こんにちは。
今回は、聖霊を受ける条件と悪霊の働きについて書きます。
今まで複数の過去記事で神の律法、掟、戒めを守ることの重要性、また律法は廃止されていないこと、主イエスの真実と教えについて説明してきました。最近では、悪霊に惑わされたキリスト者を装う反キリストたちによる活動が目に付きます。例えば、以下のような点です。
一 律法を守らなくても主イエスの十字架で既に救われている。
二 聖書を都合よく私的解釈する。
三 従来の教えと異なる真理を攻撃する。
まず一について。
過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」や「神の律法遵守とサタンとの戦い」で述べたように、サタンは、神と神の掟に忠実に従う人間を忌々しく思い、サタンは旧約時代からひたすら人間を神の御言葉に従わせないことで人間に神の怒りを降り注がせて喜んでいます。もっとも、これは神の子(神に属する人間)と悪魔の子(世に属する人間)を選別するための神によるふるいだと私は思っています。そして、麦(真のキリスト者)の成長に毒麦(キリスト者を装う反キリスト等)も必要なことがあるため、毒麦も放っておかれます。
創世記三章で蛇として出てきたのはサタンでした。サタンは、最初の女であったエバに嘘をついて神の御言葉に背くように誘惑しました。そして、エバがサタンに騙され、彼女に勧められてアダムも騙されて神の御命令に背き、人間はエデンの園から追放されました。なぜなら、人間が神の御言葉に背くという罪を犯し、神と一緒にいられなくなったからです。神の御言葉に背くことによって人間に死が入り込んだのです。要するに、神の御言葉、御命令、律法、掟、戒めに背くことが罪であり、死を意味するのです。罪を犯すことが神から切り離されるというのは、創世記から聖書全体を通して言われている不変の真理です。上記の一は、まさにこれです。律法を守らなくても大丈夫という偽りの教義はサタンの教えです。よく言われるのが、キリストが全人類のために十字架で犠牲になったのだから、もう律法に縛られないとか、神を信じて愛さえあればよいとか、律法を守らなくてもよいという耳触りの良い教義です。これらは正しいように聞こえますが、実際は誤っています。悪魔の子(反キリスト)たちは、人間が律法を守れないから神の御子である主イエスが代わりに死んでくださったと言いますが、実際は真逆であり、律法は廃止できないから主イエスは十字架にかからなければならなかったのです。主イエスが地上での生涯において罪を犯さなかったというのは、神の律法や掟を遵守され、違反しなかったからです。仮に律法を廃止できるなら、主イエスは律法を廃止するために来たと仰って律法を踏みにじったでしょうが、実際は主イエス御自身が律法を遵守され、律法を廃止するためではなく完成させるためと仰いました。律法違反をしているようでは、律法を完成させることはできません。安息日にファリサイ派から咎められたのを主イエスが反論したことも、ユダヤ人たちが安息日の過ごし方を間違えていたからでした。主イエスは決して安息日そのものを無くしたのではありません。悪霊に惑わされたにわかキリスト者たちは、このことを曲解して、主イエス御自身が安息日を守らなかったから、キリスト者も安息日を守らなくてよいと嘘を吹聴しています。私も過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」や「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」で述べたように、当時も今もユダヤ人はモーセの律法にはない細則(電気製品の使用不可、医療行為の禁止、筆記用具を持つな等)を勝手に定め、人間の教えや伝統として守っており、神の律法の趣旨である愛を理解して遵守していないからです。キリスト者を装う悪魔の子(反キリスト)どもは、聖なる安息日を忌み嫌い、あらゆる屁理屈を用いて必死に聖書どおりの安息日を遵守することを否定したり批判します。なぜなら、安息日こそが主なる神と神の民の間のしるし(出エジプト記三十一章十三節、エゼキエル書二十章十二節、二十節)だからです。だからこそ、四世紀にローマ皇帝やローマカトリック教会は、これを週の初めの日である日曜日を平日から休日にして、現在まで続いているのです。もし安息日が重要ではなかったら、彼らはその時を変更しようとしなかったでしょう。彼らが安息日を変更したのは神への反逆であり、サタンが人間に罪を犯させるためです。そして、過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」で述べたとおり、主イエスはモーセの律法を廃止したのではなく補完したのです。主イエスは、モーセの律法を廃止したとか、律法を守る必要はないと一言も仰っていないのにも拘らず、反キリストどもは律法を守らなくてよいとか、安息日も守らなくてよいとか滅びの言葉を吹聴します。そのような不法の者は悪魔に属する人間であり、行き着く先も悪魔と一緒です。
