こんにちは。

 

今回は、無神論者の問題、偽りの聖職者と教会制度について書きます。

 

過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」でも述べましたが、再度啓蒙いたします。聖書と当ブログをご愛読いただいている方には言うまでもないと思いますが、この世には終わりがあるということです。過去のエノクとエリヤ、キリストの再臨時にごく少数の神の民だけがあずかる携挙を除き、この地上で人が生まれたら必ず死ぬのと一緒で、この世にあるすべてのものにはどんなことでも始まりがあれば終わりもあるのです。これから更に何千年、何万年とこの世は続いていくのではありません。今までの地上歴史は六千年もありません。科学者が言うことを真に受けて教科書等に載っているように、約四十六億年前に地球が誕生し、恐竜がいて、氷河期で絶滅、あらゆる生物は長年進化して変化し、人間も猿からネアンデルタール人、クロマニョン人等と変わってきたと思い込んでいる人がいるでしょう。いつまでそんなバレバレの嘘をいい大人になっても信じ続けているのですか。今存在する猿は何ですか。現代の猿、ゴリラ、チンパンジー、オランウータン等は進化し損なったとでも言うのでしょうか。何故猿と人間の中間層がいないのでしょうか。あなたは一度でもその中間層の猿でも人間でもない存在を直接見たことがありますか。そして、何故人間が最終形態と決めつけられるのですか。仮に猿が進化する位なら、人間も機械抜きに生物的に更に進化していないとおかしいのではないですか。どう頑張っても猿は猿であり、人間にはなれません。人間も人間のままです。もうそんな進化論というゴミ理論の嘘に気付いて、悔い改める時が来ています。ダーウィンやその家族もフリーメーソン絡みで、彼らが反キリスト故に聖書と相反する言説を考案し、世の中に普及させて人々を騙していたのです。もし、進化論を信じて疑わない教科書信者、マスコミ信者、不信仰の者は、こちら(YouTube)を視聴してみると良いでしょう。そして、こちら(情報速報ドットコム)からロスチャイルドをはじめとする偽ユダヤ人の世界革命行動計画二十五箇条を知り、あなたがたのほとんどはこの計画を知らないうちに手伝わされ、動かされ、神を信じないように仕向けられ、こき使われて搾取対象の家畜として支配され、用無しと一方的にみなされれば簡単に殺されることを認識すべきです。彼ら偽ユダヤ人は、タルムードという聖書と相容れない教義を狂信し、ユダヤ人ではないのにユダヤ人と思い込み、彼ら偽ユダヤ人以外をゴイム(家畜)と呼んでおり、人間扱いしていないのです。そして、お金や権力を彼ら一部の人間たちで握り、私たち一般人が苦しんでいるのを見て喜んでいるのです。まさに彼らは悪魔の子です。

 

私が過去記事「都市伝説という名の欺瞞と洗脳、真理である主イエス・キリスト」や「現在進行で人類は選別されている」等で非難したように、都市伝説やテレビ番組等を用いて人々を騙し、これからも長く生き続けるためにはどうしたら良いか、先行き不安な世の中になったので新しい世界秩序も必要なのではないかと思わされていると思います。もしそう思っているのなら、サタンに惑わされています。正確に言えば、あなたがたはサタンを崇拝する人間どもの言うことに騙されているのです。彼らに共通していることは「神を信じていない」、「主イエス・キリストを信じていない」ことです。異教徒を含む悪魔崇拝者と無神論者は、天の父なる神も主イエス・キリストもいないと思っているので、自分のことだけ、または自分の身内のことだけを考えて、他人のことを一切考えず、他人がどのように苦しもうとも死のうがどうでもいいとさえ思っていおり、無関心です。このような人は、冷たい心を持った悪魔の子です。今、当記事を読まれている自称無神論者のあなた、身に覚えがありませんか。そして、日々公に言えないことばかりしているのではありませんか。もしあなたが身に覚えが一切無いと言うなら、あなたは嘘つきです。そのような姿勢を改めないようならば、後で神による報復を覚悟した方が良いでしょう。しかし、もしあなたが今までの言動を悔い改めて、今までとは異なる清い生き方をしたいと思うのなら、聖書と当ブログをよく読み込むことを推奨します。そうすれば、この世がいかに欺瞞で満ち溢れ、悪が支配しているか、世の権力者や洗脳された無知な一般人が恐ろしいことをしているか分かるはずです。

 

