こんにちは。

 

今回は、安息日の重要性とモーセの律法について書きます。

 

安息日とモーセの律法というのは、キリスト者ならば聞いたことがあるでしょう。しかし、安息日とモーセの律法をほんまに理解してますか。前回記事の携挙と同様、ほんまに理解してる人はものすごく少数やと思います。そして、ほんまに理解した上で実践してる人はもっと少ないと思います。しかし、これらは、あんたの運命を決定する重要な掟なんや。まず、安息日に関するよくある誤解について書きます。安息日は、イスラエルの民、ユダヤ人のためだけに作られたと言う人が居てます。せやけど、これは誤りや。すべての人に対するものです。理由は後で分かりますので、読み進めてください。

 

正しい安息日はもはや不明で、誰も正確には分からへんと言う人も居てます。当時に比べれば、暦は変えられたし、聖書を見ても第七日目が今の何曜日に当たるか分からへんと考える人も居てます。しかし、書いてへんからといって何故すぐに諦めるんかこれは簡単に諦めて放置してええ問題とちゃうで。分からへんなら調べる。基本です。今は情報社会や。ネットでも調べれば答えは見つかります。ただし、間違うた情報を鵜呑みにしたり、本来の意味から逸れて自分勝手に解釈(私的解釈)したり、分からへんと放置するのは論外や。まず、辞書を見てみぃや。一般的に普及しとる辞書には大抵、土曜日を調べると、土曜日は週の第七日とあります。そして、日曜日は週の第一日と定義されとる。しかし、辞書によって異なる可能性は否めませんので完全には盲信せえへん。次に、日本語以外の他の言語で第七日について調べると、英語のSaturdayは、古代ローマ神話の農耕神Saturnus(サトゥルヌス)から来てるのが分かる。しかし、ドイツ語のSamstag、イタリア語のSabato、フランス語のSamedi等の他の多くの言語では、ヘブライ語שַׁבָּת‎(安息日から由来しとるんや。そして、旧約聖書を基にしているユダヤ教の人たちはモーセの律法に従ってます。彼らの習慣を見ると、金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日としています。この日没については、以下のとおり、聖書に記述があります。

 

旧約聖書 レビ記 二十三章三十二節(拙訳)

日没から次の日没まで安息を守らなあかん。

 

