こんにちは。

今回も前回の続きで、偽使徒パウロの手紙から導き出された律法廃止論が反キリスト教義であることについても述べます。非常に長くなったが、今回でこの連載は終わりです。この連載からパウロによる反律法の偽福音が如何に間違ってるかを理解すべきです。拙者は誰にでも分かり易く、かつ、論理的に説明してきた。それでも拙者が言うことと聖書の真理を理解でけへん人は悪霊に取り憑かれ、正常な知性や洞察力を奪われ、救いようがないということが明白です。理解した人は、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで受けてきたこの悪い世の権力者や多数派が築いた偽りだらけの常識等といった誤った知識や思想を完全に捨て去り、心を一新させたことを願ってます。そして、今後歩むべき道を明確にし、世俗社会とそれに対する欲望(社会的地位への欲、金銭欲、名誉欲、西洋かぶれ等)との決別、信仰の兄弟との結束をより強め、主イエスの御命令を守るべく、福音伝道に励む等と善い行いを今まで以上に頑張るべきです。あんた方の多くは拙者よりも最低でも五年遅れと知るべきです。拙者は二千十七年当時に比べて大分進歩や成長をしたし、分かる人には分かるであろう。しかし、あんたらはどうなんでしょうか。もし危機感を持つなら、あんたらは拙者以上に頑張らねば救いは無いと思いなはれ。危機感を持たへん人や危機感だけ持って実際には何もせえへん人は皆、もうあかんやろな。

拙者は、過去記事「パウロは偽使徒」以後、それに続く連載記事でも、パウロこそローマ・カトリックの創始者、教祖であると書いた。ローマ・カトリック教会は「大バビロン、淫らな女たちと地の忌まわしい者たちの母」(黙示録十七章五節拙訳)たる存在で、その娘に当たる他の正教会やプロテスタント等も同じ穴の狢で、ローマ・カトリックから生じた分派やからや。その黙示録の聖句にあるとおり、「淫らな女たち」と主イエスがヨハネに示しはったんは、世の諸教会や諸教派のすべてを指してる。拙者が何遍も言うてるやろ。これが真実や。実際、彼らは皆、偽使徒パウロの教義に則って神の律法を破って極めて世俗的に生活して主なる神に反逆してるさかい、間違い無い。そして、拙者は黙示録の獣、即ち、六百六十六たる人間をローマ教皇と考えてるし、その論証も過去にしてきた。要するに、その獣たる存在は偽使徒パウロに起源を持つ。よって、その教義を信じる者は、獣が最後には滅びるのと同様、同じく地獄で滅びる運命になることが分からへんのか。パウロの偽福音は、主イエスの御言葉や律法に反する異端の宗教を大量に生み出し、カトリックのイエズス会が世界中の神学校や大学の神学部等の教育機関を支配しており、洗脳された教授や牧師等を大勢輩出し、彼らが世の権威を振りかざして一般人に偽教義や偽福音を吹聴して洗脳し、世の権威に従順な愚民どもが偽使徒パウロを教祖のように慕い、その教えを狂信してる。まさに「ねずみ講」のようであり(聖書教育に限らず、一般の義務教育や高等教育等も同様)、その結果、現代でも何十億人もの信者を抱え、大量の反キリストを生み出し続けており、彼らのようになることこそが滅びに至る広い門と広い道である。彼らの罪は非常に重い。偽福音を吹聴した偽使徒パウロ自身も、パウロ書簡を聖書の正典と決定して権威付けた異邦人ども、彼らを宗教法人として認可してる世俗の為政者どもも、拙者のブログと動画の論証を見聞きしてもなお納得せえへん自称キリスト者ども、拙者のブログと動画から学ぶことから逃げる者どもらも非常に罪深い。世の諸教会や諸教派といったキリスト教(パウロ教)が反キリスト的、反聖書的であることは、最大の皮肉や。

確かに言うておく。神の御言葉(律法、預言者の書、詩編)が受肉したのが主イエスであり、反律法的な生き方で律法に従わへん者は誰でも反キリストや。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」で、使徒ヨハネが主イエスを言葉と定義したことについても書いた。聖書の文字や律法を貶すようなことを言うた偽使徒パウロが反キリストである事実は揺るがず、偽使徒パウロを盲信してる世の諸教会どもも同じく、反キリストどもの集まりや。キリスト教業界にて、パウロは彼らの教祖であり、主イエスやのうてパウロが救世主かの如く信頼して従ってる事実がある。世の自称キリスト者たちが信じるのは、イエス・キリストやのうて、偽使徒パウロであり、パウロ教信者でしかあらへん。それ故、彼らは彼らの教祖であるパウロの正体を暴いた拙者に敵対して侮辱してる。この点だけでも彼らが悪魔の子であり、罪を犯し続けてる反キリストであることを証明してる。過去にファリサイ派らが主イエスに敵対したのと同じ構図や。現代の自称キリスト者どもは聖書を基にパウロが使徒という根拠をまったく示せず、パウロの自称を信じてるだけ、パウロの腹心の兄弟または弟子であった医者ルカの言葉を信じてるだけに過ぎひん。ほんまにまともな言論が一切出来ておらず、ただ口汚く罵るだけで、存在自体が有害や。口先だけは「イエス様~」とか「イエス様を愛してます、信じてます」等と心にもないことを言うてるが、彼らの本心は「パウロ様~、反キリスト万歳」なんですよ。なぜなら、彼らの言動は平素から粗悪で、神の律法に反して不法を行い、主イエスの教えや十二使徒の教えに従ってへんからや。自称キリスト者のパウロ教信者どもは、偽使徒パウロの偽福音に従っており、主イエスの福音と教えや神の律法に従ってるんやない。彼らは愚かで心が悪い故にこの単純な事実を決して認めようとせず、こないに単刀直入に指摘しても彼らは言い訳したり、反論にもならん戯言や負け惜しみを言いながら逃げるだけや。その証拠に彼らはツイッターをはじめ外部で拙者の陰口を叩くのが精一杯で、誰一人ここに反論しにけえへんさかい。もし、拙者に物申すとしても、聖書(パウロ書簡を除く)に基づかへん主観的な物言いや汚い野次等しかでけへんのなら、それらはゴミ故に削除対象になる。彼らが引用する言葉は、毎度、偽使徒パウロの言葉であり、反論になってへんことを理解でけへん底無しの愚か者や。彼らは拙者がしてるように福音書や黙示録で警告する救世主イエス御自身の御言葉やヨハネの手紙といった真正の使徒の言葉を引用することは一切ない。なぜなら、彼らのような悪人にとっては神の律法、掟、戒めを守るというんは不都合な教えであり、イエス・キリストを信じて従ってへんからや。彼らはパウロをキリストの使徒というパウロが自称した嘘を真実と強調し、パウロという人間をキリストと同一視しており、唯一の救い主イエスを排斥し、福音書や黙示録にある主イエス御自身の教えや戒めを完全に無視し続けてる。世の諸教会では、パウロを「聖パウロ」、または「使徒パウロ」と呼んでるが、誤ってる。自称キリスト者どもは、主イエスをそっちのけにして、彼らの教祖たるパウロを神聖視して祀り上げ、偶像崇拝及び反キリスト崇拝をしてる。非常に忌まわしい。既に過去に述べたとおり、イエス・キリスト御本人が直接選びはった十二使徒以外に使徒とすることを容認した事実は無いし、裏切り者であったイスカリオテのユダの自殺後はマティアが選ばれてそれ以後の使徒の人員補充は無かった。また、パウロを加えて使徒が十三人に増えることについて言及したことも聖書には一切記述が無い。パウロ書簡やパウロと結託してたルカによる記述は根拠にはならへん。拙者が指摘したとおり、パウロが使徒とはパウロ自身が勝手に僭称し、パウロ教の狂信者となってパウロと結託してた医者ルカが使徒言行録でそう言及してるだけに過ぎひん。律法に熱心な十二使徒と初代教会であるエルサレム教会員たちは、聖書の根幹である律法を無視することを教えるパウロを「真のキリスト者」としては断じて認めずに対立したし、まして「使徒」と認めることなんて有り得へんかった。パウロはファリサイ派の迫害者ということでキリスト者たちには信用されへんかったと使徒言行録九章二十六節にあるとおりで、その程度の部外者だった人が「使徒」になれる筈がなかろう。そもそも、使徒の要件は過去記事「パウロは偽使徒」で書いたとおりで、誰でも頑張れば使徒になれるというものではない。パウロは主イエスにその公生涯の内に一遍も会うたこともないし、教えを受けたのでもないし、復活を目撃してへんのやから、なんぼ頑張っても使徒になれる資格が無い故に使徒になられへんのであり、パウロを使徒と呼ぶ行為は嘘をつく罪に当たる。パウロは、自称使徒の偽使徒であり、嘘をつきまくって律法違犯をやめへんかった罪人や。一応パウロがイエス・キリストを信じると言い、投獄や殺人といった凶悪な迫害行為をやめて、伝道をしてるということだけで「兄弟」として彼らが渋々認めてやったに過ぎず、使徒ペトロもパウロを「兄弟」と呼んだが、使徒、または使徒仲間とは呼ばへんかった。更に、ペトロはパウロ書簡に対して警告を発し、パウロの言うことを自分らの都合のええように曲解して受け入れると滅びを招くと明言した程や(ペトロ二 三章十五節~十六節参照)。それは既に過去記事や過去動画で伝えたとおりや。 最近、「パウロ書簡の読み方」(note)といった、にわか信者の一部が拙者の伝道を見て、真似して、このペトロの警告を取り上げとるが、拙者の主張とは似て非なるものであり、彼らは未だに聖書をまったく理解してへん。あかん点を具体的に指摘すると、まず新改訳を盲信してること、正しい底本と原語から判断してへんこと、神がパウロにパウロの書簡を書かせたと神の責任にしてこき下ろしてること、パウロ書簡を幼子のように読めと指示してその内容を疑問視もせず無条件に肯定してることです。更に、その人も律法を擁護するように見せかけておきながら、別記事「重荷ある信仰からの脱却」(note)では以下のように書いてる。

