こんにちは。
今回は、主イエスを模範として従う生活について書きます。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。信仰生活は上手く行っていますか。主イエスの信仰故に困難や苦難に遭っていますか。少し上手く行かないことがあったり、他人から批判されたり、信仰内容について否定されたからといって、そのことをもってして自分は立派なクリスチャンだと勝手に思い込まないようにしてください。確かに、主イエスが仰ったとおり、真のクリスチャンは主イエスの御名を信じるが故に世の人々から憎まれて迫害を受けます。しかし、私が過去に弾劾してきたとおり、間違った聖書の理解や間違った信仰をしていてそれを正そうとしている諭しを迫害行為と都合良く曲解して、「私は迫害を受けている。サタンの妨害を受けている。私の聖書理解が正しいからだ。」等と思うようでは本当に酷い勘違いです。実際、このような人たちが多くいますから、彼ら彼女らのようになってはいけません。
さて、真のキリスト者になるには、主イエスを模範として従う生活をしなければいけません。そうでないならば、世の大多数の不信仰の者や異教徒、にわかクリスチャンと何の差があるでしょうか。真のクリスチャンとにわかクリスチャンの差は、聖書を読んだこともない外部の人には分からないことです。地上の諸教会に所属したり通ったり、牧師等といった自称聖職者の地位にあったりするだけ、または世の諸教会や諸教派が作り上げた「キリスト教」という宗教から距離を置く自称クリスチャンらが独自に集まって自分たちは他のクリスチャンとは違うのだと主張する者もいます。不信仰の者や異教徒らは彼ら彼女らを見て、安易にクリスチャンだとみなします。しかし、実際は違うのです。主イエスは、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22:14)、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:14)、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ13:24)、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5:20)、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)等と所謂クリスチャンであれば誰でも簡単に神の御国に入ることはできないと繰り返し仰っています。誰が主イエス・キリストを信じると口先だけで言い表しさえすれば救われると言っているのでしょうか。誰が福音の三要素(主イエスが私たちの罪のために死なれ、葬られ、復活された)を信じさえすれば救われると言っているのでしょうか。また、誰が洗礼をしさえすれば天の国に入れると言っているのでしょうか。主イエスではありませんし、私でもありません。耳触りの良い甘言ばかり言って偽りの教義を吹聴している世のにわかクリスチャンたちです。永遠の命に至る道の門は狭く、そこから続く道も細いのです。多くの人々にとってそれはとても通りたいと思える道ではないので、世のほとんどの人々はその狭い門と道を避けて滅びに通じる広い門をくぐって広い道を悠々自適に闊歩しています。しかし、最後には滅びます。主イエスが示された命の道を通ることを拒否したからです。主イエスの弟子と自負するならば、主イエスのご生涯、どのようにしてこの地上で過ごされたのかを学び、それを模範として従わねばならないのは当然ではないでしょうか。このあまりに当然のことができていない人が非常に多いのです。それは聖書を研究していない、読んでいない、読んでも曲解する、理解したつもりでも実践しないことが原因です。聖書の学びと実践を疎かにして、目に見える奇跡や癒し等に傾倒していては危険です。
人は皆、この地上で生き方が異なります。誰一人として同じ人生を歩む人はいないでしょう。飲食する物も、住む場所も、家族も、周囲の環境もまったく同一である人は誰一人としていません。皆が違う環境で生まれ、生活しています。このようなことから、人間同士でさえ、他人の立場になって考えることができない人が多いです。海外に移住した日本人や海外在住の外国人は、日本の今の姿を見て痛烈に非難したり、悪口を書いている人もいます。しかし、日本に住む日本人が絶対的な善で被害者という訳でもありません。日本にしか住んだことがなく、「井の中の蛙大海を知らず」状態で世界のことについて無知なくせに日本の常識を全世界に適用させるといった偏見と高慢に満ちた日本人も少なくありません。逆も然りで、海外在住の人たちも滞在先の常識、西洋の常識等を勝手に日本と日本人に適用して外れているから等の理由で非難する人もいます。岡目八目の視点で見れば、どちらも「どんぐりの背比べ」に過ぎません。これは偽り者同士が非難し合っているだけです。こういう論争をしているようでは、絶え間ない争いや憎しみしか生みません。このような類の議論には加わらないようにしましょう。