このように、簡単に変更可能な辞書やウィキペディア等は完全には信頼出来ひんくても、曜日の由来や聖書から真実が分かります。結果的に、土曜日ということが明白です。そして、上記のように、厳密には、聖書のとおり、安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までの間ということや。安息日は、神が天地創造を六日間かけて終え、休まれた第七日を祝福し、聖別したものです。神は何のために休まれたか理解しましょう。神は完全なるお方です。疲れから休む必要性は本来無いのです。では、何のための休息の日でしょうか。それは、第六日目に神御自身にかたどって人を創造され、そのことを極めて良かったと仰いました。他の創造は、すべて「良しとされた」とだけあり、明らかに、あらゆる被造物の中で、人に対して神は特別な感情を抱いてはるんです。それ故、神は人と過ごすために、第七日という日を特別な日として設け、それを現在まで続く安息日となってるんや。その日は、神と人との間において関係を深めるんや。安息日は神が制定しはった。主イエスは、「安息日は人のために制定されたのであり、人が安息日のために造られたんやない。」(マルコ二章二十七節拙訳)と言わはった。神は神御自身のために安息日を定めたのではありまへん。上述のように、人のために制定され、神と人との個人的な関係を深めるためのものです。安息日を憎んで否定する愚か者は、週七日間みっちり働き通しでも文句言えへんのやで。このことを分かってんのか。たった週に一日の休みも無くなるということを意味するんや。それでは、人は毎日休み無く忙しく過ごし、疲労困憊になり体調を崩すし、世俗的な事で一杯になり、神のことを完全に忘れるやろ。人が自分は被造物であり、肉なる存在で弱い存在故に休息が必要無ければ死んでしまうし、創造主が神ということを忘れるようになるんや。そういうことがないように、神は安息日を制定しはったんや。神と人間の関係を深めるにはある程度の時間が必要や。今日すべて悔い改めたから、明日から大丈夫ということでは決してない。例えば、夫婦の関係、恋人関係、友人関係、親子関係、どれを取っても時間が必要です。一緒に過ごしたり、互いに想い合う時間を取らないと関係は深まらへん。何故、それらの人間関係には時間を肯定して、神との関係には時間が要らんと言えるんや。むしろ、神との関係は、人間関係以上に大切にすべきものの筈やろ。それにも拘らず、殆どの人間は安息日を蔑ろにし、神を蔑ろにしとるんが現実や。なお、偽預言者RAPTは、二千十七年五月八日の記事で人間関係の天国をも作られると訳の分からんことを言うとるが無視してください。世俗的な人間関係の間に天国はありまへん。一応言うときますが、聖書は決してそのようなことを教えてへん。彼の話はすべて聖書から外れた作り話や。話を戻し、安息日は、単に何もしない休みの日と思うのではなく、モーセの律法にあるとおり、聖別せなあきません。聖別とは、世俗的使用から分け隔てるということです。即ち、あらゆる世俗の仕事、旅行、買い物、スポーツ(観戦も含む)、娯楽(遊技、映画、音楽、芸術等)といった日常的に行うこと、言い換えれば、世俗的な行いをして過ごさへんというこっちゃ。普段の暮らしと同じことをしているんやったら、聖別してることにならへんさかい。真のキリスト者なら、周りの人間からどう言われようが、どう思われようが気にせず、安息日を守るべきや。これが基本的なあるべき安息日の過ごし方、守り方です。これは神を愛し、神に従うことを意味する。決して、自分勝手ということやない。おそらく、神を信じず、神に服従せえへん人間たちから見える真のキリスト者の行動はおかしいように見えるかもしれへん。「あいつは付き合い悪い」、「なんで土曜日は休みなのに遊びに行かへんのやろ」等、色々陰で言われているかもしれへん。そのような人の陰口に怯えるようでは真のキリスト者では有り得へん。真のキリスト者は、人間ではなく、神を畏れる者のはずや(マタイ十章二十八節参照)。安息日における人の行動を見るだけで、神と人間のどちらに優先順位があるのか明確や。口先だけで「私はキリスト者」、「日曜礼拝に行っている」、「聖書を何十回も通読した」、「毎日祈っている」、「イエスは主、全能の神」等、自慢げに言うても何の意味もありません。行動が伴わへんなら、あんたの信仰は何の意味も無いんや(ヤコブ二章十七節参照)。厳しいようや、これが真理や。決して、ファリサイ派になってる訳やない。自称ユダヤ教正統派等のように、安息日にいかなる電気器具も使たらあかん、医療行為も禁止等、人間が勝手に設けた細則に拘束される必要はまったくない。それこそ、コンピュータや携帯も一切使うなと言ったりするのはファリサイ派の人(ユダヤ教徒)になりかねません。彼らのように、人の行動を著しく制限することは単なる自虐行為であり、安息日を聖別してることにはならへん。これは、主イエスが安息日に病人を癒したことを非難したファリサイ派や律法学者が、主イエスから非難されたとおりや。「安息日に善いことをするのは適法や。」(マタイ十二章十二節拙訳)と主イエスは言わはった。人助け、礼拝、福音を宣べ伝える(ただし、故意、過失問わず嘘の伝道は悪)、聖書を読む、聖書について兄弟間で研究する、聖書を読んでも分からへんなら調べる等することはええことや。嘘の伝道が悪と書きましたとおり、これは安息日ではなくとも慎むべき行為です。聖書の曲解解釈を流布する行為は神への冒瀆行為やし、人々を堕落させ地獄に導く悪い行いや。前回記事「携挙の真実」で紹介したAmir Tsarfatiを盲信するにわかキリスト者が彼の宣伝をしたり、カルト宗教のプロテスタトの一派であるハーベストタイムミニストリーズを盲信して推奨したり、偽預言者RAPTのブログを本物と言って推奨することも悪い行いや。もっとも、本人はよかれと思ってやっているのでしょうが、悪い行いや。何故か分からへんなら、過去記事「反キリストについて」を読んでください。聖書知識が少ない信仰の薄い者たちは、所謂素人やさかい、自ら聖書福音に関する情報発信を控えるべきや。あやふやな知識、本物か偽物か判断出来へん状態で、知らん間に虚偽の情報を広めるさかい。彼ら自身のためになりませんし、兄弟たちを惑わすことにもなる一人前に情報発信する前に、まずは聖書(旧約、新約とも)を複数回通読し、聖書の真理をきちんと理解して、自分で正しく説明が出来るようになってから伝道すべきや。自分はまだまだと思っている状態では伝道したらあかん。まずは自分が学ぶべきやさかい。コンピュータや携帯端末等を使い、ネット上でブログやツイッター、ユーチューブ等、情報発信が手軽になった影響で罪を犯し易くなっていることにも留意すべきや。