引用ここから。
「戒めを守る必要などない」というのは嘘であり、
「戒めを守れば救われる」というのも嘘なのです。
何を達成する必要もありません。何をアピールする必要もありません。従順であればいいのです。
引用ここまで。

この人は、自分で矛盾してることを言い、何が言いたいのか分からん状態になってることに気付いてへん。題目で重荷から脱却と言うてることから、やはり神の律法、掟、戒めを守ることを重荷と考えてるから、それらを守る必要が無く、「従順であればいい」と言い換えて誤魔化してるんや。これは私的解釈であり、間違いや。神の戒めを守れば救われるのが嘘と堂々と反キリスト発言をしてるよね。この人、自分がおかしいことに微塵も気付けへん異常者と言える。過去にも拙者が紹介したコヘレトの言葉十二章十三節の教えにも真っ向から逆らう反聖書的な発言や。このブログ筆者も反キリストの偽使徒パウロと同一の思考回路と言動なのが分かる。
また、「「完全な者となりなさい」の意味」(note)では、またしても主イエスの教えを曲解してる。

引用ここから。
注意してください。「完全な者となったら天国に入れてあげよう」などとは、主は言っておられません。これを間違うと、私たちは喜びを失うばかりか、律法主義に陥ってしまいます。
完全な者となりなさい。これを簡単にいえば、成長しなさいということです。
誰も、小学生の我が子に向かって「まだ成長していないのか!」とは言わないでしょう。むしろ「成長したね」と言います。まだ大人になっていないにもかかわらず、親は「成長したね」と子に言うのです。
「完全な者となりなさい」もこれと同じです。私たちが完全な愛を目指しているときに、主は「成長したね、完全な者となっているね」と言ってくださるのです。
引用ここまで。

この言い分は、自分に不都合な聖書の教えをすべて自分側、即ち人間側に寄せて曲解してる悪い見本です。「完全」という言葉の意味を知らんのかね。完全とは、「欠点や不足がまったく無いさま」を指します。マタイ五章四十八節の原語「τέλειος」が「完全な」という意味の形容詞であり、その後段にある「天に御座す父が完全であらはるように」ともあることから、その「完全」の意味は明確であり、「罪を犯さへん全き状態」、即ち、「律法違犯をせえへん状態」を指す以外に有り得へん。まさにそのキリスト者の目標は、罪をまったく犯さへんかったイエス・キリストなのであり、そのブログ筆者が言うような「成長しなさい」ではない。あのブログはまったく的外れで間違うた言い分しかあらへん。こないなにわかキリスト者どもは基礎的な国語力が欠如してる。言葉の意味を素直に受け取らず、自分らに都合がええような意味に曲解するんです。偽り者がするんは毎度その手口やさかい、覚えとき。確かにキリスト者が完全に至る過程で成長は必要やが、成長途上では不完全である。あの人が言うようなことが「完全」の意味と主イエスが教えはったのではない。成長し終えて神の王国に入るのに相応しい状態、これ以上不足が無いというような状態を「完全」と言うのであり、天の父なる神が完全であり、人間がそれと同等近くまでの水準に達しなければ救いは無い。死ぬまでに完全になればええって思う呑気な人には一生無理やろな。人間が成長するにも時間が掛かるんを神は知ってはるし、不可能を強いてるんやない。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」で拙者が示した表のように、千人に一人という最期まで神の律法を守る狭き門の人材のみがそれに当たるのであり、世の諸教会で烏合の衆の如く集まったり、ツイッター等でにわか信者どもが徒党を組んで拙者に敵対して、西洋かぶれをやめず、虚しく「主よ、主よ」と言いながら西洋式の間違うた礼拝ごっこや律法違犯をやめようとせえへん者たちが救われるのではない。彼らは律法違犯をやめるという悔い改めをせず、何一つ成長してへんし、主イエスの教えに従わず、完全になろうともしてへんからや。律法を守り、罪を犯すのをやめることは何も悪いことではなく、悔い改めを意味し、むしろええ行いなんです。それを律法主義だのとアホなことを言うて貶す始末であり、それでは生涯に渡り律法遵守をしはった完全なる主イエスに対しても「律法主義者だー」と中傷してるに等しい愚行と知るべきや。ほんまに黙れよ。こないな不信仰の輩は。邪魔や。一緒に集めへん者は誰でも散らす者やさかい(マタイ十二章三十節参照)。ああいう人らは、集めると見せかけて実際は散らす行いをしてるだけや。また、あの人は、トラーを律法やのうて「神の教え」と誤魔化す曲解までやらかしてるよね。以下のとおり。

引用ここから。
目標とは、キリストです。神の教え(トーラー)に従うことによって、主の品性を身に付けること、それが私たちの目標です。
これを目指しているなら、「完全な者となっているね」と言ってもらえるのです。それが、義と認められるということです。
引用ここまで。
「完全な者となりなさい」の意味」(note)より。

