こんにちは。

今回も前回の続きで、偽使徒パウロの手紙から導き出された律法廃止論が反キリスト教義であることについても述べます。非常に長くなる故、何遍かに分けて書くさかい、続きを楽しみにしながらも、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで受けてきた欺瞞や思い込みを捨てることを願ってます。

拙者は、この「偽使徒パウロの反キリスト教義」の連載をしており、その中で、パウロが律法について擁護したり、貶したりと二通りの矛盾した発言が多いことを指摘し、主イエス・キリストの教えにも反してる事実を証明してきた。それらだけでも、パウロが偽使徒であり、反キリストであることの十分な証拠になってるが、更に偽使徒パウロの問題発言を取り上げ、弾劾する。

パウロの反律法、反聖書、反キリスト発言は以下のとおり。

律法の行いによっては、誰も神の前で義とされへんやろうからや。律法によっては、罪の認識やから。」(ローマ三章二十節拙訳)
→文字どおり、パウロは律法を守り行っても義とされへんから無駄と律法を貶し、律法廃止論を唱えてる。

あんた方の罪は、支配せえへんだろうからや。あんた方は律法の下やのうて、恵みの下に居るからや。」(ローマ六章十四節拙訳)
→使徒ヨハネが手紙(ヨハネ一 三章四節)で述べたとおり、律法違犯をすることが不法行為であり罪や。もっとも、ヨハネに言われるまでもなく当たり前のこと。法を犯すことが犯罪、罪なのは世俗社会でも同じことやさかい。このように、律法に違犯することが罪の定義にも拘らず、パウロはキリスト者が律法の下に居ないととんでもない嘘を吹聴し、「キリストの恵み」によって守られ、律法違犯をなんぼでも犯して「罪の奴隷」(ヨハネ八章三十四節)であっても、律法違犯による数々の罪が人間を支配して地獄に行くことはないと嘘をつき、悔い改めをさせへんように導いてる。こないな教えを主イエスや十二使徒はしてへんし、する筈がない故に、反キリスト教義と言える。主イエスは「不法(律法違犯)を行う者」は「我から離れよ」と言わはり、天の国に入れへんと明言しはった故、律法を無視して違犯することが許される筈がない(マタイ七章二十三節参照)。恵みの下に居るからと律法違犯の罪が免責されるのではない。悔い改めへん限り、即ち、律法違犯をやめて神の律法に服従せん限りは、主イエスによる罪の赦しは有り得へん。

それ故、我が兄弟たちよ、あんた方もキリストの体によって律法に対して死に追いやられ、神に対して実を結ぶためにあんた方を死者の中から起こされた別のものになった。我等が肉体の支配下にあった間は、律法を通して罪の苦しみが我等の体の各部分に作用し、死へと実を結んだ。しかし、今や我等は律法から解放され、それに拘束されることから死んでる。それ故、我等は霊の新しさによって仕える。文字の古さにではない。」(ローマ七章四節〜六節拙訳)
→前の文脈から結婚の話を持ち出し、生きてる間だけ律法は人を支配する故に、配偶者と死別したら再婚しても姦淫の罪にならへんと説き、それはええとしても四節からは現実には適用でけへんことに無理矢理その理屈をキリスト者の信仰生活に適用させてるが、詭弁や。パウロは、キリスト者が一旦死んだ者と看做し、それ故に律法遵守から解放されてるという虚偽の教義をでっち上げた。パウロは、キリスト者がイエス・キリストによって生き返って新生した故に、律法をもはや守る必要が無いと説いてるが、主イエスや十二使徒がこの趣旨の教えをしたことは一切あらへん故に、嘘であることは明白や。主イエスは律法を破ることは一切あらへんかったし、律法を無視して違犯してもええと教えはったことは決してなかった。よって、このパウロの発言は、反キリスト的で、誤った考え方や。あれこれとパウロは知ったかぶりをして偉そうに説教したが、実際は聖書の真理を理解してへんかった。結局、パウロはファリサイ派であり、心から回心しておらず、律法を守れず、それ故に主イエスの十字架以後は律法を死んだものとして扱い、廃止されたものと勝手に看做したが故に、そないな非論理的な話をしてるんや。パウロは悪霊に支配されてたが故に、聖書の御言葉の文字、律法を守ることを拒絶し、更に他人にも律法を無視して悔い改めへんように教えた。しかし、主イエスや十二使徒らがその趣旨の発言をしたことは断じてないし、むしろ逆で彼らは律法を守るように教えた。故に、パウロの話は嘘であり、これでは律法遵守によって神に対して実を結べへんと貶してるようなものや。これは看過し難い反キリスト教義や。この偽使徒パウロの信条と行いに倣うカトリックのローマ教皇や取り巻きの司教ども、プロテスタントの牧師ども等のすべての自称聖職者ども、及びその追従者どもはパウロ教信者でしかなく、滅びゆく反キリストである。

では我等は何と言おうか。律法は罪か。決してそうやない。それでも、律法によらねば罪を理解せんかった。律法が教えなんだら、我は禁断への欲望を知らんかった。あんたは貪らんであろう。しかし、罪は掟によって機会を捉えて、我が内であらゆる禁断への欲望を起こした。律法が無ければ、罪は死んでるからや。しかし、我はかつて律法無しで生活した。そして、あの掟の登場で罪が活気づいたが、我は死んだ。そして、命への掟が、死へのものと我に気付かされた。罪は掟によって機会を捉え、我を欺き、それ(掟)によって殺した。それ故、確かに律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、ええものや。」(ローマ七章七節〜十二節拙訳)
→この箇所もほんまに酷い反キリスト発言だらけや。神の律法が罪が何なのかを理解させるものと認めておきながら、すぐにそれが罪への機会であったと貶し、律法が無かったなら罪は死んでる、即ち、律法が無ければ罪も存在せんかったと言いたいのだろうが、これは律法の制定者である神への反逆であり、神の義も否定し、悪魔を擁護してる発言やな。つまり、パウロの考えは、律法さえ無ければ(律法を無視すれば)、罪も無いとし、律法を廃止されたものと看做せば、罪を犯すことにもならへんと言いたいのである。これは極めて不信仰で世俗的な人間中心主義の思想であり、拙者が過去に散々非難してきた「律法廃止論」や。パウロはこの箇所のみならず、他でも似たようなことを言い方を変えて何遍も述べてる。現代の自称キリスト者どもはこの偽使徒パウロの教義を信じ、イエス・キリストと聖なる神の律法を否定する反キリストでしかあらへん。パウロは、律法が罪とは何たるかを教えてくれると認めてるだけマシやが、パウロ教信者である自称キリスト者どもは罪の定義(律法に違犯することが罪)すら理解しておらず、ほんまに理解力が皆無で、知性が欠如しており、偽使徒パウロよりも倍悪い地獄の子になってる。こないな自称キリスト者どもは、コロナが嘘となんぼ証拠を基に論理的に説明しても聞き入れようともせえへん、理解しようともせえへんコロナ教信者(コロナ脳)と同じような存在で、ほんまに愚かや。これらは強度の妄信で、正常な精神状態ではない。最初から神に選ばれておらず、憐れみも受けず、悪霊の手に渡されており、そのくせに自分は救われるとか賢いと自惚れて信じており、完全に頭と心が正常ではない。その人の高慢という性格が悪いのと、悪霊の仕業もあって強力な惑わしの支配下にあるんやから、こないな状態の人を精神病扱いして、薬を投与とか精神病棟に入院等とさせても薬物中毒にするだけで的外れの対処法であり、改善する筈もないし、そうすることは犯罪でもある(実際この犯罪は昔も今も堂々と医療行為の名の下で行われ続けてるし、今のワクチン推奨や強制も同じで医療行為を装ってるが、実際はすべてが人命と人権を踏みにじる犯罪行為)。大衆がこの犯罪を糾弾や告訴せずに放置してるのも問題や。せやから、権力者と彼らに追従する愚民も同じ程度の悪人やと拙者は言うてる。金銭的利益、社会的地位の保持等といった欲望のために正義を捨て、悪に従事する者や悪を傍観して黙認する者どもがどうして天の国に行けようか。無理です。これらの正義感が無い人、正義を実現しようと行動せえへん人は神に厳しく裁かれるであろうし、絶対に天の国に行くことはない。

