こんにちは。

 

今回は、神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣について書きます。

 

既に複数の過去記事で言及してきたことではありますが、改めて説明します。一部の不信仰の者の間でさえも騒がれている”獣の刻印”というのは、ヨハネの黙示録13章に出てくるものです。英語では、the mark of the beastと言われています。刻印というのは、しるしです。よって、獣の刻印というのは、黙示録13:1の「獣」のしるしを持つ者、即ち、黙示録13:16にあるように獣に従った故に押される印です。

 

まず、印というのは何でしょうか。

印ではない「しるし」は、その言葉自体は多種多様な意味を持ち、印以外では、合図、証明、証拠、兆候、効果、奇跡、神の御力の顕現等があります。しかし、印は権威の象徴と所有者を明確にするためのものです。エゼキエル書9:4、9:6やダニエル書6:18、ハガイ書2:23、コリント二1:22、ガラテヤ6:17等から分かります。その昔、ヨーロッパでよく使われた封蝋(ふうろう)、英語ではsealing waxという物で、手紙や文書の封印に使用され、その模様や文字から誰からのものか分かることから権威の象徴としての役割がありました。例えば、王の封蝋と直筆署名があれば、その手紙や文書の内容は王の言葉としての権威を持ちます。

現代では、印は、権威の象徴以外の意味で、日常生活で広く使用されています。裁判所等の司法機関、役所等の行政機関も公文書を発行する時は印を押しています。公文書で身近な物と言えば、住民票や戸籍謄本等を発行してもらったら、文書の右下あたりに地方自治体の長の印があるのを見たことがあるでしょう。誰が作成、発行したかを識別するために使用されます。

 

旧約聖書 イザヤ書 8章16節

わたしは弟子たちと共に

証しの書を守り、教えを封じておこう。

 

上記聖句の教えは律法を含んでいます。上記聖句の英語では、「Bind up the testimony; seal the teaching among my disciples.」です。sealというのは名詞ではmarkと同じように印の意味があり、動詞であれば印を押す、封印する、堅く閉じるという意味です。要するに、主なる神の弟子たち(神の民)の間に神の律法と戒めを堅く据えるという意味です。即ち、神は、神の民に対して神の律法と戒めを守らせるということです。似たような聖句を過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」で引用しました。「我が律法を彼らの内側に置き、彼らの心にそれを書き記す。我は彼らの神となり、彼らは我が民となる。」(エレミヤ書三十一章三十三節拙訳)と同じ内容です。神の民は、主イエスの信仰の故に神の律法と戒めを心に記されて守り続けます。かつてのファリサイ派、現在のユダヤ教徒がモーセの律法を守るのとは質が異なります。彼らは自力で救いを得ようとし、人間の言い伝えや伝統により必要以上の細則で縛り付けて自虐行為をして自己満足しているだけであり、何より主イエスの信仰が無いので論外なのです。主イエスの信仰を持ちながら神の掟を守ることが神の印です。繰り返しますが、主イエスの信仰と律法遵守の両方あって神の印なのです。どちらかが欠けてはいけません。神の刻印(黙示録7:2~4)には、「子羊の父の名が記され」(黙示録14:1私訳)ています。目に見えない霊的な刻印であり、神の名がある神の刻印が霊によって新生した神の民に押されます。

 

天の父なる神に通じる唯一の道である主イエス・キリストの信仰と神の掟を守っている者が神の民であり、信仰を持って試練や艱難にも耐えて神の掟を守り続けて霊によって新生した人が神の印を押されるのです。それ故、「ここに、聖なる者たちの忍耐がある。ここに神の掟とイエスの信仰を守る者がいる。」(黙示録14:12私訳)と書かれているのです。将来、信仰が試される艱難が来て、にわかクリスチャンを完全にふるい落とす時が来ます。律法廃止論を唱えて神の律法や戒めを守らなかったり、途中で真理の道から逸れて背教したり、肉の思いに負けて罪を犯し続けているのに悔い改めたと勘違いしたり、棄教したり、新世界秩序(NWO)に従う人は神の民ではありません。過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で述べたとおり、特に、安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)は他の偽りの宗教には存在せず、主なる神と神の民の間のしるしです。