そもそも、ヘブライ語の「תּוֹרָה」(トラー)は、「律法」を指す言葉で、「神の教え」ではない。一般にも創世記から申命記までの五書を「モーセ五書」と呼び、これらをまとめて「律法」と区分されたり、神がモーセに授与した法自体を指す言葉でもある。決して「神の教え」と漠然としたものではない。言うたら、「神の教え」は聖書(パウロ書簡は除く)全体がそうやろ。何を言うてるんやろね、この人は。自分でアホらしい主張をしてることに気付かへんのが凄い。この人は、言葉の意味を自分に都合のええように好き勝手にすり替えて私的解釈する悪行を繰り返し、偽使徒パウロを狂信して擁護するわで、ほんまに危うい。そのnoteブログの自己紹介欄には「幼子のような目で聖書を読もうとするクリスチャンです。 あらゆる教派の教え、神学を通さず、「聖書のみ」に歩むことによって気づいたことを書いていきます。 いいと思った記事は、どんどん拡散してください。多くの方が真理に目覚めますように。」と書いてるが、聖書を正しく理解せず、真理を知らず、諸教会に居る人と大差無いし、こんなんを拡散されては惑わすだけで迷惑や。この人に惑わされて共感する人がツイッターをはじめ微増しつつあり、やはり律法を無視した生温い間違うた信仰に安住したがる人が世には多いことが分かる。確かに言うておく。こないな生温い信仰、間違うた信仰をしてる者たちは、その悪い思いや行いを改めへんのなら確実に滅びる。

拙者がこの連載で論証したとおり、偽使徒パウロは口先だけ、権力者の前だけでは律法擁護をしつつも、実際には律法違犯を犯し続けるという生き方であり、当該ブログ記者も似たような反キリストの言動をしてる。そもそも、何を以って「神に従順である」と言えるのか分かってへん自称キリスト者が多過ぎる。あんた方の主観で決まるんか。そうだと思ってるのなら、愚かで、まったく話にならへん。それでは数え切れへん程のやり方が存在することになるし、それは神が認めはるやり方ではないし、聖書ではそのように書かれてへん。神は、人間各自のやり方なんていうんを一切認めはらへんし、偽使徒パウロの教えも認めてへん。聖書では主なる神は、昔から一貫して「神の御言葉、律法、掟、戒めを守れ」とすべての人間に命じてはり、それらを「行う」ことが神に従順と言えるとしてる。人間がわがままで自分勝手な自我を捨ててへりくだって神の律法、掟、戒めに服従し、神の側に寄せる必要があるのであり、人間が自分にとって都合がええように聖書の御言葉を自分の側に寄せるために曲解してはならんのや。しかし、この基本中の基本のこと、及び、最も大事なことを理解せず、出来てへん人が非常に多いんが現実や。前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 六」の最後の方でも注意したとおり、未だに洋服を着続けるといった西洋かぶれをやめへんような人が、まさに自分らに都合がええように聖書を曲解し、自ら滅びを招いてる人たちや。上記のブログ筆者は「よちよちクリスチャン」と乳児の初心者程度で、偉そうに語るな。その資格が無い。実際、その人に限らず、多くの者たちが偉そうに聖書について無知で聖書について語る資格が無いにも拘らず、好き勝手にブログやツイッター等で嘘を吹聴しており、非常に目障りや。偽使徒パウロの書簡をやたらと引用し、偽福音を吹聴する反キリストどもよ、罪を犯してることに気付け。気付いたら、即刻やめよ。

拙者がこの連載で証明したとおり、偽使徒パウロの言葉は主イエスからのものやないし、パウロに従うことはイエス・キリストに従うことにはならへん。よって、あのブログ筆者をはじめ世の自称キリスト者どもの主張を見れば、聖書に無知であり、聖書を曲解し、間違うた信仰を持ってるのがはっきりと分かる。拙者が既に過去記事で多数聖句引用して論証したように、「神の掟を守ることが神を愛することになる」ことを知らんのを曝け出してる。このことは使徒ヨハネが教えてることや。神の掟たる律法を守らずして、どないして神に仕えてるとか愛して従順になってると言えようか。この拙者が語る聖書の真理に反し、得意げに虚偽の内容である持説を吹聴し、あのブログのような嘘に気付かんと支持してツイッターでもリツイートしたりいいねしたりしてる自称キリスト者どもが幾らか居る。ほんまにあかん人たちや。こないな自称キリスト者の虚言に耳を傾けはするが、聖書の真理を語る拙者には敵対する愚か者が多い。その拒絶行為が、その者どもが反キリストであることを証明してるようなもんや。また、「聖書の正典はいつ、どのようにして集録されたのですか」(Got Questions)といった世間の記事では、その使徒ペトロの警告をええ意味に歪曲し、「ペテロはパウロの書いたものを聖書と認めていました。(第2ペテロ3章15-16節)」と書いており、事実と異なる内容に書き換え、嘘を書いてるのが多いさかい、盲信したらあかんで。ペトロはパウロを認めておらず、むしろ滅びを招くから注意するように言うた。ほんまに世の自称キリスト者どもは聖書に書かれてる言葉を曲解しており、正しく理解してへん。多くの人間は、「言葉」をまったく理解でけへんのやろね。はっきり言うて重症ですよ。せやから、この類の人は知性がまったく無く、なんぼ聖書の字面だけを読んでも無駄なんや。まぁ、全然読めてへんのやが。

パウロは主イエスに敵対したファリサイ派であり、偽装回心し、神の聖徒であるキリスト者の集いにバルナバの手引きで潜入し(使徒言行録九章二十七節)、律法を守る必要は無いと律法を否定し、偽福音を吹聴し、目に見える不思議な業等を駆使し、撹乱や仲違いを引き起こした。パウロが神の律法を否定したことで、多くのユダヤ人から命を狙われることとなった。そのパウロ自身の罪故にそうなったのに、パウロはあたかも彼自身が正しいことをしてるが故に、主イエスのために働いてるが故に迫害されてると裁判の場で被害妄想を訴え、また手紙ではキリスト者として伝道することで多くの苦難を受けたと書き綴った。パウロこそが実際に多くのキリスト者たちを投獄したり死に追いやり、偽福音を吹聴して騙したことでも多くの人々を永遠の破滅(第二の死)に導いたにも拘らず、彼が受けた自業自得な苦難について大袈裟に触れ回り、如何にも頑張った偉大な使徒かのように演出した。パウロは、ほんまに狡猾で病的な嘘つきであることは、疑いの余地が無い。それは拙者のこれまでの記事で証明された。偽使徒パウロは、直接主イエスから選ばれてもいないのに選ばれたと異邦人向けの手紙に多くの嘘を書き、多くの教会に回し読みさせ、悪霊頼みでしるしや奇跡を起こし、それを以って自分は正しいことを教えてる、実践してると人々を惑わして信じさせた(アジア州では失敗したが、ローマで成功)。こないな悪行を重ね、しるしや奇跡といった目に見える現象に惑わされて魅了された人たちによってパウロは担ぎ上げられ、異邦人であるローマ人たちの中で高位を得るようになり、現代でも聖人扱いされてるが、実際はその扱いは誤りである。そして、パウロがローマを中心とする異邦人の中で権力や発言力を持った後、西暦六十六年から七十年のユダヤ戦争でローマ帝国によってエルサレムは滅ぼされ、神の律法に忠実な信条を持つ初代教会であったエルサレム教会も壊滅し、離散することとなった。それはパウロに敵対した報いやのうて、主イエスの初臨の際、当時ローマの属州の一部と化したユダヤの地に居ったユダヤ人たちの多くが主イエスを信じず、受け入れず、挙句は救世主イエスに対して十字架刑を望んで叫び、その血の責任を負うと愚かにも豪語した責任を刈り取ったに過ぎひん。
また、繰り返し言うておく。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 四」で書いたように、エフェソといったアジア州の教会の人々は、反律法的姿勢で聖書と主イエスに反する教えをしたパウロを偽使徒と見抜き、パウロの教えを拒絶した事実もある。偽使徒パウロが唱えた反律法の「偽福音」の狂信者たる不法を行う者たちが、主イエスの御前で拒絶され、地獄行きが宣告される(マタイ七章二十三節参照)。頑なにこの真実を受け入れへん者は、既に裁かれてる。