そして、死のとげは罪。更に、罪の力は律法。」(コリント一 十五章五十六節拙訳)
→パウロはこのように律法を罪の力と貶してる。何を言うてるのか。なんで主なる神が罪の力として律法を定めたと考えるんか。有り得へんやろ。パウロは完全に反キリストであり、悪魔に支配されてたと言える。反律法の人間は反キリストであるから。律法は罪が何であるかを示してくれる大事なものやし、人間を正しい道へと導き、永遠の破滅から守り、永遠の命を得るためのものでもある。律法違犯こそが罪なのであり、律法そのものが罪なのではない。勘違いするな。所詮、パウロは反キリストで、ファリサイ派の異端者でしかあらへん。自称キリスト者どもも偽使徒パウロの偽福音を信奉するなら、同じく反キリストや。

また、(神は)我等を新しい契約の適切な僕とし、文字やのうて、霊の僕とした。文字は殺すが、霊は生かす。また、石に刻まれた文字による死の奉仕が栄光の内に生じたのは、モーセという人物の栄光のために、その存在に対してイスラエルの子らを監視でけへんようになるためであり、それは廃されてる。どないして霊の奉仕はもっと栄光にあるものにならへんやろか。」(コリント二 三章六節〜八節拙訳)
→パウロは主イエスを仲介者とする「新しい契約」を聖書の記述である文字やのうて、霊と勝手にすり替えた。もっとも、パウロの言う霊は悪霊なんやが。多くの過去記事や動画でも説明済のとおり、エレミヤ書三十一章三十三節では律法を神の民の心に刻むとあるし、律法が廃されることは主イエスが公生涯で明確に否定しはったし、聖霊も神であり、当然に神の律法に否定的である筈がないし、律法廃止論は有り得へん大嘘。偽使徒パウロは、聖書の文字と律法の文字そのものを明確に否定してるんや。これだけでも有り得へん反キリスト発言や。石に刻まれた文字とは律法を指し、それをモーセの栄光のためとし、イスラエルの子らを監視でけへんようにするとは、律法がイスラエル人に対して効力を持たへんとし、また律法を守り行うことを「死の奉仕」と貶し、主なる神が制定して人間に守るようにと御命令しはった永遠の真理である律法を冒瀆し、それが廃されたと勝手に決め付けた。よって、パウロは反キリストであり、偽使徒であり、悪魔の僕と言える。疑問を挟む余地は無い。

それ故、そないな希望を持ちながら多大な大胆さを用いる。そして、その顔に覆いを付けたモーセのようやのうて、廃止されたものという結末に向けてイスラエルの子らを見張ったんやない。しかし、彼らの心は鈍くさせられた。今日までその覆いが古い契約の読解において取り去られずに残ってるからや。それはキリストによって廃止された。」(コリント二 三章十二節〜十四節拙訳)
→文脈から、パウロは、律法が人を罪に定める務め等と律法を貶し、その制定者の神をも中傷してる。律法が栄光を帯びていたんやから、パウロの主張する霊の奉仕はもっと栄光にあると作り話をしてる。それをここで「希望」と称し、パウロが律法の存在を「見張る」として拘束のように感じてたことも分かる。神の御命令で律法を守ろうとした古代イスラエル人たちが心を鈍くさせられたと、先祖の古代イスラエル人を莫迦にしており、律法遵守を命じた神をも莫迦にしてるも同然。また、既存の聖書の誤訳が酷く、原文は上記の拙者の訳のとおりや。パウロは、モーセが顔に覆いをした話を持ち出してるが、これは出エジプト記三十四章にあることで、モーセが神と対話した後でモーセの顔が光を放ってたさかい、古代イスラエル人たちは恐れた故にモーセは覆いを付けたんや。それやのに、既存の聖書翻訳では「律法が消え去るのをイスラエルの子らに見られまいとして〜」等と訳の分からん文章に改変した。原文を見れば、「イスラエルの子ら」が主語(主格)やのうて、目的語(対格)である故、有り得へん誤訳。パウロはまったく聖書(律法)を理解してへんかったことが明白である。あのように誤訳した者たちも愚かやし、偽使徒パウロもおかしな発言をした反キリストや。古い契約というんは今でいう旧約聖書に当たるが、これを読解するにも律法遵守というんが覆いのように邪魔であるとパウロは言いたいのである。更には、偽使徒パウロは律法という覆いがキリストによって廃止されたと嘘をついてる。そもそも、律法はパウロが敵視して言うたような覆いなんかやないけどな。律法、詩編、預言者の書、福音書、黙示録、ヤコブの手紙、ヨハネの手紙等のいずれを読んでも律法が廃止されたということは一切書かれてへんことは明白であり、むしろ律法を守るように書かれてる。偽使徒パウロによって書かれたパウロ書簡のみが反律法を述べており、パウロの教義こそが異端なのは明白であろう。偽使徒パウロとそのパウロ教信者どものみが律法を無きものにし、廃止されたと「律法廃止論」を主張してるのである。現代の自称キリスト者どもも偽使徒パウロに同調して律法を嫌って守らへん「罪の奴隷」の分際で、確実に救われると愚かにも盲信してる。非常に惨めや。

確かに、キリストは弱さから十字架に付けられたが、神の力によって生き、我等は彼にあって弱いが、あんた方に対しては神の力によってキリストと共に生きるだろうからや。」(コリント二 十三章四節拙訳)
→パウロは、主イエスが弱さから十字架に付けられたと莫迦にしてる。パウロの認識も発言内容も大間違いや。主イエスは強いからこそ、愚民どもによるあらゆる身に覚えの無い侮辱や嘲りや迫害をも耐え忍びはったし、十字架刑という死刑から逃げようと思えば出来たにも拘らず、新しい契約の仲介者となって神の民を救うために受忍しはったし、ゲツセマネの園で必死に肉の思いの誘惑に打ち勝つために祈りはった。ほんまにパウロはイエス・キリストについて何も理解しておらず、反キリスト発言を平然と行ってる。パウロは主イエスのことを何も理解してへんのに、キリストから使徒にされたなどとぬけぬけとよう自称出来たもんや。客観的に見ると、パウロの言動は非常に恥ずかしいものや。もっとも、過去記事「パウロは偽使徒」で論証したとおり、パウロは主イエスと面識がまったく無かったのやから、パウロが主イエスのことを知らんのも当然と言える。幻や声が聞こえた等では、それが主イエスからのものかの証拠にならへん。会うたこともない人の声や姿をどうしてその本人のものやと認識出来るのか。有り得へん。そのパウロの嘘を信じる人もどうかしてる。パウロはたまたま一世紀に生を受け、ペトロとも会うたことがある程度のことのみで異常なまでに後世の人間から信頼されてるが、ほんの少し後の時代に生まれたとか、現代で生まれたのなら、明らかにキリストを悪用した新興宗教の教祖としか思われず、何十億人もの自称キリスト者を生む程までに信用されへんかったであろう。パウロはその程度の分かり易い偽使徒である。それを理解でけへん知性の無い自称キリスト者どもも破廉恥である。拙者を教祖等と中傷してる愚か者は悪魔の子や。拙者が何の宗教を創始したのか。何もしてへんよ。拙者は聖書の真理、聖書にあるとおりの主イエスの教えや使徒の教えに従って語ってるに過ぎず、何も新しいことを述べてるんやない。拙者は何も反聖書的なことを言うてへんのに、勝手に敵意を持って、そう誹謗中傷してる愚か者が多い。聖書の真理に敵意を持って拙者に反発してる時点で、自分らが悪魔の子と証明してることを理解せい。