しかし、現代ではどうでしょうか。多くのにわかクリスチャンが主イエスを信仰していると口先だけであり、主イエスの教えも神の律法と戒めを守っていません。カトリックは教会の権威で勝手に安息日をはじめとする神の律法を変更し、教皇や枢機卿等の教会における階級制度、マリア崇拝、聖人崇拝等の偶像礼拝と日曜礼拝、その他異教由来の祭事や儀式(クリスマス、イースター、ミサ等)をしていることから論外であり、プロテスタントはカトリックと同様に日曜礼拝やクリスマス礼拝をしたり、律法廃止論を唱え、艱難期前携挙説等のイエズス会由来の間違った神学を信じて背教しています。主イエス以外に仲介者を立てると虚言を語ったり、人間の戒めを勝手に付け加えるカルト宗教団体(統一教会、摂理、RAPT教、エホバの証人、モルモン教、その他多数)に所属してカルト宗教信者になったり、神はいないと言う無神論者、偶像や悪霊を神と崇める異教徒といった、神に反逆している人間が非常に多いのが現状です。彼らは、神の印を受ける資格がありませんから、必ず獣の刻印を受けるようになります。以下の聖句が根拠です。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 13章8節

地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた子羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。

 

命の書に名前が記載されていない、即ち、火の池に投げ込まれる(黙示録20:15)人たちということです。命の書に名前がない者全員が獣を拝むとあり、世に属する人間はサタンの代理人を通じてサタンを必ず拝むようになるということです。ですから、過去記事「現在進行で人類は選別されている」でも述べたように、神に属する人間と世に属する人間の2種類にはっきりと分かれるのです。だから、中間といった中途半端な者はおらず、信仰も中途半端なのは無いものと同じです。完全か不完全かのどちらかです。不完全な者はふるい落とされます。だから、ふるい落とされないように私が過去に何度も早く準備を整えるように言っているのです。

 

獣とは何かを改めておさらいしましょう。

当ブログで多くの過去記事で書いたとおり、ローマ教皇です。組織としては、バチカン、ローマカトリック教会とそれに属するイエズス会です。何故かは、過去記事「ダニエル書7章の預言と反キリスト」をはじめ、複数の過去記事で述べましたが、まとめてみます。

 

①小さな角であり、十本の角から生えてきた(ダニエル書7:7~8、20)。

②先の角のうち三本を倒して引き抜いた(ダニエル書7:8、20、24)。

③人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語る(ダニエル書7:8、20)。

④ヨーロッパから出てくる(ダニエル書7:8)。

⑤ヨーロッパで国々が分かれてから出てきた(ダニエル書7:24)。

⑥真のクリスチャンを迫害した(ダニエル書7:21、25)。

⑦神に敵対して語る(ダニエル書7:25)。

⑧他の王とは異なる(ダニエル書7:24)。

⑨神の律法を変える(ダニエル書7:25)。

⑩過去に1260年間に及んで支配した(ダニエル書7:25)。

 

上記のとおり、ダニエル書7章に10箇所に渡って特徴が書かれており、これに綺麗に当てはまるのはローマ教皇以外に存在しません。もし違うと思うなら、何が正しいのか反証できる人がいればしてみてください。

また、ヨハネの黙示録13章に書かれている獣の特徴について見ていきましょう。

 

①十本の角があるところに存在する(黙示録13:1)。

②ヨーロッパから出る(黙示録13:1)。

③サタンから権威や王座を与えられる(黙示録13:2、4)。

④他に並ぶ者がいない程高められる(黙示録13:4)。

⑤死んだと思われた状態から復活した(黙示録13:3)。

⑥大言と冒瀆の言葉を吐く(黙示録13:5)。

⑦過去に42か月(1260年)の間支配し、世の終わりの直前3年半弱支配する(黙示録13:5)。

⑧真のクリスチャンを迫害する(黙示録13:7)。

⑨666という数字が示す人間(黙示録13:17、18)

⑩神の律法と戒めという神の刻印を変造した獣の刻印を作る(黙示録13:16)。

 