以下は前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 六」で紹介した。

 

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 四章八節~十二節(拙訳)
それでも、かつてほんまに神を知らず、元来神ではない神々に隷属しとった。しかし、今や神を知った、むしろ、神から知られたのに、どうして再び弱く無力の原理に戻り、再び改めて隷属することをあんた方は望むんか。あんた方は、日、月、時節、年を守ってる。あんた方のために無駄に労苦したんやないかと、あんた方を心配してる。我のようになれ。兄弟たちよ、我はあんた方に願う。なぜなら、我もあんた方のようになったからで、あんた方は我を一切不当に扱わへんかった。

そして、以下は過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で紹介した。

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 二章十一節~十六節(拙訳)
また、手によらへん割礼で割礼されたあんた方においても、キリストの割礼による肉の罪の体の廃棄によって、洗礼によって彼(キリスト)と共に葬られ、また、死者たちの中から彼(キリスト)を復活させた神の御業の信仰を通して共に復活させられた。そして、あんた方の肉の未割礼で数々の罪によって死んでるあんた方を彼(キリスト)と共に生き返らせ、我らにすべての罪(律法違犯)を許した。我等に対する(律法違犯の記録)原稿を消し去り、我等に対立した法令と、中からそれを取り除き、それを十字架に釘付けにしはった。そして、その(律法の)支配権と力を破壊し、それ(十字架)によってそれらに勝利し、明らかに示しはった。それ故、あんた方を食べ物、飲み物、祝祭日の事項、または新月や安息日のことで誰も裁かへん。

上記の二つのパウロ書簡から分かるとおり、偽使徒パウロは聖書(律法)に書かれる神の御命令に背くように言うてるのが明白や。日、月、時節を守るのが莫迦莫迦しいとガラテヤ書でパウロは明言し、コロサイ書では律法が十字架によってその支配権と力が破壊された結果、主の祝祭日や安息日等を破っても問題無しかのように言い、罪を犯すことを許す、容認すると書いたからね。ほんまにパウロは何様なのかっていうことですよ。主イエスが公生涯で律法を廃止せえへんと明言しはったのに、パウロの登場でひっくり返るのか。そんなことがある訳ないよね。よって、これらのパウロの教えは反キリスト教義や。コロサイ二章十三節で「許した」と拙者が訳したとおり、これは「赦した」ではない。日本語でもこの二者の単語は発音は同じでも、漢字が異なり、意味もまったく異なる。敢えてここでは「許した」という許可の意味で書いてる。これは「赦し」ではないからや。罪を赦して無罪にするという意味やのうて、罪(律法違犯)を犯すことを許す、許可するという意味なんや。原語の単語は、「χαρίζομαι」であり、これを欽定訳聖書(KJV)ではhaving forgivenと訳しており、これは誤訳である。英語で言えば、forgiveやのうて、allowやgrantやgiveの意味に当たる。マタイといった福音書において罪を「赦す」という単語は異なる単語であり、「ἀφίημι」が用いられてることからも明らかや。偽使徒パウロは、明らかに主イエスや十二使徒が伝えたこととは反することを教えてる。偽使徒パウロはキリストを悪用しながら、反キリスト教義を唱えてる事実が拙者の話から分かるやろ。「χαρίζομαι」という単語は、偽使徒パウロの書簡と医者ルカが書いたとされるルカによる福音書と使徒言行録においてのみ用いられ、他の書では一切使われてへんことも特徴である。上記のコロサイ書の十四節は、ほんまにパウロ自身が神になったかのような物言いであり、人間各自の律法違犯の記録の原稿を消し去ると断言しており、「嘘つけ、絶対見たことないやろ」とツッコミを入れたくなるようなことを平気で言ってのけることが信じ難い神経をしてる。パウロは病的な嘘つきやから、こないなことが言えるんや。フィリピ四章三節の命の書のことも然り、人間の行いが記録された書物は天に御座す神の御手許にあり、地上で生きてる人間が見ることなんて絶対に不可能。また、十六節で人間が犯す律法違犯という罪について「誰も裁かへん」と断言し、神による裁きをも否定し、パウロ自身が裁き主かのような発言をした。明らかにパウロが父なる神や主イエスに反抗して大言壮語してるんが明白やろ。ほんまに、こないなパウロの大嘘や大言壮語を信じる方がおかしいんや。
世の諸教会の自称聖職者どもやその宗教信者どもらは偽使徒パウロに騙され、同調しており、こぞって神に逆らい、神の律法を破ってる。安息日は聖書や拙者の記事を読めば分かるとおり、非常に重要な掟の一つであるし、それが廃止になったなんて有り得へんし、主の祝祭日や安息日がどうでもええと言うたんは紛れもなく偽使徒パウロであり、彼に惑わされてるパウロ教信者どもである。こないな人たちに救いは無い。