我等はユダヤ人に生まれ、罪深い異邦人からやない。 人はイエス・キリストの信仰によらなければ、律法の業によって義とされることはないことを知り、我等がキリスト・イエスを信じたのは、キリストの信仰によって義とされるためであって、律法の業によってではない。なぜなら、すべての肉なる者は律法の業によって義とされへんやろうからや。」(ガラテヤ二章十五節〜十六節拙訳)
→十五節は選民思想丸出しの発言であり、さすがファリサイ派ということはあるという感じやな。パウロは、異邦人を生まれから罪深いと見下し、優越感に浸ってた。しかし、続く文脈では主なる神が制定しはった律法を貶し、律法を守り行っても意味が無いと旧約時代から主なる神が人間に教えてきたことに反し、新約時代に入っても主イエス・キリストの教えにも反したことを言うた。ほんまに話にならへん、こないな偽使徒パウロと彼の書簡を盲信する愚か者は。もっとも、ユダヤ人(白人のアシュケナージやユダヤ教徒という宗教信者どもはユダヤ人とは言えへん)として生まれたとしても、それだけで清いのでもないし、救いが確定してるのでもない。もし亜細亜系の血統イスラエル人として生まれただけで清いとか救いが確定してるなら、旧約時代から神がモーセを通して人間に律法を与えて契約する必要も無かったし、主イエスが受肉しはってユダヤの地で必死に「悔い改めよ」と説いて神への愛と信仰を持って律法を守り、ええ行いをするように宣教して回る必要が無かったさかい。単に血統的なユダヤ人として生まれただけで優れてる訳でもなく、清いのでもないのは明らかや。モーセの時代でも多くの古代イスラエル人たちが神の律法を破り、預言者といった指導者に逆らったり迫害したりして、神の怒りを買って滅ぼされたことを忘れてる。まったく人間というんは、学習能力が無い愚か者が多い。神の律法を犯す者全員が罪人なのであり、その生き方から脱却するという悔い改めをせんことには皆が同じように滅びる(ルカ十三章三節、五節参照)。昔から現代に至るまでずっと異邦人が律法を知らず、律法に馴染みが無い民族故に罪深いと言いたいのであろうが、それはそれで正しい。しかし、もし悔い改めてイエスの信仰を持って律法を守る異邦人が現れたなら、その者は律法を蔑ろにした偽使徒パウロやパウロ教信者どもよりも優れてる。十六節は律法を行うことで義とされへんと主なる神の御言葉(律法)に背いてる。他にも詩編をはじめ、多くの書で過去の神の民を戒めてきた言葉にも反してる。信仰によって律法を行うことで永遠の命を得るというんが主なる神の教えやさかい、それに反することを教えるパウロは反キリストや。
主イエスは、預言者ヨナの説教を聞いて悔い改めた異邦人であるニネベの人々のことを引き合いに出しはった(マタイ十二章四十一節、ルカ十一章三十二節参照)。ヨナ書にあるとおり、彼らは皆、不法(律法に違犯すること)から離れて悔い改め、滅びを免れた。あのような例は非常に珍しく、滅多に見られることやない。主イエスの教えのとおり、悔い改めへん(律法違犯をやめへん)者は誰でも滅びることになる。民族の優位性なんて一切関係無い。ユダヤ人の選民思想も、白人のゲルマン民族の優位性(ヒトラーやその他現代の支配層が信奉する「優生学」もそれに相当)も、中華思想(支那人が信じる支那が世界の中心、漢民族の優位性)等もすべて誤りで、イエスの信仰を持たず、神の律法を守らへんようなら皆同じように滅びる(ルカ十三章三節、五節、黙示録十四章十二節参照)。

それでは、律法は神の約束に反するのか。決してそうやない。もし生かすことが出来る律法が与えられたなら、ほんまに義は律法によるやろ。しかし、聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めた。約束がイエス・キリストの信仰によって、信じる人々に与えられるためや。信仰が現れる前は、我等は律法の下で監視され、信仰が明らかにされることを意図して閉じ込められてた。それ故、律法は我等のキリストへの指導員となった。我等が信仰によって義とされるために。しかし、信仰が現れており、我等はもはや指導員の下に居らへん。あんた方は皆、信仰によって、キリスト・イエスにあって神の子やから。キリストに対して洗礼された人は皆、キリストを着たんや。」(ガラテヤ三章二十一節〜二十七節拙訳)
→これらのパウロの発言も相当おかしい。パウロは「聖書」そのものを「すべてのものを罪の下に閉じ込めた」などと言うて、神が制定しはった聖なる律法を貶しとるさかい。神の御言葉である聖書を憎んでるのは悪魔、反キリストである証拠で、パウロも同様。もっとも、聖書とは本来、現在の六十六巻を意味せえへんし、パウロ書簡なんて聖書では有り得へん。この偽使徒パウロの偽教義を金科玉条の如く信じて自身の誤った信仰を正当化する根拠として掲げてる輩は、反キリストであることは明白。なぜなら、律法を行うことは命を得る手段であると神は聖書の律法(レビ記十八章五節、申命記四章一節、八章一節、三十章十六節)で複数回明言してはるし、律法を行うことは義であり、神を愛することであるし(ヨハネ一 五章三節参照)、永遠の命を得るために必要な行いや。勿論、神への信仰と愛故に律法を守るんや。何遍も過去記事で紹介したとおり、主イエスも「もし命に入りたいなら、掟を守りなはれ。」(マタイ十九章十七節拙訳)と教えはり、守らんでええなんて断じて言わはらへんかったし、むしろ逆で、守るようにと教えはった。その掟は当然にモーセの律法を意味する。それ以外に存在せんからで、そのことも過去に拙者が説明済や。ほんまに信仰があるのなら、神への愛から律法を守り、隣人愛を持ってええ行いに励むものや。偽使徒パウロをキリストの使徒というパウロの嘘を盲信し、世の自称キリスト者どもは、行いが伴わず、律法に違犯してる罪の奴隷どもであり、その生き方をやめて改めへんようなら、その行き着く先は地獄や。世の大多数がまさにこの滅びへと突き進んでるが故に、あんたも周囲の人や多数派に合わせて安心してるようでは滅びるのは当たり前や。また、偽使徒パウロは、洗礼をしたらキリストを着たなんて戯言を言うた。実際、現代の世の中に二十億人は居ると言われる「自称キリスト者」が水の洗礼をした人々と推定されるが、この人たちが一体どれ程の人物なんか。現実的に、世の自称キリスト者たちは不信仰の者や異教徒と大差無く、洋服を着たり、太陽暦(グレゴリオ暦)に従う、安息日を破って汚す等と世に調子を合わせて極めて世俗的な生活をしており、金銭や社会的地位や世にある物を愛し、聖書や律法の知識が無く(有っても「神学」といった人間の創作話や誤った知識)、神の律法を無視して罪を犯し続けてる等といった反キリストではないか。こないな人々が形式的な水の洗礼をしただけではまったく無意味であることを証明してることが分からぬか。この現実と道理が分からぬ者は、愚か者であり、救われ得ない。

それでも、かつてほんまに神を知らず、元来神ではない神々に隷属しとった。しかし、今や神を知った、むしろ、神から知られたのに、どうして再び弱く無力の原理に戻り、再び改めて隷属することをあんた方は望むんか。あんた方は、日、月、時節、年を守ってる。あんた方のために無駄に労苦したんやないかと、あんた方を心配してる。我のようになれ。兄弟たちよ、我はあんた方に願う。なぜなら、我もあんた方のようになったからで、あんた方は我を一切不当に扱わへんかった。」(ガラテヤ四章八節〜十二節拙訳)
→パウロは、聖書や律法を「弱く無力な原理」と貶し、律法が定める日、月、時節、年、即ち、拙者が過去記事「太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度」で示した「聖書暦」や安息日を守ることを莫迦にし、律法を守ることを隷属すると悪いことかのように故意に言うてるのも特徴や。こないな物言いをする人は、神の民とは絶対に言えへん。現代の自称キリスト者どもも同じで、パウロ教信者だからこそ律法を軽んじて違犯して罪の奴隷で居続け、「世俗的な人」の状態で居続けるか、忍耐出来ずに途中で脱落して堕ちるんや。また、パウロは上から目線で心配してると言うてるが、彼が言える立場ではあらへん。こないに知ったかぶって、律法に従うのは古い生き方やと莫迦にして、西洋かぶれし、堕落した世俗的な生き方をするように勧めてるのである。要するに、パウロという反キリストが人々を誘惑し、堕落させようとしてると言える。なんで西洋かぶれをしたパウロのようになれと命令されないかんのか。原語では命令形で書かれてるからね。日本語もそう反映させた。「〜ください」という丁寧語やのうて、命令形やからね。なんで律法を無視する反キリストのパウロのようになれなどと偉そうに言えるのか。ほんまに恥知らずな偽使徒や。この手紙の対象である当時のガラテヤの人々は、パウロの話を聞いてもなおやはり律法を守った方がええと判断して律法に回帰したのであり、それをパウロは面白くないと思い、律法から引き離そうとしてあの手紙をガラテヤの教会宛に書いたんや。このように読者は理解すべきや。これを理解せず、パウロの偽福音を信じて律法を無視して違犯するなら、その者も同じく反キリストになるだけや。偽使徒パウロの律法廃止論を聞かず、律法に回帰しようとしたガラテヤの人々をあんた方は倣うべきや。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 四」で書いたとおり、エフェソをはじめアジア州のキリスト者たちは皆、パウロを見限ったという事実もお忘れなく。一世紀当時はまだまともな信仰者が多かった。しかし、中世時代や現代の自称キリスト者どもがパウロを使徒または教祖、救い主とさえ狂信する愚か者が非常に多い。実に嘆かわしい。

