こんにちは。

 

今回は、前回の「反キリストについて」の記事で約束したとおり、携挙について書きます。

 

拙者の過去記事でも所々既に何度か言及してきましたが、反キリストたちが聖書の曲解を基にした嘘を吹聴し、多くの人々を惑わし、霊的備えに脆くさせとるさかい、この議題について詳細に書くこととし、聖書にのみ依拠し、正しい解釈を伝えよう。ネット上でも、地上の諸教会でも、多くの牧師やキリスト者を自称する者たちは、艱難期前携挙説(秘密携挙説)を信じてるのが大半やろな。現代でその考えを支持させる元凶と言えるのは、おそらく、映画にもなったレフトビハインド(Left Behind)という小説でしょう。それ以後、二千十四年に映画公開されたリメイニング(The Remaining)も出てきました。両者の違いは、レフトビハインドが肉体が消えて無くなって服が残されている状態の描写、リメイニングは肉体はそのまま残されて死んだ状態になって霊だけが携挙され、残された人たちを悪魔が襲うという描写の違いだけで、どちらも艱難期前携挙説(秘密携挙説)を取っている点は変わりません。それらの映画で、おもに描写されてるんは、ある日突然、子供をはじめ、多くの人々(キリスト者だけ)が一瞬のうちに消え、または死に、残された人たちは地上で大混乱になり、残された牧師がヨハネの黙示録にあることが実際に起こった等言っている場面が流れます。過去記事「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 前編」でも少し言及しましたが、はっきり言って、これら映画の話の流れは、聖書の正しい解釈に基づかへんものや。艱難期前携挙説(秘密携挙説)は、主イエスが秘密に空中再臨し、艱難前にキリスト者を空中に引き上げて天に連れて行き、七年に渡る艱難を経験せず、最後に悪を滅ぼすために地上再臨する(二段階再臨)というものです。この主張を信じとる人は、その時、飛行機の操縦士、空港の管制官、自動車や電車を運転している人が急に消えるか、死ぬ影響から大事故が地上で多く起こるという妄想を抱いとる。このようなただの空想小説内容を本気で信じている牧師やキリスト者が多いのには驚かされます。今、当記事を読んどるあんたもこの説が言うように反キリストが登場する前に携挙されると信じとるんやないやろか。多くの人が支持する考えだからといって正しいという保障は無いことをええ加減覚えよ。正しいのは聖書だけや。そして、聖書から外れる考えは誤りであり、偽りやということや。ダニエル書九章にある七十週の預言、そこに出てくる一週(七年)を誤解釈した結果、主イエスが秘密に空中再臨してキリスト者を携挙して、そこから七年の艱難が来て、新たな反キリストと呼ばれる独裁者が出現し、再建されたエルサレムの神殿に座り込み、自らが神だと宣言する・・・(以後省略)という奇妙な教理が生まれました。

 

まず、携挙が何のことか分からない人のために再度書きます。携挙は、聖書自体にその言葉がある訳やなく、以下の様相を示した言葉です。携挙とは、神の掟を守って神に死まで従順であったすべての聖徒が目覚めて最初に復活して主と会い、次に、この地で生きてる真のキリスト者が一瞬のうちに不死の体に変えられし、引き上げられて空中で主イエスと会うことです。パウロは以下の如く書いた。

 

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 四章十五節〜十七節(拙訳)

確かに、我等はあんた方に主の言葉よって次のことを告げます。主の再臨まで生き残る我等が、死んだ人たちより先になることは決してありません。即ち、号令と大天使の声と神のらっぱと共に、主御自身が天から降って来はるでしょう。すると、キリスト者である死者たちが最初に復活し、次に、我等生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲で連れ去られるでしょう。このようにして、我等はいつも主と共にいるでしょう。

 

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 五章一節〜四節(拙訳)

しかし、兄弟たち、その時と時期についてあんた方に書くことをあんた方は必要としてません。盗人が夜に来るように、主の日が来るということをあんた方自身正確に知っとるからや。人々が「繁栄や。無事や。」と言っとる時、その時に突然の破滅が彼らを襲います。妊婦の産みの苦しみのように、彼らは決してそれから逃れられへん。せやけど、兄弟たち、あんた方は暗闇の中にいるのではないさかい、その日が盗人のようにあんた方を襲うことはあらへん。

 

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙二 一章七節〜九節(拙訳)

御自分の力強い天使と共に天から主イエスの出現の時、燃え盛る炎の中、神を認めへん者たちと我等の主イエス・キリストの福音に聞き従わへん者たちに罰を与えはります。その者らは、主の御顔から、また、その力の威厳から永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。

