容も重要だと思います。
人間やから、嫌な事を言われたり、嫌な事をされると、イラッときたり、怒ったりするでしょう。しかし、なるべくそうせえへんように、感情を制御せないかん。たとえ神の民、真のキリスト者と言えども、信仰に入る前は不信仰者や異教徒等と同じような事をして生きてたんやから、その時の罪、若しくは信仰に入ってからも不完全故に犯した罪、色々ある。それを神に赦していただくには、他人を赦す度量の広さが必要なんや。それがでけへんような人、やられたらやり返したり、倍返ししたり、復讐せな気が済まんというような人は地獄行きです。なぜなら、その人自身も神の目には等しく罪人であることを棚に上げて、他者の罪ばかりを責めるからや。これでは悪魔と同じやから、神は嫌いはるんや。
「慈悲深い人々が幸いなのは、彼らは慈悲を受けるだろうからだ(マタイによる福音書五章七節参照)」には、「赦され、赦す」の原理が垣間見えると思います。
⑥心の清い人々(八節)
何をもって「心が清い」と言えるでしょうか。原語から定義は明白で「罪が無い=清い」を指します。但し、これは一度も罪を犯したことがないという意味ではありません。罪を悔いて、罪の赦し(恩恵)をいただきつつ、罪を犯さないように改め、完全に近付くことは可能です。ヨハネによる福音書十五章二節では、豊かに実を結ぶために父なる神が刈り込むと書かれております。この「刈り込む」には「浄化する」の意味があり、汚れや不純物を取り除くことを表します。これらから、パウロ教の教えは、罪の定義も悔い改めの定義も曖昧にし、汚れを取り除くことを教えず、悪い状態に留めさせるため、やはり地獄の子を量産する悪いパン種に他なりません。心を清くする(悔い改めを完成させる)のは、はっきり言ってとても大変です。神と自分に向き合い、心の内と行いを改めるのはとても大変です。打ちひしがれることは日常茶飯事ですが(高慢になるよりは余程ましです)、完成に向かえばその報いが大きいのは言うまでもありません。ヨハネの黙示録二十一章三節では「神が人と共に住む」とあり、まさしく「心の清い(悔い改めを完成させる)人々が神を見るようになる」という結末を表していると思います。
⑦平和を実現する人々(九節)及び義のために迫害される人々(十節から十二節)
この世においては、不信仰者(パウロ教を含め)が多く、真のキリスト者は非常に少数です。そのような中においては、マタイによる福音書十章三十四節から三十七節等で言われているように地上では平和は実現しえず、却って分裂が起こると言われております。
主イエスの教えと神の律法を守る真のキリスト者は孤立し、家族の不信仰者全員が敵になることだって有り得るであろう。もし真のキリスト者が家族内で複数人居るなら、その人同士は信仰の兄弟となり、仲良くする筈やが、こないな事例はまず無いであろう。家族がパウロ教信者だらけで仲良しっていう場合は有り得るやろが、そないな人間を主イエスが認めることはない。主イエスが「人の敵はその家族や。」と断言してはるとおり、真のキリスト者にとって、家族は味方やのうて敵です。家族間で対立するんは悲しいことではあるけども、神の御言葉である以上、真実と言うしかあらへん。
(略)
勘違いせんといて欲しいんは、真のキリスト者は家族を敵であるという理由で蔑ろにするんやのうて、主イエスの教えのとおりに敵をも愛さねばならんし、愛すると言うても何でも相手の言う事を受け入れたり、言う事を聞く事を意味せえへん。あくまで信仰が第一であり、律法を守る事が重要であり、律法に反する事(罪)を認めたり、自分自身もそれに加担する事は忌避すべきや。
画像引用元:https://ameblo.jp/leo085/entry-12858808566.html
記事引用:真の聖書福音と預言「畏れるべき者」
上記のとおり、主イエスの教え(「お前たちは、お前たちの敵を愛し、お前たちを呪う者を祝福し、お前たちを憎む者に善いことをし、お前たちを侮辱したり迫害する者のために祈れ(マタイによる福音書五章四十四節参照)」)のとおりにしなければなりません。それはとても難しいことかもしれませんが、それによって完全な者となります。世の現実に打ち負かされず、その気質や品性を磨くことは重要だと考えます。
