こんにちは。

 

今回は、表題の聖書箇所を基に、何が大切なのかということを伝えます。

 

皆さんは、普段何を考えて生活していますか。勿論、大半の人間は、過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」等でも述べたように、この世のことばかりを考えて生きています。したがって、彼らの興味や関心は、この世の事や。この世の将来、行く末、お金、仕事、趣味、名誉、地位、他人からの評価や評判等ばかりを考えてるやろ。この世で生き延びることが出来さえすれば、それで満足と考えている人が多過ぎる。今のところ、拙者の身近には同じような考えや志を持った人、信仰を持った人が居らへん。少しでも似た考え、認識、向かう方向が同じ人が集まり、有意義な話し合い、励まし合いができればと思い、前回記事「兄弟たちの集いの場」を作成しました。そこでは、悩みを正直に打ち明け、根本的解決に向けて他の人の経験や聖書を基に現状を変えようと頑張る兄弟がいます。悩みや迷いをまったく抱えていないキリスト者は居るか。居らへんやろ。当ブログ訪問者は結構な数が居るが、投稿して話をする兄弟は非常に少数や。また、投稿するとしても、まったく的外れなことを言う人が居る。これは予め分かってたことではあるが、つくづく残念です。本当に心から主イエス・キリストを信じて従順な人というのは、非常に数少ないからや。流行のように、一時的に熱狂はしたけれども、やがてその熱が冷めて、信仰が薄くなって道を逸れたり、神の掟を守ったり守らなかったり、祈り忘れたり、祈っても神の御心とは程遠い利己心から来る祈りをしたり、利益信仰をしたり、聖書を読む速度が遅くなったり、聖書の字面を追うだけで真理の理解を疎かにしてへんやろか。

 

今回は、以下の聖書箇所を中心に見ていきます。

 

新約聖書 マタイによる福音書 26章36~46節

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベタイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切るものが来た。」

 

上記聖書箇所は、マタイによる福音書に限らず、マルコによる福音書14:32~42、ルカによる福音書22:39~46にも記述がある。この場面は、イスカリオテのユダの裏切り行為が実行される直前や。このゲツセマネという所は、ルカ22:39のとおり、オリーブ山で、いつものようにとあることから頻繁に行っており、初めて行った場所やない。主イエスは、弟子たちの殆どを残し、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて、奥に行きはった。かように三人だけを選んで連れて行くのは、過去記事「千年王国の真実 後編」で説明した主イエスの変貌(マタイ17:1~13)の時と同じです。こういう事実を軽く読み飛ばすと大事なことを見落とすことになるので注意してください。つまり、非常に重要なことを示される時ということです。即ち、天の父なる神と神の御子である主イエスの関係と神の栄光を顕現させることです。また、三人という人数は、律法がそのように言っているからです。「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。」(申命記17:6)、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されなければならない。」とあるとおりです。主イエスがもうすぐ逮捕され、十字架刑という死刑に処せられる前に証人を三人用意されたのです。ここでも主イエス御自身が律法を遵守されていることが分かります。また、主イエス御自身も「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」(マタイ18:16)と仰っており、その真実性の保証のためでもある。

 

主イエスは、神の御子でありながらも、十字架と復活の前には御自身の本当の身分を人々には秘密にされていました。故に、一般の人々は主イエスを神の御子、メシアとは知ることもなく、悟ることもなく、ただ奇跡をしたり、説教をする人、せいぜい預言者であるという考えを持つに留まっていました。そういう経緯で、主イエスは、御自分のことを神の子ではなく、人の子と仰っていました。しかし、悪霊は、主イエスのことをただの人間とは思わず、神の子であり、メシアと明確に認識しています。例えば、「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」(マタイ8:29)、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(マルコ1:24、ルカ4:34)、「悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ。」と言いながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。」(ルカ4:41)とあるとおりです。悪霊は、霊的に鈍感な肉なる人間とは違て霊的存在やさかい、神の霊に対して敏感で明確に認識してる。

 