次に、二について。
何度も言っていることですが、例えば、携挙については、都合の良い箇所を一部抜粋して寄せ集めて、艱難期前携挙説というありもしないサタンの空想話を本物かのように主張し、キリスト者は裁かれないとか、艱難に遭わないとか、性懲りも無く聖書の真理に反して耳触りの良い御託を並べているにわかキリスト者や偽教師が非常に多いです。携挙については過去記事「携挙の真実」を必ず読んでください。律法遵守についても同様です。間違った訳の箇所が多い日本語の聖書だけを読んで、それに違和感を持たずに盲信して正しい信仰をしていると高を括っているから私的解釈していることにも気付きません。その例として過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」に挙げたコロサイ二章十三節~十六節については、当該記事を読んでください。上述したように、主イエスも律法は廃止されていないと仰り、パウロもモーセの律法は廃止されたと言っていません。律法は廃止されていないのですから、律法はどうでもいいと言えるはずがありません。廃止されていないのですから、有効なのです。もし無効ならば廃止されたことになるからです。過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」で説明したとおり、新しい契約になったからといって、モーセの律法は決して廃止になっていません。もっとも、人々が聖書を曲解するのは日本語訳の質の悪さだけに起因することではありません。仮に訳の質が悪いと言い訳をすることで、あなた自身の誤信を正当化できるでしょうか。決してそうではありません。神は神の民には正しい解釈ができるように必ず導いてくださいます。そのために聖霊が働き、正しく解釈する導き手を用意したり、別の言語の聖書が世に存在するのです。手を尽くせば真理は必ず手に入ります。しかし、すぐ目の前にある真理を受け入れず、日本語訳聖書の中から都合の良い箇所を一部抜粋して寄せ集めて、自分勝手な解釈や世間で人気のある解釈の方が正しいと思い込むことによって、獣の刻印を受けて滅ぶことになっても私には責任はありません。どうぞ勝手にしてください。
最後に、三について。
これが大艱難の時、私のような者に対する迫害の原因となるでしょう。複数の過去記事で書いてきたように、現ローマ教皇フランシスコは宗教一致運動に熱心です。まさに世界統一宗教を作ろうとしています。彼は、彼が唱える宗教や思想以外をすべて異端扱いして迫害するでしょう。現在分かっているだけでも、同性愛の容認、十戒の変更、日曜日に休むように彼は勧奨しています。今は勧奨程度ですが、法制度等の強制執行力を持たせて強要するようになるでしょう。その時が大艱難の始まりです。過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」で書いたとおり、彼は二千十四年に、「幸福のための十戒」を発表しました。彼は聖書にあるとおり神が定めた十戒を守って擁護するどころか、勝手に自分で十戒を新たに作りました。このような行いは、彼自身が神を気取っており、主なる神への冒涜行為です。その内容は、こちら(CNN)で確認できますが、下に書き出すとともに、弾劾します。
一 人を裁かない。
二 他人のために身を捧げる。
三 静かに行動する。
四 余暇を楽しむ。
五 日曜日は家族のために。
六 若者に仕事を。
七 自然に敬意を払う。
八 悪いことはさっさと忘れる。
九 信教を強要し過ぎない。
十 平和のために働く。
一について、彼は同性愛者に関して「自分は裁くべき立場にない」と発言し、一見正しいように見せかけていますが、これはモーセの律法に明確に反することです。同性愛が律法違反である事実を指摘せずに裁けないと言って逃げるのはどういうことなのでしょうか。それは同性愛者に同性愛という罪を悔い改めさせることなく、かえって助長するためです。ソドムとゴモラの教訓からやめさせるようにすべきところを助長するのは神の御意志ではありません。神の御意志とは、神の律法、掟、戒めに符合することです。そのため、エリヤの働きをした洗礼者ヨハネは権力者であったヘロデの律法違反の婚姻を臆せず咎めることもしていました。このように正しい人は神の律法を擁護し、律法違反である悪を黙認しません。過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」で書いたとおり、同性愛はモーセの律法に反しています。そして、主イエスの御言葉を悪用して裁かないと言うのが非常に狡猾です。律法遵守しないにわかキリスト者は騙され、不信仰の者も彼の虜になってしまいます。
