こんにちは。

 

今回は、憐れみ深い神について書きます。

 

神の憐れみ深さを示す話の一つとして、ルカによる福音書15章にあります。この話を読んだあなたがたは何を感じましたでしょうか。これは例え話です。単なる良い話だと軽く読み流している人が多いと思いますので、これについて語りたいと思います。

 

放蕩息子のたとえは、ルカ15:11~32だけですが、その前のルカ15:1~10の続きであることを忘れないで欲しい。つまり、文脈を無視するなということです。ルカ15:1~7は、見失った羊のたとえです。そこで出てくる人は、主イエス、徴税人、罪人、ファリサイ派、律法学者です。ファリサイ派の人々と律法学者は、徴税人と罪人をけなす発言をした時、主イエスはこの例え話をされました。ここから分かることは、主イエスは、徴税人や罪人の中に神の民がいるので、彼らを救うためにお話をされていたのです。そこに、ファリサイ派の人々と律法学者がやってきて、罪人と一緒に食事をしていると文句を言いに来たのです。これは、現代で言うならば、地上の諸教会や諸教派に属するクリスチャンがファリサイ派や律法学者で、地上の教会に通わずどこの教派にも属さない人である徴税人や罪人に対してけなしたり、誹謗中傷等の迫害行為に等しいです。なぜなら、当時のファリサイ派の人々と律法学者は、モーセの律法をはじめとする旧約聖書に詳しく、会堂に定期的に集まり、律法に基づいて人々を裁き、自分たちこそが主なる神に誠実に仕える者だという誇りがあったからです。しかし、徴税人や罪人は、ファリサイ派の人々と律法学者から蔑まれ、忌み嫌われ、会堂に集うことも許されずに肩身の狭い思いをする人々でした。もっとも、ファリサイ派や律法学者の偽善を見破って、その集まりに加わらない賢明な人もいたでしょう。しかし、徴税人や罪人の全員とは言いませんが、その一部の人は神を求める気持ちがある人がいました。それを主イエスはご存知だったのです。主イエスのお話する内容が神の御言葉であり、本当の意味で救いとなることを感じたので主イエスのお話を聴こうとして近寄っていたのです。ファリサイ派の人々や律法学者は、律法主義者というだけでなく、神の民が神の御言葉を聴くのを邪魔をする者であることが分かります。悪魔の子である反キリストどもは、主イエスを愛して信仰する故に律法を守ろうとする人に対して本質を分かっていないのに分かっていると誤信して高慢さからファリサイ派だとレッテルを貼って批判をしますが、実際は彼ら自身のことです。現代のクリスチャンには律法主義者はあまりいないと思います。むしろ、律法を無視して聖書の知識をひけらかしているが、実際は聖書のメッセージを曲解して真理を理解しておらず、主イエス・キリストを神と認めない者も聖書の真理を理解しておらず、これらの数が非常に多いのが現状です。彼らは、自分たちが神の御国に入らないばかりか、入ろうとする人を邪魔する人であり、そのような者たちこそをファリサイ派と呼ぶに相応しいです。

 

ルカ15章にある、見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子のすべてが神の民のことを指し、神の憐れみ深さを示す話です。神の民は、最初から神に従順な者ではありません。今まで私が述べてきたとおり、この世はサタンに支配されています。サタンに惑わされた人間やサタンを拝む人間が統治する世界なので、この世には反聖書的な物、思想、習慣、宗教、人間等で溢れているのです。そのような環境では、誰一人最初に生まれてから死ぬまで神に従順であり続けることは不可能です。そういう訳で、聖書には「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)、「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩編14:3、53:4)、「善のみを行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。」(コヘレトの言葉7:20)と書かれています。敢えてその中から、神は御自分の民を救い出されようとするのです。そのために天の父なる神は、御子イエスを地上にお遣わしになったのです。もし人間が生まれてから死ぬまで主イエスのように正しいままであれば、救い主の必要性を感じないからです。しかし、実際はすべての人間が神の律法、掟、戒めに背いて罪を犯した罪人であり、一部の人間だけが神の導きで救い主イエス・キリストの必要性を真に感じて、主イエスを信じて愛し、神の律法、掟、戒めに従うことで悔い改めて、洗礼を受けて新生して初めて神の御国への道が開かれるのです。