上記が黙示録13章で語られる獣の特徴です。これにも綺麗に当てはまるのはローマ教皇以外に存在しません。もし違うと思うなら、何が正しいのか反証できる人がいればしてみてください。上記をご覧のとおり、ダニエル書7章の小さな角と描写がほぼ一致しています。なお、黙示録13:5の42か月というのは過去と未来の両方を示します。過去は1260年間、未来は3年半です。過去記事「ダニエル書の70週預言の真実」で述べたダニエル書9章の70週預言のうち最後の1週を7年として未来の大艱難やら最後の半週を未来の反キリスト支配の3年半に適用すると解釈する者がいますが、2,000年程の空白期間を挟む根拠が一切存在しないので誤っています。未来の3年半はダニエル書9章の70週預言ではなく、ダニエル書7章と12章、及び黙示録13章から分かることです。

 

過去記事「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編」でも説明したとおり、ローマ教皇は、自ら、VICARIUS FILII DEIを自身の正式呼称としています。これはラテン語であり、その意味は「神の子の代理人」という意味です。要するに、ローマ教皇は、神の御子である主イエスに成り代わろうとしているのです。そのアルファベットを一つずつラテン数字に換算して、足し算すると666になるのです。そして、364年にローマ教皇率いるローマカトリック教会は、ラオデキヤ会議で安息日を教会の権威により、神に逆らって、第七日である土曜日から第一日である日曜日に変更したことは過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」と「神の律法遵守とサタンとの戦い」で説明済です。カトリック信者やイエズス会員のような既にローマ教皇に従っている者、聖書を曲解するにわかクリスチャンやカルト宗教信者たち、無神論者、異教徒は、必ず、ローマ教皇とNWOに従うようになります。なぜなら、そのような者たちは、命の書に名前が書かれていない世に属する人間だからです。

 

黙示録13章には、「もう一匹の獣」(黙示録13:11)が現れます。これが第二の獣です。これについても複数の過去記事で言及してきましたが、改めて説明します。まず、特徴を見ます。

 

①地中から上ってくる(黙示録13:11)。

②子羊の角に似た二本の角がある。(黙示録13:11)。

③竜(サタン)のようにものを言う(黙示録13:11)。

④権力を振るい、致命的な傷が治った先の獣を拝ませる(黙示録13:12)。

⑤地上に住む人々を惑わせ、先の獣の像を作るように、地上に住む人に命じる(黙示録13:12)。

⑥獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにする(黙示録13:15)。

⑦獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせる(黙示録13:15)。

⑧小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分な者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させる。(黙示録13:16)。

⑨獣の刻印がなければ売買ができないようにする(黙示録13:17)。

⑩先の獣が出てきた十の王冠(黙示録13:1)に象徴されるヨーロッパ諸国とは異なって王冠がない、即ち、国王がいない国。

 

竜(サタン)のようにもの言うとは、この地上で強い権力を持って行使することを指し、現代で言えば憲法や法律等で強制的に人々を従わせることです。場合によって、警察や軍隊等を使ってでも従わせようと迫害します。この第二の獣の国は、国内に留まらず、外国にまで強い影響力を持ち、傍若無人の振る舞いをします。先の獣であるローマ教皇を支持し、人々を惑わして彼に従わせようとし、反抗する者に容赦なく制裁を加える国です。

最初の獣は、海の中から上ってきました(黙示録13:1)。海とは、「水の集まった所」(創世記1:10)であり、「さまざまな民族、群衆、国民、言葉の違う民」(黙示録17:15)です。これはヨーロッパの特徴であり、ローマ教皇がヨーロッパにいることからも合致しています。しかし、第二の獣は、地中から上ってきます(黙示録13:11)。地とは「乾いた所」(創世記1:10)であり、「荒れ野のように乾いた地」(ホセア書2:5)であり、乾いた荒れ野、即ち、海とは対照的な特徴がある所です。また、王冠を持つ者がいない、即ち、国王がいない共和制の国であることも特徴の一つです。

