こんにちは。
今回も前回の続きで、偽使徒パウロの手紙から導き出された律法廃止論が反キリスト教義であることについても述べます。非常に長くなる故、何遍かに分けて書くさかい、続きを楽しみにしながらも、各自聖書研究を怠りなく行い、今まで受けてきた欺瞞や思い込みを捨てることを願ってます。
軽く読み流して気に留めへん人が多いであろうが、主イエスは偽使徒について述べはった。
新約聖書 ヨハネの黙示録 二章二節(拙訳)
あんたの業と行いと労苦と忍耐、また、あんたが悪人どもに我慢出来ず、使徒の振りをしてるがそうでない者どもを吟味し、彼らの数々の偽りを見抜いたことも知ってる。
このように、主イエスは偽使徒の存在に言及しはってる。使徒やないのに使徒を自称し、そう振る舞ったんは誰か。聖書上では、パウロが偽使徒の代表や。拙者は、過去記事「パウロは偽使徒」で、使徒言行録の著者がパウロやバルナバを使徒と誤って書いたことも指摘した。そして、世のキリスト教業界全体がパウロを使徒として認識して信じるように、誤誘導及び騙されてる現実がある。聖書の真理と拙者に敵対するにわかキリスト者どもは、まったく賢くない。
たとえ、パウロたちを偽使徒と見抜いても続く四節にあるとおり、慈愛から離れてしまってはあかんし、拙者も慈愛に欠けることがないように努める所存や。世の偽善者どもは、何が神の御意志で何が罪かを示す神の律法を無視し、悔い改めへん人を注意したりせず、かえって肯定したり、褒めたり、「ありのままでいい」等と擁護したりするが、それは「慈愛」やのうて、ただの「甘やかし」であり、世の不信仰の悪人たちに嫌われんように「世の友になって迎合すること」であり、ヤコブの手紙四章四節にあるとおりに神が忌み嫌いはる律法違犯の罪を容認する行為であり、洗礼者ヨハネや主イエス・キリストが説きはった悔い改めを拒否する行為であり、反キリストの姿勢と言える。まさに、悪魔主義で、放縦と律法違犯を容認してるからや。そこを勘違いせんといて欲しい。拙者が厳しいと当ブログ読者には思われてるようやが、そう思ってるようなら大きな勘違いや。主イエスや父なる神はもっと厳しいお方や。神の律法を無視して、現代のように非常に堕落した人間の基準で大丈夫と思ってる方がおかしいんや。そのことを認めようとせんようでは地獄行きは免れへん。
上記聖句は、エフェソの教会に宛てたもので、文字通りエフェソの教会に関わった自称使徒が居った。それはパウロやバルナバたちや。以下から明らかやろ。
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 一章一節(拙訳)
神の御意志によるキリスト・イエスの使徒パウロが、エフェソに居る聖なる者たちとキリスト・イエスを信ずる人たちへ。
新約聖書 使徒言行録 十九章一節、八節〜九節(拙訳)
さて、アポロがコリントに居る時、パウロは内陸の地方を通ってエフェソに来て、何人かの弟子に偶然会い、(中略)
さて、パウロは会堂に入って、三か月間大胆に語り、神の王国に関して話し、説得してた。しかし、頑なにされたある者たちは拒絶し、群衆の前でこの道を悪く言い、パウロは彼らから離れ、弟子たちを離れさせ、日々ティラノのある余暇施設で話しとった。
まさに主イエスの警告と一致してる。キリストから使徒とされたとパウロは自称したが、他の誰もパウロが使徒とは認めてへんというのは過去記事「パウロは偽使徒」で述べたし、聖書をよう読めば分かる。分からん人は理解力が無く、おかしい。パウロを使徒として尊敬してるんは、パウロ教の狂信者しか居らへん。中略として省略した中には、パウロによる洗礼とその結果の記載があるが、そこは重要やない。上記の使徒言行録十九章一節からも、「何人かの弟子」と書かれ、何故か「兄弟」を「弟子」扱いしてるんですよね。これは誤訳やのうて、弟子という単語をギリシア語の原語で用いてる。弟子というんは、主従関係であり、師匠と弟子の師弟関係を指す。「しかし、あんた方は『先生』と呼ばれたらあかん。あんた方の師は一人、キリストで、あんた方は皆兄弟やさかい。」(マタイ二十三章八節拙訳)ということは主イエスが直々に教えはったことや。過去記事「神はあんたを見てて、見捨てはらへん」でも拙者はこの聖句と説明を書いた。現代で普及する聖書は意図的に「キリスト」という単語を間違うた改訂版(RV)底本では欠落させてる。それは主イエスのみを師とせえへんようにする聖書底本改ざん者である独逸人たちの思惑であった。誤訳や底本違いについて過去記事「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」を学べば分かる。上記使徒言行録の箇所からは明確にパウロの弟子かのように書いてる訳や。ルカをはじめ、パウロ派の自称キリスト者たちはパウロを師と仰いでるのはここから明白やろ。パウロ信者の彼らは主イエス・キリストに従わず、偽使徒パウロを教祖、師として追従しとった。彼らは不思議な業をする偽使徒パウロに見事に引っ掛かっとったと言わざるを得ない。当時のみならず、後世の人々も同じで、使徒言行録やパウロ書簡を盲信し、パウロを使徒と思い込んどる人は皆、騙されてる。「聖書の正典」という箔が付いて、一種の優れた銘柄品(ブランド)かのように思わされ、盲信するようにと洗脳され、目くらましを食らってることに気付け。それはまやかしでしかあらへん。
使徒言行録の著者(ルカによる福音書一章三節と同様にテオフィロ宛に書いてることから、両著者は同一人物で、ルカと一般に想定されてる)で、異邦人のルカは明らかに「異邦人の使徒」(ローマ十一章十三節拙訳)と自称したパウロ信者であったことは間違いない。そして、この箇所だけやないが、使徒言行録でのルカの書き方は、パウロを偉大な人物かのように意図的に持ち上げとる。その宛名に書かれたテオフィロという人物には謎が多く、噂の域を出えへんが、噂ではローマの政府関係者だったのではないかと言われる。拙者が過去に述べたように、パウロは西洋かぶれに走り、世の権威者(ローマの権威を指すし、この世を支配する悪魔をも指す)に逆らわずに従えとも言い(ローマ十三章、テトス三章一節)、ローマに取り入って自らが宗教的に高い地位に就こうと考えてたとみられ、ルカが福音書と使徒言行録をテオフィロに献上し、「ルカによる福音書」でまず主イエスの素晴らしさを伝え、後で贈呈した「使徒言行録」によってパウロも使徒としてローマに売り込むことになり、ルカがそれを後押ししたとも言える。テオフィロは西洋人の名であることから、ユダヤ人では有り得へん。テオフィロが人名ではないと言う人も居るらしいが、それは敬称があることから有り得へん推測や。ルカによる福音書一章三節では、テオフィロにκράτιστος(クラティスタス)、英語で「most excellent、noblest」(最も素晴らしい、高貴な)という意味の形容詞を付け、異常に媚びるような敬称を付けた。しかし、使徒言行録一章一節では「おぉ、テオフィロよ」となっており、その形容詞が無くなり、呼び捨てに変わってる。おそらく、福音書を読んだり、色々と説得を受けてテオフィロはキリスト信仰に入り、使徒言行録を贈る時までにはすっかり信仰仲間になり、気さくに話せる信仰の兄弟関係になったと拙者は推理する。パウロがローマに取り入るにしても、パウロが自薦しても説得力が無いため、パウロ派のルカたちがテオフィロをはじめとするローマ人たちを説得にかかったのではないかと拙者は推理する。コロサイ四章十四節に医者ルカの名が挙がり、テモテ二 四章十一節とフィレモン二十四節でも協力者としてルカの名が挙がってることから、ルカがいつもパウロと共に行動してたんは明らかや。ルカとパウロはかなり深い仲で結託してたんは間違い無い。使徒言行録でもパウロの活躍を多く書き、肝心の十二使徒のことについては記述がまったく無いとは言わへんが、異様に少ないこともおかしい。