 

では、放蕩息子のたとえを見ていきましょう。

ルカ15:11~13を読んでください。二人の息子のうち、弟は相続財産を父親に要求して、父親の元を離れ去って遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしたとあります。この弟が父親の元から離れたのは、自由が制限されて束縛されていると感じたからです。彼は父親の愛情を知らなかったのです。そして、彼は自分が思うままに生きたいと思って金を手にして家を出て遠くに行ったのです。彼は父親に孝行しようとも思わず、感謝の意も抱くこともなく、相続財産だけはきっちりと要求したのです。彼は将来のことをまったく考えず、今持っている肉の欲のことばかりを考えていました。彼は貴重な人生の時間と財産を娼婦に費やしました。これは、私たちに当てはまることです。最初に生まれたままの状態では、人間は神を忘れて、自分のしたいこと、肉の欲、目の欲を満足させたり、生活の充実度を上げる物があるとつい釣られて、それらの虜になってしまいます。地上での人生という限りある時間をこの世の物、快楽といった肉の欲に費やしていると霊的感性が鈍くなります。束縛されているように感じて離れるというのは、神の律法、掟、戒めに従うことを窮屈に感じることです。新生する前の人間、新生できない世に属する人間は例外なく束縛と感じるでしょう。特に顕著なのが私が何度も言ってきた安息日の遵守です。何故世に属する人間が安息日遵守を忌々しく思うかと言うと、放蕩息子のように自分のしたいことをしたい、肉の欲を満足させたいと思っているからです。彼らの中で、それらの欲望が神の御言葉よりも上になっているからです。故に、安息日遵守をはじめとする神の律法、掟、戒めのすべてに服従することができない者、守ろうともしない者は悪魔の子であることが分かります。

ルカ15:14~16を読んでください。彼は何もかも使い果たし、飢饉により食べ物に困りました。ある人の所に身を寄せ、豚の世話をしました。しかし、彼は食べ物を貰えなかったのです。豚は旧約聖書にあるとおり、清い動物として書かれていないので、その汚れた動物を世話するというのはとてつもなく惨めな状態ということを示しています。どれ程の凋落ぶりか分かりますか。かつて彼は多額の金を手にして父親の元から離れ去って、自由と快楽を享受していた頃とは打って変わって、食べ物に困って豚の世話をするも、豚の餌を食べることすらできなかったのです。彼が放蕩を尽くしていた頃に一緒に遊んだ人たちは彼を助けることはありません。彼らは「金の切れ目が縁の切れ目」というような思想の持ち主で、世に属する人間だからです。同様に、あなたの身の回りでも多額の金を使って遊び歩く仲間でなければ一緒にいることができないような人間とは付き合わない方が良いです。放蕩息子は肉の欲に身を焦がし、良心を無くして、理性が完全に失われていたことに、絶望的な境地に立たされてようやく気が付いたのです。肉の欲に心を奪われた罪人は、神から離れようとします。それなのに、神からの祝福、神の御国に入る権利等を得ることを主張します。にわかクリスチャンが間違った信仰生活をしているのに天国行きだけはきっちり要求していることがまさにこの意味です。そして、神から恵みをいただいても当然のことのように思い、神に感謝することもなければ、神を愛することもないのです。これは「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28)のとおりです。神に服従することを拒絶し、神の律法、掟、戒めを守らないと例外なく罪を犯すことになります。世に属する人間は、神を蔑ろにし、人間が持つ肉の欲に幸福を見出そうとします。あなたの普段の生活を振り返ってみてどうでしょうか。自己中心的ではないでしょうか。神のことを思わず、自分の欲に従って行動している者の生活は放蕩生活に等しいです。財産は、金銭や不動産等の資産に限りません。私たち一人一人の人生という時間は、神から与えられた貴重な財産です。虚しい肉の欲から世俗的なことをするのに熱心に時間を割くのは、あなたの財産を浪費しています。そのことに気付かない結果、最終的には破産という滅びが待ち受けているのです。神の御言葉に従順に従わず、肉の欲や生活の充実度を上げるためだけに生きている者は、世に属する人間であり、神の律法、掟、戒めに従わずに神から離れて立ち返らない罪の奴隷です。聖書の放蕩息子のように、どん底に落とされて神に立ち返るならまだいいですが、立ち返るどころか神を認めないで呪ったり非難する者は悔い改めることがなく、自分のためだけ、自分の欲のために生きようとし、最後には滅びます。だから、私は過去記事「自我との戦い」で自分を捨てて、他人の益を求めて行動するように述べたのです。

