こんにちは。

 

今回は、自我との戦いについて書きます。

 

私は、複数の過去記事において何度も自分を捨てて、日々自分の十字架を背負って主イエス・キリストに従うべきだと宣べ伝えてきました。なぜなら、主イエス・キリストが以下のように仰ったからです。

 

新約聖書 ルカによる福音書 9章23~24節

それからイエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

 

新約聖書 マタイによる福音書 10章37~39節

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 

この「自分を捨てる」という意味を本当に理解していますか。これは言い換えれば、自我の放棄であり、地上で生きる間に自分がしたいことをする、自分が考えたいように考え、自分が信じたいものを信じるというような事象は、すべて自我から来ており、そのような肉の思いを捨てることを意味します。過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」でも述べたとおり、怒り、ねたみ、恨み、好色、傲慢、悪意といった感情も肉の思いから来るものであり、捨て去らねばならないものです。死ぬまでひたすら、霊の思いで歩まず、肉の思いや肉の欲に従ってモーセの律法に従わずに生きているのでは、決して次の世で安息を得ることはできません。もっとも、悔い改めず、肉の思いが強い者は、神の律法に従い得ない(ローマ8:7)ことは前回記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」でも述べたとおりです。

自分のしたいことをする、例えば、安息日を守ることを苦痛に感じて、安息日に遊びに出掛けたり、買い物したり、旅行をしたりするのは、肉の欲から来る行動であり、神に逆らっています。律法は廃止されたと思い込んでいる者も神に逆らう反キリストです。聖書の真理を悟らず、偽預言者や偽教師等の言うことや人々に人気のある教えを真に受けて盲信することも、艱難期前携挙説や千年王国に代表されるような誤った聖書解釈を頑なに信じ続けることも強い自我を持っていること、自我を放棄していないことの証拠であり、このような者は典型的なにわかクリスチャンです。また、地上で少しでも長く生き延びたいという欲求、安定した生活を送りたいという思い、できるだけ不自由なく過ごしたいという願い、権力者に目を付けられて投獄されたくないから聖書の真理を伝えることをせずに黙り込んで身を隠していたい等という自分自身を過剰に愛する利己心に満ちた者も同様に、神の御国に相応しい者ではありません。

主イエスが上記聖句で明確に、自分の命を救いたいと思う者はそれを失い、主イエスのために命を失う者こそ永遠の命を得て、神の御国に入ることができると仰っているからです。主イエスのために命を失うというのは殉教のみならず、聖書福音の伝道、奉仕活動、隣人愛の実践等も含みます。要するに、主イエス・キリストの教えられたことを守り、実践しない者は主イエスに忠実とは言えないということです。ただし、世の多くのにわかクリスチャン、偽預言者、偽教師がするような偽りの教義の伝道や自分の名誉欲や金銭欲のためにする善行は悪い行いです。主イエスは、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)とお命じになりました。要するに、聖書福音の伝道をして、人々を主イエス・キリストに従順な弟子(真のクリスチャン)にしなさいということです。人々に偽りの教義を教え広める要員、即ち、にわかクリスチャンを育成することでは決してありません。しかし、過去記事「携挙の真実」で述べたように、世界中の神学校や大学の神学部等はイエズス会の誤った教義で汚染され、にわかクリスチャンの牧師等が多く輩出されています。周知のとおり、私はそのような悪影響を一切受けず、聖書福音と預言について伝道をしており、複数の過去記事で同様に、あなたがたに聖書福音を伝えるように申してきました。兄弟たち、本当に実行していますか。信仰は行いを伴います。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)ということを忘れないでください。

 

イエス・キリストから啓示を与えられて黙示録を書いた主イエスの弟子であるヨハネと自殺したイスカリオテのユダは、対照的な存在でした。ヨハネは熱心に主イエスの御言葉や行いから学んでいましたが、ユダは主イエスの御言葉や御業を見聞きしているだけで何も学んでいませんでした。前回記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」でも引用したとおり、「御言葉の実行者になり、自分たち自身を欺いて、傍聴者だけになったらあきません。」(ヤコブ一章二十二節拙訳)のとおりで、聖書と私のブログを読んで終わりではなく、その通りに実行してください。そうでなければ無意味どころか、中途半端なクリスチャン、最悪の場合、世にいる大多数のにわかクリスチャンのように背教して滅びに至るだけです。

