こんにちは。

今回は、律法遵守は信仰の証しと復活について述べます。



 

いつまでもただ当ブログを読むだけや動画を視聴するだけで何も投稿してけえへん人、行動せえへん人、すぐに見て見ぬ振りする人、ええ加減、小さな一歩を踏み出して、変えて行きませんか。世俗社会が荒れ果てて、大変な状況になりつつあるんを既にご存知でしょう。もう自由な時間は少ないですよ。いつまでもダラダラして何も変えへんようでは、ほんまに人生終了しますよ。人生は一度きりで、手遅れになってからやり直しは無理ですよ。そうなりたないなら、少しでも変える努力をせなあかんで。何も言わずのままではいつでも逃げれる状態故、あんたは一生逃げ続け、地獄行きの負け組になる。自分で逃げ道を断て。覚悟を決めろ。一人っきり、または、無能な人たちと集まって、あれこれ考えたり、屁理屈をこねくり回してても何も変わらへんで。本気で変わりたいなら、一人では無理と理解し、出来る人と関わることが非常に重要で、「自分の考えを外に出す、書き出す」ということも重要です。そうして初めて前向きに歩み出すことが出来るからであり、何も言わぬ状態を続けるなら、人生詰んでます。
また、当ブログに投稿した人に対して陰で別の場所で集まるように勧誘してる者が居り、そないな者たちは、ただ集まりさえすれば良いと勘違いして、一向に成長が見られへんさかい、解散してやめるように勧告します。誰でも入れる所、敷居が低い所にはそれなりの人しか集まらず、そないな人たちが集まったところで、何も成し遂げられず、うだつが上がらへん状態が長く続き、そない低い程度に慣れるとそこから脱却しようともしなくなり、後に信仰からも脱落してまうことが予想されます。学校や会社でも入試や選考をして人を選ぶのが当然やろ。せやから、そないな誘いにも乗らんように注意しなはれ。たとえ当教会に入るためとか、一緒に集まって励ましあうため等と言い、一見して協力してるかのように見せかけていても、その実、結果的には、こちらに入ろうとする者の邪魔をし、散らす者であるからや。遠回りや寄り道をせんと、真っ直ぐにこちらに来る努力をすべきです。別の場に集まって安心することで、こちらに来るために必死になろうとせず、何年ものらりくらりして、最悪こっちに来なくてもいいやってなるのが懸念点で、実際にそうなってる人たちが居り、そないな人たちと調子を合わせてたらあかん。理解したら、余計な事をせず、真っ直ぐにこちらに来る努力のみをしなはれ。
人生に迷ってるなら、相談にも乗ります。人それぞれ人生もちゃいますし、置かれてる状況もちゃうのも分かってます。「決断し切れへん事情があって、どう処理して行けばええか分かりません」、「話を聞いてもらい、解決に導いて欲しい」等とお思いの方、是非、拙者が一緒に考えて助言を差し上げます。但し、こちらも時間に限りある者であることを忘れんといてください。あんたらが拙者に質問や相談することで、こちらの時間を奪ってる、削ってる、本来ならば有料で対応して然るべき案件であるということを認識しなはれ。拙者は、自動回答する機械やないんやで。決して当たり前に思うなよ。せやから、礼儀(挨拶や御礼)も弁えず、「答えて当然」と偉そうに振る舞ったり、ゴミのような野次を飛ばす者や上から目線で発言する者は、人として失格です。そないな人としておかしい奴は、神に認められへんよ。



 

もし、ご自分の話が公開されるとか、アメブロの個別メッセージでも運営に検閲されて見られるのが嫌だと思われる方は、キリスト道の「お問い合わせ」を活用してください。但し、そこにも注意書きをしてるさかい、よう読んでからにしてください。
また、教会の募集要項や「「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲」でも書いてるとおり、当ブログの記事に対して複数回投稿したことがある人、継続的に投稿してくることを条件として課します。一度も投稿すらしたことが無い人と投稿を続けへん人は拒絶いたします。勉強したという事実が分からへんし、本気度を感じられへんからや。これも絶対条件です。何も投稿せえへん、SNSやブログ等でも発信せえへんような人は無能の極みやさかい、もう人生終了してるようなものと思いなはれ。「勉強になった」と思うだけの人って、勝手にそう思ってるだけで、実際は何も学んでへんことが多い。実際に勉強になったと思うなら、具体的に書き出してみて、自分が学んだことを可視化すると分かり易くもなる。せやから、拙者は感想を書く事を求めるんや。あんたら読者自身のためです。

 



