こんにちは。

 

今回は、真のキリスト者に相応しい姿と信仰について書きます。冒頭からはっきり言っておきますが、拙者は聖書を基にして真理を述べてるのであり、拙者の個人的な欲望、趣味、嗜好で物を言っているのではないということをご理解ください。もしそれが理解出来ず、曲解して、間違った誹謗中傷をする位なら当ブログを読まなくて結構です。もしあんたがそないな愚かなことを言うたり書いたりするなら、あんたがあんた自身を死に定めているようなものやさかい。

 

さて、これまでに複数の過去記事において、幾度か服装について言及してきました。それは世の悪人たちと同じ異国の服である洋服からの脱却をし、古代イスラエルの服装により近い和服(着物)に回帰して欲しいからです。誤解を避けるために予め断言しておきますが、拙者は和服販売等には一切携わっておらず、利権があるから勧めている訳では一切ありません。余計な勘繰りは無用です。拙者には世の人々が持つ酷い金銭欲、名誉欲、支配欲等の肉の欲はありません。拙者自身が洋服を嫌っている、西洋文化を嫌っている、西洋人を嫌っているというような差別的な理由からこのように言うのでもありません。そんなことは一言も言っていません。もしそういう風に捉えたり、拙者が差別主義者だといった偽りを吹聴している者がいれば、その者たちが拙者に対して悪意や敵意をむき出しにし、拙者を悪者のように仕立て上げるために嘘をついているだけです。ただ西洋文化のほとんどが聖書の真理に反するから、拙者は警告しているのです。万一、西洋文化が聖書に則って正しいのならば、拙者はそれを推奨したでしょうが、はっきり言って真逆に等しい程間違っているから、それから脱却するように申しているのであり、拙者が好き嫌いで物を言っているのではありません。拙者が述べていることは聖書に基づく客観的事実です。現代においては世界中のほとんどの人々が盲目的に英国や米国の西洋文化や人間の伝統や慣習に従っており、彼らの言葉である英語も広まって世界中で小学校から教え込まれるようになり、それが当たり前とまで思う程に酷く洗脳されています。二十一世紀の今、世界のどこに行っても洋服を着ていない人はいない位になりました。アフリカの一部の田舎やアマゾンの奥地等の未開の地を除けば、西洋文化に汚染されていない所はあまり残っていないでしょう。これは白人を中心とする欧米諸国による侵略の結果です。悪魔崇拝者の権力者たちや富裕層らが長年に渡り計画と実行を少しずつ時間をかけて遂行し、最終的に新世界秩序(NWO)という世界を統一する悪魔の考えに基づく施策の一つなのです。あんた方はそれに気付いていません。拙者が丁寧に教えているのに信じようともしません。あんた方は自分の頭で善悪を考えようとせず、悪い世俗社会や権力者や富裕層たちの言いなりになり、周囲に漫然と合わせ、映画や漫画等を見て影響されたり、ファッションモデルや俳優等の有名人らといった目に見える人の格好を真似しているだけです。ゴールドラッシュという金に目が眩んだ鉱夫のズボンであるジーンズ等といった米国発祥の服を何も考えずに着ているのではないですか。礼服と言えば、黒の背広を着ないといけないと思い込み、仕事着は肉体労働者ではない給与所得者は背広が基本と思い込んでいます。背広は英国から生まれ、米国で産業界に定着し、それを正式な服装と思い込まされているからです。そのような妄想と悪しき慣習を生んだのは日本ではわずか百五十年程前の明治時代から始まったに過ぎず、それ以前までの長い歴史では今ある価値観や習慣は日本に存在しませんでした。愚かな日本人たちよ、目を覚ましなさい。今の姿は本来あるべき姿ではないのです。前回記事「聖書に対する誤解と戦争犯罪」で明治時代になって従来の日本は滅んだと拙者が言ったのは、まさにこのことです。日本だけでなく、欧米によって開国させられたり侵略された多くの国々は独自の文化、言葉、習慣の大部分を失って、西洋文化に同化していき、例外なく堕落していきました。比較的最近まで鎖国していたブータンでもそれが顕著です。日本では、千八百七十二年に出された太政官布告によって平安時代から続いていた衣冠を祭服に限定し、直垂や直衣等を礼服としては廃止し、洋服を正式な服装と政府が勝手に変更しました。こうして皇室、貴族、政府上層部等の上流層は、欧米の富、権力、文明等に目が眩んで自ら進んで欧米とその背後にいるサタンに魂を売り、売国を進めて行き、和服を捨てて洋服を着始め、軍やその他公務員も洋服を強制的に着せ、欧米の傀儡である日本政府は日本人の一般人にも和服を捨てさせるように仕向けました。