こんにちは。

 

今回は、プロテスタントの致命的な間違いについて書きます。

 

まず最初に、プロテスタントとは何かというのを簡単に説明します。プロテスタントは英語のProtestantで、抗議する者という意味です。プロテスタントの由来は、1517年にドイツのマルティン・ルターを中心として始まった宗教改革によって、ローマカトリック教会から分離した組織です。彼らがカトリックの教義を誤りと考え、それに抗議したことに由来します。実は、ルターは若い頃にカトリックの修道会に入っており司祭になりました。しかし、彼は聖書を読んで研究した結果、カトリックの教義に誤りがあることを指摘した著作を書き、カトリック教会からそれらを撤回しないと破門と脅迫されても、それを断ってカトリックと断絶しました。このように当時はカトリックとプロテスタントは互いに相容れない存在でした。しかし、現在ではどうでしょうか。

 

私は、今まで複数の過去記事でカトリックを偽キリスト教であり異教と断じて、プロテスタントも律法廃止論を唱えて背教していると述べてきました。実際、これは事実であり、ほとんどの世の諸教会では聖書の真理とイエス・キリストの真実について語られていません。それどころか、世に多く語られているのは、サタンの教えです。聖書を朗読して、讃美歌を歌って、皆で祈って敬虔なクリスチャンを演出しています。しかし、実際のところ、悪魔の巣窟でしかありません。カトリックは論外であると散々述べたので、今回はプロテスタントの致命的な点を述べます。その致命的な点とは、私が何度も記事にしてきた罪と主イエスの十字架に対する考え方です。聖書と私のブログをきちんと読んで理解している人にとっては復習になりますが、理解していない人は理解に努めてください。まず、罪とは何かと問われれば、「罪とは、法に背くことです。」(ヨハネ一3:4)とすぐに言えるようなっていなければなりません。法とは何かと言えば、神がモーセを通して人間にお与えになった神の律法であり、人間の法ではありません。そして、神の律法に背くことが神に対して罪を犯し、その人は罪人になるのです。人間が罪を犯した結果、返ってくるのは死であり、この死は肉体的な第一の死ではなく、神と永遠に分離されて滅びる第二の死に引き渡されます。反対に、主イエスを信じて、神を愛するが故に律法を守って罪を犯さない結果、得るのは永遠の命です。これは神からの一方的な憐れみと恵みによる賜物です。不義とは、罪です(ヨハネ一5:17)。反対に、義とは神の律法を守って罪を犯さないことです。そして、義を行う者は、主イエスと同じように正しい人なのです(ヨハネ一3:7参照)。世の人間たちは、あまりにも神の律法を軽視、または無視しており、過去記事「ゲツセマネの祈り」で書いたように、主イエスは全人類の罪の重さに押し潰される思いがしてもなお、神の民のことをお想いになり、肉の欲によって十字架を回避するようにサタンからの誘惑と戦い、祈りと信仰によって打ち勝たれ、全人類の罪を背負って、自らの命を犠牲にされました。主イエスが肉の欲やサタンからの誘惑に屈することなく十字架の死まで従順であられた結果、新しい契約の仲介者になられ、天の聖所で神の民の罪を赦す働きをする大祭司となられたのです。以下の聖句も悪魔の子らによってしばしば誤解釈されています。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16~18節

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。

 

上記聖句を万人救済のように吹聴する者がいますが、誤っています。「イエスを信じる」と口先だけで言うのは簡単だからです。口先だけの信仰で行いが伴わず、霊的に死んだようになっているにわかクリスチャンが非常に多いです。天の父なる神が御子イエスを地上にお遣わしになったのは、神が人間を愛しておられるからです。そうでなければ、現在まで6,000年近くもこの世を続かせることもなく、ノアの洪水の時に8人も救うこともなく絶滅させていたことでしょう。しかし、神は人間を創造した時に「極めて良かった」(創世記1:31)と仰ったことから分かるとおり、人間を愛しておられます。神は、あらかじめ定められた御計画に基づき、多くの人間から神の民を各時代に少しずつ送り込まれ、人類歴史を導いておられ、時の終わりに御子イエスをこの地上に再臨させ、先に眠りについた神の民を復活させ、生きている最後の少数の神の民を携挙し、この世を滅ぼし、新しい天と新しい地を再創造され、そこに神の民を永遠に住まわせてくださいます。前回記事「憐れみ深い神」で書いたとおり、神の民は神の召使いではなく実の子として扱われ、本来は滅びて当然のところを赦されて神の御国に招かれる神の愛がどれ程大きいかよく考えてください。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ一4:10)と書かれているとおり、神が神の民を愛されたのです。そして、神の民は神の愛を感じ、それに応えるように神を愛し、神の律法、掟、戒めを守ります。神の民は、神が示された愛に倣い、兄弟間で愛し合わなければなりません(ヨハネ一4:11参照)。主イエスも以下のように私たちに命令されています。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章34~35節

