こんにちは。

 

今回は、世に蔓延る偽の宗教とカトリックの欺瞞について書きます。

 

聖書に書いている内容、主イエスの教え以外の所謂宗教と呼ばれるもの(カトリック、正教会、プロテスタント、統一教会、摂理、エホバの証人、モルモン教、神道、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、幸福の科学、創価学会等、その他すべて)はです。それらは教祖と呼ばれる存在を作り出し、崇める対象が人間若しくは偶像であり、また、人間でなくとも人を組織して階層(役職)を設けて、そのピラミッドの頂点が最も儲ける仕組み等を作っています。要するに、人々を洗脳して人を集めて、金儲けの手段にしたり(金銭欲)、彼らの名誉欲、支配欲を満たそうとしているに過ぎないのです。そして、何より一番おかしいと思わなあかんのは、「この世の幸せ」を追求しとることです。生きている意味というのを考えたことがあるやろか。そして、その意味について真剣に考えたことがあるやろか。殆どの人は無いでしょう。今が楽しければそれでいい、金があればいい等、まったく莫迦げています。また、輪廻転生を掲げる仏教、ヒンズー教、一部のイスラム教派等は、まったくの誤りです。冷静に考えてみて、何千年も昔より今の方が比較にならへん程人口は増えています。輪廻転生として生命が循環するのであれば、明らかに人口比率がおかしいです。昔にいなかった人が今いる説明がつきません。そうやって、来世で頑張ればいいと思わせて、堕落させる悪魔の教えです。現世で頑張れない人が来世で頑張れるという自信はどこから来るのか疑問です。はっきり言っておきますが、二度目の機会は無いです。所謂宗教において、特定の人間や偶像(人間が造ったあらゆる像を指す)を崇めたり、いくら金銭を貢いでも絶対に幸せにはなりませんし、救われません。それらに向かって祈っても無意味どころか罪です。所詮、その崇められた人間も偶像も結局は滅びる運命にあるさかい、滅びの存在を崇めるというのは拙者からすれば、愚かとしか言いようがないねん。人間自体が永遠に存在せえへんのと同様、人間が造ったものに永遠というものは存在せず、この世すら永遠に存続するのではありません。なぜなら、被造物たる存在であるからです。被造物というのは神(創造主)から作られた物を意味し、永遠なる存在、即ち、「初めであり、終わりである」(黙示録二十一章六節、二十二章十三節拙訳)お方は神しか居てません。

 

長い年月を経た建物、絵画、偶像に対して、人は高額な値段を付けたり、国宝や世界遺産等に指定して特別扱いし、また一般の人々はそれを見て特別な目で見たり考えたりします。まったく無意味です。なぜなら、それらには何の力も持たず、更に、この世の終わりの時、神はそんな物はいとも簡単に破壊出来るからです。神にとってはどんな人間が権威付けたものも無価値です。キリスト者と自称する者でも世の教会という建物や偶像を見ては感心したり、それを大事に扱ったり、拝んだりしている者もいます。そのような者は、偶像礼拝者であり、キリスト者ではありません。冒頭で拙者が約束したとおり、聖書に書かれている内容、主イエスの教え以外の所謂宗教すべてが嘘という点について述べます。特に、キリスト教について誤解される根源のカトリックについて書きます。バチカンのローマ教皇やローマ・カトリック、イエズス会が主イエスを信仰しているのではなく、主イエスに敵対するサタンを崇拝しているという「反キリスト」的存在であるということを知らなあかん。世の大半の人は、彼らがキリスト教の中心、頂点とか考えているのではないやろか。しかし、その考えは大きな誤りです。あんた方はテレビや新聞、雑誌、教科書、学校の教師の説明その他の媒体によって嘘の情報を叩き込まれているだけのことです。聖書をきちんと読めばその偽りにすぐに気付くはずです。証拠画像や動画は逐一貼り付けません。それらはあんたがネットで「ローマ教皇 悪魔崇拝」等と検索すれば簡単に見つかります。是非、自分自身で真実を見つめてください。カトリックというんは、驚くほど聖書、主イエスの御言葉に反した信仰を持ってます。即ち、キリスト教ではないちゅうこっちゃ。キリスト者ならば、主イエス・キリストの御言葉、神の律法、掟、戒めに従うはずやからです。拙者は、カトリックをキリスト教ではなく、完全な異教と考えてます。せやから、世間の人々がカトリックをキリスト教扱いするのにはうんざりします。もっとも、拙者は聖書と主イエスに従うことは宗教とも考えておらず、主イエスを信じて神の律法、掟、戒めに従うことは、人が生きる上で当たり前のことだと認識しています。