また、迫害についても、『それ故、人々の前で我によって信仰を公言する者は全員、我も各天において我が父の前で彼(父)によって(その人の事を身内と)公言するだろう。しかし、人々の前で我を否定する(拒絶する)者は、我も天の我が父の前でその者を否定する(拒絶する)だろう。(マタイによる福音書十章三十二節から三十四節:引用 真の聖書福音と預言「畏れるべき者」)』と言われているとおりです。主イエスを否定すれば、主イエスから否定され、逆も然りです。そして、そもそも多数派のパウロ教では、迫害され得ないでしょう。
以上、この世では評価されなくても、次の世で大きな報いを受けるようになる逆転の構図が見られます。主イエスの御言葉に従い、この世で報われようとせず、来る世で正当な評価を受けることが真の成功と言えます。
三、悪は必ず絶たれる
今回は前回に引き続き、ゼファニヤ書二章を見ていきます。
ゼファニヤ書二章一節から十五節(参照)
(一節)お前たちは集まれ、青ざめなかった民よ集まれ。
(二節)判決が来る前に。その日が籾殻のように消え去る(前に)。主の激しい憤怒がお前たちに臨まない内に。主の憤怒の日がお前たちに臨まない内に。
(三節)主の律法を行う地のすべての乏しい人々よ、お前たちは主を求め、正義を求めよ。従順さを求めよ。あるいは主の憤怒の日にお前たちは隠されるだろう。
(四節)確かにガザは捨てられ、アシュケロンは荒廃し、アシュドドは白昼にそこを追い出され、エクロンは引き抜かれる。
(五節)海辺に住む者たち、ケレト人らの民は災いだ。主の言葉がお前たちの上に。ペリシテ人の地カナンよ、我は住む者が無いようにそれを滅ぼす。
(六節)海辺は(羊の)住処となり、羊飼いの井戸や羊の囲いがある。
(七節)その地域はユダの家の残りの者が跡を継ぐ。彼らはそこらで草を食べさせ、夕暮れにアシュケロンで憩う。彼らの神である主は彼らを気に掛け、彼らの繁栄を回復させる。
(八節)我はモアブの非難とアンモンの子らの罵りを聞いた。彼らは我が民を中傷し、自分の領土に関して高慢になった。
(九節)それ故に、イスラエルの神である軍勢の主の仰せ。「我は生きている、確かにモアブはソドムのように、アンモンの子らはゴモラのようになり、蕁麻(いらくさ)の領地、塩の穴となり永久に荒廃する。我が民の残りの者がそれらを奪取し、我が民の残りの者がそれらを受け継ぐ。
(十節)この事が彼らの下に臨むのは彼らの傲慢による。軍勢の主の民に対して嘲り、高慢になったからである。
(十一節)主は彼らに恐ろしい者として臨まれる。地の神々を傾けたからである。各々その所から、すべての諸国の島々から主に平伏した。
(十二節)お前たちクシュ人もまた、彼らは我が剣で殺される。
(十三節)(主は)その手を北に伸ばせ、アッシリアを滅ぼすだろう。ニネベを廃墟とせよ、不毛の地のような荒野となる。
(十四節)(羊の)群れは諸国の獣の中に伏す。そこの柱頭にペリカンもヤマアラシも宿り、窓の内で声をさえずる。敷居の内の荒廃は杉板を剥き出しにしたからである。
(十五節)これが喜びにあふれ、心配なく暮らす者の都である。その心の中で言う。「我、我の他に無い」と。どうして驚くべきこと(廃墟)となったのか、獣の伏す所となったのか。そこを通り過ぎる者は皆、口笛を鳴らし、その手を振る。
(一)神を畏れない者への警告
ゼファニヤ書二章一節について、「集まれ」と二度言われていることから、より強い強調の意が込められていると見受けます。また、新共同訳で『恥を知らぬ』とされている箇所の原語の主たる意味は「青ざめる(文脈上は「青ざめない」)」です。甚だしい罪により神の罰が下ろうとしているにも拘らず、不安により青ざめる(顔面蒼白となる)でもない(神を畏れない、切望しない)民の状態を指していると思われます。故に言わんとしている点は『恥を知らぬ』と同じと見受けます。ここではそのような民に対して「神に回帰せよ」と言われていると考えます。
ゼファニヤ書二章二節について、「判決」はそのままに神の罰を表すと思います。神は悪を放置せず、義の神である故に必ず罰を下します。ここでは「判決が来る前に神に立ち返り、悔い改めよ、そうでなければ激しい神の罰が臨む」と切迫感を持って警告されていると考えます。次いで「籾殻」は「実と殻に分けられて、ふるいにかけられた状態」を指しており、必要なのは「実」の方であって、「殻(抜け殻)」ではないのは言うまでもありません。尚、同じ原語はヨブ記二十一章十八節、詩編一編四節等でも使われ、神に逆らう悪しき者の比喩として用いられております。そして、『主の激しい憤怒がお前たちに臨まない内に。主の憤怒の日がお前たちに臨まない内に。』と、多少の違いはありますがほぼ同じ言葉を二度繰り返して言われており、この強調は甚だ大きい警告として重く受け止めるべきでしょう。これに聞く耳を持たないのは、根拠も無く「自分は大丈夫」と言っているに等しく、高慢な姿勢と言わざるを得ません。
