こんにちは。
今回は、預言者と偽預言者の違いについて書きます。
一般に、人は、自分を肯定してくれる人、褒めてくれる人、同意してくれる人、共感してくれる人を求め、そのような人を見つけると安心したり、喜ぶ傾向があります。普通ならば、人は、自分を否定する人、指導する人、叱責する人、非難する人を好きにならないでしょう。しかし、それで本当にいいのでしょうか。もし、あなたが間違ったことをしているのに、他人から同意してくれて、あろうことか、褒められると間違っていることに気付かず、そのまま間違ったことをし続けます。間違ったことを盲信し続けるのは問題外ですが、あなた自身がちょっと悪い、もしかしたら間違っているかもしれないと思いながらも、周囲の人々が反対しないし、注意もされないし、叱責もされないし、似たような考えの人が他にいるから大丈夫なんだと思うことでしょう。それでは、あなたのためにはならないのです。そのため、私は少しきつい印象を与えるような書き方をしてきました。実際、偽善的な生温い態度が原因で今まで多くの人々が滅んでいきました。滅びに至る広い道を皆仲良く歩いていて、道中は和気あいあいとして楽しいかもしれませんが、行き着く先は第二の死です。また、世の多数決原理というのは悪魔的原理であり、世に属する人間が圧倒的多数であることを利用した大いなる欺瞞なのです。多数派になれば正しいとか正統という訳ではありません。この世では、間違ったことが多数となり、それが正しいと誤信している人が多く、誤信しているという事実にすら気付いていません。これからはこの多数決原理、多数派が正しいという誤った考えを基に、少数派の正しい信仰が異端かのように吹聴する者が増え、聖書の真理から逸れる背教者が増えます。
例えば、血の繋がった実の子供と血の繋がりのない養子の子供とでは、親からの扱われ方が違うでしょう。実の子ならば厳しく育てるのが普通です。養子でも例外的にまともに育てられる場合もあるでしょうが、ほとんどはどこか遠慮する気持ちが養親に働くはずです。子供も養親に対する振る舞いと肉親に対する振る舞いも異なるでしょう。
もっとも、最近では、残念ながら実の子供でも親が子供に虐待をしたり、甘やかしたり、放任主義できちんとした教育やしつけができない親が非常に多くなっているので、悲しいことにこの例え話が理解できる人が非常に少なくなりました。それ程、今の世の中は堕落しているのです。私がこのように言うと、「私の子供なんだから、どのように育てようが私の勝手でしょう。口出ししないで欲しい。」というような反感に満ちた声が返ってきそうです。私がこのように言うのは、個人の家庭教育に干渉しているのではなく、悪くならないように助言しているだけなのです。それなのに、彼らは過剰反応を示し、「傲慢だ。」、「偉そうに何様のつもりだ。」等と言うでしょう。このような反応は稚拙な反抗に過ぎません。彼らは自らの姿勢や言動を客観視して反省しようともしないで、自分の思いどおりにしたいという肉の欲と自分だけが正しいという高慢さに支配され、受け入れるべき正しい忠告を拒絶しています。
このように、聖書の教えについても同様のことが言えます。人々は、長年語り継がれた歴史と聖書やキリストに関する教義に欺瞞が無いと思い込み、既存の教会や教派のいずれかが正しいと盲信し、聖書の真理を無視して各自が勝手に信じたいように信じています。このようなクリスチャンが多数であり、聖書の真理を悟ることができないまま、最終的に獣の刻印を受けるようになるでしょう。はっきり言って、過去の歴史や聖書の教えも現代で教えられていることは欺瞞だらけです。学校の教科書も捏造された嘘が多いし、本当に教えるべきことを教えていません。権力者の都合で隠された闇の歴史や世の中の仕組みは教科書に載ることがないからです。学校は一種の集団洗脳機関です。サタンは、学校を通して、人々に間違った歴史や知識、思考、習慣等を若い頃に植え付けています。学校教育で洗脳されきった人のほとんどは死ぬまで学校や集団生活で学んだことを基に生きて、テレビや新聞等のマスコミによるくだらない報道内容に一喜一憂しながら虚しく人生を終えるでしょう。聖書の内容についても嘘が多く語られ、主イエス・キリストを信じると言いさえすれば簡単に救われるという嘘の教えを信じて疑わないにわかクリスチャンが多いです。そして、にわかクリスチャンに限って、私に反抗します。これは事実です。しかし、ほんの一部の人だけは世の欺瞞と私の述べることの真実性に気付いて回心して悔い改めることができます。これは神の導きによるものです。この数は、過去に述べたとおり、ほんの一握りです。広大な海辺の砂から砂金を探すようなものです。
