こんにちは。

 

今回は、神の律法を遵守することと、その過程で発生する様々なサタンとの戦いについて書きます。

 

聖書と当ブログで、聖書の真理を学んでこられた人は、神の律法、即ち、モーセの律法の重要性とパウロや主イエスの弟子たちを通じて地上で主イエスが宣教された教えの内容の真実性を認識できたと思います。まだ認識できない人は、是非何度も読んで理解するように努めていただければ幸甚です。しかし、いくら頑張っても聖書の内容も私の宣べ伝えた内容も理解できない、または理解しようともしない者が大多数で、中には敵対心を燃やして暗に反論をしている者がいることは私には分かっています。そのような人たちは、世に属する人間であり、またその数が非常に多いのです。世に属する人間とはどのような人間かということも複数の過去記事で説明してきました。簡単に言えば、世に属する人間とは、神に属さない人間であり、この世が本物であると信じてしがみつき、この世と世にある物を愛し、聖書の真理を愛そうとせず、人間の法律や慣習、伝統、教え等を守るが神の律法を守らず、主イエスの教えを曲解して信じ、または主イエスを信じない、聖書の真理に合致しない趣旨の人間の教え等を聖書の教えとして付け加えたり、聖書の真理の内容を削ったりする者であり、即ち、反キリストです。

Behold Israelという団体の偽教師Amir Tsarfati(アミール・ツァルファティ)やその団体に所属、または追従するにわかクリスチャン、その他多くのプロテスタントの牧師たち、その他多くの自称クリスチャンも、携挙が艱難前に起きるという嘘を吹聴し、将来突如として出現する独裁者が反キリストだとするイエズス会発端の創作話で、それを受け継いだディスペンセーション主義者の主張を上塗りで述べているに過ぎません。彼らのような偽教師は、世のことばかりをしきりに話し、世の出来事を無理やり聖書にこじつけようとしていますが誤った解釈が多いです。彼らは、2017年12月6日にアメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことで中東戦争が起こるかもしれないと騒ぎ、携挙が近いとも騒いでいます。彼らはいつになったら懲りるのでしょうか。このような彼らの言動は非常に迷惑極まりないです。世の大半の不信仰の者や異教徒からは、このようなにわかクリスチャンを見て、「また携挙とか騒いでるけど何もないだろう。」、「何年携挙が近いと言ったら気が済むんだろう。」と思われ、嘲笑の的になっています。彼らの間違った聖書解釈に基づく言動で、クリスチャンの品位を損ない続けています。携挙については、複数の過去記事で時折言及してきましたが、詳細にまとめたのは、過去記事「携挙の真実」で真実を確認ください。それでも考えを改めない者は、既に背教しています。

 

プロテスタントというのは、中世時代にローマカトリック教会の誤った教義に反対して生まれたものですが、現代ではもはやカトリックに対抗することもなく、特に同性愛認容や日曜礼拝、モーセの律法を蔑ろにすることで顕著なように、聖書の教義も曲解し続けている点において同じ反キリスト集団になっており、今ではプロテスタントという名前そのものが本来の成り立ちとかけ離れています。本来、プロテスタントとは、英語のprotestantであり、その意味は、カトリック教会に異議を唱える者として誕生した新教徒でした。しかし、現代のプロテスタントは、カトリックに異議を唱えることもなく、カトリックとともに聖書を曲解し、主イエス・キリストに対してのプロテスタントになってしまっていることに人々はまったく気が付いていません。要するに、プロテスタント信者は自覚なしに主イエスに異議を唱えているのです。彼らは、クリスチャンと自称していますが、主イエス・キリストの教えと聖書の真理を愛さず、聖書を曲解した教えを信じて背教しているにわかクリスチャンでしかありません。より柔和に、互いに歩み寄る、論争を起こさないでみんな仲良くというのが彼らの専らの目標になり、間違った教義に染まった世に迎合している姿勢が明白です。勿論、柔和等でいることは重要で、このように厳しく言っている私は普段はいたって柔和です。しかし、殊更、聖書の真理やそれに基づいた信仰や考え方等については厳しくなります。なぜなら、これらの点については曲げてはいけない部分だからです。過去に申してきたとおり、私は、世に倣うことを厭います(ローマ12:2参照)。なぜなら、「世の友になることが、神の敵となり、世の友となりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」(ヤコブ4:4)ということを知っているからです。これは、聖書のみに依拠し、主イエス・キリストへの信仰に立ち、その正しい信仰に照らして善しと判断できない事柄や世間の慣習や考え方に盲目的に従わないことを意味します。