 

旧約聖書 エレミヤ書 17章5~8節

主はこう言われる。

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし

その心が主を離れ去っている人は。

彼は荒れ地の裸の木。

恵みの雨を見ることなく

人の住めない不毛の地

炎暑の荒れ野を住まいとする。

祝福されよ、主に信頼する人は。

主がその人のよりどころとなられる。

彼は水のほとりに植えられた木。

彼は水のほとりに根を張り

暑さが襲うのを見ることなく

その葉は青々としている。

干ばつの年にも憂いがなく

実を結ぶのをやめない。

 

これらは非常に良い聖句なのですが、新共同訳の訳に問題があるため私が添削します。上記の英語(KJV)は、「Thus saith the Lord; Cursed be the man that trusteth in man, and maketh flesh his arm, and whose heart departeth from the Lord. For he shall be like the heath in the desert, and shall not see when good cometh; but shall inhabit the parched places in the wilderness, in a salt land and not inhabited. Blessed is the man that trusteth in the Lord, and whose hope the Lord is. For he shall be as a tree planted by the waters, and that spreadeth out her roots by the river, and shall not see when heat cometh, but her leaf shall be green; and shall not be careful in the year of drought, neither shall cease from yielding fruit.」です。私は「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉を頼みとし、その心が主から離れている人は。そのような人は砂漠の中の低木で、良いものが来るのを見ることがなく、荒れ野の干上がった所、人が住めない塩の地に住む。祝福されよ、主に信頼をする人は、そして主を希望とする人は。そのような人は水のそばに植えられた木だからであり、川のそばに根を伸ばし、暑さが来る時のを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶのをやめない。」と訳します。これは主イエスの御言葉である「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)と共通するものがあります。天の父なる神は、神の子(神に属する人間)にも悪魔の子(世に属する人間)にも地上で同じように生かしてくださいますが、主なる神を信じず、神の御言葉を信頼して完全に従わない者は荒れ地の干上がった所に住んでいるようなもので、呪われている悪魔の子なので、最後には滅びます。主イエスを神と認めない者や、神の律法、掟、戒めを蔑ろにする者も滅びます。反対に、主なる神の御言葉に従順に従い、神の律法、掟、戒めを守って完全に服従する者は祝福され、地上で何が起ころうとも不安になることがありません。神の民は、目を覚まして備えているからです。

 

放蕩息子のたとえに戻りますが、ルカ15:17で彼は我に返ったとあります。それまで肉の欲で放蕩の限りを尽くしていたけれども何一つ得るものがなく、周りの人間も金が尽きた途端離れて行き、誰からも相手にされず、食べ物に困って窮地に立った時、それまでの行いが神に敵対することだと神から悟らされた時、我に返ったのです。これは創造主の神への信仰に目覚めさせる神の導きです。それでサタンの欺瞞に騙されていたことを悟り、同時に、自分自身の愚かさと罪から来る結果が受けた苦しみだと気付いたのです。そして、ルカ15:18~19にあるとおり、彼は神に立ち返ろうと決めて、罪を犯したことを告白し、もはや息子としてではなく、召使いの一人として扱うように頼もうと決心しました。何が彼をこのようにさせたと思いますか。勿論、主なる神の憐れみと愛です。このような神の愛が、どうしようもなかった罪人をいるべき所に立ち返らせることができるのです。そのように決心していた彼でしたが、ルカ15:20で、父親は息子を遠く離れた所から見つけて憐れんで抱きしめました。ルカ15:21で放蕩息子は罪を告白しました。そして、彼は事前に決心したとおり召使いの一人として扱うように言うつもりでしたが、ルカ15:22~23のとおり、父親はそれを言わせず、帰ってきた息子を喜んで歓迎して祝宴を行いました。放蕩息子は、このような父親の愛に気付かず、自分勝手な肉の欲に溺れ、お金と時間という財産を浪費して、助けを求めて戻ってきました。地上にいる愛がない頭の固い父親ならば、「ふざけるな、バカ息子。散々遊びほうけて、どの面下げて帰って来たんだ。お前など知らん。出て行け。」と言うところでしょう。しかし、これは神と人間との関係についての例え話です。聖書で語られる放蕩息子の父親は、人間の父親の話ではなく神のことです。私たち罪人が神に立ち返るならば、このように温かく迎えてくださり、怒るどころか喜んでくださるのです。その神の愛の深さを知ると、それまでの数々の行いで神を悲しませてきたかと思うと後悔してもしきれない断腸の思いです。神は、神の民が悔い改めて戻って来るのを心待ちにしておられるのです。神は遠く離れていても神の民を見つけては御手を差し伸べられ、導いてくださいます。それが神の愛の力です。神は、神の子である神の民を召使いとしてではなく、実の子として扱われます。それ故、神は御使いに、戻ってきた子に一番良い服、指輪、靴を身に着けさせ、肥えた子牛を屠って祝うようにお命じになりました。主なる神ほど偉大で、憐れみと慈しみ、愛に満ちた方はおられません。本来ならば滅ぼされて当然の罪人である人間を大きな愛で包み、近くで一緒に住むように招いてくださるのです。しかし、これは真に悔い改めて正しい信仰を持つ神の民だけであり、万人に適用される訳ではありません。