 

上記箇所が一般にプロテスタントを中心として携挙の根拠として挙げられる言葉やが、拙者はここで注意しておく。パウロは偽使徒であり、ここに偽預言が混じってるという事実を。よう読んでみよ。パウロは、「我等生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲で連れ去られるでしょう。」と述べた。これはパウロ自身が生きてる時代の内に、主が再臨すると明言したことになるが、実際は起こらへんかった。よって、実現せんかった預言となり、偽預言と言わざるを得ない。テサロニケの手紙にあるパウロの偽預言の信用性は無いにしても、そして、艱難期前携挙説(秘密携挙説)を信じる者どもが主張するような、主イエスが地上に姿を見せず空中再臨して真のキリスト者が引き上げられて、そこで主イエスと会うというのは明らかな誤りです。偽使徒パウロを信じる世の自称キリスト者どもは艱難に遭わずに携挙されるとか二段階再臨等と豪語してるが、まったくの嘘。パウロは「主御自身が天から降って来はるでしょう」と述べ、主イエスが地上に姿を見せへん空中再臨というのは嘘ということを証明してる。それさえ分からへんプロテスタント信者の頭はおかしいと言わざるを得ない。

偽使徒パウロの偽預言は全部を信用でけへんが、他に信用のある言葉が聖書にはある。「主の日」というんは旧約預言からずっと言われてきたことであり、主なる神が不信仰の人間どもの律法違犯の罰を下すため、憤りの日が来ることは確実や。それがキリストの再臨であり、即ち、キリスト再臨の時、発生するのは二つ結果しかあらへん真のキリスト者が集められるのと、にわかキリスト者や不信仰の者等の真のキリスト者以外すべてがこの地において滅ぼされるということや。また、その滅びの刑罰から逃げられへんとも、はっきり書かれとる。これは事実や。主イエスは天から降って来られ、燃え盛る火の中を来られるとあり、こっそり来るような静かな描写ではない。せやから、決して秘密にけえへんのや。主イエスが来はった時には、来はったことが誰にでも分かる状態や。再臨の様子は、以下からも明白です。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 三章十節(拙訳)

しかし、主の日は夜の盗人のように来るであろう。その時、各天は大きな音をたてながら崩壊し、更に諸要素は焼かれ滅ぼされるでしょう。また、地とそこにある業は焼き尽くされるでしょう。

 

上記のように、キリストの再臨の様子は、決して穏やかな様子ではない。また、「夜の盗人のように」をその文字通りに解釈して、こっそり来ると解釈する人がいるようやが、これはそういう意味ではなく、「思いがけへん時に、不意に」という意味や。泥棒や強盗が事前に来ることを察知出来へんということや。真のキリスト者は聖書を読んで理解しているので、いつ来ても驚かず、突然来たと感じひんが、信じてへん人にはとっては不意に来るようなものであるということを聖書は言っています。次の聖書の箇所が決定的です。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章四十三節〜四十四節(拙訳)

しかし、このことを理解しなはれ。もし家の主人が泥棒は何刻に来るかを知っとったら、目を覚ましていて、自分の家に押し入らせへんやろう。せやから、あんた方も用意していなはれ。思いがけへん時に人の子は来るさかい。

 

これで分かりましたか。主イエスが夜にこっそり来るというのは有り得へんのや。聖書にはっきり書かれとるさかい、他の解釈の余地は無いが、たとえ書かれなくても、泥棒のような罪人がこそこそするのは当然ですが、罪人ではない主イエスが何故夜に人目を避けてこそこそせなあかんのかということです。普通に考えても有り得へん。次の聖書の箇所を読んでください。

 

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙二 二章一節〜四節(拙訳)

さて、兄弟たち、我等の主イエス・キリストの再臨とその御許に我等が集められることについて、霊や言葉によって、或いは、我等から書き送られたという手紙によって、キリストの日は差し迫っているかのように言われても、すぐに精神的に動揺したり、怖がらないようにお願いする。いかなることによっても、決して誰からも騙されたらあかん。なぜなら、まず、背教が起こり、罪の者、つまり、破滅の子が明らかにされなければ、その日は来えへんさかい。この敵対する者は、神と呼ばれるか崇拝されるすべてのものの上に自分自身を高め、その結果、神殿に座り、自身が神であると宣言する。

 

