こんにちは。
今回は、種を蒔く人の例えについて述べます。
新約聖書 マタイによる福音書 十三章十八節〜四十三節(拙訳)
「それ故、あんた方は種を蒔く人の例えを理解しなはれ。誰でも王国の言葉を聞いて理解せえへんなら、悪い者が来て、その人の心の中に蒔かれたものを取り去る。これが道端に蒔かれたものや。しかし、石だらけの所に蒔かれたもの、これは御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自身の内に根を持たず、それ故に一時的であり、更に御言葉のために苦難又は迫害の発生で、すぐに躓かされる。しかし、茨の中に蒔かれたもの、これは御言葉を聞いて、この世の思い煩いや富の欺瞞が御言葉を塞いで実を結ばへんようになる。ところが、良い土地に蒔かれたもの、これは御言葉を聞いて理解してる。それは、確かに実を結んで行う。あるものは実に百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍。」
(イエスは、)別の例えを彼らに提示して言わはる。
「天の王国は、その畑に良い種を蒔いてる人に例えられる。しかし、人々を眠らせるときに、その人の敵が来て、麦の只中に毒麦を蒔いて行った。更に、草が生え始めて、実を結び、それから毒麦も現れた。すると、家長の僕たちが来て彼に言うた。『ご主人様、あんたの畑に良い種を蒔きはったんやないのですか。では、何処から毒麦を持つのでしょうか。』しかし、彼は彼らに、『敵対する人がこれをしたんや』と言うた。そこで、僕たちが、『では、行ってそれら(毒麦)を集めましょうか』と彼に言う。しかし、彼は言うた。『いや、毒麦を集めるとき、麦と一緒に抜くとあかんから、刈り入れまで両方を共に育てられると言い付けい。また、刈り入れの時、「最初に毒麦を集め、それらを焼くために束にして縛りなはれ。しかし、我が倉に麦を集めい。」と刈り取る者に我は言うだろう。』」
別の例えを彼らに提示して言わはる。
「天の王国は、人が取ってその畑に蒔いたからし一粒のようや。それは、確かにすべての種で最も小さいが、育てられると野菜で最も大きく、空の鳥たちが来て枝に住むことが出来る木になる。」
別の例えを彼らに話しはった。
「天の王国は、全体が発酵されるまで女が取って三サトンの小麦粉に隠したパン種のようや。」
イエスはこれらすべてを例えで群衆に語りはって、例え抜きに彼らに語らはらへんかった。それは、預言者によって言われたことが実現されるためやった。曰く、「我が口を開いて例えで世の創造の時から隠されてたことを語るだろう。」
それから、イエスは群衆を追い払い、家の中に入りはった。すると、彼の弟子たちが彼に寄って来て、「畑の毒麦の例えを我等に説明してください」と言う。そこで、イエスは答えて彼らに言わはった。
「良い種を蒔いてる者は人の子であり、また、畑は世界であり、更に、これら良い種は王国の子らや。しかし、毒麦は邪悪な者の子らや。また、それら(毒麦)を蒔いてた敵は悪魔であり、更に、刈り入れは世の終わりであり、そして、刈り取る者は天使たちや。それ故、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりに同じようになるだろう。人の子は彼の天使たちを遣わし、罪を犯させるすべてのものと不法を行う者たちを彼の王国から集めて、彼らを火の炉の中に投げ入れるだろう。そこで、慟哭と歯ぎしりがあるだろう。その時、正しい人々は、彼らの父の王国で太陽のように輝きを放つだろう。聞く耳を持つ者は聞きなはれ。」
一、理解したと自分で思てても行いが伴わへんなら、その者は理解しておらず脱落者になる