そして、上記の使徒言行録十九章八節〜九節のとおり、エフェソに居った幾人かはパウロの言うことを信じて従うことを拒絶し、群衆の前で堂々と悪く言うたとあり(パウロ派にとっては悪く聞こえるだけのこと)、その結果、偽使徒パウロとその弟子たちはすごすごと退散したとある。ルカの書き方は明らかにパウロ側に立った立場でパウロを擁護した書き方をしてるが、明らかにその反対者の方が正しかった故、論破出来ずに立ち去る羽目になった。使徒言行録の「頑なにされた」等という書き方では、まるでパウロの言うことを信じなかった人たちが悪いかのように書かれてるが、実際は反対やろ。そこでも繰り返し「弟子」という単語が使用され、ルカはそのパウロ派の人々が「パウロの弟子」という風に捉えてたから、そう書いたんや。パウロを使徒以上の存在、もはや教祖かのように信じたんは、異邦人キリスト者と後世の自称キリスト者たちだけで、異邦人というてもエフェソの人たちのように、すべての異邦人がパウロの教義を信用した訳やなかった。一世紀当時は、パウロ派を除いて他に誰もパウロを使徒とは呼んでへんし、パウロが使徒であるという認識もあらへんかった。パウロが勝手に使徒と自称し、不思議な業や奇跡等を起こし、耳触りのええ偽福音を吹聴し、それらに惑わされたパウロ信者がパウロを異様に持ち上げてたに過ぎひん。なぜなら、使徒たる要件は過去記事「パウロは偽使徒」で示したとおりに使徒ペトロが言うたとおりに定まってたからや。なお、パウロは、「アジア州の人々は皆、我を見限った。」(テモテ二 一章十五節参照)と書いたように、一世紀当時のアジア州にあったエフェソ教会やその他のキリスト者たちの殆どが、パウロを見限り、離れ去ったとある。当時のアジア州の人々は、聖書を読んで学べば学ぶ程、パウロの主張のおかしさや違和感を感じ、偽使徒と気付いて離れ去ったんでしょう。賢いですね。冒頭で示した黙示録二章二節もエフェソの教会と書かれて、偽使徒を見抜いたことも共通してる。昔に比べ、今はもっと情報が多くあるにも拘らず、調べもせず、拙者の言うこともまともに聞かへん現代の自称キリスト者どもよりも遥かに賢い。彼らはパウロから洗礼を受けても、パウロに従うことはなかったんや。しかし、上述したように中世時代も現代でも、パウロが使徒と騙されてる人の何と多いことか。
更に、自称することの悪さが主イエスの御言葉から分かる。
新約聖書 ヨハネによる福音書 五章三十一節(拙訳)
もし、我が自分自身について証しするなら、我が証しは真実やない。
主イエスは明確に自分で自分の証しをすること、自分で自分の正しさをしきりに主張すること、(救い主、使徒、預言者、教師等を)自称することの悪さを言わはった。主イエスは公生涯において「父が我を遣わしはった」等とは言わはったが、「我は受肉した神だ。救い主だ。我を信じよ。」等という言い方はしはらへんかった。そう言えば反発を食らうのは目に見えてたからやろけどね。実際、ユダヤ人たちは主イエスに向かって「あんたは人間でありながら、自分自身を神としてる」と言い、石を投げようとした(ヨハネ十章三十三節参照)。せやから、主イエスは御自分で選びはった十二使徒だけに対して御自分が何者なんかを言わはり、他の誰にも言わんように口止めしはった(マタイ十六章二十節参照)。そのように福音書に記録されてるやろ。故に、当時、多くのユダヤ人たちは主イエスの正体に気付くこともなかったし、信じて受け入れもせんかった。それだけ主イエスの風貌は如何にも救世主らしい特別なもんやのうて、大衆には普通のユダヤ人にしか見えへんかったというこっちゃ。主イエスは時が来るまで自分が何者かについて一切主張することはなかったのに、偽使徒パウロは彼自身がキリストの使徒と偽りを何遍もしつこく言うた。それがパウロ書簡という物的証拠も残り、言い逃れがでけへん。預言者を自称する者の殆どが偽預言者であるとも拙者は過去に幾度か述べた。ほんまもんのキリスト者か否かの判断基準は、その人が神の律法、掟、戒めを守ってるかどうかで判断出来るのであり、不思議な業、悪霊の追い出し、奇跡等を行うかで判断するんやない。また、牧師という世俗的な資格を取っただけで教師を自称し出すんも、牧師を盲信することも悪い行いや。牧師という資格は世からのものであり、天からのものやないさかいな。いつまでも勘違いし続けてんと、早よ認識を改めなあかんで、自称聖職者どもとその追従者どもよ。
主イエスは、洗礼者ヨハネから証しを受けていた。両者が結託して事前に申し合わせた訳ではないにも拘らず。そして、主イエスは御自分で直接十二使徒を選び、使徒たちは「ほんまに、あんたは神の子です。」と言うて主イエスを拝したし(マタイ十四章三十三節参照)、再度ペトロからも「あんたはメシア、生ける神の子です。」(マタイ十六章十六節参照)と証しを受けた。律法どおり複数人から証しを受けてこそ、それがほんまもんと立証される。そのためには平素から行いで示さないかんのは言うまでもない。言葉や行いがちぃとも分からんのに、どないして他人から証言を受けるのか。一人きりで信仰を保ってますとか、傷の舐め合いや聖書の真理を理解してへんにわか信者同士が集まって互いに褒め合ったり、戯れていても無駄とはこのことや。もっとも、偽証する愚か者、罪人も世には多く、福音書から分かるとおり主イエスは偽証もようけ受けた。対立勢力からの妬みや。真のキリスト者も同じように、偽使徒パウロ信者の自称キリスト者どもから妬まれたり、余計な詮索や誹謗中傷の的になり、偽証を受けることになるし、主イエスの御名の故にすべての人から嫌われ(マタイ十章二十二節参照)、迫害され、殺される(マタイ二十四章九節参照)とも主イエスは予告しはった。それを恐れてるようでは臆病であかん。
拙者が何遍も言うてるように、世界中の九割九分九厘九毛(99.99%)以上のキリスト者は、自称に過ぎず、神の民やない。その殆どが、偽使徒パウロの魅惑的な「キリストの恵みによって救われた」や律法廃止論という偽教義に惑わされとる。偽使徒パウロの教義の本質は、「キリストの恵みにより自由になったのやから、死んで地獄行きになることはないし、何でも好きなことをすればええ。イエス・キリストの血によって救われたから。」というものや。 これは、まさに、創世記にあるとおり、エデンの園で蛇(悪魔)が最初の女エバに対して言うた「これ(神から食べると死ぬと言われ、食べるなと禁じられた実)を食べても決して死ぬことはない。目が開かれ、善悪を知る神のようになる。」という誘惑と同じです。まさしく、エバは「決して死ぬことはない」(創世記三章四節参照)と聞いて安心し、「神のようになる」(創世記三章五節参照)という所に魅力を感じたのであった。巷の所謂「スピ系」も同じなんでしょう。拙者はそれらにまったく興味が無く、惑わされたことも一切無いが、自称キリスト者の中には「昔はスピ系に足を突っ込んでました」という人が多い。そして、ほんの少し聖書を読み(複数回通読や研究をまったくせず)、主イエスを信じると自称するようになっただけで、本質的には何も変わってへん人が多い。相変わらず騙されたままで、目を覚ましてへんのに、本人らはあたかも聖書の一部だけを軽く読んだだけで目覚めたかのように勘違いしてる人が多い。偽預言者RAPTのように聖書を何十回も通読したとか嘘を言うて、「それであの有様か」と言いたくなるようなみっともない者も多い。ネット上を見渡す限り、殆どの自称キリスト者たちはそないな感じや。偽使徒パウロの偽福音に惑わされて、神の律法を無視し、罪の奴隷で居るに気付かへんのやから、全然悔い改めへんし、成長もせえへん。