 

カトリックは、過去に述べてきたようにキリスト教に区分できるものではなく、偽キリスト教であり、カトリックやイエズス会に所属する者たちは、クリスチャンではなく、カトリック信者という異教徒です。カトリックは、過去記事「カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘」でも簡単に述べたとおり、聖書に書かれていない教えや聖書の真理に反する教えをふんだんに盛り込み、主イエス・キリストを全人類を救うことのできる唯一の救い主と信じず、マリアというただの人間を聖母という意味不明な称号をつけて崇めています。また、メシアである主イエスを幼児姿で描写をして、主イエスを無力の象徴として侮辱しています。カトリックのマリア崇拝は、創世記にある反逆者ニムロドと彼の母であり妻であったセミラミスが起源です。セミラミスは、後に生まれた息子タンムズが彼女の息子ニムロドの生まれ変わりだと主張し、ニムロドを神格化して太陽神として崇めるようにして始まったのが太陽神バアル崇拝です。太陽神バアルが各地に広がって地域によって変化し、エジプト神話の太陽神ラーやホルス、ミトラ教のミトラス、ギリシア神話のアポロ等と派生していきました。これは過去記事「クリスマスと太陽神崇拝」でも述べたとおり、クリスマスは太陽神バアルの誕生を祝う儀式なのです。よって、偽預言者RAPT等が言っているようにミトラ教のミトラスのことだとだけ主張するのは間違いで、特定の太陽神の名前を挙げるのは、すべての太陽神の根源であるニムロド、即ち、バアルの存在を隠しているのです。この事実を認めようとしなかったり、バアル以外の特定の太陽神のことだと決めつけて元凶のバアルから目を逸らそうとする者は惑わされています。そのような者は、盲目的、または故意に太陽神崇拝儀式であるクリスマスを祝うのです。即ち、彼らは太陽神(サタン)崇拝者なのです。もし、今まで世に惑わされてクリスマスの本質を知らなかったけれども、知った今、すぐに悔い改めるならば、まだ遅くないでしょう。聖書の真理に気付いて目を覚まし、早く悔い改めなければ、個人の救いの恩恵期間が終了し、完全にサタンに霊的にも肉体的にも毒され、手遅れになってしまいます。

 

前置きが少し長くなりましたが、神の律法について述べていきます。

聖書をよく読んで理解すれば分かるはずのことなのですが、神の律法、掟、戒めというのは旧約時代から基本的な根幹部分は一切変わっていません。律法の根幹は愛であるということは過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」で述べたとおりです。変わったのは、主イエス・キリストが地上に来られて成し遂げられた十字架の贖いによって動物の犠牲制度や地上の聖所や祭司制度、贖罪をはじめとする儀式等が廃止されたことです。過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で強調したように、安息日は不変の定めであり、真のクリスチャンならば当然に遵守すべき掟です。世間ではカトリックの影響から日曜日を安息日だと盲信しているにわかクリスチャンや不信仰の者が多いですが、真のクリスチャンは彼らの主張には一切耳を傾けずに聖書どおり遵守します。

 

聖書で律法についてどのように書かれているか確認してみましょう。

 

旧約聖書 詩編 19章8~9節

主の律法は完全で、魂を生き返らせ

主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。

主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え

主の戒めは清らかで、目に光を与える。

 

旧約聖書 詩編 119章142節

恵みの御業はとこしえに正しく

あなたの律法はまことです。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 7章12節

律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

 