二について、彼自身は実践していません。もし実践するなら、バチカンの財産を貧しい人々に施すべきでしょう。彼自身が身に付ける高価な装飾品や教会にある宝物等を売るなどすればいいのに、彼は決してそういうことをしません。「もし完全になりたいなら、行ってあなたが持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。」(マタイ十九章二十一節私訳)という主イエスの教えを守っていません。彼は完全な者になりたくないと自分で証言しています。財産に限らずですが、彼は他人の益になることをしたことがあるのでしょうか。彼の行いは、大衆を欺くための本心からではない見せかけの善行(偽善)だけで、大衆の知らない所ではおぞましいことをしているのです。
三は意味が分かりません。彼のように、他の組織や人間を使って世間にばれないように悪事をこっそりやるということでしょうか。大衆が知らない所でこっそりやっても神はすべてをご存知です。
四について、彼は聖書に書かれていない教えをしています。余暇を楽しむというのは世俗の生活を推進しているように私には思えます。勿論、少し位世俗的な楽しみも結構なことですが、あなたたちが世俗に深くはまり、聖書の真理から外れて信仰が薄くなるようになる可能性を孕んでいることを忘れないで欲しい。私とは逆で、彼は人々の世俗的な欲望を駆り立てて、人々を聖書から離れさせたいという狙いがあります。
五について、これは彼の日曜日に対する特別扱いです。彼に限らず歴代のローマ教皇がしてきたことです。日曜日を休む日としたり、礼拝する日とすることは、私が過去に何度も弾劾してきた太陽神崇拝から来るものです。日曜日を特別視して礼拝日としたり、安息日とするのは、太陽神崇拝の証拠であり、主なる神に逆らうことです。日曜日を安息日だと思ったり、日曜礼拝をするのはサタンを礼拝しているのです。考え過ぎだろうと思いますか。そう思っている人は、将来獣の刻印を受けるでしょう。私が何度も言っているとおり、神の律法は不変であり、安息日は日曜日ではなく、金曜日の日没から土曜日の日没までです。日曜日は平日なのですからいつもどおりの仕事をしましょう。彼は今のところは家族と過ごすようにと甘いことを言っていますが、将来は日曜礼拝を強要したりする方向に持って行くでしょう。そのための事前の慣らしです。家族と過ごすのが日曜日である必要性はありません。
六について、彼は「華やかな仕事に就く必要はない。金持ちになる必要はなく、普通でいい。幸福はそこにある。良い仕事を持ち、他人のために良い仕事を創出する。」と発言したようですが、彼自身がこれに反しています。ローマ教皇として世間から注目を浴びて名声や権威を欲し、金をかき集め、彼自身の言うことに人々を従わせようとしています。どこが普通なのでしょうか。若者ではないから普通ではなく、権力やお金、地位が欠かせないとでも言いたいのでしょうか。若者に普通でいい、金持ちにならないくてもいいというのも良い言葉に聞こえますが、新世界秩序(NWO)の下で家畜として飼い慣らしたいという思惑が隠れています。だからと言って、兄弟たち、金銭欲や名誉欲、支配欲等を持ってはいけませんし、持とうとしてもいけません。ローマ教皇がまさにそれらを持っているからで、悪い見本として考えなければいけません。NWO支配層と同じような野心を持ってはいけません。
七について、彼は綺麗事を言っていますが、彼は本当に自然に敬意を払って、守ろうとしているでしょうか。答えは否です。彼はローマ教皇になってから何回飛行機や車に乗って外遊しているのでしょうか。不必要で偽善的な外遊こそ資源の不正利用と言うに相応しいです。
八について、悪いことはさっさと忘れると彼は言っていますが、それは過去のローマ教皇やカトリック、イエズス会の悪行の数々を忘れろと言っているようなものです。また、私が過去記事「人生の過去と主イエスに従う覚悟」で書いたこととも相反します。悪いことを忘れるというのは、今の日本の政治家や官僚のようですね。彼らの「資料は廃棄してしまいました。」、「記憶にございません。」等の発言や態度が正しいと思えますか。否でしょう。過去のことは忘れた等と言うのは、とぼけて自分が罪人であることを認識することから逃げているだけです。
九について、改宗への勧誘は停滞を招くから信教を強要しすぎないと彼は発言し、これは主イエスの「あなた方は行って、あらゆる国民に教えなさい。」(マタイ二十八章十九節私訳)という福音伝道命令に反します。確かに、強制的に押し付けることは間違っていますし、無意味なことです。しかし、ローマ教皇は、主イエスの教えや聖書の真理が広まることを嫌っているから、熱心な伝道活動を否定することを言うのです。彼は必死にキリスト教徒であるように装っていますが、やはり心にあることは隠せません。彼は、聖書の真理ではなく、彼自身の信条、即ち、サタンの信条に人々を従わせたいだけなのです。今のところは彼は強制しないと柔和を装っていますが、後で悪魔の新世界秩序を各国の人々に強制するでしょう。