子羊の角に似た二本の角(黙示録13:11)の子羊は主イエスであり、角は、「十の角はこの国に立つ十人の王」(ダニエル書7:24)、「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。 」(詩編132:17)、「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(詩編18:3)、「わたしは驕る者たちに、驕るなと言おう。逆らう者に言おう、角をそびやかすなと。お前たちの角を高くそびやかすな。胸を張って断言するな。 」(詩編75:5~6)より、王や力を意味します。二本の角、即ち、二つの力というのは独裁的な国王がいないという共和制の政治的自由と信教の自由です。これは子羊に似た二つの角、即ち、主イエスが王となって利己心から来る独裁、国家間や人々同士の争いといった悪がまったくない新しい天と新しい地の世界(政治的自由)とサタンや悪霊を拝む異教が存在しない世界(宗教的自由)の神の御国に似せた二つの自由のことです。

信教の自由は、現代でこそ当たり前のようになっており、その有り難みが分からない人が多いですが、中世時代は生死に関わる問題でした。中世のヨーロッパでは、ローマ教皇率いるローマカトリック教会の一強支配であり、彼らに抗う者は徹底的に迫害され、逮捕、拘留、拷問、最悪の場合は処刑されていました。それが中世暗黒時代と言われる所以です。ローマ教皇とローマカトリック教会、イエズス会の圧政と理不尽さから逃れるために信教の自由を求めて別の居場所を求めてヨーロッパを離れた人々がいたのです。ですから、信教の自由というのは非常に重要なものです。

これらすべての特徴に合致するのは、アメリカ以外にありません。アメリカは、ご存知のとおり、中世のヨーロッパ内で強大な権力を振るっていたローマカトリック教会の抑圧からの信教の自由を求めた人たちが清教徒として入植して始まった国です。しかし、アメリカという国を美化することは決してできません。紆余曲折を経て信教の自由を打ち立てたのは良いことでしたが、アメリカ建国前の清教徒という綺麗事は上辺に過ぎず、徐々にサタンが彼らに入り込んで先住民を虐殺して侵略や略奪の限りを尽くし、黒人を奴隷として酷使したりして出来たのがアメリカという国です。アメリカの残虐な行いは、参考までにこちら(正しい日本の歴史)やこちら(Naverまとめ)、こちら(Naverまとめ)がありますが、他にもアメリカの悪行は数え切れない程多くあります。まさに、アメリカは第二の獣の国なのです。

信教の自由を掲げた当初のアメリカ建国理念も今では無くなりつつあります。過去記事「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編」で紹介したこちら(Japanese412)でもあるように、同性愛は罪と伝道しただけで逮捕された事例があります。また、同性婚申請の受理を拒否したクリスチャンの州職員が逮捕、収監された事例もあります。参考までにこちら(オリーブ山便り)。このような事例は氷山の一角です。逐一報道されないだけで他にも多くあるはずです。こういうことを聞いて、あなたは怖気付いて同性愛や同性婚について黙り込むのでしょうか。黙り込むのは認容しているのと同じです。例えるならば、学校の教室や職場等で起こるいじめと同じです。いじめる人が一番悪いのは言うまでもないですが、いじめられている人を助けたり寄り添って協力しないで、黙って傍観しているのもいじめに加担しているのです。彼らが傍観する理由は、自分たちもいじめられたり危害が及ばないようにしているからです。要するに、臆病者ということです。悪いのはきちんと悪いと言わなければなりません。よって、偽りの聖書福音と預言解釈が世に広まっている事実と内容を堂々と指摘して弾劾しないで黙っているのは、自分の立場を曖昧にして誤魔化しているのであり、神から認められることは決してありません。もっとも、心が頑なで、偽りの聖書福音を信じている者のような信仰の失格者は私の言うことを理解できないでしょうし、偽りの聖書福音を広める側にいるでしょう。

あなたは、私のように正しい聖書の教えを伝道したり、信仰を行動で示しているでしょうか。同性愛や同性婚に限ったことではなく、安息日や偶像礼拝の禁止等のモーセの律法をはじめ聖書全体に及ぶ内容についてです。この世にあるものは反聖書的な物や思想で溢れ、人間たちも神の律法と主イエスの教えに反する言動ばかりする反キリストが増えています。サタンは残された時が少ないのを知って、世に属する人間を使って、霊的にもろいにわかクリスチャンを惑わして真理から逸らしたり、人々に主イエス・キリストの存在を疑わせたり、聖書の信憑性を疑わせたり、真のクリスチャンを誹謗中傷して、できれば選ばれた人々をも神から引き離そうと必死に活動しています。そんな中、私はサタンとは真逆の活動をしており、一人でも多くの人々を主イエス・キリストと聖書に立ち返らせようとしています。過去に何度も申しましたが、もしあなたが自分自身の身の安全を第一に思って、迫害を怖がって黙って聖書福音の伝道をしないようでは臆病者であり、不信仰の者と同じ扱い(黙示録21:8)であることを知るべきです。既にアメリカは、その獣の牙をむき出しにしています。

