こんにちは。

 

今回は、前回の続きで、ヨハネの黙示録20章「千年間の支配」にある、世間で言われる所謂千年王国というものの結論について述べます。

 

そう言えば、過去記事「聖書預言の正しい解釈方法」でも紹介したものですが覚えていますでしょうか。その当時、誰が私の言うことを真剣に受け取って考えたでしょうか。以下の聖書箇所は、過去記事「携挙の真実」でも引用しました。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 3章8~13節

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は、盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去るでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

 

この世の滅びについては、この聖句だけではありませんが、この世が滅び去ることが10節と12節で二回も書かれて強調されています。上述したように、キリストの再臨時に火と硫黄で焼き尽くされて、この世は滅ぶのです。そして、ペトロは、その後に千年王国とは言わず、「新しい天と新しい地を待ち望んでいる」と明確に13節に書かれています。こういう所もきちんと読まず、ヨハネの黙示録20章だけを読んで、千年王国という存在があると勘違いするのです。ペトロは千年王国を待ち望むなどと言っていません。また、千年についても当該聖句で言われているとおり、「千年は一日のよう」とあります。前回記事「千年王国の真実 前編」でも書いたように、詩編90:4でも同様のことが書かれています。したがって、ヨハネの黙示録20章で書かれている「千年」というのは一日を指すのです。私が宣べ伝えてきたことと、聖書をきちんと読んで真理を悟った人は分かるでしょうが、重要な神の掟の一つである安息日がこの問題を解く鍵です。安息日については、過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」等で、既にその重要性を説明しました。安息日は、天地創造の時からあり、代々にわたって神と神の民の間のしるし(出エジプト記31:13)です。安息日は、創世記2:1~3のとおりで、神は御自分の仕事を完成されたので、仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別されました。また、十戒が与えられた時、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記20:8)と主なる神はお命じになりました。心に留めるというのは、気楽な印象を与えるので好ましくなく、本来は、「覚える」と言う意味です。なお、英語では「Remember the Sabbath day, to keep it holy.」となっています。Rememberが覚えるという意味なのは簡単だと思います。つまり、安息日を覚えて、これを聖別しなさいという主なる神からの御命令です。それにも拘らず、多くの自称クリスチャンたちは、これはユダヤ人のものだけだとか、ユダヤ教だとか、律法主義者だとか言い訳をして、遵守していません。私が考えるのは、人類歴史とこの世界は、天地創造から六千年でキリストの再臨をもって幕を閉じ、その後の第七の日は安息の期間、即ち、神が厳選して新生した人間だけが集められ、新しい天と新しい地の世界で、神とともに安息にあずかるということです。新しい天と新しい地では、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)とあり、安息の様相が明らかです。したがって、黙示録20章の「千年」は一日であり、それを六回言及することで、この世の歴史が六千年であることを表しているのです。安息と関連する内容は、以下の聖書の箇所にもあります。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章3~5節

信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。

「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』

と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。

 

この聖句の内容は、前章の3章でも書かれ、4章で再度繰り返す程重要な内容ということです。途中、詩編95:11も引用しています。神は、なすべきことを六日間、即ち、六千年で今の世界の歴史を終えられることを創世記の冒頭で暗に宣言されていたのです。キリストの再臨後、最後の審判を終え、獣と偽預言者のような反キリストとサタン、悪魔や陰府も火の池(地獄)に投げ込まれ、第七の日以降から永遠に本当の安息につかれるということです。その時には、悪は完全に滅びているので、もはや神の民は罪とは無関係になり、神は人間を常に見張ったり、裁くことも考えなくてよくなるからです。この第七の日には終わりがありません。それは創世記からも明白です。天地創造の時、第一の日から始まり、第六の日が終わるまでずっと「夕べがあり、朝があった。」と繰り返していましたが、第七の日の後にはこれがありません。また、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2:2)とあり、六日で仕事を完成、即ち、この世の六千年という歴史を、最後に悪を滅ぼして、神が人類歴史を導く仕事を終えることで完成ということです。つまり、第七の日が終わることのない時、即ち、永遠の安息である、黙示録21章以降に書かれる新しい天と新しい地のことを示しているのです。

