こんにちは。

 

今回は、人には誰にしもある過去、そして、主イエスに従う覚悟と今後の歩み方について話をします。

 

人は、ある程度の年数を生きていると様々な経験をしていると思います。年齢だけで、同い年の間で比較して、良い意味でも悪い意味でも同じ年数を経たと思えないとか、かなりの年上でも大したことがない等思うことがあると思います。

しかし、人それぞれ違う人生を歩んでおり、そこに優劣はありません。それは神がそれぞれその人に合った人生を歩ませておられるからです。もし、誰かの生き方について誹謗中傷するならば、それは神に対して誹謗中傷していることと同じことです。はっきり言っておきますが、誹謗中傷というのは批判全般を指すのではなく、根拠の無い悪口のことです。正当な批判は、誹謗中傷とはいいません。例えば、誰々が受験に失敗したとか、就職に失敗したとかというような取るに足らない理由だけでダメ人間という烙印を押すようなことを言う人が誹謗中傷していることになります。その人の人格等の本質を無視して罵っているからです。

 

人は、過去に経験した成功や失敗を振り返ることが多々あるかと思います。特に、あなたが、現在、思うように物事が行かないと、過去の成功体験や過去の栄光を思い出し、昔はこうだったとかを自慢したり、それを誇りにして高慢になり、他人を見下す態度を取ってはいないでしょうか。有名な学校を卒業したとか、何かで表彰されたとか、難関資格を取ったとか、社会的地位から偉そうに振る舞ったり、そのような事柄を鼻にかけている人たちは不幸です。そのような人は、これからも変わらない限り、死ぬまでその調子でしょう。結局、死ぬ間際になって、自分は大した人生を送ってこなかったことが身にしみて分かり、後悔するのです。

たとえ、現在、万事上手く行っていても、それが永続するものだと高を括って高慢になり、他人と比較して自分は優れていると勘違いし、最後には悪夢を見るということもあります。そのような人も不幸です。

若しくは、一度も成功体験が無く、惨めな思いを抱えて長年生きている人もいるかもしれません。そのような人は、この世に希望を見出せず、何をしても上手くいかないから生きている意味すら考えられなくなって絶望する人もいるでしょう。その人は、自暴自棄になってはいけません。そこを制御できるか否かでも変わってくるからです。その人は、希望を見出す対象を間違えているから不幸だと決めつけているのです。この世で上手くいくこと、成功することが幸せなのだという妄想のせいです。

 

上記は数え切れない人生パターンのうちのいくつかを例示したに過ぎません。

はっきり言っておきますが、過去の成功、失敗、栄光、思い出等に囚われていると、今後の人生に良い影響はありません。

当ブログ読者の兄弟たちには周知の事実のことと思いますが、私は、主イエス・キリストに従順に従う者(真のクリスチャン)です。ですから、この世の成功を求める「世に属する人間」ではありません。過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」で書いたとおり、世間の大半の人間は、この世でいかに上手くやっていくか、多くの金を稼ぐか等ばかりを考え、その道を模索する人生を送っています。彼らにとって相容れない事柄を語っていますので、彼らは私の言うことは無価値、うわ言のように考えられていることでしょう。

 

過去記事「主イエスの受肉」や「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」等で申したように、新生すると過去の自分からは脱却するので、過去に囚われていません。過去に囚われないというのは、勿論、都合よく、過去のことは綺麗さっぱり忘れましたというような気持ちではいることではありません。過去を教訓にし、同じ過ちを犯さないという強い信念を持っているということです。これを誤解しないでください。過去のことはもう関係ないという気持ちでいると、必ず、同じような罪を繰り返すことになります。例えるならば、ゲーム感覚ということになります。マリオがジャンプに失敗して穴に落ちて死んでも次がある、何度か死んでゲームオーバーになっても、またやり直せばいいという感覚です。つまり、何度も罪を繰り返し犯しても学ぶことをせず、漫然と同じことを繰り返しているのです。「明日から悔い改めれば大丈夫。」というのは悪魔のささやきです。過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」でも言及したとおり、誰が明日を保障するのかということです。あなたはこれまでの人生経験だけで、当然に明日があると思っています。しかし、それは幻想です。あなた自身の命はあなた自身で維持しているのではないからです。あなた自身ができることは何もありません。例えば、あなたがある日の昼にある罪を犯したとして、明日から直そうと思ったとして、その夜に突然死したり、不慮の事故で死んだらどうしますか。悔い改める前に死んだことになります。私は複数の過去記事で散々申してきましたとおり、信仰は行いで示すということです。口先だけは信仰ではないのです。明日から直すと言うのは口先だけです。実際に、それが行いとして体現できて初めて信仰の義を表したことになります。例えば、安息日を守らないといけないと知っていながら、実際は、安息日において、納期がどうとか何か理由をつけて仕事をしたり、欲しい物があるから我慢できずに買い物をしたり、少ない休みで土日を使って旅行に行きたいからと旅行したり、鍋料理が食べたいからとガスコンロに火を点けたり等してはいないでしょうか。上述したように、新生したと思ってもこれらが分からず、若しくは、知っていて故意にやることもいけません。こういう訳で、上述したように、過去のことを綺麗さっぱり忘れましたでは困るのです。失敗は必ず教訓にしなさい。それは神があなたに与えた教訓でもあるのです。