しかし、十九世紀後半の当時の日本では洋服はまだ広く普及しておらず、洋服店も少なく、それ故貧しい一般庶民にとって洋服は価格が高くて手がつけられないことが多かったので、従来通り和服を着ている人が圧倒的に多数でした。日本では明治時代から太平洋戦争終結までいくらかの一般庶民は和服を着ていた事実は知られています。日本は米国に敗戦したのを契機に、米国による間接統治が二十一世紀の現在まで続いており、欧米への劣等感やGHQが仕組んだ自虐史観を学校教育で日本文化とそこから見られるわずかに残った古代イスラエルの文化が西洋文化に劣ると日本人を洗脳して離れさせ、その結果日本人の間で洋服が広く普及し、今では洋服を着るのが当たり前になって、和服は何かの行事で着る物、和服販売や時代劇等という仕事上だけで着る服という位置付けに勝手に変えられてしまい、普段着として着る人は非常に少なくなりました。和服は洋服と比べて不便だ、周りに和服を着ている人がいないので浮くのが嫌だ等と思っている人は悪いこの世に洗脳されています。多くの人々が実際に和服を着たこともないのに先入観や思い込みで判断し、周りの目や評判を気にして間違った習慣に従ったり、芸能人らの真似事をしたり、富や社会的地位への誘惑から世のしきたりに従うが故に大切なものを失っていることに気が付かない哀れな人たちです。過去記事「正月と日本人の現実」でも申しましたが、服装は立派な文化の一部であり、独自性を示すものです。そのような重要なものを入れ替えられたというのは、侵略を受けてその宗主国の隷属下にあるということなのです。毎日洋服を嬉しそうに着ているあんた方は、英米の隷属下に置かれ、奴隷であることにも気付かないし、奴隷であることを認めることを拒否するし、奴隷の足かせの重さを自慢し合って喜んでいる本当にどうしようもない惨めな奴隷なのです。目に見える金属の鎖で繋がれる人だけが奴隷ではなく、あんた方は見えない鎖に縛られている奴隷なのです。また、憲法の話になれば、押し付け憲法だの、自主憲法を作ろうと言う自民党らの虚偽宣伝文句に騙される始末です。彼らが憲法九十九条違反をしながらもしきりに改憲と喚き散らすのは、米国が第三次世界大戦を始める前に日本に改憲してもらい、徴兵制を導入し、男女問わず日本人を自衛隊に強制的に入れて戦争に巻き込み、日本人を減らしたいために改憲の要望を日本側に出しており、それに米国の傀儡である日本政府と官僚が愚直に従っているからです。こういう事情を読めないで政府から圧力をかけられて報道規制をされているマスコミの言うことを鵜呑みにして信じたり、改憲されてしまったらどうなるかを自分の頭で真剣に考えようともしないし、最悪の事態の想定ができない日本人は愚か過ぎます。こちら(YouTube)が現代の日本の姿を正確に言い表しています。ドラマだけの話で終わらず、今起きている現実のことです。何故、政府や上級国民といった特権階級の人々に搾取されたり、酷い扱いを受けても何も言わないのですか。年金も将来貰えないのに強制徴収され続け、政府や役人らが私的流用したり、博打に使ったり、海外にばら撒いて消し飛ばして無くなったので日本国民に与えられないから支給年齢を引き上げることで誤魔化しています。日本の年金制度はとっくに破綻しているのですが、あくまでも日本国民から税金を搾り取るために制度を維持しているのです。もし年金制度を廃止すれば、既に納めた分を国民に払い戻しせねばならないからです。それ故、強欲な政府や公務員らは年金制度が破綻していることを絶対に認めようとしません。こちら(女性自身)でも分かるように、老後の蓄えを自分たちでしろと言う麻生太郎氏は特権階級の人なので、年金だけで生活できない庶民の貧しさを知らず、既に破綻している年金として国民から徴収したお金を払い戻しもせず、相変わらず国民が最低限暮らせる年金や生活保護も与える気が無いのに国民から税金を搾取し続ける日本政府や官僚に何故異議を申し立てて正義を訴えないのでしょうか。何故、行政に虐げられながらも愚直に従っているですか。何度も複数の過去記事で改憲の危険性を述べたとおり、米国の傀儡の自民党が改憲をしたがる本当の狙いは、ナチスを真似た半永続的な独裁権を合法化する緊急事態条項の創設と、平和主義・国民主権・基本的人権の尊重という日本国憲法の三大原理の廃止です。もし改憲が実現すると天皇を国家元首として国民が臣民となる戦前に回帰し、まともな日本国民は思想犯と不当に決めつけられて迫害されてさらに日本人が減らされていき、良心を失って独裁政府に忖度して媚を売る愚かで悪い者しか残らなくなって立ち行かなくなり、最後には国ごと滅びます。過去に古代イスラエルが古代ローマ帝国に滅ぼされたのと同じように。