十について、平和のために働くという発言ですが、これも私の言ったことの実現になるか将来分かります。過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」で書いたとおり、第三次世界大戦が起こって和平を結ぶ平和の使者を装うつもりでしょう。そして、世界はローマ教皇に従うべきだという流れになり、偽りの救世主になろうという計画でしょう。因みに、ローマ教皇は二千十六年の時点で、第三次世界大戦は既に始まっていると発言しています。参考までにこちら(Rakuten Infoseek News)。準備が整い次第、いつでも戦時体制になることを彼は宣言したのです。米国のトランプ大統領は、二千十七年十二月六日にエルサレムの首都認定を宣言し、北朝鮮への圧力強化で緊張を高めたと見せかけて日本政府に武器購入をさせ、手先の国会議員や官僚を操って日本の憲法改悪をさせる等もすべて新世界秩序の実現と戦争へと着々と準備を進めています。だから、日々神の民は呑気に世俗的なことに興じている場合ではないのです。
悪霊の働きをしているかどうかは、過去記事「聖霊の賜物について」でも述べたとおり、その人が神の律法、掟、戒めを守っているかどうか、聖書の真理に合致する言動をしているかどうかで判断できます。悪魔の子たちは以下の聖句を無視しますが、主イエスは神の民のために以下のように見分け方を教えてくださっています。
新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節〜二十三節(拙訳)
「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るのではなく、我が天の父の御意志を行う者が入るのである。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」
預言をしたから、異言を話したから、外国語が流暢だから、主イエスの御名を使って奇跡、癒し、悪霊の追い出しをしたからといってキリストに結ばれていると安易に判断するのは大きな誤りです。それだけをもって聖霊が働く真のキリスト者と判断するのは間違えています。主イエスは、たとえそのような行いをしたとしても、不法を行う者、即ち、神の律法や掟、戒めを守らない者は神の民ではないよそ者なので離れるように仰います。要するに、律法や掟を守らない人は神の民ではないということです。サタンは不法を働いたので、天から落とされ、火の池に入れられる運命に定められました。同じように、神の律法、掟、戒めを守らない不法な人間もサタンと同じ末路をたどることは必然です。
また、律法はすべて遵守しなければいけないことは「誰であれすべての律法を守ろうとも、一つの点で罪を犯すなら、すべてにおいて有罪だからです。」(ヤコブ二章十節拙訳)という聖句からも明らかです。過去記事「罪への正しい認識と愛の重要性」で書いたとおり、主イエスも天の父のように神の民に完全な者となりなさい(マタイ五章四十八節参照)と教えられています。律法を少し位破ってもいいという教えは聖書にはありません。偶像礼拝を悪だと主張するキリスト者が安息日を否定するのは矛盾でしかなく、偽り者のにわかキリスト者であることが明白です。このような偽り者は偶像礼拝を否定していても、実際のところ、彼らは偶像礼拝をしているものです。要するに、彼らは口先だけなのです。このような悪魔の子は、彼ら自身が支離滅裂で矛盾だらけの間違った信仰や言動をしていることを自覚していません。過去記事「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」でも述べたとおり、完全か不完全かのどちらかです。そして、完全な者に成長するためには神の律法、掟、戒めを守り、さらに聖霊の導きが不可欠です。しかし、律法を守ろうとすらしない者に内在する霊は悪霊であることは明らかです。特に聖書どおりの安息日を守っているかは簡単に見分けがつく箇所です。ほとんどの悪魔の子はこれで見分けがつくからです。ただし、安息日を守っても他の律法を犯している場合もあり得ますので油断してはなりません。重要なのは、完全に神に服従しているかどうかです。神に完全に服従するというのは、神の律法、掟、戒めをすべて守ることです。主イエスは以下のように仰いました。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章十五節~十七節(私訳)
「もし、あなた方がわたしを愛しているならば、あなた方はわたしの掟を守る。そうすれば、わたしは父にお願いしよう。それから、父は永遠にあなた方と一緒にいられるように別の補助者を与えてくださるだろう。この方は真理の霊であり、大多数の人は受けることができないものである。なぜなら、この霊を見ることができず、知ろうともしないからである。」