確かにキリストは我等の平和で、両者を一つにし、境界線の衝立を壊しはった。その御体によって敵意を、その二つを御自身において一つの新しい人に造り上げはるために、命令によって掟の律法を廃止し、和解してはる。また、一つの体にあって神に対して十字架によって両者を一致させ、それによって敵意を滅ぼしはった。」(エフェソ二章十四節〜十六節拙訳)
→この文脈から「亜細亜系の血統イスラエル人」と「それ以外の異邦人」という「二つ」をキリストが一つにし、境界線の衝立を無くし、主イエスの十字架での死によって律法を廃止して民族の衝立を壊したとパウロは書いたが、これは完全に反キリスト教義である。福音書をきちんと理解してる人なら明白なとおり、主イエス御自身はそないなことを一切教えはらへんかったからや。主イエスから直接教育を受けた十二使徒も同様にそないな教えをせんかった。血統イスラエル人の中でも選ばれた少数と、異邦人の中から選ばれたごく少数の人々のみが救われるのが神の御計画であり御意志やが、異邦人が異邦人らしくあるのをやめへん限り希望は無い。いずれの民族であれ、不信仰の者、異教徒、律法違犯をやめへん世俗の多数派は滅びる。血統や民族というんは人間にはどうしようもない問題やし、れっきとした違いは存在するさかい。せやろ。民族によって体型、体質、皮膚の色、顔つき、性格等もすべて異なるではないか。同じやないやろ。人間自身に「○○人として生まれたい」と望んで生まれることはでけへんさかい。あんたらは自分が何処の国で生まれるか、どの民族で生まれるか、どの血縁や家庭環境で生まれるか等を事前に選んでこの世に生を受けてへんやろ。それらを選ぶ権利が人間には無いさかい。生まれてしばらくして、自分の人生が上手く行かんかったら、不幸に感じて、「なんで自分はこの家に生まれたのか、なんでこの国に生まれたのか」等と不満を抱くだけやろ。嘆いても喜んでも詮無いこと。このことだけでも如何に人間に主権が無く、神にすべての主権があることは明白や。それやのに、不信仰の人間どもは愚かにも神を信じず、目に見えることしか存在せんと愚かにも思い込み、物質主義に陥り、人間中心主義を信奉しとる。目に見えへんもので存在してるのは数限りなくあるのにや。自称キリスト者どもも同じであり、創造主であらはる主なる神を舐めており、蔑ろにしてる。神への愛と信仰を持たず、神の律法を守らんことがそのことの証明である。口先だけ神を信じてるとかキリストを信じてる等と言うても嘘で、信用に値せえへん。神を愛し、信じ、尊敬するなら、その神御自身が制定しはった掟や秩序等に喜んで自発的に従う筈やさかい。偽使徒パウロにも神への愛は無く、神の律法や創造の秩序を破る自称キリスト者どもにも無い。 
主イエス・キリストは旧約時代から明確にイスラエル人(イスラエルの家)、ユダヤ人(ユダの家)といった言い方をし、それを過去の預言者たちに語り、それらの民族とそれら以外の異邦人と区別しはったし、十字架でそれを取り払ったなんていう事実は一切無い。公生涯においても主イエスは「異邦人の道に行ったらあかん。」(マタイ十章五節拙訳)と教えはり、主イエス御自身が異教徒や異邦人を忌避し、彼らの信条、文化、習慣等に倣うことを明確に禁じはった(異邦人というだけの理由で毛嫌いする意図ではない)。これは拙者の西洋かぶれをやめよという諭しとも合致する。現代も依然として民族の違いは歴然としてあり、すべての民族が神の律法に服従する必要性が聖書や律法そのものに書かれ、一世紀から言われてる(使徒言行録十七章三十節参照)。悔い改めの基準はまさしく神の律法、掟、戒めであり、それらを知らずして悔い改め出来る筈がなかろう。しかし、愚かな自称キリスト者どもは「悔い改め」の意味も基準も知らんくせに、厚顔無恥で、意味も分からずに「悔い改め」云々を平気で口にし、間違うた講釈を垂れる。吐き気がする程きしょい。あまりに物分かりが悪いさかい。主なる神は、依然として異邦人(異教徒)に対する嫌悪はあるし、そもそも最初から世の大半の民族は神から選ばれてへん民族やからね。異邦人たちがイスラエルに寄る、即ち、古き日本に寄って、神の律法に従うのなら救いの望みはあるが、そうでない者たちには一切無い。古代イスラエル人の末裔である日本人も西洋かぶれをやめへん限り救いは無い。日本で西洋かぶれが酷くなったんは、敗戦後(千九百四十五年以降)でしかなく、ついこの間です。それやのに、現代人たちはアホで、学校教育やテレビの悪影響を受けて洗脳され、西洋かぶれの生活をあたかも普通かのように勘違いしてるが、断じて普通ではないし、正しくもない。むしろ、脱西洋(脱異教徒化)は基本中の基本で、行うのも実に容易い。「我等が神を愛し、その掟を守るなら、このことによって神の子供たちを愛することを知る。これは神の掟を守ることが神の慈愛であるからであり、神の掟は難儀やないで。」(ヨハネの手紙一 五章二節〜三節拙訳)と使徒ヨハネも言うたとおり、神の掟を守り行うことは難儀やない。それやのに、大多数の現代人が不信仰故にやらへんだけのこと。滅びゆく多数派に合わせてるようでは同じように滅びる。

また、パウロが律法擁護を口先だけ表明した箇所は以下のとおり。

しかし、このことをあんたに公言します。彼らが『分派』と呼んでるこの道に従い、それ故父祖の神に礼拝し、律法に則したことと預言者の書に書いてあるすべてのことを信じてます。」(使徒言行録二十四章十四節拙訳)
→これはパウロがローマ総督フェリクスの前で言うたことや。分派とは「イエスを救世主と信じる人たち」を指し、当時のナザレのイエスを救世主(メシア)と認めることを拒んだユダヤ教徒らに「分派」扱いされてた。なぜなら、当時はまだ駆け出しで圧倒的に少数派やったからや。ローマの権力者の前では、パウロは律法を擁護するかのようなことを言うたが、実際は拙者がパウロの嘘や欺きを暴いたとおり、パウロはちぃとも律法を守ってへんかったし、永遠の真理、かつ、神の義と愛である律法を信じず、貶し、従ってへんことは明らかや。口先だけは立派な奴よ。パウロは律法を守るべきではないという旨の教えを別の場所では繰り返し実行したくせに、この嘘つき具合は病的や。パウロは法廷で堂々と偽証した。これがコロコロと状況に合わせて変身するカメレオンのような反キリストの品性や。そのことは前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」でも書いたとおり。

「ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何か罪を犯したことはありまへん。」と弁明した。」(使徒言行録二十五章八節拙訳)
→これも、どの口が言うんかっていう位の大嘘。今まで拙者が弾劾したとおり、パウロは明確に律法を貶したことを繰り返し述べたし、ローマ総督フェストゥスの前でええ格好するために嘘の弁明をした。パウロは為政者といった社会的強者の前では何も問題が無い人かのように演じたが、パウロの弁明した内容は真実ではない。過去に紹介したとおり、パウロは「モーセ(の律法)からの離脱を教えてる」ことをエルサレム教会の長老たちから注意されたし(使徒言行録二十一章二十一節参照)、ローマ書やガラテヤ書等で律法を貶しまくったとおり、パウロの本心は律法廃止論やった。よって、パウロは律法に違犯することで罪を犯したにも拘らず、「律法に対して罪を犯したことはない」という明らかな嘘をよう言えたなと。ほんまにパウロは病的な嘘つきの反キリストや。こない嘘を言うたり、律法を無視し違犯してる事実は神に対して罪を犯してることになる。