 

あんた方はあまり考えたこともないと思いますが、衣服というのは、その人のすべてを表しています。不良が服装を乱すことからも分かります。だらしない男子学生は腰パンにしたりしています。貞淑さが無くだらしない女子学生はスカートを短くしたり、髪に加工を加え、化粧をします。これらはほんの一例に過ぎず、現代の洋服の制服についてですが、長い人類歴史の中でこんなに醜いことは過去にありませんでした。江戸時代の寺子屋では皆が和装で、人により様々で自由な服装でした。皆がまったく同じ服を着るということもしていませんでした。現代の学校の制服は、生徒らを没個性化し、全体主義、軍国主義のサブリミナル効果を生むための物です。実際、詰襟の男子の学生服は明治時代の海軍の軍服そのものです。ブレザー、トレンチコート等すべて西洋の軍服が由来です。学校ごとにデザインや色が違うから皆同じではないというのは論点ズレであり、各学校で統制して分業しているだけです。要するに、子供の頃から周囲の人と違って当たり前である個性を捨てさせられ、周囲の人々と同じような行動や格好をすることが当たり前だと思わされ、皆が同じ教育を受け、教科書に書かれていることや教師の言うことが正しいと信じさせられ、偏差値の高い有名大学に入ったり、社会的地位のある職業のために有利な資格を取るという無駄な目標を持たされ、受験で他人と競ったり、考えることをせずに詰め込み暗記と間違った嘘だらけの科学や歴史を自慢げに語る愚民を増やし、同じような考え方や価値観を持たされ、それから外れた人をいじめたり、おかしい人扱いして迫害するのです。このような学校教育や世間の考え方を洗脳と言わずして何と言うのでしょうか。偏差値が高い人は自分たちが頭が良いと勝手に自惚れていますが、実際はこの悪い世の洗脳度が高い人でしかなく、良心や正義を求める心がなく、柔軟性や臨機応変の対応ができず、教科書や参考書どおりの知識しかなくそれらが正しいと盲信する愚かな人に過ぎないのです。そんな人たちが国家公務員という所謂キャリア官僚になって中枢機関にいるから、日本が破壊され、売られ、潰されるのです。海外でも制服を導入している国は多少あり、それもシャツ、ネクタイ、ブレザーといった洋服ばかりで西洋文化に汚染されていると言えます。日本を間接支配する米国では中学校や高校も私服が多いです。米国は自分たちの隷属国家の人々には制服を押し付け、自分たちは自由という矛盾を無視し、差別をしています。しかし、最近の米国は学校名のブランドを上げるために制服導入をし始める所も出てきているようです。結局、金銭や名誉のためなのだと思わざるを得ないです。制服は学校の命令で生徒たちに着せています。それを着ないで学校に来てはならないということです。刑務所では囚人に囚人服を着せます。また、上述したように、欧米の傀儡になり下がった明治時代の日本政府は洋服を正式な服装と法令を出して和装の日本人に命令して変えさせました。このように、衣服は支配の道具になるし、人が属している所を表しているということです。就活中の大学生や専門学生らは、市販の就職本やネット記事等を参考にして、皆が白シャツで濃紺や黒の背広を着込んで同じ様な服装をし、同じような髪型をし、同じような革靴を履き、同じような鞄を持っています。皆が同じような格好をしているのは、はっきり言って気持ち悪いです。北朝鮮のことを笑えない位日本社会も十分気持ち悪いです。統一教会や日本会議らといったカルト宗教信者で偽日本人が多い安倍内閣が独裁をしており、野党も反発する振りをするだけで協力して日本を破壊して日本人を迫害しているので、日本はかなり北朝鮮化してきました。テレビ報道は政権に不都合なことはすべて規制され、独裁政府がした悪行を隠蔽し、悪政や悪法を肯定的な文言にすり替え、悪人や不義を持ち上げる内容ばかりで、芸能人らも独裁者と食事を共にして忖度を誓っています。そういう人らしか稼げない、生きていけないような状態になっています。何故あんた方は世のおかしさに気付かず、気付いても行動せず、無意味な人間の言い伝えやしきたりに縛られて生きているのか。それはNWO支配層の家畜として支配されているからです。こちら(YouTube)とThey live(ゼイリブ)という映画でも見て目を覚ましなさい。あの映画では暴力的な描写があり、暴力行為を働くのは賛同しませんが、大衆がテレビや政府等に騙されて何も考えずに生きている、警察は権力者の犬でありそれ自体が犯罪者の組織でもあり、本当に悪い権力者や富裕層の犯罪者を捕まえず善人を捕まえるために動き、世の中は一部の者が富と権力を牛耳っている悪人によって支配されていることは事実なので、その辺は参考になるでしょう。その映画では特殊なサングラスで世の真の姿が見えるという描写ですが、実際は聖書と聖霊こそがその役割を果たします。サングラスなんていう世の物は実際は真実を見極めるのには役に立ちません。あんた方の殆どは知らない内に自ら奴隷よりも悪い家畜となるために生きているのです。拝金主義で外資に売国を尽くす経団連、政府、官僚、マスコミ、御用学者、芸能人らの言うことばかり聞いているから、あんた方も彼らと一体になるのです。あんたは自分は違うと言い切れますか。何故ですか。背広を着て会社や役所に勤めておきながら、そうではないと何故言い切れるのですか。仕事だから仕方がないと言う人がいるでしょうが、では何故その仕事に固執するのでしょうか。他にも仕事はありますし、洋服なんか着なくても仕事はできますし、生きていけます。洋服を着ないと死ぬとでも言うのでしょうか。それこそおかしな思想であり、おかしな社会です。洋服でなければいけないなんていうのは、人間が勝手に決めた規則であり、世の人々は何も考えが無く、信仰も無いので人間の規則で縛られているに過ぎません。結局、そういう人たちは金銭や社会的地位等を保持してこの世俗にしがみついて生きるのが一番の目的なのであり、主イエス・キリストに従おうとせず、神の律法、掟、戒めを守ろうとは少しも思わず、自分を捨てられないから仕事も衣服も生活様式も変えることを嫌がるのです。もしキリスト者と自負しながらもそのような調子で信仰前の生活から何も変えないならば、そのような人は主イエスから後で知らないと言われる自称キリスト者や。時代に合わせて服装を変えるべきだなんて思うのは間違っています。そうやって世に合わせて神に従わない人は、いずれ獣の刻印を受けるでしょう。何故あんたは神の律法、掟、戒めよりも世俗のことを優先させようとするのか。それはあんたに神への愛が無いからです。神とサタンのどちらに従うのかと二択しかないのに、多くの人々は保身のことばかり考え、世に従うことでこの世の支配者であるサタンに間接的に従い、悪魔崇拝者の人間たちが作り上げている秩序に従うことで恩恵を受けようと思っています。それ故、庶民の多くは権力者と同じような服装をし、同じような金銭欲、世間体の維持や社会的地位等の名誉欲を持っているのです。日本人には参加が許されないNWO支配層の会合と悪名高いビルダーバーグ会議に出席する人たち、大企業経営陣の富裕層たち、ハリウッド映画に出る人、テレビドラマに出る人らの服装をよくご覧なさい。彼ら彼女らが着ている物は何ですか。男性は背広をはじめとする洋服で、女性はドレスをはじめとする洋服です。その中に誰一人として地味な和服(着物)やそれに似た衣服を着ている人はいません。天皇や皇族は和服を儀式の時にしか着ませんし、普段着としては着られていませんので着ているうちに入りません。彼ら彼女らの闇も知るべきです。あんた方がテレビや報道機関のネットニュース等を通して見ている彼ら彼女らは偽り者であり、影武者も多数おり、すべて欧米のNWO支配層の部下でしかありません。この世のおかしさに目を向け、世を疑いなさい。何故、あんた方は世の支配者といった悪人や著名人の真似をして喜んでいるのか。何故、それらに対して違和感を抱かないのか。権力者や富裕層に憧れたり、媚びたりして、多数派の大衆に溶け込んで安心していてはいけないと過去にも何回も申したとおりです。それでは滅びます。

