こんにちは。

 

今回は、罪について書きます。

過去記事「主イエスの受肉」に引き続き、これを知らんのやったら、キリスト者とは言えへん位に非常に重要な内容です。今日のキリスト教において、罪に関するキリスト者の誤解も甚だしいものがあるさかい、ここで明確にそれらの誤りと真理を説明いたします。主イエスの人性をどう理解するかによって、あんたの今後の信仰生活、ひいては第一の死の後に来る審判での結果が変わってきます。あんたの信仰生活によっては、キリストに認められず、追い出されて泣き喚いて歯ぎしりする羽目になるやもしれへん。

 

さて、本題やが、罪についての考え方で、過去記事で言及したことがある原罪についてです。これが欺瞞であるということに気付いてください。原罪説が欺瞞であることを説明いたします。原罪とは、人類の祖先であるアダムとエバが罪を犯し、その子孫であるすべての人間がその罪を引き継いで生まれながらに罪人であるという考えです。この考えは、アウグスティヌス、カルヴァン、ルターが支持していました。カトリックだけでなく、プロテスタントも原罪を否定してへんのです。せやから、皆さんは、原罪を正しいと思い、疑うこともないでしょう。しかし、聖書は、原罪という考えが誤りであることをはっきりと言います。詳しくは後述しますが、まず、原罪を仮に肯定した場合、次のようなことになってまう。

 

殺人者の子孫は、殺人者。

強盗の子孫は、強盗。

不倫する者の子孫は、不倫する者。

 

上記のように、原罪の下では、罪がずっと世襲するということになります。有り得ません。こういう考えが何の疑いもなく、カトリックやプロテスタントの教会で言われとることなんや。原罪説を信じる人は、自分が生まれながらに罪人で、何をしても罪がある状態であると思っていることでしょう。人間として生まれた以上、罪を犯さないことは不可能であると思っとるんやろ。この考えの根本の誤りは、「罪への弱さを持った性質」と「罪」を同一視していることが原因や。そういう訳で、カトリックは、幼児洗礼と告解が重要だと言っとるんや。人間は罪への弱さを持った性質を持って生まれ、その性質を持っとること自体が罪やさかい、早い段階で洗礼する必要があり、幼児洗礼をするのです。しかし、幼児洗礼について、聖書にはどこにも記述がありません。主イエスも、三十歳を少し過ぎてから洗礼者ヨハネの立ち会いで洗礼をし、伝道を開始されました。何の意志決定力も持たへん幼児がする洗礼には何の意味も無いのです。洗礼は、創造主の主なる神に対する信仰を持って、自分の意志でせな無意味です。

 

この原罪説を作り、その解決方法として幼児洗礼を考案したのは、反キリストです。原罪を肯定する彼らは、人は生まれながらに罪人であり、審判で永遠の滅亡を受けるしかなく、この教理では受肉された神である主イエスも罪人になるため、反キリストはまた別の虚偽の教理を作らなあかんかった。その教理こそが、カトリックが創作したマリアの無原罪懐胎です。これも過去記事「主イエスの受肉」で言及済やが、マリアは生まれながらに原罪を免れ、生涯で一度も罪を犯さず、その状態で主イエスを出産したので、主イエスも原罪を免れたという聖書的でないでっち上げた妄想です。カトリックは、その教理を古代バビロンのセミラミスになぞらえて作り出し、マリアを聖母扱いし、主イエスと並ぶ仲介者に仕立て上げました。そして、プロテスタントは、マリアを仲介者とするカトリックの教理は受け入れへんものの、主イエスはアダムが罪を犯す前に持っていた人間性を引き継いどるという立場を取っています。しかし、これらの教えはまったく聖書に合致してません

 

罪を、各人の選択とは無関係に存在し、人間の存在自体のことであるかのようにみなしたり、堕落した本性そのものであるという根拠は、聖書にはありません。仮に、人間の本性が罪であるならば、罪を行うことを選択しない時でも罪を犯していることになります。もし、罪が常に存在する不可避のもので継続的なものと信じるならば、神への不従順の表れである神の律法を破るという本当の罪への認識を歪めます。もし、あんたが原罪を信じるならば、あんた自身が堕落した本性を持っているから罪を犯すのはしゃーないと、罪を犯す際の正当化事由になります。ここで、罪とは、どういうものなのかを聖書で確認します。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 三章四節(拙訳)

罪を犯す者は皆、法の違犯をも犯す。そして、罪とは、法を無視し違犯することです。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 十四章二十三節(拙訳)

しかし、もし疑いながら食べるなら罰せられます。なぜなら、信仰に依らへんからや。信仰に依らへんものはすべて罪やさかい。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 四章十七節(拙訳)

為すべき善を知りながら行わへんのは、その人には罪や。

 