詩編119章は神の律法を守ることについて多く書かれており、その重要性がまだ分からないならじっくりと読んでみてください。勿論、旧約聖書だけでなく新約聖書においても、上記引用以外の箇所で至る所に主なる神の律法を守ることの重要性について書かれています。しかし、人間が作る法律等では絶対に人間を絶対に幸せにはできません。なぜなら、人間の憲法、条約、法律、条例も、司法機関もすべて不完全であり、また、それらは権力者が勝手に決めたものに過ぎず、それらには何の救いの力もないからです。人間の法律等は、時の権力者の意のままで、都合が悪くなれば簡単に変更されるし、法律を適用する相手も権力者の都合で自由に決められます。立法、行政、司法の三権分立など建前に過ぎず、実質的には行政がすべて支配しています。また、新しく法律を作って権力者の都合で無罪の人でも犯罪者に仕立てあげることも可能だからです。しかし、神の律法は不変であり、神は人間のように偽ったり、気が変わることのないお方です(サムエル記上15:29、詩編55:20、マラキ書3:6、ヤコブ1:17)。神の律法や戒めに従うことこそが、被造物たる人間の真の幸せとなるのです。安息日も「神を愛するということと人が生きる意味」で述べたとおり、人間、また家畜たち等を休ませて元気を回復する(出エジプト記23:12参照)ためであり、人間に苦痛を与えるためのものではありません。しかし、世に属する人間にとっては、安息日遵守をはじめとするモーセの律法に従うことは苦痛で仕方がなく、それは肉体的のみならず、霊的にも苦痛を感じ、神の律法を遵守できないのです。そのことは、彼らが神の民ではない証拠となっています。パウロや弟子ペトロやヨハネ等が書き残した新約聖書には安息日について重点的に説明していません。その理由は、何度も過去に申したとおり、新約聖書が書かれた1世紀当時は、旧約聖書に書かれているとおり、金曜日の日没から土曜日の日没までの安息日遵守が当然のことで、議論の余地がなかったからです。しかし、それから時が経つにつれて反キリストによって安息日が日曜日に変更され、人々は反キリストの教えが正しいと盲信しました。現代では、ほぼ完全に蔑ろにされているので、私がこうして力説しているのです。安息日は、神が被造物のためを想って守るようにお命じになったのです。神の律法は、神の御国に入るために必要、かつ、正しい人間であるための心得、また罪とは何かを教えてくれるものです。

 

過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」で述べたように、サタンは、神と神の掟に忠実に従う人間を忌々しく思い、サタンは旧約時代からひたすら人間を神の律法に従わせないことで人間に神の怒りを降り注がせては喜んでいるのです。過去記事「ダニエル書の70週預言の真実」で説明したとおり、旧約時代のイスラエルの民は度々堕落して主なる神の教えから逸れて他の神々(サタン)を拝んだり、偶像礼拝をやめなかった背信から神の怒りを買い、ついには選民から外れ、異邦人伝道が始まって全人類に救いの機会がもたらされました。それは、人間が神の律法を守らないという不法行為、即ち、罪が招いたことです。現代の律法廃止論者で自称クリスチャンたちの多くは、旧約時代のイスラエルの民のように間違っているにも拘らず、自分たちの信じることが正しいと盲信して真理の道を逸れて滅びへの道を歩んでいます。

過去記事「死後の世界」でも触れた創世記の蛇(サタン)から始まったように、サタンは人間に神の御言葉に従わせないように誘惑してきます。サタンは、神の律法を破らせようと人間に戦いを挑んできます。過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」でも述べたとおり、律法や主イエスの教えを守ることは当たり前であって、律法を遵守することは誇ることではありません。律法を遵守しない者は、反キリストなのです。むしろ、彼らは神の律法を犯して、人間の戒め、言い伝えや伝統を守ります。マタイ15:1~20とマルコ7:1~23の「昔の人の言い伝え」で主イエスが教えられたように、人間が勝手に作った言い伝えや慣習によって、神の戒めを無にし、イザヤ書29:13でも書かれているように「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」(マタイ15:8~9)とあり、まさに教会や宗教団体に所属したり通ったりしている多くのにわかクリスチャンと律法に勝手に付け加えたり、律法遵守のみで義とされると誤信しているユダヤ教徒に向けられた主イエスの御言葉です。複数の過去記事でも説明したとおり、日曜礼拝がその最たる誤謬です。聖書に週の初め、即ち、第一の日(現代の日曜日)に神を礼拝するべきだとする文言、聖なる日であるとする文言は一切ありません。それにも拘らず、何故自称クリスチャンたちは日曜礼拝をするのでしょうか。それは、過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で説明済のとおり、ローマ皇帝のコンスタンティヌスが321年に日曜休業令を出したことと、364年にローマカトリック教会がラオデキヤ会議で、安息日を教会の権威により、神に逆らって、土曜日から日曜日に変更したことに従っているからです。または、日曜礼拝は主イエスが日曜日に復活したから日曜日に礼拝すべきだとか意味不明な言い訳をすることがありますが、主イエスが復活した曜日に礼拝するというのは聖書にまったく根拠の無い考えであることには変わりありません。結果的に、プロテスタントも行いとしてカトリックのしていることと同じであり、カトリックという人間の言い伝えや慣習に従い、冒頭で述べたとおり、プロテスタントも神に逆らっているのです。