 

にわかキリスト者は、主イエス・キリストの御言葉を曲解したり、世俗的な人間の都合の良いように解釈及び適用し、自己中心的であり、自分にとって都合の悪い部分には従わないので気を付けましょう。にわかキリスト者は、主イエスの「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6:31)という御言葉を悪用します。もう何度も注意したとおり、にわかキリスト者は文脈を無視して一部だけ抜粋して正しいように見せかけるからです。この手法は、荒野で主イエスを誘惑した時の悪魔の手口そのものです。だから、にわかキリスト者らは悪魔の子なのです。にわかキリスト者は、聖書の言葉の趣旨を無視しているのです。上記聖句だけを抜粋して見せられれば、着る物なんて何でもいい、どうでもいいんじゃないかと思わされます。それこそが欺瞞なのです。しかし、実際は衣服はどうでもいいという意味ではないのです。31節の頭に「だから」とあります。その前に説明があった上での結論という訳でこの言葉があるのです。こういう細かい点を無視しないようにしてください。国語力が無い人というのはこういう点に気付かない人、無視する人です。そして、31節以前の説明で、特に29節の「栄華を極めたソロモンでさえ、これら花々の一つほどにも着飾っていなかった。」という箇所を踏まえて主イエスは衣服について思い悩むなと仰ったのです。この「着飾る」という言葉ですが、これは何を着れば格好いいか可愛いか等ということを考え、数多くの選択肢から時間や手間をかけて選んで着るということです。外見が良い服を探すためにあちこちの店を見回ったり、鏡の前に立って、似合う、似合わない、格好良いか悪いか、どの組み合わせが合うか等と悩むことが不要ということです。しかし、ぼったくる店で買う必要はありませんし、少しでも値段が安い所を探すというような努力は問題なく、目的と動機が問題です。他人にどう見られるかを気にして何を着ようかと思い悩むなという戒めを主イエスがなさったのであり、衣服が何でもいいという意味では決してありません。拙者の説明を聞いてもなお反抗して主イエスに従わないと思うならご自由にしていただいて構いませんが、その報いは自分で刈り取ることになることは覚えておきなさい。自分の行いはすべて自分に返ってきます。また、預言者ゼファニヤも以下のとおり書き残しています。

 

旧約聖書 ゼファニヤ書 1章8節(私訳)

主のいけにえの日が来れば

わたしは、君主たちと王の子らを

また、異国の服を着るすべての者を罰する。

 

上記のとおり、異国の服を着るすべての者は主なる神が罰すると明確に述べられています。また、服を行いに例えられ、悪い行い(律法違反の行い)をしているという裏の意味も含みます。このような裏の意味もあるのは拙者は重々承知しています。要するに、両方の意味で考えて従う必要があります。割礼は肉にするのではなく、心に霊的割礼をすることこそが重要とローマ2章に書かれています。そのように旧約聖書の文字どおりの意味と異なった律法については必ず新約聖書に説明があり、説明がないものは今も文字通りに従うべきものです。律法を裏の意味だけで捉えようとし、文字どおりに受け取ろうとしない人が一部でおり、そのように律法を解釈する人は偽り者です。律法をすべての裏の意味で解釈することは間違いです。偶像礼拝の禁止を裏の意味だけで取れるのでしょうか。否であり、文字どおりも含みます。第七日の安息日を聖別して守る規定を裏の意味で取れるのでしょうか。否です。父母を敬うという掟を裏の意味で取れるのでしょうか。否です。隣人のものを欲するなという掟を裏の意味で取れるでしょうか。否です。性的倒錯の禁止を裏の意味で取れるでしょうか。否です。では、服装規定も同じではないでしょうか。申命記22:5にある男が女装をするのと女が男装をするのを禁じる掟を裏の意味に取れるのでしょうか。否です。それなのに何故、服装に関して文字どおりではないとするのか。そんな解釈をする者は自分が世に属していることを言い表しています。異国の服は神の律法に違反した服装だからであり、悪に染まっていることの証拠だからです。では、どの服装が違法にならないのでしょうか。それは古代イスラエルで着られていた服装、及び、神の律法に則った服装です。ただし、主イエスの十字架の贖いによって祭司制度は不要になったので、主イエスが天の大祭司となっておられるので、もはや祭司服は不要です。キリスト者は祭司服を作ったり、着る必要はありません。ましてや大祭司の服装を真似るなんてことがあってはなりません。祭司服にも律法で細かく規定され、一般の人の衣服の縁に房を付けるように命じられた主なる神ですから、やはり衣服がどうでもいい、何でもいいなんていうのは有り得ず、最低限のことは守らないといけないのです。聖書全体を読み、さらに古代イスラエルの影響があって現代にまで残る古代イスラエルの痕跡を辿れば大体は誰にでも分かります。過去記事「古代イスラエルと現代イスラエル」で述べたとおり、日本は現代イスラエルです。日本の古い装束を見れば、神の律法に合致している点が見つかるのです。狩衣、水干、格衣、浄衣等の縁には房を付けていますが、これらはすべて男性用の衣装なので女性は着てはなりません。女性は小袖等といった女性用の装束を身に着けるべきです。房については以下の律法のとおりです。