前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」で書いたとおり、神は御自分が選びはったイスラエル人たちに契約として律法を与え、それを守らせるために多くの苦難と忠誠を育む鍛錬をしはった。他方、神に選ばれてへん異邦人(亜細亜系の血統イスラエル人以外の民族)には、そないな鍛錬をしはらへんかった。神に選ばれてへん異邦人が次の世で神の王国に簡単に入れるようにするためやないし、むしろ神に歓迎されてへんためと言える。盲目で悪魔や偽使徒、偽預言者、偽教師らに騙された大勢の愚か者だけが偽使徒パウロの耳触りのええ偽福音に引っ掛かる。 神の王国に入るためには、主イエスの教えどおり、神の律法を守らねば永遠の命を得ることは不可能で、律法遵守のみでも足らず、「善いサマリア人」(ルカ十章二十五節〜三十七節)のような慈愛溢れる行いも必要とされる。主イエスは、人間各自の行いに応じて報いるお方故に(黙示録二十二章十二節参照)。信じると口先だけで言いさえすれば、行いは問われへんなんていうのが嘘となんで分からへんのか。それは反聖書的な反キリスト教義や。このことも過去に幾度も言うてきたが、滅びに向かう頑なにされた者は聞き入れようとせえへん。かえって、拙者がパウロを批判することで、聖霊冒瀆してるとか、サタンに取り憑かれてる等とアホなことを言う始末。自分らこそそうしてる事実に気付いてへんさかい、非常に哀れやなと思ってる。前回記事でそないな迫害者の存在について言及したら、本人たちは焦ったのか、こぞってツイッター口座に鍵を掛けて非公開にするか、口座を削除して逃亡した。そないにばつが悪くなって逃げるなら、最初から言うなよってことです。せやから、愚かやと言うんや。
現在の「イエス・キリストに依拠せえへんキリスト教」は「パウロ教」に他ならず、ローマ・カトリックもパウロの教義と古代バビロンから続く太陽神崇拝や偶像礼拝に依拠してると拙者は言うてきた。カトリックから正教会やプロテスタントが分裂して出来たが、すべて同じ穴の狢や。あんたらの多くが知らんやろけど、ローマ・カトリック教会は彼ら自身らが「世界の全教会の母であり頂点」と自称してる。ローマにあるサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ寺院が、ローマ司教座(カテドラ・ロマーナ)を擁するローマの寺院であり、ローマ教皇の正式な教会の座とされ、他のいかなるローマ・カトリック教会よりも上位に位置し、バチカンのサン・ピエトロ寺院よりも上位に位置する。そのラテラノ教会が「世界の全教会の母であり頂点」と傲慢にも豪語してるんや。過去のローマ教皇であったヨハネ・パウロ二世の側近が、「ローマ・カトリック教会がすべてのキリスト教徒の教派の「母」であり、英国国教会やその他のプロテスタント教会をローマと同等の「姉妹」組織と呼ぶのは正しくない。」と「Dominus Iesus(「主イエス」という意味のラテン語)」に書き、同教皇に承認され、太陽暦二千年八月六日に公開された。その宣言書では、「キリストによってカトリック教会が必要不可欠とされたことを知りながら、入会を拒否するか、入会しないままで居るなら、救われることはない。」とまで豪語してる始末。おかしいよね。過去記事「カルト宗教と偽預言者RAPTの矛盾と迷走」で拙者がまとめたようなカルトの手法まんまやんけ。こうやって脅したりして入会するしかないように仕向けたり、抜けたら救いは無い等と脅迫して既に入会して在籍してる人が抜けへんようにするんがカルトの手法。また、当時、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、「この告白は、キリスト教徒以外の人の救いを否定するものではなく、その究極の源が、人と神が一体となっているキリストにあることを指し示している。」とも述べた。自称無神論者、異教徒たちの救いを否定せえへんっておかしいよね。黙示録二十一章八節からも不信仰の者(異教徒、神の律法や主イエスの教えを守らへんにわかキリスト者も含む)は第二の死、即ち、地獄行きと宣言されてることに反するし、その他の聖句とも明らかに反する考えや。また、先のカトリック教会自身が「(カトリック教会に)入会しなければ救いは無い。」と言うてることと矛盾する。彼らは誰でも分かる矛盾した嘘をつきまくっており、支離滅裂や。「カトリックは反聖書的な信条を持ってるくせにキリスト教を騙るなよ」って拙者は声高に言うてるが、世間の人々はほんまに無知やし、愚かで、一向に彼らの悪しき正体に気付かへんのよね。
黙示録十七章の「大バビロン」、「淫らな女たち」、「地の忌まわしい者たちの母」がローマ・カトリック教会を指すことに疑いの余地が無い。上述したとおり、ローマ・カトリック教会自身がそれらに当てはまることを言うて認めてるし、黙示録に書かれてるとおりの悪行を実行してるんやからね。カトリックから派生して出来た正教会やプロテスタント等も同根で、カトリックを母なる教会とするなら、彼らは娘という位置付けや。結局、どの教派であっても偽使徒パウロの教義を最重要視してるさかい、拙者が言うてることは真実やろ。彼らが異教・異端やさかい、彼らは神の律法を無視し、異教文化に基づく西洋文化や伝統等から脱却しようとせえへんのや。それこそ神の嫌悪であるのに、世間の人々は欧米文化や西洋的な習慣を嫌悪せず、むしろ好んでる。せやから、律法を無視して洋服を着続け、安息日を守らず、西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)に従い、西洋風の生活習慣と価値観で生きてるのであろう。違うと言うのなら、行いで示せ。何も難しない。拙者に出来て、なんであんたらにはでけへんのか。別に拙者が特別やからやのうて、あんたらの信条や生き方がおかしいからや。「キリストの恵みによって救われる」と偽使徒パウロは主張し、神の律法が無用かのように言い、明らかに異端の教義や。使徒ペトロは「あんた方の中にも偽教師が居てるであろう。彼らは、有害な異端を密かに持ち込むだろう。自分たちを買い取りはった主を否定さえし、自分たちに速やかな滅びをもたらしとる。」(ペトロ二 二章一節拙訳)と言うた。この異端を密かに最初に持ち込んだんは、偽使徒パウロとパウロ教の信者たちや。主イエスの御名を用いてても、主イエスの教えに反した言動をしてるようではあかんし、実際はキリスト者とは言えへんのです。パウロがローマで創始したキリスト教(パウロ教)は、律法廃止論であり、主イエスの御言葉に反し、主の福音と警告と矛盾するため、反キリストであることは明らか。こない簡単な論理が分からん人は異常や。その程度の理解力では何も分からず、「1+1=5」等と言うような人です。まったく救いようがない。