【投稿の際に必ず前置きで書いて欲しい事】


・当ブログを知ったきっかけ(例、「◯◯の検索で見つけた」、誰かの紹介等)


・当ブログを知った時期
・何故当ブログを読もうと思ったのか


・何を期待して相談や投稿をしたのか



 

これらは最低限明確にし、その上で具体的に相談内容を書いてください。そうでないと、適切な助言がでけへんことがあるからです。こちらが予め書いて求めてることに答えへん人には拙者も回答しまへん。そのおつもりで。信仰は目に見えへん部分やさかい、金銭とは異なり、すぐにでも稼がねば生活でけへんっていう状態に追い込まれる訳ちゃうさかい、怠惰な人はどうしてもだらけてしまう。覚悟が甘い人は、切羽詰まる思いをせず、それ故にのんびりしており、目標時期を明確に決めへんから、いつまでも先送りになるんですよね…。多くの人がそうしており、それ故にのんびり呑気にして、結果的に何もせえへん。「さっさとやれ」と拙者が言うたにも拘らず、イマイチあんたらには響いてへんのよね。「○年○月○日までに〜をする」っていう具体的行動予定を決めへん人、「〜したいと思います。」等と願望めいたことしか言えへん人(結局せえへん)も拒絶いたします。
集いの場に参加申請する際は、必ず、上記の注意事項を守り、貢献出来ることやいつまでに試験を突破して教会に入る予定にしてるのかという具体的期日も明記の上、投稿してください。それらの記載が無いのに申請して通ると思わんといてください。

 



拙者は、真摯に「変わりたい」と本気で思って行動しようとする人を応援します。何か言うてもすぐ怒りそう、叱られそう、怖いなんていう印象を持ってる人が居てるかもしれへんけど、それは誤解やし、勝手に被害妄想をしないでもらいたいです。拙者は、めっちゃ親身になるし、前向きで有意義な努力をする人を放っておけへんだけで、人に気持ち良くなってもらうために媚びへつらう人間ではないだけです。拙者は、回りくどい言い方やふんわりした誤魔化す言葉を言わへん故、言葉がきついと感じることもあるやろけども、それだけ真剣になってるってことであって、罵倒するとか莫迦にして見下してるんやない。勝手に誤解せんといてください。怒られるとしても、それは悪い点を認知しようとせえへんとか改善しようとせえへん等と怒られるような状態で在り続ける人が悪いんですよ。自分自身が悪いと思う自責をしなはれ。「自分は間違ってない。他人のせいだ。」、「お前に言われる筋合いは無い」等と思う高慢で自己愛に満ちた人は、手に負えへんし、早々にその認識を改めるべきや。そうでないと、何も変わらんよ。早よそのことを認識しなはれ。よくやってる人や非の打ち所が無い人に怒る必要なんて無いし、拙者から怒られるとか注意されるにはそれなりの理由があると思わなあかんで。
ほんまに現代日本人よ、「自分は大丈夫」なんて高を括らず、自分を客観視し、足らへん所を努力によって埋め合わせたり、改善せないかんよ。拙者が喋ってるところを動画で見るとか、実際に対面で喋ってる訳ちゃうさかい、熱量が分かりにくいかもしれへんけど、拙者は誰よりも熱量を持って対応しますよってことを伝えてます、ということを改めて知らせたいんです。どうかご理解ください。そして、ご理解いただいたら、あんたが行動する番です。一歩踏み出し、行動を変え、習慣を変え、人生を変えてみませんか。そのために、投稿してみて、話してみませんか。投稿するのに費用は掛からへんし、あんたにとって何も損は無いですよ。人生が変わる切り口はほんの小さなきっかけから始まるものです。とにかく、やってみることです。やって損は無いです。やらないことの損失の方が遥かに大きいです。行動しない無能から卒業しましょう。

 