ヘブライ4:11で言われているように、不信仰の者は論外ですが、クリスチャンと自称しているにわかクリスチャンでも安息日を守らない者は、不従順であり、堕落した者といえます。このような者たちは、ヘブライ4:3、詩編95:11で、神が「決してわたしの安息にあずからせはしない」と仰ったとおり、新しい天と新しい地という安息の世界に入れないのです。この世で安息日を守らない人は、天の国での安息をも拒否している証拠なのです。ヘブライ4:9に、「安息日の休みが神の民に残されている」とあるとおりです。過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」や「ハロウィンと罪の報酬」で説明してきましたが、律法がどうでもいいとか旧約時代で終わったことだと主張する律法廃止論者のにわかクリスチャンは、自ら堕落した者、偽り者(ヨハネ一2:4)と彼ら自身が証言しているのです。また、昔のファリサイ派のユダヤ人も、今のユダヤ教徒も、安息日はモーセの律法にあるからという理由だけで遵守しており、主イエスへの信仰はありませんし、聖書の真理も理解していません。このように、律法遵守だけ、即ち、自分の力だけで義を得ようとする者たちを律法主義者というのです。そして、その律法すら守らないにわかクリスチャンはユダヤ教徒に劣り、決して天の国に入ることはできません。理由は、主イエスの以下の御言葉です。

 

新約聖書 マタイによる福音書 五章二十節(拙訳)

確かに言うとく。あんた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義よりも優れてなければ、あんた方は決して各天の国に入ることがない。

 

複数の過去記事で散々述べてきましたが、律法廃止論者のにわかキリスト者は、聖書を読んで真理を理解していないことが明白であり、ただ虚しく「主よ、主よ」と言っても、後で、主イエスから「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。」(マタイ七章二十三節拙訳)と言われ、泣きわめいて歯ぎしりするでしょう。ここで、ヨハネの黙示録20章1~9節を読んでください。全部引用は少し長いので割愛し、各自で聖書を確認ください。既に前回記事「千年王国の真実 前編」で手掛かりを出したように、この短い聖句の間で、千年という言葉が六回書かれています。また、詩編90:4やペトロの手紙二3:8の内容から、「神にとっては千年は一日のよう」ですから、即ち、千年が六回で六千年を示唆します。黙示録20:1~9で語られていることは、千年を除いて読めば、過去からキリストの再臨(黙示録20:8,9)までの地上の様子、新しい天と新しい地の統治の様子(黙示録20:4,6)を順不同に暗示的に描写しており、その中に千年を6回散りばめてこの世が6,000年であることを表し、キリストの再臨があって、それから永遠の安息にあずかる次の世が来ることを表しているのです。よって、各言葉と千年との関連性はありません。ヨハネの黙示録は、必ずしも時系列ではないことも頭に入れなければいけません。この書物が時系列で書かれているなどとどこにも記載がないからです。前回記事「千年王国の真実 前編」で批判したように、黙示録20章をすべて文字どおり解釈しなければいけないという反キリストの教えが真理から遠ざけるのが実感できたと思います。これを文字どおりに読んでいては、絶対にこの真理にたどり着けないからです。千年王国という言葉は、いわば、反キリストが作り出した造語です。いくら聖書をよく読んでも天地創造から六千年後の正確な日付を弾き出すことは人間には不可能です。敢えて、神がそうなさったのです。そうでなければ、「主の日は盗人のように来る」と曖昧にしていた言葉が明確に知られることになるからです。現代のユダヤ暦というのも不正確で無意味です。複数の過去記事で申したように、そもそも、日付を特定することに何の意味も無いのです。なぜなら、特定の日付までに悔い改めるとか、真のクリスチャンになるというのではないからです。期限の直前になって慌てて準備するような邪な考えを抱く者は、真のクリスチャンには絶対になれません。時機を逃さないようにと過去に何度も私が述べてきたとおりです。今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗していたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(詩編95:7,8、ヘブライ3:15、4:7)のとおりです。今の時代は、おおよそ六千年の完了に近づいています。正確な日付は分からなくても、大体は推測可能です。なぜなら、真のクリスチャンは、主イエスが「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(マタイ24:33)と仰ったことを知っており、キリストの再臨の兆候が見られれば、その時が近いと悟ることはできますし、何度も「目を覚ましていなさい」とも主イエスが仰ったことを肝に命じており、いつその時が来てもいいように準備を整えておくから、たとえ世に現れる兆候に気が付かなくても、主の日が早まっても困らないのです。上記で歴史は六千年で終幕となると申したように、過去記事「地球球体説と地動説という嘘と太陽神崇拝」で軽く言及したダーウィンの進化論は紛れもなくデタラメ、かつ、虚偽の理論です。神の御言葉である聖書を否定するために作られたサタンの理論です。進化論を基にして、地球は約46億年前に出来た等と科学者たちは言っているのですが、こんな何の根拠も無い言説を信じてはいけません。この46という数字も悪意を感じます。これも悪魔崇拝者が好んで使う数字というのは知っている人は知っています。進化論ができた理由は、彼らが地球平面説(Flat Earth)を否定するのと同じく、創造主である神への冒涜と人間を騙して聖書の御言葉を人々に信じさせないようにするためです。