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章12節

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

 

愛し合わない兄弟は、兄弟とは言えません。敵意を持って憎んだり誹謗中傷する者、兄弟のために働かない者は悪魔の子です。なぜなら、彼らは主イエスの掟に従っていないからです。もし兄弟を愛していれば、悪意や敵意を持たず、誹謗中傷等の迫害をすることもないからです。

 

さて、ここからが本題です。

上述した内容でも多くのプロテスタント信者がモーセの律法と主イエスの掟に従っていないという反キリストの証明になっており、過去に律法廃止論について弾劾したことも当然含みますが、プロテスタントの致命的な点を改めて指摘します。まずは、主イエスの十字架の贖いの意味についてです。主イエス・キリストが十字架での死をもって全人類の罪を贖ってくださったというのは、人間が主イエスを信じて愛し、神の律法、掟、戒めを守らせて服従させることで、あらゆる罪から自由にさせるためです。この点は過去記事「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」で既に言及しましたとおり、悪霊に惑わされた人間は、律法を守ろうとすると罪の奴隷にいると言いますが、実際は真逆で、神の律法、掟、戒めに従わないで罪を犯し続けることこそが罪の奴隷になっているのです。このことは、主イエスも以下のように仰っています。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章34節

はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。

 

私が好き勝手に言っているのではないことが、主イエスの御言葉によって裏付けられます。プロテスタントの諸教会、諸教派では、イエス・キリストを救い主として公に言っていれば救われているとか、以下の福音の三要素「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと」(コリント一15:4)を信じて受け入れれば良いと吹聴しています。これらを信じないのは過去記事「イエスの復活と偽預言者RAPTはサタンの僕である証拠」で弾劾したとおり、太陽神バアル崇拝者の偽預言者RAPTとRAPT信者のようであり、クリスチャンとは言えないです。実際、彼らはカルト宗教の教祖とその信者に過ぎず、クリスチャンではないとも散々申してきました。もはや彼らはどうでもいいのですが、プロテスタントの牧師や信者が言うように、福音の三要素だけを信じさえすれば良いというのも間違っています。なぜなら、それらだけでは不十分だからです。以下の神の御言葉を忘れていますか。

 

旧約聖書 出エジプト記 20章2節

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 

神の律法、掟、戒めを破って罪を犯し続けるにわかクリスチャンは、不信仰の者、異教徒と同じく罪の奴隷であり、エジプトに繋がれたままであり、未だにエジプトを出ることができていないのです。エジプトに罪の奴隷としてサタンの支配下にあることに気付かず、もう自分たちは救われたとか、律法から解放されて自由だとか訳の分からない戯言を言っています。彼らにとっては、エジプトで奴隷暮らしをすることが居心地が良いのでしょう。このように、人は属している所に居たがるのです。彼らは彼ら自身が罪を犯し続ける罪の奴隷で、悪魔に属する者だということに気付けない哀れな者たちです。過去記事「死後の世界」で話した金持ちとラザロの例え話のとおり、天国と陰府は、その両者の間には、大きな淵があって、行き来できないのです(ルカ16:26)。彼らが主イエスの十字架を悪用して神の律法、掟、戒めを破って罪を犯し続けてエジプトにいる限りは、死後は陰府に行くことになります。そして、天の国に行こうとしても深淵があって行くことができません。

また、律法自体が愛にも拘らず愛さえあれば律法なんて関係ないとか、律法は過去のものだとか、律法はイスラエル人だけに与えられたとか、あらゆる屁理屈を悪霊に惑わされた反キリストたちは主張します。しかし、真の聖書福音は、これらサタンの主張を粉砕します。主イエスの十字架での贖いによって、神の民の過去の罪や咎を赦してくださり、神の民は神の愛に応えて神を愛し、神の律法、掟、戒めを喜んで守って服従し、出エジプトすることができ、罪の奴隷ではなくなって自由になるのです。これを理解できれば、主イエスの仰った「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)の御言葉の意味が理解できます。そして、天の国に続く階段を上がって行くように成長していきます。真の聖書福音の働きは、神の律法、掟、戒めの要求を堕落した人間の水準に落とすことではなく、堕落した人間を神の水準にまで引き上げることです。世のプロテスタント信者たちは、まったく逆のことをしており、神の律法を無視したり、堕落した罪の奴隷の人間程度に無理に落として聖書の御言葉を当てはめるために福音を曲解しています。もしあなたがモーセの律法の重要性が分からないなら、過去記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」でも書いたとおり、詩編119編を読むと良いでしょう。

