こんにちは。

 

さて、二千十七年も終わり、二千十八年になりました。どのように過ごされましたか。まさかとは思いますが、キリスト者になる前と同じように、世間の慣習に従って、寺に行って鐘を突いたり、忌まわしい太陽暦上の新年で騒いだり、それを祝う花火等にうつつを抜かしたり、太陽暦の一月上旬に初詣と称して神社に行ったり、無神論者と称しながら宗教行為を平然と行う者たちと同じことをせえへんかったと願ってます。そないなことをしたい人は勝手にしていればよろしいやろそのような人は後で自分たちの愚かな行いに見合った報いを受けるだけやさかい。

 

今回は、前回記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」に引き続き、聖書が教える真のイスラエル人について話をします。前回は書くべき内容が多過ぎて、字数制限にも引っ掛かったので、すべて説明しきれませんでした。よって、今回は、系図や世の真相は抜きにして聖書に書かれたイスラエルについて多く述べていきます。既に前回記事で、ノアの息子であるセムからアブラハムが出て、イサク、ヤコブ(イスラエル)という順で主なる神が祝福してこられ、イスラエルから12部族が出た話をしました。そして、イサクではなく、イシュマエルを重んじたり、モーセの律法とは無関係の戒律等を作って守るイスラム教が嘘である根拠も述べました。何より、現代においてユダヤ人と呼ばれる人やユダヤ人と自称する人のほとんどが偽ユダヤ人であり、この世で大きな権力ネットワークを作っていることについても述べました。

 

ところで、アブラハムは何故神から認められたか分かっていますか。このことは、過去記事「人生の過去と主イエスに従う覚悟」で述べたとおりです。アブラハムは、彼の信仰を義と神から認められました。アブラハムは神に従順だった結果、義と認められました(創世記15:6、ローマ4:3,9,22、ガラテヤ3:6、ヤコブ2:23)。勿論、それは内心ではなく、信仰から出る行いによってでした。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章8節

信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

 

詳細は創世記を読めば分かることですが、上記聖句のように、まず信仰があって、それを行動として実行に移すことで義とされるのです。また、アブラハムは神への信仰の故にイサクを生贄にすることも厭わなかった行い(創世記22:1~19)からも信仰を認められました。よって、信仰からする行いというのはとても重要なのです。行いの重要性は既に複数の過去記事で述べてきたとおりです。ですから、信じるだけで良く、行いも特に問われないし、モーセの律法が廃止されたという律法廃止論も間違った教えであり、反キリストの教えです。過去記事「自我との戦い」で述べたことを繰り返し申しますが、「御言葉の実行者になり、自分たち自身を欺いて、傍聴者だけになったらあきません。」(ヤコブ一章二十二節拙訳)のとおりで、聖書と私のブログを読んで終わりではなく、その通りに実行してください。そうでなければ無意味どころか、中途半端なクリスチャン、最悪の場合、世にいる大多数のにわかクリスチャンのように背教して滅びに至るだけです。このように何度も注意喚起していても行動しない人が多数なのは分かっています。

 

前回記事でも引用した以下の聖句をもう一度確認してください。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 9章6~8節

イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。

 

上記のとおり、明確に血統によるイスラエル人だけが神から選ばれた人間ではないことが明白です。「肉による子供」というのが血統上のイスラエル人(偽ユダヤ人ではない)を指しており、それ以外の「約束に従って生まれる子供」がキリストに結ばれた霊的イスラエル人、即ち、真のクリスチャンを意味します。上記聖句から、「イサクから生まれる者」とあるとおり、イシュマエルから生まれる者ではありません。ちなみに、このことは旧約聖書に書かれており、「あなたの子孫はイサクによって伝えられる。」(創世記21:12)のとおりです。イスラム教徒になっているアラブ人等やその他の異邦人は蚊帳の外であることは旧約聖書と新約聖書ともに一致した見解であり、揺るがない事実です。勿論、カトリック信者、プロテスタント信者、その他クリスチャンと自称している形式的なクリスチャン(にわかクリスチャン)も同じく霊的イスラエル人ではありません。

 

ところで、血統上の古代イスラエル人が神の選民としてあり続けるためにはどうしたでしょうか。旧約聖書の内容をきちんと理解している人ならば、分かっているでしょうが、念のため説明しておきます。

 

