こんにちは。

 

今回は、聖書の預言解釈の方法について書きます。

 

多くの人が聖書の年数について誤った解釈をしています。その結果、とんでもない解釈をして、聖書の預言は外れるとか、当てにならないと外部の人から批判の的にされることがあります。これは聖書の預言を貶める行為であり、サタンの仕業でしかありません。信仰が薄い故にサタンや悪霊に惑わされたにわかクリスチャンや興味本位で不信仰の者がパズル感覚で聖書を誤って解釈し、それを真実と誤信し、自慢気に世間に発表して、後でそれが誤りだと露呈し、偽物だったと判明するのです。過去記事「ダニエル書の七十週預言の真実」や「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」で紹介したように、過去にあった携挙騒動や再臨運動がまさにそれです。勝手に勘違いして外れただけで、聖書が誤っているとか当てにならない等と人々は安易に考えますが、それは間違っています。それでも聖書を信じたくないなら、信じなくても構いませんが、聖書を信じる人に批判や罵声を浴びせるべきではありません。

 

まず、自分たちが正しいという思い込みを捨ててください。自分たちが正しい解釈をして、正しい信仰を持っているという高慢を捨ててください。ただ、聖書と真摯に向き合って考えてみてください。

何も分かっていないのに、肉の思いで私に楯突くのはやめてください。気に入らないならば、ストーカーのようにネチネチといつまでもまとわりつかないで、黙って去ればよいのです。何故粘着するのか理解に苦しみます。そのような行為が正しいことだと本気で思っているのですか。

もし、聖書に照らして、私の説明が間違っているとしたら、そのような批判は受け入れ、議論することになろうかと思います。はっきり言って、聖書との整合性以外の話は不毛、かつ、無駄な議論でしかないのです。主イエスは、クリスチャンが無駄な議論に耽ることを望んではおられません。評論家気取りで、無駄な議論や陰謀を企てる暇があれば、聖書を研究して福音を広めるべきです。聖書の真理や主イエスの教えに明確に反することを糾弾することは正しいですが、何も分かっていない者が他人の伝道内容についてあれこれ評論したところで、何の益にもならないどころか悪でしかありません。あなたは偉そうに評論できる立場なのですか。それこそ傲慢なのではないのですか。他人を評論したあなたを主イエスが褒めると思いますか。勿論、否です。

神の御言葉である聖書と主イエス・キリストが正しいのであって、これに反する教えをする反キリスト(カトリック、偽教師、偽預言者、カトリックやイエズス会の影響を受けた牧師等と彼らを盲信するにわかクリスチャンたち)は非常に頑なで、この種のにわかクリスチャンが世の教会や宗教団体には溢れており、彼らの内に真理はありません。

 

本来、教会は、商売の場、にわかクリスチャンたちが戯れる場、カルト宗教の拠点、サタン崇拝の巣窟でもないはずです。しかし、現在ではそのような姿に成り下がっている所がほとんどです。

よって、新約聖書にあるように、パウロが生きた1世紀の時代の初代教会のような姿を現代に再現させる必要性はありません。使徒言行録2:43~47にあるように、持ち物をすべて共有、財産を分け合ったりするということを現代社会で本当にできると思っていますか。そもそも、真のクリスチャンの数が非常に少ないし、居たとしても点在しており、都合よく集まって食事を共にすることや持ち物を共有する等は現実的には難しいのです。そのようなことは、口頭による伝道が主流で信仰が厚い人が比較的多く集まっていた1世紀当時はできたというだけで、それを21世紀の今も真似しなさいということではありません。また、そのような指令はありません。

時代によって生活環境が変わるように、伝道環境も変わって当然です。仮に、パウロの頃の様相が正しい、またその状態をなぞることが正しいと信じて疑わないなら、そう主張する人は今後一切、飛行機、自動車、電話、インターネット等を使わず、パウロのように歩いて回り、対面形式だけで伝道する者として活動してください。しかし、それは無理でしょう。当時の生活を模倣することには無理があり、1世紀の生活様式を完全再現することが大事なのではありません。

私が過去記事「真のクリスチャンになる道」で書いたように、真のクリスチャンが集まらないと教会を建てる意味も無ければ、行く意味も無いのです。第一、サタンの働きが活発で、サタンの手に落ちた人が多い現代ではおよそ無理があるからです。しかし、貪欲な狼である偽善者たちは、聖書をなぞって正しいように見せかけようとする傾向があります。そこで強調されるのはいつも奇跡ばかりです。奇跡はサタンでも起こせると過去に何度も申してきました。奇跡はしるしとは限らないのであり、奇跡だけで安易に騙されるのは真のクリスチャンではありません。判断基準は、聖書の真理、語る内容、信仰から出る行いだと私はいつも申しています。

 