私は、約一年前の記事から聖書を読むように勧めてきました。聖書を手に取るきっかけは何でもいいです。きっかけは重要ではありません。重要なのは、聖書の真理を理解することです。しかし、聖書は他の本とは異なり、読めば必ず真理が分かる性質の書物ではありません。分量もかなり多いですし、簡単には理解できない例えや象徴が多く、なかなか全部を読み切ろうとする人がいないですし、通読し終えても理解できない部分が多いでしょう。聖書を読んだ回数は重要ではありませんが、それなりに繰り返し読まないと理解が深まらないのも事実です。何回聖書を読めば真理が理解できるかというのは愚問です。答えは、神の霊の導きによってのみ、正しく理解できるのです。よって、聖霊の働きや正しい導き手がいなければ、真理の理解には到達し得ないのです。たとえ聖書を何十回、何百回読もうとも、聖霊の導きがなく、霊によって新生しない最初に生まれたままの状態で読んでも真理は決して分からず、世の欺瞞に騙され、偽りの教えや自分勝手な解釈が正しいと信じて間違った道を歩むことになります。そして、主の道を整えてまっすぐにする声にも耳を傾けず、愚弄したり、根拠もなく批判し、無意味な議論に夢中になり、神の愛を知ることもなく、真理の道から外れたまま時が過ぎ、最後の審判の時に断罪されて第二の死に引き渡されるでしょう。それは耳を傾けなかった者自身の責任です。
洗礼者ヨハネを見てみましょう。
主イエスは洗礼者ヨハネのことを「預言者以上の者である。」(マタイ11:9)、「彼は現れるはずのエリヤである。」(マタイ11:14)と評されました。しかし、一般の人々は洗礼者ヨハネのことを「あれは悪霊に取りつかれている。」(マタイ11:18)とあざけり、「彼を認めず、好きなようにあしらった」(マタイ17:12)のでした。このように、多くの人々は洗礼者ヨハネのことを正しく理解しなかったのです。むしろ、できなかったのです。なぜなら、一般の人々の方こそがサタンに惑わされている世に属する人間だからです。弟子たちでさえも、「イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」(マタイ17:13)と主イエスから教えられるまでは気が付きませんでした。そのようなものです。聖霊を受けて新生する前の弟子たちは主イエスに教えられるまで気付きませんでした。言われて気付く人は幸いです。一部の人は洗礼者ヨハネを預言者と思い、彼の弟子となって従った人もいましたが、多くの人々は彼の正体に気付かず、おかしい人とか少し変わった人だったと思い込んだまま彼らは人生を終えていきました。現代でも同じです。実で見分けることができないほとんどの人々は、洗礼者ヨハネのことや終末の前に現れるエリヤのことを気にかけていません。エリヤの霊が「すべてを元どおりにする」(マタイ17:11)働きは、キリストの初臨の前に洗礼者ヨハネが働いたように、キリストの再臨前にも同じ働きが行われます。以下に預言されているとおりです。
旧約聖書 マラキ書 3章23節
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
上記の預言は、洗礼者ヨハネがエリヤ自身ではなかったのと同様に、エリヤのような働きをする者を意味し、エリヤとまったく同一人物という訳ではありません。しかし、当時の一般の人々と同様に現代の多くの人々もその働きに気が付かないでしょう。その働きをする人は、過去の洗礼者ヨハネと同じように、ごく少数の人は気付くかもしれませんが、多くの一般の人々は認めずに反感や敵意を持って誹謗中傷したり、好きなようにあしらうのです。主イエスは、「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(マタイ11:19)と仰いました。しかし、これは誤訳で、「しかし、知恵は、それに従う人たちによって証明される。」とすべきです。要するに、正しい聖書福音を信じた人が証しをすることで正しさが分かるということです。洗礼者ヨハネは、ローマから攻撃されてエルサレムが壊滅する前の彼らにとっての終わりの時代のユダヤ人たちに「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタイ3:8)と言いました。今の時代にも同じことが言えます。誰が神の怒りを免れると教えたのですか。サタンでしょう。サタンに惑わされたにわかクリスチャンがサタンの主張を代弁しているのです。もう何度も複数の過去記事で述べたことですが、艱難期前携挙説の主張である黙示録3:10を勘違いして艱難を逃れると吹聴したり、クリスチャンでありさえすれば必ず救われる、携挙される、神の御国に入れる等と信じているのは蝮の子です。携挙に限らず、律法廃止論、安息日不遵守、偶像礼拝、異教由来の儀式への参加や擁護等、聖書の真理から外れたことを吹聴する悪魔の子らが世界に溢れかえっています。