旧約聖書 出エジプト記 19章5~6節

今、もしわたしの声に聞き従い

わたしの契約を守るならば

あなたたちはすべての民の間にあって

わたしの宝となる。

世界はすべてわたしのものである。

あなたたちは、わたしにとって

祭司の王国、聖なる国民となる。

 

上記聖句ではっきりと分かるとおり、主なる神の声に聞き従い、契約を守らなければいけないのです。そうすることで、すべての民の中から宝(神の民)として重んじられるとあります。反対に、主なる神の契約を守らないならば、神の民とはならず、その他大勢と同じ扱い、即ち、滅びの運命となるということを意味します。このことについてもっと詳細に申命記28章全体に書かれているので読み返しておいてください。

 

旧約聖書 申命記 28章1節

もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。

 

上記聖句のとおり、主なる神の声に聞き従うとは、当時は神の御言葉を授かったモーセの導きに従うことでした。現代では、聖書に書かれたモーセの律法、主イエスの御言葉や預言者の書の内容をきちんと理解して従うことであり、少なくとも今まで弾劾した偽預言者、偽教師、背教した教会にいる牧師等の反キリストに従うことではありません。

また、戒めもモーセの律法をはじめとする天の父なる神や主イエスがお命じになった戒めや掟を意味します。申命記28:1~14は祝福について書かれ、申命記28:15~68は呪いについて書かれています。要するに、「この律法の言葉を守り行わないものは呪われる。」(申命記27:26)のとおり、行いが重視されています。モーセの律法に規定されているのは分かっているけども実践しないようでは、守っていることにはなりません。例えば、偶像礼拝の禁止とモーセの律法に書かれているのに、人間の手で造られたすべての物(例えば、像、絵画、建物等)を神聖視したり、特別扱いしたりして、それらに向かって祈るのは禁忌です。このモーセの律法こそが、「契約の言葉」(申命記28:69)です。モーセの律法を守らず、その呪いが実現したことについて、預言者ダニエルは、「エルサレムに下されたこの災難ほど恐ろしいものは、いまだに天下に起こったことはありませんでした。モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました。」(ダニエル書9:12~13)と述べています。

 

古代イスラエル人は、預言者モーセを通じて神が示されたしるしと真実の御言葉を聞いていたにも拘らず、主がモーセに仰ったとおりに、モーセの死後に彼らはすぐに堕落していきました。

 

旧約聖書 申命記 31章16節

するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。

 

旧約聖書 申命記 31章29節

わたしには分かっている。わたしの死んだ後、あなたたちは必ず堕落して、わたしの命じた道からそれる。

 

実際このとおりに、古代イスラエル人たちは偶像礼拝に陥って堕落していきました。日本人も同じですね。本当に古代イスラエル人が堕落した同じ様で、日本人も神社や仏像といった偶像に手を合わて祈る等の偶像礼拝をして堕落しています。勿論、日本だけではなく、世界各国で偶像礼拝は多く行われており、非常に多くの人間が神に背いている状態であり、こんな世の中を神の怒りが降り注いで火と硫黄で破壊されても当然の状態と言えます。これが今すぐに起こらないのは、聖書に書かれてあることがすべて実現し(マタイ24:34参照)、麦が成長し、その数が神の定めた数に満ちるまでです。このことは過去記事「ダニエル書2300の夕と朝の預言と神の審判」で述べたように、麦の成長に毒麦も必要なために放っておかれているだけです。ですから、悪人はいい気になってやりたい放題していますが、決して彼らが善い行いをしているからでもなく、神の御心に適っているからでもありません。心配には及びません。悪人どもは、生きている時の行いに見合った裁きを死後に受けるのです。

 

既に複数の過去記事でモーセの律法は決して無効になっていないと説明済ですが、申命記にもその記載があります。

 

旧約聖書 申命記 29章13節

わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴う契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。

 

旧約聖書 申命記 29章28節

隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。

 

上記聖句のとおり、啓示されたこと、即ち、聖書で明らかにされていることとは人間が従わなければならず、それはモーセの律法を守り、実行することであると書かれています。聖書を読んでただ知識として持っていればいいのではありません。モーセの律法は、モーセが生きた時代の古代イスラエル人たちだけでなく、その子孫代々続く契約なのであり、だから無効になっていないのです。そのように言われてもなお、彼らは主なる神に従順ではなく堕落した結果、イスラエル王国はアッシリアによって攻撃され、捕囚され、散らされました。これによって、イスラエル10部族の消息が不明になったことは前回記事で話をしたとおりです。