話が少し逸れましたが、ゲツセマネというオリーブ山に来て、どないな神の栄光を顕現したか。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を伴って行かれた時、主イエスは「我は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、我と共に目を覚ましていなはれ。」(マタイ26:38)と仰いました。これを文面どおりに受け取ると、もうすぐ十字架にかかって死ぬから悲しいというような人間らしい感情の吐露と解釈する人が殆どでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。主イエスは、いと高き神の御子であり、すべてのことを見通しておられましたので、十字架にかかる運命のことも予めご存知でした。しかし、予め知っていても悲しむべきことがあったのです。このゲツセマネの祈りでは、三つ重要な点があります。まずは、肉体的、及び精神的苦痛と肉なる存在の弱さ(弟子たちからも見捨てられ逃げられ、一人の弟子が裏切りを含む)です。次に、祈りの重要性です。最後は、全人類の罪の贖いのために自らを犠牲にして神の怒りを受けて、神から引き離される経験をすることです。

 

まずは、肉体的、及び精神的苦痛と肉なる存在の弱さについてです。

主イエスは受肉されて人間として地上におられた間も罪を犯されませんでした(イザヤ53:9、ペトロ一2:22、コリント二5:21参照)ので、侮辱、暴力等の苦痛と十字架刑という残虐な刑罰といった仕打ちを受ける理由が一切ありませんでした。権力者をはじめ、人々にどう思われるかは重要ではありませんが、当時の権力者であったピラトも「わたしはこの男に何の罪も見出せない」(ルカ23:4)と無罪を認めていました。身に覚えのないことで、侮辱、暴力等の苦痛と十字架刑という死刑を受けることになったらどう思うでしょうか。人間としては少なからず恐怖や悲しみといった感情を抱くのが自然でしょう。過去記事「主イエスの受肉」で説明したとおり、主イエスは、神の御子であるので神性を持ち、同時に受肉して人間でもあったので人性をも持たれていました。よって、主イエスも普通の人間と同じ感性をお持ちになっていました。事が起こる前にすべて分かっていたら、普通の人間ならば、危険や苦痛を回避するでしょう。誰でも事前に分かっていてわざわざ堪え難い程の肉体的苦痛(殴られる、唾を吐きかけられる、鞭打ち等)をむざむざ受けて、最終的に死刑である十字架刑を受忍できるでしょうか。また、晒し者のように大衆に見られることは、精神的にもつらいものがあります。実際は無罪にも拘らず、不当に逮捕されて死刑の刑罰を受けることで、人々からは重罪者かのように思われるからです。

このように、自分の身を一番に考え、肉体的、及び精神的苦痛を回避したがるというのは肉の思いでもあり、肉なる存在としての本能でもあります。いくら神の御子である主イエスといえども、受肉された人間として地上に来られて人性を持たれていたので、肉の思いをお感じになったのです。即ち、私たちが考えるような考えが頭をよぎったのです。それが、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)という御言葉から窺えますが、その直後に、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)と仰り、肉の思いを打ち消されました。要するに、肉の思いという誘惑に負けず、神を信頼し尽くすということです。この誘惑というのは、信仰から脱落する試みのことを指します。信仰が試される時にその信仰故に発生するあらゆる苦痛を回避することをしてはならないということです。それを回避する、即ち、逃げることが誘惑に陥ることであり、つまずくことを意味します。そういう訳で、イエスは、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい。」(マタイ26:41)と仰いました。これは、地上を生きる人間の本性である肉の思いから来る誘惑に陥らないようにという意味です。もしイエスが十字架の死を回避したならば、全人類の救いが成し遂げられませんでした。この時、イエスは人性から来る御発言をされましたが、それに負けることはなく、天の父なる神の御心を想い、信じて従順でした。しかし、三人の弟子たちは、誘惑に陥ってしまい、眠りました。これは、主イエスに従うという霊的思いよりも、眠気という肉の思いに負けていることから分かります。つまり、私たちの信仰生活においても、主イエス・キリストに死まで従順に従うと決心していても、肉の思いには容易に打ち勝つことができないということです。