さて、聖書を読んだことがない人が思う疑問の一つにイエス・キリストは人間なのか、神なのかという疑問があると思います。エホバの証人といったキリスト教という看板を掲げているがイエス・キリストを神と思っておらず、天の父なる神によって作られた最初の被造物などと偽りを言う団体が存在し、他にも主イエスが人となって受肉されたことを否定したり、その他色々と聖書を読めば簡単に分かる嘘ばかり言い広めるカルト宗教団体で溢れていますので、聖書をきちんと読んで騙されないように気を付けてください。私の過去記事をお読みいただければ、カトリック、正教会、プロテスタント等すべての諸教派が聖書に反する教義を持っていることが分かるはずです。聖書の記述どおり、主イエス・キリストは神でありながら、人になられたのです。過去記事「主イエスの受肉」でも説明したとおり、主イエスは私たち人間と同じ肉の性質と形を取られ、同じように試練や苦しみに遭われたのです。それは神が人間のことをより深く知るためと人間たちに模範を示すためです。にわかクリスチャンたちは、この点を軽視しています。主イエスは神の御子だから神の律法、掟、戒めを完全に守ることができ、罪を犯さず、愛に溢れており、御自分を信じる者に永遠の命を分け隔てなくくださるし、終わりの時代に大艱難が来る前にも携挙という形で救ってくださると愛の側面だけ強調して義の側面を無視する妄想に浸っています。しかし、これは私が何度も説明したとおり、欺瞞です。主イエスが神の御子だと言う点を私は否定しません。にわかクリスチャンの主張は、主イエスの神性を強調して人性を軽視しているのが問題だと私は申したいのです。にわかクリスチャンはキリストの人性を軽視しているか、その事実を信じていないからこそ、自分たちはキリストが経験なさった生活や行いと同じようにすることはできない、する必要もないと考えています。そして、彼ら彼女らは、主イエスが神の律法を遵守されて罪を犯さなかったように、クリスチャンは同じように神の律法、掟、戒めを守る必要は無いという律法廃止論という結論に至るのでしょう。しかし、これは大間違いです。主イエスは以下のように仰いました。
新約聖書 ヨハネによる福音書 13章15節
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
上記の御言葉は足を洗う場面で仰いましたが、キリストの弟子間で足を互いに洗い合うことだけを真似れば良いという意味ではありません。ペトロも以下のように述べています。
新約聖書 ペトロの手紙一 2章21節
あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
真のクリスチャンは、この世で人間として苦しみをお受けになった主イエスを模範としてその後に続かねばならないということがペトロの言葉からも明白です。もし主イエスが私たち人間とは完全に違う性質で神性しかなかったならば、主イエスは人間の模範になり得なかったでしょう。しかし、実際は模範となるのです。まず、主イエスと普通の人間の模倣できる点と模倣できない点を知っておく必要があります。そうすれば、主イエスのどの点を模範とすべきかが明確に分かります。まずは、模倣できる点について考察していきます。まとめると以下のとおりです。
模倣できる点
①物質的な豊かさや富を求めない。
②自我を捨て、聖霊を受けて、罪に勝利する。
③②の結果、神の律法、掟、戒めを最期まで守り抜く。
④善い行いに励む。
⑤笑いを取らない、笑わない。
①は、クリスチャンと自称する人々にできていないことです。主イエスは創造主なので本来はすべてをお持ちの方で豊かなお方ですが、この地上で人として生きられた間は何も持たれず、裕福な生活を送られませんでした。主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)と仰ったほどです。主イエスは世の人間たちが持つように不動産を所有されませんでした。主イエスは持ち物をすべて売り払うように人々に教えられたのですから、自らその模範となっていたのは言うまでもありません。もし主イエスが不動産やその他の財産を持っていたならば、周囲の人々が「他人に持ち物を捨てるように言う前に自分がしろ」と言われてしまうでしょう。しかし、そんな事実はありません。なぜなら、主イエスは財産と言えるようなものは何も持っておられなかったからです。パウロも同じです。パウロも「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」(テモテ一6:8)と述べたとおりです。そして、その後に金銭欲が諸悪の根源であるとも述べています。金持ちになることを望んだり、必要以上の金銭やその他の財産を得ようと奔走したり、多くの財産を所有する者は世に属する人間です。そんな人がクリスチャンと自称しているならとんでもない偽り者です。