上述した比較において、ヨハネは、日々学んで罪を犯さないように克服するよう努力を続け、キリストに近づこうとしていました。他方、ユダは、利己的で罪深い肉の思いが強いために主イエスの御言葉を心から信じて受け入れられず、会計を任されていながら不正を働き(ヨハネ12:6参照)、最終的にはサタンが支配するようになって主イエスを裏切りました。これは、神に属する人間と世に属する人間の比較です。世に属する人間は、不信仰の者や異教徒のみならず、イスカリオテのユダのように主イエスを信じて従ったかのように見えますが、実際は肉の思いや肉の欲が強く、自我を捨てきれず、神の律法や戒め、主イエスの教えにも従い得ず、最終的に滅んでいくにわかクリスチャンも含まれています。だから、私は何度も世に大勢いる信仰の薄いにわかクリスチャンや牧師、偽教師、偽預言者等を信用しないようにと注意喚起しているのです。世に多く存在するにわかクリスチャン、偽預言者、偽教師、牧師は、他人に悔い改めるように言っていますが、彼ら自身はまったく悔い改めようともしていません。それどころか、彼らは人々に誤った教えを広めており、彼ら自身の行いが悪いという自覚すらありません。彼らは、悪い行いを善い行いと勘違いしている偽善者であり、人々の前で天の国を閉ざし、彼ら自身が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせないようにしており(マタイ23:13)、改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしています(マタイ23:15)。彼らは、このような行いを無自覚にしていることがほとんどで、悪霊に操られているのです。だから、彼らは心が頑なになっており、自分自身が何をしているのか分からず、聖書の真理と主イエスに敵対し、偽りの教えばかりを信じています。ですから、私は、聞く耳を持たない者を相手にしません。なぜなら、彼らが、主イエスから『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』(マタイ七章二十三節拙訳)と言われるのが目に見えているからです。それでも、いつかは彼らが自らの過ちに気付いて回心して欲しいと思っています。

 

以下の聖句を見てみましょう。

 

新約聖書 マタイによる福音書 9章16~17節

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする。

 

上記の聖句の意味を誤解釈する者が非常に多いです。にわかクリスチャンは、律法を守るという古い生活を捨てて、主イエスが説いた福音を信じなければならないと説いています。この主張は正しいように見せかけていますが、実際は誤っています。確かに、律法主義という律法を守ることだけ、即ち、律法を守るだけという自力で救いを求める生き方は古いもので、その考え方からは脱却しなければいけません。しかし、彼らの間違っている主張というのは、律法そのものを捨てる、即ち、律法廃止論を唱えていることです。このことは前回記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」で詳細に述べたとおりです。

上記聖句における主イエスの意図は、自力で救いを得る律法主義から脱却して主イエスの説かれた福音を信じ、信仰の義を体現することです。なお、律法主義と信仰の義の相違は過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」で説明済です。信仰の義には、律法遵守は当然という大前提があり、律法が廃止されたと思うのは大間違いです。そして、主イエスが仰りたいことは、信仰の義に生きるためには、新しく生まれ変わらなければ信仰の義を体現できない、即ち、真のクリスチャンになることができないということです。このことは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)という主イエスの御言葉からも分かることです。多くのにわかクリスチャンは、洗礼(水)によって生まれ変わったつもりでいますが、霊によって新生できていません。古い革袋というのが新生する前の状態です。新しいぶどう酒は、主イエスが説いた真の聖書福音であり、世の諸教会や偽教師、偽預言者、獣等がする偽りの教えではありません。

 

