こんにちは。

 

今回は、復活とキリストの再臨への希望について書きます。

 

今まで、私は過去記事「携挙の真実」で詳細に述べた以降、多くの過去記事で携挙についても少しずつ言及し続けてきました。特に、世間で広がっている虚偽の教えである艱難期前携挙説です。これはサタンの教えであり、クリスチャンを堕落させる毒物のようなものです。また、にわかクリスチャンたちは死にたくないという思いと艱難から逃げたいという醜い欲が強過ぎるために、携挙されたいとしきりに騒ぎ立て、重要な福音を一切説くことなく携挙ばかりを声高に主張して人々を惑わしています。彼らは主イエス・キリストや神の律法、掟、戒めを無視し、「主よ、主よ」と言うだけで自分たちが死ぬことなく絶対に携挙されると言わんばかりに高慢になっており、携挙信仰という一種の新興宗教の信者のようになっています。携挙信仰は単なる利益信仰に過ぎません。主は彼らの悪しき心の中もご存知です。誰もが死を怖がり、死を怖がるのは動物の本性とも言えます。人間だけでなく、動物も死を怖がって危険を避けようとします。精神を病んだ者以外は誰も自分から進んで死を望まないからです。私は、この本性を非難しているのではなく、臆病さを非難しているのです。サタンは多くの人間が死を怖がって、死を避けるためなら何でもする人が多いことを知っています。聖書で明確にサタンがそれを知っている箇所があります。

 

旧約聖書 ヨブ記 2章4節

サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。

 

このように、ほとんどの人間は命が惜しいあまり、時に全財産でも差し出すことを厭わないことをサタンは知っているのです。だから、艱難期前携挙説は、滅びる人間を釣る格好のルアーであり、罠なのです。

 

最近、兄弟からよく相談を受けます。それも新世界秩序(NWO)が推進されていること、日本の将来の暗さから来ることです。これらは私が既に過去記事「日本の将来と真のクリスチャンの姿勢」や「共謀罪と真のクリスチャンのあるべき姿勢」、「共謀罪、刑事手続、反キリストと新世界秩序、RAPT教というカルト」、「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」等で述べてきました。共謀罪は過去に三度も廃案になった経緯があるにも拘らず、突如として2017年に異常な速さで成立しました。それまで止めていた何かが無くなったかのようです。これが本格運用されるのは日本国憲法が改悪された後です。なぜなら、共謀罪は現憲法に反する内容なので違憲無効だからです。日本の国会議員たちは、違憲無効な法律を連発して成立させています。そして、司法機関、司法関係者も沈黙しており、誰も違憲無効訴訟をして廃止しようとしません。過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」でも述べたとおり、たとえ違憲無効訴訟をしても内閣に人事権を握られ、行政の支配下に置かれている裁判所が司法判断を回避することが目に見えており、無駄だということが分かっているのでしょう。明らかに異常事態です。憲法は、政府といった権力者の暴走を止める役割があります。故に、最低限の人権や自由を維持するには非常に大事であり、これを政府が変えようと言い出すこと自体、憲法99条違反なのです。以下のとおりです。

 