 

何故、私はこうも神の律法遵守をしきりに説明し、過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」では行いのみならず、心の中までも悔い改め、律法は愛から成り立ち、愛の重要性を説いているか分かりますか。私が律法主義者だからだと思っているのですか。そう思っているのは、神に逆らうカトリック信者等の異教徒やカルト宗教信者(エホバの証人、統一教会、摂理、RAPT教等)、そしてカトリックに汚染されたプロテスタントの信者たちでしょうが、見当違いも甚だしいです。律法主義者がどういう者たちかは私が過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」等で説明済であり、分からないなら読んで勉強してください。それでも認識を改めず、怒りや反抗心を抱くならば、反キリストになっています。神は愛(ヨハネ一4:8)であり、律法は愛から成り立っていることは過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」で説明したとおりです。モーセの律法を蔑ろにするにわかクリスチャンたちは、迫害を受けることはないでしょう。なぜなら、神の掟と戒めを守らないからです。むしろ、神の律法を無視する彼らは迫害する側になるのです。即ち、彼らのような背教したにわかクリスチャンたちと不信仰の者や異教徒が一緒になって、真のクリスチャンを忌々しく思って迫害するのです。ヨハネの黙示録に「神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たち」(黙示録12:17)、「聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」(黙示録13:10)、「ここに、聖なる者たちの忍耐がある。ここに神の掟とイエスの信仰を守る者がいる。」(黙示録14:12私訳)とあるとおり、主イエス・キリストを唯一の救い主と信じて模範として従順に従い、主イエスのように神の掟を守って慎ましく生活している者たちが真のクリスチャンであり、聖徒なのです。過去に何度も申したとおり、律法廃止論者や律法を守らないにわかクリスチャンたちは背教者であり、不信仰の者やカトリック等の異教徒と同じように反キリストなのです。また、偽預言者RAPTとRAPTを中心者(教祖)として従うこと者も反キリストです。

 

果たして、私の言うことを本当に心から理解して悔い改めて神の御心を実践している者がいるでしょうか。主イエスも「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:8)と仰ったとおり、キリストの再臨時に真のクリスチャンを見つけられるだろうかと疑問を呈されています。勿論、この御言葉は真のクリスチャンが皆無という意味ではなく、キリスト再臨が近い終わりの時代において、見つけられるか不安になる程に真のクリスチャンの数が非常に少ないことを意味しています。このように真のクリスチャンの数が非常に少ないことは既に過去に述べたことです。真のクリスチャンは、聖霊の導きに従い、肉の思いに歩まず、霊の思いに歩んで生きています。以下の聖書をよく読んでください。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章5~8節

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

 

上記聖句は、過去記事「主イエスの受肉」でも引用したのですが、この聖句のとおり、肉の思いを抱いて、肉の欲を求め、それを満たすことばかり考えて生きている者は、肉に従って歩む者であり、世に属する人間なのです。これらの者たちは、神の律法に従い得ないと書かれています。なぜなら、神に敵対する存在だからで、即ち、反キリストなのです。このことは私がもう何度も申しているとおりです。このような者たちは兄弟ではありません。彼らは私とは絶対に相容れないですし、主イエス・キリストとも相容れない存在です。彼らがいくら「イエス様」、「主よ、主よ」等と言って表面的に信仰を言い表したとしても口先でしかなく、この世で好き放題に生き、自分に都合の良いように聖書を曲解して信じ、この世で何でも成功したい、何でも上手く行くようにしたい、極力何の努力もせずに楽をして天国に行きたいと願う利益信仰者か、地獄に行きたくないとか艱難が怖いと思って携挙としきりに連呼している臆病者で、行いがいつも欠けており、信仰の義を体現できない偽り者なのです。

