こんにちは。

 

今回は、ヨハネの黙示録20章「千年間の支配」にある、世間で言われる所謂千年王国というものについて究明していきます。

 

みなさんは、千年王国と聞いて文字どおり千年間、主イエス・キリストが王として統治する国を思い浮かべるのではないでしょうか。ほとんどの人々はそう信じて疑っていないと思います。特に、携挙について、艱難期前携挙説(秘密携挙説)を盲信しているにわかクリスチャンたちはそう思っていることでしょう。私の記事で携挙について認識を改めた人であっても、ヨハネの黙示録20章に対する正しい理解をしている人は限りなく少ないと思います。はっきり言っておきますが、ヨハネの黙示録については、過去記事「聖書預言の正しい解釈方法」で注意喚起したとおり、ダニエル書と同様にヨハネの黙示録のほとんどは黙示的預言なのであって、そのまま文字どおりに解釈してはいけない箇所が多いのです。きちんと私の記事を読んで理解できていますでしょうか。ヨハネの黙示録をすべて文字どおりに読むと、20章のみならず、他の章でもとんでもない解釈をすることになります。文字どおり解釈してはならないことは、ヨハネの黙示録自体に書いてあることを大多数の人は見落としています。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 1章1節

イエス・キリストの黙示。

 

まさに、ヨハネの黙示録の最初の一文に、明確に、この書物は黙示とあり、暗示であり、明示ではないのです。黙示という言葉の意味は、はっきりと言わず、暗に考えや意志を示すことを言います。明示は、暗示の反対語で、はっきりと示すことをいいます。仮に明示録であれば、すべて文字どおりに解釈していいでしょうが、それはありません。これを啓示とか、暴露という点を強調し過ぎて、黙示の本来の意味をかき消そうとする人々が大勢います。当然その意味もあるのですが、そのような主張はこの書物の文字どおり解釈すべきでない箇所を文字どおり解釈させ、主イエスの黙示内容を誤読させようとする反キリストの働きです。機械的に判断せず、必ず文脈をよく考慮した上で解釈するようにしてください。

 

さて、上記の前提を念頭に置いた上で、本題に入っていきます。

ヨハネの黙示録20章「千年間の支配」における千年期とキリストの再臨に関する見解として世間では大きく分けて三つ主張されています。

 

①千年期前再臨説(前千年王国説)

②千年期後再臨説(後千年王国説)

③無千年王国説(無千年期説)

 

上から順に説明していきます。

一般に多く信じられているのは、①千年期前再臨説でしょう。これは、キリストが再臨し、それから千年王国が始まるというものです。この立場では、キリストの再臨後に、千年王国というキリストによる千年間の支配がある国ができて、千年経った後にサタンが解放されるが敗北して火と硫黄の池に投げ込まれて滅亡し、その後、最後の審判があって不信仰の者たちはサタンや悪魔と同じく地獄に行き、さらにその後に新しい天と新しい地の世界が来ると考えています。しかし、この立場は、ヨハネの黙示録を何の根拠も無く愚直に掲載順を時系列と盲信してしまっているだけでなく、黙示的預言として解釈せず、文字どおりの解釈に拘泥しています。これは非常に薄っぺらい解釈の仕方と言わざるを得ません。この立場では、携挙(艱難期末期携挙説)の考えと矛盾をきたし、整合性が取れません。なぜなら、キリスト再臨の時は、世の終わりとなり、焼き尽くされて滅び去るからです。この①千年期前再臨説は、過去記事「携挙の真実」で言及したディスペンセーション主義者が支持している考えです。彼らは、携挙について艱難期前携挙説を前提としているので矛盾が無いと安易に考えていますが、実は矛盾があります。例えば、彼らが盲信する艱難期前携挙説では、クリスチャンが艱難期前に携挙されていなくなり、千年王国の場所が地上なのか天なのか曖昧にしていることです。当然、携挙された先の天かと思えば、地上で千年王国ができると主張する者もいます。訳が分かりません。過去記事「携挙の真実」で説明したとおり、この世での艱難期を経てから、キリストが再臨され、その時、聖書にあるとおり、この地上は火と硫黄によって滅ぼされるのです。不信仰の者や主イエスに従順ではないにわかクリスチャンも生き残るようには聖書に書かれていません。これを否定する者は、聖書の真理に逆らっているだけです。艱難期前携挙説と千年期前再臨説の考えを支持するディスペンセーション主義者たちは、千年王国をこの地上のどこに据えられるかをまったく説明できていません。携挙されて天にいるはずのクリスチャンが地上に降りる説明も聖書上に根拠がありません。私からすれば、聖書のとおり、火と硫黄が降って滅茶苦茶になった地上に千年も続く王国を据えられるとは思えません。また新しく創り直すなら、それは新しい天と新しい地になってしまい、再創造はその時に行われます(黙示録21:1)。仮に、千年王国が天で造られたとすれば、千年経った後にサタンが解放されて人々を惑わして都を囲む説明もつきません。このサタンに惑わされた人々は、誰で、何故、天の都に来れるのか説明できていません。もっとも、千年間と限定的にサタンを拘束する意義もまったく無いのですが、この理由も彼らは説明できていません。当該章を文字どおり解釈するのでは、矛盾が多いし、説明できない箇所が多く、その時点で誤りであることに気付かないといけませんが、彼らは、その矛盾や誤りに目をつぶっています。