 

旧約聖書 詩編 119編165~167節

あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり

つまずかせるものはありません。

主よ、わたしは御救いを仰いで待ち

あなたの戒めを実行します。

わたしの魂はあなたの定めを守り

それをどこまでも愛します。

 

神の律法、掟、戒めを守らず、神を愛さない者は偽り者で、その人の内に真理はありません(ヨハネ一2:4参照)。ヨハネによる福音書5章にあるベドザダの池で病人を癒された時、主イエスは「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(ヨハネ5:14)と仰いました。同じく過去記事「主イエス・キリストを信じない者の生き方と行い」、「預言者と偽預言者の違い」、「憐れみ深い神」で言及したヨハネによる福音書8:1~11の姦通の女の話も同じです。また以下の聖句も複数の過去記事で引用しましたが再掲します。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 2章3~4節

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。

 

プロテスタントに属する人は、ただイエス・キリストを信じれば救われるとか、福音の三要素が救いの条件だとか、信仰による義認で行いは問われないと言っていますが、これらは真理ではなく、正しい信仰ではありません。なぜなら、彼らは神の律法や掟を無視している偽り者であり、彼らの内には真理がないからです。正しい信仰を持つ人は、神の律法、掟、戒めをことごとく守り、正しい信仰を持つ証しとして行いが伴うようになるのです。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)ということを忘れないでください。

 

律法の専門家が、永遠の命を得るためにはどうするべきかと主イエスに質問した時にお答えになった主イエスの御言葉を思い出してください。主イエスは以下のようにお答えになりました。

 

新約聖書 ルカによる福音書 10章26節

「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」

 

これと同じ質問をあなたにも問います。あなたは何と答えますか。世に多くいるプロテスタントの牧師やその信者のように、イエス・キリストをただ信じて洗礼を受ければ良いとか、福音の三要素を信じていれば良いと答えるのでしょうか。はっきり言って、これらの回答は、まったく主イエスのご質問に対する回答になっていませんし、間違っています。主イエスは律法についてお尋ねになりました。もし律法が廃止されたなら、主イエスはこのようなご質問をなさらなかったでしょう。あの律法の専門家は旧約聖書に詳しかったので、申命記6:5とレビ記19:18に書かれているとおりに回答しました。そして、主イエスは以下のようにお答えになりました。

 

新約聖書 ルカによる福音書 10章28節

イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

このように、主イエスはモーセの律法を守ることと、それを実行するように、即ち、行いで示せれば永遠の命が得られると仰ったのです。ここでも明確に主イエスは律法にあるとおり実行するようにと仰り、「行い」を求めておられます。心の中で神を信じてさえいれば良いとか、律法も知識として知っておけば良く、守る必要はないと仰っていません。また、私が複数の過去記事で引用した、「御言葉の実行者になり、自分たち自身を欺いて、傍聴者だけになったらあきません。」(ヤコブ一章二十二節拙訳)と聖書に書かれているとおりです。これは私が今まで説明してきたとおり、行いによる信仰ではなく、正しい信仰の結果現れるのが行いなのです。信仰は、心の中でイエス・キリストを信じていると言う一方で、この世で好き放題に生きて良いということではありません。信仰による義認だけを掲げて行いを軽視するような偽りの教義は、世の諸教会にはびこるサタンの教えです。主イエスは信仰の結果を行いで示すように命令されています。信仰は行いに現れ、行いが信仰を裏付けます。アブラハムがイサクを献げたのも信仰による行いです。もしアブラハムが神を信じているけれども、彼の大事な息子を献げることはできませんと言って断ったならば、どうして彼が神に対する信仰があると言えるでしょうか。このように、行いを求める主イエスの御命令に逆らう者たちは反キリストです。また、以下の聖句も同じことを示しています。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 22章14節

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。

 