 

主イエスが律法について明確に廃止されていないと仰っているにも拘らず、精神の根本から腐っているにわかクリスチャンたちは彼ら自身が背教している事実を認めようとせず、ただ虚しく主イエスを崇めています。

 

新約聖書 マタイによる福音書 5章18節

すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 

上記聖句は過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」でも引用しました。主イエス御自身が上記のとおり仰ったのです。モーセの律法は決して無効になっていないのです。天地が消え失せるまでというのは、世の終わりとなるキリスト再臨の時までです。神の律法を守らなくてよいとか、守れなくても仕方がない等と言って不法に満ちている人を避けなさい。彼らは、行いは不要で信じるだけで救われる、律法は過去のもの等と言って聞く耳を持たないでしょう。律法を守ることについての論争は長年され続けており、これこそ神とサタンとの戦いでもあり、神に属する人間と世に属する人間との戦いでもあります。主なる神は、御自身がお選びになった人間とそれ以外の人間を区別するために、神と神の民の間のしるしとして安息日をはじめとする律法をお与えになり、誰がまことの神か、創造主かを人間に示してくださいました。サタンは、神の律法を守ろうとする人間を憎み、サタンに仕えたり惑わされた人間を使って神の民を迫害したり、耳触りの良い虚偽の教えで騙して仲間に取り込もうとしたりします。これは一種の神による鍛錬でもあります。それらにも屈せずに神の律法を守り通す者が神の民となるのです。肉の思いや肉の欲に屈して神の律法を最初から無視したり、途中で従わなくなる者は、背教者です。律法を守らずして、聖書の真理を正しく理解することは決してできません。なぜなら、そのような不法を働く者には聖霊は来ないからです。にわかクリスチャンが聖霊と騒いでいるのは悪霊のことです。彼らはサタンによって起こされる奇跡やしるしを聖霊や主イエスからのものだと誤信しています。

律法廃止論者や律法を守らない者は、以下の聖句をもって自分の行いを正当化します。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 14章5~6節

ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。

 

上記聖句を根拠として、日曜日に礼拝することや日曜日を安息日と考えることは問題ないと考える者が多いです。当該聖句は、各自が確信さえしていれば何を信じてもよいと思い込ませるための言葉では決してありません。この後に、「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」(ローマ14:12)とあるとおり、日曜礼拝や日曜日を安息日とした根拠について死後に神に弁明しなければならないのです。その時に、間違った信仰であったことが分かるでしょう。しかし、それでは手遅れですので、今、私がこの誤った信仰や礼拝を指摘しているにも拘らず、それを頑なに受け入れないことの報いも受けるでしょう。パウロも以下のように言っています。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 3章31節

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章1節

では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 

上記聖句のとおり、律法を無視するように書かれていません。正しい信仰をする者は、律法を無視するのではなく、律法を守ることを当たり前と考えるのです。なぜなら、罪は律法を犯すという不法を意味するからです。律法を守らないと不法ということになり、罪の中に生きることになります。それでは、肉体的に生きていても霊的には死んでいるのです。

 

過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」や「罪への正しい認識と愛の重要性」でも引用したとおりですが、弟子ヨハネも以下のように述べています。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 5章3節

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。

 

神の掟が難しいものではないことは申命記にも書かれています。

 

旧約聖書 申命記 30章11節

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばないものでもない。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 2章3節

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。

 

上記のように、弟子ヨハネも、神の掟である律法を守ることをしない者は偽り者で、その人の内には真理が無いとはっきり述べています。律法のほとんどは当然旧約聖書に書かれています。新約聖書しか読まない人、旧約聖書を蔑ろにしたり、律法を無視している人は聖書の真理も正しい信仰も知らないのです。そのような人たちは、神の律法を自由を奪う束縛と捉え、愛そうとしません。反対に、真のクリスチャンは神の律法を愛しています。それこそが神の民であることに必須だと知っているからです。以下の聖句を知らないのですか。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 一章二十二節~二十五節(拙訳)

