こんにちは。

 

今回は、罪への正しい認識と愛の重要性について書きます。

 

過去記事「罪について」では、原罪というものが存在せず、罪は遺伝も世襲もなく個人の問題(申命記 24:16、列王記下14:6、歴代誌下25:4、エゼキエル14:14、14:20、18:20参照)、罪とは律法に背くこと(ヨハネ一 3:4)、確信に基づかないで行動すること(ローマ14:23)、善と知りながら敢えてしないこと(ヤコブ4:17)ということを説明しました。

カトリックという偽キリスト教が、罪について、原罪やマリアの無原罪懐胎等のデタラメ教義を説き、人々を騙して罪への正しい認識を鈍らせています。また、カトリックだけでなく、プロテスタント等も同様に原罪を認容し、原罪に限らず他の多くの教義においても偽りを教え、聖書の真理から遠ざかっています。

 

私は、複数の過去記事において、罪に関連することを多く述べてきました。上述した内容だけではありません。信仰の義と律法主義等にも触れ、実際に誰の目にも分かる行いや言葉だけでなく、動機という心の中も関係してくるのです。主イエスが「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(マルコ7:20~21)と明確に仰っているとおりです。不信仰の者もにわかクリスチャンも同じく多くの人々が、人の目に良しとされるかを基準に考えている人が多過ぎます。しかし、真の基準は神であり、神の御言葉が書かれた聖書であり、神がモーセを通して人間に与えられた律法です。よって、どんな地位の人間でも、どんなに多くの人間が認めて支持しようとも関係無く、神が罪と定めている事柄に合致すれば、その人は罪人なのです。人間が作った法律に違反しない人が善人なのではなく、聖書の真理、主イエスの教えと神の掟を守るか守らないかで決まるのです。聖書にあるように、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)。しかし、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:24)とあるとおり、主イエス・キリストの十字架で成し遂げられた贖いの業によって、主イエス・キリストを唯一の救い主と信じ、神の掟を守ることで、義への道が開かれるのです。しかし、世に多いにわかクリスチャンは、表向きは聖書を読み、教会に通い、讃美歌を歌って、または説教したり、証しという建前で自慢話をしたり、あたかも熱心で敬虔なクリスチャンを演出していますが、実のところ、聖書の真理を理解せず、まったく神の御心を行うことなく、偽善に満ち、心の中も真っ黒です。

殺人、窃盗、強盗、詐欺、同性愛、同性婚、偽証、姦淫等は、実際に行いとして外部から明確に罪と分かることですが、行為として外部に出なくても心の中にあることをも神は見通されていることを知るべきです。天の国に相応しくない者として明確に、「姦通(不貞行為)、盗み、違法な性交(婚外交渉)、殺意、盗み、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(冒涜)、高慢(自尊心や誇り)、愚かさなど」(マルコ7:21〜22)と主イエスが仰っており、これらはほんのいくつかの例示に過ぎませんが、この中では「殺意、悪意、好色、ねたみ、高慢」が外部に出ない心の中の状態です。実際に殺人をしなくても殺意を抱くこと、他人に害を与えようとか他人を憎んだり恨んだり中傷する悪意、心の中でみだらな思いを抱くことをいう好色(マタイ5:28)、他人を羨んだりするねたみ、高慢は表に出る場合も含みますが、表に出なくても心の中で自分だけが正しいとか、正しい助言を聞いた振りをして聞き入れないとか、他人や神をみくびる思いを抱いていることであり、これらは表に出なくても天の国に入る者として相応しくない心の状態、即ち、これらの思いを抱いているようでは神の御国に入ることができないのです。なぜなら、それらの思いを抱く人は、神に属する人間の品性、即ち、イエス・キリストの品性ではないからです。