今やインターネットという便利な媒体があり、それを通じて場所や時間を問わず、真理を求める者は得られるようになりました。直接対面せずに真理を知ることができるというのはパウロの時代には考えられないことだったことでしょう。これを利用しない手はありません。だから、私はネットで伝道しているのです。仮に、教会を建てたり、講演を開くとなれば、時間的制約、場所的制約、金銭的制約等が出てきます。そのような世俗的なことを思い煩うよりは、ネットの記事のように、一度書けば、読みたい人は誰でも時間を選ばず、場所を選ばず、各自の都合が良い時間や場所で何度でも繰り返し読むことを可能にさせる方が多くの人にとって益になります。動画でもないので、周囲や音声を気にすることなく、電波状況によって途切れて再生できないストレスを感じたり、スマホの場合、WiFi接続でないと通信量を大量消費するということもありません。文書という形で出すのが最も効率が良いのです。ただし、この手軽さが仇ともなり、嘘が簡単に広がる要因にもなっていることも事実です。ですから、見極める力が必要になってくるのです。

顔や姿を見れないので信用できない、表に出ないから信用できないという人もいることでしょう。そのような人は、聖書を読んで真に主イエス・キリストを信仰できない人です。なぜなら、再臨まで主イエスの御顔や姿が見れないからです。主イエスも「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)と仰ったとおりです。肉である目で確認できないことは信用できないと思っているのは、世に属する人間です。そのような人はいくら聖書を読んでも表面的な薄っぺらい知識は身についても、真理を知るには至らないでしょう。顔出ししても堂々と嘘を述べる人間は、世間に山ほどいます。

何度も言っていますが、私が言うことを信用できなければ、しなくて結構です。私は、私だけを信じろ等と一言も言っていませし、強要もしていません。反感や不信感を覚えるならば、ただ黙って去ればよいだけです。簡単でしょう。

 

前置きが長くなりましたが、聖書の預言解釈について説明します。

聖書の預言解釈での年数についてです。解釈のヒントを差し上げますので、ご参考にして聖書を読んでみてください。

既に、過去記事「ダニエル書の七十週預言の真実」でも申しましたが、民数記14:34とエゼキエル書4:6で書かれているとおり、1日を1年と解釈する方法があります。この解釈方法は、象徴が多用される黙示的預言に対してのみ適用されることを覚えておいてください。

ノアの箱舟での洪水150日(創世記7:24)、エジプトでの奴隷生活400年(創世記15:13)バビロン捕囚の70年(エレミヤ書25:11)等は黙示的預言ではなく、歴史的預言ですので文字通りに解釈して区別しなければなりません。ノアの時の洪水が150日を150年と考えるのは有り得ないですね。箱舟の中に閉じ込められて150年も人間や動物たちが生き残ることは不可能だからです。

そして、年をさらに年と換算することも有り得ません。バビロン捕囚70年をさらに年換算すると、25,200年(創世記のノアの洪水記述から1か月は30日、1年が30日×12か月で360日、360日×70年=25,200)、エジプトの奴隷生活400年をさらに年換算すると144,000年(1か月は30日、1年が30日×12か月で360日、360日×400年=144,000)となってしまい、天地創造よりはるか前になってしまい、訳が分からない状態になります。よって、黙示的預言の日を年に換算することは聖書的ですが、歴史的預言の年をさらに年に換算することは有り得ないのです。

このように、聖書預言を誤解釈する原因がまさにこの預言解釈が区別ができないことに起因しています。結果的に、黙示的預言を文字通り解釈することで、ほとんどの人が、ダニエル書やヨハネの黙示録を誤解釈することになるのです。

過去記事「ダニエル書7章の預言と反キリスト」で説明したように、鷲の翼が生えた獅子、三本の肋骨をくわえる熊、鳥の翼と頭が四つの豹、鉄の歯と十本の角を持った獣など、実在しません。すべて象徴なのです。文字通りのものではありません。

歴史的預言と黙示的預言で解釈の仕方が異なることも重要ですが、一番重要なのは文脈から考え、単語の使われ方を他の聖書箇所と比較検証することです。黙示的預言だからといって、すべて機械的に、1日を1年としてしまうと間違った解釈をすることになります。必ず文脈と単語をよく考えてください。聖書の預言を正しく理解しようと思えば、日本語だけの聖書では正確な理解は不可能です。必ず、原語(旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語)と英語等の他言語の聖書も併せて読んで考えなければ、真理の理解は非常に困難と言わざるを得ません。

 

ダニエル書8章について、過去記事「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」で二千三百の夕と朝(ダニエル8:14)が二千三百日という文字通りの実数ではないことを説明しました。仮に、文字通りの二千三百日とすれば、約六年四か月にしかならないからです。ダニエルはこの二千三百の夕と朝の幻の意味が理解できず、天使ガブリエルが「この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」(ダニエル8:17)、「定められた時には終わりがある。」(ダニエル8:19)とダニエルに教えました。終わりの時が決まっている点については、過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で言及したとおりです。