②は、誰でもできることではないですが、これを避けて永遠の命にあずかろうというのは不可能です。過去記事「自我との戦い」で書いたとおり、自分自身との戦いに勝利せねば確実に主イエスから知らないと言われます。頻繁に「サタンが~」と言って、サタンに罪を犯す責任を押し付けて、あたかもその人自身が問題無いかのように振る舞いますが、これも欺瞞です。もしサタンにあなたの罪を押し付けることができるなら、神はどうして人間を裁くことができましょうか。しかし、実際できるのです。なぜなら、サタンが誘惑するのはその人間自身に問題があり、罪の根源が人間自身の内にあるからであり、サタンはそれにつけ込んでいるだけに過ぎないからです。人間自身の中にある罪に勝利すれば、サタンはもはや誘惑する手段を失います。聖書に「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14~15)とあるとおり、人間の中にある欲望が根本的な罪の原因です。金銭欲、支配欲、名誉欲、性欲、物欲、強欲等、私が過去に指摘してきたことです。このような肉の欲を捨てなければなりません。サタンのせいにばかりして自我との戦いをしない人は、いくら口先で「主よ、主よ」と主イエスを崇めても、いくら聖書を研究しても、いくら奇跡、癒し、異言、悪霊の追い出し等をしたとしても、主イエスから「あなたのことは全然知らない」と言われますので無駄です。また、主イエスが姦淫について、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:28)と仰ったように、実際の行為に及ばなくても想像しただけで罪ということです。この新共同訳の「他人の妻」という訳は誤りで、「女」と訂正してください。他人の妻とするならば、独身の女相手なら良いのかという変な解釈に繋がるので不適切です。英語聖書でも「a woman」となっており、相手の女が既婚か独身かは問題ではないのです。また、男から女に対してだけでなく、女から男に対しても同じことです。なお、姦淫は数ある罪の内の一つに過ぎず、これだけ守ればよいのではありません。そして、この例から分かるとおり、外部に表れる行為だけでなく、心の中も問題なのだと常々覚え、悔い改めるようにしましょう。「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)、「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハネ2:25)のとおり、神は人間の心の中をも見透されるからです。だから、自分や自分の身内のことばかり考え、自分や自分たちさえ良ければ他人が苦しもうが死のうがどうでもいい、怒りやねたみ等の感情に任せて言いたい放題言う、陰口や誹謗中傷をしても問題無い等とそういう考えでいる人は重い罪を背負っていると知るべきです。そのような思いこそ自我であると言えます。強い自我を持つことが神に反逆することであり、だからこそ、自我と必死に戦い、勝利する必要があるのです。肉体と精神は別物ですが、互いに干渉することもあることを認識すべきです。罪を犯すのは外部から見て分かる行為だけでなく心の中に罪があるからということで、この関係性が証明されています。つまり、心が悪いとそのまま肉体がそれを外部に見える形で表現するのです。怒りやねたみ等の思いが心にあれば、口が動いて汚い言葉が出てきます。ネット上では口を動かす代わりに手が動いて同じ悪事を働きます。心の中で性欲があって抑えきれない人は、ポルノ画像、動画、雑誌等を見たり、夫婦間以外の不自然な性行為やその他のみだらな行いをしてしまうでしょう。心の中で食欲があって抑えきれない人は、過食して肥満になったり、不健康食品を大量に摂取して病気になったり、アルコールを飲み過ぎて依存症になったり、泥酔して自分を見失ってしらふの時にはしない過ちを犯したりするでしょう。行いとして外部に出る前に、まず心の中にそういう罪が存在しているのだと知るべきで、それを無くすように主に祈ったり、信仰によってサタンからの誘惑に抵抗するべきなのに、弱い肉体が心を唆し、肉を通じて誘惑する悪魔の囁きに打ち勝つ強い心と信仰を持たず、神に逆らう強い自我のせいで霊の働きを抑制して肉に支配されて罪を犯し続けるのです。肉だけでは人間は罪を犯しません。サタンの誘惑だけで人間が罪を犯すのではないのと同様です。人間の心が肉の欲に負けて同意した時に罪を犯すのであり、その人間の心が悪であることをもって神は人間を有罪とするのです。しかし、私は人間が持つ本能の欲そのものを完全に消し去れと言っているのではありません。性欲にしてもこれ自体が悪なのではなく、神の律法、掟、戒めの範囲を逸脱することをしてはいけないと言っているのです。もし性欲を全否定するなら、夫婦間の性交渉も否定することになり、誰も子孫を残すことができなくなるからです。これでは人類が滅亡します。だから、私は性欲を全否定しているのではなく、神の律法で許されている性交渉は結婚した夫婦間のみだということです。それ以外はいけません。