こんな不従順な古代イスラエル人でも神はまだ憐れみ深さをお示しになったのですが、彼らは悔い改めようとせず、反逆し続けました。以下の聖句のとおりです。

 

旧約聖書 歴代誌下 36章14~16節

祭司長たちのすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した。先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。

 

上記のように古代イスラエル人の背信行為と悔い改めて主なる神に立ち返らなかったので、上記聖句の直後にある歴代誌下36:17~20のとおり、ユダ王国はバビロンによって攻撃され、捕囚され、散らされ、エルサレムを破壊された挙句、他民族に奪われたのです。それも神に反逆した報いです。このように滅ぼす神を非難する不信仰の者がたまにいますが、何故神に逆らう者を擁護するのか私には理解できかねます。それは彼らも同類だからで、彼らも神に敵対して滅ぼされる存在であり、ただ利己心から神に滅ぼされたくないと文句を言っているに過ぎないのです。要するに、世に属する人間ということです。これからこのような人間が世界の大半を占めるでしょう。終末の時代は、無神論者が増え、背教者のにわかクリスチャンが増え、異教徒も増え、彼らは真のクリスチャンに敵対します。彼らは、戦争や災害の末に、最終的にサタンの代理人とその背後にいるサタンを拝み、サタンの秩序である新世界秩序(NWO)と彼らが決めた秩序、法律、慣習等に従うように私たちに強要してくるのです。これに従うことが、獣の刻印を受けることを意味します。都市伝説で語られるマイクロチップ自体のことではありません。獣の刻印とは、物理的な刻印ではなく、霊的刻印です。このことは既に過去に説明済です。

 

主イエスは、当時のユダヤ人たちに以下のたとえ話をされました。

 

新約聖書 マタイによる福音書 21章33~44節

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、

これが隅の親石となった。

これは、主がなさったことで、

わたしたちの目には不思議に見える。』

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

このたとえ話の内容は上記引用した歴代誌下36:14~16と関連しており、ぶどう園は、イザヤ書5:7より、イスラエルの民を指します。その主人は天の父なる神で、農夫たちは祭司やファリサイ派といった頑なな人たちで、僕たちは旧約時代の預言者たちで、主人の息子が主イエスで、ほかの農夫たちが異邦人のことを指します。途中、主イエスは詩編118:22~23を引用しており、この石も主イエス御自身を指しています。

主イエスが明確に、血統のユダヤ人からは神の国を取り上げられ、それに相応しい異邦人に与えられるとも仰っています。要するに、過去記事「ダニエル書の70週預言の真実」で説明したとおり、ユダヤ人の選民としての恩恵期間が既に終了したことを示しています。これにも拘らず、一部のにわかクリスチャンは頑なにダニエル書の70週預言を誤解釈し、その70週の最後の1週を勝手に遠い未来に据えて7年の大艱難という嘘を広めています。Behold Israelの偽教師Amir Tsarfati(アミール・ツァルファティ)と彼の取り巻きの人間たち、Paster JDやらDIVINE USという団体も同じく偽りの教義を広めていますが、無視して関わらないようにしてください。

さて、話を戻し、主イエスは血統のユダヤ人を選民から外すと宣言されたのには理由がありました。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)とあるとおり、ユダヤ人たち自身が主イエスを受け入れなかったからです。現実にユダヤ人は次のようなことをしていました。ナザレの会堂内に集まったユダヤ人たちは主イエスに憤慨して崖まで連れて行って突き落とそうとしました(ルカ4:28~29)。また、ファリサイ派や律法学者が主イエスに激しい敵意を抱き、質問を浴びせて言葉尻を捉えようと狙っており(ルカ11:53~54)、ユダヤ人の民衆が主イエスを十字架につけるように叫び(マタイ27:22~23)、自分たちと子孫に責任があるとまで言いました(マタイ27:25)。それを前もってご存知だった主イエスは、予め預言者ダニエルに定めの70週の預言をされたとおり、ユダヤ人を選民から予定通りに外し、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:12)とあり、主イエスを信じて従順な異邦人も霊的イスラエル人としてお救いになり、マタイ21:43の主イエスの御言葉と一致しています。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体の救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」(ローマ11:25)とあるとおり、西暦34年から異邦人伝道が始まって異邦人が年々少しずつ救われ始めて霊的イスラエル人となり、最終的には聖書を知らない人が多い日本人のような古代イスラエル人の血を引くごく少数の人が回心して、全イスラエルが救われると私は考えています。それも私が弾劾してきたようなにわかクリスチャン、偽預言者、偽教師、偽りを教える牧師たちと彼らに従う者たちのことではありません。彼らは聖書を曲解し、間違った信仰の故に信仰の義を体現できず、口先だけで不法に満ち、入ろうとしても入れない人(ルカ13:24)なのです。

