こんにちは。

 

今回は、聖霊の賜物について書きます。

 

異言と聞いてあなたは何を想像するでしょうか。クリスチャンであれば、異言のことを聖書で読むか、どこかで聞いたことがあると思います。異言は動画等で目にするように霊が降って恍惚状態になって人が理解できない言葉を発することだと一般に考えている人が多いと思います。しかし、本当にそうでしょうか。彼らが聖霊の賜物としての異言を語っていると本気で思っているとしたらかなり危ないです。異言を聖霊の賜物として主張する者たちはコリント一14章を根拠にするでしょうが、異言の特徴をよく知っておかねばなりません。特徴は以下の3つです。

 

①人にではなく神に向かって語る。(2、28節)

②異言を語る者は自分を造り上げている。(4節)

③理性は実を結ばない。(14節)

 

簡単に言って、異言には上記の特徴があり、他の人のためにならないし、自分自身の理性のためにもならないことが明白です。それなのに、何故、一部のクリスチャンは異言を語ったり、異言で祈ることができるように奨励したりするのでしょうか。過去記事「自我との戦い」で説明したとおり、主イエスは自我を捨てることを教えているにも拘らず、自分のためにする異言を奨励するのは矛盾するように思えます。よって、異言を話せるということを他人にひけらかしたり、異言を話せないクリスチャンを偽り者呼ばわりする者は真のクリスチャンではないことが分かります。むしろ、異言を語るのは自分の霊的体験のためでしかないのですから、隠れるようにすべきであって、公然と他人の前ですることでもなく、それができると他人にわざわざ言う必要もなく、自慢することでもありません。異言は解釈する者がいなければ無意味です。異言についてはコリント一14章全体をよく読めば、その性質が分かります。文脈を無視しないでください。異言の熱狂的支持者は、一部の肯定的な聖句の部分だけを抜き出して、彼らの自説の正当化に悪用します。このような主張はサタンの主張です。主イエスが荒野で誘惑を受けられた時も、サタンは聖書を引用していたことを忘れないでください。悪霊に惑わされたにわかクリスチャンは、サタンと同じくこのような手段を多用して自らの正当性を主張します。なぜなら、彼らの父は偽りの父であるサタン(ヨハネ8:44)だからです。しかし、彼らの主張はまったくの的外れであり、聖句を一部抜粋するだけで文脈を無視し、私的解釈しています。

異言について、聖書には肯定的に書かれていません。「異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語られなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。」(コリント一14:6)のように、異言はそれだけでは何の役にも立たないとはっきりと書かれています。しかし、パウロは、異言そのものの存在を否定しているのではないことにも留意してください。「異言を語ることを禁じてはなりません。」(コリント一14:39)とあり、聖霊の賜物の一つとして異言というのがあることを否定しているのではなく、その性質を誤解し、誤用しないように警告しているのです。自分は聖霊を受けたのだと自慢したがる人にありがちな罠となるからです。サタンは、奇跡と同様に異言も聖霊の業として偽造することが簡単だと知っているため、これを大いに奨励し、人々の注意を異言に向けさせようとしています。しかし、すべては適切に、秩序正しく行う必要があるのです。無秩序に行ってはいけません。

 

偽りの異言の簡単な見分け方を紹介しましょう。

まず、本物の異言は無意味な言葉ではなく、同じ言葉や音の繰り返しではないので、同じ言葉や音が頻繁に繰り返されるようなら、偽りの異言であることがすぐに分かります。また、異言を話すという者が、神の律法、掟、戒めに従っているかも判断基準になります。もし律法廃止論者であったり、実際に神の律法に従っていないのなら、その者は偽り者です。