よって、この世の終わりと新しい天と新しい地の世界の間に、千年王国という”つなぎ”のような期間は存在し得ないのです。これが存在する聖書的根拠を彼らは一切見出せていません。ヨハネの黙示録20章を文字どおりに解釈することは根拠とはならず、そうすることは、過去記事「ダニエル書の七十週預言の真実」で説明した七十週預言の最後の1週を遠くに置いて二千年以上の空白期間を勝手に作り出す解釈に似た無謀な解釈です。イザヤ書65章を千年王国の根拠として持ち出す者もいますが、イザヤ書65:17に「新しい天と新しい地を創造する。」とあり、何故この文脈で千年王国のことだと言うことができましょうか。千年に関わる言葉が一つもありませんし、イザヤ書65:18に「創造する。」という言葉が二回も出てきます。また、ヨハネの黙示録20章には創造に関する言葉は一切ありません。よって、イザヤ書65章が新しい天と新しい地のことを言っているのは明白であり、これを千年王国の描写とする解釈は明確に誤りです。

 

また、彼らは、シオニストらが意図的に建国した中東のイスラエルにいる自称ユダヤ人らが回心すると信じ込んでおり、ヨハネの黙示録7:4の十四万四千人と結び付けています。過去記事「現在進行で人類は選別されている」で少し言及したように、今のイスラエルという国は、昔からのユダヤ人ではなく、ハザール人をはじめとする偽ユダヤ人が支配する国家です。この世に現存するイスラエルが、聖書が言うイスラエルと捉えるのも大きな間違いです。これは、聖書を文字どおり解釈することから由来しており、まったく正しい解釈とは言えません。むしろ、彼らは、「自分はユダヤ人であると言う者ども」(黙示録2:9)なのです。

 

千年王国という理論で一番おかしいのは、キリストが統治する完全な世界においてもなお、この世と同じく死が存在することの説明がつかないことです。彼らは、イザヤ書65章と関連付けて、千年王国でも死が存在すると平気で言ってのけます。千年王国で死んだ後はどうなるかも彼らは一切説明しませんし、できません。現段階で既に亡くなっている真のクリスチャンは、キリスト再臨の時に復活して、千年王国に入り、そこでも死ぬと言っているようなものです。真のクリスチャンでも不信仰の者と同じように二回も死ぬと言っているようなものです。そんな記述は聖書のどこにもありません。新約聖書の福音書で、主イエスは「永遠の命を得る」(ヨハネ3:15,16)と宣べ伝えておられるのに、何故それを否定することを言うのでしょうか。彼らはクリスチャンと自称しながらも、主イエスの教えを否定、即ち、反キリストの主張をしていることに気付いていません。イザヤ書65:20に、死のことが言及されていますが、これは寿命が尽きる死を意味しません。これは、死が無くなることの暗示です。長寿で若死もなく、木の一生のよう(イザヤ書65:22)とも言うことで、寿命に関する煩いがなくなることを暗示しているのです。イザヤ書65章もまたすべてを文字どおり解釈するから、とんでもない誤解をするのです。また、主イエスも以下のように仰っています。

 

新約聖書 ルカによる福音書 20章34~38節

イエスは言われた。「この世の子らはめとったり、嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちはもはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

 

主イエスのご説明は明確ですね。この世を去って、復活して次の世(新しい天と新しい地)に入るか、生きたまま携挙にあずかる人は、天使のようになり、もはや死ぬことがないのです。さらに、キリストが支配する次の世において、未だに死が支配しているというのも実におかしい考え方であり、死は罪の報酬と前回記事「ハロウィンと罪の報酬」でも説明したとおりです。この世を去って、復活にあずかっておきながら、次の世においても死ぬということは、罪が存在し続けることを意味します。キリストが直接統治する世界では、新生して罪とは無関係になった真のクリスチャンしかいないはずなのに、そこでもまた死ぬというのはまた神に反逆するというサタンの考え、即ち、反キリストの考えに他なりません。また、死と陰府を火の池(地獄)に放り込む(黙示録20:14)権能がある神、天と地の一切の権能を授かっている(マタイ28:18)主イエスに対する侮辱行為に当たります。したがって、千年期前再臨説は、それを裏付ける聖書的根拠が無く、論理矛盾も多く、千年王国でも死(罪)が存在するとして、暗に主イエスを侮辱しており、到底是認できる考えではないということが明白です。艱難期前携挙説と同様に、千年期前再臨説は、非常に問題のある考えと言わざるを得ません。