さて、本題に入ります。今回は律法遵守は信仰の証しと復活についてです。

新約聖書 マルコによる福音書 五章二十一節〜四十三節(拙訳)
それから、舟で再び向こう側へのイエスの航行時に、大群衆が彼(イエス)の許に集められた。そして、(イエスは)湖のほとりに居った。見よ、ヤイロという名の会堂長の一人が来て、彼(イエス)を見て、足許に平伏し、しきりに彼(イエス)に懇願して、言う。「我が幼い娘が今際の際やから、良くされて生きるように、おいでになって彼女に手を置いてやってください。」すると、(イエスは)彼(ヤイロ)と一緒に出掛けはった。また、大勢の群衆は、彼(イエス)に付いて行き、彼に殺到しとった。
さて、十二年血の流出問題を持つある女が居り、多くの医師によって多くの事に苦しみ、彼女自身のすべてを費やし、何の益も得られず、逆にもっと悪くなっとった。(彼女は)イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの着物に触れた。「彼(イエス)の着物に触れさえすれば、治してもらえるだろう」と言うたからや。すると、すぐに彼女の血の源が枯らされ、その災難から癒やされたことを体に感じた。そして、すぐにイエスは、自分の内から力を出したことに彼自身の中で気付き、群衆の中で振り返り、「我が着物の(房)に触れたんは誰や」と言わはった。そこで、彼(イエス)の弟子たちは彼(イエス)に言うた。「あんたに殺到してる群衆を見てて、『誰が我に触れたんか』と言わはる。」また、(イエスは)これをした(触れた)者を見付けるために見回してはった。しかし、女は恐れ、自分の身に起こった事を知って、震えながら出て来て、彼(イエス)に平伏し、彼(イエス)にすべて真実を話した。せやけど、(イエスは)彼女に言わはった。「娘よ、あんたの信仰があんたを癒やした。安心して行きなはれ。あんたの災難から健康になりなはれ。」
まだ彼(イエス)の話してはる時、会堂長のところから人々が来て言う。「あんたのお嬢さんは亡くなりました。何をこれ以上先生を煩わすか。」しかし、イエスはその話された言葉を聞いてすぐに、「恐れるな。ただ信じなはれ。」と会堂長に言わはる。また、ペトロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネを除き、誰も彼(イエス)に付いて来ることを許さへんかった。そして、(イエスは)会堂長の家に来て、(人々が)大いに嘆いて、大いに泣き叫ぶ騒ぎを見て、家の中に入り、彼らに言わはる。「何故、喚き騒いで泣くんか。子供は死んだんやのうて、眠ってるんや。」すると、人々は彼(イエス)の(こと)を嘲笑った。しかし、(イエスは)全員を追い払い、子供の父親、母親、彼(イエス)と一緒の者たち(先の三人の弟子)を連れて、子供が横たえられてる所に入りはる。そして、(イエスは)子供の手を掴んで、彼女に「タリタ、クム」と言わはる。これは、「少女、あんたに言う。起きなはれ。」と解釈されてる。すると、少女はすぐに起き上がって、歩いとった。(彼女は)十二歳やったからで、それを見るや否や、(人々は)大きな驚きで仰天した。そして、(イエスは)彼らにこの事を誰も知らんようにと厳しく命じ、また、食事を少女に与えるように言わはった。


一、群衆という多数派は野次馬
これは、過去記事「デカポリスでの悪霊追い出し」の続きで、主イエスがガリラヤ湖を舟でデカポリス地方に行った後、引き返して再びガリラヤ湖の対岸を渡って元来た道を戻りはった時の話の続きの場面や。デカポリスで用事を終えた主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の北西にある町のカファルナウムに戻った。そこに到着するや否や、主イエスは大群衆に囲まれた。現代で言えば、有名人にたかる野次馬と同じようなもんで、群衆は主イエスがしはる奇跡等といった御業を見に来ただけであった。群衆を構成する人間の殆どには真心からの信仰がある訳でもなく、信仰があると自称する者等も多く混じっていたであろう。

二、地位や名誉等を気にしてる人は神から認められへん
上記聖句にあるとおり、「ヤイロという名の会堂長の一人が来て、彼(イエス)を見て、足許に平伏し、しきりに彼(イエス)に懇願」ということやったが、これは当時にしては極めて珍しいことであった。なぜなら、当時の諸会堂ではファリサイ派の教えを信奉する人たちが多数派であり、ユダヤ教の祭司職等もその関係者で占められ、主イエスとは対立してたからや。ヤイロはその会堂長の一人であり、そないな人が対立する相手である主イエスに頭を下げる、それも平伏すという最も丁重な礼をしたというんは、余程切羽詰まる状況、背に腹は代えられぬという理由があったことが分かる。おそらくそないな態度を取った会堂長を見たユダヤ教徒たちは、ヤイロのことをよく思わないでしょう。「大工の息子のイエスなんていう地位も無いただの男に平伏すなんてふざけてる」、「ヤイロが会堂長をしてるあの会堂なんかにもう通わない」等とユダヤ教徒たちからの反発を食らうことは予想出来たであろう。しかし、ヤイロはそないな体面を気にせず、主イエスの足許に平伏し、「我が幼い娘が今際の際やから、良くされて生きるように、おいでになって彼女に手を置いてやってください。」と我が子の命が懸かっており、主イエスなら娘を救えるだろうと思い、社会的地位や名誉等を気にすることを捨てて、対立してた主イエスに娘の助命を懇願した。
このヤイロという人は、娘の命のために自分自身の地位や名誉等を捨てたが、他の人がすべて同じ事が出来るといえば、そうではないだろう。つまらぬ体裁や世間の評判や目線等を恐れて、意地を張って、対立する相手に頭を下げたり平伏すことがでけへん人が多いやろ。長年当ブログや動画の存在を知っていながら、一向に拙者の所に来ようとせえへん人たちも同じや。世の諸教会の考えや聖書解釈の方が正しいと勝手に妄想し続け、聖書を素直に読まず、市販聖書の誤訳を盲信したり、牧師等の自称聖職者どもの誤解釈や私的解釈を盲信し、聖書の原語から訳して読み解く拙者の言う事に素直に聞き従わず、敵対をやめへんのでは当時の多数派のファリサイ派どもとまったく一緒であることに早よ気付きなはれ。そない意地を張ってても救われへんさかい。ヤイロのように、自分の過ちに気付いたら、地位等を気にしてる場合ではない。即座に悪い事や悪い考えを改め、それを行動に移さなあかん。そこが救いの分かれ目となり、意地張ってるとか愚かな妄想をして自分らこそが正しいと思い込んでる人たちは救われへん。