パウロも「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」(コリント一7:9)とも述べています。しかし、私は言っておきます。結婚は愛が重要であり、愛が無く情欲を満たすだけの目的で結婚すれば後悔する結果になるでしょう。勿論、財産目当てやその他諸々の欲望に基づく結婚なんて論外です。また、食欲についても、人間が肉なる存在である以上は、一切飲み食いをしないというのを長期継続することはできません。無理して断食をすればただ衰弱して脱水症状や餓死する危険性もあります。ただ、食べ過ぎや飲み過ぎをする肉の欲を抑制する必要があるのです。節制が重要です。そのように各自が自分の精神、心を抑制しなければいけないのです。それは肉なる人間自身の力では困難です。だから、主イエスに依り頼み、霊の思いで生きることができるように祈らなければならないのです。地上におられた間、人間として弱い肉の性質を持ちながらも主イエスは「世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」(ヨハネ14:30)と仰いました。この御言葉を軽く読み流す人が多いですが、非常に重要なことです。これは英語(ESV)では、「He has no claim on me.」、「nothing in me.」(KJV)となっており、サタンは主イエスに告発すべき罪が一切無いということです。主イエスが自我や欲望等を完全に捨てておられ、天の父なる神への愛と信仰故に神の律法、掟、戒めを遵守されていたので、サタンには主イエスに付け入る隙も告発するべき点がまったく無かったのです。だから、私たちも主イエスのように完全に自我を捨てて、神への愛と信仰故に神の律法、掟、戒めを遵守すれば、サタンはもはや私たちを告発することができなくなるということになります。そのような境地になって初めて、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」(エフェソ5:27)の構成員になれるのです。
③は、既に多くの過去記事で説明済ですので復習しておいてください。自我を制御し、聖霊の力に自分の身を委ねれば神の律法、掟、戒めを完全に守ることができるようになり、あらゆる人間の目、評判、批判等が気にならなくなるはずです。人間に従うよりは神に従う(使徒言行録5:29参照)という信仰が口先だけでなく行いで示せるようになります。
神の律法に関連して、服装についても言っておきます。これまでに幾度か和服(着物)について言及してきました。これを推奨するのは日本文化を推すだけの意味ではありませんでした。それだけだったら、世の物を愛していることになるので私のうちに真理はないです。しかし、実際は神の律法に関係するから述べたのです。それは民数記15:38と申命記22:12に書かれているとおり、衣服の隅に青い紐を使用した房を縫い付けることです。これは祭司服ではないので廃されていません。また、主イエスも房付きの衣服をまとわれていました。その証拠は、「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。」(マタイ9:20)と「その服の房にでも触れさせてほしいと願った。」(マタイ14:36)と複数箇所に渡って聖書に書かれているとおりです。マタイ14:36は新共同訳では「すそ」となっていますが、これは誤訳であり「房」が正しいです。主イエスはこのように服装についても神の律法を守られ、模範となるように房付きの衣服を着用されていました。洋服に房を付けるのは不自然ですし、半袖の衣服に房をつけることは不可能です。そもそも、洋服は異邦人の服装なので、モーセの律法を守るために作られたものではないのです。聖書の読者には、このような細かい点にも気付いて欲しいものです。心や行いが重要なのであって、衣服が重要ではないと思っている人が多いかもしれませんが、主イエスが模範を見せられたとするなら、この点を軽く考えてはいけないでしょう。これをどう考えるかであなたの信仰が分かるというものです。①の箇所でパウロの発言を引用したとおり、食べ物と衣服が最低限必要な物なのです。だから、衣服の重要性を肝に銘じるべきです。「また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(マタイ6:25)と主イエスは仰いましたが、これは文脈から考えても着飾ることについて思い悩むなという意味です。例えば、衣服のデザイン等について事細かに考え、かわいい、格好いい等と異邦人が切に求めているように装飾等の点を気にしてお金をかけるのをやめ、選ぶのに時間や労力を使うことをやめ、必要以上に多くの服を求めることもやめなさいということです。栄華を極めたソロモンも花ほどに着飾らなかったとあるとおり、現代の見た目を異常に気にする服飾産業や芸能界を全否定する内容です。実際、私の衣服は無地ばかりで凝ったデザインもありませんし、派手な色もありません。あと、聖書的に、赤色、緋色、紫色の衣服は避けるべきです。