 

悔い改めたつもりでも何度か失敗する人は決して少なくないと思います。それで自分はダメだと落胆する人もいれば、それがダメだとも気付かずに呑気な人もいるでしょう。私は、そのどちらもダメだと思います。

落胆ばかりしていても何も改善しないからです。落胆する暇があれば、実際に改善してみましょう。繰り返し、同じ罪を犯すのは、まだ新生できていないか、未熟な状態だからです。新生していないのなら、相変わらず、サタンの誘惑を受け易い状態にあります。そのような苦しみも試練と考え、前向きになってください。落胆は、サタンによる暗示です。「キリストの道に行こうとしてもお前には無理だ。お前は結局何度も同じ過ちをしているではないか。」というような内容です。これに負けて、屈してしまう人間が、背教、脱落するにわかクリスチャンです。これに完全に負けてしまうともう手がつけられません。なぜなら、罪を犯す自覚も無くなり、開き直るからです。

悔い改めたつもりでそれがダメと最初から気付かない人は、最初から成長しないにわかクリスチャンです。彼らは、反キリスト(偽教師や偽預言者、偽りを教える牧師や異教の教えをする者等)についていくような人です。彼らは、聖書の真理を愛さず、知ろうともしません。ですから、聖書を曲解する者たちに惑わされ、あたかも真実であるかのように誤信して、それが誤信だと気付くこともありません。

 

人は、人生の中で様々な経験を通して神から試練を与えられます。上述したように、過去を忘れるのではなく、囚われる(引きずる)のでもなく、教訓として持って学んだなら、最終的な勝利に近づくことができます。一生かかっても罪に勝利できない人が大多数な中で、最終的に勝利できれば結構なことですが、早めに罪に勝利した経験を持って、その感覚を持った方が遥かに良いです。私は、兄弟たちに罪に勝利する感覚を早く持って欲しいと切に願っています。一度勝利したからと気を抜くのもいけません。過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」で述べたように、人生、死ぬまでサタンとの戦いです。最後まで戦い続け、死まで神に従順であり続けたものが勝利者となるのです。

複数の過去記事で申したとおり、まだまだ序盤の最初の方ですが、もう艱難を迎えています。共謀罪や憲法改正について話をしたことを思い出してください。日本では、憲法改悪後に本格化しますが、その時までは何をしてもいいと考えるのではなく、その時までにキリストに近い品性を持つ程になっていなければ間に合わないのです。過去記事「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」で書いたように、今準備が整っていないのに、有事の時になって急に準備ができている訳がないのです。

 

ここで、聖書を見てみましょう。

 

旧約聖書 詩編 119編65~72節

主よ、あなたの御言葉のとおり

あなたの僕に恵み深くお計らいください。

確かな判断と知識をもつように

わたしを教えてください。

わたしはあなたの戒めを信じています。

わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。

今からは、あなたの仰せを守らせてください。

あなたは善なる方、すべてを善とする方。

あなたの掟を教えてください。

傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが

わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。

彼らの心は脂肪に閉ざされています。

わたしはあなたの律法を楽しみとします。

卑しめられたのはわたしのために良いことでした。

わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。

あなたの口から出る律法はわたしにとって

幾千の金銀にまさる恵みです。

 