日本国憲法 第99条

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

上記のとおり、国会議員は、憲法を尊重して擁護する義務があるのにせず、安倍首相をはじめとする自民党議員たちはしきりに憲法改正と騒いでいます。野党議員も反対するふりをしていますが、実際はグルなので信用しないでください。これもアメリカに脅されているからです。日本はアメリカの属国であることも過去に何度も申してきました。日本は独立国ではなく、戦後はアメリカから間接統治を受けているのです。参考までにこちら(YouTube)。アメリカは日本が戦力を放棄して戦争をしない現日本国憲法を定めたことが気に入らないのです。俗に言われる日本国憲法がGHQの指示の下で作られた「押し付け憲法」というのは嘘です。そう言っているのは日本政府とネトサポや洗脳された愚かなエセ保守の右翼だけです。政府といった権力者を縛る物が憲法という法的性格ですので、自分たちのしたいことが憲法に阻まれているからそう言っているのです。つまり、現日本国憲法は十分に機能している素晴らしい憲法なのです。しかし、今、この日本国憲法を政府に都合の良い物に改悪されようとしています。過去記事「田舎への移動と憲法改悪」や「迫り来る暗黒の新世界秩序(NWO)と意識改革」で説明したとおり、緊急事態条項が組み込まれると常に人工的な気象操作や人工地震で緊急事態宣言を首相の独断で可能になり、内閣の独裁体制が永遠に続くことになります。そして、選挙すらも行われなくなり、実質的に国会議員の任期が無くなります。政治家らはこれを欲しているのであり、憲法が変えられると二度と後戻りできない完全な独裁国家に転落します。緊急事態条項の本質と恐ろしさを知らない人はこちら(YouTube)やこちら(YouTube)が参考になるでしょう。また、こちら(YouTube)とこちら(YouTube)も必ず見てください。約80年前のドイツのヒトラー政権の失敗を日本で繰り返そうとしています。むしろ、日本の内閣は故意になぞっているのです。麻生副総理の「ナチスの手口を学んだらどうか」発言からも明白です。参考までにこちら(JCASTニュース)。発言を撤回したのは表向きであり、内心は変わらず、それが憲法改悪の動きに現れています。緊急事態条項の危険性がよく分かると思います。そして、これをできるだけ多くの人に知らせてください。政府やネトサポらは緊急事態条項が必要だとか肯定することばかりを東日本大震災のような人工地震をダシに言いますが絶対に騙されないでください。憲法が改悪されたら日本は終わりです。日本国民は人間扱いされなくなります。2020年に改悪した憲法を施行するという予定ありきで今後も政府は動いていくでしょう。もし予定どおりに実現しないなら、アメリカが怒って日本に大きな災いを下す可能性があります。しかし、日本を攻撃するという点は、憲法を改悪しようがしまいが、NWO支配層の意向次第ではいくらでも有り得るでしょう。憲法が改悪されれば、共謀罪を使い、NWOに沿った政府の方針に従わない人に制裁を加えるようになるでしょう。世界中の政府が目指すNWOの下、一般人は本当に何も自由に意見できなくなり、信教の自由も表現の自由も無くなり、ネットも制限され、聖書と主イエス・キリストの教えも危険視されるでしょう。そして、サタンに唆された無神論者、異教徒、ニューエイジ思想の者たちが、キリスト教は悪魔教とか、おかしな宗教と批判を繰り広げ、真のクリスチャンを誹謗中傷したり迫害するでしょう。にわかクリスチャンたちはそのような迫害を怖がり、背教していくでしょう。また、冒頭で述べたとおり、にわかクリスチャンたちは携挙が艱難前に来なかったことに愕然として落ち込み、聖書を信じられなくなり、聖書や主イエス・キリストを否定する者も現れるでしょう。今既に私には明らかですが、その時に彼らの本性が見えます。

しかし、私が一年位前から伝えたとおり、日本の将来の暗さは残念ながら事実です。そして、もう時間があまりありません。みなさんは置かれている境遇がそれぞれ違いますので、日本を離れることができる人、できない人とどちらもいると思います。どちらを選択されるかはご自身で決断してください。肉の欲によるのではなく、神の御心を求めてください。

 

では、私たちは何に希望を持つべきでしょうか。当然、私が今まで述べたとおり、聖書の言葉は必ず実現するということ、そして、主イエスを唯一の救い主(メシア)であると信じ、世の終わりに再臨なさり、その時までに死んだ場合は復活し、生きている場合はそのまま一瞬にして栄光の体に変えられ、天に引き上げられて神の御国に入ることです。キリストの再臨の時までに大艱難も起こるので、その未だかつてなかったような過酷な時を生き延びることができるかはまさに神の御計画次第であり、私たちの信仰次第であり、その時までにいかにキリストに近い品性を築いたかにかかっています。真のクリスチャンであっても激しい迫害のために殉教する者が多く出るでしょう。しかし、全滅はしません。それは主イエスが「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」(マタイ24:22)と仰っているからです。ですから、ほんのわずかながら生き延びて携挙される者もいるでしょう。だから、殉教することになるとしても希望を持ち続けていただきたいことがあります。それは復活です。主イエスも復活なさいました。主イエスも避けようと思えば避けられた十字架の死から逃げずに旧約聖書の預言どおりに神の御言葉を実現するため、神の御心を行うために死まで従順であられました。私たちも主イエスに倣い、そうあるべきです。そして、死んだとしても復活することに希望を持ってください。これは確実な約束であり、その約束が無ければ信仰は無意味なものでしょう。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 6章14節