 

神を認めない人間たち、神を愛さない人間たちは、特に旧約聖書を読んで神に逆らう人間を容赦なく滅ぼされた所だけが印象に残り、神が厳格で恐怖を与える存在だという点のみを強調し、神を非難しています。被造物の分際でよくもそんな大言を吐けるものだと私は思いますが、彼らには高慢の悪霊が憑いているから、そのようなことが言えるのです。そして、彼らは主なる神が常に人間を監視して厳しく罰せられるお方と思って戦々恐々としているか、必死に神はいないと思い込むことで現実逃避しています。主なる神に厳しい側面があるのは事実ですが、このように否定的な面だけを声高に主張し、神が愛そのものであると言わない者は悪霊に支配されています。反対に、憐み深さだけを強調して厳しい側面から目を背ける者も同様です。神は愛であられるとともに義でもあられ、悔い改めない不法の者をお赦しにはならないのです。世に属する人間は、サタンと同様に、神の律法、掟、戒めを束縛に感じます。それ故、ローマカトリック教会とローマ教皇がしたような十戒の変更、プロテスタントの律法廃止論という神への反逆行為をする組織に属するのです。何度も私が言っているように、主イエスの十字架を盾に律法を守らなくてよいとする考え、あらゆる論法や屁理屈を用いて神の律法、掟、戒めを無き物にするのはサタンの教義です。なぜなら、彼らは快楽やこの世にある物を愛し、それらを存分に楽しんで、何の制限もないことが自由だと誤信しているからです。要するに、世に属する人間は、神の律法、掟、戒めを重い足枷のように考えて正しい道から逸れたままで、神に立ち返らないのです。しかし、神から憐れみと恵みを受けた人は、神を愛して神の律法、掟、戒めを擁護し、喜んで従います。上記の放蕩息子の例え話から分かるとおり、神は神の民自身が罪人であることを自覚し、悔い改めて神に立ち返ることをお喜びになられるのです。この事実を知ろうとせず、または受け入れようとしない者は、世に属する人間であり、悪魔の子なので、次の世では悪魔と同じ所に行くことになるのです。人は自分が愛する者に従います。神を愛する者は、神の律法、掟、戒めを擁護し、喜んで従います。サタンを愛する者は、サタンと同じように神の律法、掟、戒めを嫌い、違反し続けます。

 

旧約聖書 イザヤ書 44章22節

わたしはあなたの背きを雲のように

罪を霧のように吹き払った。

わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。

 

旧約聖書 イザヤ書 55章6~7節

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。

呼び求めよ、近くにいますうちに。

神に逆らう者はその道を離れ

悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。

主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。

わたしたちの神に立ち帰るならば

豊かに赦してくださる。

 

旧約聖書 エレミヤ書 31章34節

わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。

 