 

過去記事「携挙の真実」でも言及した、ノアの洪水についても再度見ておきましょう。創世記7:6と7:10に二回に渡って六百歳ということが書かれています。年齢についての言及は普通なら一回でいいはずですが、二回も繰り返すのは強調のためです。また、非常にキリのいい数字です。桁が一つ違うだけで、六千を暗示するかのようです。そして、ノアの時代では、ノアが六百歳の時に水によって当時の世界を滅ぼされましたが、終わりの時は、上述、及び過去に説明済のとおり、火と硫黄で世界を焼き尽くして滅ぼされます。ノアの洪水は、終末の時の暗示ということが感じ取れます。また、主イエスもそう仰っています。

 

新約聖書 マタイによる福音書 24章37~39節(私訳)

しかし、ノアの時のように人の子の再臨も同じようになる。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気付かなかった。人の子が来る場合も、このようである。

 

上記の「人の子」とは、主イエスを指します。キリストの再臨は、ノアの時と同じと明確に仰っており、これは、神に従順であったノアとその家族を除く、神に不従順な他の者たちはすべて滅ぼされるということです。主イエスの御言葉が、私の説明を明確に裏付けます。また、以下の聖句もこの世と新しい天と新しい地の世界を預言しているように思えます。

 

旧約聖書 ホセア書 6章2節(私訳)

二日の後、主は我々を生かし

三日目に、立ち上がらせてくださり、我々は御前に生きる。

 

私は、この聖句を読んで、以下のように解釈します。

上述のとおり、神にとって千年は一日なので、二日は二千年を指します。主イエスの十字架によって、我々の罪を贖ってくださり、罪の奴隷から解放されて”生きる”ことができます。即ち、主イエスの十字架から二千年が過ぎる頃にキリストの再臨があり、この世はすべて滅び去って、三日目以降、立ち上がるとは復活を指し、キリストの再臨前に眠りについた真のクリスチャンが復活し、新しい天と新しい地での生活が始まり、主の御前で生きていくということです。この聖句で四日目以降がないことから、三日目以降は永遠だということであり、即ち、新しい天と新しい地の世界を暗示しています。主イエスの十字架から二千年後ということは、過去記事「ダニエル書の七十週預言の真実」で説明したように、十字架があったのは31年頃ですから、その二千年後にあたる2031年頃にはキリストの再臨があるかもしれないということです。過去記事「現在進行で人類は選別されている」で引用したとおり、マタイ24:22のとおり、事情によっては早めてくださるかもしれませんが、具体的時期については不明です。また、過去記事「日本の将来と真のクリスチャンの姿勢」と「現在進行で人類は選別されている」で言及したように、2015年に改定された国連のアジェンダ21に則って、2030年までにNWO支配層は現世界人口約七十億人から95%を削減して五億人以下にしようと現在も人口削減を実行中です。これも時期としては奇妙な一致を見ることができます。2031年より前の2030年までに世界規模で悪の体制を確立することがNWO支配層の目標なのです。現実に、彼らはアメリカのデンバー空港に巨大な施設を建設しました。参考までにこちら(Naverまとめ)。ご覧のとおり、悪魔がらみであり、地下には一万人程収容できるシェルターを造っており、サタン崇拝者たちはキリストの再臨に備えています。このシェルターは核戦争に備えるのではなく、キリストの再臨に備えているのです。なぜなら、彼らは聖書を読んで、キリストの再臨時は火と硫黄が降って来ることを知っているからです。地上は危ないから地下に逃げるつもりなのです。むしろ、彼らには地下しか逃げる所がないのです。また、広いアメリカで何故コロラド州のデンバーなのかは、そこがアメリカの中央付近に位置する内陸部だからで、海難も避けているのです。西海岸や東海岸は海に面しており、津波等の海難に遭う可能性が高いからです。アメリカの富裕層がこぞって内陸部の土地を買い漁っていることもその証拠です。雲の形とかポールシフト等はどうでもよく、富裕層が終末の対策をしているという点のみ、参考までにこちら(In Deep)。また、ロシアでも地下シェルターを造られています。参考までにこちら(In Deep)。ロシアの地下鉄も、不自然な程に地下深く掘っており、シェルターを兼ねています。表向きの口実は災害対策としていますが、私は悪魔崇拝者たちのキリストの再臨対策だと思っています。災害対策なら、いつ起こってもおかしくないのですから、今の時代よりもっとはるか前から準備済のはずだからです。鈍感な人間には何も分からないし、分かろうともしないでしょうが、サタンや悪魔は、キリストの再臨時期をおおよそ見通していることが分かります。だから、今のうちに悪魔崇拝者の人間たちは、悪魔や悪霊から知恵を借りて、せっせと各自でできる限りの対策を進めているのです。このような行動から、過去記事「現在進行で人類は選別されている」で申したとおり、火星移住計画などは真っ赤な嘘で、絶対に実現しないことが明白です。火星も太陽系、銀河等も存在しないのです。だから、彼らは、地球の地下や内陸部に逃げ道を求めているのです。すべてそれらが無駄なことだとは知らずに。聖書に「人々が「無事だ。安全だ」と言っている時に、突然、破滅が彼らを襲います。妊婦の産みの苦しみのように、彼らは決してそれから逃れられません」(テサロニケ一 五章三節私訳)、「燃え盛る炎の中、神を認めない者たちとわたしたちの主イエス・キリストの福音に聞き従わない者たちに罰をお与えになります。」(テサロニケ二 一章八節私訳)、「(自然界の)諸要素は熱で溶け尽くされ、地とそこにあるものは焼き尽くされる」(ペトロ二3:10,12私訳)とあるとおりです。上記や過去記事でも十分ですが、未だに、キリストの再臨時に悪人が生き残ると信じている人にとどめの言葉です。