ゲツセマネに来るよりもっと前に、主イエスは、弟子たちに対し、三度受難を予告されていました。マタイ16:21~28、マタイ17:22~23、マタイ20:17~19にあり、マルコとルカにもそれぞれあります。しかし、弟子たちは、その意味を理解していませんでした。弟子のペトロは、主イエスが最初の受難予告をされた時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(マタイ16:22)と言いました。すると、「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」」(マタイ16:23)と叱責されました。要するに、当時の弟子たちは、主イエスがこの地上で王になって治められると勘違いしていたのです。このことからも、偽預言者RAPTが言う地上で天国を成す(http://rapt-neo.com/?p=39156)等というのは明確に嘘であり、この地上で天国が出来るというのは有り得へん。過去記事「死後の世界」で述べたように、この世は仮の世なんやから。ペトロの手紙一2:11のとおり、聖書にも明確に書いてあるとおりや。かように、事前に三度受難予告をされましたが、弟子たちは肉の思いしかなく、理解せえへんかった。これがゲツセマネで主イエスが三度弟子たちの様子を確認された理由です。受難予告の預言が実現するためです。

また、ゲツセマネに来る直前に、ペトロをはじめとする弟子たちは、マタイ26:35のとおり、主イエスと一緒に死なねばならなくなっても主イエスを知らないなどとは決して言わないと誓っていました。それにも拘らず、ゲツセマネで祈り終わった後に主イエスが逮捕されると、弟子たち全員が主イエスを見捨てて逃げ出しました(マタイ26:56)。如何に肉なる存在は弱いかを示しています。人間の力だけでは何もできないというのはこういうことであり、また、信仰が薄く、肉の思いで生きていると、今は絶対に背教しないと思っていても試練や艱難に直面すると、いとも簡単に背教して信仰から脱落する。これは、拙者が複数の過去記事で散々宣べ伝えてきたことや。主イエスは、肉の脆弱性を知ってはったさかい、「心は燃えても、肉体は弱い。」(マタイ26:41)と言わはった。マタイ26:56、マルコ14:50のとおり、数年連れ添った弟子たちからも簡単に見捨てられ逃げられ、また、一人の弟子は師を裏切ることさえしました。しかし、これらは聖書の預言が実現するためやった。「我は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう。」(マタイ23:31、マルコ14:27)にあるとおり、預言者の書であるゼカリヤ13:7が実現するためでした。ユダの裏切りも聖書に預言されてる。主イエスは弟子たちが逃げ去ることをご存知でしたが、予め知っていても忠誠を誓った者たちに逃げられることはやはりつらいことです。また、イスカリオテのユダは裏切って滅びの運命になることも主イエスは心を痛められました。過越の食事をした時にも、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マタイ26:24)と主イエスは言わはった。裏切り者なんか出えへん方がええけど、聖書に書かれたことは必ず実現さかい、憐れみの御言葉を言わはったんや。裏切る者でも出なければ、罪が無い主イエスが逮捕されて十字架刑を受けるということは起こり得へんからや。せやから、主イエスの十字架は天の父なる神の御意志であり、既定路線であって回避することは有り得ず、十字架以外の道もあらへんかった。しかし、偽預言者や獣をはじめとする反キリストたちは、主イエスの十字架を失敗とか、他にも道があった等と言う。十字架での贖いは、イエス・キリストだけが成し遂げられた御業で、他には存在せえへん。通常の精神と健康状態では、肉体的な死(第一の死)というのは、誰もが回避したがるものです。しかし、神の御意志がそれを避けられないとした場合に、あんたは自己愛によって神に逆うて苦難や死を回避するか、それとも神の御意志に従ってあらゆる苦痛と死をも受けられるか。選択次第で運命が大きく変わる。主イエスの御言葉「自分の命を得ようとする者はそれを失うだろうが、我のために命を失う者は、それを得るであろう。」(マタイ十章三十九節拙訳)、「最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。」(マタイ十章二十二節拙訳)等を覚え、正しい選択をすることを願うてる。

 