確かに律法を知らずに罪を犯した者は皆、律法の知識と関係無く滅びるであろうし、律法にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれるだろう。律法の傍聴者が神の御前で正しいんやのうて、律法の実行者が義とされるだろうからや。」(ローマ二章十二節〜十三節)
→このパウロの発言には同意する。人間各自に律法の知識があろうが無かろうが、律法に違犯することは神に対して罪を犯すことになり、地獄行きは不可避やさかい。人は肉の思いや欲を制御出来ず、生涯において罪を犯すものであり、確実に地獄行きになるところを、律法違犯をやめるという悔い改めをイエスの信仰によって行い、最期まで神の律法を守り続けることで神の裁きでイエス・キリストによって弁護され、第二の死にならずに永遠の命を得るというんが福音(ええ知らせ)なのであり、律法を無視して罪の奴隷で居続けてもキリストがその罪をもみ消してくれるから問題無いということが福音やないし、それは虚偽の偽福音であり、偽使徒パウロが勝手にでっち上げたもんや。
聖書と拙者のブログを読めば明確なとおり、亜細亜系の血統イスラエル人(白人のアシュケナージは宗教信者に過ぎず血統的にイスラエル人、ユダヤ人ではない)にだけ律法が与えられたのではない。その血統イスラエル人が神に選ばれて全人類を代表して先駆けて訓練されただけであり、本来は全人類が神の律法を学んで従わねばならへん。救われたいのなら、また、神を心から愛してるのなら、神の律法を当たり前に守る筈。ただ聖書を読むだけ、拙者のブログを読むだけで「行い」が伴わへん人もあかん。読みもせえへん人は論外。パウロがここで書いてるとおり、律法の「実行者」が義とされる(義認)んであり、ただ聞いたり見たりしてるだけの人が義とされることは決してない。明らかに「行い」の必要性を証明してる。しかし、偽使徒パウロは異なる書簡やローマ書の別の箇所で律法を貶し、矛盾することを平気で言うた故、信用に値せえへん。この箇所は問題無いが、パウロの本心ではない。

それでは、我等は信仰によって、律法を廃するのか。決してそうせえへん。むしろ、律法を揺るぎないものにする。」(ローマ三章三十一節拙訳)
→パウロは散々律法を無視して莫迦にしておきながら、ここではこの物言い。他のパウロ書簡やローマ書の他の箇所においては明らかに律法を貶して無きものにしてるのに、このように律法を廃してまへんと擁護する振りをするが、これがパウロの本心ではない。騙されるな。

我等の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。それ故、我自身はほんまに心で神の律法に仕えてるが、肉では罪の法則に仕えてる。」(ローマ七章二十五節拙訳)
→この前の文脈から哲学的なことを言うてるが、実に愚かな物言いや。肉の思いや欲を捨てきれへん苦悩を述べてるが、はっきり言うてそれは「自我」が強く未熟な証拠。主イエスの「自分を捨てて、我に従いなはれ。」(マタイ十六章二十四節、マルコ八章三十四節、ルカ九章二十三節参照)という教えを実行してへんから、肉の思いに苛まれるのである。要するに、キリスト者として未熟な証拠。それなのに、パウロは偉そうに講釈や説教を垂れる。分不相応なんですよ。使徒でもないのに使徒と自称し、偽福音を吹聴して多くの人々を騙して堕落させ、神の律法を貶めることで神を冒瀆した罪は非常に重い。心では神の律法に仕えてるとはどの口が言うのか。主イエスは「心に大量にあることから口は話すからや。」(マタイ十二章三十四節拙訳)と教えはった。せやから、ええことを話せへん人は悪い人間であるし、話す内容から人間の良し悪しも分かるということや。パウロは神の律法を貶すことを何遍も書いたし、言うたし、これらこそが彼の本心であることを証明してる。よって、パウロの律法擁護は見せかけに過ぎず、信用に値せえへん。

肉の思いは死やが、霊の思いは命と平和や。なぜなら、肉の気質は神に対する敵意で、神の律法に服従してへんからで、従い得ないからや。肉の支配下にある者は、神を喜ばせることも出来へん。しかし、神の霊があんた方の内に住んどる限り、あんた方は肉の支配下にあるんやなく、霊の支配下にあります。しかし、もし誰かキリストの霊を持ってへんなら、その者はキリストのもんやない。」(ローマ八章六節〜九節)
→ここでもパウロは一応律法を擁護してみせた。肉の気質が神の律法に服従することを妨害することを知ってる物言いである。それは正しいが、結局パウロは肉の思いに打ち勝てへんかったし、その結果、パウロは律法廃止論を唱えた。要するに、一種の諦めなんでしょうね。彼は自分の中にあった肉の思いに打ち勝てず、自分(自我)を捨てられへんさかい、律法に従い得ず、それ故に霊を口実にして律法は無視してもええとそう思ったのである。現代の自称キリスト者どももパウロと同じような考えで賛同し、それ故、イエス・キリストと十二使徒と拙者にも敵対してる。

パウロは見せかけだけ律法を擁護するかのようなことを言うたこともあったが、本心では律法を憎み、聖書の御言葉を憎み、イエス・キリストをも憎んでる。なぜなら、反聖書的な発言、反律法的な発言、主イエスが教えはらへんかったことを言うたり、主イエスの教えに反する発言と態度が多いからや。聖書の御言葉、神の律法に敵対することは神に敵対することに等しいし、イエス・キリストに敵対してることになる。なぜなら、主イエスは「聖書が破壊されることは有り得へん。」(ヨハネ十章三十五節拙訳)、「聖書は我について証言しとる。」(ヨハネ五章三十九節拙訳)とあるからや。聖書(パウロ書簡を除く)の「御言葉」は、主イエスそのものであると言うても過言ではないし、律法は聖書の根幹を成す部分であり、律法を否定することは聖書全体を否定するに等しい(即ち、イエス・キリストの否定にもなる)し、神の律法を守らへん者どもが、なんぼキリスト者と自称しようとも真っ赤な嘘であり、神の御意志を行わへん不信仰の者であり、反キリスト、サタンでしかあらへん。偽使徒パウロが書いたパウロ書簡なんかを否定しても聖書を否定することにはならへんし、むしろ「本来在るべき聖書」を擁護することや。また、主イエスは「我が来たんは、律法や預言者を廃止するためやと考えたらあかん。廃止するんやのうて、実現しに来たんや。確かにあんた方に言うとく。すべてのことが起こるまで、天地が滅びるまで、律法から一点一画消えることはない。」(マタイ五章十七節〜十八節拙訳)と宣言しはったとおり、律法は一切廃止されておらず、この天地が滅びるまで律法が消えることはないとも断言しはったからや。これらだけでも、主イエスの十字架以後も律法のすべてが廃止されてる訳やないし、十戒に限定されてる訳でもなく、如何にパウロが主イエスの教えに反した嘘ばかりをキリストの名を騙って聖書に無知な異邦人相手に吹聴して回ったか分かるであろう。一世紀当時のローマ人やギリシア人といった異邦人は聖書の律法に無知でパウロに騙されたし、中世時代のルター等の欧州の宗教改革者たちも異邦人であり、律法に無知で偽使徒パウロを狂信して騙され続けて改革は失敗に終わり、プロテスタントといった異端分派を作っただけに終わった。そして、現代人も聖書を通読もせず、研究もせず、そのせいで世の「自称キリスト者」たちも偽使徒パウロの書簡を金科玉条の如く信じて、騙されとる。実に愚かな人類歴史や。あんたらは、神の御前に立った時にどう申し開きをするつもりなのかね。主イエス御自身の教えや律法を蔑ろにし、使徒と自称したパウロをキリストの使徒と盲信し、「パウロは偽使徒」と証明された言論に出会っても無視、または拒絶したと堂々と言えるのか。それでは、実に惨めな結果しかないであろう。そうならんように、拙者は悔い改めの機会をあんた方に無償で分け隔て無く与えてるのである。最高に有り難い、今まで気付かず助かったと感謝すべきところを、逆に憎悪感情を持ち、近付こうとせんかったり、敵対する者が多いことは嘆かわしい。多くの者が救われへんのも神の御計画であるが故、しゃあないことではある。