上記、「その御許に我等が集められること」というのが携挙を指す。確かに、それは福音書で主イエス御自身が予告しはったことではあるが、やはり偽使徒パウロが言うことは主イエスの御発言とは異なる。それを明確にしよう。以下は三福音書の主イエスによる終末預言や。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章二十九節〜三十一節(拙訳)

しかし、それらの苦難の日々のすぐ後、太陽は暗くされ、月はその光を出さず、星々は天から落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。また、その時、人の子のしるしが天に現されるだろう。そして、その時、地のすべての民族は悲しみ、人の子が力と大いなる威厳に満ちて天の雲に乗って来るのを見るだろう。人の子は、大きならっぱの音と共にその天使たちを遣わし、天使たちは各天の果てから果ての四つの風の彼の選ばれた人たちを集めるだろう。

 

新約聖書 マルコによる福音書 十三章二十四節〜二十七節(拙訳)

それらの日々において、苦難の後、太陽は暗くされ、月は光を出さへんだろう。また、天の星々は落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。その時、大いなる力と威厳に満ちた人の子が雲に乗って来るのを人々は見るだろう。その時、人の子はその天使たちを遣わし、地の果てから天の果ての四つの風から彼の選ばれた人たちを集めるだろう。

 

新約聖書 ルカによる福音書 二十一章二十五節〜二十八節(拙訳)

そして、太陽と月と星に徴があり、地には海と波のとどろきにより、諸国民の苦悩と当惑、恐怖のために人々の気絶、世界に起こることの予想があるだろう。各天の天軍が揺り動かされるだろうからや。また、その時、人の子が大いなる力と威厳に満ちて雲に乗って来るのを人々は見るだろう。せやけど、これらが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなはれ。あんた方の救済が近付いてるからや。

 

これらの預言から分かるんは、苦難の日々の後、即ち、大艱難の後に太陽と月と星々に通常では起こり得へんような大きな変化があるということやな。つまり、大艱難を経過した後に主イエスが再臨しはり、その時に神の民たる真のキリスト者が集められるということであり、その現象を「人々は見るだろう」と主イエスは言わはり、誰でも目視して分かるってことで、秘密に起こるのではないことは明らかやろ。「気付かんかったー」と済ませられる人は居らへんよ。太陽が暗くなり、月が発光をやめ、星が落ちれば、誰でも異常事態と気付くよね。そして、赤字で強調したとおり、人々は主イエスが再臨するのを「雲に乗って来る」んを見るだろうと共通して言われ、天のしるしへの言及も共通し、主が再臨する時に天使たちが真のキリスト者を集める、即ち、携挙するということが分かる。これだけで、艱難期前携挙説は完全に嘘と分かるし、艱難期末期に携挙されることも明らかや。更に、艱難期末期携挙の根拠は上記以外にもある。以下を読むがよい。

 

新約聖書 マタイによる福音書 十三章三十六節〜四十三節(拙訳)

それから、イエスは群衆を追い払い、家に入りはった。すると、彼の弟子たちが彼に寄って来て、「畑の毒麦の例えを説明してください」と言うた。すると、イエスは彼らに答えて言わはった。「ええ種を蒔く者は人の子、そして、畑は世界、これらええ種は王国の子ら、しかし毒麦は悪い者の子らや。毒麦を蒔いた敵は悪魔、そして刈り入れは世の終わりで、刈り入れる者は天使たちや。せやから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにそうなるであろう。人の子はその天使たちを遣わし、罪を犯させるものすべてと不法を行う者どもを自分の王国から集め、彼らを火の炉の中に投げ込むだろう。そこで、むせび泣きと歯ぎしりがあるだろう。その時、正しい人々は、彼らの父の王国で太陽のように輝くだろう。聞く耳を持つ者は聞きなはれ。」

 