また、パウロも、「婚外性交する者、偶像を礼拝する者、姦通する者、女々しい者、同性愛者、泥棒、貪欲な者、酒におぼれる者、口の悪い者、ゆすって人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぎません。」(コリント一6:9〜10私訳)と書いており、弟子のヨハネは、「臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、婚外性交する者、魔術を使う者、偶像を拝む者、あらゆる嘘つき」(黙示録21:8私訳)とも書いています。行いが中心ですが、行いのみならず、このような行為をするためにまず生じる動機や心の中の思いを抱くことから罪となることを知るべきです。そのような行為をするのはクリスチャンならば論外ですが、現実にこのような行いをしたり、心の中で肉の思いが強い自称クリスチャンが多いのは事実です。そして、そのような思いを抱く者もまた、永遠の安息の地である神の国、即ち、新しい天と新しい地に行くことはできません。

 

罪は犯した数が多いと不利でしょうか。また、人間の罪への考え方、例えば、刑法における量刑の重さ等を基準にして罪の重さとしてより重い罪を犯すと不利であると考えるのでしょうか。これらの考え方は、真のクリスチャンならば、誤りと言わなければなりません。この罪の重さについては過去記事「サウルとダビデの違いとダビデと主イエスの関係」で既に触れました。改めて説明しますが、罪の軽重というのではなく、悔い改めたか否かなのです。これは過去記事「真のクリスチャンであるためになすべきこと」でも引用した聖句で、以下のとおりです。

 

新約聖書 ルカによる福音書 13章2~5節

イエスはお答えになった。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 

上記聖句のとおり、主イエスが二回も繰り返し強調されて「悔い改めなければ滅びる」と仰っています。また、罪の軽重は関係ないことも明白です。他の誰かよりも多く罪を犯したから赦されないとか、他の誰かより重罪を犯したから赦されないとか、過去に律法に違反したからとか、人の考える基準ではなく、神の視点から考えれば、悔い改めたか否かなのです。悔い改めるとは、聖書の真理と過去の過ちから学んで二度と同じ罪を犯さないことです。

誤解され易い話を一つしておきます。例えば、重罪を犯した犯罪者「甲」さんと犯罪歴の無い人「乙」さんを比べた場合、一般人の考えでは、犯罪者甲さんが悪人で、犯罪歴の無い乙さんが善人となっていますが、神の視点からでは必ずしもそうとは限りません。上述したように、悔い改めたか否かが重要なのであり、犯罪者でも真に悔い改めて信仰するならば、神の御国に入れる余地があります。他方、犯罪歴の無い乙さんは、この地上で上手く世渡りをして他人から悪く思われないように必死に取り繕いながら生活し、聖書の真理を愛そうとせず、人間の法律や慣習を守って神の掟を守らず、上辺だけの信仰で悔い改めない(本人は悔い改めたと思い込んでいる)場合は神の御国には入れません。

以下の聖書のとおりです。

 

旧約聖書 エゼキエル書 18章21節

悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。

 

旧約聖書 エゼキエル書 18章27節

しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。

 

悪いと知っていながら懲りずに何度も繰り返すのでは、悔い改めたことにはなりません。神は、心から真に悔い改めて神に立ち返る人をお救いになるのであって、口先だけで行いで悔い改めるつもりがない者、聖書の真理を愛そうとせず、偽りの教えや耳触りの良い話に耳を傾けて盲信するような神に逆らい続ける者たち(にわかクリスチャン)は裁かれ、ふるい落とされていきます。 

 

主イエスが「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、聖霊に対する冒瀆は赦されない。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31〜32私訳)と仰ったとおり、決して赦されない罪があります。それは、聖霊を冒涜する罪、聖霊に言い逆らう罪です。これは、聖霊の力で働いている人を悪霊の力だとか、偽り者呼ばわりすることは当然のことですが、また、「父と子と聖霊の名によって洗礼」(マタイ28:19)を受けた後、即ち、クリスチャンになった後でも、自身の良心に訴えかける聖霊に従わず、肉の思いや肉の欲に従うことも聖霊という弁護者に逆らうことと同じで、悔い改めを拒んでおり、赦されない罪です。そうやって聖書の真理も愛そうとせず、自分の信じることが正しいと思い続けるのは、心が頑なになっているのです。過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」や「千年王国の真実 後編」でも説明したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗していたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(詩編95:7,8、ヘブライ3:15、4:7)と聖書にある忠告も無視しているのです。しかし、信仰に入る前にしていた冒瀆は、パウロがそうであった(テモテ一1:13)ように赦される場合もありますが、誰でもではありません。神に選ばれて憐れみと恵みをいただけない人(にわかクリスチャンや背教者)、主イエス・キリストを一生拒み続ける不信仰の者や異教徒はずっと頑ななままです。主イエス・キリストへの信仰に入るための洗礼の後と前でまったく何も変わらないという人は、正しい人ではなく悔い改めていない人です。聖書にも以下のとおり書いてあります。