無神論者は、それぞれの国毎であらゆる悪魔を崇める宗教的慣習や儀式、祭りをしています。日本で言えば、無神論者と言う者でも七五三、初詣、仏教式の葬式、墓参り、クリスマス、イースター、教会や神社で結婚式等、滅茶苦茶な行いをしており、それらの意味を分かっておらず、ただそうするのが慣習だからとか、伝統だと思い込んでやっています。本当に愚か極まりないです。これらは神に反逆する人間によって作られた伝統や慣習に過ぎず、天地を創造された主なる神を冒涜する行為が含まれています。無神論者は、特定の宗教を信仰せず、神はいないと思っている人を指しますが、そう思っている割には異教の宗教行為を平気でしているのです。神はいないと思いつつ、神社に賽銭を投げて願掛けをしたり、お守りを買ったりするのは何故ですか。仏も実際偽りなのですが、仏もいないと思いつつ、葬式に坊主を呼んだり、仏壇を設置して手を合わせたり、墓に供え物をして手を合わせるのは何故ですか。はっきり言って、自称無神論者は正常な精神状態ではないとしか言いようがありません。無神論者を自負する人は、自分こそが正しい、自分こそが賢いと盲信している自信過剰で、高慢な人です。そうでないとそのような滅茶苦茶な行為はできないからです。こう言われて頭に来る、反論しないと気が済まないという人は危険人物です。素直に客観的に自分たちの行動や信念がおかしいと気付けないし、認めることができないからです。中にはこのように非難する私を「非常識だ」と思う者もいるでしょうが、そう思う人こそ、主なる神から見たら非常識な人です。悪魔を拝むあらゆる異教の習慣を平気で行い、一貫した信念がまったく無く、実は多神教信者で名ばかりの無神論者は、目が覚めることがなければ、上述した滅茶苦茶な行為をこれからもし続けて、滅びに向かって虚しく短い人生を生きて行くでしょう。

 

昨今、無神論者が急増しているとよく耳にします。特に若い世代でその傾向が増えています。おそらく学校教育の洗脳の結果とテレビ等のマスコミ、またスマホ等を子供に買い与える愚かな親も増加し、SNS、ゲーム、くだらないネット動画視聴等に夢中になって目に見える物しか信じられない唯物論者になっています。特に、今まで宗教という名のカルトが悪名高く、身の回りの人が何らかの宗教信者で、そのような姿を見て、彼らを余計に無神論者にさせているのかもしれません。そんな人に言っておきます。聖書だけは宗教ではありません。主イエス・キリストもまったく宗教とは無関係であり、地上の教会とも無関係です。世の人々は、イエス・キリストと聞くと、キリスト教、カトリック、バチカン、プロテスタント、エホバの証人、モルモン教、統一教会、摂理、統一教会と摂理の影響を受けたRAPT教、全能神、その他様々な宗教を連想すると思います。はっきり言っておきますが、この世にあるそのような建物の教会や諸教派とそこに属する人たちは偽り者ばかりです。サタンは教会の内部に入り込んで、神に仕えたふりをしています。聖書にもそのことが指摘されています。

 

旧約聖書 詩編 118編8~9節

人間に頼らず、主を避けどころとしよう。

君候に頼らず、主を避けどころとしよう。

 

聖書の内容に反する偽りを語る人間の言うことや権力者の言うことに耳を傾けて従ってはいけません。地上の諸教会の聖職者を頼るべきではありませんし、政府や行政を頼るべきでもありません。それらはあなたを救うことはしませんし、できません。本当に頼るべきは主イエス・キリストであり、主の御言葉が書かれた聖書です。それ以外に拠り所を求めてはいけません。もしあなたが聖書の知識が無く、誰かの言うことが聖書に合致するかどうか知識がないために即断できない時は面倒臭がらずに聖書を調べなければなりません。もし信仰が主の御言葉という岩の上に成り立っていないのなら、簡単に崩れるからです。主イエスも以下のように仰っています。

 

新約聖書 マタイによる福音書 7章24~25節

そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

 

もし聖書を読むことを疎かにして地上の諸教会の教え、ネット上に氾濫する解説動画、市販の解説本等を頼りに信仰生活をしているのなら、それは砂の上に家を建てている状態です。その状態で艱難が襲えば、いとも簡単に崩れて狼狽し、背教するでしょう。聖書よりも人間の言うことを頼りするから騙されるのです。主イエスも「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタイ24:4)と警告なさいました。なぜなら、世の多くの人間は聖書を曲解して真理を語ることができないからです。そして、パウロも以下のように述べました。