次に、祈りの重要性です。

主イエスは弟子たちと共にゲツセマネに到着した時、十一人中八人を残して、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを伴われて進み、主イエスはその三人に「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈りなはれ。」(マタイ26:41)と言わはったが、彼らは目を覚ましてることがでけへんかった。主であるイエスの御言葉に従うよりも、眠気という肉の思いに勝てなかったのです。なぜなら、主イエスと繋がってへんかったからや。ゲツセマネでの祈りでも、三人の弟子たちからも少し進んだ所(マタイ26:39)、石を投げて届くほどの所(ルカ22:41)でお一人で祈りはった。これは、物理的距離を置いたことで霊的にも距離を置かれたことを意味する。そうなると、人間は何もでけへんくなることは主イエスが教えてはる。主イエスが、「我を離れては、あんた方は何もでけへんからや。」(ヨハネ15:5)と言わはったとおり、主イエスが弟子たちから離れると弟子たちは何も出来なくなり、眠りこけた。これは肉体的に眠る他に、霊的に眠っていることも示してる。霊的に眠っているとは、信仰が薄く、神の御意志を行えへんということや。もし、あの時点で彼らが信仰が固く、目を覚ましていたら、主イエスから目を覚ましていなはれと言われることもなかった筈や。当時、弟子たちの信仰が薄い証拠は、ゲツセマネに来る前に主イエスに忠誠を誓っておきながら、主イエスが逮捕された時に彼らが逃げたこと、後でペトロが三度も主イエスを知らないと言ったことから明白です。もし、当時のペトロの信仰が厚ければ、三度も主イエスを知らないと言うこともなかったやろし、主イエスから鶏が鳴く前に三度知らんと言うだろうと予告されることもなかった。しかし、主イエスはペトロのために、「信仰が無くならへんようにあんたについて願った。せやから、あんたは立ち直ったら、あんたの兄弟たちを強めなはれ。」(ルカ二十二章三十二節拙訳)と言わはった。せやから、ペトロは完全には棄教せず、三度も主イエスを知らんと言うたことで、激しく泣いて悔い改めた。そして、主イエスが十字架で死なれて葬られて三日目に復活された後、ペトロに三度も「ヨハネの子シモン、我を愛しているか。」と尋ねられ、ペトロが答えるという場面があった(ヨハネ21:15~19)。これは、主イエスが逮捕された後、鶏が鳴く前にペトロが三度主イエスを知らんと言うた罪を帳消しにするためやったと考えられる。それ程、主イエスはペトロを愛してはった。言うまでもなく、主イエスが愛しているのはペトロだけやない。かように、弱い姿こそが肉なる人間の姿や。天の父なる神と主イエスは、人間を愛してはる。しかし、肉の思いに身を任せて眠った状態で、目を覚ますことがなければ、神から見放されてまう。正確に言えば、神が救いの手を差し伸べているのに、人間の方が拒否してるんや。上述のように、霊的に目を覚ましていなければ、たちまち肉の弱い性質、罪深い性質に取り込まれて誘惑に陥り、罪を犯し、滅びる。それを克服するために、祈りが必要になる。聖書にこう書いてあることを知らんか。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らねばならんことを教える」(ルカ18:1)、「思慮深く振る舞い、身を慎んで、よう祈りなはれ。」(ペトロ一4:7)のとおりです。

それ以外にも主イエス御自身が祈りを大事にしはってたことは福音書からも明らかや。例えば、ルカ五章を読んでも分かるとおり、主イエスは、病人を癒したりといった奇跡と宣教をしておられ、その噂が広まって多くの人々が押し寄せて大変お忙しかったのです。しかし、「イエスは人里離れた所に退いて祈りはった。」(ルカ5:16)とあり、必ず、お一人になって祈りに専念されていました。日々、お忙しい主イエスが自ら模範となり、祈りの重要性をお示しになったのです。この世の人間たちは、多忙で時間が無いと嘆いてるが、時間はすべての人に平等に与えられてる。主イエスだけが地上に居てはった間に特別に時間があったという訳ではあらへん。結局、時間が無いというのは言い訳に過ぎず、優先順位の問題や。一日のうち、祈る時間が取れへんというのは、他に世俗的な事をしてるからや。主イエスは、「あんた方の富がある所に、あんた方の心もあるだろう。」(マタイ六章二十一節拙訳)と言わはり、まさに心が何処にあるかという問題や。もし、心が天にあるならば、世俗の仕事や用事ばっかに時間割いたらあかんし、祈りを疎かにしたらあかんやろ。真のキリスト者は、祈りありきで生活をするべきで、それが正しい信仰生活や。この世の仕事、学業、家事等の世俗的な事柄が中心になったらあかん。また、マルコ1:35にあるように、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ行き、そこで祈っておられた。」ともあります。その後、ペトロをはじめとする弟子たちが来て「みんなが捜しています。」(マルコ1:37)と言い、イエスは「宣教のためにガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」(マルコ1:39)とあり、多忙であったことが窺えます。日中忙しいならば、朝早く起きて祈ればよいということです。毎日そうしろということではありませんし、祈る時間を指定しているのでもありません。ただ、一人で祈る時間を確保するということが重要なのです。また、祈りについては、過去記事「偽預言者RAPTは回心不能の太陽神崇拝者(サタン崇拝者)」で書いたとおり、偽善者たちのように人前で祈らずに隠れるように祈り、くどくどと述べず、言葉数が多ければ聞き入れられると思わないこと(マタイ6:5〜8)を忘れてはなりません。