洗礼者ヨハネは奇跡を行いませんでした。当時の一般の人々は「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方(主イエス)について話したことは、すべて本当だった。」(ヨハネ10:41)と主イエスに語ったと聖書にあります。このことから、奇跡というしるしは重要ではないし、真理の霊かどうかを判断する基準にはなり得ません。なぜなら、奇跡はサタンでも起こすことが可能であり、奇跡を行うことが神の業の証明にならないことを知っているからです。そのことも私が多くの過去記事で既に述べたことです。また、前回記事「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」で注意喚起したことです。異言、奇跡、癒し等の目に見えることばかりに心を奪われ、世にはびこる虚偽の聖書に関する教義を頑なに信じ続ける人は真のクリスチャンではありません。預言者や預言者以上の者は奇跡に頼りません。イエス・キリストの真実と聖書の真理を語り、神に栄光を帰し、主イエス・キリストがまことの救い主であると信じて従順にイエスの弟子となるように導くことが既にしるしになっています。それは「あなたがたが認めようと思えば分かること」(マタイ11:14)なのです。なぜなら、サタンや悪霊に惑わされた人間にはできないことだからです。世の諸教会に通わせ、にわかクリスチャン同士で戯れるように導いたり、日頃から好き勝手に妄言を言い続けて口先だけの信仰者に仕立てるのは聖霊の働きではなく、悪霊の働きです。彼らの働きは、一見すると主イエスに従ったように見せかけるので巧妙ですが、実際は違います。彼らのしていることは、私が過去に糾弾してきた律法廃止論、偶像礼拝、日曜礼拝、艱難期前携挙説、千年王国、異教由来の儀式や慣習が問題ないと人々に信じさせ、真理の道から逸らすことで神の御国から遠ざける働きだからです。間違った道に導かれて広い門から入った者は後で滅びます。勘違いして騙されないようにしてください。
洗礼者ヨハネは、「神から遣わされた一人の人」(ヨハネ1:6)で、「証しをするために来た。」(ヨハネ1:7)、「光について証しをするために来た。」(ヨハネ1:8)と書かれています。光というのは、主イエスのことです。即ち、洗礼者ヨハネは主イエスのことを証しするために、主イエスの初臨前に世に遣わされた人だったのです。また、彼は真理について証しをしました。
主イエスは、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」(ヨハネ5:33)、「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」(ヨハネ5:35)と仰いました。洗礼者ヨハネは、ともし火という小さな光でしたが、当時の神の民を光である主イエスに向けさせました。過去記事「現代の世俗化と真のクリスチャンの生き方」の最後でも書いたように、この世という暗闇の中で世の光となったのです。神の律法や掟を遵守することの重要性や文字どおりでは分からない秘められた内容を説く等の聖書の真理を語り、人々を、心から悔い改めさせ、主イエスへと導く者が世の光なのであって、偽りの聖書福音や偽りの預言解釈を吹聴するにわかクリスチャンは闇です。また、その数が非常に多くてその闇でこの世は覆われており、小さな光を見つけるのは容易ではありません。たとえ見つけてもそれと分からない者が多数ですし、光を偽装した闇を光と勘違いする者もいます。
ところで、あなたがたは聖書についてどう思っているでしょうか。
キリスト教で使われる本、歴史書、未来に関する預言書等の感想を抱いている人間がほとんどではないでしょうか。勿論、それらの側面もあるのですが、その程度の思いしかないようでは何も分かっていないです。聖書とは、主イエス・キリストについての証しをしている書物です。以下のとおりです。
新約聖書 ヨハネによる福音書 5章38~40節
また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