 

カトリックがおかしい点は、例えば(全部列挙ではない)、以下のような事項です。

 

一 結婚禁止規定

カトリックの聖職者は結婚を禁じられ、禁欲を強いられていることはご存知の方が多いでしょう。おそらく、カトリックの聖職者が独身でいなければならない、若しくは推奨される根拠は以下のとおりです。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 七章八節(拙訳)

だから、未婚者とやもめに言います。その者たちは、我のように独りでいるのが良い。

 

しかし、その直後にこうあります。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 七章九節(拙訳)

しかし、もしその者たちが自制できなければ結婚しなさい。性的欲求で興奮するよりは、結婚する方がましだからです。

 

カトリック教会では、いくつか叙階があり、助祭が司教の協力者として働き、司祭になる段階での助祭(司祭になる前の一年間)と生涯を助祭として生きる終身助祭の二つがあります。終身助祭は結婚が認められますが、その他の職務に就く者は生涯独身を生きることを誓約せなあかんようです。要するに、カトリック聖職者の中で出世したければ結婚出来へんということになります。カトリック制度の下で、独身を貫かせた方が、独身の方が既婚者より不倫等の法的拘束が無くなり、性的に堕落する危険性を高めます。カトリック聖職者とカトリック信者は、主イエスの教えに反しているので救われてへんし、反キリストの存在なので性的に乱れるのは当然です。カトリックの性的暴行事件は多発しているのはそれが一つの要因です。カトリックの叙階で高い位は、教皇、司教、司祭、助祭の順です。教皇はローマ司教の中から選ばれます。このように、聖書は、結婚を絶対的に禁止している訳ではありません。つまり、ローマカトリック教会が勝手に内規で独身でいることを強要したに他なりません。

さらに、聖書には以下の記述があります。

 

新約聖書 テモテへの手紙一 四章一節〜三節(拙訳)

さて、"霊"は、終わりの時には、誘惑する霊と悪魔どもの教えを心に留め、信仰から脱落する者がいるだろうと明確に告げてはります。偽りを語る偽善によるものです。自分の良心に焼き印を押されており、結婚することを禁じ、食物を控えさせます。これは、信仰者の感謝と真理を知ることとで受けるようにと、神が造りはったものです。

 

以上の聖書の文言のとおり、結婚をむやみに禁じるのは誤りですし、悪魔や悪霊の仕業なのです。「偽りを語る偽善」というのが、まさにローマ教皇をはじめとするカトリックの聖職者たちや彼らに追従する者たち、その他聖書の真理を受け入れない人々全員です。

 

二 マリアへの信仰

主イエスを産んだマリアを聖母マリアなどと崇める対象にしています。教会において、よく絵画や像を見かけるでしょう。何故、ただの人間でしかないマリアを崇めるのか。マリア崇拝の起源は、カトリック教会が宣教をし易くするために、宣教目的地において既にあった女神崇拝に妥協してカトリック信仰の中に古代ローマ土着宗教といった異教の女神信仰を取り入れたものです。要するに、カトリックはそういった異教徒を取り込んで自分たちの信者を増やして支配したり、信者から献金等を貢がせたり、彼らが建てた修道院に女性を修道女として招き入れて性奴隷にしたい、悪の宣教の手先にしたいという悪しき目的があるのです。聖書(マタイ一章十八節~二十節)を読めば一目瞭然ですが、"聖霊"によって主イエスがマリアの胎に宿ったのであり、人間のような血縁関係には無いのです。よって、主イエス以外に救い主はいないのです。一人間に過ぎないマリアを崇める人たちは、反キリストです。主イエスは明確にご自身以外に救いの道はないと教えられました。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章六節(拙訳)

イエスは彼に言われる。「我は道であり、真理であり、命である。我によってでなければ、誰も父の御許に行くことはない。」

 