 

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 2章8節

人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

 

上記聖句のとおり、「人のとりこ」になってはいけないのです。そう聖書にあるのに、何故にわかクリスチャンは聖職者や偽教師、偽預言者といった人間を頼るのか。芸能人、音楽家、美術家、哲学者等の人間たちのとりこになる、ファンになることも同じく禁忌です。前に弾劾したように、カトリックのローマ教皇、正教会の総主教、プロテスタントでは律法廃止論者で艱難期前携挙説を信じるハーベスト・タイム・ミニストリーズの中川健一牧師と彼に従うハーベスト信者(ヘブル的視点を強調するイエシュア・ハ・マシア派、ディズペンセーション主義者等の偽り者)、Behold IsraelのAmir Tsarfati(アミール・ツァルファティ)、東住吉キリスト集会の高原剛一郎氏がほんの一例として挙げられ他にも沢山います。そして、カルト宗教の一つとして朝鮮系カルトのRAPT教の偽預言者RAPT等、その他多数います。本当に主イエスの御言葉どおり、偽教師や偽預言者が今の世には多いです。彼らが話す聖書のこと、イスラエルのことは偽りで満ちています。

 

聖書が教える神は二種類います。天におられる主なる神とこの世の神であるサタン(コリント二 四章四節私訳)です。この世の神であるサタンは、嘘つきの父(ヨハネ八章四十四節私訳)でもあり、神の律法を否定したり守らない者たちは例外なく偽り者であり、嘘をつきます。彼らは本性から偽りを言うので、嘘をついている自覚もないのです。しかし、これは驚くことではありません。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 11章14~15節

だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。 

 

上記聖句からも偽りの教義や異教の慣習がはびこる地上の教会にはサタンに仕える者がいると示しており、通ってはいけないのです。特に、カトリックや正教会で顕著です。ただの人間に過ぎないマリアを崇めたり、偶像や絵画を造って崇めたり、信者たちが聖職者を神父等と呼んで跪いて罪を告白すれば赦すという告解をしています。しかし、これは神への冒涜行為です。罪をお赦しになることができるのは天の父なる神と人間の唯一の仲介者であられる主イエス・キリストただお一人です。また、ローマ教皇を父が原義であるPopeと呼んで尊敬することは天の父なる神への侮辱です。主イエスは以下のように仰いました。

 

新約聖書 マタイによる福音書 23章9節

また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。

 

それなのにローマ教皇等に従うカトリック信者や総主教等に従う正教会信者は盲目で、主イエスの御言葉に反した行いをしており、自分たちが反キリストを拝んでその一員になっていることに気付いていません。これはほんの一例で、カトリックが行う神への冒涜行為は他にも沢山あります。詳しくは、聖書と当ブログを読んでいただければ分かります。狡猾な悪人はサタンを拝み、サタンに仕えている者は地上の教会におり、神に仕えたふりをしています。地上の教会は土地と建物が必要になり、必ずお金が絡みます。ヨーロッパに多い地上の巨大な豪華絢爛な教会をはじめ、小規模の地上の教会でさえも何もしなくても維持費が掛かり、その上パイプオルガンや豪華な飾り付け等をすれば尚更お金がかかるので、教会員から自主的な献金と称して半強制的にお金をかき集めて運営しては無意味な説教、証しという名の自慢話大会やクリスマスやイースター等の異教の慣習を催しているのが実状です。権力を握る教会の一部は行政と不正な取引や密約によって税制優遇を受けたりもしています。そして、教会員が多い教会は多くの献金を巻き上げているので、そこの牧師等の聖職者や役員が私腹を肥やしているでしょう。特に、テレビ等のメディア露出をして名誉欲や金銭欲の虜になったり、聖書関連の解釈本、DVD、グッズ等を販売しているような人は偽り者です。このことは私が過去に弾劾してきたとおりで、聖書にもそう書かれています。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 2章17節

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っているのです。

 

