こんにちは。

 

今回は、正月と日本人の現実について書きます。

 

まず正月について述べます。西暦が2019年になりましたが、あなたがたの多くが西洋文化に洗脳され過ぎていることを理解してください。私は西暦でいう年末年始だからといって何も特別なことをしません。新年明けましておめでとうと言うことすら憚られます。これを西暦の1月1日やそれ以降に会った人にそのように挨拶しないと無礼だと怒るのでしょうか。そう言う人は西洋文化に洗脳されている人です。テレビや周囲の人々がそう言うからとあなたも同じように流されて言うようでは困ります。西暦は文字どおり、西洋の暦であり、今採用されているのは明治時代に欧米に合わせるために導入した太陽暦で、グレゴリオ暦という過去のローマ教皇の名が付いた暦だということを知っているでしょうか。もし、西暦の1月1日に新年だとか、正月だと思っているのだとしたら、ローマ教皇の秩序に従っていることになります。これがどういうことか私が既に過去に述べたとおりです。聖書的な正月をお教えしましょう。

 

旧約聖書 出エジプト記 12章2節

この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。

 

上記聖句の後の文脈から、過越の話があり、過越祭がある月が年始の月であり正月というのが聖書を通して主なる神が私たちにお教えになっています。過越祭は、西暦で言えば暦のズレから毎年日付が少し変動するのですが4月に該当します。ですから、聖書では4月が年始なのです。この点、日本では4月始まりで3月終わりの周期が学校でも会社の決算でも多いですね。この周期を用いるのは古代イスラエルの名残りのように私には思えます。欧米人は学校は9月始まりで、会社等は1月から12月の周期で古代イスラエルや聖書との関連性は見られません。また、シオニストや改宗ユダヤ教徒に過ぎない本物のイスラエル人ではない者たちが建国した現イスラエル国家にいるユダヤ教徒らも9月を正月扱いしていることから明らかに古代イスラエルとは無関係であり異質なのが明白です。なお、日本で正月に餅を食べる風習がありますが、これも過越に食べる種無しパン(薄くてパリパリして膨らみがないパン)をお米に変えただけのことです。ヘブライ語でマッツァという種なしパンが転じたのが日本の餅です。古代イスラエル人が日本列島に移住し、稲作が盛んになったので餅を代替としたのでしょう。薄い餅を焼いて食べれば、パリパリして種無しパンに似た食感です。このように、現代の日本人は聖書どおりに守っていないですが、正月に種無しパンを食べる風習は形を変えて残っているのが分かります。過去にも私は日本と古代イスラエルの関係について述べてきましたが、日本が現代のイスラエルであることは否定できないでしょう。

 

さて、これまでに聖書の内容だけに限らず、何度も日本や日本人について語ってきましたが、私は本当に理解できていない日本人が多い印象を持っています。なぜなら、日本人が自分たちが住んでいる国の実情、単一民族ではなく多民族国家という実態を理解せず、愚かな思い込みや悪習を頑なに直そうとしない頑固さ、本当の歴史や文化等をまったく理解していないし、学校教育やマスコミ報道の嘘について真剣に考えようともしないし、私が色々と教えても素直に受け入れて実際に行動として変えていない人が多いからです。その関心の低さはアクセス数を見ても歴然と私は見て取れます。一年前よりあまり変わっていません。日々それほど人数に変化はなくほぼ一定であり、大体いつも同じ人が読みに来られているという状態です。私の伝道内容に反感を感じたり、正しい信仰者になるよりも世に傾いて消え去った人の代わりに新しい人が補充されているといった状態です。現在当ブログを閲覧しにいらっしゃる人も正しい信仰の実を結ばない人はやがて消え去り、またその代わりに補充されることの繰り返しがしばらく続くのかもしれません。聖書を読んできちんと研究して正しい信仰生活をする人は決して爆発的に増加するということがなく、やはり神が御計画されている神の民の定員というのは決まっているのだと実感している次第です。これに関連する聖書の箇所としてはローマの信徒への手紙11章をお読みいただければと思います。過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」でも引用して説明したことがあります。各クリスチャンは主イエス・キリストという根に繋がる枝です。しかし、一度繋がったからと言って安泰ではありません。本人は繋がったつもりになっているだけで実際は繋がっていない人もいます。たとえ繋がった人でも成長することを怠ったり、口先だけで行いが伴わず、一向に悔い改めず、信仰によって神の律法、掟、戒め、創造の秩序を守らないで腐り始めた枝は、腐ることをやめないなら切り取られるだけなのです。救いを失うことはないと大言壮語する律法廃止論者のにわかクリスチャンが存在しますが、これは確実に欺瞞です。救いが絶対ならば切り取られる可能性に言及するのは矛盾するからです。根拠はこのローマ11章だけでなく、マタイ25章の役に立たない僕が暗闇に追い出される等と他にも多くあります。神は愛だとだけ信じて、神の厳しさや義や秩序を重んじる側面から目を背けないようにしてください。そうでなければ、聖書を部分的に信じたり、自分に都合の良いように私的解釈して、道を外れて滅びることになります。主イエスは全世界に福音が宣べ伝えられてから終わりが来ると仰いました。これは全世界の人々がキリストを信じるということを意味せず、主イエスや聖書のことを知らない人がいない状態になることを意味します。つまり、主イエス・キリストを信じてクリスチャンになるかどうかは問題ではないのです。信じないのは不信仰の者や異教徒が聖書や主イエスを拒絶しただけのことで、過失無く知らないことにはならないからです。また、知ることを拒絶したらそれはその人の自身の責任で、主イエスを信じない者は既に裁かれているのであり(ヨハネ3:18)、その拒絶行為が自らを滅びへと導いているのです。聖書の福音伝道をする私としては、何度も申しているとおり、あなたがたに早く聖書を複数回通読して聖書を深く知り、主イエス・キリストを真心から信じて欲しいと願っているだけです。私は、日本人と日本の滅びを願っているのではなく、憂慮しているのです。滅びて欲しくないのに、滅びを自ら選んでいる人たちを考えると本当にどうしようもなく悲しい気持ちになります。