前回記事「選ばれへん人は神の御言葉を理解しない」で掲載した「確かにあんた方に言うとく。多くの預言者や正しい人たちは、あんた方が見て、彼らが見ぃひんかったのを見ることを熱望した事を。あんた方が聞いて、彼らが聞かへんかったことを聞く事も。」という主イエスの御言葉の続きであり、過去の預言者や義人たちが見聞きすることを熱望したのに叶わへんかったのを今となってはそれが可能になんやから、主イエスは、御自分の教えを理解しなはれと明確に御命令してはる。その前文を受けて本記事で「それ故、あんた方は種を蒔く人の例えを理解しなはれ。」と主イエスは言わはった。過去の預言者や義人たちがどんだけ望んでも叶わへんかった事が今や出来るんやから、ほんまはこの上ない贅沢なんやで。しかし、大多数の人間は神に選ばれぬ故に、主イエスの御言葉の価値を知らず、聖書を軽んじ、無視するし、反抗もする。かように神に選ばれぬ故に主イエスの教えを理解でけへんようにされてる大多数の人間を除き、この世のごく一部の人間だけが神の御言葉を理解することが出来るんやから、それをきちんと学んで、理解し、行いに反映させ、他人に周知するという伝道をせないかん。それらを実際に行ってへんのなら、その者は主イエスの教えを理解してるとは言えず、行わへん者には信仰があるとは客観的に認められへんからや。
脱落者について、主イエスは例えを用いて以下のとおり説明しはった。
最初は、道端に蒔かれた種や。主イエスは、「誰でも王国の言葉を聞いて理解せえへんなら、悪い者が来て、その人の心の中に蒔かれたものを取り去る。これが道端に蒔かれたものや。」と言わはり、聖書の教えを見聞きしておきながら、行いで示さへん、理解してへんという状態なら、その人の心の中に蒔かれた神の御言葉や教えを悪い者(悪霊や不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)等)が取り去り、結果的に信仰から脱落することになる。こないな人間は、道端に蒔かれた種と形容されてる。
次は、石だらけの所に蒔かれた種や。主イエスは「石だらけの所に蒔かれたもの、これは御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自身の内に根を持たず、それ故に一時的であり、更に御言葉のために苦難又は迫害の発生で、すぐに躓かされる。」と言わはった。主イエスの教えを聞いてすぐに喜んで受け入れるものの、芯となる根を持たぬ故に一時的で終わり、長続きせず、主イエスの教えを守ると身の回りで苦難や迫害が発生し、その時に臆病になって信仰を貫くよりもこの世で生き残ることを優先してしまい、主イエスの教えを固く守ることが出来ず、律法違犯をし、脱落してまうということや。聖句で「躓く」と訳される箇所は、罪を犯す(律法に違犯する)という意味を持つ。せやから、周囲の人間の評価や評判等を重視する人は、聖書に出会って信仰に入ったとしても、芯となる根を持たぬ故に一時的な信仰で終わり、何か苦難や迫害に直面すると棄教し、脱落してしまうんや。そないな人間は、石だらけの所に蒔かれた種と形容されてる。
三番目は、茨の中に蒔かれた種や。主イエスは「茨の中に蒔かれたもの、これは御言葉を聞いて、この世の思い煩いや富の欺瞞が御言葉を塞いで実を結ばへんようになる。」と教えはった。この種の人間も主イエスの教えを一旦は聞き入れるが、この世の思い煩いや富の欺瞞によって、聖書の御言葉及び主イエスの教えを塞ぎ、実を結ばへん。要するに、こないな人間は信心深くなく、キリスト者と自称しつつも実際にはこの世で生きることを第一にしており、この世の富が自分の生活を豊かにしてくれると思い、この世での自分自身の問題や身の回りの問題に思い煩い、その事に時間や労力等を奪われて、聖書を研究することや伝道活動に時間を割かず、何もええ結果を残さへんという状態になる。この種の人間も非常に多く、聖書を読んで、当ブログに投稿してきても何も結果を残さへん人や投稿をやめてまう人がこれに該当し得る。信仰があると言いはするけども、実際にはキリスト者としての行いが伴わず、世俗の事柄で忙しくしてて、客観的に見てキリスト者とは認められへん人たちや。勿論、世俗の事を一切してはならんと禁じる意味やないし、生活でけへん状態になることを勧めてるという意味やないで。