パウロは悪霊に取り憑かれ、精神分裂病(統合失調症)であったか、権謀術数主義者(マキャベリスト)であったか、またはその両方であったかのどちらかしか有り得へん。権謀術数主義とは、君主の政治目的を達するためにはいかなる非道な手段でも許されるという考え、または、目的のためには手段を選ばへんという考えや。まさに、パウロ彼自身の偽福音や偽教義が広まることのために手段を選ばずに行動し、カメレオンの如く振る舞い、人々の歓心を買い、媚びへつらった。この精神はローマ・カトリックに継承されており、イエズス会も同じや。彼らは悪魔や悪魔の代理人であるローマ教皇の至上権のために活動し、あらゆる陰謀を企み、どないな悪事をも厭わず、手段を選んでへんからや。それは「キリスト道」の本拠下段でも述べたとおり。上述したように、エフェソやガラテヤの異邦人たちといったアジア州の人々のように、パウロの汚い手法が通用せんかった人々もおったけどな。拙者も同じくパウロを盲信することはなかった。しかし、世の多数派はパウロの耳触りのええ偽福音や偽教義に魅了され、騙されてるのが現実や。四世紀に確立されて現在まで続く「新約聖書二十七巻」の中で、パウロ書簡が十三巻と半数近くも占めてるのは明らかに不当と言わざるを得ない。それを決定したんは前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」で書いたとおり、ローマの異邦人どもの所業やし、律法を擁護する十二使徒や初代教会のエルサレム教会員やユダヤ人キリスト者によって「聖書の正典」が決定されたのではない。そして、パウロは律法を擁護する言葉を少しだけ言いながらも本心ではなく、それ以上に明らかに神の律法を蔑視してる言葉が多くある。使徒言行録等を読んで分かるように、パウロはファリサイ派であり、ヘロデ王といった権力者筋の人脈を持ち、ナザレのイエスを憎み、主イエスの教えに従順で律法を守る真のキリスト者を迫害して回った過去があり、パウロ本人もその罪を認めてる。この過去は消えへんし、主イエスや神の民に対する大きな罪やからや。今、拙者を憎んで迫害する者どもも同程度の重罪である。パウロはかつて実行してた投獄や殺害といった迫害という方法よりも、キリスト者になりすまして内部に潜入して内部から破壊し、世俗の権力と癒着して自分たちを正統派として権威を確立した後、律法を守る真のキリスト者たちを異端としたり、律法主義者等と汚名を付けて排除したり、徹底的に迫害する方がええと判断したのであろう。勿論、これは悪魔の入れ知恵であろう(使徒言行録二十三章十一節参照。そこには「主」と書いてるが、パウロにとっての「主」はイエスではなく、イエスの振りをした悪魔であろう。彼が表向きはイエスを主と言うても、本心や行いでは異なることが明白やからや)。パウロは、キリスト者の一員の振りをし、十二使徒の中のペトロだけに接触して好印象を与え、表面的にはファリサイ派であったことを持ち出して聖書に詳しいと自慢し、律法を擁護する振りをしてユダヤ人や権力者らの信頼を得ようと媚びへつらい、聖書や律法に疎い異邦人に対しては自らを「異邦人の使徒」(ローマ十一章十三節拙訳)と自称し、対面及び手紙にて熱心に偽福音を吹聴し、律法を貶して、彼よりも倍悪い地獄の子を量産し、現代に至るまで続いてる。救世主である主イエスとその直弟子である十二使徒からは神の律法を守るように命じられたことに反する無法な偽福音を宣べ伝えるために、カメレオンのように変身して相手に取り入って人気を集めて自分の地位を向上させ、また、パウロが「自分はキリスト者」と自称して派手に活動して目立ち、十二使徒やエルサレム教会員を差し置いて、パウロが「ナザレの分派の長」というキリスト者の中のおもだった人と裁判の場で大祭司アナニアとその法廷弁護士に告発させ、そのことを世間に強く印象付けた。事実はまったくそうではないにも拘らずやで。そして、パウロがかつて行動を共にしたファリサイ派の大祭司アナニアが信条の違いを理由にしてユダヤ人の間で騒動になってるとこじつけてパウロを告訴したこともプロレスを感じるし、すぐに訴訟は無罪で決着してたところをパウロは訴訟をすぐに終えることを拒んでローマ皇帝に上訴し、わざと大事件に仕立て上げ、パウロは彼自身に注目を集めようとし、ローマ帝国の上層部(フェリクス、フェストゥス、アグリッパ王等)に接触する機会を出来る限り作り、彼らに会う度に懸命に自分自身の考えや信条を声高に主張して売り込んだ(使徒言行録二十四章一節〜五節、二十五章十一節参照)。非常に狡猾や。通常、世俗の裁判において、信条の違いを理由に訴えることは不適法や。現代でもそうやし、当時も同じである。使徒言行録二十五章十八節から二十一節を読めば明白であり、ローマ帝国の為政者は治安維持のことだけを気に掛けていたが、ユダヤ人やパウロが信じる宗教のことを裁くつもりなんて微塵も無かった。それなのに、大祭司アナニアはパウロをローマ帝国に告訴したが、「推測してた罪状は何も無い」(使徒言行録二十五章十八節参照)という結論になり、その時点でパウロはすんなり釈放してもらえたのに、パウロはそれを望まずに敢えて「皇帝に上訴する」(使徒言行録二十五章十一節参照)と言うて裁判を長引かせた。おかしいんですよね。普通なら、さっさと不毛な裁判なんて終わらせたい、被告人扱いされることや監禁生活から早よ解かれたいと思うのが自然であるのに、パウロは不自然な選択をし、ローマ帝国に自分自身を売り込むために策を講じた。使徒言行録二十六章十九節から二十七節までにあるとおり、パウロはアグロッパ王とフェストゥスに対して裁判の場で堂々と宗教勧誘をし、二十八節でアグリッパ王が「短い時間でキリスト者になるように余を説得してるんか。」(使徒言行録二十六章二十八節拙訳)と言うたことからも、アグリッパ王が勧誘されてると感じてた証拠や。二十二節からは預言者たちとモーセを持ち出し、あたかもパウロは聖書に則るかのように振る舞ったが、それがパウロの本心ではなかったことはパウロの書簡から明らかやろ。敢えて宗教勧誘という言い方にしたんは、パウロは偽使徒で偽福音を信奉して吹聴した故に、彼の活動は真っ当な福音伝道とは言い難いからや。パウロは最初だけまともに発言してキリスト者らしく振る舞い、信用を得た後で教義や態度を変え、律法を蔑ろにするように仕向けて堕落させるんや。それは主イエスの御意志やのうて、拙者が上述で考察したような裏の狙いがあってのことやろ。すべてファリサイ派の者たちの謀略によって仕組まれたもの。知らんかったんはローマ人たちといった聖書に疎い異邦人だけ。彼らはファリサイ派の陰謀や思惑を見抜けず、後に主イエスから「悪魔である父から出て、その欲望を行う者」(ヨハネ八章四十四節参照)と呼ばれたファリサイ派の人たちの意志を継いだパウロの教えであるパウロ教が「キリスト教」に偽装し、後にローマ帝国に浸透して国教化するなんて、一世紀当時のローマ人たちは夢にも思わへんかったであろうに。かくて、ファリサイ派がローマ帝国の精神的な部分を制圧し、カトリックに受け継がれ、世界中に反聖書的な誤ったキリスト教が広まったのである。