過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」、及び、上述した新世界秩序(NWO)実現に向けて、世界は2018年も相変わらず反キリスト化が加速していくでしょう。年々、正しい信仰を保ったり、正しい信仰生活するのが困難になっていき、不信仰の者や異教徒たちのみならず、にわかクリスチャンからも真のクリスチャンは主イエスの信仰の故に迫害されるようになるでしょう。正しい信仰生活をするのが困難とは、日本では実感が薄いかもしれませんが、例えば、ヨーロッパではコンビニは存在せず、カトリックと古代ローマの日曜休業令の影響から日曜日はほとんどの店が閉まっており買い物できません。聖書どおり安息日に買い物をしないことを遵守すれば、土曜日の日中は買い物できず、原則、月曜日から金曜日の日没までに済ませなければなりません。しかも、スーパーマーケットも日本のように夜遅くまで店が開いておらず、20時頃には閉まります。土曜日は16時~18時頃と普段より早く閉まり、日没後にも行けません。また、最近のヨーロッパは、イスラム教徒やその他異教徒の難民や移民を多く受け入れて異教徒が増え、昔からカトリックの影響が根強く残り、宗教問題は一つ間違えば争いの火種になるので、真のクリスチャンであることは日本よりも日常の信仰生活においては過酷な状況です。しかし、過酷な状況にあろうとなかろうと、真のクリスチャンは信仰が揺らぐことはありません。

前回記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」で述べたような形で第三次世界大戦が起きれば、イスラム教徒とクリスチャンとの間に争いが民間人の間でも起きるでしょう。ヨーロッパの移民や難民の受け入れ推進政策は、あらゆる人種や宗教の人々を入り乱れさせ、戦争が元で人々を争いと混乱に陥れるための工作だったのです。

このように、正しい信仰生活をすると困難に直面することが聖書が述べる艱難の意味することです。しかし、にわかクリスチャンはモーセの律法も主イエスの御言葉も無視または曲解して正しい信仰生活をしていないので、その艱難を艱難と思わず、艱難ということに気付きもしませんから苦しむことがないのです。こうしてふるいに掛けられ、間違った信仰、または中途半端な信仰を持つにわかクリスチャンは、不信仰の者や異教徒ともども偽りの平和、融和、友愛を掲げるローマ教皇主導のNWO体制に従っていき、獣の刻印を受けるでしょう。これからサタンは、ますます人々を聖書と主イエスの教えから切り離し、地上は反キリストだらけの世界になっていきます。そして、正しい信仰を貫く「残りの者」(イザヤ書10:19〜22、11:11、28:5、ローマ9:26)が神のイスラエル(ガラテヤ6:16)、即ち、霊的イスラエル人(真のクリスチャン)であることがはっきりとします。この残りの者こそが、真のイスラエル人なのです。肉によるイスラエルの人々」(コリント一10:18)は、前回記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」で書いたように、改宗ユダヤ教徒や帰還法のように誤った定義に基づく偽ユダヤ人どもがユダヤ人であると自称して誇っているのがむなしいように、もはや重要ではありません。なぜなら、主イエス・キリストに結ばれているか否かが問題だからです。以下の聖句のとおりです。

 

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 3章10~11節

造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

 

上記聖句のように、聖書から学び、クリスチャンとして正しい信仰を持って日々生活して、常に神の義を求めて行いで示す(信仰の義)ことで新生していき、真理を悟って、真のクリスチャンとなることができます。そして、それは人種や社会的身分を問わないのです。真のイスラエルである霊的イスラエル人は、血統上のイスラエル人に限定されないからです。

 

聖書を曲解して偽りを教える偽教師たちやにわかクリスチャンは、現イスラエル国家に執拗に目を向けさせます。Behold Israelという団体やその他いくつかの団体や世の教会は、地上の偽ユダヤ人が支配する現イスラエルやエルサレムにツアーを組んで巡礼することばかり考えていますが、これは聖書が教えていることではありません。そんなことにお金を使うなら、貧しい人や隣人に施しなさい。彼らとは違って、真のクリスチャンは、地上にあるエルサレムに行きたいとか、住みたいと切望せず、天にあるエルサレムを切望しています。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章10~16節

アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分の故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

 

過去記事「死後の世界」でも引用したとおり、自分がこの地上では「仮住まいの身」(ペトロ一2:11)であると思っているからこそ、私はこの世にあるものを神より愛したりせず、愛国心、地元愛、特定の国や地域が好きだという気持ちもありません。それらを持っている者は、世に属する人間なのです。真のクリスチャンの心は常に天にあります。ですから、富も天に積むのです(マタイ6:20参照)。また、真のクリスチャンである霊的イスラエル人は、どこに行くのか聖書に明確に示されています。

 

新約聖書 マタイによる福音書 8章11~12節

言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

主イエスは上記のように語られ、主イエスを信じて従順な霊的イスラエル人が東からも西からも天の国で集まると明確に書かれています。主イエスは、神の民が地上のイスラエルに集まるとは仰っていません。

また、「御国の子ら」というかつて選民であった血統上の古代イスラエル人やユダヤ人が、神が一部の異邦人を救いにあずからせる分だけ排除されるということです。分かるだけで少なくとも、主イエスを敵対視したファリサイ派や律法学者等のユダヤ教徒、崖から突き落とそうとした民衆や十字架につけるように叫んだ一般大衆のユダヤ人たちとその子孫、主イエスを信じない者等が排除されたのです。マタイ8:5~13に出てくる百人隊長は異邦人でしたが、彼が見せた主イエスへの信仰ぶり(主イエスの権威と御言葉の絶対実現)から主イエスから感心されていました。なぜなら、当時のユダヤ人たちの多くが主イエスの権威と御言葉を信じて従わず、主イエスがあの百人隊長と同じような信仰をユダヤ人の間で見たことがなかったからです(マタイ8:10)。ただし、異邦人でも信仰さえあれば大丈夫と慢心にならないように気を付けましょう。パウロも以下のように警告しています。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 11章17~22節

しかし、ある枝が切り取られ、野生のオリーブのであるあなたが、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。

 

上記聖句のとおり、異邦人でありながら、信仰に招かれても、高ぶって不法な行いをやめなかったり、好き放題に生きているようでは、その人も切り取られて捨てられるのです。そして、捨てられた人は捨てられた事実を頑なに認めず、無意味な信仰を持って無駄に「主よ、主よ」と言っているのです。神は素晴らしい、慈しみに溢れたお方と言うにわかクリスチャンは多いですが、彼らは神の厳しさを認識していませんし、その点から目を背けています。要するに、彼らは自分たちの行いが悪いので、神の厳しさについて述べることができないのです。携挙で顕著ですが、にわかクリスチャンは聖書の真理を無視して艱難期前携挙説を支持し、クリスチャンは神の怒りに遭うはずがないという勝手な思い込みから艱難前に携挙は起きると寝言を言っている有様です。過去記事「携挙の真実」で述べたように、艱難期前携挙説はイエズス会の創作話に基づくディスペンセーション主義者の思想で、聖書の一部分だけを基にしたただの妄想であり、聖書の真理ではありません。彼らを見ていると非常に哀れです。にわかクリスチャンは、旧約時代に神が人間たちに容赦なく制裁を下されたことや悪魔より人を殺している等と神を非難する愚かな不信仰の者と大差ないです。要するに、艱難期前携挙説を信じるにわかクリスチャンは、自分の身の安全を一番に考えているだけの臆病者なのです。臆病者は不信仰の者と同じ扱い(黙示録21:8)なのは過去に何度も述べたとおりです。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章22~24節

しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。

 

上記聖句は天に存在するものであり、この地上のもののことを言っているのではありません。既に上述したとおり、天のエルサレムこそ、真のクリスチャンが目指すべき都です。これはヨハネの黙示録21~22章に書かれている新しいエルサレムのことです。