生活でけへん状態に陥っては、伝道もままならず、世の光として活動が出来ず存在感を示すこともでけへんようになるからや。せやから、一応この世で生活出来る状態を維持しつつ、娯楽や必要以上の金儲け、その他の信仰と無関係でどうでもええ事を慎んで、伝道やその他キリスト者としての働きを行う者として行いで信仰を示す必要がある。また、主イエスは「富の欺瞞」と指摘してはる点に注目しなはれ。この世の富、即ち、金銭やその他の財産等がこれに該当し、それらが人生を豊かにする、不自由無く暮らせる、幸せになれる等と思わされる、言い換えれば、富に騙されてる状態や。欺瞞というのは騙すことを意味し、富に騙される人間は悪い人間であり、神に認められる正しい人間ではない。また、富の欺瞞のみならず、世の思い煩いで手一杯になる人たちも決して少なくなく、その人たちは世俗社会で生活することに熱心になる一方で、信仰生活やキリスト者としての義務を果たすことや働きをすることがなく、神の民でもないということや。かような人間は、茨の中に蒔かれた種と形容されてる。
これら、道端に蒔かれた種(聖書の教えを聞いても理解せえへん者)、石だらけの所に蒔かれた種(聖書の教えを受け入れても一時的で、苦難や迫害等により脱落する者)、茨の中に蒔かれた種(聖書の教えを聞くが、この世の思い煩いや富の欺瞞で実を結ばへん者)の三種類の人間は、この世の多数派であり、これらに該当する人たちは、不信仰者と同様に救われへん。
二、救われるのは行いで信仰を示し続ける者のみ
上記聖句のとおり、主イエスは「良い土地に蒔かれたもの、これは御言葉を聞いて理解してる。それは、確かに実を結んで行う。あるものは実に百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍。」と言わはった。見て分かるとおり、明確に主イエスは「御言葉を聞いて理解してる」前提で、「確かに実を結んで行う。」として、聖書の御言葉を聞いて理解し、それを行う者であることを神の民として認める要件としてはることが分かる。「聖書を学んだ」、「聖書を知ってる」等だけでは不十分であり、実際にその教えを実践してるかどうかが大きな違いや。牧師等といった自称聖職者らは、聖書を知ってるとか、学んだことがある程度で止まっており、何一つ聖書の真理といった大事な点をまったく理解しておらず、パウロを偽使徒と理解する知性も無い。そして、その牧師等といった自称聖職者らやユーチューブをはじめとするネット上で偉そうに偽使徒パウロの偽福音や偽教義を教える偽教師らと、彼らの教えを盲信して支持するパウロ教信者や自称キリスト者どもも同じで、キリスト者としての行いが一切伴わへん。律法を廃止されたものと勝手に看做し、律法を守らずとも救われるとしてるパウロ教(カトリック、正教会、プロテスタント等)において、その信条を固く守ったとしても救われへんことに注意が必要です。大事なのは、主イエスの教え、及び主イエスから対面で直接選ばれた十二使徒の教えを信じ、それ故に神の律法を守り、慈愛ある行いをし、正しい伝道をし、正しい信仰を持つ兄弟で交流することを実践することであり、それらを行う者のみが救われる。これは聖書から導き出される正しい考えであり、これに異議を唱える余地は無い。異議を唱えたり賛同せえへん者は、主イエス・キリストの教えに留まらず反抗してることになる故、そないな人は誰でも反キリストです。
三、神が選ばぬ大衆には例え話のみ