④も同様に既に多くの過去記事で説明済です。ただ、勘違いして欲しくないのは、行いによる救いを言っているのではなく、正しい信仰の故に自然にする善い行いを意味しているのです。救われたいがためにポイント稼ぎのように善行する、他人に善い人間と思われたい、自分自身が善い人間だと思いたい等の動機があるなら無意味です。
⑤は、意外と思われるでしょうか。しかし、これが聖書で分かる真理です。現代の俗世間では「笑い」は良いことだとされ、病気にも効能がある等とまで言っており、それ故、コメディ、漫才、コント等が持ち上げられています。しかし、私は嘘だと思います。なぜなら、主イエスは笑うことを推奨されなかったですし、ヤコブも同様に笑いを否定しました。主イエスは、「今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカ6:25)と仰り、主イエス御自身が三年半の宣教生活において笑われたという記述は聖書にありません。むしろ、人間が持つ喜怒哀楽のうち、楽に当たる笑うことだけはなさいませんでした。主イエスは聖霊によって喜ばれ(ルカ10:21)、怒って悲しまれて(マルコ3:5)律法学者やファリサイ派等の律法を守っているように見せかけて実は守っていない偽善者と戦い、神殿で商売をしている者たちを「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)と仰って商人たちに対して怒りを露わにされました。ゲツセマネでの祈りの時も死ぬ程に悲しまれました。しかし、主イエスは世の人間たちがするように高笑い、バカ笑い、嘲笑う等ということはしませんでした。むしろ、不信仰の大衆が主イエスや洗礼者ヨハネを嘲笑していました。彼らが笑いを取った訳でもないのにです。主イエスは例えを用いて宣教されましたが、それは悟る者だけに分かれば良いと思われたからであり、笑いを取ろうとしたり、ユーモアがあることを示すために例え話をしたのではありません。悟らない者、悟ろうともしない者には神の教えは無意味とするためです。この世で笑いが止まらない程富める状態、権力を掌握している状態、何不自由無い生活をし、現代のお笑い業界でなされているような他人をけなしたり、下品な冗談や仕草を見聞きして笑っている者は心が汚いからそれを見聞きして笑うのです。パウロは「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」(エフェソ5:4)と述べています。そのようにヘラヘラ笑ったり、ゲラゲラ高笑いする生活はかの日には終わりを告げ、それまでがぬか喜びで満たされていたことに気付き、後で悲しむことになることを主イエスは示されています。また、ヤコブは「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。」(ヤコブ4:9)と書き残しています。笑えなどと誰も言っていません。しかし、気難しい顔つきをしろと言っているのでもありません。常に主イエスの弟子としての品性を保つことが重要です。高笑い、大声で笑っている人の顔を第三者目線から見てどう見えますか。それが答えです。
さて、以下は普通の人間には模倣できない主イエスにしかない点です。
模倣できない点
①神の御子、天の至聖所の大祭司、人間の罪の贖い主、救い主という地位。
②被造物に隠された天の秘密や神の御計画を知ること。
③新しい天と新しい地の王たる地位。
④他人の心を読むこと。
①は、今更言うまでもないことですが、主イエスだけがこれらの地位におられます。もし、人間がそのような者であると自称したり、持ち上げるようなことがあれば、その者は偽キリストです。終わりの時代には偽預言者も含め、そういう者が多く現れ、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば選ばれた人たちをも惑わそうとする(マタイ24:24参照)と主イエスは予告されていました。だから、主イエス・キリストの再臨までいかなる人物にも騙されないようにしましょう。
②は、これも当然のことで、滅びゆく人たちに天上のことや神の御計画を知らせる必要がありません。マタイ13:11でも主イエスは群衆に例えをもって話す理由として、大衆には天の国の秘密を悟ることが許されていないと明確に仰っています。だから、大勢の人々は、世に関するくだらない知識を蓄えて知者ぶりますが、大事なことを何も理解していないのに無駄に高ぶっているのです。パウロも「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント一1:27~28)と述べています。だから、世間で人から尊敬される仕事をしたり、大学や大学院等で学問を修めて学歴や肩書きを得ても自慢にもなりませんし、学歴や職業で人を判断したり差別する人は恥ずべき人間です。