拙者が動画(BitChute)でも伝えてきたとおり、「法は秩序維持のためにある」んであり、人々を拘束するためにあるんやない。拘束と捉えるんは、不当に抑圧的で余程の悪法なのか、それとも人間側が悪いために悪事を罰する法を憎むだけやろ。神の律法は聖なる神が制定しはったものであり、人間のことを想って制定しはったええもんや。神の律法を吟味しても悪法とは言えへん。神の掟はどれも人間にとって必要なもんばかり。反対に、不完全で邪悪な人間が制定する法には人に害を与えたり苦しめたりする悪法が多く、それとは一緒くたにでけへん。パウロ書簡から導き出されてる律法廃止論の教義を信奉し、他の人々にそれが福音だと嘘を教えるすべての人々は、悪い実を結んでおり、その出処は悪い木や。悪い実は悪い木からしか生じず、ええ実はええ木からしか生じひん。「せやから、その実(成果)で彼ら(人々)を正確に知るだろう」(マタイ七章二十節拙訳)と主イエスは教えはった。これは人の性質を示し、行いや成果からその人の性質が分かるという教えや。悪事は悪人によって行われる。役立たずの怠惰な僕が外に追い出される話(マタイ二十五章三十節参照)からも分かるように、キリスト者としての仕事をせえへんという不作為の怠惰も悪事の内に入る。また、悪事と言うても、世俗的観念でいう悪事やのうて、神の律法に反することは罪(不法行為)であり、神にとって犯罪であり、悪事や。不信仰の者、異教徒、偽使徒パウロを狂信したり、律法廃止論を信じてるような人らは神の律法を知らず、知ろうともせず、守ろうともせずに違犯してるさかい、神にとっては悪人なんですよ。「聖書や神なんて知らねーよ」なんて思てる人が多いんが現代社会であるが、そうやって現実逃避し続け、悔い改めず、律法違犯してきたツケは確実に払うことになる。罪の報酬は死である(ローマ六章二十三節参照)とパウロですら言うてる。故に、世の殆どの人間は神の律法を無視し、悔い改めへん場合は罪の報酬として地獄行きの裁きを受けることになる。肉体的な死である第一の死やのうて、永遠の破滅である第二の死や。
バチカンのローマ・カトリックをはじめとする所謂「キリスト教(実質、パウロ教)」が、神の律法どおりの第七日目の安息日、十戒の四つ目の掟を守らず、それどころかそれを週の第一日目(日曜日)という異なる日に変更までするという暴挙をやらかしたんは、偶然ではない。これはダニエル書七章二十五節の預言どおりのこと。そのことから、聖書読者はローマ教皇の正体やローマ・カトリック教会の正体やその配下の諸教派の正体に気付かねばならんが、未だに世間の人々は気付く気配も無いし、拙者が分かり易く教えてるのに信じひん。拙者が確固たる証拠を過去記事や動画でも示したのに、認めようとせえへん愚民が多い。聖書どおりに律法を守ることは、神を愛することを意味するが、すべての世のキリスト教会では、律法を完全に無視するか、十戒のみの擁護で律法全体を守ろうとせず、何処までも自己中心的で自己愛の塊で、神を愛さへん反キリストだらけや。また、彼らは毎度パウロ書簡にある言葉のみを頻繁に引用しており、主イエスの御言葉や十二弟子らの言葉を引用することはほぼ無い。引用するとしても非常に耳触りのええ部分のみで、厳しい御言葉は全部意図的に無視して引用せえへん。彼らの「神」は天の父なる神でもなく、救世主たる主イエスでもなく、反キリスト、サタン、悪魔であり、その僕たる偽使徒パウロや。パウロが主イエスの御名を持ち出してるからというだけで、主イエスからの御言葉ということにはならへん。何故分かるのか。福音書に主イエスからの直々の御言葉があるのに、それに相反することを多くパウロは言うてるのに、なんでパウロがキリストの使徒やと信じ込めるのか。パウロが使徒とはパウロ書簡で自称してるに過ぎひんと過去記事「パウロは偽使徒」でも指摘した。パウロは、主イエスの公生涯の間で使徒に指名されたこともないし、ペトロやヨハネといった使徒たちからイスカリオテのユダの代わりに使徒として選出されたこともない。その役割はマティアに決まったと使徒言行録一章にあるとおりや。聖書では「十三人目の使徒」たる存在は有り得ず、主イエスや使徒ペトロが警告したように、偽預言者や偽教師といった嘘つきが存在するだけや。パウロが使徒であったという嘘を盲信する牧師たちや信者どもは、聖書の言葉をまったく理解してへん。パウロ書簡を除き、四福音書と黙示録等を通して、十二人の使徒しかいないという明白な事実を認識する理解力すらあらへん。実際、拙者が分かり易く書いたのに、自称キリスト者どもは、その明確な証拠を見ようとせえへんし、認めもせえへん。自分らの信じてることが嘘やという事実に向き合うことを拒絶する現実逃避者、及び臆病者、無駄な意地っ張りに過ぎひんし、真理やのうて嘘を愛する悪魔側の人間ということも明白である。彼らは偽使徒パウロの異端教義の欺瞞に深く洗脳されてる。パウロを狂信することこそ、サタン崇拝や太陽神崇拝に繋がる。過去記事「パウロは偽使徒」で指摘したとおり、パウロこそキリスト教業界に異教の太陽神(バアル)崇拝を取り込み、日曜日を神聖視し始めた元凶と言える。クリスマスなんていう欺瞞も過去記事「クリスマスと太陽神崇拝」で暴いたとおりで、イエス・キリストと聖書とはまったく無縁の行事であり、太陽神崇拝でしかあらへん。厚顔無恥な世間の人らが勝手にイエス・キリストの誕生日やとまったく根拠の無い嘘を吹聴し、勝手にそう信じてるだけやろ。愚かなんですよ、根拠も無く信じるっていうのがね。その程度の頭脳やからコロナが脅威とか、ワクチンが有益等という嘘を信じ込めるんやろね。ただ政府や報道機関どもらに誤誘導されて洗脳されてるだけやのに、まったく気付かへんもんね。異常です。自分で調べもせず、「ただ周囲がそう言ってるから」と流されるだけ。それでは自分の人生を生きてるとは言えへん。他人に動かされてるだけやろ。こちら(さてはてメモ帳 Imagine&Think!)にも言われてるように、テレビや新聞等といった嘘ばかり垂れ流す主流報道各社の言うことを信じてるような人らは狂人やし、カルト宗教信者と言える。
さて、世界的に太陽神崇拝が異邦人を中心にはびこってきたし、今もはびこってる。偽使徒パウロによって創始されたローマ・カトリックも太陽神崇拝をしてる。過去に書いたようにニムロド、セミラミス、タンムズどもがその始まり。各地で名前が異なるだけですべて「太陽神」という点で共通してる。古代バビロンではバアル、古代エジプトではラーやホルス、古代ギリシアではアポロ(アポロン)、古代ローマではソル、インドやイラン由来で古代ギリシアや古代ローマにも広がったミトラ(ミトラス)等とこういう類の異教崇拝の対象は、太陽と太陽神や。聖書では太陽をはじめとする天体を崇拝したりするんは主なる神が忌み嫌うと明確に書いてあり(エゼキエル書八章十四節~十八節)、律法で禁じられる偶像礼拝にも当たり、大罪や。古代ギリシアの太陽神アポロの名前は、黙示録九章十一節に書いてあり、原語は「Ἀπολλύων」(アポルオン)と同一で、意味は「破壊者」や。ギリシア語表記であるがヘブライ語では「Ἀβαδδών」(アバドーン)で、意味は「破壊、破滅」や。また、「底無しの淵の使い」というのがその王であり、災いをもたらすいなごを統べる王とある。このことから、破滅をもたらす太陽神は明確に堕天使、悪霊たちの長と言える。太陽や太陽神を拝む者どもは、天地創造をしはった創造主である主なる神に逆らい、破滅をもたらす被造物に過ぎひん堕天使を拝む忌まわしい存在というんが明白であろう。聖書を読まず、主イエスと神の律法に従わず、世の支配層や彼らに追従する者は皆、このようである。サタンは、神に逆らい、それ故に神の律法を擁護せず、守る必要が無いとあれこれと言い訳をしたり、嘘を言う。キリスト者は律法を守る必要が無い(もはや神の律法の下にないと主張した偽使徒パウロの教義に由来)とまで言うて、それが正しいと狂信してる。