三、殆どの医師は聡明やないし、仁義も無い
上記聖句にあるとおり、「十二年血の流出問題を持つある女が居り、多くの医師によって多くの事に苦しみ、彼女自身のすべてを費やし、何の益も得られず、逆にもっと悪くなっとった。」とのことで、多くの医師の診察や処置を受け、全財産を使ても十二年も治癒せず、むしろ悪くなっとったという事実から、医師はまったくの役立たずであり、金銭をむしり取るだけの有害で無能な存在ということになる。この事実を諸国民は理解する必要がある。現代でも同じや。多くの医師は実際には殆ど何もせず、製薬会社から接待を受けてその薬を処方する処方箋を出したり、看護師や放射線技師等に「あれしろ、これしろ」等と命令して、医師自身がこれといったことをすることはほぼ無い。医師が何がするときと言えば、他の人がやった仕事の結果から判断したり、救急のときや手術のときや診断書を書く位であろうか。その他何かするにしても、患者に利する事のみをしてるとは限らへん。不要な手術をしたり、有害な薬剤を注入したり、医療過誤と呼ばれるように誤った処置をすることもようあるからや。それなのに、多くの人々は、医師ならあらゆる病気に対して何とかしてくれる、治してくれると思い込んでる。しかし、それは大間違いや。
特に、現代では、二千二十年から続くコロナ犯罪の件を見ても、明らかや。存在せえへん偽感染症をワクチン製造に関わる製薬会社等から賄賂を貰て騒ぎ立て、有害無益なマスクとワクチンが効果的と嘘をつき続けてるのが多い。キリスト道や多くの過去記事でも散々この点について非難してきたとおりや。
そして、日本では、大阪の会社である小林製薬が、行政と報道機関が結託して攻撃を受けてる。小林製薬の紅麹を使用する製品がどうのという言い掛かりを受け、腎機能に障害があるとか死者が出た等とテレビはしきりに騒いだ。しかし、死者はコロナワクチン接種済みの高齢者ばかりであった。その事実は隠し、紅麹の栄養補助剤等を摂取したから入院に至ったとか死亡した等と報道機関は騒ぎ、厚労省と大阪市の行政機関は迅速に小林製薬の工場に立ち入りをしたり、偉そうに製品回収命令の行政処分をした。
紅麹を使うのはあらゆる食品の色素としても長年使われており、DHC等といった他社も紅麹の栄養補助剤を販売してる事実はある。今まで何ら紅麹で健康被害は無かったのに、今更何故紅麹が問題視され、かつ、小林製薬だけが叩かれるのか。そこをあんたらも疑問に思わないかん。拙者と同じようにかような点に疑問を抱き、調べた人が居ったさかい、紹介する。こちら(カウンセリング赤坂)の記事や。その記事は、コロナワクチン薬害隠しに小林製薬の紅麹が狙われた六つの理由と題して書かれてる。
小林製薬の紅麹について厚労省に最初に報告したのが阿部雅紀医師で、日本大学医学部の教授です。彼は製薬会社から六年で一億千三百四十万七千六百二十九円の謝礼金を受け取った。その記事内に画像が貼られてるとおり、彼は他の医師よりも多額の謝礼を毎年受け取っており、小林製薬からは謝礼金は無かったとのこと。テレビでもアホみたいに騒いでた「プベルル酸」については、東京工科大学の今井伸二郎教授は、「プベルル酸に腎毒性の報告は一切無い。紅麹も風評被害。何百年食べられてるが、そういった報告は一切無い。」と述べたとのこと。他にも東京大学の唐木英明名誉教授は、「紅麹は、シトリニンという腎機能障害を引き起こす毒素を作る場合があることが知られているが、会社の調査では、その毒素は入っていなかったと報告されている。」と述べたとのこと。そして、その記事によれば、阿部雅紀医師が部長及び透析室室長として所属する日本大学医学部附属板橋病院は、ワクチンを熱心に推進してる病院であり、(存在しない)コロナ患者受け入れが私大病院で全国二位と自慢してる病院とその記事で言われてる。もしかような方針の病院であれば、そこの医師たちは、死んでも「コロナワクチンのせい」と認めることはせず、他に責任をなすりつけようとするであろうな。
そして、こちら(ニコニコ動画)では、東京医科歯科大学の症例論文が紹介されており、mRNAワクチンが腎疾患の原因と思われるという見解です。これらの証拠からして、小林製薬の紅麹が腎疾患の原因となったというのはおよそ考えられへんのがお分かりいただけるでしょう。