衣については、前回記事「憐れみ深い神」で説明したとおり、ゼカリヤ書3:4、イザヤ書61:10でも書かれていることであり、即ち、唯一の救い主である主イエス・キリストを信じて愛し、神の律法、掟、戒めを守り、洗礼を受け、主なる神は聖霊を送ってくださり、汚れた衣を脱がしてくださり、日々の正しい信仰生活によって衣を清める者は、新しいエルサレムに入れるようになるということです。反対にそれができない者は、新しいエルサレムに入れないということです。

 

プロテスタント信者は、ユダヤ人に対する認識も間違っている人が非常に多いです。現イスラエル国家の帰還法やユダヤ教徒の規則でユダヤ人であるかどうかを決めていることを真に受けているからです。このことは過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」と「聖書が教える真のイスラエル人」で詳細に述べました。私が述べる内容をプロテスタント信者らはユダヤ陰謀論等とけなして信じようとしません。それどころか、反ユダヤ主義だとか意味不明なことを言っている者もいます。この異論もまったく的外れであることが彼らは分かっていません。彼らの唱える反ユダヤ主義の前提(ユダヤ人の定義等)や論理が根本的に間違っているからです。私の過去記事の補足がてら説明しておきますが、当時のユダヤ人たちは自らをアブラハムの子であると自称していますが(ヨハネ8:39参照)。しかし、主イエスは一般的にユダヤ人と呼ばれる者たちがアブラハムの子であることを明確に否定されています。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章39~41、44節

イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

(中略)

あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」

 

上記のように、ユダヤ人と称する者だからといってアブラハムの子ではないと主イエスは明確に仰り、彼らが悪魔の子であり、悪魔と同じ業をしていると仰っています。なぜなら、彼らが主イエスを愛していないからです。アブラハムの業とは、神の御言葉や御命令に従順に従うことであり、即ち、神の律法、掟、戒めにすべて従うことです。また、神に従順なアブラハムの子ならば、真理を語る者に敵意を持って迫害したりもしないはずです。ユダヤ人とかアブラハムの子であるというのは、血統が重要なのではなく、人間の品性によって見分けることができると主イエスは教えておられるのです。神の子として神の御国に受け入れられる神の民は、国籍、人種、家柄、血統等ではなく、キリストに近い品性を持っている人、即ち、霊的イスラエル人です。このことは過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」や「聖書が教える真のイスラエル人」で説明済です。現イスラエル国家とその国民に注目していては主イエスの御言葉と私の説明を理解できないでしょうし、受け入れることもできないでしょう。これは、真理を拒絶することを意味しています。

 

そして、最後に、過去に何度も申してきたとおり、プロテスタントの致命的な間違いというのは、律法廃止論です。これまで多くの過去記事で神の律法、掟、戒めを守るように宣べ伝えてきました。なぜなら、それが聖書の真理だからです。しかし、プロテスタント信者たちは、主イエスの十字架を悪用して律法廃止論を唱えており、律法のすべてを守れなくても良いとか、律法は神と古代イスラエル人との契約であって、異邦人には適用されないという意味不明な屁理屈をこねては神が定めた善であり聖なる律法に従おうとしない言い訳ばかりしています。このような主張をする者は、彼ら自身が約束の子(ガラテヤ4:28)という当事者意識がなく、自らが霊的イスラエル人ではないと自白しています。また、過去記事「聖書が教える真のイスラエル人」で述べたように聖書の御言葉(申命記29:13、29:28)に逆らう主張です。このような者たちは、たとえイエス・キリストの御名を掲げていてもモーセの律法に従わない不法な者なので、後で主イエスから知らないと言われる人たちです(マタイ7:21~23参照)。複数の過去記事で述べてきたとおり、神は、神の民に罪に勝利することを求めておられます。罪に勝利できない者は悪魔の子なのです。神は、新しいエルサレムに入ることの許される者に対しては、罪を犯すことを容認されたり、品性の欠陥がある状態を許されないので、この地上で生きている間は厳しくしつけられます。他方で、あらゆる理屈や言い訳をして神の律法、掟、戒めを守らない者は、罪の奴隷であり悪魔の子だから、神は彼らを憐れむこともなく見放されます。しかし、罪を犯すことにどんな言い訳も神には通用しません。それは主イエスが受肉され、人性を持たれても完全に律法に服従できることを証明なさったからです。このことは過去記事「主イエスの受肉」で説明したとおりです。この事実を否定する者は、反キリストです。キリストを模範として神の民が同じように神の律法、掟、戒めを守り抜くことで勝利者となり、永遠の安息にあずかることができるようになるのです。何度も言っていますが、以下の聖句を忘れないでください。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章23節