異言を話すということを大々的に宣伝したり、異言を話す教育をするとか、異言集会のようなことをすることはすべて悪霊の導きから来るものです。同じような言葉や音を繰り返すのは、異教、即ち、サタン崇拝の宗教から来ているのだということを知らなければなりません。そのような無意味で無秩序に同じ音を発し続けると、思考停止状態に陥って考えなくなるので脳の機能が損なわれます。そして、その人間の理性に悪影響を及ぼします。そのような人たちは、主イエスに近づこうと思って異言を求めて鍛錬しているつもりなのでしょうが、実際は真逆の方向であり、サタンに近づこうとしているのです。そのような偽りの異言をし続けると、その人間はますます思考力を失い、理性を失い、肉の本能のまま行動するようになり、肉の欲にまみれ、悪を確立することになります。異言をしている集団の動画を見たことがあるでしょうか。床の上を転げ回ったり、痙攣しているように小刻みに身を震わせ、体を激しく動かしたり、奇声を上げています。これらは紛れもなく悪霊の働きです。聖霊は人間をこのように乱暴に扱うことはありません。預言者エリヤの時代、バアル信仰者たちは「祭壇の周りを跳び回った。」(列王記上18:26)、「大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。」(列王記上18:28)、「狂ったように叫び続けた」(列王記上18:29)と似ています。これらをするのは異教であるサタン崇拝の特徴です。主イエスはこのようなことをするべきだと教えたでしょうか。いいえ、当然、一度もありません。神はいつも秩序を保ち、意味のあることを仰います。無意味でくだらないことを仰いません。よって、意味不明な偽りの異言での祈りなど神はお聞きになりません。それでもあなたは異言を重要視するでしょうか。神の律法や掟、戒めを守らないで奇跡、異言、癒し等を行って人々を惑わすのは偽り者です。主イエスの御名でたとえそのようなしるしを行ったとしても神の律法や掟、戒めを守らない不法な者は知らないと言われると私は何度も述べてきました。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

主イエスは、人間が主イエスの御名を使って悪霊の追い出しや奇跡をしたり、異言を話すことをもって、その者をお認めになることは決してありません。むしろ、神の律法や掟、戒めを守る者で、神の御心を行う者が天の国に入ると明確に教えておられます。多くのキリスト者は神からの賜物を欲しがりますが、神の律法や掟、戒めを守ることを蔑ろにしています。そのような状態で悪霊を受けて、不思議な業ができるようになったり、律法を守らなくてよいとか守れないのだと言って、実際は悪霊にも拘らず聖霊を受けたと勘違いしているのが現代の自称キリスト者に多く見られます。

 

上述したコリント一14章の異言に関する記述よりも、使徒言行録2:1~13の方に注目するべきです。即ち、外国語を話す能力のことです。何故、聖霊が弟子たちに外国語を語らせたかというと、それは福音伝道のためです。聴衆の母国語で語り聞かせるために他なりません。ですから、外国語を操る能力を備えていることは、無意味な音を発するだけの異言よりもはるかに有益なことです。

主イエスは昇天される前に弟子たちに「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」(マルコ16:17)と約束されました。この「新しい言葉」は英語ではnew tonguesとなっています。因みに、使徒言行録2章の異言も英語ではtongueであり、コリント一14章の異言もtongueであり、同じ単語が使われています。要するに言語なのです。mother tongueは母国語を意味するとおり、意味のある言語なのです。きちんとした異言は神には分かる意味のあるものですが、同じ音の繰り返し、無秩序でデタラメな異言は偽りです。そして、主イエスが弟子たちに外国語を話す能力を約束されたのは、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)という御言葉を実現させ、様々な国語の人々に聖書福音を知らせるためでした。すべての民に知らせるには外国語ができなくては話になりません。かと言って、外国語を勉強する環境も時間も当時はありませんでした。そのため、主イエスは聖霊を彼らに降らせた時に、外国語を話す能力もお授けになったのです。当時の弟子たちは、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは漁師出身で、学校に通って外国語の勉強をしたことがありませんでした。そのため、彼らは賜物として瞬時に外国語を話す能力を与えられました。このように言うと、現代の人間で、外国語ができないのは聖霊が降っていないからだと思う人も出てくるかもしれませんが、そのような考え方は間違いです。今では1世紀当時とは異なり、主イエス・キリストや聖書の存在を知らない人はほぼいないからです。しかし、過去記事「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」でも述べたとおり、置かれている境遇が違うことを認識してください。当時は辞書もネットも外国語の教師や講座や参考書もありませんでした。それらが豊かにある現代では、原則的には自力で外国語を習得しなければなりません。もしあなたが外国人に福音伝道をしたいと思うなら、まずは目の前の自国民に伝道してください。特に、日本はクリスチャンが少ないからです。