神に従順に立ち返るならば、神はあなたを憐れみ、過去の罪を赦してくださいます。神に立ち返るというのは、にわかクリスチャンのように虚しく「主よ、主よ」と言って崇めたふりをして、律法を無視して罪を犯し続けることではありません。唯一の救い主であられる主イエスを心から信じて愛し、神の律法、掟、戒めを守って慎ましく清い生活を送ることです。これこそが悔い改めであり、神に立ち返ることです。放蕩息子のように、あなたが信仰に入った後で、信仰に入る前と同じようなことをしていてはいけません。あなたがたは今まで肉の欲に従って、この世に倣って生きてきたことでしょう。信仰に入ってからでも同じことをしてはいけません。それ故、主イエスが姦通の女の罪を赦された後、「これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:11)と仰ったのです。このように、主イエスは、主イエスが人間の罪を赦した後も罪を犯し続けてもよいなどと仰っていません。主イエスの十字架を悪用して律法廃止論やあらゆる屁理屈を唱えて神の律法、掟、戒めを無視することは、主イエスの御命令に逆らう反キリストです。彼らは悔い改めていないのに敬虔なクリスチャンを装いますが、神はそのような者を憐れむことはありませんし、罪をお赦しになることもありません。

 

旧約聖書 ゼカリヤ書 3章4節

御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」

 

旧約聖書 イザヤ書 61章10節

主は救いの衣をわたしに着せ

恵みの晴れ着をまとわせてくださる。

 

汚れた衣というのが最初に生まれたままの肉なる人間の時の状態です。天地を創造された神に立ち返り、唯一の救い主である主イエス・キリストを信じて愛し、神の律法、掟、戒めを守り、洗礼を受ければ、主なる神は聖霊を送ってくださり、汚れた衣を脱がして晴れ着を着せてくださいます。そして、以下のようにも約束されています。

 

旧約聖書 ゼカリヤ書 3章7節

「万軍の主はこう言われる。

もしあなたがわたしの道を歩み

わたしの務めを守るなら

あなたはわたしの家を治め

わたしの庭を守る者となる。

わたしはあなたがここで仕える者らの間に歩むことを許す。」

 

主イエスを模範として死まで神に従順である神の民は、天の父なる神の御許で仕える天使たちと一緒にいることを許可されると仰っておられます。素晴らしい約束ではないでしょうか。

 