 

また、アメリカでは、ベニー・ヒン等をはじめとする偽善者によってなされる偽リバイバル運動が活発です。異言、奇跡、癒し等ばかりに焦点を当てて、モーセの律法や主イエスの教えについてはまるで関心が無いかのようです。確かに、異言、奇跡、癒し等は新約聖書に記述のあることですが、これらに重点を置いて、神の律法や戒めを無視したり、主イエスの「神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:13)という教えに逆らって拝金主義といった金銭欲、名誉欲、その他の肉の欲に身を焦がすようでは論外です。聖書の真理を語ることを疎かにし、異言、奇跡、癒し等の目に見える現象を強調するにわかクリスチャンたちに対しては警戒して距離を置かなければなりません。世に属する人間は心が鈍くなっており、目に見えることを信じ易い傾向があり、聖書の真理という霊的に訴えかけるものを信じません。そのため、彼らはサタンに簡単に騙されるのです。

以下の聖句どおりです。

 

新約聖書 テモテへの手紙二 3章1~8節

しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。彼女たちは罪に満ち、さまざまな情欲に駆り立てられており、いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。

 

上記聖句は、世の諸教会とにわかクリスチャンたちの背教した姿です。私が警告してきたことも含まれています。私に対してどう思おうがあなたがたの自由ですが、私はあなたがたに害となることを述べたことはありません。私に反抗する者は、上記のいずれか、または複数の特徴に該当します。主イエスが「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」(マタイ12:30)のとおりです。主イエスに従順に従う私に敵対する人は主イエスに敵対している反キリストなのです。そのような者はいずれ獣の刻印を受けるようになるでしょう。そして、私のブログを読んで学んでいながら、よそでは私の陰口を言ったり、他人と評論する者は、聖書の真理を悟ることができないと私が過去に述べたとおりです。なぜなら、そのような者は精神が腐っており、何を言っても聞き入れず、彼ら自身の考え、彼ら自身の解釈こそが正しいと思って譲らない高慢な者で、彼らは自分の意見や解釈を言わないで批判や文句だけは言う卑劣な人間です。そのような人は、上記聖句にあった「信心を装いながら、その実、信心の力を否定する」のです。外見上、敬虔を装いながらも、中身はサタンに精神を毒されているのです。つまり、彼らは真に悔い改めておらず、洗礼を受けても水に濡れただけで、火による主イエスの洗礼を受けていないので聖霊がいません。彼らの一部は、初代教会をなぞり、偽りの聖霊、即ち、悪霊の力で異言、奇跡、癒し等を行って正しいように見せかけています。しかし、これらを基にしたリバイバルと呼ばれる活動は正しい行いではなく、聖書福音を伝えることが重要なことです。過去の初代教会の時にあった奇跡等は、まだ駆け出しの時期であり、人々に福音を信じさせ、世界に広めるためでした。決して、真のクリスチャンか否かを判別するためのものではありません。初代教会の頃、誰もが聖書を持っている訳ではありませんでしたし、新約聖書も存在しませんでした。当時、人々が安息日に会堂に集まっていたのは、モーセの律法に基づいて安息日礼拝のためと、共有の聖書を誰かが読んで聴衆が聖書の内容を聴くためでした。しかし、今ではきちんとまとめられた聖書があり、誰でも容易に手にすることができ、会堂(今でいう教会)といった建物に集う必要性も無くなりました。ですから、今は奇跡や異言、癒し等をする必要が無く、聖書の真理を宣べ伝える人がいれば十分なのです。「人々はしるしを欲しがる」(ルカ11:29~32)を読めば分かるでしょう。