なお、聖霊の賜物は一種類だけではありません。神は無意味なことをされるお方ではありません。神は各自の召命に合った賜物をお授けになります。以下のとおりです。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章4~10節

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には”霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ”霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ”霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の”霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。

 

上記のように聖霊の賜物は多岐に渡ります。外国語を語る能力は、自力でも習得可能な現代では聖霊の賜物とは言えません。それこそ過去の弟子たちのように一切勉強せずとも瞬時に外国語を話せるならば、その場合は聖霊の賜物と言えるでしょう。また、それは聖書福音の伝道という目的がなければ実現することはありません。外資系企業に就職するため、学校の試験のため、資格取得のため等の世俗的な用途には聖霊は働かれないでしょう。そのような目的の場合は自力で外国語を習得するしかありません。また、異言と外国語の能力の位置付けは低いです。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章28節

第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

 

上記の使徒というのは、主イエスの十二使徒だけです。彼らの主たる任務は、聖書福音の伝道と主イエスの証しであり、律法を守りながら主イエスを救い主として信じる信仰を伝える使命を持っており、他の人に代替されることは不可。そして、神の霊感を受けて神の御言葉を代弁して偽りの教義を弾劾したり神からの警告を発して人々を正しい信仰を持たせて主イエスへと導く預言者、人々にモーセの律法に基づく清い生活や預言者の書の内容を説明して教える教師と続きます。異言や外国語を話すことは上記聖句から明らかなとおり、あまり重要視されていないことが分かります。しかし、外国語を操ることができるのはできないよりは断然良いことに変わりありません。上記聖句からも奇跡、異言、癒しに重きを置くのは誤りであることが分かります。また、偽りの異言は主イエスの教えに明確に反します。

 

新約聖書 マタイによる福音書 6章7~8節

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

 

上記は、主イエスの御言葉です。くどくどというのは、無駄な反復をすることです。まさに仏教の読経やイスラム教のアザーンのようなもので、異教に見られる現象です。しかし、主イエスは、同じ言葉を何回もしつこく繰り返したり、言葉数を多くしてはならないと教えています。しつこく繰り返したり、長い時間をかけて祈れば、神が聞き入れる訳ではないのです。また、英語(KJV)では「But when ye pray, use not vain repetitions, as the heathen do: for they think that they shall be heard for their much speaking. Be not ye therefore like unto them: for your Father knoweth what things ye have need of, before ye ask him.」となっています。日本語よりも英語の方がより詳細に分かります。the heathenは異教徒と訳されますが未開人の意味もあります。つまり、異教徒がするような同じ言葉を無駄に反復したり、言葉数を多くしてはならないと主イエスは仰っています。よって、奇声や同じ音を繰り返す異言を聖霊の賜物だと言っている者、異言を語ったり、異言で祈ることが重要と言っている者は、主イエスの教えに反する反キリストということになります。

 

異言は聖書にあるとおり、解釈する者がいなければ無意味なものであり、預言に劣るものです。むしろ、預言することを熱心に求めるべきです。預言というのは、前回記事「預言者と偽預言者の違い」で書いたとおり、未来の出来事を言い当てることではなく、聖書の真理に合致する内容の言葉であり、他の人を主イエス・キリストに従順に従うように導く言葉であり、教会(建物ではなくクリスチャンの集まり)を造り上げます。しかし、聖書を曲解して聖書の真理に合致しないことを説く者や主イエスの十字架を悪用して神の律法や掟を蔑ろにするように言う者は、人々を惑わしている偽り者です。偽りの異言を語ることは明確に悪い行いであることはパウロも言っています。

 

新約聖書 テモテへの手紙一 6章20〜21節

俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。

 

上記の21節は誤訳であり、英語(KJV)では「Which some professing have erred concerning the faith.」です。これを私は「その知識を信仰した者が信仰の道を踏み外しました。」と訳します。つまり、聖書の真理に異論を唱えたり、聖霊の働きを侮辱するといったことは神への冒涜であり、聖書の真理に異論を投げかける反対論を知識として自慢げにひけらかす背教者についても警告されています。このような者は今も存在しています。

 

上記の言葉をパウロは以下でもテモテに二回も繰り返し警告しています。

 

新約聖書 テモテへの手紙二 2章17節(私訳)