また、何故、小林製薬が狙われたのか。その記事に書かれてるのは、小林製薬がコロナ対策に関してマスクやワクチンを推奨することはなく、政府や報道機関等が推奨する事(マスクしろー、ワクチン打てー)とは真逆であったことが政府にとって面白くなかった、小林製薬のナットウキナーゼがワクチンによって発生するスパイクタンパク質を分解する事が学会誌moleculesに掲載されたことを受けた事が政府にとって気に食わへんかった、小林製薬は官僚等の天下りを受け入れへん事が官僚等にとって面白くない、経団連に未加入で悪人どもとの癒着が無く、小林製薬の現社長である小林章浩氏が筆頭大株主であり金融機関や外資系企業等の傀儡ではなく純日本企業であることが欧米の支配層とその傀儡である日本政府や地方行政にとって面白くない存在故、潰そうという計画だったのであろうと疑うに足る状況証拠がある。
また、紅麹騒動に合わせて社外の株主から小林製薬の株を大量に売り注文を出して株価を急落させる等といった不正な利益のための株価操作が疑われ、これも犯罪であろう。騒動を大きくせんと株価は大きく動かへん故、天下り先の確保やワクチン被害の責任転嫁を狙う厚労省の思惑や日本人を憎んでて純日本企業を潰そうとする欧米の支配層の利害が一致する。
もしこれらが権力者の命令ならば、その手先の一人に過ぎひん日大教授の医師を使うのは造作無い。阿部氏に限らず、コロナ関連で多くの製薬会社から不正な謝礼金を受け取った御用医師は多く、テレビ等にも出演し、そないな人たちが口を揃えて「コロナは脅威、マスクしろー、消毒しろー、ワクチン打てー」等と言うて多くの人々を騙して死に追いやったり、傷害を負わせた事実を忘れてはならん。コロナ犯罪の主犯は、欧米の支配層及び富裕層や世界保健機関(WHO)や世界経済討論会(WEF)等の国際機関、バチカンや各国政府、多くの大企業等で、注射器を持ってワクチンを打った実行犯は医師で、医師の命令で動く看護師や不当な検温及び消毒やマスク着用等を患者に強要する事務方等も共犯者や。庶民への情報伝達や洗脳係はテレビや新聞等の報道機関や学校等の教育機関も同様で、コロナ犯罪の共犯者や。共犯者はようけ居るものの、肝心の接種行為をする医師たちに良心があって拒めば、庶民にこれ程ワクチン接種させずに済んだことです。せやから、公に抗議もせず、訴訟等もせず、コロナという偽感染症騒動を止めもせえへん医師の罪は非常に重い。支配層や製薬会社や政府らは、金銭やその他の接待をしたりして多くの医師を籠絡して手先とし、莫大な利益に目が眩んで金に魂を売った(この世の富を支配する悪魔に魂を売ったと同義)医師どもがワクチンを人々の腕に刺していき、多くの人々を葬り、支配層の人口削減計画の手先として人殺しをした事は明白です。コロナ犯罪に一切加担せんかった医師はかなりの少数派ではないやろか。ワクチン接種をせず、かつ、マスクを推奨すらもせえへんような良識ある医師はもっと少ない。よって、医師の殆どは人としておかしいし、天国に行けるような善人は居らんやろな。
世間の医師たちよ、「ヒポクラテスの誓い」を知らんのか。そこには、「患者に利する治療法を選択し、害と知ってる治療法を絶対選択せえへん」、「依頼されても人を殺す薬を与えへん」、「生涯、純粋さと神聖さを貫いて医術を行う」等です。それらを知ってて、その教えの通りに実行してるなら、とてもではないが、有害なマスクやワクチンや感染症の診断がでけへんPCRを用いた検査を他人に推奨せえへんし、ましてや他人に強要なんてする筈がない。
上記聖句でも医師に助けを求めて全財産を費やそうがまったく効果が無いどころか、むしろ悪化したという聖句を読むと、「昔も今も一緒やな。歴史は繰り返してるな。」と思わざるを得ない。金銭や社会的地位や名誉等のために医師になった人は、即刻辞めてもらいたい。人に害を与える医師なんて屑やさかい。保身や金銭や名誉等のために罪を犯すのをやめい。一般人も医師を盲信するな。医師は全能から程遠いし、精神的にも人間としても未熟で、大いに間違いを犯す存在やからや。