上記の聖句も聖書を読んでいれば目にしたはずの箇所だと思いますが、理解できていない人が殆どです。聖書の読者の殆どは自分がこれに当てはまると安易に思い込んでいますが、それが誤信だと思っていません。その誤りを明らかにしましょう。上記聖句で順序に注目してください。まず、条件です。もし主イエスを愛しているならば、主イエスの掟を守ると書かれています。主イエスへの愛があってこそ律法、掟、戒めを守って服従するのです。これは方程式で、片方だけでは成り立たないのです。
主イエスへの愛 = 神の律法、掟、戒めの遵守(神への完全服従)
↓
神から聖霊が与えられる
↓
成長して完全な者となる
つまり、神の律法、掟、戒めを遵守しない者は主イエスを口先だけで愛しているとか信じていると言って崇めたとしても偽り者だということが明白です。だから、主イエスは不法な行いを改めないにわかキリスト者を知らないと仰るのです。そして、「そうすれば」とあり、主イエスは天の父なる神に依頼して、主イエスを心から愛して神の律法、掟、戒めの遵守をする人間に補助者である聖霊を送られ、御父と主イエスが来て住居をその人間と一緒に造るのです。要するに、聖霊を受ける条件として、主イエスへの愛と神の律法、掟、戒めの遵守が必要ということが分かります。そして、聖霊を受ければ、真理が分かります(ヨハネ十六章十三節参照)。この主イエスの教えに然りと言えず、否定したり、異論を唱える者は、悪霊に惑わされている悪魔の子(反キリスト)です。そのような者たちは、自ら神との永遠の分離を欲しているようなものです。キリスト者と自称しながらも神の律法、掟、戒めを蔑ろにする者は、神に服従していないので、悪霊しか受けられません。そして、言動が粗悪になり、神の民を誹謗中傷する等の迫害をし始めるようになります。例えるなら、彼らは酔っ払いに等しいです。酔っ払いも自分は酔っていない、大丈夫だと言いますが、冷静な第三者から見ると明らかに酔っ払いと分かります。彼らは明らかにおかしな言動をしているのに、彼ら自身はそれが正しいと思い込んでいるのです。そして、彼らは自分が何をしているのか分からないので、決して自分自身で誤りに気付くことがないですし、他人から注意されても聞く耳を持たないのです。このような状態になっていると後はどこまでも「主よ、主よ」と無意味に言いながら悪の道を進んで堕ちていくだけです。そのような人は個人の恩恵期間が終了したかのように思えます。にわかキリスト者は、上記の真のキリスト者の式とは逆で、以下のとおりです。
主イエスへの愛が無い = 神の律法、掟、戒めの不遵守(神への不服従)
↓
聖書の真理を見聞きしても認めずに拒絶する
↓
神から悪霊が与えられる
↓
ますます悪化して最後には滅びる
にわかキリスト者は、聖書を読んで口先だけ主を崇めますが、実際は神を愛しておらず、上記の過程を辿っています。以下の聖句にもあります。
新約聖書 テサロニケの信徒への手紙二 二章九節~十二節(私訳)
不法の者の到来は、サタンの働きによるもので、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを伴い、そして、あらゆる不義の欺瞞が滅ぶ人々の間にある。なぜなら、彼らが自分たちが救われる真理の愛を受け入れなかったからです。更に、このため、神は彼らが偽りを信じるよう、彼らに迷いの力を送られるでしょう。真理を信じないで不義の中にいることを喜んでいた者は皆、有罪で裁かれるためです。
ここでも不法の者とあり、神の律法、掟、戒めに従わない偽り者のにわかキリスト者のことについて書かれています。彼らは滅びる者であり、他の滅びゆく人々を巻き込んでいるだけなのです。多くの者が真理の愛を受け入れることを拒んだので、彼らが滅びるために神から迷いの力である強い悪霊を送られて偽りの教えを信じて疑わないようになります。聖書の真理を宣べ伝える私の説明を聞き入れない者は悪霊に惑わされています。神を愛するならば、不義を喜ばず、真理を喜ぶはずです。十字架を盾に律法を守らなくてもいいという主張(律法廃止論)、聖書に無い異教の祭り(クリスマスやイースター等)の擁護、同性愛や同性婚の擁護、不法の者がする異言・奇跡・癒し・悪霊の追い出し等、偽りの獣の刻印(マイクロチップ等)、偽預言、艱難期前携挙説や秘密携挙説が現代に頻繁に見られる欺瞞です。聖書を読んで確認してあなたの理性を最大限に使って判断してみてください。ちなみに、私は今まで一度も私だけが正しいなどと言ったことはありません。ただ真理とは何かと偽りは何かということと偽りを弾劾しているだけです。悪霊に惑わされて悪意や敵意しかない者は読解力も損なわれて、私が言っていないことを言ったとことにしたり、私が言ったことを曲解する等して嘘を吹聴しています。同じく彼らは主イエスの御言葉やパウロの言葉も曲解しています。それも彼らが神の律法、掟、戒めを守らず神に服従していないからです。不法で背教したにわかキリスト者は本当に精神が腐っている悪魔の子としか言いようがありません。