聖書(パウロ書簡を除く)において、創世記から黙示録まで、父なる神と御子イエスから繰り返し、主なる神が制定しはった律法を守り、最期まで信仰を持って神の掟を守り、あらゆる苦難にも忍耐し続けなければ救われへんと言われ続け、その上、「我が報いは我と共にあり、各自の行いに応じて与える。」(黙示録二十二章十二節拙訳)と主イエスは予告しはってる。しかし、偽使徒パウロは無律法主義で、「信仰だけで行いは不要」、「律法の下に居らず恵みの下に居る」といった反キリスト教義を説いた。人の歓心を買い、自分の教義に従わせたいがためにあらゆる手段を取るような狡猾で悪しき者や。神の立場になって考えてみい。パウロという世俗の権力者人脈を持ち、主イエスに敵対したファリサイ派の迫害者に対し、主イエスが特別に啓示して福音を託すと思うか。まして、主イエスはパウロと直接会いはったこともないし、選んでもいない。それやのに、パウロが主イエス・キリストの使徒と勘違いする者は誰でも、底抜けの愚か者で、永遠の破滅の刑罰を受けることとなるんは明白やろ。偽使徒パウロを擁護することは、「自分は偽キリスト者で、反キリストです。」と主張してるようなもんや。パウロの放縦で無法な教義が人類に何をもたらすのか分からんか。神に逆らう罪による地獄行きの刑罰や。そして、主イエスの福音の代わりに、偽使徒パウロの無法な教義であるパウロ教を「キリスト教」として公認した太陽神崇拝者であるローマ皇帝コンスタンティヌスの真意を理解すれば、それが如何に悪いことか分かるであろう。彼らは全人類を救うために行動したんやのうて、むしろ滅ぼすためや。誤った聖書に対する考えや福音を広めることこそが破滅をもたらすんや。実際、現代も四世紀以降から続くその誤った聖書の正典化の悪影響下にある。拙者が述べてきたことをすぐに採用し、聖書を再編纂し、再翻訳し、出版及び普及させ、世の諸教会や諸教派の特権や財産を剥奪し、その地位や職を廃し、追放すべきや。また、世俗社会の悪徳政府や官僚どもも一掃し、教科書や参考書等にあるすべての嘘(進化論、この地が球体、地動説、日本が古代イスラエルの継承であることの隠蔽して支那や朝鮮から文明や技術がもたらされたことにする、欧州の白人による大侵略時代を大航海時代とええように置換、明治維新が文明開化、議会政治が民主主義であり選挙が正当になされてる、現代日本が独立国である等)を削除して改訂する必要がある。そうせん限りは、救われる人が劇的に増えることはないであろう。所詮、世の中には盆暗な人間や悪人が多いし、コロナ犯罪の欺瞞と邪悪さも見抜けず、教科書やテレビの情報に嘘が多いことも見抜けぬ愚民が多いことがその証明や。自分では何も考えず、何も調べず、ただテレビやネットニュース等の支配層の手駒である大手報道各社が言う嘘を信じ、政府や地方行政の言う嘘を何の疑いも無く信じて従う愚かな人間が多い。こないな人らが救われることは絶対にない。なぜなら、そないな者たちは聖書を知らず、神の掟を知らん故に善悪の基準を知らず、ただ自己愛から自分たちの命を惜しむが故に「世の権威」に従い、獣の刻印を受けるであろうから。既に亡くなった人も同様であり、主イエスの信仰を持たず、神の律法、掟、戒めを守らへんかった人たちは天の国に行くことは断じてないし、陰府に下り、世の終わりに至って第二の死に至るであろう。
パウロ書簡を敢えて聖書に紛れ込ませることを神が許容した理由については過去に述べた。まさに、「篩(ふるい)」として機能させるためや。これは心も頭も悪い者をふるい落とすためにある。もう残された時間も少ないし、拙者の意見を重視して「正しい聖書」の出版や普及活動を実現しようと実際に行動する人は一人も居らんであろうから、拙者が願うことが実現することはあるまい。神への愛も隣人愛の欠片も無いからな。拙者は神を第一に愛し、隣人をも愛してるから、このように言うており、より多くの人々が救われて欲しいから、このような提言を誰にも指図を受けずにしてるし、ブログを書き、動画も作成してる。その慈愛を理解でけへん人が多過ぎる。慈愛を持たぬ人には決して分からぬ。大衆の多くは、「耳障りでおかしなことを言う人、異常に厳しい人」等と勝手な妄想や誹謗中傷をして、拙者を誤解してるであろう。その間違うた理解しかでけへん人は滅びる。そないな人が永遠に生きる価値は無い。なぜなら、そないな人には慈愛が無く、不信仰で、自己中心的で、自己愛が強く、悔い改めを拒絶し、神にとっても甚だ迷惑で役立たずな存在でしかないからや。パウロは、神が人類の信仰と神の御言葉への忠誠と献身を試すために配置しはった偽善者や。世界中の自称キリスト者が、ファリサイ派のパウロの偽福音に欺かれ続けてる。聖書には、多くの人々が神に対する信仰(忠誠)と献身を試されたことが記録されとる。最初の人間で男であるアダムと二番目に作られた女であるエバが蛇(悪魔)によって試され、女であるエバから陥落し、アダムも続いた。彼らは神の御言葉よりも悪魔の嘘を信じた結果、死ぬこととなった。もし悪魔の嘘を見抜いて断り、従わへんかったら、今も生きていたであろうに。彼らは一日も生きることがでけへんかった。神にとっての一日は千年で、アダムは九百三十年生きたが(創世記五章五節参照)、千年生きられへんかったんやから、一日も生きることがでけへんかったことになる。平均寿命が八十歳位の現代人は、アダムの寿命の約九パーセント程度でしかなく、もっと儚い人生であることが分かるであろう。仮に一日が二十四時間とすれば、八十歳まで生きたとしてもわずか二時間も生きてへんという短さに相当する。めっちゃ早よ死ぬんです。人生はそれ程に短い。まさに、過去記事「支配層に取り込まれるな」でも紹介した「あんた方は明日のことやあんた方の命がどうなるか知らのんや。あんた方は少しの間現れて、すぐ後で消される蒸気や。」(ヤコブ四章十四節拙訳)のとおり、生じたと思ったらすぐに消え失せる蒸気みたいなもんで、如何に無駄なことをしてる暇が無いか分かるであろう。アブラハムは、晩年になって得た愛息子であるイサクを犠牲にするかどうか試され、ヤコブ(後のイスラエル)は双子の兄であるエサウと長子の特権のことで揉めたり、妻の父たる義父のラバンとの駆け引きや不当な仕打ちにも耐え、晩年には飢饉に見舞われてエジプトへの移住を余儀なくされ、最も可愛がった息子のヨセフがエジプトに売られて死んだという偽りの報告を自分の子たちから受けて落ち込んだり、様々なことがあった。義人と呼ばれたヨブも神に従順でありながらもその忠誠を試すために悪魔から皮膚病に罹患させられたり、自分の子供たちを殺されたり等と様々な苦しみを受けて試みを受け、耐え忍んだ。古代イスラエルの二代目の王となったダビデは、初代王のサウルから命を狙われ続けてもやり返すことなく耐え忍び、三十歳で王位に就いても失敗が多く、姦淫の罪を犯したり、間接殺人に加担したり、息子のアブサロムとも対立して死に追いやることとなり落ち込んだが、それでも腐らず、信仰を捨てずに主に仕えることをやめへんかった。それ故、主はダビデを認め、王位をとこしえに据えると約束までしはり、古代イスラエル人が中東の地を追われた後もその玉座たる日本の天皇制が続いてる(明治以降は偽物やが)のもその名残りであると拙者が過去記事「古代イスラエルと現代イスラエル」や「キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実」等で述べた。洗礼者ヨハネは、祭司ザカリアの子として生まれ、その職を引き継いでいたなら将来は安泰であったのにそれを捨てて、荒野で生活して野蜜やいなごを食す世捨て人となり、人々に悔い改めを説き、預言どおりの「荒野で叫ぶ者」となり、ヘロデといった権力者相手にも率直に律法違犯を咎め、主イエスより「預言者以上の者」(マタイ十一章九節、ルカ七章二十六節参照)と評された。御子イエスは神でありながら、この世では取るに足りひん大工ヨセフの子として預言どおりにベツレヘムの地に生まれはり、ナザレに移ってそこで育ちはり、三十歳を数年過ぎてから世俗の仕事も辞めて洗礼者ヨハネの前で洗礼をして公生涯に入り、完全に世捨て人となり、金持ちや地の権力者になろうとか、その仲間になろうと一切しはらへんかったし、ファリサイ派や律法学者等といった有識者たちや敵対的な庶民とも相容れずに非難し、誰にも媚びへつらうこともしはらへんかったし、彼らのような対立勢力に命を狙われたり誹謗中傷を受けたりと苦しみはった。それでも主イエスは御自身が制定しはった神の律法を生涯守り続け、罪を犯さず、完璧であらはり、肉なる人間が律法を守れへんなんてことは嘘であり、それは不信仰の者がする言い訳に過ぎひんと証明しはった。このことは過去記事「主イエスの受肉」で書いた。それ故に、主イエスは新しい契約の仲介者、天の大祭司となり、全人類の救世主となり、唯一の希望や。主イエスが仲介者である新しい契約においては、神の律法が心に刻まれるが故にそれを守り、悔い改めを行いで示せば、主イエスの憐れみや恩寵によって人間は救われ得るが、不信仰の者や異教徒は論外やし、ただ口先だけで「主よ、主よ」と言うて祈ったりしてキリスト者ぶって、キリスト者と自称してるだけで、神の律法を破って悔い改めてへんのではまったく意味が無いし、救われへん。「我は、自分が正しいと思ってる人を招くためやのうて、悔い改めに招くために来たからや。」(マタイ九章十三節拙訳)のとおり、主イエスは神の律法を破る罪人をそのまま受け入れるんやのうて、信仰に入る前までは神の律法を破ってたが、改心して律法を守るようになるという悔い改めに招き、行いを以って悔い改めが出来た人だけを神の王国に入ることを許可しはるんや。聖書を読んでも、この事実を理解せず、曲解したり、偽使徒パウロによる律法廃止論の偽福音を信じ続ける者が多い。それはそうする者らが悪人やからに他ならへん。根っからの悪人(悪魔の子)故に、改心出来ず、神と神の律法に服従することを拒むのである。黙示録にある主イエスの教えどおり、イエスの信仰を持ち、神の律法、掟、戒めを死ぬまで守り続け、自分の命よりも大事にせねば救いは有り得へん。父なる神や主イエスは、不法(律法違犯)を行う者を嫌いはり、神の王国に入ることを許さへんからや。人間社会でも同じやろ。法を守らへん犯罪者は社会不適合者と看做され、刑罰を受けるのと同様、神の王国では、王たる神が制定しはった律法を守らへん不法を行う犯罪者、罪人は受け入れられへんのや。そのための悔い改めや。律法を否定することは、悔い改めを拒否しており、それを説いたファリサイ派の偽使徒パウロの教義を信奉するようでは滅びる運命にある。世俗の法に違反しようが(悪法がようけある故に)実際はどうでもええが、神の律法に違犯するとこの世で僅かな時を生きられても第二の死に至る。このことを理解せい。人間の法よりも神の法に従うことこそ肝要。それこそ真のキリスト者(神の民)の姿勢や。