主イエスは、血統上のイスラエル人のみならず、一部の異邦人も霊的イスラエル人として神の御国に招かれました。しかし、大勢が入れる訳ではないのは分かっているでしょう。人間社会のように、競争や順位で入るという性質のものではなく、正しい人を排除することでその排除した人が割り込むこともできません。かえって、そのような悪い考えを抱いたり、実行する者こそ神によって排除されるのです。神の御国に入れる資格は、神の自由な選びによって召し出された人間が地上であらゆる艱難や試練にも耐えて信仰を守り抜き、主イエスを唯一の救い主(キリスト)として信じ、神の律法と戒めを守って罪を犯さず、神を第一に愛して隣人愛を実践し、常に神の義を求めて普段から行いで示し、死まで主イエスに従順であることです。

 

過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で引用した聖句を再掲しておきます。

 

新約聖書 ルカによる福音書 6章46節

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(拙訳)

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

 

世の自称キリスト者たちの殆どは、上記のとおり、主イエスが仰っている状態に陥っています。そして、彼らはその状況に気付いていません。誰も自分は背教しているとか、間違った信仰をしているとは思いたくないでしょうし、思っていもいないでしょう。しかし、神の視点からでは、世の大半の自称キリスト者の信仰や礼拝は間違っています。カトリック信者、プロテスタントの律法廃止論を信じて罪を犯し続ける者、エホバの証人やモルモン教、RAPT教等のカルト宗教信者、Behold IsraelやDIVINE USのような偽りの教義を広める非営利団体に属する者やそれらの支持者、隣人愛を実践しない者、同性愛の擁護等の間違った行為を隣人愛と勘違いする者、神の律法を守らない不法に満ちた者、聖書の真理に反する言動をする者は、後で彼らは泣きわめいて歯ぎしりすることになるでしょう。主イエスが明確に「天の父の御意志を行う者」と仰っているとおり、上記の悪い行いは例示に過ぎませんが、それらの行いは神の御心ではありませんので、これらの行為をする者たちは神の御国には入れないのです。

 

ところで、上述で言及したモーセの時に結ばれた契約とは別に新しい契約を結ぶと主なる神は預言者エレミヤを通じて示されました。

 

旧約聖書 エレミヤ書 三十一章三十一節~三十四節(拙訳)

見よ、我がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言わはる。我が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだ契約のようやない。それは我が彼らの夫であったにも拘らず、彼らは我が契約を破った、と主は言わはる。しかし、それらの日々の後我がイスラエルの家と結ぶ契約はこれや、と主は言わはる。我が律法を彼らの内側に置き、彼らの心にそれを書き記す。我は彼らの神となり、彼らは我が民となる。そして、人々は隣人各人、兄弟各人、「主を知れ」と言うて教えることはもはやない。彼らの最も小さい者から最も大きい者まで我を知るさかい、と主は言わはる。我は彼らの不法行為を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさへんさかい。

 

上記聖句は、ヘブライ8:8~12に引用されています。モーセの契約に上書きという形で、主イエスの契約(マタイ26:28、マルコ14:24、ルカ22:20)がもたらされ、主イエスが成し遂げられた十字架での罪の贖いによって完成しました。主イエスは「廃止するためではなく、完成させる」(マタイ5:17)と仰り、モーセの律法を補完したのです。主イエスは、「更にまさった契約の仲介者になられた」(ヘブライ8:6)のです。エレミヤはそのことを預言したのです。それ故、上記聖句のように、神の律法が神の民の胸の中に授けられ、心に記されるのです。それ故、神の民ではないにわかクリスチャンには神の律法が心に記されないので、律法を心に留めることもないので従い得ないのです。ヘブライ8:13に古びた契約は消え失せるとありますが、これはモーセの律法が廃止になったのではなく、自力で救いを得ようとする律法主義の終焉を意味しているのです。しかし、神の律法を心に記されていないにわかクリスチャンは不法行為をしても平然としており、悔い改めないので、彼らの罪は神に覚えられたままです。過去記事「自我との戦い」でも述べたとおり、霊によって新生していなければ、霊によって生かされず、モーセの律法という文字によって殺されます(コリント二3:6参照)。あなたの霊が真実ならば、上述したように、律法を心に書きつけられる(ヘブライ8:10、エレミヤ31:33)はずであり、律法を無視するはずがありません。過去記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」で書いたことも思い起こしてください。世に属する人間とその背後にいるサタンが、神の民に対して神の律法を守らせないように働きかけてきます。それと必死に戦う必要があり、正しい信仰を持って生活していれば否応無しにし、そのような場面に直面することでしょう。それも試練と思い、負けないで最後まで耐え続け、霊的イスラエル人となり、天のエルサレムに入れるように頑張りましょう。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上