以上のとおり、マリアを聖母扱いすることも、崇めることも間違っているのです。マリアを礼拝するような命令、マリアが救い主だとか契約の仲介者等というような記述は聖書に一切ありません。礼拝されるべきは主なる神だけであり、モーセに代わって新しい契約の仲介者になられた天下に与えられた唯一の救い主、主イエス・キリストこそを我等が礼拝すべきなのです。

 

三 煉獄の教義

煉獄(れんごく)とは、カトリックの教義であって、天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところであり、苦罰によって罪を清められた後、天国に入ると彼らは吹聴してます。そして、この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの期間のこととも言っています。しかし、はっきり言って、聖書にこのような記述はありません。カトリックの勝手な創作です。聖書に根拠となる記述が無いことは嘘でしかありません。

 

四 避妊の禁止

カトリックでは、避妊を禁止しているということは聞いたことがある人が多いでしょう。避妊の禁止は、避妊具を用いたり、中ではなく外で射精したりすることを禁止するものです。何故でしょうか。おそらく、カトリックの理屈は以下の聖書の箇所でしょうが、誤読しています。

 

旧約聖書 創世記 三十八章六節〜十節(拙訳)

ユダは長男のエルに嫁を迎え、その名をタマルといった。ユダの長男エルは主の目には悪だったので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。「兄嫁に入って、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫を起こしなさい。」オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っており、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入った時に子種を地に流した。彼のしたことは主を怒らせ、彼もまた殺された。

 

カトリックは、上記の旧約聖書の箇所から、神は性交から生殖を分離し、性的快楽のみを得ることを禁じているという解釈をしました。しかし、この解釈は誤りです。本当の意味は、主に従わないことは罪であり許されへんということです。オナンは主の命令で子孫を残すように言われたが、故意にそれに背き、その結果殺されたことが明確に記述されてます。主は、外出しした行為自体に怒っているのではないのです。よって、避妊は禁じられた行為ではないです。また、世の俗説では、オナニーという自慰行為がこの外出ししたオナンが由来としている。そういう訳で、この生殖を目的としない射精行為をオナンからちなんで名付けるのは誤りです。

 

五 偶像礼拝

聖書では至るところで偶像礼拝を禁止する記述があります。例えば、以下の箇所です。

 

旧約聖書 出エジプト記 二十章四節〜六節(拙訳)

あんたはいかなる像を造ってはならない。上は天にあるもの、地にあるもの、また地の下の水の中にある、いかなる物の形を造ってはならない。あんたはそれらに向かって拝んだり、それらに仕えたりしてはならない。我は主、あんたの神であり、不信仰を許さない神であるからや。我を憎む者には先祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、我を愛し、我が戒めを守る者には、幾千代に慈悲を示す。

 

明確に、偶像礼拝は神が禁じたことであり、十戒にあるものです。その他、新約聖書(使徒言行録十五章二十節、二十一章二十五節、コリント一五章十一節、六章九節、八章四節、十節七節、十章十四節、ガラテヤ五章二十節、エフェソ五章五節、コロサイ三章五節、ヨハネ一五章二十一節、黙示録二十一節八節、二十二章十五節)にも偶像礼拝に関する記述はあります。それやのに、聖書を読まへん故に無知な人々は、主イエス・キリストに結ばれてへんローマ教皇やその他の自称聖職者らに騙されて、神が禁じている罪を犯すのです。偶像礼拝が禁止されとるのに地上の諸教会に、白人という偽りの設定のイエスやマリアと称する絵画を飾ったり、像を置いたりして、来る人々はそれを拝んだりそれが真の姿やと誤信してます。画家や彫刻家は彼らの姿を見たことがないにも拘らずです。たとえ彼らが姿や顔を見たとしても絵を描いたり、彫刻したりすることは許されてへん。絶対に偶像礼拝をせんといてください。聖書を読めば容易に分かることをする人は、聖書を読んでいないことが明白であるとともに、反キリストであることを自ら露呈しています。自分で聖書を読んで正しく理解し、口先だけでなく行いで示しながら主イエスを信じて生きている真のキリスト者は絶対にいかなる偶像も拝みません。神の律法に喜んで従うからです。

 