そのような話をする者はますます不信心になるからです。彼らの言葉は潰瘍がするように、食い荒らします。

 

不敬な戯言を言う者は不信心になり、それに乗っかる者たちが増え、こうして背教者が多数になり、偽りの聖書福音や偽りの預言解釈が蔓延するのです。 終わりの時は特に酷くなり、破滅をもたらす異端教義を広め、真理を攻撃してきます。なぜなら、サタンは聖書の真理を憎み、神の民をも憎んでいるからです。前回記事「預言者と偽預言者の違い」で引用した聖句にあるように、「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」(ユダ18)のを頻繁に見かけるようになります。実際に今、サタンの教えを声高に語っているにわかクリスチャンや異教徒を頻繁に見かけます。過去記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」で私が述べたとおり、神の律法遵守についての争いになります。さらに、過去記事「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」で引用したテモテ二3:1~8にもあるとおり、終わりの時は困難な時期であり、にわかクリスチャン、異教徒や無神論者は、自分自身を愛し、高慢になり、中傷し、節度がなく、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。現に聖書の真理をあざける者、異論を唱えるにわかクリスチャンたちに当てはまっており、彼らには聖霊はいません。聖霊を受けるには、主イエス・キリストへの信仰を保ちながら神の律法、掟、戒めに従うことが必須だからです。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章15~17節

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。

 

上記は主イエスの御言葉であり、明確に主イエスの掟や御言葉を守らないといけないことが分かります。また、以下もそうです。

 

新約聖書 使徒言行録 5章32節

神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。

 

上記のように、神に従う、つまり、神の律法、掟、戒めに従うことが必須要件であるということです。そして、私自身もこの証人です。それは真実な霊が証しするからです。そして、聖霊を受ければ以下の働きもあります。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 16章8節(私訳)

その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世を戒める。

 

上記聖句の「その方」というのが聖霊のことです。即ち、聖霊は、罪、義、裁きについて悪い世を戒めるというのです。今まで長年にわたって間違った教えが蔓延して信じられており、私がそれらの誤りを指摘して弾劾し、当ブログであなたがたに宣べ伝えてきました。ほんの一握りの人だけが悟って悔い改めたと思いますが、多数が悟らずに反抗するのは分かっています。なぜなら、これは狭い門であり狭い道だからで、多数は滅びに至る広い門から入って広い道を歩きます。特に、罪についての教えは、世に多くの誤謬があり、それを過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」や「罪について」で重点的に説明してきました。それらの過去記事でも引用したように、簡単に言えば、「罪を犯す者は、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」(ヨハネ一3:4)とあり、律法違反が罪であるということは事実です。前回記事「預言者と偽預言者の違い」でも述べたとおり、主イエスの十字架を悪用して律法違反をして不従順である正当化事由にする背教者がいますが、彼らは悪魔に属します。彼ら自身こそが悪魔の子であるのに、神の民に向かってサタンや悪霊などと言って罵ります。理由は以下からも明白です。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 3章8~9節(私訳)

罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすために、神の子が現されたからです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。

 

上記から律法廃止論を唱えて律法を無視し続けて罪を犯しても何とも思わない者が悪魔に属する人間であることは明白です。神から生まれた人というのは、神に属する人間のことで、新生した後は律法や掟を守るので罪を犯し続けることができなくなるのです。聖霊を受ければ、罪を犯すことの重大さが理解でき、律法違反をして平気でいられないので律法を守るのです。故に、真のクリスチャンは神を畏れるが故に神の律法を守ります。律法を守らない者は神を畏れていないのです。間違った信仰を持ったにわかクリスチャンどもよ、主なる神を畏れ、神の律法、掟、戒めを守りなさい。そうすれば、主が救いの手を差し伸べてくださるかもしれない。

 

旧約聖書 詩編 34編10節

主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。

主を畏れる人には何も欠けることがない。

 

旧約聖書 コヘレトの言葉 12章13~14節

すべてに耳を傾けて得た結論。

「神を畏れ、その戒めを守れ。」

これこそ人間のすべて。

神は、善をも悪をも

一切の業を、隠れたこともすべて

裁きの座に引き出されるであろう。

 