さて、放蕩息子のたとえに戻りますが、ルカ15:25から、放蕩の限りを尽くして帰ってきた弟を見た兄が怒り、父親の弟に対する待遇について妬みを感じて不満を漏らしました。そして、弟と違う点は、兄は「わたしは何年もお父さんに仕えています。」(ルカ15:29)と言い、息子としてではなく召使いとして働いていたと主張しています。彼が弟に対する予期せぬ良い待遇を快く思わなかったことから、彼が父親のそばに居て言いつけに従っていたのは利益をあてにしていたことが分かります。つまり、利益信仰です。私が複数の過去記事で非難してきたことです。兄が弟と違ってしたい事をせず、快楽を無理に我慢していたのも利益信仰から来ていることです。快楽に身を埋めても、弟のように赦されるなら、自分もすればよかったとか、長年悪い行いを避けているのに何も貰えないのかとか、不公平な扱いだ思うのが利益信仰者の心の有り様です。この兄のような人間は、父親のように弟を温かく歓迎するようなことはしません。彼は自分の弟を弟と呼ばず、「あなたのあの息子」(ルカ15:30)と呼んで他人扱いしています。しかし、父親はそんな兄でも「子よ」(ルカ15:31)と呼びかけて分け隔てすることをしていません。この兄のような人間は、主イエスが初臨された約2,000年前のユダヤ人たち、ファリサイ派や律法学者たち、そして各時代のファリサイ派のような人間を指しています。既に上述したように、ファリサイ派で表されるのは、律法主義者、または自分が神の御国に入らないばかりか、入ろうとする人を邪魔する者です。彼らはモーセの律法を遵守できていないのに、遵守していると思い込んで自分たちを義と信じて高慢になり、徴税人、障害者や病気を患っている人を罪人と呼んで軽蔑していました。この例え話の兄のように、当時のユダヤ人はまだ定めの70週の恩恵期間内でしたから、選民として特別な状態にありましたが、彼ら自身は神の実の子と思わず、召使いのような気分でいたのです。彼らがモーセの律法を守って神に仕えているというのは、神を愛するという動機ではなく、永遠の命という報酬を目当てに律法を守っていたに過ぎなかったのです。このような動機で律法を守って自力で救いを得ようとするのが律法主義だということについては過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」で説明したとおりです。しかも、実際は彼らはモーセの律法をきちんと守れていなかったのは過去記事「預言者と偽預言者の違い」でも言及したとおりです。さらに、金持ちの青年(マタイ19:16~30)の話からも明確に分かります。金持ちが天の国に入るのは難しく、金に執着するファリサイ派の人々(ルカ16:14)からも分かるでしょう。ファリサイ派の人々や律法学者は、放蕩息子の父親のように主イエスが彼らを差し置いて、貧しい人々や病気や障害で蔑まれた人々を癒し、福音を宣べ伝えられ、惜しみない愛をお与えになったのを見て、敵意を抱いて忌々しく思って殺そうと狙いました。主イエスが周囲から罪人と軽蔑されていた人のために福音を説き、ファリサイ派や律法学者に対して積極的に福音を説かなかった理由として、主イエスがファリサイ派や律法学者のような者たちが神の民ではないことをご存知だったからです。現代でも同じことが言えます。クリスチャン歴何十年とか、教会員歴何十年とか、牧師だとか、所属教派や団体を肩書きのように言ったり、知ったかぶりの知識をひけらかして真理を否定したり攻撃する者を主イエスがお認めになることは一切ありません。そのような者たちこそ神の御国から遠いファリサイ派の人々のようです。当時のファリサイ派や律法学者は、モーセの律法に人間が決めた細則を多く加えて自虐行為をし、難行苦行をして救いが得られると思い込み、放蕩息子のような人を見て、つまずいたのです。神はファリサイ派の人々にも「わたしのものは全部お前のものだ。」(ルカ15:31)と仰り、神の救いは報酬ではなく賜物であるということであり、人間自身の善行の結果によるのではなく、ただ神からの一方的な憐れみと恵みによるものであることを表明されました。このことは過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で説明しました。永遠の命という報酬を目当てに主イエスを信仰したり、天の父なる神を崇めても空虚です。このような利益信仰をする者は兄弟を兄弟として認めず、誹謗中傷をするようになります。現在で言えば、聖霊を受けていない嫉妬にかられ、正しい信仰をして慎ましく生活する者が言うことを最初から信じるつもりがないのに言葉尻を捉えようと質問しに来たり、言ってもいないことを言ったことにしたり、曲解したりして嘘を吹聴して信用を落とそうとしたり、評論や議論の的にしたり、必死に粗探しばかりして非難しようとするが見つけられずただの悪口や言い掛かりで終始したりします。このような人たちは精神が腐ったにわかクリスチャンであり、悪魔の子(反キリスト)と過去に述べたとおりです。彼らはそうやって自ら滅びに向かって生きているのです。神の民が、神を愛して、神の律法、掟、戒めを守るのは自力で救いを得るためではなく、行いによる信仰でもなく、神から憐れみを受けた結果、それが行いに現れるのです。それは、神の民が神の御心を行い、神の栄光を現すためです。

 

さて、放蕩息子のたとえ話に戻りますが、放蕩息子は帰ってきたら一番良い服と指輪、靴、子牛の料理の祝宴を受けましたが、兄は、何も貰えませんでした。私が思うに、弟はこの世において失われた羊で、兄は教会にいる山羊です。教会にいる山羊は、神を礼拝して神に仕えているつもりでいますが、実のところ、神からは何も貰えず天の国の宴席につくことも許されず、暗闇に放り出されて泣きわめいて歯ぎしりすることになるのです(マタイ8:12参照)。彼らは自分たちが山羊であることを自覚せず、認めようともせず、教会に通わない羊を蔑視しているのです。彼らは羊が来たら歓迎しないでしょう。彼らは自分たちこそが神の御国に近いと思い込んでいるからです。しかし、実際は逆です。