 

さて、話が若干逸れましたので安息日に話を戻します。安息日は、モーセの律法にあると言いましたが、シナイ山で十戒を与えられる前から存在しとる。ここまで読んで忘れとる人が居てるかもしれへんが、上述したとおり、創世記二章に既に安息日について記述があります。つまり、天地創造の時から創造主の神によって定められ、永遠に朽ちることのない非常に重要な掟なんや。冒頭で言及した、安息日が血統のイスラエル人のみに対してではなく、すべての人に向けたものと言うたんはこのためです。決して、出エジプト記のモーセがシナイ山に行った時に発生したもんやない。ここを勘違いせんといてください。また、出エジプト記十六章にマナの話があります。ここに四回も安息日が出てきます。当該箇所は長いので引用は割愛しますが、読んだことがない人は是非読んでみてください。以上より、安息日は十戒の前からあることが分かりましたか。たまに、旧約聖書の内容は、キリストが来てから新約聖書だけになり、旧約聖書にあるモーセの律法も終わったことだと主張する者がいます。しかし、聖書をもって、このサタンの主張を粉砕できます。

 

新約聖書 マタイによる福音書 五章十七節〜十八節(拙訳)

我が来たんは律法や預言者を廃止するためやと考えたらあかん。廃止するためやのうて、実現しに来たんや。確かにあんた方に言うておく。すべてのことが起こるまで、天地が滅びるまで、律法から一点一画も消えることはない。

 

主イエスが上記のとおり仰ったのです。律法、即ち、モーセの律法は決して無効になってへんのや。天地が滅びるまでというのは、キリストの再臨の時までです。前回記事「携挙の真実」で書いたとおり、キリスト再臨時、真のキリスト者のみが携挙され、この地にある物はすべて熱で溶かされ、この地に残ったすべて人間は滅ぼされるんや。そして、主イエスはこうも言わはった。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章二十節(拙訳)

あんた方の逃避が嵐や安息日にならんように祈りなはれ。

 

安息日を守ることの大切さを忘れへんようにと、主イエスからの注意喚起であると同時に、世の終わりまで安息日が当たり前の如く存続することを明言しはってる。また、主イエスが十字架での死後、墓に葬られた時の様子にも安息日のことが書かれてます。

 

新約聖書 ルカによる福音書 二十三章五十三節〜五十六節(拙訳)

遺体を降ろして亜麻布で包み、誰も横たえられたことがない石から切り出した墓の中に納めた。そして、その日は準備の日であり、安息日が近付いていた。イエスと一緒にガリラヤから来た女たちは後に付いて行き、墓と、どのように遺体が置かれたかを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。それから、女たちは安息日には掟に従って完全に休んだ。

 