 

旧約聖書 エゼキエル書 18章24節

しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 2章20~21節(私訳)

もしわたしたちの主、救い主イエス・キリストの知識によって世の汚れから逃れた後で、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、最期はより悪くなるからです。義の道を知った後で、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったからです。

 

上記以外にも他にも汚れた霊が戻ってくる(マタイ12:43~45)やイスカリオテのユダの裏切り等もこの内容に関わります。私が過去に申してきたように、聖書の真理を知ってもなお、世に倣って、信仰に入る前と同じような生活や言動をしていてはいけないのです。神を愛し、神の掟を守り、常に神の御心を意識して、神に義とされる行いをする必要があります。それも意識的ではなく、無意識にできるようにならなければいけません。信仰に入りたての頃は意識しないと改善しないでしょうが、日々、正しい信仰生活を送れば成長していき、聖霊の導きに従うならば、変わっていきます。そういう訳で、過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で述べたように、真のクリスチャンになるのは、神との関係構築にある程度の時間が必要なのであり、一度洗礼を受けてクリスチャンになったので、主イエスから罪を贖われているから自分はもう大丈夫とか、教会に所属しているから大丈夫とか、特定の牧師や教師等に従っていれば大丈夫と思っているのは大きな勘違いです。実際、今の世に出ているこれらのにわかクリスチャンたちは、偽り者がほとんどです。正しい信仰をしている者、即ち、真のクリスチャンであれば実で見分ければ簡単に分かりますが、見分けられない大勢の人々は騙されたまま、または自分たち自身が偽り者であることに気付くこともなく、認めることもせずに心が頑なになって悔い改めようとしません。これは、過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で触れたとおり、神から憐れみを受けていないことを意味します。過去に何回も言ってきましたが、このような人たちに限って、律法廃止論者であり、艱難期前携挙説(秘密携挙説)、千年王国の存在等を盲信して疑わないものです。それらの欺瞞と真実については、私が過去記事で明らかにしたとおりです。

クリスチャンになって、貧しい人に施しをしたり、献身的に様々な奉仕活動をしてきた人たちであっても、人格者と呼ばれて他人から評判が良くても、神の掟や主イエス・キリストの教えに逆らい続け、聖書を曲解する者たちの間違った教えを盲信して間違った信仰を基に生活しているようでは上記引用聖句エゼキエル18:24のとおり、天の国には入れずに第二の死に至るのです。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(コリント一10:12)と言われているとおりで、油断してはなりません。自分の行いの善さを自慢したり、他人に見てもらおうと期待して公の場で善行をするようでもいけません。自分の行いを誇ってはいけません。こんなに善い事をしたんだから、自分は神の聖者だとか、確実に天の国に行けるとか、携挙されるのだと自信過剰になれば、憂き目に遭うでしょう。なぜなら、神は高慢を激しく嫌っておられるからです。ある天使が地に落とされたのも自分の力や知識、美貌等を持ってすれば神になれると思い上がった高慢が原因でした。

 

旧約聖書 詩編 10編3節(私訳)

神に逆らう者は自分の欲望を誇る。

貪欲であることをたたえ、そのような者を主は嫌悪する。

神に逆らう者は高慢な容貌で神を求めず

彼らの考えには神はない。

 