上記は主イエスの御言葉です。聖書も洗礼者ヨハネも同じく主イエスのことを証しする小さな光です。しかし、地上の諸教会、諸教派、非営利団体や過去に弾劾してきた偽預言者、偽教師はまったく主イエスについての証しをしていません。彼らは偽り者だからです。イエス・キリストの名を出さないのはあからさまな反キリストであって論外ですが、イエスの名を出しさえすればいいのではありません。聖書について少しばかり話をしたからいいのでもありません。そんなことはサタンでもできることです。と言うのも、神は唯一であると悪霊どももそう信じておののいている(ヤコブ2:19参照)からで、主イエスの御名に力があることは彼らの方が人間よりもよく分かっています。主イエスが上記で仰るように、世の大半の人間は地獄に行くのを恐れているのに、主イエスを心から信じて悔い改めず、神の律法や戒めを守らず、虚しく「主よ、主よ」と言い続け、主イエスの御許に近づこうとするどころか、かえって遠ざかり、結果的に永遠の命を得ることができません。私にはこのようにしか思えません。
新約聖書 ヨハネによる福音書 5章41節
しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
過去に、私から、「神のことを思っていない」、「世のことばかり気にする」という注意を受けた人たちがいます。それは主イエスの御言葉どおり、神への愛が無いと感じられたからです。そのような人は、ひたすら自分のことや身内のこと、世のことを考えており、神のことを考えていないです。だから、彼らは神の義を求めて行うことよりも、世のことばかり気になって仕方がないのです。私は憎いから言うのではなく愛から言うのです。そして、このように叱責する私に愛が無いと言う者がいるでしょう。そのように言うのは、その者が本物の愛とはどういうものかを分かっていないからです。神の義や真理を曲げてでも他人に同調したり、世の友となることが本物の愛ではありません。勿論、私は、人間の憲法や法律、社会情勢等をまったく無視するように言っているのではありません。優先順位の問題を言っているのです。もう時間が多く残っていないし、あなたがたは聖書を読んで十分に理解していないというのに、主イエスについての証しである聖書か世のことかと比較して、世のことについて時間と労力をかけるなら、あなたの心は世にあるのです。しかし、私の忠告を受けて素直に聞き入れて改善の努力をするならまだ希望が持てますが、反抗するなら絶望的です。
また、散々私が守るように言ってきた神の律法、即ち、モーセの律法のことですが、モーセのことも主イエスは語られました。
新約聖書 ヨハネによる福音書 5章45~47節
あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。
上記の主イエスの御言葉で、「あなたたちが頼りにしているモーセ」とあり、当時のユダヤ人たちがモーセの律法を遵守することで救いを得るということがモーセを頼りにするという意味です。しかし、主イエスは、当時のユダヤ人たちがモーセの書いたことを信じないので主イエスも信じないと仰っています。要するに、彼らはモーセの律法を守っているように外見上は見えても、実際は守っていなかったということです。彼らは贖罪の儀式で罪を帳消しにすればいいと思っており、普段から常習的に罪を犯していたので、主イエスの前では姦通の女(ヨハネ8:1~11)に石を投げることができなかったのです。そして、現代のクリスチャンのほとんどは、主イエスの十字架を理由にモーセの律法を蔑ろにしています。つまり、彼らは主イエスの十字架を悪用し、彼ら自身の不従順の正当化事由にしており、主イエスの教えに逆らう反キリストになっています。また、過去記事「死後の世界」で既に言及したことです。「金持ちとラザロ」の例え話でも主イエスが語られたとおり、「『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:31)と同じ内容です。旧約聖書を読んで理解し、信じないならば、モーセの律法という文字によってあなたがたは裁かれるのです。このことも過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」で述べました。ここでいう信じるというのは守るという行いが伴います。知っているだけでは信じたことにはならず、行いが伴って初めて意味があるです。それ故、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)と言われる根拠です。上記聖句のとおり、モーセを信じるならば主イエスをも信じますし、モーセを信じないならば、主イエスも信じていないことになります。即ち、モーセの律法を守らない者は主イエスを信じたことにはならないということです。逆に言っても成立します。主イエスを信じて従順に従っていない者は、モーセの律法を守っていないのです。これは、現代では、にわかクリスチャン、無神論者、異教徒に当てはまります。