(二)終末の真のキリスト者に向けられた言葉
ゼファニヤ書二章三節について、一転して今節では神の律法を守る人に向けて書かれております。「乏しい人々」は言葉どおりに「貧しく、社会的地位も無く弱い立場の人々(裕福で権力のある者によって虐げられる)」を指します。ここでも「主の律法を行う人=この世では評価されない小さい者」の構図が窺えます。そして、尚も「主を求め、正義を求めよ。従順さを求めよ」と言われており、「死に至るまで忠実であるように(ヨハネの黙示録二章十節参照)」の言葉が思い起こされます。更に、「隠されるだろう」について、同箇所を解説した以下のミカエル氏の記事を大いに参考にしてください。
大艱難の開始である日曜日を安息日または休業日として強制される法令が出る前に、個人の恩恵期間が終わらないうちに、この地上での命が終わらぬうちに、主なる神を求め、正義を求め、謙遜を求め、共に集まってイエス・キリストを信じて従順に従う必要があるということです。神から運命を決する判決が出てからでは遅いのです。故に、人類の悔い改める最後の機会は、主イエスが執り成しの働きをやめる大艱難前なのです。大艱難が始まれば、神は怒りをこの地上に注がれるでしょう(黙示録16:1)。この身を守られるというのは直訳すれば、隠される、かくまわれるという意味です。これは携挙を意味するのではなく、大艱難の世にあっても保護されるということです。天に引き上げるとは一言も書かれていないからです。また、これは以下に関連しています。
新約聖書 ヨハネの黙示録 3章10節(私訳)
なぜなら、あなたはわたしの忍耐の言葉を守っているからであり、地上に住む人々を試すため全世界にやって来る誘惑の時からわたしもあなたを守ろう。
上記は大艱難の時にあっても主イエスを信頼し続け、キリストの再臨に希望を持って神の律法、掟、戒めを守っていれば、神は必ずあなたを見捨てずに御心に留めていてくださいます。神の民は、大艱難で背教に繋がる誘惑にも耐え抜くことで神の御国に入る前に練り清められ、永遠の命を受けるに相応しい人間に仕上げられるのです。
(三)ペリシテ人への裁き
ゼファニヤ書二章四節で挙げられた「ガザ(強い者)」、「アシュケロン (悪名を燃やす炎)」、「アシュドド(強大、破壊者)」、「エクロン(根こそぎ引き裂かれる、根絶)」の都市は、ペリシテ人の五つの主要都市に該当します(上記の括弧の言葉は原語にある異名)。こちら(ウィキペディア)の地図で地勢を参考にすると分かり易いと思います。ペリシテ人は旧約聖書に書かれているとおり、古代イスラエルと敵対しておりました。当該都市についてはエレミヤ書二十五章二十節でも言及があり、エレミヤ書二十五章二十六節ではその滅びが予告されており、そのとおりの末路を辿りました。尚、ゼファニヤ書二章五節にある「ケレト人(クレタ人)」はペリシテ人を指し、彼らはエーゲ海方面から海を渡ってきた海の民の一部であるためにそのように呼ばれていると思われます(参照:世界史の窓)。そして、「ペリシテ人の地カナン」はヨシュア記十三章三節にあるようにペリシテ人はカナンの地を治めておりました。また、前回記事でも言及したように「カナン」の原語には「違法な取引をする」との悪い意味もあります。近隣の異邦人(異教徒)から古代イスラエルに偶像崇拝(バアル等)がもたらされ、そういった事を含んでいると思われます(士師記十章六節参照)。ペリシテも偶像崇拝の国であるため、遠からず神に滅ぼされるのも必然だと考えます。
(四)古代ユダヤに関する預言