律法を蔑ろにするにわかクリスチャンは主イエスに不従順にも拘らず、私が異端の教義を唱えているとか、主イエスの十字架を否定している等と事実に反する嘘を言って兄弟たちを惑わそうとする悪魔の子です。私が主イエスの十字架を否定したことは一度もありません。あなたがたの中でも特に悪い者は、律法違反して日々罪を犯し続けるだけに飽き足らず、聖霊を冒涜する赦されない罪を犯していることを認識するがよい。私が赦しても神はお赦しにはならないでしょう。私は、律法廃止論を唱えるようなプロテスタント、律法を勝手に変更した上に偶像礼拝をやめないカトリック、誤った聖書の教義や預言解釈を広める偽教師、主イエス以外に仲介者を名乗る偽預言者や偽メシアとカルト宗教を弾劾するためにいるのです。

聖霊の内なる働きとして、人の罪深さを明確に認識できるようになります。そして、主イエスの偉大さ、純潔さもはっきりと分かるようになり、自分の惨めさを痛感させられます。それは、過去記事「自我との戦い」で書いたとおりです。キリストに近づこうとすればする程、その道の難しさが分かるでしょう。しかし、主イエスへの信仰を持ち、聖霊の導きに従って神の律法、掟、戒めを守っていれば、試練や鍛錬を乗り越えて罪に勝利することができます。主イエスが十字架により私たちの過去の罪の記録を破棄してくださり、聖霊が旧約時代では難しかった律法遵守を可能にしてくださるのです。「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」(ローマ8:7)のとおり、律法を守らず、律法遵守の重要性が分からないにわかクリスチャンは、聖であり善でもある律法と掟(ローマ7:12)を無視し、十字架で律法はすべて廃止されたとか、律法は守れなくても仕方がない等と言っている悪魔の子です。彼らは、キリストの受肉された人性を間接的に否定する反キリストであり、私たちが主イエスへの信仰を持って必死に戦う中で模範とする主イエスに近づけないと暴言を吐いているのです。彼らは聖霊の力を知りません。聖霊は真のクリスチャンに完全な者になるように導いてくださいます。以下の聖句からも分かります。

 

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 2章13節(私訳)

神の御心のために、あなたの意志と行いの両方に対してあなたの内で働いているのは神であるからです。

 

真のクリスチャンの内に働く神が聖霊ということです。上述したように、 完全な者となるために神の律法や掟を守らせるのは聖霊の力なのです。肉に過ぎないただの人間や悪霊に惑わされた人々には聖霊がおらず、このような内なる神の力が働かないので、律法遵守しようという気持ちが起こりませんし、神の御心を行うこともできません。過去記事「主イエスの受肉」も参考にしてください。主イエスは人間も水と霊によって新生すれば、キリストに近づき、罪に勝利できる、即ち、律法や掟を守れると教えてくださったのです。しかし、にわかクリスチャンにとっては、私が宣べ伝えることも聖書の真理も永遠に理解不能な事柄なのです。なぜなら、彼らには聖霊がおらず、悪霊に惑わされているからです。聖霊は人間の良心に訴えかけ、目を覚まさせ、私たちが罪深い罪人であり、救い主イエス・キリストを必要とすることを強く認識させます。しかし、聖霊がいないにわかクリスチャンたちは、霊的盲目状態にあり、彼ら自身が罪深いという自覚が無く、彼ら自身が罪深いという事実から目を背け、主イエスの御名を口先だけ唱えて聖なる神の律法や戒めを忌み嫌い、彼らには滅びしかないのにも拘らず既に救われたと妄想に浸り、真に救い主の必要性を理解していません。過去記事「ゲツセマネの祈り」で述べたとおり、生きている現段階で自分は救われていると断言する者は信仰の薄い者、もしくは背教者です。死まで神の掟を守るという主イエス・キリストの信仰を持ち続けて従順で人生をまっとうしてこそ勝利者となるのです。それ故、主イエスは「最期まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22私訳)と仰ったのであり、「ここに、聖なる者たちの忍耐がある。ここに神の掟とイエスの信仰を守る者がいる。」(黙示録14:12私訳)とヨハネに啓示を残されたのです。律法や掟を守らない口先だけのにわかクリスチャンは信仰の故に苦しまず、忍耐する場面がないと過去に述べました。聞く耳を持たない者は滅びます。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。

 

一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上