 

旧約聖書 イザヤ書 13章9、22節

見よ、主の日が来る

残忍な、怒りと憤りの日が。

大地を荒廃させ

そこから罪人を絶つために。

(中略)

その日が遅れることは決してない。

 

上記のように、主イエスは、再臨を早めることはあっても、決して遅れることはなく、最後には悪人を容赦無く滅ぼし尽くされます。一人でも多く悔い改めるのを忍耐強く待っておられるのです。悪がのさばるのを許すということでは決してありません。聖書をよく読まれた人は気付いていると思いますが、七という数字が特別な意味を持ちます。安息日然り、安息年(土地は六年の間種を蒔き、刈り入れ、七年目は休ませる)(出エジプト記23:10~11)も、奴隷の解放(六年間奴隷として仕えたら七年目は自由の身となる)(申命記15:12)もあります。また、以下の聖句のとおり、主イエスの姿が変わるという所も興味深いです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 17章1~3節(私訳)

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

 

ここは気付きにくく、読み流しがちな所ですが、六日と出だしにあります。六日経った後、即ち、これは七日目の出来事なのです。私には、これは、キリストの再臨時の予兆に思えます。主イエスが栄光の光に満ちて天から降って来られるのもこのような様子でしょう。この六日も六千年を暗示しているのです。また、それだけでなく、モーセとエリヤが出現することで、キリストの再臨の様子を示しています。モーセは、百二十歳で肉体的な死を迎えました(申命記34:7)。エリヤは、生きたまま天に上げられました(列王記下2:11)。このように、キリストの再臨を機に、来たるべき次の世は、死んで復活した人と生きたまま携挙される人が主イエスとともにいることができるということです。こんなに分かり易く教えてくださる天の父なる神、主イエス、聖霊を賛美します。

 