また、現在世界中に広く普及させられてる誤った改訂版の底本の現代語訳の聖書では、使徒言行録十八章二十一節にある「祝祭日」が削除されてる。パウロ教信者どもは、神と神が人間に救われて欲しくて制定しはった律法に敵意を抱いて否定及び無視し、律法違犯の罪を犯し続けるのをやめず、更には主なる神が定めはった祝祭日をも抹消させた。パウロが実は律法に規定されてる祝祭日を意識してたことを隠蔽したかったのであろう。その悪い意図が見え見えや。この悪の所業は、現代の聖書翻訳者どもらが反キリストであることを証明してる。この他に、使徒言行録二十章十六節にあるように、パウロは五旬祭を意識してたことが分かる。これもモーセの律法に基づくものであり、新約時代になって急に出現した祝祭日ではない。パウロ自身は祝祭日を気にしておきながら、異邦人向けのガラテヤ書には律法の時節や祝祭日なんかどうでもいいという旨を書いた。おかしんですよ、パウロは。言うことが二転三転するし、言うてることと行動が一致してへん。こないな人を信用出来る訳ないよね。
もし拙者が反聖書的な間違いを言うてるんやとあんたらが思うのなら、主イエスや十二使徒が神の律法が廃止されて守らんでええという旨の主張をしている聖句を一つでも見つけて、持って来なはれ。無理やろ。何故なら、聖書には一切書かれておらず、偽使徒パウロのみが反律法という反キリスト教義を吹聴してるからや。偽使徒パウロが異端の偽福音を広め、最終的にローマで権威を得て、世界に広がり、現代では世界中で偽使徒パウロによる律法無き偽福音が頑なに信じられ、実践されてる。欧州の西洋人たちが米国や豪州やその他の地に侵略した上で移住しても同じように偽使徒パウロの偽福音を信奉しており、まったく悪い品性のままや。この歴史的事実は、ファリサイ派のパウロやパウロ教信者の悪さを示す証拠であり、否定でけへんことや。せやから、西洋由来の「キリスト教を偽装したパウロ教」が世界全体に広がっており、その信者どもが神の律法を守っておらず、「主よ、主よ」と虚しく言うだけに終わっており、死んだような信仰を持って自慢げにキリスト者気取りをしてるだけや。今ある偽りの聖書の正典と偽使徒パウロの書簡によって、世界全体が神の律法を破るように誤誘導されてる。 これこそ悪魔の計画であるし、神も多くの人間を救うつもりが最初からあらへんために、これを悪魔と悪魔崇拝者の人間に許可しはってるんや。父なる神や御子イエスは、悪魔、サタンが存在することも悪事を行うことも許してはる。悪魔は、我等人間たちの神への忠誠心と献身を試すための試金石としての役割を果たしてるからや。悪魔は、エバの時も、ヨブの時も、ダビデの時も、荒野での主イエスを誘惑した時も、一世紀にパウロに偽装回心させた時も、四世紀に自称キリスト者の異邦人たちの手によって新たに新約聖書の約半分としてパウロ書簡が組み込まれることが決定した時も、中世時代に異教カトリックからプロテスタントという新たな異端分派が登場した時も、そして現代に至るまで長年存在してる。 神は、救世主イエスとその直弟子たる十二使徒が説いた神の律法を守るという真理を信じひん性根の悪い人間をふるい落とすために、パウロを偽使徒という惑わす存在として遣わしはった。最終的に、我等が偽り者の言うことに惑わされず、ほんまもんの神の御言葉をどれだけ従順に守ったかどうか、どないな行いをしてきたかによって裁かれる。聖書では再臨しはる主イエスが花婿、主の再臨を迎える神の民が花嫁として例えられてる。主イエスは、天の御国で神の民と結ばれる前に、我等キリスト者が主人となるイエスに忠実かどうかを試しはるんや。人間が浮気する者と結婚するのを嫌がるのと同様に、主なる神も御自分に忠実やのうて他のことにうつつを抜かすという姦淫行為をする者を拒絶しはる。せやから、姦淫は神にとって嫌悪であり、聖書でしきりに「淫らな女」と比喩で書かれ、また律法でも罪として規定され、犯してはならん掟の一つや。無論、文字通りの不貞行為(結婚した者が配偶者以外と性的関係を持つ行為)や婚前性交渉等といった行為も姦淫の罪に当たるさかい、やったらあかんことや。キリスト者は皆、夫である主イエスに対する忠誠、即ち、神の律法、掟、戒めに対する忠誠を試しはってるんや。人間が自分の命すら惜しまず最期までそれらを守り切れば、神に従順であると認められて神の王国に迎えられ、婚宴の席に着くことが可能になる。せやから、この世で生きてる間に律法を無視して悔い改めず、西洋かぶれして、へらへらして「自分はもう救われてる。キリストを信じるだけで行いは問われず、救いを失うことはない。」等という偽使徒パウロの偽福音を盲信し、高慢な思いを抱いて、無意味に「アーメン、ハレルヤ」等と寝言を言うてる愚か者どもはサタンによって既にふるい落とされており、主イエスから確実に拒否されることになる。律法を守るという不変の神との契約を忍耐強く守る忠実な者だけが、神の王国に住むことが許されるのであり、神の律法を犯すという不法を行う者は絶対に入られへん。

 


過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」で述べたとおり、偽使徒パウロはカメレオンのように人に応じて態度や言葉を変えてきた偽善者の代表とも言える人や。パウロに限らず、一般的に偽善者はあることを言ったりやったりしたかと思えば、他のまったく異なることを言ったりやったりもするし、矛盾することさえも気にせずにする。政治家や芸能人やテレビ出演する御用医師や御用学者どももこの類の人が多い。なぜなら、社会的地位の保持のため、金銭的利益のため、その他の目的のために、その場しのぎ、人の歓心を買うために媚びへつらい、厳しい否定的な言葉を避けて肯定的なことを言うたり等と手段を選ばへんからであり、それが他の場や他の人に対して言うた言葉や行った行為と矛盾することに配慮することなんかせえへんからや。偽善者にとって大事なことは真理に固く立って誠意ある言動をすることやのうて、如何に耳触りのええ嘘を言うて人に取り入って騙せるか、それによって利益を得られるか、目的を達成出来るかだけを気にしてるんです。それがすべてであり、他のことに気が回らへん。それ故、賢くて鋭い人にはその偽善的な発言や行為はバレて、偽善者として弾劾されることになる。当然、神も最初から分かってはるし、分からずに騙され続けるんは思慮が浅い愚か者のみ。
偽使徒パウロはキリスト者に回心した筈が、実はそうではなかったということを彼自身が堂々と宣言した。「我はファリサイ派だ。ファリサイ派の子だ。」(使徒言行録二十三章六節拙訳)と最高法院の場でパウロは自分で言うたがな。あれれー。あの目が見えなくなって劇的な回心とされる話は何処に行ったのか(そもそも、その話の内容がすべて矛盾してる事実も過去記事「パウロは偽使徒」で指摘済)。最高法院の議員にサドカイ派やファリサイ派といったユダヤ教徒が居ったことをパウロは知って、パウロが自分はファリサイ派やと証言したと使徒言行録に記録されてる。拙者の言うとおりやろ。パウロは人々の歓心を買うためや、惑わすためや、保身のために言うことがコロコロ変わるし、「自分はキリスト者だ」と言わへん、否定することさえやってのけた。「我はファリサイ派だ」なんて言うようでは主イエスを否定してることになり、主イエスから「あんたのことは知らん」と言われる羽目になる(マタイ十章三十三節参照)。パウロの悪質な人間性が分かるであろう。これで十二使徒に引けを取らへんキリストの使徒だと(コリント二 十一章五節、十二章十一節参照)。笑わせんな。所詮、自称やさかいな。
以下の主イエスの教えが真実やな。

新約聖書 ルカによる福音書 十二章一節(拙訳)
ファリサイ派たちのパン種から出る人たち自体に注意しなはれ。それは偽装や。

上記のように、主イエスは、ファリサイ派の悪い教え(パン種)、即ち、神の掟を蔑ろにして守らず、人間の教え、伝統、言い伝え等を守る人間自体が神に仕えてることを偽装しとる反キリストやさかい、注意するようにと教えはった。端的に言えば、ファリサイ派を信用するなということです。あと、マタイ二十三章のファリサイ派に対する主イエスの叱責の数々を読みなはれ。明確やろ。ファリサイ派のパウロも例外やなく、偽装しており、注意せないかん対象やろ。未だ分からんか、パウロ教信者どもよ。ええ加減、自分らの愚かさと誤りを認めよ。自分の非を認めへんというんが高慢であり、罪でもある。そうしてる限りは絶対に救いは無い。パウロ教に由来する律法廃止論を信じて教える者どもは現代のファリサイ派であり、そのパウロ教信者どもも信用でけへんということや。それが主イエスの教えや。

パウロの反キリスト発言を主イエスの教えと比較したものを以下に幾らか列挙する。如何に偽使徒パウロが主イエスの教えに反してることを吹聴したか分かるであろう。

一、神に対する認識の差
正 主イエスの主張
マタイ二十二章二十九節~三十二節(拙訳)
あんた方は聖書も神の力も知らず、道を逸らされよ。復活において、人々は娶ることも嫁ぐこともなく、天に居る天使のようやから。それにしても、死者の復活について、神によってあんた方に言われたことを読まへんかったんか。曰く、『我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神や。』神は死んだ者の神やのうて、生きてる者の神や。

誤 パウロの主張
ローマ十四章九節(拙訳)
このために、キリストは死んで、復活し、再び生きたからであり、死んだ者と生きてる者の両方を支配しはるからや。

上記のとおり、主イエスは生きてる者の神と教えはったのに対し、偽使徒パウロは死んだ者の神でもあると主イエスの教えとは異なる教えをした。偽使徒パウロは主イエスの教えを知らんし、従いもせんかったことは明白やろ。主イエスは何故「生きてる者の神」と言わはったのか分からんか。死んだ者の神になる必要なんて無いからですよ。不信仰の者、異教徒、神の律法を無視して破る自称キリスト者どもは死んだら陰府に留置され、世の終わりに至って地獄行きになるさかい。人間は死んだら終わりを迎え、永遠に神と切り離されるからや。死んだら取り返しがつかへんということや。それやから、聖書では即時悔い改めるようにと警告が多数書かれとる。拙者も多くの記事にて悔い改めを先延ばしにすんなと言うてきたやろ。未だに言うことを聞かへん愚か者が多いが、この世の悪化具合からも分かるように人類に残された恩恵期間もそう長くはあるまい。悔い改めへん者が悪いのであり、拙者が悪いんやない。