神の御言葉である聖書に関する解説した本やDVD等を販売して金儲けをしている偽り者どもが世には多くいます。また、複数の過去記事で糾弾したとおり、聖書に反した内容にも拘らず、神からの啓示だとでたらめを言う偽預言者も多くおり、彼ら彼女らも例外なくお金を要求します。神の御言葉を売り物にしたり、聖書の解釈等を売り物にする者はキリストに結ばれておらずキリストを悪用して金儲けの道具にしている偽り者です。彼らは神に属する者ではありません。しかし、実際、この世ではこのような偽り者がはびこっているので、彼らを見て教会に行く気になれないと思うのは正しい感性です。彼らのような偽り者を見ていて正しい人と思えないとか、一緒に居たくないと思うのは正常です。私も同感です。ですから、地上の教会には通わなくて良いので、是非、聖書を手に取って真剣に読んでみてください。本来、聖書にあるとおり、主イエスが十字架ですべてを成し遂げられて以来、聖職者は要らないし、存在してはいけないのです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 23章8節

あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人、キリストだけで、あなたがたは皆兄弟なのだ。

 

上記聖句のとおり、師は主イエスお一人だけです。プロテスタントの地上の諸教会の教会員たちは、牧師のことを「牧師先生」と呼んでいますが、大間違いです。そのような呼び方をする者は、主イエスの御言葉に逆らう反キリストです。主イエスもファリサイ派や律法学者らといった神に仕えるふりをする者たちを「偽善者」と痛烈に非難されていました。そのように他人から「先生」等と自らを高める称号で呼ばれて戒めるどころか嬉しがったり、調子に乗って偉そうに大勢の前で上から目線で説教をする偽教師や偽預言者どもよ、悔い改めなさい。ローマ教皇、枢機卿、司教、司祭、神父、牧師等という聖職者というのは人間が勝手に作り出したもので、本来は職業ではあり得ないのです。聖職者という制度に疑問を持たないで従うにわかクリスチャンらは、聖書を曲解し、金儲け等に悪用する牧師や教師といった人間を信じて従っており、主イエス・キリストからは遠く離れています。それも聖書を読まず、主イエスの御言葉に従っていないのですから当然のことです。パウロも、伝道活動に集中した時は働くのをやめてシラスやテモテ周囲の人から援助を受けたこともありましたが、基本的にはパウロ自身も働いていました。そのことは使徒言行録18章に書かれており、パウロはテント造りを職業としていました。このように、パウロは仕事を別に持ちつつ、伝道活動もしていたのです。収入はその別の仕事によるもので、世の諸教会の聖職者たちが得る収入とは異なり、伝道や説教によって収入を得ていたのではありませんし、お金も要求していませんでした。過去記事「真のクリスチャンになる道」や「ハロウィンと罪の報酬」等でも私も述べてきたことですが、パウロは以下のようにも言っていました。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 9章18節

では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

 

何故、世の偽善者たちは、福音を宣べ伝えるのに対価を要求するのでしょうか。彼らに金銭欲やその他の醜い欲があるからです。そして、貧しい隣人に寄り添わないからです。お金を払えない人に福音を伝えないというのは愛のかけらもありません。しかし、神は愛です。主イエスは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)と主イエスの直弟子に仰り、伝道活動、悪霊の追い出し、病気の癒し等に対する金銭対価を受け取らないように命令されました。また、「神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:13)という御言葉どおり、富というお金を愛する者は神を愛していません。お金を愛する者はサタンを愛しているのです。だから、主イエスは「あなた方は地上にあなた方のために富を蓄えてはならない。」(マタイ六章十九節私訳)と仰ったのです。詳しくは過去記事「天に富を蓄えよ」を参照ください。このように、神に仕えたふりをする者が占める地上の諸教会や諸教派といった宗教団体に属する必要性はまったくありません。聖書が教えていることは、以下のとおりです。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章3、5節

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

(中略)

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章17節

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

 

このように、聖書を学んで真理を理解し、主イエス・キリストの御名によって洗礼をし、神から聖霊を送られれば、これまでの生き方や考え方が一新するはずです。聖霊を受ける条件については過去記事「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」で述べたとおり、神の律法、掟、戒めを守らねばなりません。少なくともそれらに関する知識を持っていなければ話になりません。主イエス・キリストの御名によって洗礼をしても何も変わらないのならば、それはあなたが自分を捨てていない不法の者だからです。肉の欲を抑制できずに汚れた神殿に、どうしてそこに聖霊が内在して神の力が働くことができようか。洗礼という儀式をしさえすれば、必ず誰でも聖霊をいただけるのではありません。主権は神にあるからで、人間が求めさえすれば貰えるのではありません。自分を捨てることはほとんどの人ができていません。それはクリスチャンであっても例外ではありません。過去記事「自我との戦い」をよく読み返して意識しないと絶対に改善しません。油断すると自我が強くなり、必ず神の律法、掟、戒めに違反する契機となり、神に逆らうことになります。そして、カトリックがする幼児洗礼も無意味です。なぜなら、洗礼は正しい良心を神に願い求める行為(ペトロ一3:21)だからで、その人自身の意志が無ければならないからです。言葉を話せない幼児にそのような意志が無いことは明白です。