上記聖句から分かるとおり、口先だけで神を信じていると言いながらも、実際は肉の思いを強く主張したり、肉の欲の塊である者は神に逆らう者で、人間だけで何でもできるので神は不要と思い込んだり、科学等の人間の知識を過信して神の御言葉である聖書を蔑視し、神の掟は窮屈だから無視して人間にとっての幸せは自分たちで考え、それこそが真の幸福であると考えることは高慢であり、同じく神に逆らっている者なのです。そのような恥知らずで高慢な者たちは、思いがけない時に低くされます。高慢については、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(箴言3:34、ペトロ一5:5、ヤコブ4:6)、「主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む。」(箴言8:13)、「高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う。」(箴言11:2)、「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。貧しい人と共に心を低くしている方が傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。」(箴言16:18、19)、「驕る者は低くされ、心の低い人は誉れを受けるようになる。」(箴言29:23)等と多く記述があります。

 

また、信仰から来る行いは過去に説明してきたとおり、重要であり必要なのですが、それだけをもって義とされるのではないことは聖書にあるとおりです。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20)とあり、これを根拠として、律法廃止論者は勢いづいて律法は過去の物だと主張するのですが、完全に誤りです。彼らはこの聖句を誤読しています。なぜなら、律法は守って当たり前という大前提があるからです。新約聖書の中で食べ物等には触れられていましたが、安息日について触れられなかったのは変更が無く、旧約聖書にあるとおり、そのまま有効だからです。よって、律法遵守という当たり前のことをして、それを誇るのは間違いですし、律法遵守をもって義とされるのではありません。律法遵守の上、さらに主イエス・キリストへの信仰によって義とされるのです。律法遵守すらできないのはファリサイ派の義にも劣り、決して神の御国に入れないと過去記事「千年王国の真実 後編」で述べたとおりです。信仰には、勿論行いが伴うのです。上述で聖書を引用した主イエスの御言葉である「悔い改めなければ滅びる」(ルカ13:3,5)のとおり、悔い改めるのにも当然に行いが伴います。例えば、ある殺人者が、クリスチャンになって、モーセの律法で罪とされる殺人をもうしませんと悔い改めたと思った後でまた殺人を繰り返すなら悔い改めたとは言えませんね。このように、もう同じ事をしないという不作為による行いが信仰の故に求められ、かつ、必須なのです。また、上述したとおり、殺意を抱くことすら罪でありますのでそのような気持ちを完全に捨て、一生持たないでいるべきです。故に、信じるだけで行いは必要ではない、または重要ではないとか、律法を無視してよいとか、過去の物、ユダヤ人だけの物等と教える者は、主イエスの教えに逆らう反キリストなのです。

 

罪について、自分が過去にしたことなど自分が言わなければ誰にも分からないと思う人が少なからずいるのではないでしょうか。これは、非常に甘い考えで、全知全能の神はすべてをご存知で、罪を記録として残しておられます。以下の聖書箇所を確認しましょう。

 

旧約聖書 コヘレトの言葉 12章14節

神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。

 

新約聖書 マタイによる福音書 12章36~37節(私訳)

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には説明しなければならない。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 4章5節

主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。

 

上記の聖書箇所から分かるように、罪は各人の選択によって外部に表れた行いのみならず、既に上述で触れましたが、心の中をも見られています。だから、私は、過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」をはじめとする複数の過去記事で、地獄に行きたくないからとか、利己心から来る利益信仰をやめなさいと宣べ伝えてきたのです。まさに、動機が不純(心が真っ黒)であり、神への愛は当然無く、自分の保身しか考えていないからです。過去記事「ゲツセマネの祈り」では、祈りの重要性について話をしました。あなたは何を日頃祈っていますか。悔い改めと罪の赦しを祈っていますか。その時、どのように悔い改めについて祈っていますか。