結論として、世間で考えられている千年王国というのは存在しないということです。上述したように、千年王国というのは聖書にその言葉自体ないですし、架空の概念であり、反キリストの教えで彼らの造語です。聖書を誤って解釈した人々が、過去から現在に至るまで、勝手にそう呼んでいるに過ぎません。聖書に、ヨハネの黙示録20章「千年間の支配」とあり、支配であって、国ではないことが明白です。要するに、主イエス・キリストと神の民が、この世の六千年の歴史が終わった後、新しい天と新しい地の世界を、第七の日以降永遠に統治していくということです。上述のように、黙示録20:1~9で語られていることは過去からキリストの再臨までの地上の様子、新しい天と新しい地の統治の様子を順不同に暗示的に描写しており、その中に千年を六回散りばめてこの世が六千年であることを表し、キリストの再臨があって、それから永遠の安息にあずかる次の世が来ることを表しているのです。この世がキリストの再臨の時に、火で焼き尽くされて滅び、キリストに結ばれて眠りについた人が最初に復活し、大艱難を経て神が事前審判の上、厳選されたごく少数の生きている人が携挙されて、神が再創造した新しい天と新しい地に主イエスとともに行き、そこでいつまでも平和に暮らしていくのです。悪人(神に属する人間以外)は、最後の審判を経て、生前の行いに応じて裁かれ(黙示録20:12)、命の書に名が無い者は火の池(地獄)に投げ込まれるのです(黙示録20:15)。

 

なお、命の書は、黙示録3:5にも言及があり、勝利を得る者、即ち、死まで主イエスに従順な者は、命の書から名が消されることはないとあります。しかし、勝利を得ない者(世に属する人間)、即ち、臆病者、不信仰の者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべて嘘を言う者(黙示録21:8) や背教したり、真理を知っても罪を犯し続けたり、神の掟や律法に従わない等、主イエスに不従順な者は、命の書から名が消され得るということを忘れないでください。形式的にクリスチャンであれば大丈夫ということでは決してありません。この点も複数の過去記事で散々述べてきたことです。命の書から名前が消され得る根拠は旧約聖書にあり、「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。」と主はモーセに仰いました(出エジプト記32:33)。また、他にも、申命記9:14「天の下からその名を消し去って」、申命記29:19「主はその名を天の下から消し去られる」、詩編69:29「命の書から彼らを抹殺してください。あなたに従う人々に並べてそこに書き記さないでください。」等と関連記述が見られることから明らかです。

 

この世の歴史が六千年で終わることは、ヨハネの黙示録20章に加えて創世記や旧約聖書の預言者の書や新約聖書の福音書と手紙からも裏付けられて確信に至ります。このように、聖書はすべて繋がっているのです。今回のことで実感できたと思いますが、聖書の一部分だけを読んでも絶対に聖書の真理を知ることはできません。このように聖書はあらゆる箇所、あらゆる表現によって、分かる者には分かるようにできています。しかし、聖書の真理が分からない者、悟らない者、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」(マルコ4:12)人が、にわかクリスチャンであり、その数が非常に多いことは過去に何度も申してきたとおりです。その大勢の人々は、狭い門を見出せず(マタイ7:13~14)、真理から逸れ、自分たちは大丈夫と思い込んでいます。また、過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」で語ったとおり、耳触りのいい作り話をする偽教師らに耳を傾けて従っています。私の説明を信じるか信じないかは、当然、あなたがたの自由です。私は、一度も私の説明を信じるようにあなたがたに強制したことはありません。それなのに、勝手に強制されたと思い込む被害妄想から、私が傲慢等と肉の思いから反抗する者がいることは確かです。既に、過去記事「聖書預言の正しい解釈方法」と「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」で既に申したように、私について、私の言うことについて評論、他人と議論したところであなたがたには益どころか、害しかありません。信じられないならば、信じなくていいです。ただ、信じないならば、私のブログを読みに来ないでいただきたい。読んでも信じないならば無駄だからです。勝手に信じたいことを信じていればよろしいでしょう。しかし、愛する兄弟たち、聖書をよく読み、吟味して、何が正しいのか、何が真理なのか見極める目を養いなさい。過去から私が熱心に伝道してきた内容を思い起こしてください。少しでも自由がある今のうちに、聖書と私が宣べ伝えたことを繰り返し読んで、あなたがたの血となり肉となるように努めなさい。私が言うことは、多くの人にとって厳しいと思われる傾向にあります。しかし、これが聖書の真理なのです。私が言うことが厳しいと思うのは、それは聖書の真理が厳しいことを意味します。世間の教会等では牧師が「イエス・キリストを信じて受け入れれば天国に行けます。」と軽々しく吹聴し、モーセの律法は無視し、聖書のほんの一部分だけの話に1~2時間も使って無駄話をします。それで讃美歌を歌って、虚しい祈りを献げ、献金と称してお金をかき集めています。こういうことをしているようでは、聖書の真理からは程遠いです。聖書に、世の教会がするような礼拝の仕方をしなさいという指示はどこにもありません。ですから、教会に通う人々や偽預言者と偽教師に従う人々は、私の言うことが厳しく感じられ、聞く耳を持ちません。彼らが神に心を頑なにされているようにさえ私には思えます。人は、自分にとって居心地が良い所に属したがるものです。過去に述べたように、属する所が違うと受け入れられないのです。水と油のようなもので、決して混じり合うことはありません。神に属する人間は、世に属する人間とは相容れないのです。にわかクリスチャンは、行いがいつも欠けています。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 2章17節