悪魔は被造物たる分を弁えず、創造主である主なる神に逆らい、この世の終わりの時に地獄行きが定められ、人間をも道連れにしようと、悪魔崇拝をする配下の人間を用いて、大衆に創造主の父なる神と主イエスへの信仰と神の律法、掟、戒めを守ることから遠ざけとる。それに気付きなはれ。人間が創造されて以来、最初から「礼拝」と「服従」に係る戦いや。神の律法や戒めを守ることは、創造主である主なる神に対する服従でもあり、神を愛することであり、聖書全体の一貫した大きな主旨の一つや。モーセ五書、コヘレトの言葉、預言者の書、詩編にも律法を守ることの重要性は繰り返し書かれ、四福音書、使徒ペトロや使徒ヨハネ、ヤコブの手紙等にも律法の重要性が書かれてるのに、なんで偽使徒パウロの書簡のみで聖書全体の主旨を覆すんやろか。有り得へんよ。これでも偽使徒パウロの言うことを信じてる人は悪霊に惑わされ、洗脳され、盲目になっとる。ファリサイ派やったサウロ(パウロ)が回心したことになってるダマスコに行く途中で会ったのはサタンではないか。イエスと名乗るルシフェルという明るい光に惑わされ、異邦人という太陽神崇拝の異教徒に神の律法を無視した偽福音を力説し、現代に見られる背教した「キリスト教」の基礎を作った。パウロは異邦人の習慣に合わせ、日曜日に集まったり献金を回収する(使徒言行録二十章七節、コリント一 十六章二節参照)等という律法に規定が無いことや古代ユダヤ人たちが絶対にやらへん習慣を新しく創設した。それもすべて、パウロが西洋かぶれをし、異教徒の習慣に迎合したからに他ならへん。現代の自称キリスト教の教会で「日曜礼拝」が行われてるんはその継承と言えるし、四世紀にローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスが偽使徒パウロの教義に基づく異教に寛容な「キリスト教(実質パウロ教)」を正式に認めたが、彼は太陽神崇拝者で、それ故に日曜休業令を出したり、日曜礼拝をローマ市民に義務付けたりした。それも元はと言えば偽使徒パウロが作った習慣であった。そないな悪習慣は直ちに廃止すべきことやが、やめへんやろな。なぜなら、悪魔の子やから。主イエスに「あんた方は自分らの教えを守るために、見事に神の掟を捨てとる。」(マルコ七章九節拙訳)等と言われ、激しく非難されとったユダヤ教の祭司長、ファリサイ派、サドカイ派、律法学者たちと同じ構図。神の律法を守らへん世の自称キリスト者どもがファリサイ派のような主イエスに反抗する勢力であるが、本人らはキリストに仕えてると思い込んでるからな。ほんまにタチが悪い。ファリサイ派らも自分らこそが神に仕えてると思い込んでたように。ローマ・カトリックも同じで、律法違犯である偶像礼拝を堂々とするような異教・異端の分際で正統ぶっており、正常な反対者を容赦無く虐殺してきた黒歴史があるし、今も同じで、将来も同じであろう。
パウロが偽使徒である証拠は聖書をよう調べれば山程見つかるし、拙者が多くの過去記事で示してきた。それで納得するのに十分な証拠は出揃ってる。それにも拘らず、真実を拒絶するんは頭がおかしいとしか言いようがない。その拒絶者各自が責任を取って地獄行きになるけどね。パウロ書簡を否定すると、聖書の権威が崩れる等と訳の分からん言い訳をして、パウロを信じ続ける言い訳を重ねてる。このにわか信者たちの思考回路が拙者には理解不能で、神にとっても意味不明な言い分である。また、拙者を聖書原理主義者と揶揄してくる人も居るけど、それは褒め言葉であって、貶すために言うてるようやが、間違うてる。原理主義とは、聖典等の教義や規範等を遵守し、世俗主義に対抗する思想や態度のこと。つまり、聖書原理主義者は聖書に忠実なええ人になる訳で、主イエス、十二使徒、洗礼者ヨハネ、旧約時代の預言者たちが体現した世捨て人の姿勢がまさにそれやったし、主イエスが神の民として求めてはるんはそないな人間やし、聖書(パウロ書簡を除く)や主イエスの教えに逆らう者こそ滅びる。過去記事「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 前編」で紹介したとおり、ローマ教皇フランシスコは「原理主義に注意しなければならない」と言うたことを紹介したが、あれは彼が聖書に不忠実であることを推奨したものであり、反キリスト発言やということ。世の自称キリスト者どもは、偽使徒パウロの偽福音を盾に主イエスに対抗出来ると思ってるのか。それこそ愚かで、傲慢の極みなり。今、拙者に叱責されて悔い改める機会がある時に悔い改めねば、後はほんまに地獄が待ってるだけやで。神に選ばれへん者は頑なにされて、どうにもならんけど、拙者は悔い改めを勧告する。それは慈愛からである。主イエスも「聞く耳を持つ者は聞きなはれ」(マルコ四章九節と二十三節、七章十六節、ルカ八章八節、十四章三十五節参照)と言わはったし、全員が聞く耳を持って救われる人ではないし、むしろ傾聴して悔い改めを行いで示す人はごく僅かしか居らへんのは分かってる。あまりに少な過ぎて寂しい思いがするが、それが神の御計画、御意志ならばしゃあない。人間がとやかく言えることではないさかい。
主イエスが「我についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは必ず成し遂げられる」(ルカ二十四章四十四節参照)と言わはったその詩編には以下のように書いてある。
旧約聖書 詩編 百十九編百四十二節(拙訳)
あんたの義は永遠の義であり、あんたの律法は真理です。
このとおり、神の律法は真理であり、その義は永遠なんや。誰が主イエスの十字架での死以後は律法が廃止されてて守らんでええという大嘘を垂れ流してるのか。偽キリスト者どもや。偽使徒パウロの狂信者である自称キリスト者たちは、神の律法は廃止されたとか、十戒のみでええとか、訳分からん嘘を信じており、頑なにその誤った信条を捨てようとせえへん。あかん奴に限って変にしつこいんですよね。意地になってるんやろね。自分が正しいという思い込みが強く、素直でないんですよ。それも「心をまったく入れ替えて、自分を低くして、子供のようにならへんのなら、決して各天の国に入ることはない。」(マタイ十八章三節〜四節参照)という主イエスの教えに反した反キリスト的な態度ですがね。拙者に敵対的な人らは皆、自分を低くしてへんからね。主イエスの警告のとおりや。上から目線で偉そうに拙者に物言いをする投稿者が居るが、あいつらはほんまに何様なんかっていう人が多い。なんであかんもんにそこまで執着するんか、拙者には理解でけへんことや。意地を張り続けて地獄に行くのと、素直に自分の非を認めて悔い改めて真理を受け入れて天の国に入るのとどっちがええのか分からんのかね。上述のとおり、主イエスは公生涯において、モーセの律法と預言者の書と詩編の実現性を挙げてるが、「後でパウロ(サウロ)という名の使徒を追加で遣わす」とか「パウロの書簡を信じろ」等と一言も言わはらへんかったし、十三人目の使徒の座を設けるなんてそないな預言も一切無い。主イエスが直々に選びはったんは十二使徒のみ、十二人のみ。イスカリオテのユダの欠員はマティアで補充して以来、それ以後の補充や追加は一切無い。確かに言うておくが、主イエスの教えよりも偽使徒パウロの教えを重視する自称キリスト者は、天の国に入ることはない。主イエスの教えと神の律法を守らへん人は、誰であっても神の王国に入ることはでけへん。信仰に行いが伴わず、神の御意志を行わへん者と律法を守らへん不法の者はお断りと主イエス御自身が宣言しはったさかい(マタイ七章二十一節〜二十三節、ルカ十三章二十七節参照)。律法を無視して違犯し続ける多くの自称キリスト者たちは福音書に事前警告されてるとおり、後で追い出されて泣き喚いて歯ぎしりする。分かってるんか。これだけ分かり易く言うても分からんのやったら、どうしようもない。文字が読めへんし、理解力が皆無やさかい。聖書(パウロ書簡を除く)の何処にも偽使徒パウロが提唱したような異端教義を確立したり、言及したり、支持したりしてる記述は無い。また、主イエスや十二使徒は、偽使徒パウロが主張したような「心で信じて義とされ、口で公に宣言して救われる」(ローマ十章十節参照)というようなことを言わはらへんかったし、そないな口先だけのにわか信仰で、不法を行う人々を天の国に招き入れることを認めてはらへんし(マタイ七章十七節〜二十七節、十章二十二節、二十四章十三節、マルコ十三章十三節、ルカ十三章二十三節〜二十八節参照)、主イエスの預言である黙示録でも認められへん。黙示録で認められてるんは、主イエスの信仰と神の掟を守って最期まで耐え忍ぶ人たちだけや(黙示録十四章十二節参照)。