上記聖句のように、神の掟、戒めはとても重要なものです。その重要性は、複数の過去記事で説明してきたとおりです。本来はまったく比較にもならないので言いたくないのですが、一応申しておきます。神の御言葉は、貴金属より優れたものです。世に属する人間には、これが理解できません。聖書と金銀等の貴金属のどちらが欲しいかと人に尋ねれば、貴金属を選ぶ人間がほとんどでしょう。私は、迷うことなく聖書です。聖書以外の物はごみに等しく、聖書以外の本は紙くず同然です。特に、ただの人(神の霊感を受けていない人の意)が書いた本は読む気すら起こりません。世に生きる以上、必要に迫られて聖書以外も読まなければいけない物もありますが、聖書を知っているとその質の差が歴然としていることに気が付きます。

また、上記聖句で「卑しめられた」というのは、罪の奴隷下に置かれたことを意味します。人間は誰しも、人生で罪(間違い)を犯します。それを糧にして、神に導かれ、それに従って神の御言葉、主イエスの御言葉、律法等を学ぶことになります。それらは、過去記事「罪について」で書いたとおり、あなたを罪の奴隷から解放してくれます。人生で失敗ばかり、成功した経験が無いと悲嘆に暮れても何も変わりません。聖書を手に取り、学んでください。そうすれば、あなたは、主イエス・キリストという希望を見出すことができるのです。過去記事「現代の世俗化と真のクリスチャンの生き方」で述べたように、主イエスは、世に指す希望の光の源です。私は、その光を持って照らし、光源へと導きます。サタンは、光の天使を装って(コリント二11:14)、人々を悪に取り込もうとしますが、その偽装の見破り方も過去に説明しましたので、騙されないようにしてください。たとえ過去に騙され、倒されても、神を信じていれば這い上がれます。

 

旧約聖書 箴言 24章16節

神に従う人は七度倒れても起き上がる。

神に逆らう者は災難に遭えばつまづく。

 

ことわざで、「七転び八起き」という言葉があるとおり、七度倒れても起き上がれますが、それはあなた自身だけでは無理です。主イエス・キリストのお守りと導きがなければ、サタンになびいて倒れたままとなるでしょう。ですから、兄弟たち、過去に何があったとしても、それを負い目に感じたり、罪悪感に苛まれることのないように。繰り返し申しておきますが、これは綺麗さっぱり過去を忘れることを意味しません。「失敗は成功の元」とも言うように、過去は、勝利への過程だった、主イエスを知るきっかけだったと考え、過去の罪は教訓として忘れずに持っておきなさい。そして、それを繰り返さないと常に念頭に置き、日々生活してください。口先だけでなく、行いで示すのです。

最後に主イエスの御言葉で締め括ります。

 

新約聖書 ルカによる福音書 9章57~62節

弟子の覚悟

一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは、言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 

主イエスが一番最初の人に仰ったのは、神にすべて委ねるということです。ある場所が自分の居場所(枕)と思うなら、自分の意志で生きて行こうとすることになります。例えば、地元愛というものがその典型です。地元という土地、仲間を神より愛して優先するならば、神から離れた生き方になります。過去記事「最近の周囲の様子と大半の人々が陥る罠」と「死後の世界」で申した愛国心も同様です。自分の利己心が原因で地元に居座ったり、転居するのは神の御心ではありません。なぜなら、それは自分の利己心を神の導きよりも優先しており、自分を捨てていないからです。複数の過去記事で既に申したとおり、主イエスの御言葉で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)とあるとおりです。自分を捨てて、主イエスに完全に服従しなければいけません。神から別の場所に導かれたなら、それに従うことは神の御心に適うことです。神の導きに従った結果、時に、それは枕する所も無い場所や枕がある保証も無い場合であってもです。アブラハムの信仰が義であると主なる神に認められたのも行いからです。創世記12:1以降、主なる神は、アブラハムに生まれ故郷を離れて神が示す地に行くように指示されました。出発当時、アブラハムは75歳でした。年齢なんて関係ありません。要するに、神に従順かが問われるのです。アブラハムは神に従順だった結果、義と認められました(創世記15:6、ローマ4:3,9,22、ガラテヤ3:6、ヤコブ2:23)。仮に、アブラハムが地元を離れたくないとか、見知らぬ土地に行きたくないと利己心から従わなかったら、彼は神から見放されたことでしょう。