また、祈る内容も重要です。過去記事や当記事冒頭でも言及したとおり、利益信仰や利己心から来る祈りをしていてはいけません。ゲツセマネでの主イエスの祈りからも明白です。自分の願いをまったく言ってはならないということではありませんが、あくまでも、神の御心を優先させるのです。主イエス御自身は、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13~14)と仰っています。これを読んで、世の人間が願うような金持ちになりたいとか、出世したいとか、彼氏や彼女を作りたい、結婚したい、志望校合格、資格試験合格、有名企業や官公庁への就職祈願等を願うならばどうでしょうか。私はこのような類の願いは一切しません。まさに、上述したように、あなたの心のある場所が明らかになるからです。例示したような世俗的な願いを主イエスに願うならば、それはあなた自身が「自分はにわかクリスチャンです」と言っているようなものです。世俗的な願いをし、それを叶えるのは主イエスではなく、聞き耳を立てているこの世の神であるサタンです(コリント二4:4)。天の父なる神の御心ではない世俗的な願いをして、それが叶えられた場合、その人はサタンと繋がっているのです。たとえ、その人がイエスは主と言っていてもです。過去に何度も申したとおり、口先(上辺)だけでは何とでも言えますし、信仰から出る行いがすべてを表すのです。ですから、世俗的な願いをしてそれが叶ったからといって神が応えてくれたと勘違いしてはしゃぐのは、目も当てられないものです。

ゲツセマネでの主イエスの「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)という祈りは肉の思いからでしょうか。いいえ、決してそうではありません。本当の隠された意味は、他にあるのです。世の牧師や自称クリスチャンたちもこの「杯」の意味を分かっていない者が多いです。これを十字架と捉え、できるならば十字架を回避したいという願いを主イエスがしたというとんでもない解釈や説教をする者がいますが、間違っています。詳細は、次の項目に続きます。

 

最後に、全人類の罪の贖いのために自らを犠牲にして神の怒りの杯を受けて、神から引き離されることについてです。

律法にあるような動物の犠牲では全人類の罪の贖いはできません。それ故、天の父なる神は御子イエスを世に遣わし、それを可能にしたのです。神の怒りの杯を受けることは肉体的、及び精神的苦痛は然る事ながら、霊的苦痛があります。それが神と引き離されることです。実は、霊的苦痛が一番つらいものなのです。一般に、このゲツセマネの祈りの後すぐに逮捕され、そこからキリストの受難が始まったと思われていますが、ゲツセマネに到着した時から受難が始まっていたのです。それ故、主イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(マタイ26:38)と仰ったのです。ここで「死ぬ」というのは、十字架での死ではなく、霊的に天の父なる神と切り離されることを意味します。