当時のイスラエルの人たちも安息日を守っていましたし、主イエス御自身も死んでいながら安息日を守られたのです。金曜日の午後三時頃に亡くなられ、その日の日没が来る前(安息日が始まる前)に葬られ、安息日を経過した後、週の第一日目である日曜日の朝に女たちが墓に行った時は既に主イエスが復活しはって墓には居てはられんかったんです。安息日は主の日でもあります。旧約聖書から見ていきます。

 

旧約聖書 出エジプト記 二十章十節(拙訳)

しかし、七日目は、あなたの神、主の安息日で、いかなる仕事もしたらあかん。

 

旧約聖書 出エジプト記 三十五章三節(拙訳)

安息日には、あんた方の住居のどこででも火を焚いたらあかん。

 

旧約聖書 ネヘミヤ記 十章三十二節(拙訳)

この地の民が安息日に商品や、いかなる種類の食料を持って来て売ろうとも、我等は安息日と他の聖なる日には買わへん。

 

旧約聖書 イザヤ書 五十八章十三節~十四節(拙訳)

もしあんたが安息日から足を逸らし、我が聖日にあんたの楽しみを行うことから離れるなら、安息日のために快適と呼び、主の聖なるものと敬意を表される。また、栄光を讃え、あんたの道を行わず、自分の楽しみと言葉を話すことを見出さへん。その時、あんたは主を喜びとする。そして、我はあんたを地の高みに据える。また、あんたの父ヤコブの遺産であんたを養う。主の口が話しはったからや。

 

旧約聖書 エレミヤ書 17章21〜22節

主は言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。また安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。

 

新約聖書 マルコによる福音書 2章27~28節

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。

 

このように、安息日は、主の日であり、とても重要な日であるということがお分かりいただけたと思います。そして、安息日にしてはならないことも書かれています。上述のとおり、世俗的な欲求である、あなたのしたい事をするべきではないし、火をたいてはならないので原則的に料理やガス使用の入浴等も安息日にすべきではないとはっきり聖書に書かれています。サタンは、神と人との関係を憎んでいます。神がサタンよりも人間を大事にするからですそういう訳で、サタンは、神と人間の関係が深まる、愛に満ちることを嫌います。よって、サタンは、神と人間との関係を深める時間を減らしたり、よりによってその時まで変更したのです。そのことで人間が神の掟を守らなくなり、神の怒りを人間に降りかからせるためです。安息日はキリストの十字架で廃止されたという人が結構います。そのような者は、サタンの惑わしに騙されています。現代のプロテスタントのクリスチャンや牧師でも、そう思っている人はいます。彼らはその根拠を以下に求めます。

 

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 二章十三節~十六節(拙訳)

そして、あんた方の肉の未割礼で数々の罪によって死んでるあんた方を彼(キリスト)と共に生き返らせ、我らにすべての罪(律法違犯)を許した。我等に対する(律法違犯の記録)原稿を消し去り、我等に対立した法令と、中からそれを取り除き、それを十字架に釘付けにしはった。そして、その(律法の)支配権と力を破壊し、それ(十字架)によってそれらに勝利し、明らかに示しはった。それ故、あんた方を食べ物、飲み物、祝祭日の事項、または新月や安息日のことで誰も裁かへん。

 

このパウロの言葉は、反キリスト教義や。主なる神が制定しはった律法の支配権や力を十字架で破壊されたことにしてるからな。主イエスはそのために十字架に付けられた訳ちゃうし、律法を廃止しはらへんと断言しはった。故に、この偽使徒パウロの言葉を以って、律法が廃止されたことにする根拠とはなり得へん。もし、これを律法廃止論の根拠にする者があれば、その人は反キリストや。このことが理解でけへん者が、クリスチャンやらキリスト者やらと自称し、聖書に依拠してへんのは、キリスト者、イエスの弟子とは呼べへん。反キリストのカトリックやプロテスタント等と一緒やさかい。カトリック、ローマ教皇は安息日について、以下のことをしました。

 

旧約聖書 ダニエル書 7章25節(私訳)