例えば、「今日はつい誰々に暴言を吐いてしまいました。もう暴言を吐かないようにします。」等と行いについてのみでしょうか。それだけでは甘いです。もっと深掘りし、暴言の原因について考えてください。暴言を吐く前の段階、即ち、あなたの心に問題があるのです。ある人が憎らしくなったり、嫉妬したり、腹を立てたりする等という肉の思いを抱いていることが問題なのです。そのような感情すら十字架につけて取り去らねばなりません。原因を探ってみて、ねたみが根底にあったと分かったならば、「主よ、私からねたみという感情を取り去ってください。」と神に頭を下げて願い求めるべきです。それ以後、同じことが起こらなくなったら悔い改められたということになります。これは、ほんの一例です。

 

罪の記録は、行いのみならず、心の中の様子まで書かれています。それで永遠の安息の地に入るのに相応しい品性を持つ者かどうか神によって裁きの座で吟味されるのです。ですから、なるべく毎日が贖罪日であるかのように考えて慎ましく生活するべきです。旧約聖書を読めば分かるとおり、「第七の月の十日は贖罪日」(レビ記23:27、25:9)とあり、主イエスが地上に来られる前はこれが守られ、その日は仕事をせず集会を開いて苦行(断食)をしており、苦行(断食)をしない者は民の中から断たれ(レビ記23:29)、仕事をする者は民の中から滅ぼす(レビ記23:30)と書かれています。旧約時代は、このように厳しかったのです。

しかし、主イエス・キリストが地上に来られ、十字架の贖いにより、今は動物の犠牲は必要ありませんが、罪の赦しについては上述のように厳粛なものだということを知るべきです。ですから、日頃からパーティーや飲み会、合コン、クラブ通い等、世俗に深く染まって飲酒の勢いで、低俗な話、悪口、陰口、愚痴等の無駄口ばかりで、浮かれ騒ぐという気分にはとてもなれないはずです。そのようなことをしているのを神が見ていると思ったらあなたはどう思いますか。恥ずかしくありませんか。もし恥ずかしくないなら、たとえ形式的にクリスチャンであったとしても、その人は神を畏れぬ者、即ち、神に逆らう者です。あなたから神は見えなくても、神はあなたを見ておられます。無論、行為のみならず、心の中という品性も問題視されます。罪深い人間が、すぐにキリストに近い品性を得られる訳ではないことは過去に説明済で、時間が必要なのです。何度も申していますが、もうモタモタしている余裕は無いのです。今日悔い改めたら明日から大丈夫とかではないのです。すぐに悔い改められないなら、必死に主イエス・キリストに頼り、ひれ伏して祈り願いなさい。神との関係構築、神の御言葉を知る、即ち、聖書を読んで真理を理解することに時間をもっとかけてください。時間は有限であり、皆等しく与えられています。時間がある無いは優先順位の問題だとも過去記事「ゲツセマネの祈り」をはじめ複数記事で説明しました。「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり」(ヨハネ一2:16)が罪への誘惑ですから、これらに引っかからないような品性を持つことを目指すべきです。キリストの人性、品性等については過去記事「主イエスの受肉」で書きました。人間の罪深い性質は一生変わりませんが、人間の罪深い本性が無くなるのは、キリストの再臨時、終わりのラッパが鳴るとともに一瞬のうちに変えられます(コリント一15:52)。再臨の前に肉体的な死(第一の死)を迎える場合、生きている間にキリストに近い品性を持っておかなければならず、生きてキリストの再臨時に携挙にあずかる場合は、その時に真のクリスチャンはすべて一瞬にして作り変えられるのです。勿論、その対象者は、キリストに近い品性を持つ者になっていなければなりません。主イエスが「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)と仰ったとおり、真のクリスチャンは完全な者、罪を選択の行動によって犯さないのみならず、心の中という品性をも罪と切り離している人であり、大多数のにわかクリスチャンとは天と地の差があるのです。ですから、行いによって罪を犯すのを避けるのみならず、心の思いからして罪を犯した状態にならないように常に慎み、神の御心を意識し、神に喜ばれる神の神殿(コリント一3:16)になりましょう。そうすることが神の栄光を現すことになるからです。

 