神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 15章13~17節

死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章14節

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

 

新約聖書 ペトロの手紙一 1章3~4節

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

 

上記のように、復活を信じるのは、クリスチャンとしての信仰の基礎であると同時に希望です。パウロは、復活がなければ信仰そのものが無駄と言っています。確かにそうです。もし復活が無ければ、私が聖書を読んでブログを書いて伝道していることも意味が無くなりますし、私たちの信仰も無意味になります。しかし、実際は復活というのは真実であり、無意味ではありません。復活というのは、実は、真のクリスチャンだけではなく、それ以外の悪人も復活するのです。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 5章28~29節

時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 

上記は主イエスの御言葉です。時が来るというのは、キリストの再臨である世の終わりの時を意味しています。その時までにキリストに結ばれて死んだ真のクリスチャンは復活して朽ちない栄光の体に変えられて復活し、主イエスを神と信じない者や主イエスに不従順だった者をはじめとする神の民以外は復活して最後の審判で裁きを受けます。人間は死んですぐに天国に行くとか、地獄に行くというのではありません。このことは過去記事「死後の世界」でも述べたとおりで、死んで霊が肉体を離れ、地上をさまようこともなく、生前の信仰と行いに応じ、それぞれ楽園か陰府で待機し、眠りのような状態で意識はありません。復活して再び霊と体と合わさって初めて意識が生じます。だから復活ということに意味があるのです。地獄で苦しむといっても霊のままでは苦しまず、復活してから火の池に投げ込まれるので苦痛を味わうのです。死後、霊は離れて地上にはないのですから、墓参りというようなことがいかに無意味で、偶像礼拝に過ぎないかが分かると思います。今地上で暮らす家族や知人も真のクリスチャン同士ならば、死んでも永遠の別れにはなりません。キリストの再臨の時に復活して会うか、または共に携挙されることになるでしょう。しかし、真のクリスチャンになろうとしない人は厳しいですが、希望は最後の最後まで失わないように忍耐強く頑張りましょう。あなたがどうしても救いたいと思う人が主イエスを信じようとしなくても、あなた自身が真のクリスチャンとして見本となる生き様と愛をその人に見せることで回心させることができるかもしれません。それが時に命を張ってでもです。主イエスは以下のとおり、言われました。

 

新約聖書 マタイによる福音書 5章16節

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章13節

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 

人間は、肉体と霊によって成り立っていることを覚えておいてください。この世では、肉体は年月を経れば老いて劣化していきます。劣化するだけの外見に執着したり、服装等で人を判断するのは世に属する人間です。ヤコブ2:1~13を読めばよく分かるとおり、分け隔てして人の扱いを自分自身の肉の思いで変えることのないようにすべきです。外見や社会的地位等で人を判断する者は、内面である霊の成長を蔑ろにしています。しかし、主イエス・キリストを信じて、神の律法、掟、戒めを守る人は霊的に成長することに労力を使います。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章16節

たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

 

私が宣べ伝えてきたとおり、真のクリスチャンは、その品性が霊であることを知っており、日々悔い改めて完全になることを目指して成長していきます。原則的に、キリストに近い品性形成には日々成長する時間が必要なのであって、今日とか明日急に出来上がるのではありません。また、過去記事「天に富を蓄えよ」でも述べたとおり、品性こそが唯一死後に持って行くことができるといったのはこのことです。聖書にも書かれています。

 

新約聖書 テモテへの手紙一 6章7節

わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。

 

反対に、不信仰の者、異教徒、にわかクリスチャン等は、外見ばかりに囚われ、偽りに満ちた性格と言動で世渡りをし、肉の欲の虜となり、まったく霊的に成長しません。彼らが一生懸命貯め込んだお金やその他の一切の財産や所持品も死後は持って行けず、キリストから遠い品性を持って行けば、どんな裁きに遭うか想像に難くないです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章13節