ですから、主イエス・キリストに従うというのは、利己心やいい加減な気持ちではいけないのです。利己心やいい加減な気持ちがある以上は、いつまで経ってもにわかクリスチャンの域を出ません。

 

二番目の人は、主イエスから従うように言われた人で、導かれた人です。この御言葉を読んでどう思うでしょうか。肉親の葬式もさせないとは酷いと思いますか。そう思うなら、不信仰の者かにわかクリスチャンです。これは決心のつかないクリスチャンに対しての御言葉です。自分に関わる用事と福音伝道のどちらを取るのかと決断がつかない人に、神に属する人間ならば、福音伝道を取りなさいということです。人それぞれ置かれている状況が違い、世俗的なある事柄が片付ければ心おきなく主イエスに従うというような状況で、それを捨ててでも今すぐ主イエスに従えるかということです。

主イエスの12弟子のシモン(ペトロ)とアンデレが漁師でしたが、網を打って仕事をしている最中に主イエスに御声をかけられるとすぐに網を捨てて従い(マタイ4:20)、ヤコブとヨハネも父親と舟を置いて主イエスについて行った(マタイ4:22)とあるとおりです。これは簡略して書かれており、実際は、ルカ5:1~11の話のとおり、夜通しの漁で何もとれなかったのに、主イエスが命令なさると大漁になった奇跡から信じてすべてを捨てて主イエスに従いました。しかし、それでも仕事をしている最中でも主イエスに従順な人はそれを中断して従うのです。漁師が魚をとり、売って収入がなければ生きていけません。しかし、ペトロとアンデレは、そんなことよりも主イエスに従うことを選択しました。たった1回の奇跡だけで普通の人間はすべてを捨てて信じきれないでしょう。ですから、これは自分を捨てている証しです。自力で生きるための仕事を放棄して主イエスに従ったのですから。ヨハネとヤコブも網の手入れ中、即ち、仕事の準備中でも構わず中断して主イエスに従ったのです。即ち、主イエスが人をお選びになる、救いの手を差し伸べられるタイミングはそれぞれ違うこともこの話から分かります。ですから、過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」で、時機に遅れないようにと私が申したのです。

今は忙しいから無理とか、今は他のことがしたいからという理由で主イエスに従わなかったり、主イエスに従う時に、あれこれ思案して迷ったり、世俗への未練を捨てきれないと主イエスの弟子に相応しくないのです。

 

三番目の人は、家族に別れを言わせてくださいと願っていますが、ここで主イエスは一度クリスチャンとしての信仰の道を歩み出したら、後戻りしてはならないと仰っています。過去にも説明済ですが、これは家族を蔑ろにしてよいという意味ではありません。家族という大切な存在をもすべて神に委ねよということです。その時の決断を主イエスは問われています。今、この時点で主イエスにすぐに従うのか、家族の元に帰るのかという選択です。決して、今後一切家族に話す機会を与えないという意味ではありません。この点を不信仰の者やにわかクリスチャンの視点からではどうしても誤解されるものです。

鋤に手をかけるとは、信仰に入ったことを意味します。信仰に入った後で、やっぱりやめたとか、主イエスに従いきれませんと言うのは神の国に相応しくないので、天の国に入れないのです。よく考えてみれば当然のことと思いませんか。天の国は、主イエスが王として統治される所であり、その王に従えない人が入ることを許されるはずがありません。主イエスに完全に従えないのに、天の国に入って主イエスと永遠に過ごせると考える論理は何でしょうか。主イエスが、神に従順でない人間を御自分の御国に迎え入れると本気で思っているのですか。にわかクリスチャンはこれが分かっていません。地上で生きている間は、神の掟や律法に従わずに好き放題にしていて、一応クリスチャンだから死んだら天国に入れてくださいというのは傲慢極まりないと思いませんか。何故、そのような態度で天の国に行けると思っているのか不思議でなりません。信仰の薄いにわかクリスチャンたちよ、今すぐ悔い改めなさい。

 

いかがでしたでしょうか。気が引き締まったでしょうか。これでも分からないとか、反抗心しか抱かないようなら、悟ってください。本当に、これ以上かばいきれません。私の言うことが理解できないなら、聖書に書いてあることも理解できないはずです。聖書の真理を理解できないということはどういうことかも既に過去記事で説明済です。

兄弟たちは、引き続き、聖書を熱心に読み、信仰を厚くすることに努め、神の義を実行してください。

 

私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上