これは、前回記事「選ばれへん人は神の御言葉を理解しない」の続きで、上記聖句のとおり、主イエスは舟に乗り込んでる状態で、岸に立ってた大衆に向けて例え話を提示しはった。その話の内容は、「天の王国は、その畑に良い種を蒔いてる人に例えられる。しかし、人々を眠らせるときに、その人の敵が来て、麦の只中に毒麦を蒔いて行った。更に、草が生え始めて、実を結び、それから毒麦も現れた。すると、家長の僕たちが来て彼に言うた。『ご主人様、あんたの畑に良い種を蒔きはったんやないのですか。では、何処から毒麦を持つのでしょうか。』しかし、彼は彼らに、『敵対する人がこれをしたんや』と言うた。そこで、僕たちが、『では、行ってそれら(毒麦)を集めましょうか』と彼に言うと、しかし、彼は言うた。『いや、毒麦を集めるとき、麦と一緒に抜くとあかんから、刈り入れまで両方を共に育てられると言い付けい。また、刈り入れの時、「最初に毒麦を集め、それらを焼くために束にして縛りなはれ。しかし、我が倉に麦を集めい。」と刈り取る者に我は言うだろう。』」というものであった。また、種を蒔く人の例えだけでなく、「天の王国は、人が取ってその畑に蒔いたからし一粒のようや。それは、確かにすべての種で最も小さいが、育てられると野菜で最も大きく、空の鳥たちが来て枝に住むことが出来る木になる。」別の例えを彼らに話しはった。「天の王国は、全体が発酵されるまで女が取って三サトンの小麦粉に隠したパン種のようや。」という別の例え話もしはった。前回記事でも述べたとおり、これらの例え話を聞かされても、具体的な説明が無かった故、大衆はまったく理解でけへんかったであろう。なぜなら、主イエスは大衆にその話の内容を理解させるつもりがないからや。元より、大衆は神が救うと選んだ人間ではないさかい、そないな人間たちに理解されなくても問題無いと思し召しやからや。
ちなみに、大衆にしはった例え話の意味をあんた方は理解してるやろか。からし一粒については、最も小さいのに、それが育てられると最も大きくなり、鳥が来て住む程の大きな木になると言われてる。これは、過去記事「パウロは偽使徒」で説明したとおり、パウロ(「小さい」という意味)のことを暗示してると思われ、パウロ自身も最も小さいと言うた(コリント一 十五章九節)事と一致する。要するに、からし一粒がパウロであり、奇跡といった目に見える業や偽りの偽福音に魅了された毒麦どもの支持を集めて大きくなり、空の鳥と形容される悪魔が来て住む教会を形成する事を指してる。拙者が過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」で論証したとおり、パウロの座がローマ教皇であり、正教会やプロテスタントやその他の教派もすべてローマ・カトリック教会から派生した分派に過ぎず、それらすべてパウロ教を信奉する教会が悪魔が住む教会と言える。ここで鳥が悪魔としてるのは、前回記事で引用した聖句内で「種蒔きの間に、ある種は道端に落ち、鳥が来てそれらを食い尽くした。」とあるとおりで、種を蒔く人である主イエスの邪魔をする存在の比喩であり、つまり、ここでの鳥は悪魔を指すと言える。そして、空の鳥と例えられてる悪魔が来て住むと言われており、これは明らかに、からし一粒の偽使徒パウロを信奉し、悪魔が住む世の諸教会を指してる。
別の例え話では、パン種について言及されてる。マタイ十六章十二節より、パン種はファリサイ派やサドカイ派の人々の教えを意味するため、これもファリサイ派である偽使徒パウロの教えの事であると理解せねばならん。世のキリスト教と称する教会の多くが、偽使徒パウロの教えというパン種によって全体が発酵して悪いものになる。これらの例え話から分かるのは、キリスト教関係者の内部から悪い者が大勢出てくるということです。拙者は過去にローマ教皇が黙示録に書かれる獣、ダニエル書に書かれる小さな角であると説明したとおりで、ローマ・カトリック教会という表向きは主イエス・キリストを信じると口先だけで言いながらも、表向きだけ主イエスを利用するだけで実際には信仰しておらず、それどころか主イエスの教えに逆らいまくり、マリアや彫像や彼らが指定した聖人らや教皇を礼拝させ、主イエスが律法で禁じてはる偶像崇拝を行い、その他忌まわしい言動や犯罪の数々を今に至るまで千年以上続けてる。そんな彼らに聞き従う信者どもも同罪や。主イエスは、天の王国の例えとして言わはったが、これは一応キリスト者であると称してるために表面的にはそのようにしてるだけのことであって、世の諸教会らに属する者たちが救われる神の民であることを意味せえへんことに注意しなはれ。