 

旧約聖書 民数記 15章38節(私訳)

イスラエルの子らに告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の縁に房を縫い付け、その房に青い組紐を付けさせなさい。

 

旧約聖書 申命記 22章12節(私訳)

身を覆う衣服の四方には房を付けねばならない。

 

民数記の規定に則るかのような服を着る神道の神官らは房の意義を把握しておらず、ただ伝統に従っているだけです。しかし、これは明らかにモーセの律法に則ったユダヤ教の名残りなのです。何故ユダヤ教の名残りが昔から日本にあるのかと言えば、拙者が過去に古代イスラエル人が日本に渡来して定住したからだと述べたとおりです。服装の他にも神社の造りもモーセの律法にある幕屋の作り方に酷似しているし、御輿は契約の箱から転じた物ですし、日本語と古代ヘブライ語の共通する言葉、DNAの特殊性等、古代イスラエルと日本の共通点は挙げたらキリがない程多いです。そして、これらの掟は主イエスの十字架によって実体を失っておらず、廃止されてもいないので、今も効力を有するものです。主イエス御自身も律法を守られたので、民衆が主イエスが身に着けていた衣服の縁、房を触ったという記述が新約聖書にあるのです。現代の洋服には縁と呼べる場所が無く、洋服の細い袖口なんてわざわざ触る物ではありません。洋服の半袖には袖すらないし、長袖でも細いので袖口を触る位なら、直接手や体を触れたでしょう。ですから、現代の洋服の袖口を指すことは有り得ませんし、主イエスは洋服を身に纏われなかったことが分かります。本当のイスラエルはアジアであり、西洋ではないので当たり前です。そして、主イエスの弟子たちも同様です。ゲツセマネの園で主イエスが逮捕される際、予めイスカリオテのユダが接吻の合図を用意したように、外見だけでは弟子たちとほとんど見分けがつかないことから、皆が同じような袖の長さがある程度あって房も付けて衣服を着ていただろうということは分かります。洋服の長袖は腕に沿ったもので極度に短いのに対し、着物袖の長さは平均50cm程あるので、他人が触る余地が大いにあるからです。だから、拙者が和服を勧める理由は、主イエスもお召しになった古代イスラエルの服装に近いからであり、神の律法を守るのに最適だからです。当時の古代ユダヤ人が着ていた衣服が古代ギリシアのキトンと言う者がいるようですが、古代イスラエル、古代ユダヤでは使われていないし、房を付けられる形状ではないので間違いです。また、古代ローマ人はトガという衣服を着ており、西洋人が作った映画や絵画ではこれらの描写をしているものがありますがいずれも神の律法を守っていない服装なので間違いです。古代イスラエルはアジアであり西洋ではありませんので、西洋的な物しか頭になく歴史認識を間違えている西洋人には主イエスや直弟子たちを正確に描写できるはずがありません。そもそも直接見たこともないのに、妄想で絵画を描いたり彫像を建てること自体が偶像を造っていることになり律法違反ですし、それらを見て主イエスや直弟子たちの姿が絵画や映画のとおりの容貌なのだと信じ込む大衆も愚かであり、偶像礼拝者です。しかし、和服と言えども、律法どおりの方法で房を付けないのなら律法違反なので無意味になり、神の目には洋服を着ているのと同じです。だから、異教徒や不信仰の者が和服を着ようとも無意味なのです。彼ら彼女らはただの趣味や嗜好で着たり、観光の一環で借りて一時的に着たり、仕事で身につけているに過ぎないからです。何かの行事等で着るのではなく普段着として毎日着て、それも自発的に行い、主イエスに対する信仰を持って正しく着なければ無意味です。主イエスに対する信仰を持って真心から共感できずに無理やりこれに従うならば律法主義になるだけなので、にわかキリスト者たちには推奨しません。律法主義については過去に説明済ですが、律法を守ること行為自体が律法主義ではなく、神への愛や信仰を蔑ろにして律法遵守のみで自分を義として救いを得ようとする思想のことを指すので、勘違いしないようにしてください。にわかキリスト者は律法主義の意味を理解していないし、あらゆる言い訳や曲解を基に反発して拒絶するでしょう。上記の規定はそれぞれ別物です。民数記の規定は、普段着の衣服の縁に青い糸を使用し、組紐で作った(編む行為が必要で、ただ紐を垂らすタッセルという飾り房等ではない)房を縫い付ける必要があります。しかし、申命記の規定は青い糸という指定がなく、身を覆う衣服とあり、これは即ち外套(マントのような形状)のことを指します。外套の四方に房を作るということです。他方、民数記にある房の規定が狩衣、布衣、水干、格衣、浄衣等の和服の一部に見られます。しかし、これらの既製品は白い糸か紫の糸を使用する場合が多く、青い糸は使用されていません。青い糸を使用していなければ無意味ですので自分で青い糸を少し縫い足さねばならないでしょう。