六 クリスマス

これは皆さんが認識しているのは、イエス・キリストの誕生日として十二月二十五日を祝うという祭だということでしょう。何も分かっていないというのは本当に嘆かわしいです。さて、クリスマスというものはどうやって出来たのか。実は、イエス・キリストの誕生日が十二月二十五日だという記述は聖書にはありません。まったくの嘘です。そもそも暦からして違うので嘘です。昔は今の太陽暦ではありませんでした。この元凶は、ローマ・カトリックです。聖書の創世記に記述がある、バベルの塔を建設して神の怒りを買った「ニムロド」に関係するものです。彼は、最初に自らを神と自称して神に反逆した強力な人間であり、神に挑戦する意味で塔を建設したのです。彼がバベルの塔を建てようとして神の怒りが下って死に、彼の母でもある妻セミラミスがニムロドの死後、息子のタンムズをニムロドの生まれ変わりと主張し、太陽神バアルとして崇め始めたバビロンのバアル信仰です。その反逆者ニムロドを太陽神崇拝者たちが引き継ぎ、イエス・キリストの誕生日と嘘をついて、実際は太陽神の誕生日、反逆者であるニムロドの誕生日を祝っているのです。偽預言者RAPTを含め、一部のサイトで、ニムロドの誕生日が真実にも拘らず、ミトラ教のミトラスの誕生日と知ったかぶりの嘘を書いている者もいるので注意しましょう。ミトラ教のミトラスについては、「冬至」を祝っており、これは十二月二十一日か二十二日です。よって、十二月二十五日ではありません。三、四日遅いので正確ではありません。よって、真のキリスト者は、クリスマスを祝ったらあかん。カトリックはもとより、聖書に依拠する立場とされるプロテスタントの牧師でさえもクリスマスを主イエスの誕生日かのように教会に人を集めて祝ってます。世の諸教会に所属している人たちは聖書を正しく理解しておらず、世の隠された真実を知りません。クリスマスが主イエスの誕生日ではなく、反逆者ニムロドに関するものやと知っていれば、祝わへんはずです。そもそも、イエス・キリストの誕生日を祝えなどという掟は聖書には無いのです。世の諸教会の自称キリスト者たちは、聖書に従っているのではなく、人間の伝統や慣習に従って、異教由来のクリスマスを祝っており、それを祝わない人を好奇な目で見ることがあります。しかし、おかしな事をしとるんはキリスト者と自称しながらクリスマスを祝う人たちです。牧師ともあろう者がこれを理解してへんのは疑問です。意図的に悪魔崇拝をさせる悪意すら感じます。例えば、中川健一牧師です。こちら(聖書入門.com)を見てください。「クリスマスを祝うかどうかは、各人が判断すればよい」と、なんとも無責任です。彼らは、「みんなやっているんだから、楽しめばいいじゃない」と言うでしょうが、そうやって、沢山の無知な人が勝手にクリスマスを習慣化して固定行事とし、芋づる式に人は誤った道に行くのです。おそらく、無知な人々の批判を恐れての発言でしょう。ちなみに、復活祭(イースター)という祭も異教文化のものです。聖書に書かれてへん祭は、すべて異教のものと考えるべきです。卵や兎も聖書とまったく関係無く、それらは古代バビロニアの豊饒多産のイシュタルが由来であり、それが古代フェニキアや欧州に広まって土着の宗教として定着したのが本質で、卵と兎は豊饒多産の象徴として用いられとるだけです。こんな忌まわしい祭は廃止すべきもので、真のキリスト者は神の律法に基づき、主イエスの御言葉どおりに過越祭を守るべきです。復活祭(イースター)なんて聖書になく、カトリックが推進する祭りなので無視すべきです。

 