そして、上記聖句の「イエスはこれらすべてを例えで群衆に語りはって、例え抜きに彼らに語らはらへんかった。それは、預言者によって言われたことが実現されるためやった。曰く、「我が口を開いて例えで世の創造の時から隠されてたことを語るだろう。」」とあるとおり、主イエスが例え話で教えをしはるのは預言の実現のためであった。一応、主イエスの教えを聞きにわざわざ来たということで、慈愛から大衆に向けて教えをしはったが、理解させることまで想定してへん故、かような有様であった。主イエスは大衆から離れて物理的に距離を取り、かつ、親密にせず、例え話だけしてあげるという結果であった。これが客観的事実なんや。それにも拘らず、パウロ教信者どもは、主イエスの教えを無視して背き、悔い改めず堕落した人間が救われるために救いの要件を極めて緩くし、神の律法も無視で、律法に違犯することが罪であるという使徒ヨハネの教えや律法を廃止せえへんという主イエスの教えに明確に違反し、挙げ句の果てには、主イエスは愛のお方だから信じると言うだけで救ってくださるといった万人救済を唱えたりする者まで居る。パウロ教信者どもらは反キリスト丸出しの思想や言動なのに、厚かましくもキリスト者やクリスチャンと自称し、他者を惑わしてる嘘つきや。確かに言うとくが、主イエスは、そんなパウロ教信者や不信仰者等をまったく愛してへんからな。せやから、自分は神に愛されてる等と自己愛から都合良く思い込むんはやめい。きちんと聖書(パウロ書簡を除く)と当ブログに向き合い、現実を知れ。
四、主イエスは明確に人を区別する
複数の過去記事、前回記事、上記聖句の「イエスは群衆を追い払い、家の中に入りはった。」という行動から明らかなとおり、主イエスは多数派たる群衆を邪魔とお考えになって追い払う。市販の日本語訳聖書では「群衆を後に残して」等となってるが、改訂版(RV)を底本としてる市販聖書に多く見られる誤訳や。しかし、拙者の訳が原語に忠実や。何故主イエスは度々群衆を追い払ったのか。その理由は、主イエスは多数派の人間が悪人と知ってはり、嫌ってはるからや。もし主イエスが群衆を愛してたなら、追い払うなんていう態度は取らはらへんし、例え話でぼかしたりもせず、比喩を用いずに率直なお話をしはったであろうが、実際はそうではなかった。主イエスは、群衆相手には近くに居ることを厭って距離を取ったり、追い払い、例え話しかせえへんのに、御自分が選びはった弟子たちには一緒に家の中に居ることを許しはった上、「彼の弟子たちが彼に寄って来て、「畑の毒麦の例えを我等に説明してください」」という要求にもすぐに答えはり、大衆にはせえへんかった例え話の意味を説明しはった。分かりますか、この扱いの差。これは明確な区別であり、主イエスは誰でも愛してるという訳ではないということです。主イエスの例え話にあるとおり、麦と毒麦の区別と一緒です。麦に対する扱いと毒麦に対する扱いを明確に分けてます。主イエスを心から敬愛せず、神の律法を守らず、伝道もせず、兄弟の集いで交流もせえへんという主イエスの教えや掟を守らへん人は、自分をキリスト者やクリスチャン等と自称するのはやめなはれ。なんぼ自称したかて、神はその人を認めることはないし、拙者も認めへん。
五、種を蒔く人の例えの意味
まず、十二使徒の質問に答えはった主イエスによる例えの意味を理解しよう。上記聖句で、「良い種を蒔いてる者は人の子であり、また、畑は世界であり、更に、これら良い種は王国の子らや。しかし、毒麦は邪悪な者の子らや。また、それら(毒麦)を蒔いてた敵は悪魔であり、更に、刈り入れは世の終わりであり、そして、刈り取る者は天使たちや。」と主イエスの御説明があったとおり、良い種を蒔いた人は主イエス、畑はこの世、良い種は(天の)王国の子たる神の民、毒麦は邪悪な子たる反キリストども(不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)等)、毒麦を蒔いたのは悪魔、刈り入れ(収穫)は世の終わり、刈り取る者(収穫者)は天使たちということを前提に以下の話をする。