律法の中で一番重要なのは、愛です。マタイ22:37~39で、主イエスは「神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」が最も重要な掟と仰り、一番は神を愛することなのです。この順位を間違えてはいけません。自分自身よりも、配偶者よりも、親類(両親や子供)等、何よりもまず神のことを考え、神を愛することが真のクリスチャンには必須です。神の次に、隣人を愛するのです。自分自身ではありません。しかし、世に属する人間は、まず自分を愛してそれだけで終わる人が多く、次いで家族や仕事、友人、趣味等が続き、神への愛はほとんどありません。それも聖書の真理を愛さない結果で、むしろ世を愛し、世にあるものを愛して世俗に深くはまっています。勿論、不信仰の者や異教徒は、神への愛は皆無です。世に属する人間にとっては、聖書福音は良い知らせではなく、悪い知らせであり、無益なものです。彼らは、聖書の真理を受け入れず、私が説明した内容、特に携挙の説明に強く反抗します。なぜなら、彼らはキリストの再臨時に滅ぼされる側にいるからです。世の終わりが来て、キリストの再臨があって携挙されるならば、火と硫黄が降ってくることを怖がる必要が無いにも拘らず、それはおかしいとか受け入れ難いと反抗するのは、その神の怒りを受ける側にいるからです。艱難期前携挙説(秘密携挙説)を信じる人は、艱難から逃げることばかり考えている臆病者であり、真のクリスチャンであるはずがありません。勿論、艱難期前携挙説(秘密携挙説)が聖書に反する理由は臆病という理由だけではなく、詳細は過去記事「携挙の真実」をお読みください。

話が逸れましたが、「神を愛すること」と「隣人愛」に加えて、主イエスは「この二つの掟にすべての律法と預言者たちはかかっている。」(マタイ22:40私訳)とも仰いました。要するに、律法は愛から成り立っているのです。ですから、律法を守らない者は愛が無い者と言えます。また、神を愛するとは、神の掟を守ること(ヨハネ一5:3)というのは、過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」で説明済です。上述したとおり、神を愛する者は神の掟を守ります。反対に、神の掟を守らない者は、神を愛していないのです。いくら口先で神を愛している、信じていると言っても神の掟である律法を守らない者は、神を愛していないのです。このことは、過去記事「千年王国の真実 後編」でも触れたのですが、「「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は偽り者で、その人の内には真理はありません。」(ヨハネ一2:4)のとおりであり、主イエスの教えに反し、反キリストなのです。神の戒めや掟を守る者は神を愛する者であり、主を知る者でもあります。「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。」(ホセア書6:3)とあるとおりで、神を愛していれば自主的に聖書の真理を知ろうと努力するのです。逆を言えば、主イエスの教えと律法を守らない者は、神を愛しておらず、主を知らないのです。過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で説明したように、これでは当然に神とその人間は相思相愛関係にはならず、救われるはずもありません。主イエスから「あなたがたのことは知らない」と言われる(マタイ7:21~23)のはこのとおりです。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 13章4~8、13節(私訳)

慈愛は忍耐強く、親切である。慈愛はねたまない。慈愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分自身を求めず、容易に怒らず、悪いことを考えない。不義の中にいることを喜ばず、真理にあることを喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。慈愛は決して滅びない。

(中略)

そして今、信仰と、希望と、慈愛、この三つは残る。しかし、その中で最も大いなるものは、慈愛である。

 

上記聖句は、慈愛についてよく書かれています。あなたは、主イエスが教える愛を持って、それを普段から実践していますか。私が、挨拶や質問に対する回答の礼を忘れないよう等、礼を失しないようにと言ってきたのも理由が分かるでしょう。ここにも、容易に怒るな、悪いことを考えるな、自慢するな、ねたむな、高ぶるな、自分自身のことを求めるな、忍耐強くあれ等があります。これらの感情を抱くことが不義とされているのは、その心に愛が無いからです。慈愛がある人は、これらの感情を持ちません。世俗に染まった一般人は、愛と聞けば、恋人間、夫婦間、親子間等の感情を浮かべると思いますが、間違った認識です。本当の愛は、聖書に書いてあるとおりのことです。聖書を通して主イエスが教えられた愛を知らない者、誤解する者、知っていても実践しない者、心の内に愛を持たない者は完全な者とは程遠いです