行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 

複数の過去記事で何回も宣べ伝えてきましたが、上記のヤコブの手紙にあるとおり、信仰は行いで示す必要があります。口先だけでは意味の無いものです。また、内心で思っているだけでも意味が無いものです。主イエスを信じると言いさえすれば、行いはどうでもいいと言う者や、話す言葉と行いが一致しない者は偽り者です。また、罰が怖いとか、地獄に行きたくないからというような理由でクリスチャンでいる人たち、聖書の真理を愛さずに従わない人たち、表向きの善行をして他人に知ってもらおうとしたり称賛を求める者たち、携挙が早く起きて欲しいとしきりに言っている者たち等は、にわかクリスチャンです。このような人たちを避けなさい。天の父なる神と神の御子である主イエスを畏れ、主イエスの十字架に心から感謝し、主イエスを落胆させることを避け、日々自分を捨てて自分の十字架を背負い、信仰の義を体現し、神の掟を守り、愛に歩む人でなければ、天の国には入れません。

 

前回記事では、私はコメントを私の方からあなたがたに求めました。何故だか分かりますか。あなたがたに目覚めて欲しいからです。当ブログを読まれている人は、前回記事にコメントされた5人だけということはありません。実際、訪問者はかなり多いのですが、コメントをしなかった多数の人々は、一体何を思って、当ブログを読みに来ているのでしょうか。聖書の真理を学ぶためですか。それとも、ファリサイ派の人のように言葉尻をとらえようと狙っているのでしょうか。悪意のある者も中にはいるでしょうが、そのような人は、早々に悔い改めるべきです。悪意の無い人も、兄弟たちも、聖書の真理が分からないから、ただじっと答えを待っているだけなのでしょうか。間違うのが怖くて何も言えないのでしょうか。私は、間違った解釈をしても、前向きに考えて発言する姿勢の方が良いと思います。要するに、間違うのが怖くて何もできないというのは臆病なのです。もし、聖書を読んでおらず、本当にまだ何も分からず、知識が著しく不足しているなら、速く聖書を読み進めて複数回通読してください。のんびりしている余裕は無いと散々過去に述べてきました。例えば、学校の教室でも、積極的に手を挙げて発言しようとする生徒と、恥ずかしがったり、間違うのが怖いからと終始黙って顔を伏せている生徒とどちらが良い生徒でしょうか。また、どちらのタイプがより積極的に勉強し、成績が良いでしょうか。積極的に勉強しない人は、自分で考えたり、自分で熱心な努力をしません。学校に仕方なく行き、宿題だけして落第しない程度に試験を乗り切って無難な学生生活を終えるのは良い学生でしょうか。向上心のかけらも見られません。これは信仰と一緒です。誰かに言われるまま、社会の流れのまま生きていると、その他大多数と同じ運命をたどるだけです。間違えても指摘されることで間違いに気付き、素直にそれを受け入れることで軌道修正ができます。もし、間違いに気付かなかったり、頑なになって間違いを認めようとせずに軌道修正できなければ、あなたの運命は好転しないでしょう。勿論、好き放題、闇雲に発言すれば良いというものでもありません。過去記事「聖書預言の正しい解釈方法」等で述べたように、無意味な論争を避けるのは当たり前です。きちんと聖書を読み、自ら深く考え、熱心さを言葉で表しなさい。姿勢から変えなさい。そうすれば行いも変わります。もっと積極的に聖書の真理を知ること、神の御言葉を知ること、神に義とされる行いをすることに貪欲になってください。教会という建物がないし、物理的に近くにいなくてもネットを通じて語り合うことはできますし、落ち込んだり不安になれば励まし合うこともできます。弱さを隠す必要はありませんし、汚点でもないのです。そのことも過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」で宣べ伝えたとおりです。兄弟たち、大胆に主イエスの道に向かって歩み、道を逸れることなく、主の安息にあずかろうではありませんか。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上