 

さて、多くの日本国民が、日本の現実、歴史、聖書等という最も大事なことについて関心を持たず、くだらない世のことに興味を持っているのだと客観的事実が証明しています。私のブログの宣伝をあなたがたに促しているのではありませんが、客観的事実として私のブログよりも芸能人ブログであったり他の世俗的なことについて書いているブログの方がはるかにアクセス数が多いことでしょう。何故か分かりますか。それだけ、日本人の多くが世のことに関心を持っているという確たる証拠なのです。周囲の人々をご覧なさい。ほとんどの人々は日々、芸能人、映画、音楽、ゲーム、スポーツ、快楽、スマホ、動画視聴、テレビ、小説、漫画、アニメ、都市伝説等に夢中になり、政治や社会情勢に関心を示さずに諦めて現実逃避するか、政治家に文句を言いながらもネット上で威勢良く発言するだけで現実には何もせず、与野党グルで国会は役者が集まったただの劇場で別の所で既に方針は決まっているという現実を知らないで選挙で何とかできると妄想に浸り、世界の動向やその仕組み、聖書こそが唯一信頼に足る書物であると共に唯一の解決策の情報が詰まっている事実について関心を示しません。テレビ、新聞、大手企業のネットニュース等を読むだけで嘘にまみれた報道内容、有名人をネタにして政治的に重要な問題を隠すスピン報道ばかりに気を取られて、隠された事実から目を背け、陰謀論というCIAが真実を人々から遠ざけるために作った言葉を援用して、世の中の悪に関する情報をけなしてあなた自身とあなたがけなした発言を見た他の人も同調させて騙すのはやめなさい。また、陰謀論を暴露すると大々的に銘打ってネット上で言論をする人たちもいますが、そのほとんどの者は一部の真実を言いながら嘘を混ぜ込んで誤誘導したり、変な宗教勧誘の餌に使う者がいたり、古い情報をいつまでも垂れ流して現在推進中の内容や最終的な目的について触れなかったりします。どこもかしこも嘘が紛れ込んでいます。だから、真贋を見極める目や心が重要です。それにはまず聖書を正しく知らないことには始まらないと私は断言できます。聖書の真理を知らない人、聖書の真理に一致したことを言わない人、聖書の教えどおりに生きていない人は皆、偽り者です。一般の人間から見て、優しい、穏やか、賢い等と思うのは、この世の価値観であってその物差し自体が間違えているので、結果的に間違った考えを抱いていることになります。あなたが優しいと思う人が実は裏ではきつかったり、人によって態度を変えたり、優しいというよりは確たる信念が無い故にただの甘やかしに過ぎなかったり、人から嫌われることを避けて八方美人で優しいだけということがあるでしょう。神は愛ですが、愛故に実の子を地上で生きる間は永遠の命を与えるに相応しい者にするために厳しく訓練したり試練に遭わせて鍛えます。父なる神は愛だから、人間を苦しめないのでしょうか。決してそうではありません。父なる神は御子イエスをあらゆる試練や苦難を経験させ、最期は十字架刑という死刑にすることも許可されたのです。主イエスは神の律法違反をせず、罪がまったく無いのに拘らずです。それなのに、罪深い人間たちが何故安易に艱難と死を経験しない携挙にあずからせるのか普通に考えて有り得ないです。主イエスも「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と仰っており、苦難を避けることができるとは一言も仰っていません。苦難があるからこそ臆病にならず勇気を出せと鼓舞されています。決してディスペンセーション主義者が主張する艱難期前携挙説という戯言に惑わされないでください。携挙は希望ではありません。基本的に誰でも「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)のですから、死は当たり前と思っていなければなりません。希望は、過去記事「復活とキリストの再臨への希望」で述べたとおり、キリストの再臨と復活です。携挙はその対象者になれたら幸運だ位に思っていれば十分です。肉体的な死を異常に怖がる者は臆病者です。死を異常に恐れる人には愛が全うされていません。以下のとおりです。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 四章十八節拙訳

慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。

 

政府や警察から目を付けられるのが怖いので真実を言うことができない、福音伝道等をして変な人扱いされるのが怖い、周りの人間からどう思われるのかと思うと不安になる等と思っている人は真のキリスト者には絶対になれません。また、甘やかされている人、艱難や試練に一切遭わなかったり、臆病故にそれらから逃げるような人は神の民ではありません。甘やかしや人の評価を気にした結果優しくするのは偽りの愛です。また、この世の価値観に基づいて人を育てるのも神の御国に入るのには力不足です。以下の聖句のとおりです。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章9~10節

更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。

 

あなたが穏やかだと思う人が実は裏では怒りっぽく暴力を働く人であるかもしれません。怒るといっても自分の思い通りにならないといった肉の思いから怒るのか、霊的思いから来て偽りを許さない意味や叱咤激励の意味で怒るのかでは意味がまったく異なります。高学歴で何かの専門家たちをあなたがたは安易に賢い人と判断するでしょうが、そのような考え方は誤っており、嘘ばかりの教科書や学校教育、科学等を盲信している愚か者に過ぎません。嘘の歴史が書き込まれた教科書や参考書を必死に覚えたり、進化論を信じたり、地球が球体で回っているなんていう地動説を信じる人が賢いのでしょうか。そうやって学校教育や偏差値等に囚われて高学歴を得て、官僚、法曹、医師、学者等になって金持ちになる人が賢いと本当に言えるのでしょうか。冗談にもなりません。そういう人たちは自分たちが勝手に賢いと自惚れ、この世の価値観を持っている人たちだけが称賛して高めているだけに過ぎません。

 

旧約聖書 箴言 28章11節

金持ちは自分を賢いと思い込む。弱くても分別ある人は彼を見抜く。

 

日本聖書協会の翻訳が下手なので訂正しますと、上記の弱いと訳されている部分の意味は金持ちではない人のことです。分別とは聖書の真理から得られる理解力です。主なる神を畏れ、聖書を正しく理解すれば、この世は仮の世であり、この世はサタンの支配下にあり、神と富とに仕えることはできず、金銭欲が諸悪の根源であり、支配欲、名誉欲等の肉の欲は神の民が持つべき欲ではないという意識でいるはずです。それ故、金持ちや社会的地位のある人たちが賢くないということを知っています。この短い仮の世で神に反逆して罪を犯し続け、悔い改めないで滅びて何の得になるのか、損得勘定が得意なはずの金持ちはこの点が何故かできないのです。だから、賢くないのです。これは金持ちに限らず、たとえ金持ちではない人でも主イエス・キリストに救いを求めないのなら同じ末路です。

 

日本の問題点は限りなく多いです。

 

①死刑制度の存在

日本人もあまり棚に上げて言えませんが、昔の欧米人は公開処刑を娯楽の一種とまで考える鬼畜ぶりでした。そして、欧州(イギリス、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル等)が大航海時代にアメリカ大陸、アフリカ大陸、アジア諸国に侵略し、原住民を虐殺し、彼らの富や土地等を強奪して支配する等の鬼畜の所業を働きました。今は建前上、人命を尊重して犯罪者でも一人の人間の命と考えて法律上では死刑を廃止しています。しかし、欧米諸国は警察官がすぐに発砲して射殺を厭わないので、裁判で死刑にできない代わりに現場で処刑しているに等しいので欧米人は崇高な精神の持ち主とは言えません。やはり欧米人は昔から変わらず人命を軽んじる者が多いです。イスラム圏の国々もイスラム法に基づき死刑を残しており、そもそも異教の価値観と法に支配されているので問題があるのは当然です。仏像や地蔵等の偶像礼拝大国の日本も未だに死刑を残しています。日本人は死刑を喜んでいる気質さえあります。殺人事件があれば遺族は殺人犯に死刑を求め、刑務所で税金で飯を食わすのがもったいないから早く死刑にしろと言う高慢な日本人が多いです。犯罪者も一人の人間の命と考えず、命の重さを考えず、すぐ死刑と連呼するのは聖書でピラトが主イエスを釈放しようとユダヤ人の大衆に呼びかけた時に、ユダヤ人たちが「十字架につけろ」と叫び続けたことを想起させます。本当に、日本人は古代イスラエル人と同じ気質があります。主イエスは罪も無く死刑になったので、一般の犯罪者とは違って理不尽でした。しかし、犯罪者も一人の人間であり、悔い改める機会も与えず、独房に何年も、場合によっては何十年も閉じ込めて時折検察の取り調べや裁判に引きずり出して最終的には殺されます。他の人間が何故その者の命を奪う権利があるのでしょうか。聖書から分かるとおり、主イエスは、姦通の女(ヨハネ8:1~11)の話で仰ったように、この地上で生きている間は罪に定めたり、死刑にすることをなさいませんでした。この場面だけでなく他でも赦しの重要性を説かれました。このことからもモーセの律法にある死刑執行手段であった石打ちをする司法律法は主イエスによって廃止されました。全世界に福音を広めてイスラエル人だけでなく、異邦人にも救いが及ぶ契約の変化の意図もあり、人間が他の人間の命を奪うというのは法をもってしても許されないということを主イエスはお示しになったのです。マタイ6:14~15、マルコ11:25、ルカ6:37、ルカ17:3~4、また主の祈りにも赦しに関する文言があるではありませんか。主イエスはこれ程、他人の罪を赦しなさいと教えられているのに、何故、あなたがたは他人を赦さないのか。何故、自分たちが神の律法に違反して多くの罪を犯し、罪深いという事実を棚に上げて、他人の命や人権を軽んじるような恥知らずな言動を平気でするのか。