これらの主イエスの御発言や行動にも既存聖書には誤訳が多い。主イエスが群衆を追い払う対応をしはったことも地味に注目に値する。群衆というんは、おもに不信仰の者、にわか信者といった人間で構成されており、それらの人々に懇切丁寧に対応するってことはしてはらへんかったということ。そして、この前の文脈から明らかなとおり、すべて例えを用いて語らはったことから、すべての人に理解してもらおうというつもりも毛頭無かったということです。しかし、現代の不法を犯すことをやめへんパウロ教信者でしかない自称キリスト者どもらは、この聖句をも無視し、「イエス様は差別せず、愛のお方。すべての人が救われることを願っておられる」等と寝言を言うてる。しかし、明らかにそれは大嘘であり、主イエスは御自分が選びはる数少ない人間しか救う気はあらへん。最初から一貫してその姿勢です。そして、この主イエスの予告にあるとおり、世の終わりは必ず来るし、ええ麦(種)と毒麦の選り分けは主イエスの再臨時に行われる。よって、再臨までは真のキリスト者もそれ以外の大多数の人々もこの地上で共存したままということが分かる。大艱難前に携挙されるなんて一切主イエスは言及しはらへんかったのに、偽使徒パウロの偽預言を信じる愚か者どもが嘘を熱心にしつこく吹聴してる。ほんまにうっとおしい。さすが、悪魔の子らやな。惑わすのに熱心なんですよね。そして、そないな嘘を吹聴する自称キリスト者どもは、主イエスの御発言にある「罪を犯させるもの」に当たるし、それらの嘘を固く信じて律法を無視して不法を犯し続ける者どもも一緒に火の炉に投げ込まれることになる。主イエスが「自分の王国から罪を犯させるものと不法を行う者どもを集めて、火の炉に投げ込む」と明言しはってることから、キリスト者の中からこないな者が出てくることについて言うてはるんや。不信仰の者や異教徒らは最初から論外で、滅ぶのが確定してるさかい、言うに及ばずということや。聞く耳を持つ者だけ、聞くがよい。

 

それにしても、偽使徒パウロの偽預言では、主イエスが雲に乗って来ることと、天にしるしが現されることについての発言が無い。それどころか、偽使徒パウロは主イエスが予告しはらへんかった余計なことを言うた。それは、主の再臨前に、背教が起こるとか、破滅の子が明らかにされるとかですね。これは嘘ってことでしょう。なぜなら、主イエスはそないなことを予告しはらへんかったからや。そもそも、背教っていうんは、太古から現代までずっとやからね。きちんとした信仰者が居る方が珍しい状態が長く続いとるさかい、意味が無いんですよ、こう預言すること自体ね。モーセの時代から不信仰で律法違犯する人たちは多かったし、古代イスラエル人たちは頑なで堕落し易く、栄華を極めたソロモン王も晩年に異教徒の異邦人の女たちにたぶらかされて堕落し、古代イスラエル王国の南北分裂と滅亡の引き金となったし、古代イスラエル人も不信仰でアッシリアやバビロンに捕囚され、事態が悪化せえへんと耳触りのええことを言う偽預言者を擁護する一方で、滅亡の危機を警告した主の預言者を迫害して殺し、預言者エレミヤも苦しめられた一人やった。現代でも、カトリックやプロテスタント等といった多くの異教・異端が幅を利かせて、でかい顔をしてるが、完全に背教の宗教団体と化してる。背教って別に終末になって初めて起こることではないからです。今もずっと背教し続けてますよ。今だけやのうて一世紀にユダヤ戦争が起こり、エルサレム教会が壊滅し、それから偽使徒パウロの偽福音が広まって異邦人を中心に勢力拡大して行った時から既に背教は始まってた。カトリックが生まれたことも、東方正教会に分裂したことも、中世時代にプロテスタントが興ったことも、別に十二使徒やエルサレム教会員のような律法を擁護する主イエスに忠実な教派は生まれず、次々に異端が出来て栄えただけや。こうして、ずーっと背教してる。せやから、偽使徒パウロの「まず背教が起こる」っておかしいし、偽使徒パウロが言うような終末になって急に背教が起こるのではない。主イエスの預言には苦難の日々の後に、天に誰でも分かるしるしが現されるとだけ言わはり、その後で主イエス御自身が雲に乗って天から来られ、主が遣わす天使たちが選民を集めるとはある。また、偽使徒パウロは「罪の者、つまり、破滅の子」が主の再臨前に出現するようなことを予告したが、これも有り得へん。過去記事「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編」で示したとおり、ローマ教皇は今に限らず、昔からずっと「神の子の代理人」と自称し続けてる訳やし、将来だけに起こることでもない。今も、過去も極めて罪深い存在であり、高慢で、大言壮語を決してやめへん存在でもある。ローマ教皇が、かつての中世時代のように政治権力を振るい、まるで自分が神であるかのように偉そうに大言壮語し、神に逆らう法や秩序を決め、逆らえば死刑と傲慢に振る舞うようになる。

これ程、偽使徒パウロの偽預言は主イエスの終末預言とは異なる。拙者自身も最初はパウロが偽使徒とは断じることには慎重であったが、最初から何処か違和感はあった。やはり、聖書を細かく見ると、パウロの偽使徒、偽預言ぶりが明らかになり、確信に至ったため、こう書いてる。せやから、偽使徒パウロの偽預言を真に受けるんはやめなはれ。なんぼ艱難期前携挙なんかに期待したかて、そないなええもんは有り得へんのやから。