更に、御言葉の実行者になり、自分たち自身を欺いて、傍聴者だけになったらあきません。もし誰かが御言葉の傍聴者で、実行者でないなら、その人は鏡の中の生まれつきの顔を注意深く眺めて考える人のようやさかい。自分自身を眺めて注意深く考えて、離れると、自分がどのようであったか、直に忘れるからや。しかし、自由の完全な律法を慎重に調べ、これを行い続ける人は忘っぽい傍聴者やなく、行いの実行者や。この人は、その行いによって聖になるでしょう。

 

この聖句の意味を分かっていますでしょうか。生まれつきの顔というのは悔い改める前の状態であり、自由の完全な律法が鏡や。その鏡を見て自分の間違うてる点を直さなあかんのや。聖書の真理を見聞きしても見るだけや聞くだけで終わってるなら、何の意味も無いんや。聖書もただ漫然と字面を追って読んでも正しく理解せず、行いで直さんのやったら、聖書を読んでも意味が無いんや。なぜなら、その人自身、悔い改めてへんし、生活様式も心の状態も何も変わってへんからや。聖書を読んでも律法を守って主イエスの教えや神の御心を実践せえへんならまったく無意味です。もしあんたがこれを読んで実践せえへんなら、あんたにとって何の益にもなりません。聖書の真理と聖書の御言葉を読んでいる時は感心していても(鏡を見ていても)、読んだ後少し経ったら(鏡から離れたら)直に忘れて従前の状態に戻るのでは虚しいが、にわかキリスト者の実態がまさにこれです。彼らはファリサイ派や律法学者を悪い例に出して、モーセの律法を悪い物かのように言うてますが、彼らはモーセの律法の本質をまったく分かっていません。彼らの考えは、モーセの律法を守る者はファリサイ派や律法学者であるという間違った認識を持っています。以下のとおり預言者イザヤも述べています。

 

旧約聖書 イザヤ書 42章21節

主は御自分の正しさゆえに

教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。

 

上記の「教え」とは、律法です。原語のヘブライ語でתּוֹרָ֖הとあり、英語ではlawです。要するに、神の律法を擁護し、偉大なものとすることを宣べ伝えることを主なる神は喜ばれるのです。主イエスも律法を擁護され、御自身でも守られたことは過去に説明したとおりです。このように、神の律法は不変であり、永遠の定めです。以下の聖句も複数の過去記事で引用してきたものです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

上記聖句の「御心」ですが、英語ではwillが使われています。willは、意志、意図、望み、欲する事という意味です。だから、神の御心を行うとは、口先だけでなく行いとして、神の御意志や神の望むことをすることです。以下の聖句が参考になります。

 

旧約聖書 詩編 40編9~10節

わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み

あなたの教えを胸に刻み

大いなる集会で正しく良い知らせを伝え

決して唇は閉じません。

 

上記聖句は聖書によっては詩編40:8~9になっている場合があります。ここの「教え」も、上述のイザヤ書42:21と同様に、英語ではlawであり、律法です。上記聖句の御旨とは神の御心を意味し、英語では同じwillが使われています。このように、真のクリスチャンは、律法を胸に刻んで常に意識して行いで示し、その素晴らしさを伝えることをやめません。

 

過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で説明したことですが、安息日に限らず、神の定めた律法のうち一つでも破れば、すべてを破ったことと同じことなのです。つまり、妥協は無いのです。以下のとおりです。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 2章10節

律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となる

 