既製品の長着や浴衣等も最初から房は付いていないので、自分で袖の縁に青い糸を用いて房を縫い付ける必要があります。また、例えば、狩衣は袖口の長さが平均70cm程度あり、非常に長いです。これ程の長さがあると確かに日常的な用事や家事にするには邪魔になり不便です。袖口の長さが通常より20cmも長くした狩衣といった古代日本の貴族が着たように袖を大きくするのは、主イエスが「(ファリサイ派や律法学者らが)衣服の縁を大きくする」(マタイ23:5私訳)と非難されたとおりなので、控えるべき服装です。自作して普通の長着の袖と同じ位にするなら話は別ですが。新共同訳では房を長くするとありますが、正しい底本のKJVでは異なっており、私訳した意味のとおりです。即ち、縁に当たる袖口の長さを大きくすることを意味し、ついでに房の長さも長くしたことでしょう。ファリサイ派や律法学者らがそうする理由は、人に見せつけるためと主イエスが述べておられます。つまり、これ見よがしに袖口の長さを大きくしたり、房を長くするのが彼らがしていることだと仰っているのです。女性着物の一つである振袖も袖が85cm~100cmと非常に長いので、キリスト者には相応しくないです。要するに、動機が大事ということであり、また聖書の記載どおりに守ることが重要です。人間の勝手な判断や解釈で律法に付け足しても、削ってもいけないのです。マタイ23:1~3で主イエスが仰ったとおり、ファリサイ派や律法学者らが守って行うように言うことは正しいので言うことを守って従うべきだが、彼らの口先だけで実行しない点と、自分たちは守らないが他人にだけ律法遵守の負担を負わせる点は見倣うなと注意されておられます。世のにわかキリスト者は律法学者やファリサイ派が一律間違った信仰を持つ人たちの代名詞かのように思い込み、反対者をそのように呼んで誹謗中傷しますが、実際は間違っており、にわかキリスト者こそ現代のファリサイ派のような者です。なぜなら、にわかキリスト者は聖書を曲解して偽りの教義を吹聴して騙し、自分たちが天の国に入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせないようにするからです。過去のファリサイ派や律法学者らが人々にモーセの律法を守るように言っている点については間違いではなく、モーセの座に着いているとまで主イエスは仰り、彼らをある程度認めておられるのです。だから、主イエスは「言っておくが、あんた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あんた方は決して天の国に入ることができない。」(マタイ5:20)とも述べられているのです。このことは過去記事「千年王国の真実 後編」や「主イエスを模範として従う生活」で既に説明済です。だから、律法廃止論を信じたり、人間各自の勝手な思いで守るべき律法を取捨選択したり、偽教師や偽預言者の耳触りの良い作り話に惑わされたり、ネットで気が向いた時だけ他人と会話するだけで基本は一人でも信仰を保てると思い込む高慢な者、地上の諸教会、諸教派といった人間の教えに従っているにわかキリスト者らは、ファリサイ派や律法学者の義にも劣るのです。過去のファリサイ派や律法学者に劣らないようにするには、主イエスの信仰によって自ら律法遵守を行いできちんと示し、それを他人にもするように伝えることが肝要であり、そうしてこそ真のキリスト者と言えます。衣服の縁の話に戻しますが、通常の着物である長着は上述したとおり袖口の長さが50cm程度なので長過ぎる訳でもなく、たすき掛けをすれば料理、洗濯、掃除、トイレ等の日常生活には何ら支障がありません。昔の人々はそれで生活していたのですから、和服を着て生活できないなんて言い訳は通用しません。不便等と言い訳や文句を言って悔い改めようとしない人は、神に敵対する肉の思いと欲にまみれ、世に属している証拠です。なぜなら、そのような者は利便性や世間体を最も重要視し、神の律法、掟、戒めの遵守を蔑ろにしており、何をしても良いと思っている人間は真のキリスト者では有り得ません。もし、危機感を抱いたならば、少しずつでもいいので変えていきましょう。今すぐにでもやれと脅迫のように言っているのではありません。しかし、時は待ってくれませんので、できるだけ早く改善するのが良いでしょう。重要なのはそのように素直に悔い改める心と行動です。聖書の真理への反発は悪魔と悪魔の子がすることです。人間各自が周りを気にするのをやめて自発的に変えようと思わなければ何も変わりません。たとえ頭では理解してもいつまでも行いを変えない人は、それは不信仰の者と同じです。ヤコブの手紙にあるように、行いが伴わない信仰は死んだようなものだからです。また、黙示録で何度も繰り返し言われているとおり、主イエスは再臨時に人間各自の「行い」に応じて報いられることを忘れてはなりません。