 

②東京一極集中

明治維新後、東京にすべて集中させる現象が見られ、地方が蔑ろにされています。政治の中心も東京、鉄道や道路等の交通網整備も東京中心、商業施設も東京ばかり何回も建て直されたり、新しいものが最初にやって来ます。それ故、地方から東京に人が多く押し寄せ、地方は過疎化が進み、東京周辺ばかり過密になって均衡が取れていないです。もし首都直下型地震が起きて東京が壊滅的になったら、どうするのでしょうか。一つの都市が壊れて国自体が存亡の危機に陥るなんていう国は非常に脆弱です。2019年4月末で天皇が生前退位されて上皇になりますが、それを機に京都に都を戻すことも考えられているようです。東京は昔は江戸という地名であり、東京という語源は東の京都です。つまり、京都が中心であり、平安京から千年以上も続く都として存在していました。明治時代になって明治天皇が京都御所から東京に皇居を移したことも東京奠都という言い方で、遷都ではなく、一時的に都を移しただけで従来の都である京都を首都とする考えを完全に放棄した訳ではないという考え方も残っています。私が過去記事「古代イスラエルと現代イスラエル」で京都はエルサレムであるという話をしましたとおり、最後の最後で日本は京都というエルサレムを都とする国の姿を取り戻すのかと少し考えたりもしています。しかし、たとえ首都が京都に戻ったとしても今の日本という国の本質は古代イスラエルとは程遠く、形式的だけでは何の意味もありません。天皇は古代イスラエル王の系統を引き継いでいますが、主なる神がダビデへの約束に基づいてその地位を保持されており、たとえ天皇が主なる神に従順でなくても長年に渡って”形式的に”続いているだけです。戦前のように天皇を崇拝するのは偶像礼拝に該当しますので実行してはなりません。そのような天皇や日本国民の主イエスへの不信仰や不従順に対する神の忍耐もそう長く続かないと私は思います。

 