上記聖句をはじめ、終わりの時にリバイバルが起きると聖書には書かれておらず、かえって多くのクリスチャンが背教し、厳しい迫害があるので少数の残された神の民の忍耐が必要になるとだけ書かれています。たとえリバイバルと呼ばれるような運動が起こって世のクリスチャンの数が増えたかのように見えても、真のクリスチャンではないにわかクリスチャンが増えただけです。狭い門を見出す真のクリスチャンは、そう簡単には増えません。また、終わりの時代である今は、主イエスが仰ったとおり、「偽預言者も大勢現れ、人々を惑わす。」(マタイ24:11)の御言葉が実現しており、リバイバルという耳触りの良いスローガンに多くの人々が騙されています。はっきり言っておきますが、リバイバルというものはありません。騙されないように常に目を覚ましていましょう。

 

アメリカは、かつてローマ教皇率いるローマカトリック教会から逃れて成立した国だったにも拘らず、現代では共にサタンの支配下にあって、神に敵対してNWOの実現に向けて、ローマ教皇にすり寄っています。過去記事「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 前編」で紹介したとおり、2015年9月にローマ教皇がアメリカを訪問して、政治の中心であるアメリカ議会内で演説をしました。また、過去記事「日本の将来と真のクリスチャンの姿勢」で述べたとおり、ローマ教皇は国連でも演説しました。

カトリックから離れたはずのアメリカで、近年はカトリック信者が増加傾向にあり、今も現ローマ教皇フランシスコの熱心な外遊によって、アメリカに留まらず全世界でカトリック信者を増やしています。ローマ教皇とアメリカの癒着は以下の写真からも一目瞭然です。

 

画像引用元: https://georgewbush-whitehouse.archives.gov/firstlady/photoessays/pope/index.html

 

2005年当時の大統領だったジョージ・W・ブッシュ、ローラ夫人、元大統領のジョージ・H・W・ブッシュとビル・クリントンの姿があります。現職の大統領と夫人はまだ分かるとしても、ジョージ・W・ブッシュの前のクリントンやそのさらに前でジョージ・W・ブッシュの父親であるジョージ・H・W・ブッシュまで一緒にローマ教皇の葬儀に参列するというのは極めて異例です。1989年、日本の昭和天皇の大喪の礼には、当時現職大統領だったジョージ・H・W・ブッシュとバーバラ夫人、ベーカー国務長官らは参列しましたが、彼以前の大統領であったロナルド・レーガンやジミー・カーターらが参列することはありませんでした。証拠はこちら(外務省)。このことからもアメリカがいかにバチカンのローマ教皇と密接な繋がりがあるか分かります。

アメリカに住んでいる人は、その罪と災いに巻き込まれないように早めにアメリカから離れるべきです。アメリカが好きというような人は、獣を愛する人です。

 

日本は、アメリカと運命共同体となっています。1983年の日米首脳会談において、ロナルド・レーガン元大統領と中曽根康弘元首相は、日米運命共同体を宣言し、日本列島を不沈空母にしソ連(現ロシア)の防衛前線とすることを取り決めました。その時からずっと日本はアメリカに隷属を誓い、利用され続けているのです。中曽根元首相は国鉄(現JR)、電電公社(現NTT)、専売公社(現JT)を民営化し、竹下元首相も福祉に使うことを名目に消費税を導入して3%から税率を上げないと言っていたのに結局、5%、そして現在は8%まで上がり、将来10%にまで上げると安倍首相は言っています。当初の導入目的は忘れ去られ、福祉は充実するどころか悪化し続け、消費税の収入は公務員たちの懐と外国にばら撒かれています。小泉元首相もブッシュ大統領に媚び、郵政民営化や規制緩和等を強引に実現させてNWO支配層の利権拡大に貢献しました。現在、トランプ大統領に媚びへつらう安倍首相を見ても分かるでしょう。日本は売国政治を長年し続け、第二の獣であるアメリカに逆らえずに貢いで、振り回され続けて、NWOの影響も強く受け、利用されるだけ利用され、用済みか逆らったと思われれば潰されます。だから、日本はアメリカの属国なのであり、与野党含めてすべての政治家に誰かが良くしてくれると期待してはいけません。

 