サタンや悪霊と戦うことは勿論のこと、一番身近にいるのは、自我という敵です。つまり、人間の本性、肉の罪深い性質であり、「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり」(ヨハネ一2:16)が罪への誘惑となります。要するに、自分自身の中に罪を犯す要素があることに気付くべきです。そこに、サタンや悪霊は、その人間の欲につけ込むのです。ですから、そのような肉の思いや欲を捨て去り、サタンに付け入る隙を与えないことが重要です。しかし、実際のところ、多くの人間は自我を放棄しておらず、世俗に深く染まって、肉の欲や肉の思いが強い人間は、サタンが付け入る隙だらけの状態で、主イエスからは程遠い存在です。彼らは、そのような状態で無意味に「主よ、主よ」と呼び、虚しい祈りをしていますが、主イエスにはその祈りは届きません。彼らが霊によって新生せず、日々神の掟に従わず、悔い改めず、積もりに積もった罪と罪深い性質が神との間に目に見えない壁を造っているからです。過去記事「ゲツセマネの祈り」でも申したとおり、キリストに結ばれていないにわかクリスチャンが神に祈っても、実際にその願いを叶えているのはこの世の神であるサタンです(コリント二4:4)。口先(上辺)だけでは何とでも言えますし、信仰から出る行いがすべてを表すのです。ですから、世俗的な願いをしてそれが叶ったからといって神が応えてくれたと勘違いしてはしゃぐのは、目も当てられないものです。

自尊心が傷つけられると怒って反論したり、日々の些細なことですぐイライラしたり、根拠の無い人の悪口を言ったり(誹謗中傷)、ねたんだり、恨んだり、呪ったり、嘘をついたり、みだらな思いを抱いたり、聖書の真理に基づく忠告を聞かない高慢な人たちが実に多いです。このように自我が強い人たちは、神の国には入れません。私が批判するときは、必ず根拠を示しています。前回記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」や複数の過去記事でもカトリックやプロテスタントの誤りを指摘しました。また、Behold Israelの偽教師Amir Tsarfatiや偽預言者RAPTについても誤っている点を多く過去記事で証拠を挙げてきました。しかし、偽預言者RAPTは、客観的根拠も無く感情だけで私に反論したり、RAPT信者を使って私を呪ったり、誹謗中傷してきたことは複数の過去記事やコメント欄で示したとおりです。

 

なお、異教に関しては、論ずる価値すらないと過去記事「カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘」の最後の部分で申し上げたとおりです。異教を信じる人たちは、勝手に各自が信じたいものを信じていればよろしいでしょう。ただ、私についてあれこれ、主イエスについてあれこれ言うこともしないでいただきたい。むしろ、そうしない方があなたのためだからです。異教の神と主イエスのどっちつかずというのもやめるべきです。2つの神には仕えられないからです。私が聖書と主イエスの教えと無関係の異教を論ずる価値も無い、即ち、歯牙にも掛けないという立場を明らかにしているとおり、異教徒もイエス・キリストと私のことも論ずる価値のない者として放っておいてください。それでも、悪意から主イエスや私を誹謗中傷しなければ気が済まないのならば、その人はどうしようもなく強い肉の思いと悪霊に支配されていると思うべきです。異教徒は、異教徒らしく各自が信じる異教の神々に仕えていればよく、聖書やイエス・キリストは関係ないのですから一切語らないでもらいたい。なぜなら、異教徒は、聖書の真理やイエス・キリストについて何も分かっていないからです。主イエスの信仰が無い不信仰の者や異教徒、中途半端な信仰を持っているにわかクリスチャンが、聖書や主イエスについて虚偽や冒涜を語れば語るほど、罪に罪を重ねていることだと弁え知るべきです。主イエスを信じられないなら、聖書の内容も私の言うことも信じられないでしょう。この点は、既に過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」で書いたとおりですので、異教徒や不信仰の者たちはよく読んでおきなさい。

 