私が神の律法と掟を守るように伝道しているのは、あなたがたを縛り付けるのが目的ではなく、それを通して主イエスを心から信じて欲しいからです。私のように地上の教会に通わず、一人で信仰を持っているがこのままでよいのかと迷いがある人、一人で聖書研究をしているが行き詰まった人は、当ブログは参考になっているでしょう。しかし、既に地上の教会に通っており、洗礼は牧師から受けたから大丈夫と言う人、その他のにわかクリスチャンが、私のブログにあるすべての記事を読んでもなお、自分は大丈夫という主張ができるでしょうか。もしできるなら、もう当ブログを読みに来なくて結構です。問題ないのですから読む必要がないからです。それとも私が書いたことが気になって仕方がなく、必死に読み漁って他所で評論したり陰口を言わないと気が済まないのでしょうか。そういう人間がどういう者かも既に過去に述べました。彼らは本当に精神が腐った人間です。彼らが愚かなことをしないように事前に忠告してもなお逆らって悪行を働くのですから、救いようがありません。
愛する兄弟たち、そのような人たちを相手にして骨を折るのではなく、未だ真の福音を聞いていない人、真の福音を知らない人に伝道するようにしてください。この世での時間は有限ですし、かつ、今は終わりの時が迫っており、心を頑なにされた背教者を相手にしている暇はありません。少し訓戒しても聞かないようなら、悪を行い続ける者には悪を行わせておけばよい(黙示録22:11参照)のです。以下の言葉を心に留めておいてください。
新約聖書 ユダの手紙 17~19節
愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。
上述で洗礼者ヨハネについて話をしましたが、私たちは、今でこそ新約聖書によって洗礼者ヨハネについてどのような人であったかが分かります。しかし、あなたがたが、当時のような新約聖書もインターネットもない時代で、一般のユダヤ人と同じ立場だと仮定した場合、あなたがたは洗礼者ヨハネを見て、エリヤの働きをした人だと認めることができたでしょうか。私は、にわかクリスチャンにはできないと思います。なぜなら、彼らには聖霊の導きがなく、実で見分けることができないからです。当時の一般のユダヤ人たちのように、「あいつはいかれている。」、「悪霊に取り憑かれている」等の所感を抱いたことでしょう。また、外見で判断する人間が世には多いことから、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(マタイ3:4)ような人を見たら、世の人間のほとんどは近づこうとしないでしょう。それは主イエスについても同様です。当時のユダヤ人たちは目の前でメシアの御姿を見て、主イエスの御言葉と御業を見聞きしていたのにも拘らず、彼らの大半は信じず、あらゆる策謀の果てに十字架に掛けました。旧約聖書に精通していたはずの律法学者やファリサイ派の人々でさえ、旧約聖書のメシア預言が主イエスのことであると見抜けず、かえって神の御子に対して激しい敵意を持って言葉尻を捕らえようと質問して試したり(ルカ11:53~5)、殺そうと狙い続け、最終的に殺しました。まだ当時は選民であったユダヤ人も身近にいたメシアを認めず、迫害しました。実際はそのようなものなのです。洗礼者ヨハネや一部の旧約時代の預言者たちも神に反抗する一般人と為政者に憎まれ、捕らえられて殺されました(マタイ23:37参照)。世に属する人間は聖書を何回も読んでも、聖書を分かっているようで実はまったく分かっていないのです。神学校を卒業して牧師になったとか、地上の教会に通ったり、Youtube等の動画を聞きかじって聖書をほんの少し読んだ程度で真理を分かったと思ってもみないでください。現代でも、多くのクリスチャンが実で見分けることができておらず、当時のユダヤ人と同じような状況になっています。あなたがたのほとんどは、たとえ預言者が近くにいても気付かないし、認めようとしないでしょう。そのような鈍感な人は、私が、にわかクリスチャンと呼んでいる者たちです。彼らは蝮の子なので、神から遣わされた人を認めず、憎しみや敵意から評論や批判をし、または誹謗中傷して迫害します。だから、主イエスは神の民に向けられる迫害を予告されているのです。にわかクリスチャンは神の民ではありませんし、迫害されることがありませんし、むしろ迫害する側にいます。にわかクリスチャンは救われていると勘違いし続け、虚しく主イエスの御名を唱えながら背教と滅びに向かって進み、聖書の真理に立って正しい信仰をする真のクリスチャンを迫害します。