③女尊男卑

昔の日本は、父を家長とする家庭が当たり前でした。父親に威厳や権力があるのが伝統的な日本の家庭です。これも古代イスラエルの痕跡の一つです。聖書を読んでも分かるとおり、系図は最初の男であるアダムから始まり、すべて男系を基に書かれています。母親よりも父親が血統的には重要なのです。イスラエル12部族の母親は四人で、ヤコブの12人の息子は異母兄弟であり、男がヤコブ一人であることが重要だったのです。YAP遺伝子の話を過去記事「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」で言及したとおり、ハプログループD系統とE系統の遺伝子を持つ男性が持ちます。日本人男性の約4割程度はD系統であり、約5割は支那や朝鮮に多いO系統であり、残りの1割はその他の外国人の遺伝子系統という割合です。日本人は遺伝子の観点から見ても多民族国家であることが証明されており、単一民族では決してありません。YAP遺伝子は、男性だけが持つY染色体を指し、父から息子にだけ受け継がれる遺伝子であり、Y染色体が存在しない女性にはありません。過去に家系的に娘しか生まれず息子が途切れたことがある家系や男性の養子を受け入れた場合や朝鮮人や支那人(在日を含む)等の異邦人の父親を持った家系はYAP遺伝子が断絶していることになります。実際統計からして日本人の半分以上はYAP遺伝子を持っていませんし、たとえそれを持っているからと言って必ず主イエス・キリストの救いが受けられるかと言えば否です。遺伝子のことは主イエスの救いにおいては何ら関係がありません。そして、性別も救いに関係無いのですが、神の創造の秩序を守らない人はいけません。最近、特に女尊男卑の傾向が強く酷いです。過去記事「迫り来る暗黒の新世界秩序(NWO)と意識改革」で述べたとおり、欧米から端を発したウーマン・リヴの影響が日本にも来て、もの凄い害悪を及ぼしています。サタンは最初の女であるエバを騙して罪を犯させ、エバを使って間接的にアダムにも罪を犯させて人間が堕落して神の怒りを買い、楽園を追放されて神と共にいることができなくなりました。この教訓を忘れないで欲しいです。女性が分を弁えずにいると、いさかいが起こり、家庭崩壊の原因になります。「知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれをこわす。」(箴言14:1)と聖書にあるとおりです。また、女性を優先した結果起こった痴漢冤罪(女性の言い分だけで証拠不十分で男性を有罪にする事件が多発)、満員電車で圧迫されて苦しいのを皆が我慢している中で余裕がある女性専用車両、露骨に性差別をする女性専用求人や女性専用賃貸物件、レディースプランと称した特別の食事メニューや旅行の割引等、数々の不平等が平気で推進され、男性は優しいのでそれについてあまり文句を言わないですが、もしこれが仮に逆だとしたら女たちは男尊女卑だと声高に叫んで怒り狂うでしょう。こんな女性が増えたこの世は腐っており、神の創造の秩序に反しています。

 

④老害

少子高齢化を理由にして老人が死ぬまで働かねばならない社会だと政府やマスコミが煽っていますが、はっきり言って、彼ら彼女らこそが諸悪の根源です。改善の努力を一切せず、何十年同じことを言い続けているのでしょうか。それどころか、かえって少子高齢化を故意に推進しています。増税の嵐、毒入りワクチンや抗がん剤治療等の間違った医療、ケムトレイルと電磁波攻撃、派遣法改悪による非正規雇用の促進、低賃金と長時間労働等で経済的に追い詰めて結婚しにくくしたり、子供を産ませにくくしたり、子育てもしにくくしています。少子高齢化だからという建前で既得権益にすがりつく老人の定年を上げたり、お金が無い庶民が頼る年金受給開始を遅らせたりして苦しめて改善しようとするどころか悪化の一途をたどっています。そのくせに国家公務員の給料だけは右肩上がり、法人税は下がって大企業だけはお金を持って潤っている状態が長く続いています。お飾りで売国政治しかしない国会議員に税金を払うのも無駄ですし、彼ら彼女らを操る国家公務員のキャリア官僚たちにも税金から給与を払うのも無駄です。公務員は一切身を切らず、このような官僚政治を終焉させないことには日本の復活は有り得ないでしょう。いつまでも選挙でどうにか日本を変えられると思わないことです。選挙は不正がまかり通り、野党は対立を演じているだけで裏ではしっかりつながっているのが国会体制であり、与野党グルですから、野党の誰かに期待したり支援する等という愚かな言動も慎んでください。今78歳という後期高齢者の麻生太郎氏を副総理兼財務大臣なんかにしておくのは老害の典型例と言えます。財務省の公文書改ざん事件が明るみになっても何の責任も取りませんし、安倍首相も任命責任を取りません。普通の感性の人ならしますけどね。はっきり言って、今が日本史上最悪の状況で、これからも悪化し続けるでしょう。そもそも、主イエス・キリストに従順ではない老い先短い老人に国の舵取りの役職を担わせることは大いに問題があります。麻生太郎氏に限ったことではなく、60歳以上の老人全般に言えることですが、自分たちのことしか考えない老人が日本をはじめ世界規模で凄く増えています。誰もが自分が早く死にたくない、子供や孫の世代の人たちを差し置いてでも自分たちが少しでも長生きしたい、贅沢したい、やりたいことをしたいと思っている自己中心的な老人が本当に多いです。しかし、全員とは言っていません。そういう人が”多い”と言っているだけで、勝手に曲解しないようにしてください。

 