新約聖書 使徒言行録 五章二十九節(拙訳)
しかし、ペトロと使徒たちは答えて言うた。「人間よりも神に従わなあかん。」

世の自称キリスト者どもは、上記のような十二使徒たちと同じ意志は持ってへんやろ。この世に属し、政府や報道各社や不信仰の世俗的な人の指示や言うことを盲信して従い、西洋かぶれし、この世と世にあるものを愛し、自己愛が強く、自分を捨てず、隣人愛の欠片も無いやろ。なぜなら、心に割礼を受けず、主イエスとの新しい契約を結んでへんからや。神の律法を無視する信条や生き方がそれを証明しとる。口先でどうのこうの言うても無駄。行いがすべてを表す。熱心に悔い改めい。イエスの信仰を持ち、神の律法を守る生き方をしてようやく新しい契約を結んだかどうかが分かる。それも一時的にやるだけですぐにやめるとか、長続きせんとかもあかんし、死ぬまで保つ必要がある。これで分かったであろう、永遠の命に至るキリスト道が如何に狭い門で狭苦しい道かを。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」でも既に示したとおりや。

過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」をはじめ多くの記事で服装についても拙者は何遍も注意してきた。何故、異教徒である西洋人の衣服である洋服の着用を頑なにやめようとせんのか。それも日本では戦後の米国による占領統治と、欧米の支配層の傀儡である日本政府が意図的に広めた自虐史観と、大東亜戦争で敗戦したことで、米国のように進んだ西洋文化を取り入れて、劣ってる日本文化を捨てるべきだという風潮が蔓延したせいで、日本人は非常に愚かなことに素晴らしい自分たちの文化と独自性を蔑ろにした。今は敗戦後まだ七十年程度、ついこないだ誤って普及したばかりや。それ以前の日本だけでも二千年以上の歴史では和服を常に着続けてきたのを知らんのか。西洋かぶれした無知で愚かな現代人たちよ。古代イスラエルから起算すれば三千五百年程度の歴史や。その着物をなんで手放し、違法な洋服に執着し、罪を犯して地獄に行って永遠の破滅という刑罰を受けたがるのか。実に愚かや。悪魔崇拝をする欧米諸国やその愚かな傀儡に過ぎひん明治政府以来続く現日本政府の要求に従って洋服を着てるんは罪や。その行いは信仰によらへんし、律法にも反してるし、預言者の書(ゼファニヤ書一章八節)でも神が罰する対象と明言してるさかい、洋服から脱却せん人が滅びるんは確実や。それは西洋人もそれ以外の民族も例外ではない。とりわけ古代イスラエル人の末裔である日本人が和服を着ない理由は無く、洋服を着る理由こそ存在せえへん。それは「時代」なんて意味の分からんものに合わせる道理も無い。聖書の真理、神の律法は永遠に真理で不変であり、時代に流されるものではない。せやのに、大衆は不信仰で、無知で、愚かで、何も深く考えへんし、調べもせえへんし、ただ周囲の愚か者や権力者や有名人に合わせて安心してるだけや。それでは滅びる。マタイ二十二章十一節から十四節を読んでも明らかなとおり、神の王国に入る、即ち、主イエスと結ばれる適切な「婚宴の服」を着てへん人は王から問い質され、(相応しい服を着てへんことが悪いことと知ってた故に)何も言えず、手と足を縛られて外の暗闇に追い出され、泣き喚いて歯ぎしりするとある。なぜなら、招かれた人は多いが、選ばれた者は少ないからとも理由も書かれてる。イエスの信仰を持って神の律法に従って適切な服を着る人は選ばれた者であり、それをせえへん人は神に選ばれてへんということや。実際、現代において世の多数派が何も考えず、律法に従う気も無い故に洋服を着てるさかい、これは真実やろ。広い門から入り広い道を歩く多数派に甘んじて安心し切ってるあんたらの多くは共に仲良く滅びると聖書は明確に示してる。あんたらは冠婚葬祭では行事に応じて服を着替えるではないか。服が重要ではないのなら、着替える必要は一切無いやろ。あんたらは学校や職場や外出で人に会うとかで服を選り好みするやろ。服が何でもええなんてあんたらは微塵も思ってへん証拠や。学校や職場の制服なんていう理不尽で正当な理由も無い規則に異議を唱えずに黙って従うではないか。それなのに、何故、神の王国に入るために、王たる神の指示に従い、神の律法に則った服を着ようとせえへんのか。また、拙者が神に従うように指南してることに、正当な理由も無く文句を言うたり反発するんか。それはただアホなだけ。不信仰で世俗的な悪い人間が決めた間違うた規則等には従い、聖なる神が定めた真理の律法には従わぬ者は悪人や。せやから、悪人は滅びる。これだけ分かり易く教えてるのにも拘らず、あんたらが理解せず、行動を変えへんのなら、もう絶望しかないで。この世で生きづらいなんていう意味不明な言い訳ばかりせんと、さっさと悔い改めを行動で示しなはれ。それが悔い改めの始まりや。神の律法は他にも規定はあるし、服装を正すという初めの一歩すら踏み出せへんようなら、まったく話にならへん。悔い改めへん者は世に属する人間であり、滅びゆく者であることは確定してる。以下のとおり、すべて二者択一しかあらへん。

 



(続く)