このダニエル書8章の幻は、紀元前551年頃ですので、終わりの時は、まだ遠い(ダニエル8:26参照)と言われたのは当たり前のことです。ダニエル8:20と8:21で、明確にメディアとペルシア、ギリシアの国名が出ており、また、その後に続く国や王の統治期間も含むとダニエル書8章に書かれているとおりです。また、先の3つの国の誕生から滅亡までが6年4か月程度のはずがありませんので、このことからも明確に二千三百の夕と朝の幻の解釈を二千三百年ではなく、二千三百日と文字通りに解釈するのは誤りであることが分かります。ですから、二千三百の夕と朝(ダニエル8:14)は、黙示的預言ということです。

 

特に、黙示的預言が多いダニエル書とヨハネの黙示録は、時を表す文言がいくつかあります。黙示録に出てくるバビロン、淫婦、女、海、獣、竜といったものはすべて象徴であり、それらの文脈で出てくる時期も当然に歴史的預言とは言えず、黙示的預言となります。ですから、その時期について、文脈を無視して文字通りに解釈することは有り得ないのです。

 

あと、ほとんどの人々が軽く読み飛ばしている、または、見逃しているであろう点も説明しておきます。ペトロから忘れないで欲しいと言われていることです。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 3章8節

主の来臨の約束

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。

 

また、上記聖句と類似した文言は、旧約聖書にもあります。

 

旧約聖書 詩編 90編4節

千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

 

何かの参考になればと思います。

 

過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で説明したように、神がお選びになった神の民は、ローマ教皇を通じてサタンからの攻撃と試練を受けることで、信仰が鍛えられ、清められます。試練と苦難は、神がお選びになった民をより聖なる者とする方法の一つです。世に属する人間たち、反キリスト等には本当の意味で聖書の真理を悟ることはできません。彼らは勝手な私的解釈をして勝手に悟った気でいたり、悟ったと自称しているのです。偽預言者RAPTのようにです。また、アメブロ内でも偽預言者と偽メシアが出てきています。過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」で指摘した預言者を自称する三枝クララ、神として任命されたと寝言を言う者(こちら)がいます。彼女らは神の御言葉を語っていないし、伝道すらしていない偽預言者にすぎませんので、無視してください。本物の預言者は、自分で預言者だと言いません。預言者と自称する者は、自分を特別視して欲しいという欲求の持ち主であり、神から遠く離れています。

聖書でも、洗礼者ヨハネが活動した頃、周囲の人々はヨハネが預言者だと思っていましたが、ヨハネ自身は否定しました(ヨハネ1:21)。主イエスが祭司長や長老らに投げかけられたヨハネの洗礼が天からか人からのものかという問答で、群衆がヨハネを預言者と思っていた(マタイ21:26)とあります。聖書をよく知る他の人が特定の人を預言者だと思うものです。自称したり、預言者と言われたいがために預言者かのように振る舞う者がいたとしても、言動等の実で見分ければ、すぐに偽預言者であることが分かるのです(マタイ7:15,16参照)。RAPTのように、名誉欲から自分に栄光を帰すような態度も偽預言者の特徴です。RAPTに限らず、教祖という存在になったりする者は例外なくこのようです。洗礼者ヨハネのような謙遜がまったくないからです。私は、主イエスを前にすれば、畏れのあまり顔を上げることもできず、縮こまってひれ伏すだけです。靴紐を解くどころか、距離を置いてひれ伏すだけの価値があるかどうかも分かりません。

 

聖書を複数回通読してみてもなお聖書の預言解釈は非常に難しい箇所もあります。

一度の通読では到底分からないでしょうから、繰り返し読んでください。ヒントは聖書内にあります。聖書の預言を読んでいてどこかで躓いたら、別の箇所に答えを求めてください。決して、思い込みで判断したり、私的解釈を施してはなりません(ペトロ二1:20参照)。また、聖書を複数回読んだら、そういえばあそこに似た記述があったと分かります。また、重要なものは繰り返し言われていることに気が付きます。複数回通読しなければ、こういう事が理解できません。だから、複数の過去記事で、私は聖書を複数回通読しなさいと言ってきたのです。旧約聖書には多くの預言者の書があります。これも無駄にしないでください。

通読という言葉を誤用している人がいます。このアメブロ内でもいるのですが、聖書のほんの一部分を読むことを通読と言っている者がいますが、恥ずかしい言葉遣いです。通読は、初めから終わりまで読むことを指します。決して、何章何節といった部分的なものではありません。通読という言葉を誤解、誤用しないようにしてください。

 

事前にお願いしておきますが、逐一、私に正解かどうかの答え合わせを求めないでください。今後も預言箇所を記事にすることがあるでしょうが、その時にあなたが知りたがっていたものと比べるにとどめてください。ここはどうですか、あそこはどうですかと質問を浴びせないようにお願いさせていただきます。

もし、あなたが聖書を読んで素晴らしい発見をした時は、報告という形でコメントでお知らせください。発表して、皆で共有することは善いことです。

 

私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上