 

前回記事でも少し触れたとおり、中世のマルティン・ルターやジャン・カルヴァン等の宗教改革者たちの働きによって、当時の多くのカトリック信者は真理を求めてカトリックから離れて、聖書に立ち返る機運が高まりました。それを脅威に感じたローマ・カトリック教会は、千五百三十四年、ローマ教皇に忠実でカトリックの修道士であるイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエル等が、プロテスタントに対抗する組織としてイエズス会を結成しました。イエズス会の会員は、ロヨラが元軍人であったこともあり、ローマ教皇の精鋭部隊と呼ばれ、拙者が過去記事「世の中の真相、新世界秩序(NWO)とこれからの動向」に書いたとおりの活動をする組織になって行きました。中世のイエズス会は、表ではルターたちのような真理を求める宗教改革に対抗するために活動しました。ローマ教皇をはじめとして、ローマ・カトリックは、ルターたちプロテスタントの宗教改革を妨害するためにあらゆることをしました。例えば、真理を知られんように聖書を燃やしたり、聖書のみに依拠するキリスト者を不当な宗教裁判にかけ、拷問の末に処刑して迫害しました。それでも勝てへんと考えたローマ・カトリックは、拷問や処刑よりも穏便で狡猾な方法を考えつきました。それは、神学、聖書解釈や思想から変えさせ、プロテスタント信者を誤誘導させようとする企みです。この使命をイエズス会が担いました。その活動内容は、聖書解釈を曲解することです。イエズス会修道士のアルカザールが過去主義解釈(ローマ皇帝ネロ等の独裁者、反キリストに関する聖書預言を過去に実現済とする考え)を展開し、また、イエズス会のリベラは反対に未来主義解釈(反キリストをローマ教皇ではなく、ダニエル書九章の七十週預言を誤解釈して未来に突然出現する人物が反キリストである考え)を展開しました。このように、イエズス会はいくつか説を考案し、撹乱して、必死にローマ教皇が反キリストではないとする説を流布して隠蔽工作をしました。結果、中世からのイエズス会、カトリックが主張してきたこの未来主義解釈の影響は根強く、現代のプロテスタントもカトリックの影響から離れられず、受け入れてます。それは、プロテスタントの牧師たちが神学校でイエズス会の教えを叩きこまれたからです。まさに、彼らは教育から洗脳してきたのです。迫害や処刑という暴力から穏便な教育という手段によって変容させたのです。洗脳された牧師たちが語ることを求道者が真に受け、それが次から次に伝えられ広まったのが現代の堕落した現状や。まさに、コンピュータウイルスのようです。内部から侵入し、破壊するやり方です。これは日本だけで起こってることやなく、世界中で同じ状態になっとる。カトリック、イエズス会は偽りの聖書解釈というウイルスをばらまき、物の見事に人々の信仰を破壊することに成功しとる。十九世紀、英国の神学者であったジョン・ダービーは、未来主義解釈の発展に貢献し、ディスペンセーション主義の創始者と現在では言われとる。彼は、大艱難の前に携挙があり、その後に独裁者である反キリストが現れると説いた。この教理は、神が世代によって人間の扱いを分けるというものや。ダービーは、ダニエル書九章の七十週預言の中で、最後の七年を文脈を無視して切り離し、携挙後の未来に起こる艱難時に適用させよった。この考えが冒頭で述べたように、多くのプロテスタントの牧師や自称キリスト者どもが信じとるものや。更に、二十世紀になり、千九百九年、米国のサイラス・スコフィールドは、注釈付き聖書を出版しました。これが影響して米国内で人気を博し、その注釈を人々が信じました。その注釈がウイルスであり、反キリストがローマ教皇であることの代わりに未来に出現する人物であるとしたんや。この教えが二十世紀に広まり、千九百七十年に米国のハル・リンゼイが「大いなる惑星、地の終わり」という本を出版しました。この本が米国中の教会に普及しました。二十世紀も終わりに近づいた、千九百九十五年、ティム・ラヘイとジェリー・ジェンキンスの共著で、ダービーから始まったディスペンセーション主義を取り入れた小説であるレフトビハインドが出版されました。この本は様々な言語に翻訳され、映画化もされました。その結果、現在、多くのキリスト者がその内容を正確な預言解釈の描写だと誤信するに至っています。拙者が上述したとおり、この考えは、元を辿ればカトリック、イエズス会の創作話なのです。