『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。と。』”霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 

主イエスに結ばれたなら死んでも幸いです。何故なら、楽園で待機となって安らぎを得るからです。そして、キリストの再臨の時に復活し、永遠の命を得るからです。むしろ、キリストに結ばれれば、未だかつてなかった程の苦難が襲う大艱難の前に寿命が尽きて死んでしまった方が良いとさえ思えます。しかし、大艱難を怖がるあまり、自殺したり、わざと病気や怪我をしてはいけません。神から与えられた命を粗末にする者はキリストには結ばれていません。常にこの地上で生きている間は、全力で生きて、神の御心を行い続けてください。主イエスに対する信仰を持ち続け、神の律法、掟、戒めを守って最後まで耐え忍ぶ者でなければ、勝利者にはなれません。また上記聖句にもあるとおり、「行い」が重要です。信仰から来る行いに対する報いです。行いを軽視するにわかクリスチャンが大勢いますが、彼らの言うことに惑わされてはなりません。信仰と行いは表裏一体です。行いが信仰を表すのです。安息日を守って礼拝することが主なる神への信仰を表し、安息日を無視して日曜日に礼拝することはサタンへの信仰を表しているようにです。信仰によって救われるのであって行いによるのではないともっともらしいことを言う者は、口先だけで行いが伴わない偽り者です。パウロも「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」(テモテ二3:5)と警告しているとおりです。信心深く、主イエスに従順で、神の律法、掟、戒めを守って、今後、NWOの下で聖書の真理に反する人間の法律等により、多くの世に属する人間がそれに屈して脱落する中で、聖霊の導きでその時までにキリストに近い品性を形成した真のクリスチャンは周囲からの孤立を恐れず、迫害を恐れず、臆病にならず、果敢に悪に立ち向かいます。そして、死に直面しても復活とキリストの再臨に対する希望を抱いており、動揺せず、心は平安のはずです。主イエスを模範としましょう。主イエスは十字架にかかって亡くなる前に以下の御言葉を残されました。

 

新約聖書 ルカによる福音書 23章34節(私訳)

その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

また、キリスト教の最初の殉教者であったステファノの姿勢も見てみましょう。

 

新約聖書 使徒言行録 7章59~60節

人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

 

聖霊に満たされたステファノ(使徒言行録6:55)は石を投げられても主イエスが神の右に立っておられる様子を仰ぎ見て、自分に対して投石する敵を愛する言葉を残して死に、霊は楽園に引き上げられたことでしょう。このように、ステファノにキリストに近い品性を見出すことができます。以下のようにステファノもキリストの再臨の時まで眠りについて復活の時を待っているのです。決して眠り続けるのではありません。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 15章51~52節(私訳)

見よ、わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちはまったく眠るではなく、まったく変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、まばたきの一瞬のうちにです。そのラッパが鳴ると、死者は朽ちない者として復活させられ、わたしたちは変えられるからです。

 

このことは、復活はキリストの再臨の時に起こります。以下は過去記事「携挙の真実」でも引用した聖句です。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十四章二十九節〜三十一節(拙訳)

しかし、それらの苦難の日々のすぐ後、太陽は暗くされ、月はその光を出さず、星々は天から落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。また、その時、人の子のしるしが天に現されるだろう。そして、その時、地のすべての民族は悲しみ、人の子が力と大いなる威厳に満ちて天の雲に乗って来るのを見るだろう。人の子は、大きならっぱの音と共にその天使たちを遣わし、天使たちは各天の果てから果ての四つの風の彼の選ばれた人たちを集めるだろう。

 

新約聖書 マルコによる福音書 十三章二十四節〜二十七節(拙訳)

それらの日々において、苦難の後、太陽は暗くされ、月は光を出さへんだろう。また、天の星々は落ち、各天の天軍は揺り動かされるだろう。その時、大いなる力と威厳に満ちた人の子が乗って来るのを人々は見るだろう。その時、人の子はその天使たちを遣わし、地の果てから天の果ての四つの風から彼の選ばれた人たちを集めるだろう。