また、黙示録に改ざんを見つけたさかい、教えたる。以下の箇所や。
新約聖書 ヨハネの黙示録 二十二章十四節(拙訳)
主の掟を行う者は幸いや。その者たちの権限は、命の木についてと都に入る複数の門であろう。
上記聖句を見て分かるとおり、神の掟を守ることの重要性が黙示録十二章十七節と十四章十二節に続いて黙示録内だけで三回も繰り返し述べられており、またそれを「主の掟を実行する」が命の木に触れたりその実を食べたりする権限が与えられ、新しいエルサレムの都に至る複数の門を通ることも許されるのである。わざわざこう書いてるんは、神の掟を守らへん人はそれらをすることが許されへんと言うことを意味する。受け入れられた原典(TR底本)では上記のとおりやが、改訂版(RV底本)では「自分の衣を洗い清める者は幸い」などと訳分からん内容に改ざんされてる。「掟」という単語を欠落させてるため、検索しても引っ掛かることもない。ほんまに酷い改ざんやで。底本改ざん者は、主なる神を畏れず、神の律法、掟、戒めを憎んでたことは明らかや。そうでないとその部分を改ざんしたりせえへん筈やさかい。こないなことをすれば、黙示録二十二章十九節にあるとおり、地獄行きになるのにね。ついでに言うと、世界に広く普及してる改訂版の底本において、黙示録二十二章十九節にも改ざんがある。
新約聖書 ヨハネの黙示録 二十二章十九節(拙訳)
また、もし誰かがこの預言の書の言葉から取り除くなら、神は命の書から、聖なる都から、この書に書き留められてることからその者の分を取り除くであろう。
改訂版では「命の木」と変えており、「命の書」への言及を避けたのが分かる。命の書はとても重要で、神しか見ることが許されず、そこに名があれば永遠の命を受けるが、書かれてへん人は永遠の破滅に至る。受け入れられた原典(TR底本)では、はっきりと命の書からその者の分、即ち、その者の名を取り除くという趣旨の文言があり、偽りの底本ではそれを変えて、あたかも地獄行きにならず、ちょっと命の木の取り分が減る位で済むかのように改ざんをしてるが、実際は黙示録を改ざん、または本来の意味とは異なる酷い誤解釈を広めて人々を惑わせば、命の書から除名され、地獄行きになるということです。改訂版(RV底本)を編纂した独逸人の聖書学者どもは最初から不信仰で地獄行きやからと諦めてそないな改ざん行為をしたのかもしれへんけどね。主なる神を信仰し、畏れてるなら絶対にやらへん行為やさかい。その改ざんされた改訂版を底本にして翻訳し、普及させ、売りつけてる人、その間違うた言葉が正しいと主張してる人たちも同罪や。ほんまに聖書編纂や翻訳に関わる人、偽福音を支持して広めてる人らは悪い奴らばかり。拙者のように底本の指摘や誤訳等について述べてる人は他に居らんからね。せいぜいほんの一握りの人たちが、欽定訳聖書(KJV)が正しいとか言うてる人が居る程度で、それも間違いであると拙者は過去記事「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」等で述べた。欽定訳聖書(KJV)も一部改ざんや誤訳があるし、その成立の歴史的経緯に問題があったさかい。
さて、偽使徒パウロの話に戻す。
パウロは、「χάρις」(ハレス)、「恵み、恩寵」という言葉をしつこい位に多用した点に大きな特徴がある。マタイによる福音書では、その言葉はたった一回だけ使用され、マルコによる福音書ではまったく使用されず、ヨハネによる福音書では三回、ヨハネの手紙とヤコブの手紙ではそれぞれ一回ずつだけ、ユダの手紙では二回、主イエスの預言である黙示録でもたったの二回。ヘブライ書で八回、ペトロの手紙では二つの手紙合わせて合計十四回。パウロと結託したルカが書いたとされるルカによる福音書では八回使用され、使徒言行録で十九回も使用された。偽使徒パウロによる手紙では、ローマ書で二十一回、コリント一で九回、コリント二で十七回、ガラテヤ書で七回、エフェソ書で十一回、フィリピ書で三回、コロサイ書で五回、テサロニケ一で二回、テサロニケ二で四回、テモテ一で四回、テモテ二で五回、テトス書で四回、フィレモン書で三回、合計で九十五回や。偽使徒パウロは「恵み」を異常に強調したんが分かるやろ。パウロ書簡で短い文章のものは必然的に「恵み」という単語の使用回数が少ないが、それでもパウロ書簡のすべてにおいて「恵み、恩寵」という単語を複数回使用してるし、長い手紙ではやはり「恵み」という単語を多用する傾向が見て取れるし、他の書に比べてパウロ書簡がとてつもなく「恵み」ばかりを強調してる事実も明らかやし、反対に律法を擁護するような文言は著しく少ないし、悔い改めも説いてへん。これは何故か。その理由は、人々を神の律法から離れさせ、悔い改めを怠らせて堕落させ、他力本願にさせるためや。神社に行って賽銭を投げて自分勝手な願掛けをしてるのと一緒や。自分では何一つ努力をせず、ただ願ってるだけ、祈ってるだけっていうね。これでは何も改善せんのは当たり前やろ。何故、そないな道理が分からんのかね。自分で何の努力もしませんっていう怠惰がまかり通る訳ないやろ。過去に何遍も述べたとおり、聖書では怠惰を散々戒められており、神が嫌いはる性質や。「キリストの恵みがあるから自分では何もしません。キリストさん、何とかしてちょうだい。」って、こないな態度の人間をイエス・キリストの立場やったらどう思うかね。「ふざけんな」って思うに決まってるよ。「福音書や黙示録等を通じて言うてきたことは、そんなことちゃうやろ。」って怒りはるよ。こないな自分では何もせえへん「ぶら下がり体質の人間」は世俗社会でも嫌われる。テトスの手紙三章六節〜七節で「救い主イエス・キリストを通して(聖霊を)豊かに注ぎ、イエスの恵みで義とされ、永遠の命への希望で相続人にされた。」というような内容をパウロは書き、これはもっともらしく思えるが、これは嘘の教えや。人間側が永遠の命を希望するだけでそれを受け継ぐ相続人にされたとよくも抜け抜けと言えるものや。誰でも死にたくない、滅びたくないと思うんは当たり前で、そう思いさえすれば永遠の命が手に入るのではないからな。何遍も拙者が過去に主イエスの御言葉を紹介してきたとおり、救われるには、また、キリスト者と言うからには、信仰に入る前までの生活様式や心の思い、考え方等をすべて改め、神の律法、掟、戒めを守り、最期まで耐え忍ばなあかん。それが福音書や黙示録で書かれてることや。せやのに、パウロはそれに反した主張をしており、人間の努力は一切不要で、主イエスの恵みで義とされて永遠の命を受け継ぐようになる等と耳触りのええことを言うてる。パウロは使徒を自称し、主イエスの御名を出しつつも、彼の発言や行いは主イエスの教えとは合致せえへんからな。現代の自称キリスト者どもと一緒。主イエスを信じるとかキリスト者を自称するが、彼らの品性や言動が主イエスの教えとまったく一致せえへん。反キリストは、こないな態度と行いや。