また、こちら(さてはてメモ帳 Imagine&Think!)にも告発があるとおり、医師は傲慢な者が多く、勘違いや無知さを認めようとせず、誤った知識にしがみついたり、誤った処置を患者に施し、かえって患者の命を奪ったり、傷害を加えてる事実があることを直視せい。

 

四、律法遵守と主イエスの信仰の両方が神の民にはある
上記聖句にあるとおり、十二年血の流出問題を持つある女が「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの着物に触れた。」と、その女の気持ちと行動が記されてる。パウロ教信者等らもきちんとこの行動の重要性に気付き、信仰は思ってるだけでええんやと思うなと声を大にして言いたい。「癒やしてください、救ってください」等と頭の中で思うだけ、願っただけ、または金を払いさえすれば神から救われると思うな。彼女は、主イエスの噂を聞き、臆病ながらも「彼(イエス)の着物に触れさえすれば、治してもらえるだろう」と口にし、主イエスに触れたいと思い、群衆の中を掻き分けて、後ろから主イエスのお着物に触れ、その結果、「すぐに彼女の血の源が枯らされ、その災難から癒やされたことを体に感じた。」という良い効果を得た。もし、彼女が怠惰で、主イエスに会おうとか触れようと思って行動せず、家でゴロゴロしてるだけでとか、相変わらず医師や薬等に頼ってるだけなら、癒されへんかったでしょう。勿論、単なる利益信仰は良くないし、自分の利益ばっか考えてるような人を神は憐れみはることはない。しかし、本件では特別な意味があった。
本件では、十二年も血の流出の問題を抱えてるとのことで、律法(レビ記十五章二十五節等)では出血してる状態は不浄とされ、律法を守ると長年人々と触れ合うことも出来ず、その長年の忍耐を神は評価しはったのと憐れみから癒やしはったのでしょう。更に、あの出来事は聖書預言とも関わりがある。まず、あの女が患った年数の「十二」というのに意味がある。イスラエル十二部族や主イエスの直弟子である十二使徒でも使われる神が好みはる数字や。そして、聖書では、前回記事「断食についての問答」でも言及したとおり、女は花嫁と例えられ、花婿たる主イエスと律法を守る契約によって結ばれて、神の民となって永遠に生きる資格を得るとされる。せやから、あの十二年間も血の流出問題を抱えてた女は、イスラエル十二部族の神の民を暗示してると思われる。非常に長い間ファリサイ派等がやってるように人間が決めた掟を守って神の律法をきちんと聖書どおりに守らず、その事は神が厭うことであり、論外や。しかし、選ばれた民は孤独であろうとも忍耐強く信仰によって律法遵守を続けると、主イエスと出会うとか触れることで初めて清められ、ようやく神の民となることが出来ること、律法遵守と主イエスの信仰抜きに救われることは有り得へんことを神は聖書読者に教えたいんやと拙者は解釈する。せやから、不信仰者、異教徒、パウロ教信者等といった律法遵守をせえへん人たちは救われへんことが聖書から明らかです。
そして、あの女は、具体的に主イエスのお着物の何処に触れたのか。このマルコ五章には書かれてへんが、マタイ九章には書かれてる。そこには、「そして、見よ、十二年(血が)異常流出してる女が後ろから来て、彼(イエス)の着物の房(縁)に触れた。」(マタイ九章二十節拙訳)と明記されてる。この「そして、見よ」というのが旧約時代から続く典型的な預言でも頻出の言い回しで、注目すべき聖句と言える。房については、以下の図のとおりや。

 