大衆に向けて主イエスが言わはった例え話について、「人々を眠らせるときに、その人の敵が来て、麦の只中に毒麦を蒔いて行った。」をまず見てみよう。人々を眠らせるときというのに注目すべきや。市販聖書では「人々が眠っている間に」等としてるが、これは誤訳や。当該聖句における「人々」の古代ギリシア単語は対格であって、主格ではない。故に、「人々が」とか「人々は」という主語にする訳し方にはならず、目的語として訳すのが通常や。そして、眠るという単語については、古代ギリシア単語の比喩では「怠惰や罪に対して屈する、救いに対して無関心」という意味を含んでる。主イエスが十二使徒に向けて「目を覚ましていなはれ」と言わはったのは、「眠るな、眠らされるな」という意味でもある。要するに、目を覚ましてるというのは言い換えれば眠ってへん状態であり、字義どおりの睡眠の話をしてるんやのうて、「楽をしたいという誘惑に負けて怠惰になるな、罪を犯すな、救いに対して無関心になるな」という意味を含んだ御言葉なんや。神は御自分が選びはったごく少数の人間だけを救う予定であり、それ以外の人間を救わへん上、選ばれた人に対しても鍛錬のためや試練を与えるために眠らせるということや。選ばれた人だけは、眠らされず、試練にも打ち勝って目を覚ましてる。かような見えざる神の御業がなされるとき、神の敵である悪魔が来て、麦の只中に毒麦を蒔いたと主イエスは言わはった。そして、「更に、草が生え始めて、実を結び、それから毒麦も現れた。」と主イエスは言わはった。これは、キリスト者が成長して活動していくと、毒麦たる敵対者も現れたとある。これも現実の投影です。拙者が活動して成果を上げていくと、敵対者が現れて中傷したり、偽使徒パウロの偽福音や偽教義をしつこく吹聴して虚偽伝道等をして邪魔ばかりしてくる。
「すると、家長の僕たちが来て彼に言うた。『ご主人様、あんたの畑に良い種を蒔きはったんやないのですか。では、何処から毒麦を持つのでしょうか。』」という箇所は、天使たちが主イエスに良い種である神の民を用意したのではなかったのか、もしそうなら、何処から毒麦たる敵対者が出てくるのかと質問した。この質問者たる僕たちを天使たちと拙者が解釈したのは、主イエスに仕える僕たる地位であり、後で毒麦を集めましょうかと提案してることから、人を集める役目があることを明言してるからや。そして、主イエスは「敵対する人がこれをしたんや」と悪魔の仕業と断言しはった。それで、天使たちは「では、行ってそれら(毒麦)を集めましょうか」と言うたが、主イエスは「いや、毒麦を集めるとき、麦と一緒に抜くとあかんから、刈り入れまで両方を共に育てられると言い付けい。また、刈り入れの時、「最初に毒麦を集め、それらを焼くために束にして縛りなはれ。しかし、我が倉に麦を集めい。」と刈り取る者に我は言うだろう。」と言わはった。このことから、この世の終わりまで敵対者がこの世で生きることが許されてるのは神の民のためであることが分かる。本来ならば、敵対者なんて神にとっては要らない存在で、やろうと思えばいつでも消せるんやが、神の民のために敢えて残しはってる。神の民の成長のために必要な悪ということやろな。神の民が、試練や苦難を経てより良い人になるために。そして、主イエスの御計画は、この世の終わりの時、最初に毒麦たる悪い人間を集めて焼き払うために束にして縛ると言うてはる。他方、神の民たる真のキリスト者は、主の倉に集められる。天使たちはかように主イエスの御命令を受けて行動することが分かる。
六、世の終わりの様相