⑤陰湿で嫉妬深い

日本人は嫉妬深い人が多いという印象を私は持っています。実際そうではありませんか。誰かが成功するのを見て、何で自分じゃないんだろうとか、誰かが高額な給料をもらったり社会的地位を持っている人、語学力がある人を羨んで自分がそうだったらいいのにと思ったりしていませんか。他人のものを貪る、欲しがる、嫉妬するのは神の律法でも禁じられていることですので、クリスチャンでありながらこのような思いを抱く人は偽り者です。また、自分の意見を押し通そうとして意見をぶつけても軽く論破されて怒り狂い、しつこく反抗的な言い分を押し付けるか、若しくは、距離を置いたり、陰で悪口を言ったり、評判や評価を落とすために誹謗中傷をしているのではありませんか。私はこのような事例を沢山見てきました。こういう人が自称クリスチャンにも多く、不信仰の者と異教徒には例外なくいるでしょう。よくママ友という子供の母親たちの集団で派閥やらを作ったり、学生らの間、社会人の間でもグループを形成し、自分たちと同じ価値観を共有しない人や一緒に行動しない人に対して陰湿ないじめをしたり、嫌がらせをするのも日本人独特のような印象があります。常に周囲の人間関係や家庭事情等の個人情報の調査に余念が無く、噂話を好み、悪口や陰口を言ったり、他人の不幸を喜んだり、他人の足を引っ張る等をすることで喜ぶ愚かな人が多いです。日本人は欧米人とは異なり、思ったことをはっきり言わない傾向が高く、面と向かって嫌でも嫌と言わない代わりに、本人のいない所でボロクソに言うという二面性を持っている人が多いです。欧米人のように嫌だと露骨に意思表示をすれば良いというのでもありません。それでは空気が読めない人、自己中心的な人でしかないので立派な品性を持っているとは言えません。嫌だとしてもその場を上手くかわして言わずに自分の中で仕舞い込んで赦して忘れるか、その場ですぐに誠意を持って説明すればいいものを何も言わずにいつまでも根に持って忘れないで赦さないとか、後で陰口を叩くのはいけません。特にクリスチャンでこんな性格や行いをするのは反キリストです。これは本当に酷い品性です。そのような行いをする人たちの未来は滅びしかありません。

 

⑥多神教信者のくせに宗教嫌い

日本人に限らず無神論者を自負する者は誰でも同じです。日本以外の国の人でも宗教嫌いで無神論者と自称しても結局は何らかの宗教的儀式に参加したり、それらの慣習に従っているのです。無神論者だと自称しながら、初詣で神社に行くとか、葬式に坊主を呼んだり、結婚式は教会でやる、クリスマスを祝う、ハロウィンに参加する等です。これらはほんの一例に過ぎませんが、すべて宗教的行為であり、聖書とキリストとは無縁の行事です。今回は日本人について話をしますが、何を信じているのか日本人に訊いても大半の日本人は何も信じていない無宗教だと言い張るでしょう。しかし、これは大いなる嘘です。このことは既に過去記事「無神論者の問題、偽りの聖職者と教会制度」でも述べました。宗教と聞くと胡散臭い、精神的に変な人、そんな所感を持っている日本人がほとんどでしょう。しかし、日本人は身内の誰かが死ねば坊主を呼んで読経させ、仏教式の葬式を上げ、家には仏壇を設置します。仏教徒でもないのに、何故そんなことをするのでしょうか。たとえ仏教の家系だと言う人がいても、その人は頭を丸める訳でもなく、日々何か修行をしている訳でもないでしょう。大晦日には寺に鐘を突きに行ったり、元旦には神社に繰り出して初詣だと騒いでいます。本当に意味不明です。この事実を日本人は自覚していません。そうするのが伝統だとか、当たり前だとさえ思っており、無知と愚かさをさらけ出しています。何度も言っているとおり、本当に無宗教、無神論者ならば、いかなる宗教的な慣習や考え方に従ってはいけないはずです。何か宗教の考えや慣習に従う時点で、その人はその宗教の信者だからです。そして、誤解なきようにはっきりと言っておきますが、聖書は宗教ではありません。世の中の偽キリスト教(カトリック、プロテスタント、正教会、エホバの証人、モルモン教、統一教会等その他キリストの名を騙る宗教団体のすべて)は宗教で、必ず聖書の教えから逸脱しています。世の多くの人々はこのことが分かっておらず、聖書と聞くと宗教だとか、キリスト教だという先入観に支配されています。しかし、聖書にのみ依拠して主イエス・キリストを唯一の救い主として信じ、神の律法、掟、戒めに従って生きることは人間としてあるべき姿を体現しているだけで、聖書はそのための手引書です。嘘だと思うなら、聖書を初めから最後まで読み通してみなさい。それもせずに聖書はおかしい、改ざんされているから読む価値も無いとデタラメを言う厚顔無恥な日本人が沢山いるでしょうが、その言葉は地上の諸教会やそこにいる自称聖職者とその信者らに向けていただきたい。彼ら彼女らは確かにおかしいです。キリスト教徒と自称しながら、マリアや人の手によって造られた偶像やミサ等の聖書に書かれていない儀式を崇拝するカトリック信者なんて問題しかありません。聖書を読めば文字通り偶像礼拝を律法で禁じているし、黙示録21:8では明確に地獄行きとされているのに、カトリック信者や正教会信者らは偶像礼拝をやめようとしません。偶像礼拝をするのは自殺行為をしているようなものです。その偶像礼拝は旧約聖書に書かれた神の律法により禁じられているのであり、その律法を廃止されたものと勝手にみなす律法廃止論者の集まりであるプロテスタントも問題しかありません。日本人も神社、仏像、墓、地蔵、死者等に対して手を合わせて拝むなら、偶像礼拝をしているのです。また、偶像礼拝はこのような外形的な事柄に限らず、天の父なる神、主イエス・キリストよりも重要視するものすべてが偶像に当たることを覚えていなければなりません。