何故、彼女は主イエスのお着物の袖(鳥の翼)の房に触れたのか。他人が触り易いというのもあるが、これはマラキ書三章二十節(口語訳以前や他言語聖書では四章二節)の預言に関わるものと思われる。その預言の翼は、古代ヘブライ語の単語は民数記十五章三十八節で縁として使用されてるものと一緒で、翼が癒やしになると書かれてる。まさに、着物袖とそこに付けられてる房が癒やしということで、「すぐに彼女の血の源が枯らされ、その災難から癒やされたことを体に感じた。」という結果とも合致する。また、マタイ十四章三十六節にも着物の房に触れて癒された旨の記述がある。
そして、マラキ書三章二十二節(口語訳以前や他言語聖書では四章四節)では、「モーセの律法を思い起こせ」という神からの戒めがある。この預言の言い回しに注目すべきや。人々がモーセの律法を常に覚えて守ってるなら、「思い起こせ」や「思い出せ」等と言われることはないんや。神からかように言われるということは、人間たちがモーセの律法を学ばず、守ってへんということを示してる。西洋かぶれが酷く、昔よりも律法離れや無神論者が増えた現代社会にも当てはまる。また、当該文脈において、出エジプト記十五章二十六節にも主なる神の御声に聞き従い、正しい行いをし、すべての掟を守るなら、過去にエジプト人に下した災いを下さず癒すとある。これらの神の御言葉を無視する者や聞き従わぬ者は悪人であり、そのマラキ預言どおり、キリストの再臨時、この世が滅びる際に滅ぼされることになる。連合国(UN)のSDGsなんて支配層の嘘でしかなく、正しさの欠片も無い。それにも拘らず、多くの人々は唯一の神に従わず、悪魔崇拝者の支配層に従うことを選んでる。もし本気でこの世が持続して欲しいと願うなら、マラキ書三章二十四節(口語訳以前や他言語聖書では四章六節)のとおり、主なる神がこの地を打つことがないように神に従うべきであろう。その道理が分からん者や聞き従わぬ者は反キリストや。
この着物の縁にある房が重要であり、多くの人が見落としたり、軽んじてる部分です。過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」や他の記事でも繰り返し、西洋かぶれをやめて、房付きの和服を着るようにと拙者は推奨してきた。単に和服を着るだけでは不足で、筒袖やのうて着物袖の和服に房を付ける事が重要です。なぜなら、それは律法(民数記十五章三十八節)に規定されてるからであり、主イエスは律法遵守の立場やさかい、当然当該掟も守ってはったし、この服装規程は当時のユダヤ人なら当たり前にやってた。しかし、古代イスラエル人の末裔である日本人は明治維新以降からどんどん西洋かぶれをして洋装に傾き、現代では九割以上の人がアホみたいに西洋かぶれして洋服を着ることに疑問すら抱かへん状況で、道を逸れて滅びる者が非常に多い。また、現代の白人を中心とする偽ユダヤ人や偽ユダヤ教徒らは、黒づくめの背広と白いシャツを着るという英国由来の洋装で、黒い帽子を被り、けったいなもみあげをし、タッリートというものに房を付けて必死に敬虔ぶってるがそうではない。なぜなら、彼らの行いは律法に反しており、的外れであり、彼らの出自はハザール人という東欧系の白人やからで、血統的にイスラエル人やユダヤ人ではないからや。また、彼らは聖書的な和服を着る文化を持たず、本来は着物の袖に付けるのにそれをせず、律法と異なった行いをしており、律法遵守してるとは到底言えへん。その分際で超正統派等と勝手に自称し、非常に忌まわしい。また、彼らをユダヤ人と信じて、嘘を真に受けてる世間の人々も甚だ愚かや。当ブログと動画で認識を改めい。
更に、勘違いして欲しないのは、「和服を着て、房を付ければいいんだろ」とその掟が定められた神の御意志を考えずに漫然と実行するだけに終わったり、「着物袖の房に触れれば病が癒される」とだけ思て、癒やしの効能目当てだけという利益信仰に走るべきではないってことです。主イエスは、「あんたの信仰があんたを癒やした。」と言わはり、律法を守るという信仰、律法を守るのも神への愛故で、その事が主に認められることに対する報いであったからや。信仰が無いとか神への愛も無いのに、房付き和服を着るとかそれを着てる人の房を触るといった行為をしたとて、何も意味が無い。その証拠に、弟子たちが主イエスに「あんたに殺到してる群衆を見てて、『誰が我に触れたんか』と言わはる。」と言うたことから分かるとおり、群衆が主イエスに殺到して、主イエスのお体に触れてる人は大勢居るのに、彼らは主イエスのお体やそのお着物に触れようとも癒されることはなく、その他の効果も得られてへん。癒やしの効果を得たのは、あの血の流出問題を十二年抱えて律法を守るが故に孤独に耐えてた主イエスのお着物の房に触れた女一人だけであった。主イエスは大勢の群衆なんかには目もくれず、「(イエスは)これをした(触れた)者を見付けるために見回してはった。」と信仰がある一人の人間を群衆の中から確認しようとしはってたんが分かる。これは、まるで羊飼いが失われた羊を探す様子のよう。羊飼いである主イエスは、御自分の民ではない山羊たる多数派の人間に興味が無いことはこの事からもよう分かる。パウロ教信者や律法主義者ども、不信仰の者も、熱心に悔い改めい。さもなくば、あんたら自身もあんたらのやってきた事はすべて灰燼に帰す。多数派に属して安心するな。多数派は滅びるからや。