既に複数の過去記事で述べたとおり、日曜礼拝は、太陽神(サタン)崇拝をするローマ教皇とカトリック教会の権威のしるしであり、たとえローマ教皇やカトリックに従う意志ではなくとも日曜礼拝をするプロテスタントや他の教派や地上の諸教会も同じく太陽神崇拝をしているのです。そして、無宗教、無神論者を自称する者は神の律法ではなく人間の法に従うのでNWOに従うようになるのです。彼らのような不信仰の者は、NWOが憲法や法律等によって強制されれば何の異議も唱えずに愚直に従う者たちです。

よって、日曜礼拝や同性愛や同性婚の擁護は神の教えである聖書に反して、サタンに惑わされた人間の伝統や考えに過ぎず、獣の刻印の一つになります。日曜礼拝と同性愛や同性婚の擁護だけが獣の刻印という訳ではありません。聖書の真理(神の律法や主イエスの教え等)に逆らい、かつ、それがローマ教皇主導のNWOの内容に合致したすべての事柄が獣の刻印なのです。これは死の刻印であり、それを受けたら取り返しがつきません。よって、都市伝説でも話題になったマイクロチップこそが獣の刻印だといった言説に惑わされないようにしてください。マイクロチップだけを避ければ安全ではないのです。

過去に何度も申しましたが、これから主イエス・キリストに従うのか、ローマ教皇を筆頭とする反キリストが掲げるNWOに従うのかの選択が迫られる時が来ます。その時、あなたはどちらを選択するでしょうか。真のクリスチャンは当然のごとく、人間に従うよりも、神に従います(使徒言行録5:29参照)。自分の命が惜しいと思う者は、主イエスに従う者として相応しくありません。過去記事「自我との戦い」等で説明したとおりです。

 

地上の世の諸教会や集会で人間が多く集った状態は危険です。集団心理で周りに合わせなければならないという状態に陥り易いからです。前回記事で告知した私が設立した教会は、物理的ではなく対面でもありませんから、そのような集団心理は働きません。また、聖書の真理から外れる異端教理は排除しますから、害になる要素がありません。私は思想を統制しません。聖書の真理に反しない範囲においては何を言おうとも考えようとも自由です。主なる神は、人間の個性を尊重しておられるとおり、私も尊重します。過去記事「ダニエル書2300の夕と朝の預言と神の審判」の最後で述べたとおり、神は人間に同じような外見や性格、まったく同じ行動をする存在になることを求めているのではありません。神が敢えて人間を不完全、かつ、多種多様な存在として創造された理由を考えるべきです。神は、永遠に存続する新しい天と新しい地の王として統治される主イエス・キリストを信仰し、神の律法と戒めを喜んで守り、神に死まで従順な人間を求めておられるのです。その試用期間が地上における人間の寿命です。生きている間に神の御心に敵う存在に成長できないにわかクリスチャンは、無神論者や異教徒と同じように捨てられるのです。なお、ルカ23:40の犯罪人は例外であり、この例を持ち出しては主イエスを信じるだけでよく、行いは別に重要視されないし、律法もどうでもよいと思っている背教者がいます。しかし、皆がこのように救われる訳ではありません。あの犯罪人は私たちのように聖書を読んだり研究したりする十分な時間がありませんでした。つまり、同じ境遇にないということです。人生は千差万別です。ほんの少しの例外を持ち出して万人に適用しようとするのは大きな誤りであり、そのように吹聴する者は間違った信仰をしています。

NWO支配層はロボットのように意志や良心を持たず、プログラミング通りの命令で動く人間を作ろうとしていますが、神はそのような人間を求めておられませんし、私もそのような人間は神の民ではないと思っています。都市伝説では、トランスヒューマニズムといってAIと融合することを言っていますが、これはサタンの罠です。そうやって神に似せて造られた元の人間としての性質を放棄することは神への反逆行為です。最初は、手に入れるマイクロチップから始まり、いずれは頭部にも埋め込もうとするでしょう。そして、自由意志を失ってNWO支配層に従順な家畜になることでしょう。これを推進しているのもアメリカなのです。

 

最後に警告です。

神を畏れ、栄光を神に帰しなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」(黙示録14:7私訳)、「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと子羊の前で、火と硫黄に苦しめられることになる。その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」(黙示録14:9〜11)

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上