 

⑦自分を捨てる方向性を間違えている

まず思い当たるのは、日本でしきりに外国語の看板、標識、案内書等が見られるということです。日本はまだまだ英語対応できていない所も多いという話も聞きますが、これは傲慢な外国人の意見なので無視で良いです。はっきり言って、日本は日本語が公用語なのだから、日本語以外の表記なんて不必要です。しかし、何故か日本人の多くは外国人のために英語のみならず、最近は誰も頼んでもいないのに、電車の液晶画面や案内板に支那語、朝鮮語まで表示させている所もあります。また、レストランのメニュー等も複数の言語を用意したりと至れり尽くせりです。有り得ない程、外国人に対して厚遇です。2018年12月8日に自民党らが強行採決した入管法の改悪によって益々日本に外国人がなだれ込み、日本を乗っ取らせようとしているのでその準備ではないかと私は勘ぐったりもしています。海外に行ったことがある方は分かると思いますが、海外に日本語の案内は皆無と言っていい程ありません。世界の誰も日本人のために日本語を用意してくれていません。ほんの少しあったとしても日本国内の外国語整備に比べれば無いに等しいです。このことから分かるとおり、日本は多大な影響や貢献を世界にしているにも拘らず、諸外国は日本人のことを一切考えず、国連の敵国条項からもかつての戦時中の三国同盟国であったドイツとイタリアは外されても日本だけは外されないのです。有り得ないですよね。散々、国連にも日本人の税金が投入され、ODAやその他の援助も諸外国にしてきたのに日本人のために諸外国は何もしません。だから、外国人(特に欧米人)は傲慢なのです。外国人が日本に来て楽しみたいなら、日本語や日本文化を勉強してから行くべきです。外国人たちはその努力を怠り、日本でも英語やその他の言語で日本人に対応を迫り、日本人は英語ができないと文句を言う始末です。このような外国人たちは傲慢以外の何物でもありません。それでも日本人は自分たちが悪いと勝手に思い込み、傲慢な外国人に合わせようとします。特に欧米人に対して卑屈な精神を植え付けられ、戦後GHQの自虐史観教育等によって洗脳されているので、英語を必死に勉強して何もかも欧米人に合わせるように仕向けられているのです。服装も同様で、欧米人による文化の侵略です。戦前までは和服(着物)を着る人が一定数いましたが、戦後に激減して今では和服を普段着で着ている人は絶滅危惧種になりました。軍服由来の背広を礼服や正装だと思い込み、普段着も洋服を愛用し、英語ができないと頭が悪いと言う欧米かぶれの愚かな日本人もいる始末です。TOEICスコア満点や英検1級だとか自慢している日本人が一部いますが、無意味な努力です。また、それだけ自ら進んで欧米の奴隷になっていると自らさらけ出していることに気付かない哀れな人です。そもそも、TOEICは日本と南朝鮮で人気なだけで、欧米では認知されていませんので、まったく役に立たないし、自慢にもなりません。欧米では「TOEIC? 何それ。知らん。」と言われますよ。TOEICは聴解(Listening)と読解(Reading)しかなく、会話(Speaking)と筆記(Writing)の試験が無いので正確な英語力の指標にならないことを理解すべきです。英語の資格なんて別に必須でもありませんが、もし英語力の証明が海外留学や海外就職で必要というなら、TOEICや英検なんかやめてIELTSやCambridge Examination等の取得を目指す方がまだマシです。冷静に考えて、日本人って惨めな立ち位置ですよね。外国人に尽くしても尽くされることがないからです。別に日本人は見返りが欲しいと思っている訳ではありませんが、あまりに酷過ぎます。これが世界の現実です。昨今、ベトナム等のアジア諸国から日本に来て奴隷的扱いを受けて失踪したり自殺したりと問題になっていますね。そのような他の貧しい国のアジア人は比較的頑張って日本語を勉強して日本になじもうと努力します。しかし、欧米人だけは日本人に合わせようとしません。全員がそうだとは言いませんが、欧米人は傲慢な人が本当に多いです。彼ら彼女らの価値観が根底から変わらない限り、自ら進んで相手に合わせる努力をしません。例えば、欧米の握手等の挨拶も当たり前のようにさせられ、しなければ無礼だと勝手に決めつけるでしょう。日本に握手なんていう習慣がないことを欧米人は考えようともしません。このように、欧米人は自分たちの習慣や伝統を相手に押し付け、相手のことを思いやることが本性的にできないのです。