③は、①と同じく、主イエス以外に誰も永遠に続く世界の王になることはできません。この地上で王のように振る舞う人は多くいますが、所詮裸の王様であり、やがて消えゆく霧に等しい存在です。
④は、人間にはなかなかできないことですが、過去記事「今は邪な時代」でも紹介したとおり、主イエスは人間の心の中を読まれており、ファリサイ派の悪しき企み等も見抜いたという話が聖書にあるとおりです。心の中を読めない普通の人間が勝手な憶測で人を判断するのはやめましょう。それで安易に判断したり、裁いたりすれば、罪を犯すことになります。
主イエス・キリストへの信仰によって救いを得る、永遠の命を得ることについて世間で誤解されています。主イエスが十字架で身代わりに死んでくださったからクリスチャンたちは主イエスを信じるだけで死後の裁きでも有罪とされずに神の御国に入れるので地上で生きている間は律法を守らなくていいし、自我を否定しなくてよい、ありのままでいればいい、気が向いた時に福音伝道したり、洗礼をしたり、地上の教会に通ったり、聖書を部分的だけ読んだり、好きなように生活している人が非常に多いです。これらは誤りです。すべてのクリスチャンが主イエスの十字架によって裁きを回避できるのではありません。主イエス・キリストを信じないと言って、そのように現実逃避すれば神の裁きから逃れられる訳でもありません。それでは罪について何の解決にもなっていないからです。主なる神の最終目的は、天においても地においてもすべての罪や悪を完全に消し去ることです。にわかクリスチャンらは、自我に内在する罪の問題を解決しようとしないのに、主イエスを信じると口先だけで言い表し、自分たちは救われて永遠の命を得ると豪語していますが、神を侮辱しているに等しいです。だから、そういう人たちは「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイ15:8)とイザヤ書を引用されて主イエスが仰っているのです。西暦31年にあった主イエスの十字架の死だけでは、罪の問題は解決していません。現に未だに多くの人々は罪を犯し続けているのがその証拠です。その昔、天で戦いが起こり、神に反逆した天使たちは地に落とされて堕天使となり、サタン、悪魔、悪霊と言われるようになりました。地上に落とされた堕天使が人間を誘惑して地獄に行く道連れにしようとしています。もし主イエスがクリスチャンの罪を赦して天に上げるだけなら、罪の性質も天に持って行くことになります。例えるなら、性犯罪者や窃盗犯を考えてください。性犯罪は性欲が異常に強過ぎることで起こされる犯罪で、これを恩赦か何かで無罪放免したところで、性に関する罪を悔い改めて根本的に更生しなければ、その犯罪者はまた同じことを繰り返すでしょう。窃盗も盗み癖があって人目を盗んでスリルを味わうといった愉快犯が多く、このような人たちも無罪放免したところで根本的に更生しないなら後で同じことを繰り返すでしょう。実際にこのような犯罪は再犯率が高いです。なぜなら、悔い改めていないからです。よって、主イエスの罪の赦しという表面的なことで、根本的に人間の心の中まで浄化しないまま、永遠の命を与えるなんてことを神がなさるはずがありません。そんなことを許せば、アダムとエバの堕落と同じことの繰り返しになるからです。だから、人間がこの地上で生きている間に罪の問題を根本的に心の中から解決しなければ、救われて永遠の命を得ることは有り得ないのです。悔い改めという言葉を正しく理解していない人が多過ぎます。自称クリスチャンたちも分かっていません。多くの人々が罪の恐ろしさを知らないので罪を捨て去ることができないのです。真心から罪を認識し、罪を犯したことを悔い、それをやめるという改めの行いが伴わないと生活や品性に変化は生じません。クリスチャンの多くが罪の結果である第二の死を恐れていますが、これは本当の悔い改めではありません。人間が犯す罪が神やキリストを悲しませるものだという認識が足りていない人が多過ぎます。例えば、イスカリオテのユダは主イエスを裏切った後に罪を犯したと告白して後悔していました(マタイ27:4参照)が、彼は罪そのものを悔いたのではなく、罪の結果を考えて悔いたのです。この違いが分かりますか。罪を犯したと気付いてその結果を恐れるだけでは悔い改めではないのです。罪そのものに対する認識が甘いから、根本的に罪を犯すことをやめられないので何度も同じことを繰り返すのです。聖霊が働かないのも悔い改めができていないことに起因します。「諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなる。」(テモテ二2:21)とパウロも述べています。だから、肉の思いという自我を捨て去らないと神の律法に従い得ないし(ローマ8:7参照)、聖霊はあなたを用いることはできません。聖霊を異言を言う、人を癒す、奇跡をする道具かのように思うのはやめなさい。むしろ、聖霊が人間を使役するのです。聖霊は神です。何故、人間が神を使役するようになり得ようか。