聖書の真理を愛そうとせず、自我との戦いをせず、肉の思いに負け続けているにわかクリスチャンと不信仰の者よ、あなたがたは世に属する人間であることを決して認めたがらない高慢な者です。とにかく自分が大好きで、自分のしたいことをし、自分の信じていることが正しいと思い込み、自分の思い通りにならないとすぐに怒り、自分の意見と感情に合わない真理を語る人の陰口を言ったり、直接的に誹謗中傷や文句を言わずにはいられない、くだらない議論を持ち込んだり、くだらない議論を好んでするような人たちです。過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」で書いたように、主イエスが「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(マルコ7:20~21)と明確に仰っているとおり、あなたがたの口から出た言葉、ネットやメール上で書いたことがあなたがた自身を汚しているのです。要するに、あなたがたは自我が強い故に自滅しているのです。過去記事「読者へのお願い」でも申したとおり、私がこのように言うのは、私が感情的になって発言しているのではなく、あなたがたのためにならないからやめるように忠告しているのです。あなたがたは一体いつになったら、自我を放棄できるのでしょうか。冒頭で書いた主イエスが教えられたことに逆らって、自我を放棄する気がないのでしょうか。にわかクリスチャンたちは、主イエスを口先だけで崇めて主イエスの教えに逆らっており、罪深いという事実を認めず、自分たちは救われているなどという妄想に浸っているので、不信仰の者が信仰に入る時よりも悔い改めが難しいです。それ故、悔い改めようとせず、第二の死に至るのです。私は、このように言うことで、あなたがたに愛を示しているのであり、真に悔い改めるように忠告しています。それでも反感しか抱かないようなら、神が心を頑なにされたものと思い、いつの日か、自らの過ちに気付き、手遅れになる前に回心することを陰ながら祈っています。

 

 

自我を捨てる第一歩として、まず、自己検証しなさい。あなたの心に抱く思い、行動、日々の生活が聖書の教えに合致しているか入念に確認しなさい。にわかクリスチャンは、これができずに、ただ口先だけでイエスは主、イエスは救い主、艱難や戦争が起こりそうだからもうすぐ携挙される等を言っているだけで、自己検証をまったくしていません。彼らには行いと品性が欠けており、口先だけの信仰で問題ないと思い込んでおり、モーセの律法を守らず、真に主イエス・キリストに立ち返らないので、罪を赦されることがありません。神の律法を勝手に変更し、主イエスを唯一無二の救い主と信じないカトリックは論外であり、プロテスタントの律法廃止論者はモーセの律法をすべて無視しており、日々罪を犯し続け、悔い改めようともしないので、赦されることがありません。そういう訳で、旧約聖書からじっくり読んでモーセの律法とあなた自身を比較検証し、その後で新約聖書を読んで主イエスの教えとも照らして行いと心の思いも正しなさい。

 

次に、自分のことを考えるのをやめなさい。

これは大半の人間にとっては難しいことでしょう。多くの人間は、自分のことを第一に考え、自分が一番大事だと思っているからです。中には、子供が一番大事とか孫が一番大事と思っている人もいるでしょう。しかし、それも自分の身内のことだけしか考えていません。主イエスは以下のように教えられました。

 

新約聖書 ルカによる福音書 6章27~28、31~33、35~36節

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

(中略)

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。

(中略)

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい。」

 

上記のように主イエスは仰り、身内だけ愛するということは悪人ですらしていることであるので、まったく不十分です。このことは過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」でも説明しました。私は、私に反抗する者が憎くて批判しているのではありません。私は、私のブログ全体を通じて間違った信仰や礼拝を指摘するとともに正しい信仰について宣べ伝えており、一人でも多くの人が主イエス・キリストに従順な真のクリスチャンになって欲しいから多くの人々から嫌われることも、世界を敵にまわすことも恐れずに毅然と聖書の真理を宣べ伝えているのです。私のブログはそのためにあるのであり、私は金銭欲、支配欲、名誉欲等というような世の大衆が持っている欲は無いと前から申しているとおりです。

人にしてもらいたいことを人にもしなさいと主イエスは仰り、まさに他人のことを考える姿勢です。自分本位で自分がしたいことをするのではなく、他人の益になることをするのです。正しい信仰に導く伝道は当ブログ読者の益のためであり、私自身のためではありません。もし、私が自分のことしか考えないならば、このように無報酬で私の時間と労力を使って、多くの人々から疎ましく思われるようなことをしなかったでしょう。しかし、主イエス・キリストへの信仰の故に、私はそうしないではいられないのです。聖書福音のために自分を捨てることで初めて人生に意味を持ったと私は実感しています。