以上より、カトリックは、イエス・キリストを唯一の救い主とするキリスト教の仮面を被りながら、実は主イエス・キリストの教えと聖書の内容に反することをする人たち、即ち、反キリストの集団であるということが明白です。あと、本質を理解しない人のために言うときます。キリスト教信者が他の宗教を迫害するために宗教戦争を起こし、沢山の人を殺したと主張する人へ。こういうつまらないことを言う人が大勢おるからです。この原因は、聖書やキリストの教えにあるのではなく、人間の本性、その時の政治的対立や権力闘争、戦争による金儲けによるものです。彼らが聖書やキリストを持ち出すのは偽りであり、口実でしかないのです。キリスト教をかたる偽キリスト教のカトリックやイエズス会、その他の異教徒の仕業でしかないのです。また、過去の歴史から明らかですが、聖書にのみ依拠して主イエスを信じて生きた真のキリスト者は、ローマ皇帝やローマ教皇等の権力者によって迫害されて非人道的で残虐な刑を受けた上で殺されてきました正しい信仰を持つ人は人殺しをしません。誰が悪か、悪魔の所業をしているか分かるでしょう。いつの時代にも不信仰の者が、殺人をしない真のキリスト者を迫害して殺すのです。また、聖書で神が殺した人数と悪魔が殺した人数を比較して、神が殺した人数がはるかに多く、より多く殺人をした神の方が悪い等、神を貶めようとする発言をする人もいます。しかし、神は創造主であり、神には被造物である人間を処分する権限があり、それについて異議を申し立てることは不適切です。我々人間(被造物)にはその権限がないので、殺してはいけないのです。旧約聖書の時の世界では神の命令で人間同士が戦うことを許された時代がありましたが、もはや今はこの限りではありません。旧約聖書の後の時代から現在に至るまで、人が人を殺すのはサタンに惑わされた結果です。戦争や紛争を引き起こすのもサタンに誘惑された人間の行いです。

 

結論として、カトリックという誤った教えに従うカトリック信者、聖書に依拠すると表面的に区分されるプロテスタントであっても、聖書にある神の掟と主イエスの教えを遵守せえへん人、真に理解していない人は救われへんと考えるべきです。正しい道は一本しかあらへんのやから、教派を分けるのも無意味です。牧師、その他聖職者だから大丈夫というのも嘘です。あんたが、自称聖職者から洗礼を受けた、何年何十年と教会に足を運んで牧師として説教したり、信者として説教を聞いたり、聖書の教えを守らず都合良く祈ってみたり、讃美歌を大声で歌おうが、カトリックやイエズス会の教義に汚染された牧師や地上の教会の教えを遵守したところでまったく意味がありません。むしろ、現状、このように殆どの地上にある教会は頼りないので、地上に建物として存在する教会に通うことすら害でしょう。試しに、カトリックやローマ教皇についてどう思いますかと牧師やその他の信者に質問してみると良いでしょう。もし、プロテスタントとは別の教派とか、イエス・キリストを信仰するキリスト教の一派、ローマ教皇を尊敬している等と回答したら、彼らから離れるべきです。純粋に聖書に依拠(誤った解釈をしないこと)し、主イエスをキリストとして信じ、その教えに従って行動して生きることが唯一の道なのです。当たり前ですが、信仰を守るのは一人でも可能ですが引きこもりは駄目ですし、信仰の兄弟との交流は必要不可欠です。そうでないと主イエスの掟を守れへんさかい。地上の教会に通って、にわか信者と献金目当てで世間に迎合する牧師と群れる必要性は無いです。目に見える幸せ、例えば、ただの紙切れである紙幣を積んだのを見て嬉しい、銀行口座残高の桁数が多いのを見て嬉しい、自信が付くと思っているのでしょうか。これを肯定して譲らないなら、もう救いようがない位、サタンの虜になっていることになります。サタンは嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節拙訳)と呼ばれ、嘘が得意なのです。人を神から遠ざけ、自分の方に取り込むためにあらゆる誘惑をあなたに仕掛け、滅びに導くのです。金銭欲、支配欲、権力欲、情欲、暴飲暴食、娯楽、賭け事等に溺れるのがその例です。拙者自身、聖書と主イエスを信じて生きることを宗教と思っていません。なぜなら、これが至極当然に、創造主の神がお造りになった人間に要求されている生き方やからです。聖書を読んで主イエスを信じて生きることを宗教だとするのは、それはあなたがこれまで生きてきて世間に影響された結果の勝手な思い込みです。聖書と主イエスに従うことが宗教だと書かれていません。むしろ、創造主である神を無視し意図的反逆する世俗社会こそ宗教であり、世俗社会に従って生きる人はカルト宗教信者であり、異教信者と何ら異なる点はありません。世俗社会かて政治家や官僚等に悪魔崇拝者で一杯なんやから、彼らの取り決めや悪法に従うんやったら彼らと同類の悪魔崇拝者です。所謂宗教と呼ばれる聖書と主イエスの教え以外は冒頭で言ったとおり、すべて論外です。論じるに値しません。一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上