 

一つ重大な注意事項があります。仮に聖霊をいただいたとしても、不法の行いをやめないならば聖霊を冒涜することになり、これは赦されない罪です。

 

新約聖書 マタイによる福音書 12章31~32節

だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

 

あらゆる罪を赦してくださる憐れみ深い主イエスでも、聖霊に対する冒涜は赦されないのです。洗礼をした後も、以前と変わらない罪を犯し続けるのは聖霊に対する冒涜です。聖書の真理を分かっておらず、偽りの福音を信じて自分は聖霊を受けていると言うことも冒涜行為です。そういうことを繰り返していると自分が知らない時に急に恩恵期間が終了し、良心を失って二度と悔い改めることができないようになるかもしれません。古代イスラエルの初代王であったサウルのように神に逆らったために、悪霊に支配されるでしょう。それも神の御心なのです。悪霊も神の支配下にあり、神が許可された範囲でしか行動できないからです。

 

無神論者の一部ではまる人が多いニューエイジやスピリチュアル、ヨガ等も同様にサタンの思想や習慣が紛れています。それらは、偽キリスト教である世の諸教会のように団体という形を取らず、指導者もおらず、皆が集まって楽しんだり、自分の可能性を最大限に引き出し、自己啓発、悟り、高次元の成長等、一見するとそんなに悪くないと思えるかもしれません。しかし、それらは罠です。この地上における人生の質の向上、成功して金持ちになって好きなことをしたい、周りから尊敬されたいという人間の金銭欲、名誉欲等は簡単に唆されます。この地上でより良い人生を望んで、大きな家に住むとか高価な服や装飾品を身に着ける等の世俗的な意味で自分を飾り立てて、自分しか頼れないと思うようになり、自尊心を高めている人がこの世には大勢います。これはニューエイジ思想の特徴です。主イエス・キリストの神性と人性を否定し、神の御子ではなく預言者とみなし、主イエスが奇跡を行ったのは高次元に達したからだと言い、同じくすべての人間も高次元に達すれば同じようになれると吹聴しています。これは明らかな神への冒涜であり、反キリストの思想です。聖書ではこのようなことを教えていないからです。そのような思想で生活をしている人は、自分を高め、自分に頼り、自分が神に取って代わっているのです。このようにサタンは人を主イエスから引き離すことを目的としているのが分かります。ユダヤ教徒も主イエスを拒絶、及び冒涜し、律法主義に陥り、律法を守るという自分自身の行いで救いを達成しようとしています。この律法主義ではいけませんが、律法が廃止されたと言っているのではありません。真のクリスチャンは神を愛し、主イエスに対する信仰の故に神の律法、掟、戒めを喜んで守るのです。主イエスが律法を廃止するためではなく実現するためだと仰り、天地が消え失せるまで律法から一点一画も消え去ることはないとも仰ったことからも明白です。そのことも複数の過去記事で述べてきました。

 

終わりの時代は困難な時です。権力者たちの不正が明らかになりながらも誰も制裁を科せず、嘘や偽りが公然とまかり通っています。今、まさに困難な時代に突入しています。

 

新約聖書 テモテへの手紙二 3章1~5節

しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。

 

上記に該当する人は多いです。むしろ、ほとんどこれらに該当します。自称無神論者で実際はサタンに操られた多神教信者の人は、自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢で、神をあざけって畏れず、両親を敬わず、恩を知らず、自分の身が危うくなったら簡単に人を裏切り、みだらな行い等をして快楽を愛しています。過去記事「自我との戦い」でも書いたとおり、自分を愛して自分を捨てない人は主イエスに従っていない反キリストです。聖書には自分自身を愛するように書かれていません。なぜなら、人間が自分自身を愛することが堕落した本性であり、自分を愛することは偶像礼拝でもあるからです。神を差し置いて自分という人間を優先しているからです。そして、信心を装って信心の力を否定するにわかクリスチャンも避けるべき対象です。そうでなければ、その悪い行いに影響されてしまうからです。だから過去記事「反キリストについて」でも述べたように、滅びを持ち込む反キリストには断固として戦う態度を取らねばなりません。羊の皮を被った狼に迎合してはなりません。彼らは神の律法を廃止したと主張する悪魔の子であり、イエズス会の神学を学んだ牧師、そしてその信者たちと受け継がれた人間の戒めを広め、虚しく「主よ、主よ」と言っています。