二、戒めの相違
正 主イエスの主張
マタイ二十二章三十七節~四十節(拙訳)
『あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。』これが最も重要で大切な掟や。更に、第二は、それと同じようであり、『あんたの隣人を自分自身のように愛するようになる。』これら二つの掟にすべての律法と預言者たちが掛かってる。

誤 パウロの主張
ローマ十三章八節~九節(拙訳)
もし互いに愛し合わへんのなら、誰にも何も借りが無いようにしなはれ。他人を愛する者は、律法を達成したからや。それは、「姦淫したらあかん、殺したらあかん、盗んだらあかん、偽証したらあかん、貪ったらあかん。」そして、もし他の掟があるなら、「あんたの隣人をその人自身のように愛するようになる」というこの言葉に要約される。

読んで分かるとおり、主イエスは、モーセの律法から引用して答えはったし、その二つの掟に限定して他の数ある掟を排除したのではない。文脈を読めば明確なとおり、モーセの律法の中で何が最も重要かと尋ねられたから、特に重要な掟を二つ挙げはったのみで、これらのみを守れば他の掟を守らんでもええという意味ではない。それなのに、これら二つだけが「キリストの律法」とパウロの言葉と関連付けて勝手に嘘の教義を作り出してる自称キリスト者どもが居るさかい、信用してはならん。それは嘘やからな。
そして、偽使徒パウロも、主イエスの教えに従わず、主イエスがモーセの律法の中で二番目に重要とした隣人愛が他の掟すべてを要約すると勝手に定義した。おかしいんですよ、こないな僭越な振る舞いは。そもそも、主イエスが第一に重要とした神を愛するという掟を抜かしたことが最もあかんし、神の律法を改変したことも罪深い。つまり、パウロは神に従順やないし、神への愛が無いってことですよ。神を無視した人間中心主義を助長するような教えであり、これは偽使徒の典型の偽教義や。当然やな、パウロはファリサイ派やさかい。そのパウロの反キリスト教義を信じる自称キリスト者どもも大変罪深い。

三、人の目や評価を気にすること
正 主イエスの主張
ルカ六章二十六節(拙訳)
すべての人々があんた方を良く言うとき、あんた方は不幸や。その人々の父祖たちが偽預言者たちに同じようにしたからや。
ルカ十六章十四節~十五節(拙訳)
そして、金銭欲が強いファリサイ派たちはこれらすべてを聞いて、彼(イエス)を嘲笑った。そこで、(イエスは)彼らに言わはった。「あんた方(ファリサイ派たち)は、人々の前で自分たちを正当化するが、神はあんた方の心を知ってはる。人に評価が高いものは神の目には嫌悪や。

誤 パウロの主張
ローマ十二章十七節(拙訳)
誰にも悪に悪を返さず、すべての人々の目にええことを与えなはれ。
コリント一 十章三十二節~三十三節、十一章一節(拙訳)
ユダヤ人にも、異邦人にも、神の教会にも、罪無きようになりなはれ。そして我が自分の利益を模索してるんやのうて、多くの人が救われるためにすべての人にすべてのことを喜ばせようとしてるように。我が追従者になれ。我がキリストのそれであるように。
コリント二 八章二十一節(拙訳)
主の目だけやのうて、人々の目にもにええことを提供してる。

主イエスは、世間の人々からええように言われることを不幸と言わはった。もう分かるよね。不信仰やら、異教徒やら、にわかキリスト者やらがこの世の大多数を占めており、そないな人たちから称賛されるってことは同類の人ということであり、それ故に不幸ということになる。属してる所が異なると聖書にも書いてるし、拙者も過去記事で言及してきた。世の中には二種類の人間しか居らへんとね。また、昔から偽預言者はええように言われてきたとも主イエスは教えはった。エレミヤ書を読んでもそのことはよう分かる。反キリストの偽預言者どもが為政者や大衆の支持を得るが、ほんまもんの預言者は嫌われて迫害される。神の預言者が厚遇されたことはほぼ無い。古代イスラエルのダビデといった神に認められるキリスト者が為政者なら話は別やけど、長らくそうではないし、殆どの為政者や大衆が不信仰であるか悪魔崇拝者(異教徒や自称無神論者を含める)やさかい、ほんまもんの預言者がこの世で多くの支持を集めることも栄えることもない。せやから、この世で有名になって称賛されたり、金持ちになったり、多数の支持者が居る人は偽り者である証拠や。
偽使徒パウロは、過去に指摘したとおり、ユダヤ人、異邦人といった、相手に合わせて取り入る、対応を変える手法を使てることが分かる。パウロがそのやり方をする理由は、人から嫌われたない上、自分が高く評価されたいという野望があるからや。それは主イエスの教えではない。人からの評価なんて要らんし、上述したように、世の中は殆どが主イエスから選ばれへん者たちであり、その人たちに正しい評価が出来る筈もないからや。世の為政者や大衆の機嫌を取り、好評を得たところで虚しいのがなんで分からんのかね。それは神の民ではないからや。そして、パウロは自分の追従者になれと言うてる。おかしいよね。キリスト者は主イエスに倣うべきであり、偽使徒に倣うべきではない。良識ある人は偽使徒パウロに追従すべきやない。

四、父について
正 主イエスの主張
マタイ二十三章九節(拙訳)
また、地上で誰もあんた方の『父』と呼んだらあかん。天に御座すあんた方の父はお一人やさかい。

誤 パウロの主張
コリント一 四章十五節~十六節(拙訳)
キリストにあってあんた方は数え切れへん指導者を持っても、多くの父を持ってへん。キリスト・イエスにあって、福音のために、我はあんた方の父になったからや。それ故、あんた方に勧める。我が追従者になれ。

拙者も「天の父なる神」と言うてるとおり、これは主イエスの教えに合致する。しかし、偽使徒パウロは、勝手に自分自身が父なる存在になったと豪語し、パウロの追従者になれと命令してるよ。原語では命令形やからね。吐き気がする程きしょい。傲岸不遜とはこのこと。ファリサイ派の分際で、なんで人々の父になれるのかね。なんでそのファリサイ派の偽使徒に追従せなあかんのや。完全におかしいやろ。また、拙者が過去記事で再三警告してきたローマ教皇は英語でPopeと言われ、これは父を意味する言葉。まさしく拙者が冒頭でも書いたとおり、ローマ教皇はパウロの座である。ローマ・カトリックは偽使徒パウロを教祖としてるカルト宗教であり、正教会やプロテスタントどもらもそれと同類。そこから離れへん限り、救いは有り得へん。黙示録十八章四節にもそこから離れよとあるやろ。神の民ならそうするが、頑なにパウロ教を信奉したり、世の諸教会や諸教派に属してるようなら滅びは不可避や。

五、被造物や天地の存亡
正 主イエスの主張
マタイ二十四章三十五節(拙訳)
この天と地は滅びるだろうが、我が言葉は決して滅びひん。

誤 パウロの主張
ローマ八章二十一節
なぜなら、被造物自体が滅びへの隷属から神の子らの栄光の自由へと解放されるだろうから。

主イエスはこの世、この天地が滅びることを明言しはったし、使徒ペトロもその旨を書いてたことは過去にも紹介したとおりや。しかし、偽使徒パウロは被造物が滅びの運命から逃れて栄光の自由になると嘘を吹聴した。おかしいよね、この部分も。聖書ではこの世が終わりの時を迎えると明言してるし、イザヤ書でも天地創造が再びなされることも書かれてるのにね。なんでパウロはこの世、この天地がいつまでも存続するという嘘を言うてるんか。信じ難い神経をしてるよ、こないな嘘を言うたパウロも、そのパウロを盲信してるパウロ教信者どもも。