 

次に、②千年期後再臨説ですが、これは、この地上において次第に世界中でキリスト教化が進んで、霊的な祝福期間が千年続き、その終わりにキリストの再臨があり、最後の審判が行われ、サタンが滅亡し、その後に新しい天と新しい地の世界が来ると感がる立場です。この立場を取る人は、聖書の終末預言を過去のものとして解釈する(過去主義解釈)ようです。これは過去記事「携挙の真実」で説明したとおり、イエズス会のアルカザールの影響と考えられます。①と違うのは、キリストの再臨が千年王国の後という点ですが、千年王国の開始時期が不明であるし、終わりもまた不明です。また、霊的祝福期間が千年というのも聖書上に根拠が見られないどころか、このようにキリストの再臨前に地上での最盛期を迎えることは聖書全体を通して語られる終末の破局的兆候とは相反するものです。よって、この考えは、まったく聖書からこれらの説明がつかず、まったく非聖書的な考えと言わざるを得ません。また、キリストの再臨の時期をずらしただけで、基本的には①の千年期前再臨説と同じようにおかしい理論です。現在では、この立場を取る人はほとんどいないでしょう。

 

最後に、③無千年王国説は、文字どおりの千年王国は地上には存在せず、霊的、天にあるものと考える立場で、千年は具体的な統治期間を指さないとします。この考えは、サタンが千年間縛られるというのは、サタンが完全にキリストの支配下にあるという意味であり、キリストの統治は完全な勝利の状態を指すとします。しかし、この考えの問題点は、当該章だけで六回も使われる「千年」という言葉の存在を曖昧にして説明できていない点と、キリストの完全な勝利としている割には、サタンが未だに暗躍している点です。まず、ヨハネの黙示録20章1~7節という短い聖句間に六回に及んで「千年」という言葉が出てきますが、無千年王国説では、これについてまったく説明がつきません。繰り返し六回も言われているこの語句を完全に無視していますし、詩編90:4やペトロの手紙二3:8の内容も無視することになり、当該説も大いに疑問が残ります。次に、キリストの統治が完全な勝利ということですが、それはこの地上に適用できません。天では完全でしょうが、誰が見ても分かるとおり、この世では悪がはびこり、悪が支配しています。世には多くの偽教師や偽預言者、教会には偽りの教義を教える牧師がはびこり、このような状態では、未だ完全な勝利の状態とはいえません。天だけでなく地も、即ち、サタンや悪魔、それらに惑わされた人間もすべて滅びなければ、完全な勝利とはいえません。それが実現する時は、キリストの再臨であり、その時に悪を滅ぼし尽くすことで初めて完全な勝利の状態となるのです。この考えは、先の二つの説とは異なり、文字どおりの解釈に拘泥しないし、キリストの再臨後にすぐに新しい天と新しい地の世界が来ると解釈している点は良いのですが、上述のとおり、六回も書かれている千年という語句を無視している上、昔から現在に至るまでサタンがこの世を支配し、完全な勝利の状態ではないので、これもまた不正確な解釈に基づく考え方であると言わざるを得ません。

 

以上、簡潔に要点をおさえて、世間で言われている3つの説について書きました。それぞれの説を支持する人たちは、他にも聖書に根拠を求めて懸命に正当化しようとするでしょうが、私は正当化できないと思っています。私が挙げた各説への批判は反証し得ないものだからです。では、何が正しい解釈なのでしょうか。もう既に、上述と過去記事で手掛かりは申しました。この時点で、まだ私の論証は終わりではありません。答えは、既にありますが、字数制限を超えたので分割せざるを得なくなりました。続きは、後日公開します。

 

前回記事のコメントで告示したとおり、それぞれの記事内容についてのみの投稿を許可します。記事内容と関係のないコメント、論点が違うコメントは申し訳ありませんが回答せずに削除します。当記事に限らず、あなたがたの意見等の投稿は、それぞれの記事において受け付けます。無秩序に、最新記事だけに対してコメントすることのないようにしてください。なお、当記事の内容に対する質問は現段階では受け付けません。質問は、後編の記事を読んで、それでもある場合だけにしてください。また、質問する前によく考えた上でしてください。よく考えれば分かる、少し調べれば分かるような質問はなるべく避けてください。みなさんは、後編の記事公開まで聖書的な結論を考えてみてください。

 

後編に続きます。