 

新約聖書 マタイによる福音書 15章8節

『この民は口先ではわたしを敬うが、

 その心はわたしから遠く離れている。

 人間の戒めを教えとして教え、

 むなしくわたしをあがめている。』

 

サタンは地上の諸教会を通じて働き、人々を堕落させ、聖書に反した耳触りの良い教えを説き、神の律法の内容を変えたり、神の律法を廃止されたと偽りによって人々に罪を犯すことを助長しています。これは約2,000年前から変わりません。サタンの同じ手口です。カトリックは古代バビロンの太陽神バアル崇拝を外形を少し変えただけで中身はまったく同じの異教であり、キリスト教ではありません。それ故、黙示録17章や18章で書かれる大淫婦はカトリックの中心地であるバチカン、ローマカトリック教会のことです。プロテスタントもカトリックに取り込まれて一つになるでしょう。そのことも過去記事「プロテスタントの致命的な間違い」で書きました。その罪から来る災いに巻き込まれないように地上の諸教会から離れよ。

 

自称無神論者、異教徒、にわかクリスチャンともども、この世での成功、名声、地位、金銭、快楽、娯楽等を欲しています。真のクリスチャン以外は例外なくこのようです。こうして、彼らは神から遠く離れて行き、サタンに操られて虚しくこの世にある物、金銭、肉の欲等に溺れて、最終的には滅びに至るのです。最後の審判ではそのような者たちには厳しい裁きがなされます。人は皆、自分自身の行いの報いを受けるのです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 20章12~13節

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

 

上記聖句のとおり、「行い」に応じて裁かれます。「主よ、主よ」と虚しく言って主イエスを信じているつもりでいても、聖書の真理どおりの正しい信仰の結果による行いが伴わないならば、まったく無意味です。信じるだけでいいなんて言うのをよく耳にすると思いますが、これはにわかクリスチャンという悪魔の子による欺瞞です。日本人に分かり易くたとえるなら、仏教の経典も読んだことがなく、さほど信じてもいないのに、葬式の時に坊主を呼んで宗教的行為をして死者を弔うふりをしたり、霊的な経験をした時に簡易のお経を唱える等です。これをクリスチャンに当てはめれば、さほど聖書を読んでもいないのに教会に通って讃美歌を歌ったり聖職者のくだらない説教を聞いて献金しているだけで自分たちは敬虔なクリスチャンと自己満足しているのと一緒です。不法の者である彼らの虚しい祈りは主には届きません。彼ら彼女らは形式張った祈りだけをして神の御心に合致した祈りができず、かえって神の御心に反する祈りをする始末だからです。この世に関する祈りをしたところでそれを叶えるのはこの世の神であるサタンだと過去記事「ゲツセマネの祈り」と「自我との戦い」でも申したとおりです。そして、行いも悪く、それによって主イエス・キリストが再臨なさる時に裁かれるのです。それを認めようとせずにしきりに携挙と騒ぐにわかクリスチャンどもは霊的に盲目であり、その時にならないと分からないのでしょう。非常に哀れです。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章6~7節

わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」

 

もはや残された時間は多くありません。今すぐ悔い改め、今までの汚れた生活から足を洗い、天地創造と人を含む万物を造られた主なる神を畏れ、礼拝すべきです。そのために聖書をまず読み込まなければいけません。それをサボって手軽な道はないかと思ってはいけません。そう思う者は必ず耳触りの良い偽りを語る人間に引っかかって正しい道を逸れます。この世の終わりの時、主イエス・キリストは報いを携えて再臨されます。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 22章12節

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。

 

主イエスよ、定められた時までにあなたの栄光と御言葉によってこの闇に支配された世界に報いを与えてください。主イエスよ、神がお選びになったあなたに従順な神の民を導いてお救いください。あなたは愛であられるとともに、義でもあられるので、愛が無い者、神の義を第一に求めない者、神を畏れない高慢な者、不信仰の者、神の律法を守らない不法の者、その他忌まわしい者に厳罰を賜りますように。あなたの再臨までに聖書に書かれたことがことごとく実現し、定められたことがすべて行われ、神の御心がすべて成されますように、主イエスよ、あなたの再臨を心待ちにしています。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は主イエス・キリストによって一人でも多くの人が救われることを願っています。

 

以上