六、律法について
正 主イエスの主張
マタイ五章十七節~十八節(拙訳)
我が来たんは律法や預言者を廃止するためやと考えたらあかん。廃止するためやのうて、実現しに来たんや。確かにあんた方に言うておく。すべてのことが起こるまで、天地が滅びるまで、律法から一点一画も消えることはない。

誤 パウロの主張
コリント二 三章十二節~十四節(拙訳)
それ故、そないな希望を持ちながら多大な大胆さを用いる。そして、その顔に覆いを付けたモーセのようやのうて、廃止されたものという結末に向けてイスラエルの子らを見張ったんやない。しかし、彼らの心は鈍くさせられた。今日までその覆いが古い契約の読解において取り去られずに残ってるからや。それはキリストによって廃止された。

これは過去に散々指摘及び非難してきたことで、今ある聖書の文書群でパウロが書いたパウロ書簡だけが反律法を唱えとるのが現実や。パウロの主張こそ嘘であり、律法は絶対に廃止されへんし、十戒に限定されるのでもない。プロテスタントの一部で十戒のみの擁護がちらほら見かけるが、それも誤った反キリスト教義や。

七、指導者の数について
正 主イエスの主張
マタイ二十三章十節(拙訳)
『教師』と呼ばれてもあかん。あんた方の教師はキリスト一人やさかい。

誤 パウロの主張
コリント一 四章十五節(拙訳)
キリストにあってあんた方は数え切れへん指導者を持っても、多くの父を持ってへん。

現代では教師と聞くと、学校の教諭等を思い浮かべる人が多いが、そないな価値観は一世紀当時は無かった。今日本にある学校なんかも明治時代に入るまでは無かった。西洋の学制を導入してからのことで、それまで一切無かった。拙者の初回の動画でもそのことについて話した。そのことすら知らん人が多いからね。ほんまに呆れるよ。ここで言う教師は聖書について教える者のことを指し、昔ユダヤ教徒の間ではラビと呼ばれたり、教師や指導者が居り、それはファリサイ派や律法学者で占められてた。その人たちが実は聖書やのうて、自分らの勝手な教えをしてるもんやから、主イエスは彼らを非難したんや。そして、師、先生という言葉は非常に重く、師弟関係というように、師匠と弟子の関係でなければそう呼ぶことは禁忌や。せやのに、愚かな現代人は医師、弁護士、国会議員等を「先生」等と呼んでる。言葉の意味を理解せずに乱用してるんですよ。ほんまにもっと国語力を身につけなはれ。
そして、偽使徒パウロは、「数えきれへん指導者」と言うたことから、当時から既に自称教師がうじゃうじゃ居たんでしょう。もっとも、パウロがそないなことを言える立場ではないけどな。偽使徒、偽教師、偽父なんやから。悪魔に取り憑かれた故、指導者や使徒を更に超えて、人々の「父」にさえなろうとした傲慢なファリサイ派、それがパウロや。ローマ教皇はその座に居ることも認識し、注意及び警戒を怠るでない。絶対に彼らに追従したらあかん。

八、世間の人々からの評価
正 主イエスの主張
マタイ十章二十二節(拙訳)
また、我が名の故に、あんた方はすべての人に嫌われるだろうが、最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。
マタイ二十四章九節(拙訳)
その時、あんた方を苦難に遭わせ、あんた方を殺すであろう。また、我が名のために、あらゆる民に憎まれるだろう。
ヨハネ十五章二十節~二十一節(拙訳)
我があんた方に言うたことを覚えておきなはれ。『僕は主人よりも偉大やない。』人々が我を迫害したなら、あんた方をも迫害するだろう。人々が我が言葉を守ったなら、彼らはあんた方の言葉をも守るだろう。しかし、人々は我が名の故にあんた方にこれらすべてを行うだろう。人々が我を遣わしはった方を知らんからや。

誤 パウロの主張
ローマ十四章十八節(拙訳)
これらにおいてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、人々に認められる。

主イエスは、神の民たる真のキリスト者が大衆から嫌われ、言うことを聞かず、迫害されると断言しはった。それとは反対に、偽使徒パウロはキリストに仕えると人々に認められると嘘をついた。確かに、嘘つきで偽福音を信奉して言い広める人なら多くの人間から認められてますよね。それが現実。反律法及び反聖書的な生き方をして、反キリスト教義を吹聴するローマ教皇、司教、牧師といった自称聖職者どもが世の人々に認められ、聖書の真理に依拠するほんまもんのキリスト者は罵詈雑言を浴びたり、誹謗中傷されたり、おかしい人扱いされるんです。まさに拙者がその被害を受けてるとおりや。昔も今も変わらへん。主イエスの教えこそが正しい。当たり前やろ。世の大多数は滅びる人々なんやから、そないな人間から主イエスや真のキリスト者が高く評価されたり、認められることなんて有り得へんのやから。滅びゆく人同士が仲良く褒め合ったり、高め合ったりしてるだけで、非常に虚しいし、惨めでもある。