主イエスは、受難前は、常にいと高き方である神を父とお呼びになっていましたが、十字架上では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46、マルコ15:34、詩編22:2参照)と明らかに距離感のある言葉遣いとなっています。主イエスがゲツセマネで受難された時は、天の父なる神から引き離されたかのような苦しみをお感じになられたのです。しかし、それでも決して楽をしたり、苦難を退けたいという肉の思いではなく、神の御心を優先させました。それが主イエスのゲツセマネの祈りでも表れており、この杯をわたしから過ぎ去らせてくださいとも祈りましたが、主イエスが仰ったのは、十字架の回避を願ったのではありません。杯というのは、聖書から解釈すれば、神の怒りを意味します。根拠は、詩編11:6、詩編75:9、イザヤ書51:17、エレミヤ書25:15、ヨハネの黙示録14:10が挙げられます。主イエスは、御身から神の怒りを過ぎ去らせるように願ったのです。神の怒りというのは、本来は、罪の報酬です。罪を犯さなければ、神の怒りを受けることはありません。主イエスは、神の御子として完全であられ、罪を犯しませんでした。それ故、神の怒りを受けることの重大さ、耐え難い程の重荷であることを実感したのです。「天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:43~44)とあり、苦しまれた様子が示されています。そんな中でも天の父なる神は、神の御使である天使を御子イエスに送って元気づけられました。ここからも天の父なる神の愛が分かります。父なる神にとっても御子の犠牲は悲しいものだったのです。これは霊的な苦しみです。最終的な裁きではありませんが、罪深い人間が神の怒りを味わうのと、完全無欠な主イエスが人間として神の怒りを味わうのとでは感覚がまったく違うのです。例えるならば、ガラスと石の違いのようなものです。透き通って綺麗なガラスは圧力が加わるとひび割れたりダメージを受けやすいですが、濁って汚い石は比較的丈夫なものです。

複数の過去記事で申してきたように、死は罪の故に発生する報酬であり、神と永遠に切り離されることを意味します。しかし、主イエスは罪を犯されませんでした。よって、本来、主イエスは死を味わう必要が無いお方で、死だけでなく、鞭打たれ、侮辱され、唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、茨の冠をかぶせられ、葦の棒で頭を叩かれることも不合理なことでした。主イエスが最も恐れたのは、死そのものや侮辱や暴力を受けることではなく、天の父なる神と引き離される霊的な死のことでした。主イエスが受肉されて地上に来られてからも、神の御心どおりに生活されました。しかし、人々の罪を背負われて神の怒りをお一人で受けられ、また、御父と御子という特殊な関係が一時的ではあっても切り離されることが死ぬほどの苦しみ、悲しみだということをお感じになったのです。それは旧約聖書の預言者の書にも書かれています。

 

旧約聖書 イザヤ書 53章4、12節

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ

(中略)

多くの人の過ちを担い

背いた者のために執り成しをしたのは、

この人であった。

 

このイザヤ書53章では、メシアの受難、即ち、イエス・キリストの受難について書かれています。ここでもはっきりと神の手にかかったとあり、これは主イエスがゲツセマネでの祈りで、天の父なる神に過ぎ去らせるように願った「杯」のことです。神の怒りは、それ程強力なものです。それを祈りによって、肉の思いを完全に退け、すべてを神の御心の実現のために尽くすことを決心され、あとは、神の杯を従順に飲まれました。ですから、主イエスは、逮捕されてもジタバタして逃げようとせず、イザヤ書53:7のとおり、ピラトから尋問されても黙ったままで、十字架という死刑を回避するために弁明することもありませんでした。主イエスの行動は聖書の預言どおり、神の御言葉どおり、即ち、神に従順だったのです。その結果、主イエスは、「神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償う」(ヘブライ2:17)ことがおできになるのです。また、「キリストは、肉において生きていておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブライ5:7~10)と書いてあるとおりです。そのような偉大な神の御子イエス・キリストを信じない不信仰の者、主イエスの教えを守らない、神の掟も守らないような信仰の薄いにわかクリスチャンたち、イエスの御名を公に言い表わさない者、イエスの教えにとどまらない者、その他聖書に反する言動をしたり、邪説を唱えて人々を惑わしたり、人々を支配しようとする者たちは、反キリストであり、霊的に死んでおり、神の怒りをまともに各人が受けることになるのです。その極みが第二の死です。

 