主イエスは「それ故、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりに同じようになるだろう。人の子は彼の天使たちを遣わし、罪を犯させるすべてのものと不法を行う者たちを彼の王国から集めて、彼らを火の炉の中に投げ入れるだろう。そこで、慟哭と歯ぎしりがあるだろう。その時、正しい人々は、彼らの父の王国で太陽のように輝きを放つだろう。聞く耳を持つ者は聞きなはれ。」と言わはった。毒麦たる不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)等の反キリストどもが地獄の業火で焼かれるのと同時に、この世の終わりに同じようになるだろうとのことで、キリストの再臨というこの世の終わりの時になれば、この世界は火で包まれるという事を意味する。これは、使徒ペトロが「しかし、主の日は夜の盗人のように来るであろう。その時、各天は大きな音をたてながら崩壊し、更に諸要素は焼かれ滅ぼされるでしょう。また、地とそこにある業は焼き尽くされるでしょう。」(ペトロの手紙二 三章十節拙訳)と述べたことと合致してる。過去記事「地球球体説と地動説という大嘘と太陽神崇拝」で論証したとおり、政府や学校や報道機関等がこぞって嘘をついてるのは人々に反聖書的価値観を植え付けさせてキリスト信仰を持たせへんようにし、悪魔と悪魔崇拝者の支配層による地獄に道連れにする洗脳工作活動や。この地の実態は球体やのうて平面であり、天動説が正しく、天蓋で覆われてるさかい、それを越えて外には行けず、宇宙や重力や進化論等なんてものは妄想の産物でしかなく、存在せえへん。ペトロの言葉が示してるように、時が来たら天蓋が大きな音をたてて崩壊し、この地は焼き尽くされて滅ぼされるとあり、まさしく地獄の様相を示しており、キリストの再臨時は裁きの時であり、悪魔や不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)どもは地獄の刑罰を受けることになる。拙者が、何年も前からこの世そのものが地獄になると言うたとおりや。せやから、使徒ヨハネは、「世を愛してはならず、世にあるものも愛したらあきません。」(ヨハネ一 二章十五節拙訳)、「世と世にある欲は、消滅します。しかし、神の御意志を行う人は永遠に生きます。」(ヨハネ一 二章十七節拙訳)と教えたんや。この世を愛することは、地獄を愛することであり、後の世で永遠に生きる人がする事ではないし、相応しくもないからや。
また、主イエスは、天使たちを遣わし、罪を犯させるすべてのものと不法を行う者たちを集めて火の炉の中に投げ入れると明言してはる。このことからも律法に違犯する(罪を犯す)事が、如何に悪い事か分かるであろう。未だに理解せえへん人や悔い改めへん人は、悪人と判断されて当然です。主イエスは明確に不法を行う者や罪を犯させるようなものは後の世には要らないから焼却処分にしはり、地獄で焼かれることになる大勢の人間は泣いて歯ぎしりするだろうと言わはったことを忘れるな。神は嘘をつくお方ではないし、前もって実行すると明言されてるんやから、この決定事項が覆ることはないさかい、厳粛に受け止め、地獄の刑罰を受けたくないなら、速やかに生き方や言動を改めねばならないことは分かるやろ。但し、単に地獄の刑罰を免れたいという後ろ向きな思いでは真のキリスト者にはなられへんことには注意や。拙者の言う事を聞かへんのなら、ほんまにどうなっても知らんで。主イエスも「聞く耳を持つ者は聞きなはれ。」と言うてはり、聞く耳を持つ人だけ聞き従えば良いとしてはり、すべての人間が素直に聞き従うことは想定してへんし、多数派が拒否して救われへんことは想定済みや。毒麦たる悪人への処遇とは反対に、正しい人と認められる真のキリスト者は、父なる神の王国で太陽のように輝きを放つとのこと。正反対ですね。どちらになるのがええかは一目瞭然やが、前回記事「選ばれへん人は神の御言葉を理解しない」でも述べたとおり、神に選ばれぬ者は神の御言葉理解せず、たとえ喜んで受け入れたとしても長くは続かへんことになり、中途半端な信仰では結果的には救われへん。せやから、死ぬまで長期継続するかが非常に重要とも述べたとおりで、再度この点を強調しておく。
この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上