以上、パウロは偽使徒であり、反キリストであることは疑いの余地が無いことがよう分かったやろ。未だ認めようとせえへん愚か者はファリサイ派のパウロの偽福音と共に心中するがよい。
さて、冒頭で述べたことを再度繰り返し警告する。ローマ・カトリックは、偽使徒パウロの異端教義を信じてそれを基礎としており、その偽福音に加え、ローマの土着異教宗教であったミトラ教といった太陽神崇拝という偶像崇拝を混ぜ合わせ、偶像、十字架、マリア崇拝、クリスマス、復活祭(イースター)、日曜礼拝等と現代に続く所謂「キリスト教」(実質、パウロ教)という宗教が誕生し、反キリストの人間を多く抱え、悪の巨大組織となってる。実質的には、悪魔になった堕天使ルシフェルの教義と実践に勤しみ、正教会やプロテスタント等と反キリストの分派を増やしたが、今は終末に向けてこぞって反キリストという一大勢力を築いて真のキリスト者を迫害し、再臨する主イエス・キリストに無駄な抵抗をするために再統一の動きがあり、それが教会一致促進(エキュメニカル)運動や。ローマ教皇フランシスコがその先導役を務めてる。 悪魔がこの地に誕生させた教会は、「大バビロン、淫らな女たちと地の忌まわしい者たちの母」(黙示録十七章五節拙訳)であり、ローマのバチカンを中心にして新世界秩序(New World Order)を推進してる。今は露西亜やウクライナが取り上げられてるが、これは偽旗事件であり、新世界秩序の導入、即ち、世界経済討論会(WEF)が目指す「大きな再設定」(Great Reset)を世界中に導入し、超共産主義国家及び超監視管理社会にするためや。世界経済討論会(WEF)の悪さについても「キリスト道」で書いたとおりや。ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ教徒(人種的にユダヤ人ではない)であるし、偽ユダヤ人支配層の仲間に過ぎひん。ローマ教皇や世界経済討論会(WEF)といった支配層に都合のええ人しか為政者になられへんこの現代はまさにこの世の終わりの時や。日本政府、官僚、都道府県知事、大企業も世界経済討論会(WEF)の意向に追従する売国奴ばかり。この世の為政者どもや富裕層どもはすべてグルで、反社会的な悪の勢力や。ウクライナ騒動については、自国民を爆撃するウクライナ政府やウクライナ軍が悪い。ウクライナが露西亜に攻撃されてると被害者ぶるんは嘘や。こちらの記事(メモ・独り言のblog)は、後段のプーチンのくだり以降は誤りがあるが、それまでの前段部分の報道各社の罪については正しい。露西亜のプーチン大統領は世界経済討論会(WEF)と関係が深いし、今は白々しく世界経済討論会側がプーチンをダボス会議への出席をさせへんとか偽装対立の様相を呈してるが、本気ではないだろう。いつもの対立する振りをして形だけ殴り合うプロレスや。日本も与野党グルなのに偽装対立するんと一緒(もっとも、最近は与野党グルを隠さなくなってきたし、むしろ完全に意気投合してる)。関係報道各社や記者(ジャーナリスト)どもは昔からずっと腐敗を極めており、国民を騙すために存在してるようなもんですよ。ええ加減に気付けよ、テレビ信者や新聞信者どもよ。報道各社は、支配層にとって不都合な真実は報道せえへんし、逆に嘘ばかり報道するんですよ。なぜなら、大手報道各社は皆、支配層によって運営されており、国民を騙したり洗脳するために存在してるからや。写真や映像も過去の記事から転載したり、酷いのは映画や遊技の映像を転用してることですね。ほんまに酷過ぎる。こないな酷い悪行をして金もらって嬉しいのかね…。良心が無い悪人たちはこないなことをするんが平気なんでしょうね…。露西亜が悪役を演じており、報道各社がこぞって嘘をつき、コロナ犯罪の問題を無かったかのように矛先や関心を逸らし、誤魔化そうとしてるだけ。繰り返し言う。コロナは犯罪や。政府や報道各社が主張してるからといって真実やなく、嘘であると、いつになったら人々は学ぶのかね。また、ウクライナ騒動のことをエゼキエル戦争だのと無理やり当てはめようと聖書を誤解釈してる輩も一部で居るが、こないな人たちはほんまに消えて欲しい。よう嘘ばかり平気で垂れ流すよな。嘘をつくことに罪悪感は無いのか。神の律法を守らん輩が何を言おうとも真実やないさかい、そないな者を信用するな。
パウロが異端者、偽善者、嘘つきであり、パウロ自身の証言も含め、律法に敵対する無法者であったという証拠を挙げて拙者はこれまで論証した。永遠の命を受ける神の民は、神の御言葉、律法、掟、戒めを守るべきであるということにはまったく議論の余地が無い程に明確に示した。賢明な当ブログ読者は、「キリスト道」でも聖句を示してるとおり、イエス・キリストという命に至る道を歩むべきであり、偽使徒パウロが唱えた律法廃止論と偽福音(プロテスタント界隈が勝手に「福音の三要素」と命名してるようなもの)という滅びの道を避けるべきやということがはっきりと理解出来たやろ。もし理解でけへんのなら、既に知性が腐り切っており、心も醜悪で、手の施しようがない故、せいぜいパウロの嘘を死ぬまで信じ続けてるがよい。そないな者を救う者は居らず、後で泣き喚いて歯ぎしりすることになろう。パウロ教の教えが詰まったパウロ書簡というファリサイ派の悪魔の異端教義を信じてあんたの命を託したら、裏切られることは間違いないであろう。宣伝や洗脳が上手い詐欺師に投資を任せて金を預けても、詐欺師が全部使い果たすか横領して何も返ってけえへんのと一緒や。「キリスト道」でも書いたとおり、人を見る目を養え。真実を語る人と嘘を語る人、真実っぽく見せながら嘘を語る人を判別出来るようになりなはれ。巧みな詐欺師はすべて嘘を言うのではない。真実の中に嘘を混ぜるんや。それ故、一見正しく見せるが、実はそうではないということが賢い人には分かる。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」で引用した聖句のように、愚か者は真偽を吟味しようともせずにすべての言葉を信じるし、「全部か無か」(英語でall or nothing)という極端な思考をする人が現代では多い。拙者に対する愚かな野次の一つに、パウロ書簡を否定したら聖書の権威が崩れるとか、使徒言行録やルカによる福音書も連鎖的に信頼性が無くなるから受け入れられへん等という戯言を平気で言うてる。なんでそうなるんかね。極端過ぎやろ。既に述べたとおり、巧みな詐欺師というんは真実に嘘を混ぜるんです。よって、全部が嘘ではないし、真実もあるってこと。しかし、嘘もあるさかい、全部盲信はでけへんということである。何処が嘘なのか見極めるには、まずは聖書を複数回通読し、全体的な理解、体系的な理解が必須であり、あんたらの殆どは拙者が二千十七年から伝え続けてきた「聖書の複数回通読」をやってへんやろ。それすらしてへん分際で聖書を理解してると思うな。それは高慢や。聖書について詳しない上に、正しく理解してへん分際で、偉そうに拙者に意見すること自体がおこがましいと思わへんか。例えば、あんたらが医師に対して医学について偉そうに「それは違う。こうなんだよ。」というように上から目線で物を言うか。言わへんやろ。医学について無知なら、医学的見解や治療について医師の言うことに素直に聞き従うのではないか。では、なんで同じく聖書について、聖書を通読も研究もしたこともないド無知でド素人の人たちが、聖書を複数回通読及び原語からも研究して聖書に依拠して伝道してる拙者に対して偉そうに聖書について物を申せるのか。そうする人は、拙者に敵意を持ち、かつ、見下しており、憎しみを持ってるだけやという事実を露骨に示してるだけや。そないな不遜な愚か者は主イエスからも拒否される。主イエスは謙遜になるように教えはったさかい。言うておくが、牧師等といった自称聖職者たちは聖書の専門家ではないからな。あの人らはイエズス会由来の偽りの神学を盲信してるだけで役立たずであり、嘘を本気で信じており、周囲にその嘘を偉そうに吹聴する有害な存在と言える。拙者のブログや動画を理解してる人なら、この道理が分かるであろう。
主イエスは「仕えられるためやのうて、仕えるために来た」(マタイ二十章二十八節参照)と言わはり、実際過去に地上で宣教をして回ったことで奉仕者になった。拙者も同じ。食事で給仕する人とただ座って飲み食いしてる人とどっちが上の立場なのか。食事してる人やろ。給仕する人は食卓についてる人に食事をしてもらうために働いて仕えてる側やからね。聖書研究をしたり、福音伝道をしたり、戒めて導く行為は給仕の役であり、それらの行いをしてる拙者はまさに皆に仕えてるんや。同じような奉仕をしてると主張する人も居るかもしれへんが、嘘を伝道したり、間違うた方向に導いてるんなら、それは偽教師や偽預言者の働きとなり、盲人による案内(マタイ十五章十四節参照)でしかなく、まったく褒められたことではないし、むしろ罪や。あんたらはただ拙者が聖書研究したりして一生懸命に働いて生み出したブログを無償で読ませてもらい、動画も無償で視聴し、食事してる側や。無償で飲み食いしておきながら、給仕役である拙者に対して「おい、食べ物が少ないぞ。水が足りないぞ。味付けがおかしいぞ。」等と偉そうに文句を言うたり、「あいつはおかしい。」等と偉そうに誹謗中傷までする始末です。どう思いますか、拙者を誹謗中傷する迫害者や、未だに傍観者で終わり、うだつが上がらず何もせえへん読者たちよ。あんた方が如何に不遜で愚かで不義を働いてるか分かるであろう。キリスト者として何もせえへんという不作為も罪や。ここまで言われんと分からん、言われてもなお分からんようなら、もうその人は終わりです。手遅れになる前に熱心に悔い改めい。

手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなさい。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
 


 

以上