罪とは、神の律法に違犯すること、イエスをキリストと信じて洗礼を受けた人でも疑って迷いながらする行動、そして、ヤコブの手紙で、罪は行為の作為、不作為という選択の結果であるということが分かります。何かせなあかん状況ではなく、何もしてへん時に自然発生するのではなく、善の行動を取らんとあかんと知りながら、それをせんという不作為が罪と言うています。正しいことと間違っていることの違いを知るから罪が成立するのです。聖書の罪の定義は、神の律法に違犯すること、即ち、不法行為です。こうも言えます。例えば、あんたが、「私の人生は私が決める。」、「私がしたいことは何でもする。」、「私の意志は誰にも縛られない。」、「だから、神が制定した律法、掟、戒めに拘束されたくない」等と言って、神の律法に違犯することが罪なのです。聖書には、罪は承継するものではないと書かれてます。

 

旧約聖書 申命記 二十四章十六節(拙訳)、列王記下 十四章六節(拙訳)

父は子の故に殺されず、子は父の故に殺されない。すべての人は、その人自身の罪の故に殺される。

 

旧約聖書 エゼキエル書 十八章二十節(拙訳)

罪を犯す者が死ぬ。子は父の罪を負わず、父が子の罪を負うこともない。正しい人の正しさはその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。

 

旧約聖書 エゼキエル書 十四章十四節(拙訳)

その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブが居たとしても、彼らは彼らの正しさによって自分自身の命を救い出すだけや、と主なる神は言わはる。

 

旧約聖書 エゼキエル書 十四章二十節(拙訳)

彼らは自分の息子も娘も救い出さへん。彼らは彼ら自身の正しさによって、自分自身の命を救い出すだけや。

 

つまり、聖書は、罪を犯したから罪人になると言っているのです。人は堕落した本性があり、罪への弱さを持っていることは確かです。せやけど、我々がその本性を遺伝で引き継いだとしても、その遺伝的性質だけで有罪とされて滅びるのではない。我等の選択に掛かっとるんや。あんたが世の偽キリスト教会が創作した原罪説を信じて罪を犯すんはしゃーないと言い訳し続けて悔い改めを拒絶するんか、罪を人間の選択と捉えて神の律法に違犯せんように生きるのかという選択で、あんたの運命が決まります。この罪に対する理解が、選択の自由を尊重される神の愛と公平に関わります。罪の正しい理解が、過去記事「主イエスの受肉」で書いた内容について、主イエスのように神の律法、掟、戒めを守って罪を犯さへん生き方をするんか、それとも、それを全否定して欲望の赴くままに行動するのかが決まります。罪の正しい理解を妨げとるんは、イエズス会、カトリック、プロテスタントというような反キリストです。我等は生まれながらに罪人なのではない。誘惑に負けて罪を犯した時に罪人になるんや。堕落した本性、罪への弱さを持った肉体である我々人間であっても、罪を犯さへんことが可能であるというのは主イエスが身を持って証明されたことは過去記事「主イエスの受肉」で説明したとおりです。せやから、我々はキリストの下で誘惑にも罪にも勝利出来るんや。主イエスを信じた瞬間からすぐに罪への弱さ、堕落した本性が完全喪失する訳やない。キリストの再臨の時に、その本性が変わります。せやから、その時までずっとサタンの誘惑や攻撃と戦い続け、最期まで耐え忍ぶことが必要になる。すべての人間は、イエス・キリストの赦し、恵み無しには誰も永遠の命を得ることはない。今、この世に存在するすべての人間は、主イエスが流された血の代償で生きていることを忘れてはならん。それ故、主イエスを拒絶する者は、主の救いを拒否することと同義であり、滅びるしかない。出生して間もない赤子が死んだ場合、胎に居ったが死産だった場合等は、どうなるのかという疑問が生じるかもしれません。拙者が説明したことを理解すれば簡単に答えが分かるはずや。罪は選択によってのみ生じ、遺伝の影響を受けへんのや。神に救われるも救われへんも神の自由な選びと裁き次第でしかない。

 

この悪に満ちた世の中で苦労しながら、いつかは来る死の時まで生きなあかんと思うと悲しい気持ちになるやろか。そうではない。「主を求めよ、もし彼らが主を感じて見い出すことがあれば。」(使徒言行録十七章二十七節拙訳)とあるとおり、神の民が主を求めて、永遠の命を得るためや。神の民は、生まれながらに罪人として断罪され、永遠の滅びのために生を受けたのではない。しかし、主イエスをキリストとして認めず拒絶する、または主の御言葉に逆らうならば滅びます原罪に縛られとる世の自称キリスト者たちは、生まれながらに罪を負っていると信じて悔い改めが何のことか分からず、いっこも改めへんさかい、彼らの心にはいつも平安、喜び、愛が無いんや。罪をどう考えるかによって、聖書の福音の意味もまったく違ごてくる。そして、原罪という偽りの教義に囚われとると、誘惑や罪に勝利する感覚を一生味わえないということにもなる。折角、主イエスがそれを身をもって教えてくださったのに、それを無にすることになる。

 