否、有り得ず、あってはならないことであり、聖霊やその賜物を道具かのように考える者は神である聖霊を冒涜しているのでキリストに結ばれておらず、何か不思議な業をしたとしても、それは悪霊の業です。肉の業をする者も同様であり、いくら口先でクリスチャンだとか主イエスの弟子と自称しようがどうでもよいことです。ガラテヤ5:19に「肉の業」が列挙されており、この中に敵意、不和、仲間争いも含まれています。このような行いをする者は神の国を受け継ぐことはできません。つい先日私はこれらの被害を受けたことが発覚したばかりですが、主イエスは私たちにとって益としてくださいました。「悪事千里を走る」という諺もありますが、悪い行いを隠れて行っても必ず明るみに出されます。主イエスも「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」(ルカ8:17)と述べられたとおりです。悪魔の秩序であるNWOについても、テレビや新聞等の大手マスコミが隠そうとしても、既にネット上では明るみになっており、もはや知らない方がおかしい状態になっています。NWOについても聖書についても信じようとしない人は酷い高慢な状態にあります。自分の知識や認識が正しい、学校やこれまでの人間関係で学んだこと、教科書やその他の本で学んだこと、テレビや新聞等で得た情報だけが正しいと思い込んでいるだけです。本当に「高慢」という病気は救いようがないものです。高慢というのは癌よりも恐ろしい病気です。癌になったからといって地獄行きになりませんが、高慢は直さないならば地獄行きになるからです。聖書にあるとおり、主なる神はそれ程までに高慢を忌み嫌うのです。サタンも被造物という立場をわきまえずに神になろうとして高慢になって天から落とされ、滅びの運命に定められたのです。同じく高慢な人間もサタンと共に滅びます。もしこれらの言葉を聞いても何も感じない、うるさいなと反感を抱くようならば、その責任はあなたがた自身にあります。主イエス・キリストを真心から信じ、肉の思いを捨て、肉の業をやめて悔い改めるなら、聖霊があなたを導くでしょう。
新約聖書 フィリピの信徒への手紙 2章13節
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
上記聖句は過去記事「聖霊の賜物について」でも引用して誤訳を指摘したとおり、「神の御心のためにあなたの意志と行いの両方に対してあなたの内で働いているのは神である。」としてください。このままではいけないという思い、神の律法で罪とされている事柄、行い、心の思い等を捨てさらねばいけないとあなたの心に訴えかけて、行いとして改善させるように内側から働きかける力こそ神なる聖霊の働きなのです。そして、「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」(テトス3:5)のとおり、この聖霊の力によって新しく人間は生まれ変わり、主イエス・キリストを模範として従い、成長し、神の御心を行うために生活するのであり、もはやその人自身のために生きるのではないので、従来の生活、行い、言葉、品性等が変わるはずです。もし何も変わっていない、変える気も無いのでは聖霊の力が働いていないことになります。奇跡、癒し、異言、悪霊の追い出し等をするだけでは聖霊の力とは言えません。大事なのはそのような他人の注意や関心を引くような目に見えることではなく、品性であり、心であり、平素の行い、生き方です。聖霊の導きで必ず、主イエスに似たような素晴らしい品性と愛を持ち、悪や罪を憎む義の心を持ち、永遠の命を受けるに相応しい神の民とさせてくださいます。そのためには、今までの自分、自我というものを完全に捨てなければいけません。つまり、自己犠牲が必要になります。自分が大好きという自己愛から自分を捨てられない、自我を否定することができない、聖書の真理に固く立つ人から戒められることを嫌う、聖書で見なかったことにしたくなる不都合と思われる箇所を無視するようでは絶対に主イエスの贖いを受けることはできません。主イエスより自分自身を上に置いているからです。「義」という漢字は、我という自我の上に小羊であられる主イエスが立つことで「義」となるのです。自分がやりたいことをしたいという思いや考え、自分が欲しいものを手にいれたいという欲求、地上の富に対する欲、この世とこの世にある物を愛するような思いや行い、罪の引き金となる肉の思い、肉の思いから来る肉の業等をするようでは、主イエスを自分よりも下に置くことになります。それでは義が成立せず、そのような人にはキリストの義も救いもありません。そのような人がいくらクリスチャンを自称しようとも無意味です。義は主イエス・キリスト以外になく、主以外に誇るべきことは何もありません。
新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章30節
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