神に服従していないにわかキリスト者たちは、悪霊を受けているのに、聖霊を受けたと思い込んでおり、聖書の真理ではなく彼ら自身の信条こそが正しいと思う高慢に陥っています。上述したように、主イエスは私たちにまず神を愛することを要求され、それは神の律法、掟、戒めを守ることであると示されました。その結果、主イエスは天の父なる神に依頼され、神の民に聖霊をお与えになるのです。そして、神の律法、掟、戒めを守って洗礼を受け、聖霊を与えられた真のキリスト者は日々キリストに近い品性形成を目指して神の御心を模索して行い、成長していくのです。しかし、にわかキリスト者は、これを理解せず、水だけの洗礼を受けて安心しきって、「主よ、主よ」と言って敬虔なふりをし、日々神の律法、掟、戒めを蔑ろにし続け、目に見える奇跡、異言、癒し等を奨励したり、あるいはそれらを見て簡単に惑わされ、彼ら自身の信条と異なる真理を見つけては忌々しく思って誹謗中傷する等して迫害をします。これが現実です。過去記事「預言者と偽預言者の違い」でも注意喚起したとおり、「偽メシアたちや偽預言者たちが現れて、できれば、選ばれた人々たちをも惑わすために、大きなしるしや奇跡を起こす。」(マタイ二十四章二十四節私訳)のです。奇跡等の大それたことでなくとも、真理と真理を語る人を誹謗中傷して人々に不信感を抱かせて、ともに悪魔と同じ道に行くようにする働きも悪霊の働きで、そのような活動をしている者が大勢います。そして、悪霊の働きの一つとして、世俗的な生活の奨励があります。要するに、妥協の精神です。私はこれを否定してきました。しかし、悪魔の子(反キリスト)は、「折角の楽しみである世俗的なことを存分に楽しんだらいいじゃないか。」、「世俗に深くはまっても律法を無視してもイエスを信じていたら救われているから大丈夫だ。」、「財産を得ることは悪いことじゃない。」、「聖書を読んでイエスを信じて教会に通っていたらこの世で万事上手く行き、幸せに生きられる。」といった甘い言葉を吐きます。しかし、これらはすべて聖書の真理に反する事柄です。聖書の真理に反する肉の欲、目の欲、生活の充実度を満足させる魅惑的な言葉で堕落させることを言うのが悪霊の働きです。これらの惑わしをする者、惑わされる者ともに、世に属する人間です。神に属する人間であれば、このような甘い言葉を言いませんし、このような惑わしに引っ掛からないはずです。もしこのような罠に引っ掛かっても気付いて悔い改めて立ち直るならばまだ大丈夫です。堕落した地上の諸教会や偽りを教え広める組織や集団、偽教師、偽預言者、陰口を言い合う悪魔の子の集いから離れなさい。それは対面だけでなく、ネット上でも同じです。兄弟たち、誹謗中傷をする悪魔の子による悪い行いに加わらないようにしなさい。彼らの罪に巻き込まれないようにしてください。
新約聖書 ペトロの手紙一 五章八節〜九節(私訳)
冷静で注意深くいなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。
精神が腐りきった不法な言動を改めない悪魔の子(反キリスト)どもが、好き放題に口から悪い言葉を吐き、身を汚し、本人だけでなく、他人をも巻き込んで悪魔の巣窟を作り出しています。現代の地上の諸教会もこのようであり、ネット上もこのような所が多いです。もっとも、彼ら自身は悪い行いをしているという自覚がなく、より多くの滅びゆく悪魔の子を引き寄せています。これが上記聖句にあるように悪魔が獲物を求めている様子です。悪霊は残された時が短いのを知って、未だかつてない程に狡猾に人々を騙します。悪霊は、もはや人間に聖書を読まないように仕向けるという古い手段ではなく、聖書を曲解した偽りの教義で騙すのです。聖書を読まない人間は論外で、放っておいても滅びるので蚊帳の外だから放置されます。悪霊は、救われるか救われないかの瀬戸際にいる人を特に標的として何とか真理から遠ざけたり、真理が偽りで偽りを真理だと嘘を言って騙そうとします。その具体的な手口は過去に申したとおりです。そして、その災いに巻き込まれる者は以下のようになります。
新約聖書 ペトロの手紙二 2章20〜21節(私訳)
もしわたしたちの主、救い主イエス・キリストの知識によって世の汚れから逃れた後で、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、最期はより悪くなるからです。義の道を知った後で、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったからです。
本当に、私も悔い改めようとしない頑ななにわかクリスチャンの末路を思うと哀れに思います。彼らは真理を目にしてもそれを真理と認めず、愛そうとせずに拒絶して罵倒し、自ら滅びの道へと突き進んでいるからです。いっその事、彼らが何も知らない方が良かったとは私も強く同意するところです。彼らは今後悔い改めないなら、彼ら自身は実現しない妄想の中で生き、もはや絶望しかありません。