カトリックは、十戒の第2条の偶像礼拝の禁止と第4条の安息日を教会とローマ教皇の権威によって、神に逆らって変更しました。カトリックが偽キリスト教であり、論外であることは私のブログ読者なら分かっているはずです。プロテスタントも第4条の安息日を蔑ろにしています。彼らは、人間の教えや伝統に従うだけで、神の御心を思わず、自分に都合の悪い掟を守らないという自己中心的な人間であり、偽り者なのです。プロテスタントの悪い所はこれだけでなく、ヤコブ2:10のせいで律法の存在を疎ましく思い、いっその事、律法は廃止されたことにすると言った方が楽だと考え、律法廃止論を唱えているのです。すべて廃止してしまえば、一つでも犯したら有罪というような問題が生じないと安易に考えているのですが、これはとてつもなく悪いことです。過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」で説明したとおり、神は愛(ヨハネ一4:8)、愛から成り立っている律法を勝手に変更したり、無きものにする律法廃止論者は反キリストです。主イエスへの信仰を持って神の律法の重要性を知って守っている人は、大きな愛を持っている人です。神は人間に律法をお与えになり、愛を示されると同時に愛とは何かをお教えになりました。ですから、主イエスも「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)と仰ったとおり、愛を行いで示す人は、へりくだって、自分自身が罪深い存在だと認識している人で、神に認められるのです。そして、勿論、その行いの原動力には信仰が必要なのです。主イエスも「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ7:50)と仰り、その罪深い女は、彼女の愛から出る行動の裏にある信仰を認められたのです。しかし、正しい信仰から出ていない見せかけの善行、即ち、偽善的な行いは、周囲の人間の目を気にした結果で、他人から称賛されたいとか良い人間だと思われたいとか、自分自身が善人だと思いたい等、自分のためにしており、このような者の行いは神から評価されません。

 

本当に主イエスの救いが必要だと思うならば、まず、自分自身が罪深いと認めることです。このことができないのにクリスチャンと自称する人の数が非常に多いです。自分は人間の法律を犯したことがないからとか、前科が無いから善人だとか、神を無視してそのような誤った基準で考えて、自分自身が罪深い存在だと認識することを拒んでいます。人間社会において犯罪歴が一切無くても、神から見れば有罪で、悪人なのです。このことを認めることができないようでは絶対に救われません。過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」で説明したとおり、罪は神の律法に背くことであり、罪の自覚を生じさせるものです。しかし、律法を無視してしまうと罪深いという自覚が無くなり、あたかも何も問題がない善人だという錯覚を起こさせます。この錯覚に気付かないクリスチャンがにわかクリスチャンなのです。上述で鏡の話をしたように、律法は人間の品性の欠陥を映し出す鏡です。それを見て直さないといけないのに、受け入れず、見なかったことにして忘れる人が非常に多いのです。律法は人間に罪とは何かを示す指標であり、律法自体が救いをもたらすのではありません。律法自体が救いをもたらさないからと言って無視して良いのではなく、守るのが当たり前なのです。律法を守ることは永遠の命への道であり、守らない者は第二の死に引き渡されます。過去に犯した罪の重さを知った人間を救うことのできるのは主イエス・キリストだけで、カトリックが崇めるマリアやローマ教皇、プロテスタントの牧師といった人間でもなく、偽預言者RAPT、偽教師Amir Tsarfatiといった偽善者たちでもなく、教会や宗教団体という組織でもなく、異教の神々や人の手で造られた偶像でもありません。過去記事でも述べましたが、聖書にはっきりと書かれています。

 

新約聖書 テモテへの手紙一 2章5節

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章六節(拙訳)

イエスは彼に言われる。「我は道であり、真理であり、命である。我によってでなければ、誰も父の御許に行くことはない。」

 

繰り返し言いますが、人間の罪を赦して、救うことのできるお方は、主イエス・キリストだけです。神の律法に違反して神に対して罪を犯したのですから、これまでの行いや生活の仕方を変えて悔い改めをしなければいけません。主イエス・キリストから十字架による贖いの恵みを受けるには、浸礼形式による洗礼を通して、主イエスが説かれた聖書の福音を受け入れて主イエス・キリストが唯一無二の救い主と信じなければなりません。その結果として、モーセの律法と主イエスの教えを守り、死まで従順であり続けて勝利者となり、命の冠を受けるのです。しかし、その過程を経てクリスチャンになった者でも、世の諸教会や偽預言者、偽教師の邪説に惑わされて道を逸れて行く人が多いです。過去記事「千年王国の真実 後編」で説明したとおり、律法廃止論者のにわかキリスト者は、律法の重要性をまったく理解していないので、悔い改めることなく罪を犯し続けて赦されることがありません。そのような状態にも拘らず、救われていると勘違いして、虚しく「主よ、主よ」と言っても、後で、主イエスから「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。」(マタイ七章二十三節拙訳)と言われ、泣きわめいて歯ぎしりするでしょう。

 