聖霊は外側からではなく、人間の内から働きかけ、主イエスこそが義、聖、贖いであることを強く認識させるのです。善行をいくらしても、奇跡等をして人々を驚かせても神の御前に義とされることは一切あり得ません。それらは救いの条件ではないからです。偽り者はサタンに唆され、キリストの十字架を悪用して行いや律法を軽視して悔い改めることをしないように働きかけます。騙されてはなりません。パウロも「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」(ローマ6:15)、「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ3:31)、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」(ローマ6:2)等と述べており、律法を否定したり、廃止するようなことを述べていません。罪を憎み、罪を避けるようにならなければ罪の奴隷になって罪を犯すようになります。主イエスも「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ8:34)と仰いました。律法を無視して罪を犯し続けているようでは罪の奴隷のままであり、聖霊によって新生したとは言えません。そして、そのような状態のままで聖霊の賜物や超自然的現象、霊的現象が無いと不安でしかたがない自分を慰めるため、または安心させるために、奇跡、癒し、異言、悪霊の追い出し等のしるしに傾倒するようになるのです。そして、そのような目に見える業を通して気分が高揚したり、気持ち良くなるので惑わしであることを疑うことをせず、それで正しいのだと思い込むようになります。しかし、そのような者たちは神を知りません。このような者たちを避けなさい。過去記事「聖霊の賜物について」でも注意したことがあるので復習しておいてください。
主イエスは御自分のために地上に来られたのではなく、罪人を救うために来られたのです。主イエスはいつも失われた羊を探し求めておられ、福音宣教され、偽り者と戦い、父なる神の栄光を現すために様々な御業をなさいました。主イエスは無意味に、かつ、無秩序に行動なさることは一切ありませんでした。不信仰の者や信仰の薄い者に対しては奇跡もなさいませんでした。主イエスはいつも熱心に祈られ、神の民のために働かれました。それ故、必要に応じて人々を癒され、必要な御言葉を述べられ、神の栄光を現すために御業をされました。それは後世に渡って予め選ばれた神の民が、主イエスの御言葉や御業を通じて神を信じて悔い改めるようになるためです。人間が聖霊を求める動機としてよく陥りがちな過ちですが、自分の救いのことばかり考えているようでは与えられません。そのような動機ならば、自己愛、利己主義等といった自己犠牲をしない人だからです。散々私が非難してきたことです。他者や神に奉仕するために聖霊を求めなければなりません。自分自身のためではなく、父なる神のため、主イエスのために働き、失われた羊を救うため、邪悪な世にキリストの義を示すためでなければ、到底無理です。主イエスの例え話で、ルカ11:5~13では旅行中の友達に何か出すために別の友にパンを求めています。自分のお腹が空いたからという理由ではありません。その後の文脈で求めること、探すこと、門をたたくことの重要性が説かれ、聖霊も同じような動機で求めるべきです。自分が救われたい、自分が愛する身内を救いたい、聖霊の賜物を得て注目を浴びて有名になりたい、動画や映画を撮ってネット上に公開して人々に見せびらかしたい等の理由ではダメです。神の前にその者の心が正しくないからです(使徒言行録8:21参照)。何度も言いますが、大事なのは心です。主イエスも「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」(マタイ15:18)と仰っています。だから、心の中から清めなければ、聖霊は人間の内に働きません。
旧約聖書 箴言 4章23~25節
何を守るよりも、自分の心を守れ。
そこに命の源がある。
曲がった言葉をあなたの口から退け
ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。
目をまっすぐ前に注げ。
あなたに対しているものに
まなざしを正しく向けよ。
上記の新共同訳は誤訳なので、私は、23節を「最大限の警戒で自分の心を守れ。そこから命の泉が流れるからである。」とし、25節を「目をまっすぐ前に注げ。あなたのまぶたはあなたの前にまっすぐに向けよ。」とします。重要なのは心であり、それこそが最も重要な部分です。心を清くし、その状態を保つように努めましょう。また、視線を天におられる主イエスに向け、よそ見をせず、右にも左にも逸れずに悪を避けましょう。最後に主イエスの御言葉で締めたいと思います。
新約聖書 マタイによる福音書 5章8節
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上