 

上記聖句ではっきり分かるとおり、主イエスが天から降って地上に来られるのが再臨です。その時に、キリストに結ばれた真のキリスト者として死んだ神の民が復活し、その時までに大艱難の中を生き残ったわずかな神の民が携挙されるのです。即ち、携挙とキリストの再臨は同時に起こり、それはたった一度だけであり、二度もあると書かれてへん。にわかキリスト者どもが言う空中再臨と地上再臨は違うとか秘密携挙というのにも惑わされないようにしなはれ。また、ヨブもキリストの再臨について述べています。

 

旧約聖書 ヨブ記 19章25~29節

わたしは知っている

わたしを贖う方は生きておられ

ついには塵の上に立たれるであろう。

この皮膚が損なわれようとも

この身をもって

わたしは神を仰ぎ見るであろう。

このわたしが仰ぎ見る

ほかならぬこの目で見る。

腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

「我々が彼を追い詰めたりするだろうか」と

あなたたちは言う。

この有様の根源がわたし自身にあると

あなたたちは言う。

あなたたちこそ剣を危惧せよ。

剣による罰は厳しい。

裁きのあることを知るがよい。

 

上記聖句に補足説明をします。「塵の上」というのは地上のことです。地上に立たれると明確にヨブは言っています。これは「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1:11)のとおりです。主イエスはオリーブ畑と呼ばれる山で昇天され(使徒言行録1:12)、その時と同じ有様でまた地上に来られるというのです。また、「皮膚が損なわれようとも」というのは死んだとしても、「身をもって」、即ち、肉体を持って、ヨブは死後に復活して神を仰ぎ見ると言って、神にお会いすることを切望していました。また、剣による裁きについても警告しており、新約聖書と繋がります。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 1章16節(私訳)

右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔つきは強さで照り輝く太陽のようであった。

 

文脈から明白なとおり、この方は主イエス・キリストです。口からの鋭い両刃の剣とあり、何を示すか分かっていますか。勿論、物理的な剣ではなく、神の御言葉です。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章12節

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

 

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章17節

また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

 

旧約聖書 詩編 7章13節

立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし

 

神の御言葉によって人々は生き、死にもします。このように主イエスの御言葉は、生死を司るため、両刃の剣と言われるのです。主イエスは、神の律法を守らない不法な者たちを知らない(マタイ7:21~23)と仰るので、不信仰の者、異教徒、にわかクリスチャンは主イエスから弁護されずに滅びるだけです。それ故、主イエスの御言葉、神の律法、掟、戒めを固く守る者は生き、守らない者は滅びるのです。このことからも主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時に返した申命記8:3の内容でもある「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)の意味も身にしみて分かるでしょう。世に属する人間は、パンというような食べ物だけで生きられると思っています。しかし、それは真実ではなく、どんなに栄養のある物や高価な物を食べようが主イエスを無視しては永遠に生きることはできません。彼らは復活した後のことを一切考えていませんし、考えようともせず、この地上での短い人生のことだけを考えています。悔い改めないままではどうなるかは当ブログの読者ならよく理解されたことでしょう。目先のことばかり、目に見えることばかりを考えないことです。家にしても、地上の家は永続せず、老朽化して建て直したり、地震や津波でもろくも崩れ去るかもしれません。そして死ねば離れなければなりません。いくらプール付き等の豪邸を建てようが虚しいです。そのような地上の家を欲したり、夢見たりするのは世に属する人間だけです。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章1節

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 21章3節

見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。

 

真のクリスチャンは、永遠の住みか、神の幕屋がある新しい天と新しい地を望んでいます。千年王国なんていうものはありません。そのことは過去記事「千年王国の真実 前編」と「千年王国の真実 後編」で説明済です。私たちクリスチャンは、常に主イエス・キリストにあって、心の内に平安を保ち、キリストの再臨、復活、その後に続く約束された素晴らしい報いに希望を抱くべきです。キリストと固く結ばれれば、死を怖がることもなくなるはずです。もしあなたが死を怖がるならば、愛がない未熟な状態です。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 四章十八節拙訳

慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。

 

上記のように、恐れは罰が伴うとあり、完全な者となっていない状態です。上述したとおり、敵をも愛する全き愛は最も重要なことだからです。ただし、善いこと悪いことの区別は聖書の真理を基準にして揺らいではなりません。例えば、過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」で述べたように、同性愛というモーセの律法違反の罪を罪と思わず認めることが愛と間違った行動に出てはいけません。罪を悔い改めるように諭し、罪を肯定することではなく、悔い改めさせて罪から解放するように導くことが本物の愛です。また、何度も申してきたとおり、死を異様に怖がる臆病者も不信仰の者と同じ扱いです(黙示録21:8参照)。逮捕される場面でそれが嫌で暴れるとか逃げる、処刑と聞いて腰を抜かしたり、必死に命乞いをしたり、保身のために主イエスを知らないと嘘をつく等は臆病者の典型例です。主イエスを思い出しなさい。主イエスはゲツセマネで祈られた後に逮捕される時も逃げようとしたり暴れたりしませんでした。また、十字架にかけられることを嫌がって暴れることもなく、現代の麻酔や痛み止めに該当する没薬を混ぜたぶどう酒をお受けになることもされませんでした(マルコ15:23)。主イエスは、本当に「屠り場に引かれる小羊のよう」(イザヤ書53:7)でした。キリストの再臨の時に各自が受ける報いは、私たちがこの地上でどう生きるかにかかっているのです。世俗のことばかり考え、地上の富を蓄えたり、肉の欲の虜になって自分勝手に振る舞い、神の律法、掟、戒めを守らずにやりたい放題している人はその報いが返ってくるでしょう。すべては自己責任です。自分がした行いが自分自身に返ってくるのです。もしかしたら自分は救われないのではないかと恐怖心を煽られることもあるでしょう。そう思う時は、あなた自身で身に覚えがないかあなたの信仰と行いを聖書と比較して検証すべきです。自分自身の行いが神の律法や掟に反していないか、主イエスの御言葉に反していないか、入念に確認してください。そのためにも聖書を複数回通読して何度も読み直し続けることは有益です。上述したとおり、主イエスが悪魔の誘惑を退ける根拠にしたのも聖書の言葉であり、聖書だけが唯一の権威である証拠です。なぜなら、聖書は神の御言葉だからです。地上の諸教会、偽教師、偽預言者らの言うことに騙されないでください。彼らは耳触りの良い甘言を用いて、できれば選ばれた人をも惑わして堕落させようとするだけです。悪魔が主イエスを聖書の言葉を使って誘惑したように、悪魔の子らも偽りの父と同じように聖書を使って正しいように見せかけます。しかし、真理は一つしかありません。真理は、聖書全体を通して語られることで矛盾がなく、調和します。反対に、悪魔の子らの主張や解釈には必ず矛盾が生じます。なぜなら、彼らは自分たちに都合の良いように私的解釈するからであり、文脈を無視して一部だけ切り取って主張し、都合の悪い箇所は無視するからです。だから、彼らの律法廃止論、艱難期前携挙説、千年王国説等は聖書全体を鑑みて調和が取れないのです。こうして偽りであることが見抜けるのですが、そのためには聖書の真理を知らなければなりません。そうでなければ、彼らが聖書を部分引用しただけの偽りの解釈や主張に簡単に騙されてしまいます。過去に私が聖書をもって弾劾し、反キリストぶりを証明した偽預言者RAPTに騙される人は、今やほとんどいないでしょう。過去記事「イエスの復活と偽預言者RAPTはサタンの僕である証拠」で書いたとおり、彼は主イエスの肉体の復活を否定する反キリストであると書きました。もしまだRAPTに騙されているとしたら、悪霊による酷い洗脳を受けていると言えるでしょう。上述のとおり、復活はクリスチャンの信仰としては必要不可欠であり、信じないのならばその信仰は無意味であり、クリスチャンとは言えないのです。そして、復活はキリストの再臨の時に起こるのです。このことを絶対に忘れないでください。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上