教会ではなく聖書が唯一の絶対的権威であることに変わりありませんが、聖書だけでは人々が真理を理解することができないのは上述で説明したとおりですが、聖書だけあれば十分という訳でもないのです。そのことは過去にユダヤ人が証明しましたし、聖書が示しているとおりです。仮に聖書だけあれば十分で、人間がきちんとモーセの律法の重要性を理解して守れるのであれば、主なる神は預言者に預言させ、民衆に警告したり、悔い改めに導く必要もなかったし、捕らえられて殺されることもなかったでしょう。また、主イエスも地上に来られる必要もなかったでしょう。しかし、残念ながら、肉なる人間はそれ程の存在ではなく、聖書だけでは不十分ということは聖書自体が示していることです。神はすべてご存知で、多くの人間が聖書だけを読んでも真理を理解できないことをご存知なのです。ですから、正しい伝道者、真の預言者、またはその両方を備える者が必要なのです。サタンは、そこにも目をつけ、偽りの教義で多くの人々を騙して取り込む偽教師や偽預言者を用意しています。多くの人々は、聖書を読んでもよく理解できず、参考になる教材や教えてくれる人を探している内に偽教師や偽預言者の教義に引っかかって影響された結果、間違った信仰を持ってそれが絶対的に正しいと思い込んで高慢になってしまうことが少なくありません。これは実際に多く発生していることです。ですから、実で見分けることが重要になります。しかし、聖書をきちんと読まずして、実で見分けることは決してできません。世の多くの人々が騙されるのは、聖書を部分的に読んで全体像を把握しておらず、文脈を無視したり、自分に都合の良いように私的解釈するからです。しかし、一番の原因は何と言っても彼らに聖霊がいないから、真理を悟ることができないのです。
あなたがたは、預言者を何でも言い当てる完璧な人間であるかのように思っていることでしょうが、それは偏見です。預言者もまた人間であり、完璧な存在ではありません。例えば、預言者サムエルは、サウルに代わる王をベツレヘムのエッサイのもとに行った時、「サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。」(列王記上16:6)とあります。しかし、主は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(列王記上16:7)と仰り、他の兄弟たちも主はお選びにならず、結果的に、ダビデに油を注ぐようにサムエルにお命じになったのでした。サムエルにはダビデが王に相応しい器であることが分からなかったのです。このように、主なる神は、人間が見るように人を判断されないのです。また、預言者ナタンは、ダビデが主のために神殿を建てようとほのめかすことを言ったことに対して、「心にあることは何でも実行なさるといいでしょう。主はあなたと共におられます。」(サムエル記下7:3)と言いました。しかし、その夜、「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。」(サムエル記下7:5)、「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て」(サムエル記下7:12~13)ると主はナタンに仰いました。つまり、ダビデではなく、ソロモンが神殿を建てる(列王記上5:15~8:66)ということです。ナタンもダビデではなく、ソロモンが神殿を建築することを予見できなかったのです。このように、旧約時代の預言者たちは神の御言葉を預かった者でしたが、啓示の内容をすべて完全に理解している訳ではありませんでした。仮に、彼らが啓示の内容を明確に理解していたら、説明を書き足したでしょう。しかし、それはありません。なぜなら、後世、即ち、最も闇が広がっているこの世の終わりの時代において然るべき人がそれを解き明かすためです。預言者は神の御言葉を預かって人々に告げる役目はあるものの、一字一句口から出るすべての言葉が神から出て来るのではありません。と言うのも、預言者も人間であり、普通の日常生活を送っており、例えば「こんにちは。」と挨拶したら、神が挨拶したということにはならないでしょう。また、一般に誤解されているように未来のことを細かく言い当てる人でもありません。聖書が教える預言者の性質は、上述した旧約時代の預言者から分かるように、未来を正確に把握できる人ではないのです。このように言うと誰が真の預言者か見分けが難しくなるでしょうか。少々間違えても預言者だと思い込み易くなるからです。そのため、主イエスは、「偽預言者も大勢現れ、人々を惑わす。」(マタイ24:11)、「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人々たちをも惑わそうとする」(マタイ24:24)と注意されているのです。この大きなしるしは、黙示録13:13と一致します。