 

秘密携挙説を唱える人は、以下の聖書を引用して自説が正しいと主張します。

 

新約聖書 ルカによる福音書 十七章三十四節〜三十六節(拙訳)

あんた方に言っておく。この夜、一つの寝床に二人が居れば、一人が連れて行かれ、もう一人は残されるだろう。二人が一緒挽いていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残されるだろう。二人が野原に居れば、一人は連れて行かれ、もう一人は残されるだろう。

 

上記の箇所を、秘密携挙説を唱える人は、誰も知らないうちに空に引き上げられるとし、悪人たちは地上に残って反キリストとともに大艱難を経験すると主張します。しかし、これは文脈を無視した誤った解釈です。この箇所の本意は、キリスト再臨の時には、その時の各自の準備状況によって運命が分かれるということで、身近に居る人も一緒に仲良く携挙されるというのではないというこっちゃ。上記聖句三十四節より前の二十九節と三十節にこうあります。

 

新約聖書 ルカによる福音書 十七章二十九節〜三十節(拙訳)

ロトがソドムから出て行ったその時に、火と硫黄が天から降って来て、すべてを滅ぼした。このように、人の子が現される時に同じようになるであろう。

 

つまり、キリストの再臨時に、真のキリスト者は引き上げられ、即ち、携挙され、残った悪人(真のキリスト者以外)は火と硫黄によって全員滅ぼされるとあり、主イエスが空中再臨して秘密のうちに携挙するということではないのです。そして、キリストの再臨は、世の終わりをも意味します。この地に人が残らへんさかい。全員滅んで居れへんのに艱難期って何なんでしょうか。このことからも艱難期前携挙説(秘密携挙説)が誤りであることが明白です。せやから、携挙は、艱難期末期に起こるということになります。キリスト再臨時、人の運命が永遠に分かれるのです。主イエスが来はった時には、それより前に救われるか否かの審判は既に下されているのであり、下した審判を元に救われるべき人を空中に引き上げて救う一方で、悪人を一人も残さずに滅ぼすために再臨されるのです。この点を勘違いせんといてください。主イエスが来はったのを見て、驚き、慌てて、信じます、悔い改めます、聖書を読みます等を言っている暇はありません。また、上記の艱難期前携挙説(秘密携挙説)や映画等が言うてるように、主イエスを否定する者、主イエスを信じない者、主イエスに従わへん者たちが、何故生き残るかのように宣伝しているのでしょうか。聖書をきちんと読まんと、カトリックやイエズス会の誤った未来主義解釈、その教義に染まったプロテスタント牧師、レフトビハインド等の小説やその他聖書の注釈書を盲信する人々は、キリストの再臨後、少なくとも七年間は悪人たちに悔い改める機会が与えられるという考えているようですが、聖書の何処にもその根拠がありません。彼らは、この世で楽しく暮らして、最初の携挙を逃したとしても少しは苦難を経験するけれども、七年の大艱難の時にもう一度キリストが再臨する機会があるから、その時までに悔い改めて天の国に行けばいいと考えとるんやろけど、上述のとおり、聖書の真理に反しています二度目の機会はありません。今すぐ悔い改めなければ間に合いません。キリストの再臨の前に悔い改め終えて準備が整ってへんと、救われへんのや。秘密携挙説を信じる人は、最後の大艱難が始まる前に携挙されると考えとるさかい、大艱難を免れると思てます。そして、以下の聖書を根拠にしようとします。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 三章十節(拙訳)

あんたは我が忍耐の言葉を守ったさかい、地に住む人々を試すために全人類に来ようとする誘惑の時から、我もあんたを守るであろう。

 

この聖句が意味することは、皆同じように試練である艱難を過ごすことになるが、主イエスに従順で神の掟を守って悪に屈しないで忍耐しとる真のキリスト者だけが全世界の人々を試す誘惑からその艱難中には主イエスによって守られるということや。丁度、ダニエル書三章の話のようです。偶像礼拝をせえへんという神の掟を厳守した三人を炎の中から守ってくださったように。決して、事前に空中に避難させてくれるということではありません。終末時代のすべての人間は艱難時代を経験し、生温いにわかキリスト者を脱落させるんや。いくら口先だけでイエスを主として崇めていても、艱難が来た時その本性が明らかになります。そして、キリストの花嫁として相応しい真のキリスト者が厳選され、ある者は殉教し、ある者は生きたまま携挙されるのです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章九節(拙訳)