彼は最高位の方に敵対して尊大な言葉を語り

最高位の方の聖者らを苦しめる。

彼は時と律法を変えようと考える。

 

律法において時に関する定めは安息日だけです。これを変えようとしている、ダニエル書が書かれた紀元前の時代からすれば未だ起こっていないので、「変えよう」という未完の書かれ方をしています。上記のように、ダニエル書で預言されたとおり、実際に時と律法を変えた者がいます。それは、これは私が再三申し上げている反キリストのローマ教皇です。カトリックの十戒はご存知ですか。以下のとおりです。

 

カトリックの十戒

1.わたしのほかに神があってはならない。

2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

4.あなたの父母を敬え。

5.殺してはならない。

6.姦淫してはならない。

7.盗んではならない。

8.隣人に関して偽証してはならない。

9.隣人の妻を欲してはならない。

10.隣人の財産を欲してはならない。

 

注目するのは第2条、第3条、第9条です。おかしいと気付きましたか。聖書と明らかに異なっています。聖書では、第2条は、偶像礼拝の禁止です。しかし、それが取り除かれています。カトリック教会はあらゆるイエス像やマリア像、聖人像を建てまくっていますね。この偶像礼拝を肯定するために削除したのです。第3条は、「神の名をみだりに唱えないこと」のはずですが、「主の日を心にとどめ」という訳の分からない文言になっています。もっとも、カトリックが示す主というのは、実のところローマ教皇のことを指しています。あからさまに教皇と書かないのは人々の批判を呼ぶからです。過去記事ローマ教皇が神の子の代理人と自称していることについて書いたとおりです。聖書の第4条にある安息日の文言が消され、さっきのが代わりに第3条に繰り上げて挿入されています。それ以後順番が1つずつ繰り上がり、第9条に隣人の妻を欲するなとあり、聖書では第10条に含まれるものを分割しています。つまり、偶像礼拝禁止規定を削除して少なくなったので、第10条を分割して無理に補填したのです。このように、カトリック教会、ローマ教皇の権威で、彼らが勝手に神の律法を変えたのです。まさに神への反逆、冒涜行為です。

 

旧約聖書 箴言 30章5~6節

神の言われることはすべて清い。

身を寄せればそれは盾となる。

御言葉に付け加えようとするな。

責められて偽る者と断罪されることのないように。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章9~11節

それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。

 

お分かりでしょうか。旧約聖書だけでなく新約聖書にも安息日について書かれています。決して無効になったりはしていません。また、変更されるということもないのです。もし、万一、安息日について変更があれば、聖書のどこかに変更について書かれていなければおかしいです。しかし、実際は安息日が変更になった記述はどこにもありません。聖書の御言葉、神の掟に人間の戒めを追加することは断罪されるとは書いてあります。上述で説明したとおり、コロサイの信徒への手紙2:14~16を誤読し、または、都合よく聖書を引用して安息日の存在を消し去ろうと主張する者はサタンに惑わされて堕落した者です。

 

過去記事でも私が批判した、中川健一牧師は、モーセの十戒にある内容に拘束される必要はないと明確に言い切りました。証拠はこちら(Youtube)。即ち、神が定めた安息日を無視しろと言っていることに他なりません。彼は、カトリックのように安息日を日曜日に変更されたという教えこそ否定したものの、イエス・キリストが現れて以降、安息日自体は無いというおかしな考えを持っています。牧師がこういう状況ですから、いかにプロテスタントも堕落しているかお分かりでしょう。そのように考えているのは彼一人ではないでしょう。彼に教えを受けたクリスチャンも同じ考えになっているに違いありません。嘆かわしいです。世にはクリスチャンと自称する反キリストが氾濫しています。礼拝する日は、安息日だけでなくてもいいのですが、日曜礼拝というカトリックの慣例に従うのは、日曜日を聖別していることになり、反キリストであるローマ教皇に従うことを意味するので絶対に避けるべきです。ちなみに、聖書では安息日(土曜日)に礼拝するのが多く見みられます