ゼファニヤ書二章六節から七節について、海辺(ペリシテ人の居た地域)が「羊の住処」となり、しかも、「ユダの家の残りの者が跡を継ぐ」等とあることから、古代ユダ王国が滅び、捕囚とされながらも帰還し、やがて古代ユダヤに至ること(最終的にはローマの属州)(参照:世界史の窓)を、ゼファニヤが居た時代(古代ユダ王国が滅ぶ前)に既に予告されていたのだと思われます。こちら(古代ローマライブラリ)にある地図を確認すると、確かに海辺の地域はユダヤ属州となっております。尚、真の聖書福音と預言「実を結ばな滅ぶ」で言われているとおり、主イエスの御処断によりユダヤ人の救いは閉じられました。ユダの家の残りの者が跡を継いでも、それは短い期間でしかなく、その事もあって『夕暮れにアシュケロンで憩う』と書かれているのではないかと考えます。『我は、我を遣わしはった方の業を日中である内に行わないかん。夜が来ると、誰も働くことがでけへん。(ヨハネによる福音書九章四節 引用:真の聖書福音と預言「水上を歩く」)』と言われた主イエスの御言葉と「例えられた時間軸」が一致していると見受けます。
(五)傲慢により滅ぶアンモンとモアブ
ゼファニヤ書二章八節から十節について、先に挙げた地図(ウィキペディア)から、アンモン人とモアブ人の国は北イスラエル王国と南ユダ王国と隣接しておりました。その彼らは申命記二十三章四節にて主の会衆に加わることが出来ないとまで書かれております。列王記上十一章三十三節に「モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコム」と書かれているとおり、偶像崇拝の国であることが要因と考えられます。また、ネヘミヤ記十三章にも書いてあるとおり、ソロモンはアンモン人とモアブ人の女を妻に迎え、やがて罪に引き込まれました。故にそれらの国々が、「彼らの傲慢」「軍勢の主の民に対して嘲り、高慢」もありながらも、ソドムとゴモラのように滅ぶのもまた必然であろうと思います。実際、ゼファニヤ書二章十一節では「地の神々を傾けた」とあります。聖書の神に並び立つものなどありません(詩編百十三編五節参照)。そして、先のユダヤ属州の地図にアンモンとモアブの領地が含まれていることから、『我が民の残りの者がそれらを奪取し、我が民の残りの者がそれらを受け継ぐ。』が実現したものと思われます。
(六)クシュの後退とアッシリアの滅亡
ゼファニヤ書二章十二節の「クシュ人」について、歴代誌下十二章三節ではエジプトの王と共にクシュ人が南ユダ王国を攻め入る記述があり、歴代誌下十四章でも同様に外敵として書かれております。ただ、サムエル記下十八章三十一節から三十二節にはダビデの陣下にクシュ人がおり、エレミヤ書三十八章七節等には「王宮の役人の一人であるクシュ人エベドメレク(名には「王の僕」の意味がある)」がおり(預言者エレミヤは彼の介入で救出された)、更には、ゼファニヤ書一章一節にゼファニヤの曽祖父はクシュ人と書かれております。これは古代イスラエル、古代ユダに流入した異邦人としてのクシュ人が居り、その中には信仰をもったクシュ人も居たものと考えられます。また、ゼファニヤの時代にはこちら(ウィキペディア)のとおりクシュ系の王朝がエジプトを治めていたようであり、クシュ王国自体は古代エジプトの南側に位置します。後にアッシリアの侵攻を受けて最終的にクシュはエジプトから撤退しました(参照:世界史の窓)。
ゼファニヤ書二章十三節について、「アッシリア」はこちら(世界史の窓)の地図のとおり、北に位置する大国でした。アッシリアは紀元前七百二十二年に北イスラエル王国の都サマリアを占領し支配下に置きました。南ユダ王国には、ヒゼキヤ王の時代にアッシリアのセンナケリブ王が攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した(列王記下十八章十三節参照)と書かれており、大敵であったのは言うまでもありません。 「ニネベ」はアッシリアの首都であり、ヨナ書のとおり、預言者ヨナはアッシリアのニネベに主なる神によって遣わされました。異邦人である彼らは悔い改め、「あと四十日でニネベは滅ぼされる(ヨナ書三章四節参照)」という状態は回避されました。しかし、最終的にアッシリアは紀元前六百十二年に滅ぼされる結果となり、ゼファニヤ書二章十三節の言葉は実現しました。何が善で、何が悪かも判断出来ない(真の神と律法を知らない)、右も左も弁えぬ異邦人(ヨナ書四章二十一節参照)であってもヨナ書三章八節から九節のとおり、悔い改めれば神の怒りを免れるかもしれません。しかし、実際には滅んでいることから、その悔い改めは継続しなかったのではないかと考えられます。