上述、及び複数の過去記事でローマ教皇について多く書いてきました。今後、ローマ教皇とアメリカをはじめとするシオニスト勢力がイスラム勢力と対決して勝ち、地上の諸教会(カトリック、プロテスタント、正教会等)は一致に向けて動きを加速させ、NWOを掲げてローマ教皇の信条を強要し、神の民に最後の戦いを挑んできます。過去に私が述べてきたように、ローマ教皇は、世界を支配することと、世界の人々に彼の信条に従わせること、主なる神に逆らうことを欲しているだけなのです。だから、彼は聖書の教義を守ることよりも、平和や友愛といった耳触りの良いスローガンを立てて行動し、人々を惑わし、バベルの塔の時のように、NWOの下で人々を再び一つにまとめようとしているのです。これはサタンの働きです。
旧約聖書 エレミヤ書 6章14節
彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して
平和がないのに、『平和、平和』と言う。
上記翻訳ミスがあり、「わが民の破滅を手軽に治療して」ではなく「わが民の娘の傷を少し治療もして」に要訂正です。にわかクリスチャンたちは、「イエスの十字架に感謝して信じていればもう救われているから大丈夫」、「アーメン」、「ハレルヤ」等と言います。また、彼らの態度が以下のように言っています。
旧約聖書 エレミヤ書 6章16節
主はこう言われる。
「さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に問いかけてみよ
どれが幸いに至る道か、と。
その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」
しかし、彼らは言った。
「そこを歩むことをしない。」と。
上記翻訳ミスがあり、「昔からの道に問いかけよ」ではなく「昔からの道を求めよ」です。そして、その後は「そこが善い道である。あなたがたがその道を歩めば、魂に安息を見出すだろう。」と要訂正です。上記聖句の「昔からの道」というのは、神を愛して神の御言葉に聞き従うことと神の律法、掟、戒めを守ることです。これが太古の昔から続く不変の真理です。この道を歩むようにと主なる神は人々に勧めますが、悪魔の子らはその道を歩むことを拒否します。まさに、私が弾劾してきた人々のことです。彼らは自ら正しい道を歩むことを拒否して、自分たちが信じる間違った道に進もうと決めています。
また、私が教会設立を告知したことで、ふるいが加速しています。このことで本性を隠して近づいていた悪魔の子らは離れて行きました。これからこのふるいは止まることなく、ますます悪魔の子は本性を露わにし、背教し、神の民と真理を嫌って迫害するようになります。所詮、神の民ではない者が神の民になろうとしても無理なのです。なぜなら、これは神の自由な選びと一方的な憐れみと恵みによるものだからです。このことは過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で書いたとおりです。私が教会の入試を設けたのも、間違った信仰を持つ悪魔の子らを排除するためであり、災いと無駄な論争を引き起こす者に来て欲しくないからです。決して私に従うようにという意味ではなく、主イエス・キリストに従順に従う者を募っているだけです。そして、私は師事されるべき存在ではないと過去記事「自我との戦い」で述べました。悪魔の子らは、本当に人の言葉を曲解するのが得意で、誹謗中傷や無駄な議論をするのが大好きです。彼らが私と聖書の言葉を曲解することの根底には、悪意と敵意があります。そうでなければ、曲解はできません。そして、これは悪霊の働きなのです。
サタンは人間の弱い所を突いてきます。例えば、性欲旺盛な男性は、十代で軽々と童貞を捨て、大人になってもハニートラップ等に簡単に引っ掛かります。結婚したとしても性欲が抑えられず不倫したり夜遊びをするでしょう。同じく、性欲旺盛な女性は、十代で軽々と処女を捨て、複数の男性と関係を持ったり、不倫したり、金のために身売りするでしょう。離婚も原則的には許されていないのに軽々しく結婚し、簡単に離婚、再婚を繰り返す者もいます。たばこ、酒、麻薬、脱法薬物、賭け事、宝くじ、カジノ、仮想通貨、株、FX、スマホ、ゲーム、買い物等に夢中になる人は彼ら自身の弱い所を突かれているのです。この世にある物に強く依存したり執着することは偶像礼拝をしているに等しいです。必要以上のお金や財産を求める金銭欲は諸悪の根源です。何かにつけて金銭を得ようとしたり、常に金銭を追い求め、金銭の呪縛に囚われている者は強い悪霊に惑わされています。このように肉の欲が強い人間は、キリストに結ばれておらず、信仰に入った後でもこれらに打ち負かされるなら世に属する人間であり、にわかクリスチャンです。さらに巧妙なのは、上述したように聖書を曲解して主イエスの十字架の御業を悪用して神の律法、掟、戒めを遵守させない働きで、即ち、悔い改めをさせない働きこそが最も厄介な働きです。悪霊に惑わされた人間は、律法を守ろうとすると罪の奴隷にいると言いますが、これは完全に間違っており、神の律法や掟に従わないで罪を犯し続けることこそが罪の奴隷になっているのです。サタンは神に反逆、即ち、神の御言葉に背いて不法を行ったから滅びに定められたのです。律法を無視して罪を犯し続ける不法な悪魔の子(反キリスト)に聖霊は絶対にいません。