しかし、正しい信仰を持たないにわかクリスチャンも同じことをしていると思う人もいるかもしれませんが、彼らは虚偽の教えを広めているだけであって、聖書福音の伝道をきちんとできていません。彼ら自身が善い行いと思っていても、ただの勘違いです。それが無報酬であろうとも、どんなに時間や労力をかけようとも、間違っていれば悪い行いなのです。間違った信仰からする努力はプラスにはならず、マイナスでしかなく、負債が増えるだけです。自分は正しいことをしているという思い込みを疑ってください。そして、自己否定の精神で他人の益を求めなさい。自分のためにする行いは偽善です。自分や他人という人間の評価等を思わず、神のことを思いなさい。そうすれば、何をすべきか分かるはずです。

 

最後に、自己犠牲です。

自己犠牲とは、自分を犠牲にしてでも主イエス・キリストに従い通すこと、また他人の益を求めたり、他人の命を救うことです。最も偉大な自己犠牲は、主イエスが全人類の罪の贖いのために十字架で死なれたことです。何も罪を犯されず、正しい方があらゆる侮辱、暴力、そして十字架刑という残虐な死刑を受けなければならないのか考えたことがありますか。それは、主イエスが御自身の命を捨ててでも罪深い人間をお救いになりたかったからです。過去記事「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」や「共謀罪、刑事手続、反キリストと新世界秩序、RAPT教というカルト」で述べたとおり、主イエスの十字架の意味を理解せず、十字架は失敗だったと述べたローマ教皇、十字架は弟子の信仰が薄い結果とか、他にも道があった等と言う偽預言者RAPTのような反キリストどもが世には多くいます。自己犠牲については、聖書に多く書かれています。とりわけ、以下のことが重要です。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章12~15節

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているのか知らないからである。

 

上記のとおり、主イエスは友のために命を捨てること以上に大きな愛はないと仰いました。要するに、主イエスは、神に属する人間を友とお思いになり、神に属する人間のために自らの命を犠牲にされたのです。

あなたは自己犠牲をして、友のために命を捨てられますか。むしろ、命を捨てることを厭わない関係でなければ友(友達、友人)とは言えないのです。世の中の人間は、友の概念を間違って認識しています。友と呼べるのは主イエスが教えるような関係で、愛がなければいけません。単に共通の趣味や楽しい時間を一緒に過ごす相手であれば、それは単なる知人に過ぎないのであって、友ではないのです。考えてみてください。あなたが友と思っている人は、あなたが苦境に陥ったら助けてくれそうでしょうか。あなたが友と思っている人は、もしあなたが明日の食べ物や飲み物に事欠くようになったら、助けてくれるでしょうか。また、あなたが病気になったら看病してくれるでしょうか。もしあなたが牢に入れられたら訪ねてくれるでしょうか。反対に、あなたの友が上述した内容に陥ったら、同じことをしてあげられますか。見て見ぬ振りをしたり、分かっていても行動に移すことができなかったり、躊躇したりしないでしょうか。以下の聖句を思い出しましょう。

 

新約聖書 マタイによる福音書 25章34~36、40節

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

(中略)

『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 

上記の内容は、イザヤ書58:6~7にも書かれており、主イエスが仰る羊とは、神に属する人間(真のクリスチャン)であり、真のクリスチャンが受ける報いです。主イエスが仰る隣人愛を実践し、見返りを求めずに隣人のために尽くすことが主イエスのために尽くしたことになるのです。隣人愛は、他人、知人、友であるか問わず分け隔てするべきではありません。人を分け隔てするのは、世に属する人間のすることです。主イエスは、人間を分け隔てすることなく、全人類の罪を贖うために犠牲になられたのです。しかし、その恵みにあずかることができるのは、わずかな人しかいません。なぜなら、世の大半の人間自身がその恵みを拒否しているからです。不信仰の者、異教徒は主イエスの救いを拒絶し、正しい信仰を持たないにわかクリスチャンは、信仰の薄さと不法の行いの故に、主イエスの恵みを受け取ることができないのです。なお、隣人愛の実践については、「善いサマリア人」(ルカ10:25~37)も参考になります。このような行いができない、このような行いをする機会があってもして来なかった、このような行いをする気がまったく無い人はどうなるかも示されています。

 

新約聖書 マタイによる福音書 25章41~46節

『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

(中略)

『この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。』

 