その時、人々はあんた方を苦難に遭わせてあんた方を殺すであろう。また、我が名のために、あらゆる民に憎まれるだろう。

 

上記は、主イエスがオリーブ山で再臨の前兆について話された時に仰った内容です。真のキリスト者は、主イエスを信じて従う故に、他の大多数の人々から憎まれ、迫害され、殺されるだろうと教えられました。しかし、ヨハネの黙示録三章十節拙訳のとおり、そのような艱難の中でも神の律法、掟、戒めを守って忍耐する神の民だけが人間が持つ本能に打ち勝つ強さを主イエスが与えはって、真のキリスト者を艱難に屈して命を惜しむ臆病な行動を取らんように守りはるということです。

 

上述で説明した未来主義解釈が、ルター等の反キリストがローマ教皇であるという真理の主張を消し去りました。それだけに留まらず、現代では、未来主義解釈を基に生まれたディスペンセーション主義が、偽福音、偽聖書解釈として広まってます。過去記事「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 前編」で紹介したとおり、反キリストのローマ教皇も原理主義者(聖書にのみ依拠する立場の人、即ち、真のキリスト者)に注意するように言うてます。このように、世の中は、サタンの欺瞞で満ち溢れています。しかし、聖書の真理と拙者が書いた内容については、あんたの信仰を壊すものではなく、真理から逸れずに真のキリスト者になるために必要な福音であり、滅びず、永遠の命に繋がることなんや。

 

そして、二千十七年一月、Amir Tsarfati(アミール・ツァルファティ)という偽イスラエルの自称ユダヤ人が携挙について語りました。こちら(Youtube)に彼の携挙に関する説明があります。彼も聖書を引用してもっともらしいことを言うてますが、誤ったことを教えています。例えば、以下の箇所の説明です。

 

新約聖書 使徒言行録 八章三十九節(拙訳)

彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見いひんかったが、喜びながら旅を続けた。

 

この部分を抜き出して、既に携挙があったと彼は説明しました。有り得へん。また、何十年も信仰生活をしている人を差し置いて主イエスを信じて洗礼を受けてすぐに携挙されていなくなったと説明しています。確かに、信仰歴は重要ではありませんが、この箇所は携挙の例ではありません。アミールは、宦官が信じてから二分後、洗礼を受けて四十秒後に携挙を経験したと虚言を言うとるが、実は、聖書では上記聖書箇所のすぐ後ろ四十節に、フィリポが携挙されたのではない明確な答えがあります。

 

新約聖書 使徒言行録 八章四十節(拙訳)

他方、フィリポはアゾトで見出され、そして、すべての都市に行って宣教し、カイサリアまで行った。

 

お分かりやろか。主がフィリポを地上の間を少し移動させただけなんや。使徒言行録八章三十九節では、ギリシア語のἥρπασεν(ハルパーゾ)は、人を驚くべき速さである所からある所へと移動させることを意味し、毎度天に上げられる携挙の意味ではありません。フィリポは、携挙されて天に昇ったのではなく、四十節に移動先で福音伝道してさらにカイサリアまで移動したとはっきり書かれとる。せやから、これを携挙の例として挙げるのは完全な誤りや。非常に多くの教会が間違った教えをしていると彼は言っていますが、拙者からすれば、彼も誤った教えをしています。彼のように大勢の前で嘘を自信満々に説教するとは呆れて物も言えません。また、アミールは現時点では未だ反キリストは到来してへんと思てるようや。聖書の真理を理解してへん証拠です。彼は欧州議会の建物の話や獣に乗った女の像を置いていることを引き合いに出し、欧州のどっかの政治家がそうなんやと思てるんやろな。それらは釣りやというのに。そして、終わりに艱難の時期について、アミールはキリスト者が艱難を経験することはないとはっきりと言い切っています。つまり、アミールも艱難期前携挙説の立場ということです。アメブロでも、ネット上を見渡す限り少なからず彼の動画を勧めたりしている盲信者が少し居るようや。彼も聖書を巧みに使い、イスラエルのユダヤ人と自称し、もっともらしく振る舞いますが、彼を信用せんように気ぃ付けてください。彼の説明もイエズス会の創作話に基づくサタンの欺瞞です。

 