そのため、奇跡をはじめとする目に見えるしるしに惑わされてはなりません。上述で話をしたとおり、世の終わりであるキリストの再臨前に現れる預言者は、主イエスの証しをし、語る内容が聖書の真理に合致し、エリヤがバアル崇拝の預言者と戦って勝ったように間違った信仰や教義を弾劾し、人々を真に悔い改めさせて、「逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1:17)者で、エリヤのような存在です。ここでいう「逆らう者」というのは、悔い改めて主イエスに従う前の状態の人を指します。エリヤのような存在でなければ、バアル(サタン)崇拝をする偽預言者や偽教師に打ち勝って、人々を真に悔い改めさせ、主なる神のために神の民を用意できません。バアル崇拝の偽預言者や偽教師を怪しむ程度では打ち勝ったとは言えず、悪を警戒しているだけです。神の御言葉である聖書をもって偽りの教義を暴いて弾劾し、救われるべき騙された人々を唯一の救い主である主イエスに導くことで勝ったといえるのです。
一般にありがちな「神のお告げ」、「主から御言葉をいただいた」等と言う者や聖書を少し交えて世のことばかりしきりに語る者が預言者ではありません。偽預言者は聖書をそのままなぞって正しく見せかけることはしますが、必ず聖書の真理から外れた態度や言動をしているので、実で見分けるとすぐに違うことが分かります。もっとも、実で見分ける能力を備えていないにわかクリスチャンがする批判は肉の思い(怒り、恨み、妬み、悪意、敵意等)から来る的外れなものばかりで、本物の預言者に対しても偽預言者と呼んだり、宣べ伝える内容に異論を唱えて人々を混乱させるでしょう。正しい根拠を明確に示さずに偽預言者等とわめき散らすのは簡単なことで、子供でもでき、悪い行いです。過去記事「巧みな欺瞞と真理」で述べたとおり、占いや心霊術(チャネリング)等は罪であるとモーセの律法にあるとおりで、律法違反をしたり、聖書の真理から外れた言動をする者は偽預言者です。そして、真の預言者は絶対に自ら「私は預言者である」と言いません。それも過去記事「聖書預言の正しい解釈方法」で述べたことです。
偽預言者は以下の特徴があります。
旧約聖書 エゼキエル書 13章5~7節
お前たちは、主の日の戦いに耐えるために、城壁の破れ口に上ろうとせず、イスラエルの家を守る石垣を築こうともしない。彼らはむなしい幻を見、欺きの占いを行い、主から遣わされてもいないのに、『主は言われる』と言って、その言葉が成就するのを待っている。お前たちが見ているのはむなしい幻、お前たちが口にしているのは欺きの占いではないか。わたしが語っていないのに、『主は言われる』と言っている。
もう誰のことかお分かりですね。私が過去に弾劾してきた偽預言者たちです。名前を逐一出さなくても他にも大勢います。虚しい偽りのお告げを語り、占いや霊媒といった罪となる行為をしたりして、聖書の真理から外れたことを語り、聖書に書かれていない教えを付け加えたり、人々を偽りの教えから救い出して本物の救いに導かない者たちのことです。偽預言者や偽教師らは人を救うどころか、かえって人々を間違った信仰へと導きます。また、以下もあなたたちは知らねばならない。
旧約聖書 エレミヤ書 23章16~21節
万軍の主はこう言われる。
お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。
彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ
主の口ではなく、自分の心の幻を語る。
わたしを侮る者たちに向かって彼らは常に言う。
「平和があなたたちに臨むと主が語られた」と。
また、かたくなな心のままに歩む者に向かって
「災いがあなたたちに来ることはない」と言う。
(中略)
主の怒りは思い定められた事を成し遂げられるまではやまない。
終わりの日に、お前たちはこのことをはっきりと悟る。
わたしが遣わさないのに預言者たちは走る。
わたしは彼らに語っていないのに彼らは預言する。
上記聖句は、終わりの時に関する偽預言者についての警告です。アメブロ内にも、夢でどうのとか、主が示したくれた等と戯言を言う者たちが数人います。アメブロ以外にも多くいる者も同様です。主イエスを信じるだけでよく、律法は廃止されたのだから無視してよいし、日曜日は復活の曜日として祝って礼拝するべきだ、艱難前に携挙される等を教える牧師や教師は偽教師です。正しい教師は、妥協をしません。聖書の真理に沿って正しいことを言って曲げることをしません。睡眠中や意識不明の間で見た幻がどうとか、その幻で主イエスに会ったとか、色々この類のことをネット上で記事や動画にしている者たちがいますが、これらも偽り者です。彼ら、彼女らをその実で判断すれば、偽り者であることが分かります。主イエスを賛美しているから敬虔なクリスチャンなのだと表面的なことばかりで判断するとすぐに騙されます。このような偽りの啓示を主なる神からのものと言ったり、預言として語る者たちは、以下のようになります。