アダムとエバが神の言いつけに背いた罪によって我等に受け継がれとるんは、原罪ではなく、罪への弱さを持った人間の堕落した本性と肉体的な死(第一の死)や。アダムとエバの罪によってもたらされたのは、世の中に悪がはびこるようになり、寿命が尽きて死ぬという第一の死です。聖書ではこれを眠りと表現しており、一般にも死ぬことを眠りにつくと言います。そして、この地で生きとった時に各自が犯した罪によって永遠の破滅という第二の死が来ます。この第二の死を防ぐために、主イエスが十字架で犠牲にならはったんや。第一の死は誰も避けられへんが、第二の死は避けることが可能や。第二の死を免れることと罪に勝利するには、主イエスの力と聖霊の助けが必要不可欠や。主イエスの人性の理解を間違えると信仰の方向も間違った方向に行きます。嘘の教義で惑わす世の諸教会の反キリスト、聖書の内容をそのままなぞっているだけか、反聖書的なことを神からの啓示やとか主からの啓示と虚言を言って金銭をむしり取る偽預言者(RAPT等)、世の中のすべて宗教というもの、占い師等、世にはびこる偽りの教えをする者に耳を傾けて騙されへんようにしてください。そのためにも聖書通読や原語からの理解は必要不可欠や。そうでないと容易に騙されるであろう。

 

多くのキリスト者は、誘惑と罪の違いにすら気付いてへんやろ。以下の聖書の箇所を読んでください。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 一章十四節〜十五節(拙訳)

むしろ、すべての人が自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑されるんや。それから、欲望が孕んで罪を生み、罪が成熟して死を生みます。

 

この欲望というのは、人間が生まれながらに持った肉の気質であり、神の御心に反することや。誘惑というのは、外部からの刺激や。人の内に欲望があれば、外部からの刺激によって心が動かされる。もし欲望が無い場合や少しの欲望はあっても良心が打ち勝って引かれずにそこで留まれば、誘惑を退けることが可能で、罪を犯すこともなくなる。神の律法、掟、戒めで禁止されとる欲望が自分自身の中にあると思うなら、それを無くすように主に祈り、願い求めるべきです。誘惑の源になるものは、「世にあるすべてのもの、肉の欲、目の欲、生活様式の誇示」(ヨハネの手紙一 二章十六節拙訳)や。せやから、それらに引かれもせんと欲望が無い清らかな状態に達することが望ましいが、いきなりそれは無理であろう。せやから、まずは、誘惑に負けへん限り罪を犯さへんことを覚え、戦いましょう。もし、原罪を肯定するなら、このように誘惑等の話をする必要性も無くなってまう。仮に取り除きようもない原罪とやらを我等が背負っとるとするなら、神の律法、掟、戒めを守る主イエスの信仰を持ち、獣の刻印を拒絶して苦難の末に殉教するという最期まで耐え忍んだとしても、その原罪とやらのせいで不信仰の者や異教徒等と同じように断罪されることになります。よって、原罪なんて存在し得ないんや。

 

罪についての理解が正しくなったやろか。有りもせん原罪を肯定しとるから、あんたは成長せんのや。原罪を肯定せんでも成長した気がせえへんのは、未だ真に悔い改めてへんからやないやろか。きちんと聖書を読んで学んでください。通読回数は信仰と無関係と言ってきましたが、流石に一度の通読ではすべての内容を理解することは出来へんやろし、一回で終わらせるのは真のキリスト者の行動とも思えません。理解して当たり前のように行いで示せるようになるまで何度でも、また、信仰を厚く保ち続けるために必要であれば読み返すことを怠らんといてください。RAPTのように、読んだ回数を偽って誇張して誇るのは大きな誤りです。自分の行いを誇るという行為自体を良しとされてへんのは聖書を読めば分かります。聖書を何十回、何百回読んだとしても、行いで示せんと口先で終わるなら、神はあんたを認め、喜び、褒めることは絶対にあらへん。重要なんは、いかに本物の信仰を持って、神を愛し、隣人を自分のように愛し、神の律法、掟、戒めを守り、それがどのように日々の生活で体現しとるかという行いが問われるということや。正しい信仰の結果として善い行いが出来、それによって、真のキリスト者であるか否かが分かります。主イエスを心の底か信じて、聖霊の助けによって生まれ変わり、我等の体を神の神殿として、主イエスに委ねたなら、自分勝手な行動をすることは有り得ず、神の律法に違反することが無くなり、罪の奴隷となることはないのです。我等を不義から清めてくださる主イエスの力を信じてください。真のキリスト者は、主イエスの力によって罪に勝利できるのです。どんな苦難に遭っても、信仰を揺さぶられるようなことがあても、疑うこと無く信じ、固く信仰を持ち続けてください。途中で信仰から脱落する者は、信仰に入る前よりももっと悪くなる(ペトロ二 二章二十節参照)というのは聖書の教えのとおりです。拙者は、一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上