以上より、世の多くの牧師たち、自称キリスト者たちが主張し、信じて譲らへん艱難期前携挙説(秘密携挙説)が聖書の根拠が無く、偽りの教義であるか、そして、携挙が人類史が終わるキリスト再臨の時、即ち、艱難期末期に起こることがお分かりいただけたと思います。上記で説明したとおり、聖書が教えとるんは、キリストの再臨については日付と時間は誰も分からず、突然来るということと、来る時は人類史上最も騒然とする日になり、義人(真のキリスト者)は携挙され、悪人(真のキリスト者以外)はことごとく殺され、死後も第二の死という永遠の破滅が待ち受けとるということや。最後に言っておきますが、人々に人気のある教えを信頼したらあかんっちゅうこっちゃ。大多数は誤った方向に行くさかい。これも聖書の教えです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章十三節〜十四節(拙訳)

「狭い門を通って入りなはれ。破滅に至る門は広く、その道も広々として、多くの者がそこを通って入る。命に至る門は狭く、その道も狭苦しいさかい、それを見出だす者は少ない。」

 

過去記事「巧みな欺瞞と真理」でも言うたとおり、多くの人々は耳触りのええ話、自分に都合がええ話に傾きがちです。これだけ欺瞞が蔓延した世の中では、真理を主張することは煙たがられたり、嫌がられたり、聞く耳を持たれへんことも多々あります。せやけど、主イエスがよう言わはったように、聞く耳のある者は聞きます。聖書の真理に辿り着く門と道は狭いんや。大多数の人々はそこを通ろうとせえへん。世の教会、牧師たち、ユーチューブ動画やテレビで大々的に説教する者、偽預言者等は、自分たちの主張が聖書に合致してるとか、安全だというようなことを言うでしょう。しかし、その偽りが暴かれる時が来ます。キリストの再臨の時です。その時点で気付いても手遅れやけど。せやから、今の内に真の聖書福音を知り、悔い改めなはれ。

 

偽預言者RAPTは、最近、子育てが上手く行くとか、病気が良うなるとか、RAPTの有料記事を読んでから万事上手く行くようになったとか、そのような人々が食いつきそうな話題を餌に信者を釣ろうとしています。しかし、そのようなニューエイジ思想に騙されたらあかん。RAPTが偽預言者であり、反キリストであることは拙者の過去記事を読めば、はっきりと分かるはずや。聖書は、正しい信仰生活をすることで、この世で生きる間、何でも上手く行くようになるとは教えてません。それでは利益信仰になるさかい。この終わりの時代にあって、多くのキリスト者は、聖書研究を疎かにしてます。誰かに聞いた話、映画、小説、教会の牧師等が言うとる情報を真に受けて、真理を知らんままや。このままでは、どのような結末になるか、この記事の読者は目を覚まし、気付いたはずや。小説、映画のレフトビハインドが言うように、数百万の人が携挙されてこの地から消えるなんていうことは拙者は絶対に無いと思います。黙示録預言でも十四万四千人やし、何百万人なんて聖書的根拠の無い数字であって、有り得へん。こんだけ聖書の真理から離れている状態では、もっと格段に少ないんとちゃうかと心配してます。むしろ、騒ぎになるのは、火と硫黄が降って多くの人自分の身に降りかかる災いに対してでしょう。そして、終末はノアの洪水のようだと主イエスが教えているとおりや。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章章三十七節〜三十九節(拙訳)

更に、ノアの時代のように、人の子の来臨もまた、そのようであろう。大洪水の前の日々のように、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりしているさかい。そして、大洪水が来て全員を滅ぼすまで、人々は分からへんかった。人の子の来臨もまた、そのようであろう。

 

分かりましたか。キリストの再臨の直前まで、多くの人々はいつもの日常生活をしているのです。そして、キリストの再臨の時、真のキリスト者のみ携挙され、大多数の残りの人々は洪水ではなく、上述のように地上に火と硫黄が降り注いで一人残らず滅ぼされるんや。そして、ノアは、事前に天のような安全な場所に避難させてもらえへんかった。大洪水という艱難の中を事前に箱舟を作るようにと主の指示を受け、その指示に忠実に従ったことで守られる経験をしました。分かりましたか。携挙は、大艱難前に避難させるということを意味しません。それでも、あんたは大艱難前に携挙されると根拠も無い自信を未だ持てますか。しかし、兄弟たち、もう時間が多く残されてへん。危機感を持って、真理を切に求めてください。真理は聖書にしかありまへん。サタンや反キリスト、偽預言者たちに騙されずに打ち勝つ方法は、聖書を深く研究してその真理を知り、神の掟を守り、忍耐し、熱心に主イエス・キリストに祈り、求めることです。一人でも多くの人が救われることを願ってます。

 

以上