前回記事「クリスマスと太陽神崇拝」でも触れたように、主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」(マタイ19:21)と仰いました。この御言葉は、物欲を放棄することともに、自分が一番大事という利己心をも放棄し、自己犠牲、自分への利益ではなく他人への利益、慈悲深さ、そして愛が根幹にあり、それが自然にできるようになれば完全な者となれるのです。反対に、愛が無い者は、完全な者にはなれないのです。なぜなら、律法の根幹であり大原則である愛から外れているからです。愛は、選択による行動ではなく、常に心の中にある状態であり、品性です。だから、その愛を常に持って、行いとして外部にも示さないのは律法違反であると言えます。

 

世の中には愛が無い人が多いですね。最近は特に増えていきている気がします。世には、自分や自分の身内のことだけで他人を無視したり軽視するような利己心だらけの人で溢れかえっています。これは、終わりの時の兆候でもあります。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」(マタイ24:12)と主イエスは仰いました。不法とは、神の律法に違反することであり、不信仰の者と異教徒は当然のこと、現代のクリスチャンの多くも律法廃止論者になって律法違反をしても平気でいます。また、多くの人の愛が冷えると、現代の人間の様子をまさに言い当てておられます。これも不信仰、信仰の薄さから起因しているものです。上述で、人間の法律に違反しない人が善人と世の人間が思い込んでいる話をしましたとおり、この種の人たちは、自分たちは善人、正しい人と思い込んでおり、自分たちが罪人である認識を持っていませんし、持とうともしません。それ故、救いを求めようともしません。これが不信仰たる理由、信仰の薄さの理由になっており、ひいては、神から選ばれていない、憐れみと恵みを受けていないように思えます。殺人も窃盗もしたことがないし、親孝行もしているから自分は善人と思っている人が多いでしょう。しかし、人間の法律である刑法では罪にならない姦淫や離婚、夫婦間以外の性交渉等をしたり、神社や寺、冠婚葬祭、墓参りや教会に行っては手を合わせて祈ったりして偶像礼拝等をしたりしている人も多いでしょう。勿論、これらはほんの一例に過ぎませんので、他にもすべきことではないことをして、その過ちにも気付かないで自分は善人だと盲信するのは高慢な人です。「善のみを行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。」(コヘレトの言葉7:20)にあるとおりです。主イエスは、「わたしは、自分が正しいと思っている人を招くためではなく、罪人を悔い改めに招くために来たからである。」(マタイ九章十三節私訳)と仰り、まさに罪人であるすべての人間のことです。主イエス・キリストに近づけば、自分自身の罪深さや無力さを痛感するはずです。時には絶望に打ちひしがれることもあるでしょう。しかし、そのような「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)とあり、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」(詩編51:19)と聖書にあるとおりです。このような姿勢や気持ち、霊的状態、そして愛が真のクリスチャンになるには必要なのです。これから世の終わりに向かって大きな艱難が来ます。その苦しい境遇においても神への愛を固く持ち続け、揺るがない信仰になっているように今すぐ準備を整えなければいけません。

 

罪とは何か、罪を犯すとは何か、心から真に悔い改めるというのがどういうことか、愛とはどういうことかというのが分かりましたでしょうか。今回の内容も非常に重要な内容で、救いに関わる内容です。私の説明内容について、人によって様々な感情や感想を持つことでしょうが、その抱いた思いや考えこそがあなたの品性を映し出しており、神に知られているということを忘れないでください。

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。あなたは神を信じますか。信じているならば、あなたは神を愛していますか。神を愛しているなら何をするべきですか。答えは上述したとおりです。忘れたなら何度でも読み返して、聖書もきちんと読んで真理の理解に努めてください。

 

一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上