(七)高慢、律法違犯の末路
ゼファニヤ書二章十四節について、「(羊の)群れは諸国の獣の中に伏す」とは、北イスラエル王国も南ユダ王国も異邦人の外敵に滅ぼされ、アッシリアやバビロニアの捕囚となったことを例えていると考えられます。次に「そこの柱頭にペリカンもヤマアラシも宿り、窓の内で声をさえずる」の箇所を見ていきます。新共同訳では「ふくろう」とされておりますが原語からは「ペリカン」であり、律法で汚れて食べてはいけないとされる鳥(レビ記十一章十八節等参照)です。更には、詩編百二編七節では廃墟に住む鳥として描写され、イザヤ書三十四章十一節においても良い意味では使われておりません。「ヤマアラシ」も同様に荒れ果てた場所の象徴としてイザヤ書十四章二十三節等で用いられております。その両者が居るのが「柱頭」ですが、同じ原語は出エジプト記二十五章等で「燭台の装飾」の意味で使われており、然るべく整えられるべき幕屋の内側が荒れ果てている状態を指すのではないかと考えます。また、「敷居の内」は境界の内側、即ち契約の民(血統イスラエル人)を指すと思われ、国が滅ぼされるほど著しい堕落のあった民の状況を思えば、「荒廃」という表現が的確だと思います。「杉板を剥き出しにした」についても列王記上六章十五節で杉板で神殿の内側が造られており、それらが剥き出し(装飾もなく、破損している)となるのは、やはり「荒廃」以外の何ものでもないと思います。また、神の律法が蔑ろにされている比喩でもあろうかと思います。
ゼファニヤ書二章十五節について、繁栄を謳歌しながらも、高慢となり滅んだ異国の末路を表していると思います。また、申命記二十九章二十一節から二十七節にも類似の記述があることから、律法違犯の呪いが臨んだ契約の民の末路をも表していると思います。『喜びにあふれ、心配なく暮らす者の都』と言われるほどに繁栄したとしても、『我、我の他に無い』と高慢に陥れば、自らの悪を認識せず、改めることもなくなり、そうなってしまうと契約の民であろうと異邦人であろうとも神の罰を免れないことをゼファニヤ書二章の箇所は言われていると思います。「高慢な心は主の嫌悪(箴言十六章五節参照)」、「神は高慢な者に敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる(ペトロの手紙一 五章五節参照)」と言われているとおりです。
ゼファニヤの預言は現代の我らにとって、かつて起きた出来事でもあり、これから起こる終末をも描写しております。他の預言も含め、主なる神が預言者を通じて前もってこれから起こる事柄が告げられており、神の律法を基準に、血統イスラエル人であっても異邦人であっても悔い改めが不可欠であり、神はいつまでも悪を放置しないことを示しておられます。千年単位あるいは百年単位という時は、人には気が遠くなるほど長く感じますが、神にとっては千年は一日のようであり(ペトロの手紙二 三章八節参照)、千年という時も過ぎ去った昨日のようであり(詩編九十編四節参照)、たとえ悪が栄えているように見えたとしても神は必ず悪に報いられます。その上で、本当に重要なのは死後の永遠です。
画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12820192823.html
上記の画像のとおり、どう考えようと各位の自由です。しかし、聖書を学ばず、「この世の常識等」を大前提に生きれば、聖書真理を知ることもなく、悔い改められず滅びに向かうだけです。律法を蔑ろにして主イエスの教えに不忠実なパウロ教徒も同様です。主イエスの教えに忠実な真の聖書福音を大前提にして、信仰を持って生きた時に初めて悔い改めが可能となります。
画像引用:https://ameblo.jp/leo085/entry-12835978692.html
神は「収穫の時」に預言者を世に送られ、「実」を集めようとしてこられました、しかし、世の指導者も世の人々も、好き勝手に振る舞いました。個人的には、「ほんの少しでも心に引っ掛からなかったのだろうか」、「それって、どういうことなのか。この警告が本当だったら、相当にまずい。」と思った人がもっと居なかったのだろうかと不思議に思います。つくづく主イエスや預言者の言葉を他人事に思うべきではないと思います。