 

これらの話をすると律法主義だの、行いで救われるのではない等と論点ズレの無意味な批判をする者が必ずおり、また、拙者の主張を他人に強制していると間違った被害妄想をして誹謗中傷をしたり、歯ぎしりをして敵対するファリサイ派より悪い精神を持つにわかキリスト者が一定数いますが、そういう人らは勝手に自分が信じたいように信じていれば良いでしょう。「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」(ヨハネ一3:4)を知らない無知な人か、知っていて故意に無視して違反している悪い人たちであり、主イエスが律法を廃止するために地上に来たのではないと仰ったことを否定しています。つまり、にわかキリスト者らは主イエスの教えに留まらない反キリストであり、肉の思いで世俗に執着して生きており、神の律法に従い得ないのは当然だからです。結局彼ら彼女らは、信仰を趣味かのように考え、この悪い世の中の価値観や生活に従うことで世の友になっており、無意味に「主よ、主よ」と言いながら神に敵対しています。にわかキリスト者は神の義が示された律法に従うよりも、サタンが支配するこの世のしきたりや慣習に従っているからです。不信仰の者や異教徒は論外にしても、主イエスを信じると言いながら主イエスの教えに従わず、自分に都合の良いように聖書を曲解したり、現代の生活に不都合な部分を意図的に無視する等の悪事を悔い改めないなら、同じく滅びるでしょう。主イエスは二度も繰り返し「言っておくが、あんた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13:3,5)と仰っています。悔い改めないのは行動で示さないことで、衣服を見るだけで悔い改めていないことが誰の目にも明白です。極めて金銭的な余裕が無い、または自分で何も判断できないような精神的な問題を抱えているのが原因といったやむを得ない事情により神の律法に適う衣服を入手できない人たちを除けば、神は憐れみをくださらないでしょう。入手して着ることができる人はすべきでしょう。入手して着ようと思えばできるのにしようとせず、そのための言い訳をいくら積み上げても、いくら自己弁護しても無駄です。神の律法違反である事実は明らかであり、裸の恥を晒しているに等しいのです。拙者は和服だけが唯一神の律法に則る物とまでは言っていません。ただ和服(着物)が古代イスラエルの服装に近いし、日本人に馴染み深く、また神の律法を守り易い素材であるということで推奨しているだけです。日本と同じく古代イスラエル人のDNAを持つブータンやチベット等も着物に似たような服装を古来より持っていることからも疑いようのない事実なのです。しかし、彼らの現在の民族衣装は時代の移り変わりの中で異教の悪影響や時の権力者の規制や迫害を受けて無くなった部分もあり、現存する民族衣装が一世紀当時より不変とは言いません。拙者は何の根拠も無いことを言っているのではありません。しかし、洋服と既製品のままの和服は、神の律法に反することはお分かりいただけたと思います。前回記事「聖書に対する誤解と戦争犯罪」でも申したとおり、各自が自分流に主イエスに従うのは誤りであり、神の御指示どおりに守らねばならないのです。拙者が宣べ伝えているのは、聖書に書かれている神の御指示どおりのことを説明しているに過ぎません。拙者は拙者の勝手な思いつきで言っているのではありませんし、ファリサイ派や律法学者のように口先だけで実行しないのに他人に重荷を負わせる者でもありません。実際、拙者自身が実行しているから言っているのです。拙者はあんた方に和服を強制している訳ではありません。聖書の真理と神の律法の観点から述べているだけです。もしあんた方がその通りだと思うならそうすべきだし、そう思わないならあんた方の勝手にすればいいだけで、わざわざ陰口を叩くことではありません。何度も言いますが、信仰は自発的な行いが伴わねばならず、強制によるものではありません。それ故、従うか否かの選択の自由があるのですが、悪い選択をするならその結末も刈り取ることになるということは頭に入れておきなさい。神の律法を守ることは極めて当たり前のことなので、律法遵守のみでは義とされないのは聖書にも書いてあるとおりです。神の律法を守ることが当たり前で特別偉いのではないし、それだけで義とされるのではないのと一緒です。ただ神の律法、掟、戒めを守っていない、反発して拒否する者が異常なのであり、その数が非常に多いのです。神の律法を守らない者は不法の者、罪人、罪の奴隷であることも聖書が示していることです。キリスト者であってもそれは変わらず、信仰に入ってからも口先だけで「主よ、主よ」と虚しく言い続け、信仰を趣味のように捉え、地上の諸教会に所属したり時々通う程度で満足し、生活の仕方や言動等を変えようとせず、真心から悔い改めず、十字架を盾にしさえすれば何でも許されているのではありません。かえって、そのような悔い改めないにわかキリスト者は主なる神を冒涜しているので、不信仰の者と異教徒よりも格別厳しい裁きがなされます。

 