偽使徒パウロの「恵みによって救われる」という教義は、今まで何百億人以上もの人々に神の王国に入る権利を与えず、躓かせてきたし、品性の悪い自称キリスト者を量産してきた。まさしく反キリストの業と言えよう。これは主イエスが言わはった「あんたら律法学者たちとファリサイ派どもよ、あんたら偽善者は災いや。改宗者を一人作ろうと海と陸を歩き回り、改宗者が出来ると、その者をあんたらよりも倍悪い地獄の子にするからや。」(マタイ二十三章十五節拙訳)に当てはまる。パウロはファリサイ派やし、熱心に西方に伝道旅行をしてローマに拠点を置き、悪い改宗者を量産してパウロ教信者は地獄の子になってるし、ぴったりと合致する。偽使徒パウロも悪いが、彼の書簡を聖書の正典として組み込んで権威付けした人らはもっと悪い。もし正典に組み込まれることがなければ、こないなことにはならへんかったであろうに。遺憾なことに、偽使徒パウロとパウロ教信者らの企みは成功しており、現代に至るまで自称聖職者どもによる営利目的の教会運営や説教でこの異端教義を広く普及させ、聖書の在り方もすっかり今の状態が完璧かのように騙して定着させ、一切の批評も許さないという洗脳が徹底されてる。せやから、拙者が過去に行われた聖書編纂に疑義を呈し、パウロを偽使徒と証拠を挙げて論じても、拙者を中傷する愚か者が大勢居る。世の終わりまでずっとそうであろう。しかし、その実態は欺瞞であり、後で地獄の苦しみが待ち受けてるだけや。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」で書いたとおり、パウロは「モーセ(の律法)からの離脱を教えてる」ことをエルサレム教会の長老たちから注意されており(使徒言行録二十一章二十一節参照)、明らかにパウロは律法廃止論者やった。自称使徒の偽使徒パウロを信じて従う自称キリスト者たちは、彼と同じく偽善のファリサイ派なんや。自称キリスト者たちの神は、父なる神でもなく、御子イエスでもなく、反キリストで不法の教えをするパウロと彼を動かした背後に居った光の天使を偽装した悪魔や。ローマ書を見ても明らかなように、一つの手紙の中でパウロは神の律法を擁護したり、貶したりもしており、矛盾することを平気で言うた。拙者に敵対するにわか信者どもは、パウロの肩を持ち、パウロは律法を完全には否定せんかったと言う。確かに、そないなこともあったが、パウロは明らかに二面性を持つ醜悪な性格をしていたと言える。現代なら精神病患者と認定されそうな人であった。もっとも、精神病なんていうんは医学でも科学でもなく、これは悪霊に取り憑かれてる症状にしか過ぎひん。統合失調症というのもそうです。その症状とは、妄想、幻聴、幻覚、会話が通じひん、突然興奮して暴言を言うたり、異常行動をする、喜怒哀楽といった感情表現をしなくなる、多くのことに興味や関心を失う、口数が減って人と関わることを避けて引き篭もる、認知機能障害(情報処理能力、問題解決力、注意力、記憶力、集中力、理解力等が低下する)等が起こり、日常生活に支障をきたす。統合失調症とは最近の名前で、元々は「精神分裂病」という名やった。まさに、こないな状態に陥ってる人が現代に多い。精神病は存在せず、悪霊に憑かれてるんですよ。終わりの時代の今、昔以上に不信仰な人が増えており、悪霊に操られてる人間が激増してるからや。「キリスト道」でも書いたとおり、コロナワクチンを打てば通信するようになり、5Gといった電磁波で遠隔操作されるでしょうし、この世はもっと悪化するよ。精神を病んで薬なんか飲んでも解決せえへんのはそのためや。精神科や心療内科なんかに行っても薬漬けにされるだけで根本的な解決とは言えへん。薬飲んでる時だけ正常というんは完全に「薬物中毒者」にさせられてるだけということに気付け。麻薬使用者が麻薬を切らすと禁断症状で苦しみ、それを和らげるために薬を求めて、結局やめられへんのとまったく一緒。精神薬に一切手を出すべきではない。拙者が言うてることを理解でけへん、正当な理由も無く受け入れへんというんも悪霊に憑かれてるせいで、理解することを妨害されてるということです。拙者が言うことに論理的に証拠を挙げて反論でけへんのは、拙者に敵対する言葉を吐く行為は誹謗中傷やしょうもない野次に過ぎひん。まともに会話でけへん人、即ち意思疎通がでけへん人がほんまに多い。パウロは幻覚や幻聴を経験したと聖書から分かるし、矛盾するようなことや分かりづらい書き方をしたり等と多くその症状に当てはまる。彼に住み着いたんは聖霊やのうて、悪霊である可能性の方が遥かに高い。パウロがそない精神分裂したような状態で手紙を書き残し、その読者たちは律法を少々かじって十戒だけ擁護する人がパウロ支持者となり、律法を全否定する人もパウロ支持者になってる現実がある。パウロは、神の律法が善なるもの、聖なるものと認めてる(ローマ七章十二節参照)。しかし、その前に支離滅裂な矛盾を言うた。それは、ローマ二章十三節では「律法を聞く者が神の御前で正しいんやのうて、律法の実行者が義とされる」と言い、ローマ三章二十節では「律法の行いによっては、誰も神の前で義とされへんやろうからや。律法によっては、罪の認識やから。」と言うた。このように、彼の主張は完全に矛盾しており、律法を擁護したいのか貶したいのか一貫せず、彼は精神分裂を引き起こしとったことが分かる。その結果、パウロ書簡の読者には読者の信条にとって都合がええ箇所のみを採用させ、律法擁護者にも受け入れさせ、律法廃止論者にも受け入れさせてる。しかし、結局、偽使徒パウロ教義の重点は「キリストの血によって義とされてるから、キリストによって(神の)怒りから救われるであろう」(ローマ五章九節参照)にあり、人々を他力本願にさせ、堕落させるのが目的なんは明白や。パウロは、律法を完全には否定してへんかのように振る舞いつつも本心は律法廃止論であり、彼が憎んでた主イエスを信じて従うと言う人たちの集まり(教会)に潜入し、そこで他人には「キリスト者は律法の下に居ない、もはや律法は指導員ではない」等と異なる教えを吹聴し、キリスト教会の内部から破壊しようとした。結果的に、それが成功し、求道者や改宗者には漏れなく神の律法を無視した教義を信じさせてる。詳しい数は知らんが、今ではキリスト教と呼ばれる中でも教派は三万種類以上もあると言われており、そのすべてがカルトや。カトリック、正教会、プロテスタント等と世間で正統ぶったものもすべて異教、異端でしかないし、すべて偽使徒パウロの教義に依拠してる。何が正統か異端かを分ける判断基準になるのか。それは主イエスや聖書の教えどおりに神の律法を守るかどうかなんや。異端は、例外無く神の律法を貶したり、軽んじたりする。これが真実のため、反論の余地は無い。拙者に敵対して直接にしろ、影に隠れるにしろ、反対するようなことを言うてる人らは皆、神の律法を嫌い、違犯し続ける悪魔の子ばかり。前回記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」でも掲載した、主イエスが言わはった「狭い門を通って入りなはれ。広い門と広々とゆったりした道は、破滅に至るものであり、そこを通って入る者が多いからや。 狭い門と苦しめられる道は、(永遠の)命に至り、それを見出だす者は少ないからや。」