過去記事「ダニエル書7章の預言と反キリスト」で説明したとおり、過去にローマ教皇が絶対的な権力を振るっていた時代、即ち、538年から1798年までの1260年間、ローマカトリック教会が聖書に対して抑圧を加えていたので、人々が聖書の真理を知る機会が失われていました。しかし、現在のように自由に聖書を読むことができる時代でも、不信仰の者が多く、ほとんどのクリスチャンが正しい信仰を持たない状況になっています。サタンは、聖書を人の手から遠ざけようとしていた過去の時代はそう続かないと知り、律法を変えたり、律法を無きものにして信仰を破壊しようと画策し、現実に成功しています。そのせいで、多くのクリスチャンがにわかクリスチャンに成り下がっています。サタンは、神の律法そのものと主イエスの信仰を持って律法を守る神の民が憎たらしくて仕方ないのです。同様に、律法を守らない蝮の子であるにわかクリスチャンも真のクリスチャンを憎んでおり、反抗してきます。いずれ、これらのにわかクリスチャンたちは、ローマ教皇に従うカトリック信者や不信仰の者と協働して真のクリスチャンを攻撃、迫害するようになります。実際、その不法の力は既に働いています。あなたは聖書の真理を信じて、愛していますか。もしそうならば、私が述べたことも聖書の内容もきちんと理解していることでしょう。もし、あなたが私の言うことと聖書の真理も理解できない、受け入れ難いと思っているならば、残念ながら既に反キリストとなっています。このことは動かぬ事実です。なぜなら、聖書がそのように言っているからで、私は好き勝手に自分が言いたいことを言っているのではありません。サタンは、主イエスの信仰の故に神の律法を忠実に守る者を、律法を守らないように攻撃してきます。安息日が日曜日とか、律法は過去のものやユダヤ人だけのものとか、同性愛と同性婚を認めるべきであるというのが現代の典型的なサタンの攻撃です。だから、主イエスが「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)と仰ったとおり、正しい信仰には忍耐が必要になるのです。過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」で書いたとおり、同性婚はこれまでにない位の勢いで各国が合法化しています。2017年12月8日にオーストラリアが世界で26番目に同性婚を合法化しました。参考までにこちら(BBC)。世界は反キリスト化が止まらず、ますます神に逆らって悪い状態になります。聖書では明確に同性愛は罪とされており、この定めも不変ですので、聖書のみを信じる真のクリスチャンは世界を敵に回すことになります。私は、好んで世界の敵になろうとしているのではなく、神に従う故に仕方なくそうなるのです。もっとも、サタンがそのように仕向けているのです。反対に、神の律法を守らないにわかクリスチャンは、律法を無視するので、この世に敵対することがなく、彼らの間違った信仰には忍耐を必要とする場面が無いのです。

 

罪深い人間が主イエスの信仰を持ち、神の律法を遵守し、神との関係を構築して持続させ、普段の生活で信仰から来る正しい行いをし、慎ましい生活を送ることで義となります。しかし、金遣い荒くゴルフをしたり、その他の世俗の娯楽に熱心になったり、物欲から高価な物やその他不必要な物を買ったり、飲み会等で飲酒に耽って悪口や愚痴等の無駄口を言い合ったり、金銭欲から聖書を悪用して金儲けをしている者たちは、自らにわかクリスチャンと証明しています。これらはほんの一部の悪い生活であって他にも無数にあります。何故、これらを私は非難するか分かりますか。決して妬み等ではなく、以下のとおり聖書にあるからです。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 3章10節

神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

 

上記聖句のとおり、正しい生活とあり、英語では正しい行いを意味します。上述で私が列挙したようなことをしている者は正しい行いをしていません。正しく見せかけているだけであって、まったく偽り者がする生活です。また、私について直接的、または遠回しに正当な根拠も無く批判する者たちは、私を兄弟として愛していないことが明白です。そのような者は、世に属する人間(悪魔の子たち)であり、口先だけで主イエスを信じると言う者たち、またはクリスチャンと自称しつつ主イエスに従順でない者は、聖書を知らずに無知で神に逆らう者たちよりも悪く、死後に人一倍厳しい裁きが待っています。そのような人々の一部が携挙について執拗に騒いでいますが、彼らには携挙はなく、待っているのは火と硫黄、第二の死という破滅だけです。このように言うのは、私の個人的な意見からではなく、聖書の真理から導き出される当然の帰結からです。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上