また、日本人でもすべての人ができているとは到底言えませんが、欧米人をはじめとする外国人の多くは相手の気持ちや空気を察する能力、気を遣う能力に欠けていると思います。これは思い込みではなく、私の実体験から言えることです。それは遺伝子がまったく違うからです。古代イスラエル人の末裔の日本人は、欧米人とも朝鮮人とも支那人ともまったく異なります。しかし、主イエス・キリストへの信仰が無ければ、たとえ古代イスラエル人の末裔であろうとも不信仰や異教徒の異邦人と同じように滅びます。このように、いかに日本人は外国人、特に欧米人からあらゆる面において都合よく利用され、ATMのように使われ、お金を貢ぐだけ、労働力を搾取されるだけになっています。まったく対等ではないですよね。相互に努力して理解に努めるなら対等ですが、日本人だけが欧米人の基準に合わせたりしなければならないのは不平等であり、主従関係にもなっています。日本人たちよ、いい加減に気付きましょう。日本人が洋服を今当たり前に着ているのも洗脳の結果です。世界中で洋服が当たり前になった、多数派になっているというのは欺瞞です。数が問題なのではないからです。数の問題は論点のすり替えであり、数が多いのを利用する多数決は悪魔の原理と前に伝えたとおりです。もし数の問題にするなら、大航海時代に欧州の人たちが海外侵略して植民地支配して事前に自分たちと同じ人種を現地に住まわせて欧州の言語や文化を持っている人が多いという仕込みをしていたことを指摘するべきです。日本人は欧州の人のようにアメリカ大陸、アフリカ大陸、アジア諸国等の遠くまで侵略しに行って自分たちの言語や文化を押し付けたりしませんでした。過去の日本による朝鮮併合についても悪く言われることがありますが、そう言う人は反日工作員です。実際の姿は、何の文明も文化も無かった朝鮮の近代化を手伝っただけです。日本無くして今の朝鮮は存在しないのです。もし日本人が手伝わなかったら、朝鮮は滅んで支那かロシアの領地にされていたでしょう。参考までこちら(YouTube)。占領統治した結果が、日本と欧州では歴然たる差があります。日本人はブルネイ、パラオ、朝鮮等の独立の手助けをしましたが、欧州人がしたことはただの侵略、原住民の虐殺や奴隷化、現地の文化と言葉の破壊、そして富の搾取でした。李氏朝鮮時代の朝鮮は支那の属国で酷い有様でそれを救ったのが日本でした。その恩を忘れて公然と朝鮮国内や日本国内の朝鮮学校で反日教育をして、反日の思想を持っているのが現代の朝鮮人です。李氏に統治能力が無かったのは、今の安倍政権に重複します。安倍晋三氏は李氏朝鮮の子孫だという話も聞いたことがあります。実際、朝鮮人による「背乗り」犯罪は日本で横行しています。色々各自でお調べになってみることをお勧めします。日本の闇といえる部分が分かるでしょう。だから、日本人は真実を知っても高ぶることなく生れながら持っている謙虚さを大事にし、偽りの学校教育、教科書、マスコミ報道なんかを盲信して卑屈になる必要はないのです。謙虚と卑屈は違います。欧米人に対して媚を売る必要もないのです。もっと堂々としましょう。自らの出自を振り返り、独自の言葉や服装等の文化も大事にしましょう。日本語という言葉も古代ヘブライ語に由来し、和服(着物)も衣服に房をつける等が神の律法にあることが分かります。何もかも異教由来のものが多い西洋文化に合わせる必要はありません。日本と古代イスラエルとの関係、秦氏といった原始キリスト教徒らが日本の根幹に関わる多大な貢献をしてきた事実、聖書やキリストの教えが西洋のものではなく古代イスラエルから、そして日本人に受け継がれているが隠されてきたことを知りましょう。自分を捨てるのは外国人やお金等の富に媚びるのためではなく、主イエス・キリストのために実行するべきです。何度も過去に述べたとおり、主イエスに似た品性形成に力を注ぎましょう。品性形成ができるのは、生きている間しか機会がありません。死んだ後はもはや裁きを待つだけになり、時既に遅しです。このことは過去記事「死後の世界」で説明済です。金持ちとラザロのたとえ話から分かるとおり、生きている間が重要なのです。主イエスが「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(ルカ20:38)と仰っているとおりです。主なる神は、死んで陰府に下った者の神ではないのです。これをサタンは人間に誤解釈させ、死んだ後でも福音を聞く機会がある、悔い改める機会がある等と偽りを信じさせ、人々を騙そうとします。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上