罪が支払う報酬は死です。

 

旧約聖書 エゼキエル書 18章4節

すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章12節

だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

 

旧約聖書 エゼキエル書 18章24節

しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。

 

このように、たとえ今は神の律法、掟、戒めを守っていても、途中で守らなくなってしまうのも第二の死へと繋がる背信行為、即ち、背教なのです。そして、先祖の罪を私たちが負って第二の死しか道がないという訳でもなく、罪は各個人の問題です。プロテスタント信者が唱える律法廃止論を信じて、主イエスを口先だけ崇めて愛していると嘘をつき(本人は嘘をついている自覚がない)、神の律法、掟、戒めを最初から守らないのはにわかクリスチャンです。このような者は、悔い改めないならば第二の死が待ち受けています。実際、サタンは神の律法を人間が守ることは不可能だと主張します。これは真実であるとともに、嘘でもあります。真実というのは、新生できずに最初に生まれた状態の人間には神の律法、掟、戒めをすべて守ることは不可能という点です。しかし、嘘というのは、神の力をもってすれば、即ち、キリストに結ばれてキリストの恵みが働いて新生した人間は神の律法、掟、戒めをすべて守ることが可能になるからです。ユダヤ教徒は、主イエスを信じず、自分の行いにだけ頼って無理にモーセの律法に従おうとして、必要以上に人間が勝手に加えた細則によって自虐行為をして自己満足しています。しかし、このような行いは、人間の心を神にではなく、彼ら自身に向けさせます。即ち、このような律法主義は、自分を捨てておらず、自分のことだけを考えて、神のことを考えなくなるということです。私たちの師である主イエス・キリストのことを常に見上げて従順に従わないと水の上を歩くことができずに沈みます(マタイ14:30参照)。真のクリスチャンは、主イエスを神でありながら人となった唯一の救い主と信じ、主イエスを模範として神に従順に従うことの証拠として神の律法、掟、戒めにすべて従うことが当たり前と考えるようになり、キリストに近い品性を形成し、清い生活をすることができます。これは人間自身の努力の成果ではありません。聖霊の力、即ち、神の力です。言い換えれば、これらの事柄が体現できない人は、新生できていない状態か、悪霊に惑わされていることが分かり、そのような者の主張はすべてサタンから来る偽りの言葉です。永遠の命を受けるには、上記で説明したとおり、また、主イエスが仰ったように、神の律法、掟、戒めを守って実行する行いが必要です。そして、これを実行するには、聖霊の力で新生して闇の衣を脱ぎ捨てて、自分の衣を洗い清める必要があります。最終的には、人間がエデンの園にいた頃のように、神の御言葉に違反していない状態でなければ、永遠の命を得ることはできないのです。少しでも違反すれば、アダムとエバのように安息の地から追放されるのです。だから、主イエスは神の民に完全な者となるように教えられたのです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 5章48節

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

そして、神に不可能なことは何もありません。

 

新約聖書 マルコによる福音書 10章27節

イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 

このように、神は、神の民が新生する前は不可能だと思っていた神の律法、掟、戒めをすべて守ること、またそれらを守ることが当たり前で喜びとさせてくだざいます。神はこのような偉大な御業をなされるのです。これは大多数の世に属する人間は実感しないことなので、必ず反発してきます。なぜなら、彼らは神の律法、掟、戒めを守らないで罪を犯し続ける悪魔の子だからです(ヨハネ一3:8参照)。彼らは神の民とは心の場所も行いも異なるため、相容れないからです。これは過去記事「聖霊の賜物について」で説明したことです。このように、プロテスタントは主イエスの教えに反し、クリスチャンに不完全な状態であることを推奨しています。このような背教した教会や組織から離れなさい。

 

当記事の冒頭で投げた質問の答えはこれです。2017年10月31日、宗教改革500年記念年として、バチカンとルーテル世界連盟は共同声明を発表しました。参考までにこちら(バチカン放送局)。私が過去記事で散々警鐘を鳴らしてきたとおり、ローマ教皇は宗教一致運動、教会一致運動を推進しており、プロテスタントを完全に取り込もうとしています。このような流れは変わることがないどこか、ますますプロテスタントはローマ教皇になびくことでしょう。そして、彼らは結託して神の民を迫害するようになるのです。過去記事「神の律法遵守とサタンとの戦い」でも言及したように、もはやプロテスタントはカトリックに対して抗議するのではなく、主イエス・キリストに対してカトリックと共同で抗議しているのです。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上