過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」で説明したとおり、山羊である世に属する人間は、聖書の真理を嫌いますし、真理を語る私に反感を持ち、私が言うことを聞こうともしません。現実に、私は正当な理由もなく、人々の耳の痛い話をして煙たがられ、嫌われ、誹謗中傷等の迫害を受けています。世に属する人間は、隣人愛が無く、自分のこと、自分の身内のことだけを考えているので、永遠の罰を受けるのです。なぜなら、このような者は神の御国に相応しくないからです。私は、あなたがたにどんなに酷いことを言われようとも、嫌われようとも、上述また過去にも述べたように、あなたがたのためを想って、あなたがたに罪を犯すことをやめるように忠告してきました。主イエス・キリストのため、真の聖書福音のためならば、あらゆる迫害を受けることを喜びとしています。複数の過去記事で引用した以下の主イエスの御言葉が私を元気付けてくれているからです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 5章11~12節

幸い(山上の説教)

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 

しかし、偽預言者RAPTとRAPT信者や偽教師Amir Tsarfatiと彼らに従うにわかクリスチャン、その他の偽善者たちも迫害を受けていると被害妄想に浸っていますが、実際は迫害ではなく、彼らが聖書の曲解という非難されて当然のことをしていることを弁えるべきです。非難されているだけで自分たちは正しいことをしている等と、何でも自分に都合の良いように解釈しないことです。また、神に祈ったら少しラッキーなことが身近にあったからといって神からの恵みと都合の良い解釈をして勘違いしないようにしてください。自己犠牲とは、自分のことを考えるのをやめ、他人のことを考えなければいけません。自我というものを十字架につけ、自分というものを無くし、ひたすら主イエス・キリストの御心のために生きるのです。下心無しに、人を助け、人に施したい、奉仕したいという思いが心の中で燃え上がるならば、あなたを真のクリスチャンへと成長させます。もし、あなたが、私の述べてきたことが厳し過ぎる、おかしい、自分勝手な教義等と思うなら、それはあなたに聖霊がいないからです。上述したように、あなたが霊によって新生していないからです。主イエスが「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:12~13)と仰ったとおりです。あなたに聖霊がいなければ、聖書の真理も私の言うことも真に理解できず、世間の曲解された教えを信じて虚しい思いに耽るだけです。何か罪を犯す度に、主イエスに釘を打つようなものだと思いなさい。過去に何度も申したとおり、主イエス・キリストを悲しませないように生きることが大切です。

 

偽預言者RAPTは、彼に批判的な人全員を工作員と呼んで誹謗中傷しています。彼にはキリストの品性と愛がまったくありません。偽預言者RAPTが愛しているのは、彼の身内や彼に洗脳されて従順なRAPT信者だけです。もっとも、偽預言者RAPTは、RAPT信者をRAPT自身の支配欲、金銭欲、名誉欲等の醜悪な欲を満たすためだけに利用しているだけの可能性もあります。RAPTが彼のブログ内で自供しているとおり、RAPTが事前にRAPT信者の移住審査をして問題ないと判断して移住させたにも拘らず、一部のRAPT信者を移住した後に追い出しています。証拠は、彼の2017年12月16日の記事で、以下のとおり。

 

(Blog by RAPT: http://rapt-neo.com/?p=46108

 