五、ヤイロの娘の生き返り
上記聖句に「ペトロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネを除き、誰も彼(イエス)に付いて来ることを許さへんかった。」とあり、これは過去記事「千年王国の真実 後編」でも取り上げた聖句と同じようであり、特殊な場面であると気付かねばならん。主イエスがヤイロの家に入る際、「何故、喚き騒いで泣くんか。子供は死んだんやのうて、眠ってるんや。」と言わはったら、「人々は彼(イエス)の(こと)を嘲笑った。」という大衆の反応であった。なぜなら、大衆はこの世での死の意味を理解してへんからや。かような大衆を主イエスは「全員を追い払い、子供の父親、母親、彼(イエス)と一緒の者たち(先の三人の弟子)を連れて、子供が横たえられてる所に入りはる。」と淡々と為すべき事をしようとしはった。過去の聖句でも主イエスが群衆を追い払った事実を取り上げたが、ここでも同じである。主イエスは、信仰も無く、何も理解せええへん大衆なんかにまったく関心を持たず、邪魔やから追い払い、ごく限られた人だけを連れて主イエスは神の御業をしはった。
そして、主イエスがしはった事は、「(イエスは)子供の手を掴んで、彼女に「タリタ、クム」と言わはる。」ことだけであった。当該行動に神の御業が示されてる。この「掴んで」と拙者が訳した動詞は、「力を持つ」、「〜の支配権を持つ」という意味もある。物理的には手を掴んだだけやけども、その裏の意味は、あの娘を支配してた死を主イエスが掴み、主イエスが死の支配権を持つという事を表してる。イザヤ書二十五章八節とホセア書十三章十四節から、主なる神が勝利によって死に打ち勝つ、死から救済するといったことが分かり、当該預言を主イエスが実現させ、また、キリストの再臨時である世の終わり将来にも再度実現することを示してると拙者は解釈する。
主イエスは事前に「何故、喚き騒いで泣くんか。子供は死んだんやのうて、眠ってるんや。」と言わはった。これは、即ち、この世での死は眠りにつくだけであり、人生の完全な終わりではないことを示唆してる。しかし、何も理解してへん人々は主イエスを嘲笑したことから、復活を信じてへん不信仰者であることが分かる。主イエスは、この世は仮の世であり、この世の試用期間の人生を終えた後で復活し、律法遵守をして慈愛ある行いを生きてる間にしてた人は神から正しいと認められて天国に行って永遠の命に与り、不信仰者や律法違犯を改めへん人や慈愛ある行いをせえへん悪い人は地獄で永遠に苦しむことも教えはった。この聖書の真理を信じてへん人たちは、復活は無いと思い、この世で死んだら終わりと思ってたということになる。
また、主イエスは「恐れるな。ただ信じなはれ。」と言わはり、怖がったりするな(臆病にもなるな)、また、信仰を持つことが重要と付言もしはった。ここはほんまに軽く読み飛ばしがちやけども、ほんまにかなり重要な事が示されてる場面や。ここでも少女は十二歳であり、先の血の流出問題を抱えてた女が十二年間患ってたのと同じ数字であり、これもイスラエル十二部族を暗示してると思われる。黙示録でもイスラエル十二部族が神の民として書かれてることにも繋がるであろう。主イエスは、この世で死して眠りについた神の民として選ばれて終生信仰を保持したイスラエル十二部族を起き上がらせ(復活させ)、命を再び与える(後の世では永遠の命)という素晴らしい神の御業を示しはった。但し、永遠の命に与るんは、ごく限られた少数の神の民のみや。何遍も言うてるが、無神論者といった不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)、神への愛や兄弟愛も無い律法主義者等は救われへんであろう。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上