 

新約聖書 ルカによる福音書 4章16節

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった

 

分かりましたか。イエス御自身が安息日にいつものとおり」、即ち、習慣的に人々の前で聖書をお読みになっていたのです。勿論、会堂には他にも人々が集まっていました。これは人々が集まって聖書を読み、神を礼拝する場であったということになります。

 

新約聖書 使徒言行録 15章21節

モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。

 

そして、パウロも同様の行動をしていました。

 

新約聖書 使徒言行録 17章2節

パウロはいつものように、ユダヤ人が集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い

 

新約聖書 使徒言行録 18章4節

パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。 

 

新約聖書 使徒言行録 13章42、44節

パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。

(中略)

次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。 

 

上記箇所のとおり、安息日に人々と一緒に聖書を読み、議論して理解を深めているのが明白です。そして、聖書のどこにも日曜日にそのようなことをすることは書かれていません。当時は日曜日という概念はなく、今の日曜日は、当時の週の第一日目であり、休みの日ではなく、現代の平日扱いなのです。しかし、現代では、日曜日が休みなのは当たり前になってしまっています。私たちが生まれた時からそうなので、何の疑いもなく、当たり前と認識している人がほとんどでしょう。しかし、これは当たり前などではなく、過去に人間が意図的に週の始まりである第一日目の日曜日を休みにしたのです。それはローマ皇帝のコンスタンティヌスが321年に日曜休業令を出したことから、端を発しました。当時のローマは過去にも書いたとおり、反逆者ニムロドを起源とする太陽神崇拝(悪魔崇拝)をしていました。その礼拝日が日曜日だったのです。キリスト教を取り込むため、ローマに浸透させるために融合させ、出来たのがカトリックです。364年、ローマカトリック教会は、ラオデキヤ会議で、安息日を教会の権威により、神に逆らって、土曜日から日曜日に変更したのです。そして、近い将来、ローマ教皇は日曜休業に関する秩序(新世界秩序)を各国に強制するでしょう。なぜなら、日曜日に休むことを守らせるのが、神の掟を破ることになり、それがサタンとサタンの代理人たるローマ教皇の目的だからです。この点は、過去記事を参照ください。サタンは、昔から、神の御言葉が詰まった聖書の真理を人々に知られたくないために、あらゆる欺瞞を使って、人々を欺いています。そして、人間を破滅に導くために、神の律法を破らせるのです。分かっていない人が多いと思いますが、安息日は神と神の民の間のしるしです。

 

旧約聖書 エゼキエル書 20章12節

また、わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らの間のしるしとなり、わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった。

 

旧約聖書 エゼキエル書 20章20節

わたしの安息日を聖別して、わたしとお前たちとの間のしるしとし、わたしがお前たちの神、主であることを知れ

 

旧約聖書 出エジプト記 31章13~14節

あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。

 

聖書の中で、旧約、新約問わず安息日は非常に重要だと何回も繰り返し出てきています。そして、繰り返し、神が安息日を守るように仰っており、守らない者は死刑だとも言われている位、重要な掟なのです。それにも拘わらず、クリスチャンたちが安息日を軽んじるのは理解に苦しみます決して、安息日はユダヤ教徒だけのものではないのです。安息日に限らず、神の定めた律法のうち1つでも破れば、すべてを破ったことと同じことなのです。つまり、妥協は無いのです。以下のとおりです。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 2章10節

律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となる

 

真のクリスチャンかのように振る舞う反キリストは、モーセの十戒を基本的には支持するのですが、第4条の安息日のことになると律法主義だの、ファリサイ派だの意味の分からない批判をするのです。安息日の重要性に気付いていないから、このような批判ができるのです。上述のように、たとえ十戒のうちの9つを守ったとしても、安息日を破るだけで、全部破ったことになるのは聖書に書いてあるのであり、私個人の意見ではありません。安息日を守ることの重要性について、散々上述したとおりですが、さらに、ヨハネの黙示録にも記述があります。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章12節(私訳)