また、コリント一11章でパウロが教えているとおりに、キリスト者の女性は長い髪を持ち、かぶり物をしているのでしょうか。現代でキリスト者の女性でかぶり物をしている人を見たことがありません。欧州も中世頃までは多くの女性がかぶり物をしているのが普通でしたが、今では米国文化に染まり、まったく見ない程です。野球帽のような英語でcapと言うような帽子をかぶる女性は少しいるようですが、拙者にしてみれば、やはり周囲の目線を気にした結果にしか思えません。野球帽のような帽子は昔からあった物ではないからです。野球なんて一世紀当時は存在していませんでしたし、米国のスポーツです。かぶり物で分かり易い例えを言うなら、イスラム教徒の女性がするようなものです。顔まで覆う必要性はないですが、野球帽なんかではなく、そういう布の生地をかぶるべきではないでしょうか。パウロは、女が何もかぶらないで神に祈るのがふさわしいか自分で考えなさいと述べています。また、「長い髪は、ひとつのかぶり物として女に与えられているからです。」(コリント一11:15私訳)とあり、新共同訳の言う「かぶり物の代わり」ではありません。だから、女性は髪を長くしてさえいればかぶり物は不要ということではないのです。仮に長い髪だけでかぶり物としての役目をまっとうできるなら、このような戒めを言う意味がないからです。祈りや預言をする時に髪の毛は都合良く伸びたりしないことからも、髪がかぶり物の代わりにはなり得ないのは明らかです。女性が祈る時はかぶり物が必要なのですから、過去記事「古代イスラエルと現代イスラエル」でも説明したとおり、絶えず祈るべきと聖書にもあるので、常にかぶり物をしているべきです。たまに祈る時だけ、人目につかない時だけかぶるというのはまだまだ信仰が薄い故の行いだと言わざるを得ないです。パウロは自分で考えなさいと述べているとおり、女性各自の自発性を求めています。他人の目や評価を気にしてかぶり物をかぶることを厭う女性は、その人が現代の世俗に心を奪われており、価値観が天にあるのではなく世にあるのは明らかです。イスラム教徒の女性は異教ながらもその信仰によってかぶり物をし、行いで示しています。キリスト者と自称する女性たちの行いはどういうものですか。異教徒よりも悪いと自覚しなさい。拙者が上述してきた衣服についても同様です。どのように言い訳や誤魔化しをしようとも無駄であり、聖書の真理に対する反発は偽りの霊から出る狂った精神の現れです。

また、女性が男性のように髪を短くするのは論外です。そして、男性が女性のように髪を長くするのは恥です(コリント一11:14)。衣服だけでなく髪についても男女において差は明確であり、守るべきことです。だから、西洋の画家が描いた長髪のイエスの肖像画や西洋人の俳優が演じているイエスの姿はすべて白人の顔、長髪、西洋の服装であるので、これらすべてが聖書の真理に合致していないので、間違っていることが明白です。それらを見て間違った偏見を持って騙されないようにしてください。それらの偶像を信じている者は偶像礼拝者です。このような聖書の真理を愛さない者たちを避けなさい。

男性も同様ですが、特に女性は露出の多い服装を控えなさい。他人の肉の欲、目の欲を掻き立てるような服装をしたり、そのような行いをする者は真のキリスト者ではありません。主イエスは情欲を持って女を見る者は心の中で姦淫をしていると教えられました。そういうことをする男が罪を犯しているのは言うまでもないのですが、それと同時に場合によってはその要因を作った女も幇助犯であり同罪です。婚姻関係にある夫婦間以外の性交渉が男女共に罪を犯しているのと同じで、片方だけが罪を犯すということになりません。例えば、女性が肌を多く露出する服装をしたり、体の線を強調するような服装をするなら、そのような女は意図的に女の性的魅力を全面に出しているので男の性欲を唆しています。もし女性がそのような服装をしなければ男性も目を向けて情欲を抱くことがないからです。もし女性が慎ましい地味な身なりで肌の露出も無く体の線も見せない服装をし、女性側にまったく落ち度が無い状態にも拘らず男性が情欲を抱いて見るなら、その場合は男性だけの問題になります。このように、場合によっては罪を犯した本人だけが裁かれるのではなく、それを誘引したり唆す者も同罪です。人間の刑法でも教唆犯として正犯と同じ罪を負います。古代イスラエルの王ダビデは姦淫をした人妻を自分のものにするためにその夫を戦地の最前線に送って戦死させたのも直接自分で手を下した訳ではないですが、殺人の間接正犯で殺人の実行犯と同じ罪を負いました。それ故、直接姦淫の罪を犯さないだけでなく間接的にも犯さないように、自分が着ている衣服にさえ気を配りなさい。過去記事「現代の世俗化と真のクリスチャンの生き方」でも引用したように、女は慎み深く地味な装いをすべきであり、貴金属や真珠や高価で派手な衣服をまとって着飾るべきではありませんし、化粧をしたり、髪を編んだり染めたりパーマやアイロンをあてるべきではありません。そうやって外側だけを一生懸命に手入れしても、心が汚く、行いや言葉も悪いのならば無意味です。むしろ、外側を綺麗に装うのに熱心にお金や時間を費やすより、善い行いで身を飾るようにとパウロは教えています。これを実行できていない女性が、キリスト者と自称している中にも非常に多くいます。男性も同様であり、首を締めるだけで無意味な背広をはじめとする洋服から脱却して、神の目に正しい服装をしなさい。また、男女共に、何の役にも立たない肉体に固執せず、肉体美を追求するのは無駄なことであり、世に属する人間のする業でしかないので筋力トレーニングに励む必要もなく、スポーツなんかも必要ありません。肉体なんて年を取れば衰退するのは不可避なのですから。健康のため、また最低限の体力維持のために適度に体を動かすことはいいでしょうが、激しくしたり、そのことに時間と費用を多く費やすのは無駄です。

 

(後編に続く)