また、誰もが聞く耳を持たなかった中で、多数派に属さずに悔い改めるのは、ともすれば勇気が必要かもしれません。しかし、迫害されたり、この世で最下級となることを恐れてはいけません。もし世間体を重んじ、社会的成功を追い求めることを一番に考えれば到底、聞く耳は持てないだろうと思います。もしこの世の様に対して「何かがおかしい」と思ったり、世に躓いて、「何が真実なのだろうか」と正しい道を希求する人は本当に幸いだと思います。聖書こそ、世に染まることに抵抗があり、世では弱く悩む人に真の解決をもたらしてくれます。世に染まれなかったならば幸いです。世に染まったらそもそも改めようと思えないからです。たとえこの世では地位や財産を築けなくても、世に居場所を見出だせなくても、後の世ではすべては逆転します。すべての悪が公平に裁かれ、そこに真の希望があります。
四、結び
最近、大地震が起き、更なる大災害も懸念されます。かねてより南海トラフ地震や富士山噴火の危険が叫ばれ、不安に感じておられる方もいるかもしれません。また、地震の報道の一方で支那との緊張も高まっております。こちら(note)の記事にある米国の研究機関の模擬予測によると、有事が起きれば、在日米軍施設のある地域が攻撃対象となり『日本側の死者が4,662人に達する』と分析しているようです。当然、それだけで済むはずがなく、物流が滞れば物価上昇と物資不足が懸念されます。更に、記事では自然災害時と同様に『防災・備蓄の準備』を勧めており、生々しく感じます。局地的災害であれば、被災していない地域からの支援が可能です。しかし、日本全体の物資不足となれば事はそう簡単ではありません。こちらの記事(In Deep)によると、日本は貿易全体の九割を海上輸送に依存しているため、『半年程度の「完全な海域封鎖」で、6000万人くらいが深刻な栄養失調や餓死に至る』危険があるようです。これらから、真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 一」、「聖書の終末預言 二」で言われている主イエスの終末預言が思い起こされます。戦争や地震や飢饉等、すべてこれらは産みの苦しみの始まりと言われております。著しく世情が悪化し、この世の終わりが近付いていると薄々でも感じる人は一定数居るのではないかと思います。戦争に向かう悪しき動きや新世界秩序の構築に繋がり得る憲法改悪に対して抵抗し、阻止に努めるべきです。悪人に膝を付かず、隣人のためにも出来得ることは最大限に行動するべきです。一方、聖書の預言は必ず実現するため、為すべき事は為しつつも、この世(為政者等)に期待するのではなく、真の聖書福音を知り、すべての悪を裁き、来る世での救いをもたらす主イエスにのみ希望を持つべきです。今、ゼファニヤ書の預言の只中に生きていると俯瞰して、「どうすれば良いか」を考えてみてください。
正しく生きるのに地位も財産も必要ありません。神のお招きを前提にしつつも、自分の意思と意志を行使し、そして、各位に与えられたタラントン(才能、能力)を磨いて活かすまでです。すべては、この世と後の世での有様は逆転します。そこに希望を持って励みましょう。
その上でご案内致します。律法を遵守し、品性を改め、福音伝道をし、慈愛ある活動をし、悔い改めを完成するのは一人では困難です。かつ主イエスは兄弟で愛し合うようにと命じられております。実際、成長していくためには切磋琢磨する兄弟や御指導、ご鞭撻の数々が不可欠です。手前も同じ志を持った兄弟での励まし合いがどれほど支えになったか計り知れないと感じます。兄弟で愛し合い、主イエスや兄弟に貢献し、切磋琢磨したいと思われる方は、ミカエル氏が用意してくださった教会への入会を果たして、ぜひ共に歩みましょう。これまであった「兄弟の集いの場」は廃止されておりますので更新された入会条件等をきちんとお読みになった上でご申請ください。
誤った世の常識、世の多数派の価値観等に生きてきて躓き、打ちひしがれているなら、ある意味において幸いです。なぜならば、この世で小さい者、悩める人にこそ聖書真理は近いからです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
































