ここに聖徒の忍耐がある。ここに神の掟を守ることとイエスの信仰がある。

 

上記箇所の「神の掟」というのは、まさしくモーセの律法を指します。勿論、主イエスが仰った「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を自分のように愛しなさい。」も同様です。神を愛する者は、神の掟を守る者なのです。反対に、神の掟を守らない者は、神を愛していないのです。口先だけで行いが伴わないと無意味と私が何度も言ってきたとおりです。神の民(真のクリスチャン)にとって、神が定めたすべての律法を守ることは非常に大切なことです。安息日を守らない者は獣の刻印を押されます。偽預言者RAPTやRAPT信者は、過去に私のことをファリサイ派、律法学者だの無意味で的外れな批判をしてきたことがありました。何も分かっていないのは彼らです。過去に言ったとおり、偽預言者RAPTやRAPT信者が私を律法主義と無意味な批判をすることは、彼らがクリスチャンではないことを彼ら自身が示しています。

 

上述でプロテスタントの牧師を非難したとおりですが、主イエスの復活を記念して日曜日に礼拝するという牧師やクリスチャンが少なからずいるでしょう。プロテスタントで日曜礼拝をする言い訳にこれを使う牧師が多いです。既に述べたとおり、日曜日を守るのは人間であるローマ教皇の戒めです。それなのに、無意味にわたし(神)を拝んでいる(マタイ15:9)と神は嘆かれています。また、クリスマスやイースターというカトリックが異教文化から取り込んだ儀式に参加する人は、日曜礼拝にも参加する人です。はっきり言っておきますが、これらは間違った礼拝なのです。まったく、主の日である安息日を軽んじています。私が間違ったことを非難するのは、人々がそれだけ間違いを当たり前のように疑いもせずに実行しているからです。聖書の真理を知らず、主イエスの本質を知らず、神の律法を知らず、正しい礼拝をしないで、本物の信仰を持っていると自称するクリスチャンたち、本当に襟を正してください。これはあなたがたの永遠の運命を決定することなのです。

 

新約聖書 ルカによる福音書 6章46節

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節〜二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るのではなく、我が天の父の御意志を行う者が入るのである。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

これがにわかキリスト者に対する警告です。安息日を守らない者は、主イエスから知らないと言われるのです。自分は違うと思いますか。どこからその自信は来るのですか。「携挙の真実」の記事でも書きましたが、艱難期前携挙説(秘密携挙説)を盲信するあなたがたが聖書の真理を知っているとは到底思えません。自分は大丈夫だと根拠の無い、変な自信を持って、高慢にならないでください。

 

安息日の重要性とモーセの律法についてよく理解していただけましたでしょうか。繰り返し言いますが、モーセの律法、安息日を忘れることは神を忘れることに繋がります。そして、サタンの誘惑にまみれた世俗の生活に完全に取り込まれるのです。前回記事で書いたとおり、神の掟を守らないで口先だけでイエスを主と言うだけのにわかキリスト者は、艱難期にイエスの保護は受けられません(ヨハネの黙示録3:10参照)。そして、その艱難の過酷さに耐え切れず信仰から脱落し、獣の刻印を受けるのです。その前に、偽預言者RAPTやAmir Tsarfati等、偽りの教えや偽善をする者たちに心を奪われ、惑わされ、信仰から脱落します(テモテ一4:1〜2)。信仰から脱落というのは、聖書の真理から逸れて真のキリスト者になれないことを意味します。安息日を守らず、真のキリスト者になれないということは、結果的にローマ教皇に従うことになり、獣の刻印を受けることを意味します。当記事で、安息日の重要性はよく理解されたはずです。たかが安息日という者は絶対に救われません。今後、同性愛、同性婚についても記事にします。それも必ずご覧ください。私は、あなたがたにそのようになって欲しくないから、一生懸命、聖書の真理とサタンの惑わしの危険性について宣べ伝えているのです。一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上