私が今まで、元RAPT信者やその他のカルト宗教信者だった人たちをその過去を理由に軽蔑したり、冷たくあしらって退けたりしたでしょうか。否です。しかし、私は神に不従順な人間(反キリスト)は退けます。なぜなら、この場が悪魔の子によって悪に染まることが神の御心ではないからです。最近では、悪魔の子はほぼ寄り付かず、遠くで吠えるだけになりました。主イエスも御自分を信じて近寄って来て耳を傾ける者を愛されていましたが、敵対するファリサイ派の人々に対しては「蝮の子らよ」(マタイ12:34)と呼んで非難されました。また、「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた」(ヨハネ6:64)のとおり、主イエスは御自分の民(神の民)をご存知だからです。だからこそ、主イエスは、「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(ローマ8:29)。主イエスは、御自分が知らない不法な蝮の子は歓迎されませんでしたし、神の御国にも招かれません。私が散々述べてきたとおり、神は、神の民を、神の律法、掟、戒めを守ってキリストに近い品性を持つように聖霊の力で導いてくださり、御子イエスに似た者にしてくださるのです。知っておいて欲しいのは、私がにわかクリスチャンを退ける前に、実際は、彼らが私を退けているのです。私に対して兄弟愛を持つどころか、敵意や悪意しか持たず、屁理屈や誤まった教義を押し付けてきたり、誹謗中傷や呪いの言葉をかけてきたのは彼らの方だからです。私はそのような仕打ちを受けても、彼らのような悪魔の品性から出る言葉をかけ返したことはありません。ただ、聖書の真理を基に弾劾して退けているだけです。私は、過去の罪を心から悔いて神に従順に立ち返る人、立ち返ろうとする人を退けません。神が私を憐れんでくださったように、私も同じように打ち砕かれた心を持って神に立ち返る人を温かく迎えます。そして、共に次の世で神の御前で会えることを楽しみとして、このサタンが支配する地上での生活を励まし合って主イエスを模範として死まで従順に生き抜きたいのです。そのために教会を設立したのです。自分の行いが要因ではなく、天の父なる神からの一方的な憐れみによって真の悔い改めをしたならば、悔い改めた人を妬んだり、憎んだり、攻撃したりしないはずです。放蕩息子の兄が持っているような利己心や利益信仰を捨て、迷い出た羊を見つけると喜ぶようになるはずです。迷い出た羊は兄弟なのです。この関係を拒絶する者は、その者は神の実の子ではない、即ち、神に属する人間ではないということです。子ではなく、召使いに過ぎないのです。神の実の子を排斥する召使いがこの世には非常に多いです。主イエスは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)と仰り、兄弟を愛することをしない者は、真に悔い改めていない者で、罪を赦されていないからです。

 

旧約聖書 ミカ書 6章8節

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

ユダヤ教徒がするようなモーセの律法にない人間によって加えられた言い伝え、習慣や伝統を守って難行苦行したところで、主なる神は喜ばれません。神の愛を感じて真に悔い改め、主イエスが神の律法、掟、戒めに反しなかったことを模範として私たちも守って、神の義を行い、神と共に歩むことこそが神が人間に求めておられることなのです。過去記事「預言者と偽預言者の違い」で引用した聖句を再度掲載しておきます。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 2章9節

「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今なお闇の中にいます。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 3章14~15節

愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 4章20節

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。

 

主イエスに従う私を憎む者は、神を知らず、愛を知らない人殺しであり、偽り者で、実のところ主イエスをも憎んでいます。そのような者は、神の律法、掟、戒めにも従っていない口先だけのにわかクリスチャンです。このような者は、今は「主よ、主よ」と言っていても、いずれ完全に背教してローマ教皇とアメリカ主導のNWOに従い、獣の刻印を受けるでしょう。その時、彼らは主イエスを否定するようになります。しかし、仕方がありません。そのような者は真理を嫌って悪霊を受けて滅びる道を彼ら自身が選んでいるのですから。最初から彼らは神から憐みを受けなかったのです。聖書を手に取って読む機会があったことや、イエス・キリストを口先だけで崇めるようになることが神の憐れみではありません。サタン崇拝者でも主イエスが本物の救い主であることを知っており、彼ら自身が滅びることになるキリストの再臨を恐れつつ、聖書を曲解して虚偽の教えを広めることで必死に人々を惑わしているからです。神の憐れみがどういうものか、このルカ15章の例え話と当記事でよく理解していただければ幸いです。

 

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上