新約聖書 テモテへの手紙一 四章一節~五節(拙訳)
今こそがパウロを通して聖霊が仰った新約の後半の時代、終わりの時代です。非常に多くの惑わす者、真理に反する悪霊に惑わされた反キリストが嘘をつき、彼らの仲間に引き入れようとしています。彼らは正しい信仰をしているように見せかけていますが、実は既に背教しています。彼らは聖書の文言や私の宣べ伝えたことを曲解したり、言ってもいないことを言ったことにする嘘つきであり、惑わす悪霊の影響で悪魔の教えを信じている悪魔の子であることの証明です。パウロが書いた結婚とは文字どおりの男女間の結婚だけでなく、キリストとの結婚をも意味します。サタンは人間にキリストと真に結ばれる結婚を嫌っているのです。ですから、サタンは惑わした人間を使って必死に嘘をついて、キリストから人々を引き離そうとします。惑わされている人間には惑わされているという自覚がなく、彼ら自身は何をしているのか分かっていません。にわかクリスチャンは片思いの状態にも拘らず、両思いであると勘違いし続けていると過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で述べたとおりです。神の律法、掟、戒めを守らない結果、聖霊を受けられない状態で、キリストと結婚することはできません。日本語訳は誤訳で分からないようになっていますが、KJVではmeatsと明確に肉を示し、終わりの時代の背教の兆候の一つとして肉食の禁止が起こると書かれました。肉食禁止について、Vegan(ヴィーガン)という完全菜食主義者というのが最近増加しつつあり、カトリックをはじめとする一部の著名人ら悪魔崇拝者たちがこれを推進しています。また、婉曲的表現で、meatsを食物と考えて食物も文字どおりの食べ物だけでなく、神の御言葉、命のパンであるキリスト(ヨハネ6:34, 48参照)の御言葉を指しています。即ち、背教者は人々を聖書から遠ざけるということです。サタンはキリストの御言葉から真理を悟らせないように曲解したり、一部の御言葉を無かったものとして拒絶していますが、私がその偽りを暴いて弾劾しています。聖書の中の神の霊感をもって書かれた内容に拒絶すべき箇所は何もないのです。しかし、悪霊に惑わされた悪魔の子たちは自分たちに都合の悪い箇所を無視するか曲解して必死に彼らの信条こそが真理だと取り繕いますが、私が宣べ伝えた真理には何一つ反証できていません。真理に対抗できるはずがありません。彼らがキリストや私を誹謗中傷したり、偽りの教義を振りかざしたところで、滅びゆく人々以外は同調したり惑わされたりしません。
上述したとおり、神の律法、掟、戒めを遵守しない者は、主イエスを愛していないのであり、聖霊を受けられません。数少ない兄弟たちよ、あなたがたは聖書の真理を喜び、信じて、主イエス・キリストに結びついて離れないようにしてください。しかし、すべては神の御計画、御心どおりに成就します。あなたがたが真理を拒絶して堕ちていくのも、惑わされず残りの者となれるかもすべては神の御計画と御心次第です。人間ではどうにもできないのですが、私は、神の御心とその残りの者のために奉仕しています。
新約聖書 テモテへの手紙一 4章7節
俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。
上記聖句で言う作り話とは、私が弾劾してきた偽りの教えや考えのことです。私が何度も警告してきた艱難期前携挙説というのが作り話の典型例です。艱難に遭わないという耳触りの良い嘘に騙されたにわかクリスチャンは、艱難に向けての霊的備えを疎かにするからです。そして、人間が聖霊を受けるのを妨害する工作である律法廃止論も同様です。また、過去記事「千年王国の真実 前編」と「千年王国の真実 後編」で書いたとおり、千年王国があるとする主張等もすべて聖書に合致しない作り話です。聖書の真理に反する教えはすべてサタンの作り話です。私が弾劾してきた俗悪な作り話を信じる者は、世に属する人間です。兄弟たちよ、悪魔の子のようになってはいけません。聖書の御言葉を基に、聖書を正しく理解し、真理を信じて、あなた自身を霊的に成長させるように鍛えてください。
手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上