これは明らかにRAPTに人を見る目が無かったということを示しており、移住という重大な決断を他人にさせておきながら自分の意にそぐわないという理由で追い出すのは愛のかけらも見られず、利己的な行いでしかなく、本当に酷い行いです。しかし、偽預言者RAPTは、彼の悪行を恥じるどころか、かえって自慢げに言っています。そして、偽預言者RAPTは、「聖書の基準、神様の御言葉の基準にそぐわない行いをしている者は、例え工作員であろうとなかろうと、主から山羊(毒麦)として認定され、千年王国に外に追い出されてしまうからです。」と言っていますが、RAPTこそが聖書と主イエスの教えから外れた言動をしていることは私が過去に証明したとおりです。毒麦や山羊とも言っていますが、それはRAPT自身とRAPT信者のことです。また、RAPTとRAPT信者は、千年王国もあると信じているようですし、聖書の真理を理解していません。また、偽預言者RAPTは、「そして、そのような者たちは千年王国の外で泣いて歯ぎしりするだろうと聖書に書かれてある通り、実際に彼らはあれこれと言い訳を言ったり、私の悪口を言ったりして、泣いて歯ぎしりしているわけです。」とも言っていますが、聖書には千年王国の外で泣いて歯ぎしりするとは書かれていません。どこに書いてあるのでしょうか。RAPTが聖書に書かれていると言う時はいつも、私のように聖書の箇所を示しません。なぜなら、それは聖書に書かれていないからです。RAPTのいつもの癖です。RAPT信者も聖書を理解していないので、RAPTの虚言に疑問を持つこともなく騙されます。私は、RAPTの悪口を書いているのではなく、聖書を根拠にRAPTの間違いを丁寧に指摘しているのであって、これを悪口と解釈するのはRAPTの歪んだ主観的所感に過ぎません。そして、私が記事を書くことで、偽預言者RAPTに人々が惑わされないように、既に惑わされている人も気付いて回心して欲しいだけです。続けて、RAPTは、「もちろん、例え教会から追い出されたとしても、その後も続けて信仰を持ちつづけ、義なる生活をしていれば、その人は主から祝福されて幸せになるでしょう。」とも言い、彼自身の行いを正当化する逃げ道を作っています。しかし、実際は、RAPTから追い出されるか、RAPT信者が自分で惑わしに気付いて離れるか、どちらにせよ結果としてRAPTから離れることが正しい信仰への道です。それは決してRAPTが善い事をしたことにはなりません。RAPTは彼自身の肉の思いでしたに過ぎず、正確には、神が、RAPTに追い出された人をRAPT信者から脱却させて正しい道に戻る契機をお与えになったと考えるのが正しいです。さらに、RAPTは、「しかし、それすらもしないでただ不平を零し、泣き言を言い、悪口を言うなら、その人は救いすら失い、最終的には主から裁かれて、この世でもあの世でも地獄のような生を生きることになるでしょう。そして、彼らのような悪人どもに苦しめられ、様々な屈辱を受けてきた私たちは、主が大きく祝福してくださり、様々な豊かな幸福で包み込んでくださることでしょう。」と言って、呪いをかけるような言葉を吐いています。そして、RAPTは侮辱を受けたと被害妄想に浸っており、祝福を受けるとも妄想していますが、RAPTやRAPT信者たちは、神から祝福を受けるどころか、このまま悔い改めないならば、火と硫黄の池に入れられる結末が待っているだけです。RAPTは、偽預言をした罪、他人に偶像礼拝をさせた罪、聖書を悪用して金儲けする金銭欲から来る罪、神の御言葉でもないのにそのようにして謳って人々から金銭を騙し取った詐欺の罪等と数え切れない位の罪があります。RAPT信者も主イエスを差し置いてRAPTを崇めるという偶像礼拝の罪、間違った礼拝、その他日々の生活で犯した多くの罪もあります。早くRAPTから離れ、主イエス・キリストだけを唯一の救い主と信じ、悔い改めなさい。

 

聖書の真理を語らない者、例えば、偽預言者RAPT、偽教師Amir Tsarfatiやあなたがたの身近にいる牧師等、ローマ教皇も師事する対象ではありません。なぜなら、彼らは反キリストだからです。また、私も師事されるべき存在ではありません。なぜなら、私は仕える者だからで、礼拝されるべきは神だけで、主イエス・キリストこそがすべての人間が礼拝し、仕えるべきお方なのです。主イエス・キリスト以外の人間に心酔して従ったり、崇拝する人は反キリストです。自我との戦いは、真のクリスチャンになるためには必ず通らねばならない過程です。上述した内容を聞くだけではなく実行し、自分の中にある肉の思い、肉の欲、目の欲、生活のおごりから離れるようにしましょう。そうすれば、サタンの誘惑にも動じなくなります。そして、自分を無にし、神の力が十分に働くことのできる環境を自分の中で整えなければなりません。自分を0にし、神を100にし、神の力が100%働くような状態を目指し、日々の信仰生活を送りましょう。神への愛のために神の律法や戒めを守って、世俗的な欲や願い、理想等を捨て去り、この世とこの世にあるものを愛する世に属する人間の生き方ではなく、主イエス・キリストを模範として生き、神の御心と御計画のために、自分の人生を捧げる人が真のクリスチャンです。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上