旧約聖書 エレミヤ書 23章39節
見よ、わたしはお前たちを全く退け、お前たちと父祖たちに与えたこの都と共に、お前たちを私の前から捨て去る。そして、お前たちに、決して忘れえない永久の恥と永久の辱めを与える。
上記のように、偽りの啓示や幻、夢を語る偽預言者たちは消えることのない恥を受けることになります。それは新約聖書にも記述があります。「獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。」(黙示録19:20)、「この者どもは昼も夜も世世限りなく責めさいなまれる。」(黙示録20:10)のとおり、偽預言者の末路が明白です。
旧約時代から歴史は繰り返しており、現代においても聖書の真理を語る人に敵意をもって迫害する人たちよ、あなたがたは神にとって一体どのような善い働きをしたというのか。ひたすら無為に地上で生き長らえるか、実現しない楽園での生活を妄想しながら虚しく主イエスを崇めているだけではないか。神のために何か善い行いをしたことがあるのですか。常に神の義を第一に求めていますか。それも自分や身内のためにやっているのでは偽善です。サタンは、あらゆる手を使い、人々を聖書の真理から引き離そうとし、できれば神の民をも惑わそうとします。なぜなら、聖書の真理は人を救うからです。これからは、サタンは真のクリスチャンに狙いを定め、世に属する人間の中でも異教徒や無神論者だけでなく、にわかクリスチャンも使って迫害してきます。即ち、表面的には兄弟と思われる人からの攻撃です。しかし、彼らは実のところは兄弟ではなく背教者です。以下の聖句を知らないのですか。
新約聖書 ヨハネの手紙一 2章9節
「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今なお闇の中にいます。
新約聖書 ヨハネの手紙一 3章14~15節
愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。
新約聖書 ヨハネの手紙一 4章20節
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。
上記聖句のとおり、兄弟を憎む者がどうか明確に書かれています。私はあなたがたに聖書の真理を知ってもらい、真に悔い改め、真に主イエス・キリストに立ち返って従順になって欲しいだけです。これが私がブログを書いてきた目的です。これ以上でもこれ以下でもありません。このことを理解しようともせずに、根拠の無い勝手な妄想を張り巡らし、他人と陰口を言い合う愚かな背教者たちは兄弟ではありません。彼ら自身がそう証言しているのです。そのような悪い行いをする者は神の愛をまったく知らない偽り者、神に反抗する反キリスト、蝮の子たちです。このような者は、過去に私のブログに悪意を隠してコメント投稿をしてきた者もおりましたが、去って行きました。これも「彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし、去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。」(ヨハネ一2:19)のとおりです。神の働き手を邪魔して迫害する者たちよ、あなたがたは自分たちが神の御国に入らないばかりか他人をも惑わして滅びへと道連れにするにわかクリスチャンです。以下の言葉をよく心に刻んでおきなさい。
新約聖書 コリントの信徒への手紙二 11章14~15節
こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くにはあたりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。
愛する兄弟たち、相手がクリスチャンと自称して、聖書と主イエスを信じていると言っても警戒を怠らないようにしてください。サタンは、自分が惑わした手先であるにわかクリスチャンを使って、真理の道から逸らさせたり、滅びへの道連れにしようと揺さぶりをかけてきます。そのような者には毅然とした態度を取り、災いに巻き込まれないように関わらないようにしてください。
手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上