ゲツセマネという名前は、油絞りという意味です。また、そこはオリーブ山でもありオリーブを絞ってオリーブ油を作っていたと思われます。過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」で説明したとおり、油は、聖書では聖霊を象徴しています。主イエスが神の怒りをお受けになり、押しつぶされて油を絞り出す、聖霊を出すということを暗示しているように思えます。主イエスが地上で宣教されていた間は、人々に聖霊はまだ与えられませんでした。聖霊が与えられるのは、十字架での死、それから三日目に復活、昇天という段階を経てからでした。それは、主イエスが「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16:7)という御言葉から分かります。

まとめると、このゲツセマネの祈りは、メシアである主イエスの受難であり、肉なる人間の弱さ、祈りの重要性を示されるとともに、神の御心を最優先して神に従順であること、死に対する霊的戦いにおける勝利、天の父なる神の愛、神の栄光を垣間見ることができます。最初の人間であったアダムとエバは、神の「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:17)という御言葉を信じなかったために、死が人間にもたらされました。要するに、神への不信仰と不従順の報いが死ということです。しかし、主イエスが受肉されて人間として地上に来られ、死まで父なる神への信仰を持ったまま従順を貫いたので、死に打ち勝ったのです。主イエスがアダムとエバの堕落を人間として回復されたのです。それを成し遂げたことによって、神と人間がイエス・キリストを通してのみ和解できるようになったのです。イエス・キリストを神の御子、メシア(救い主)であると信じること、その御言葉と御業をも信じて、神の掟を守り、神の御心を実行し、神に従順のまま人生をまっとうすることが救われることになるのです。よって、生きている現段階で、自分は救われているなどと言ってはいけないのです。生きている今、救われているとか、もうすぐ携挙される等を言っている人たちは、信仰が薄い者たちであり、神に従順ではありません。彼らは、キリストに従順だと見せかけているだけで、実際は違います。上述したように、艱難や試練に遭うとたちまち離散していく人たちです。

人生を死まで主イエス・キリストに従順でまっとうしてこそ勝利者となるのです。過去記事「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」でも取り上げましたが、以下の聖句のとおりです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 2章10節

死に至るまで忠実であれ。そうすれば、命の冠を授けよう。

 

人生は、良いことばかりではありません。悪いこともあるでしょう。何で自分はこんな目に遭わなければいけないのかと思うことも多くあるでしょう。そのような苦難に直面したら、あなたはすぐに肉の思いで、怒りや恨みを抱いたり、暴言を吐いたり、運命や神を呪うことさえしていないでしょうか。神の栄光は、人の目から見て良いことばかりではありません。メシアである御子イエスが受けた受難の結果は、「見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ書53:2)のとおり、人の目から見たらとても格好の良いものとはいえませんでした。しかし、ゲツセマネでの祈りから十字架までが全人類の罪を償う道を開くことになる神の栄光だったのです。これは、他の誰にも真似できない神の御業です。イエス・キリストが様々な苦難に遭われても、その中でも信仰を決して失わず、神への祈りを大事にし、ひたすら神の御心を実行されていました。それは、天の父なる神の栄光を現すためです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16~17)のとおり、神は人間を愛されています。それ故、ゲツセマネにおける御子イエスの三度の願いにも沈黙され、御子を死に渡されました。それも私たち人間のためです。父なる神は、私たちのような人間を救うために、御子イエスを犠牲にされたのです。そして、その神の御心に忠実に従われた御子イエス、イエスの犠牲の結果として聖霊が御子を信じる人間たちに真理を教えてくださるのです。このような素晴らしい神の恵みにあずかれるのは、どのような人間でしょうか。よく考えれば、そんなに簡単な訳がないということが分かるはずです。このことは過去にも述べてきたとおりです。

 

総じて、ゲツセマネでの神の栄光は、イエス・キリストの受難、その結果実現した全人類の罪の贖い、天の父なる神との分離と後の復活による関係回復、聖霊を人間にお与えになる等を包括するものです。日々、主イエスを模範とし、御言葉を守り、祈り、利己的で自分たちが願う生き方ではなく、神の目にとって良しとされる正しい信仰生活を送り、死まで神に従順で人生というレースを全力で走り切りましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上