(マタイ七章十三節~十四節拙訳)という御言葉は、ほんまに真理で、この通りになってる現実がある。この聖句の存在を知ってても自分らが広い門から入って広い道を歩いてる自覚が無く、滅びようとしてる人が多い。つまり、神の律法を拒絶する人、または十戒だけでええと軽視する人たちや。実際、現在も神の律法を守ってる人はほぼ居らず、主イエスが教えはったように、狭き門から入り、狭苦しい道を歩く者は非常に少数や。過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」でも書いたとおり、主イエスは「もし命に入りたいなら、掟を守りなはれ。」(マタイ十九章十七節拙訳)と言わはり、主イエス御自身が神の律法を遵守しはり、同じように我等も律法を守るようにと教えはった。それこそキリストが残しはった模範たる道、「キリスト道」ということです。自称キリスト者たちは、主イエス・キリストの御前において、天の国に入るために聖書を読まへんかった自称無神論者や異教徒たちよりも悪い立場にある自覚も足りひん。身近にある聖書の中にある真理を拒否し、拙者の諭しも拒否し、新約聖書の約半分として組み込まれたパウロ書簡という耳触りのええ偽福音を選んだ彼らの落ち度であり、使徒ペトロの発言のとおり、「義の道を知った後で、彼らに伝えられた聖なる掟から後戻りするよりは義の道を知らんかった方が彼らにとって良かったやろに。」(ペトロ二 二章二十一節拙訳)と言われてるとおり、中途半端に聖書を知ってしまい、神の掟を無視するという誤ったにわか信仰に安住したがために、より悪く、より厳しく処罰されるんや。真理は、あんたが好む好まへんに関係無いし、あんたが望む望まへんにも関係が無く、厳粛に存在する。それやのに相変わらず、自分らの信じたいことを信じ、私的解釈したり、耳触りのええお気楽な偽福音にすがってるようでは論外や。聖書に関して無知で、聖霊不在の営利目的の牧師といった自称聖職者やその他の自称伝道者がいくら追従者を増やして盛り上げても、憎悪で怒り狂った自称キリスト者が聖書の真理や拙者を中傷したり個人攻撃しても、この真理を変えることはでけへん。裁きの時まで、恩恵期間の終了へと刻々と時間は無くなりつつある。ほんまに今までのままで問題無いのか、よう考えてみなはれ。しかし、支配層の傀儡ばかりが各国政府に居座り、その犯罪者どもによる愚民化、マスク義務化、殺人ワクチン義務化、全体主義化、共産主義化という艱難が押し寄せてる今、もはや悠長にしてる暇は無い。更に、日本は改憲の危険性も迫ってる。聖書について無知で実践もしてへん人、憲法について無知な人、コロナ犯罪の本質を知らん人たちが、呑気に遊んでる暇なんて無いんですよ。それでも生活態度を改めへんのなら、滅びる以外に道は無い。
さて、パウロの回心に係る点を詳しく検証してみよう。
使徒言行録九章七節では、周囲の人々が声を聞きながら物も言えず立ち尽くしてたが誰も見えへんかったとあるのに対し、使徒言行録二十二章九節は周囲の人は確かに光を見たがパウロに話し掛ける声を聞かへんかったとある。明らかにおかしい。矛盾してるやろ。また、使徒言行録二十六章十二節〜十八節でも異なる回心の場面描写がある。三つの記述がすべて異なり、一つも一致せえへん。つまり、これは嘘なんですよ。パウロが嘘をついてるから、パウロがその場で思いつきや妄想で言うてるもんやから、言うてることが食い違うんや。ルカはそれを忠実に記録しただけで、嘘を故意に書いたのではないだろう。この事実を知りながらなおも、パウロが使徒とか、ほんまに彼が主イエスに会うたと彼の虚言を信じるのか。そないな人の頭もおかしい。まったく正常やない。こないに正反対に食い違う証言は、有効な証言とは認定でけへん。
また、おかしい話はもう一つある。
それはサウロ(パウロの改名前の本名)がダマスコに行った時のこと。使徒言行録九章八節〜二十六節では、ファリサイ派のサウロの回心の次第は、彼は目が見えなくなり、そのせいで他人に連れられてダマスコに行き、アナニアによって洗礼を受けて目が見えるようになり、それから数日間ダマスコの弟子たち(サウロはキリスト者を迫害するためにダマスコに向けて出発してた故、ダマスコに居ったファリサイ派サウロの弟子(配下)を指すのかも)と共に居り、ダマスコの諸会堂で「メシアが神の子」と伝道し、かなりの日数が経ってからサウロはエルサレムに行ったとルカは書いた。二十節の箇所は誤訳がある。「そして、すぐ諸会堂で、「この人は神の子」であるとメシアを伝道した。」(使徒言行録九章二十節拙訳)と原語には書かれてるが、「イエスが神の子」とは言うてへんのです。「この人」とかメシアと誤魔化してるんですよ。メシアやキリストとは「救世主」という意味で、個人名やのうて称号や。原語には「イエス」の御名は無い。二十二節も誤訳があり、イエスという名は原語には無く、「この人」となってるだけや。二十七節では「イエスの名によって」というのがあり、これは原語もこの通りで問題は無い。
対して、ガラテヤ一章十五節〜十八節では、目が見えへんようになったことやアナニアの件にも一切触れず、パウロは自分で母親の胎内に居った時から神に選ばれたと豪語して自分自身を高め、父なる神が異邦人の間で御子を伝道するためにパウロの内に御子を示し、パウロはすぐには血肉に相談せず、エルサレムに居った使徒たちに会いにも行かず、アラビアに行ってダマスコに戻り、更に三年後に使徒ペトロに会うためにエルサレムに行って十五日間ペトロと過ごしたとパウロは自分で書いた。なんでこうもルカが書いたことと大きな違いがあるんやろね。どっちかが嘘を書いてることになる。これは少々の違いではないからね。違いは、盲目になったとかの話をここではしてへんということ、アナニアの件も触れず、アラビアに行ってた等とルカが言及せんかった話をしてるし、イエス・キリストについての伝道をしたともガラテヤ書では書いてへんし、ガラテヤ書ではパウロが誕生する前の母親の胎内に居った時から自分は神に選ばれたんだとか、御子(イエス)を示されたとか(そもそも、胎児の段階で御子イエスを理解出来る筈もないのに、嘘丸出し。では、なんでタルソスで誕生してからエルサレムに行ってファリサイ派に入信してガマリエルに教えを受け、権力者筋と仲良しになり、キリスト者を迫害したんだっていう話になる)、血肉(要するに人間)に相談することもせず(パウロは自信過剰で他人に相談する必要が無いと思っていたのかも)、十二使徒たちに会おうともせず(会う必要が無いとさえ思ってたからではないか)、十二使徒筆頭のペトロにだけ会い(他の使徒には興味が無かったのか)、自分自身を高めるかのような書き方をしてるという点が目立つ。このように、この部分だけ見るだけでも、パウロは非常に高ぶってるのがよう分かる。ガラテヤ書でパウロは血肉に相談せずと書いていたが、これは使徒言行録九章にあるように目が見えへんようになって他人の力を借りてダマスコに連れて行かれ、三日間も盲目になって飲食せず、アナニアといった他人の世話になったことと大きく異なる。急に目が見えへんようになって、排泄等と目が見えてれば普通に出来ることも他人の世話にならんと一人で何もでけへんかったんちゃうんかと。このように、ガラテヤ書の内容は使徒言行録と完全に矛盾する。パウロが自分で書いたことが、彼の仲間のルカが記録した使徒言行録と大きく異なることを書いたことや、後世にこないして嘘や矛盾を指摘されることになろうとは彼らは予想もしてへんかったやろね。まさにパウロの人格が疑われるよ。パウロは、自分語りをすることが多く、それも異常に自分自身を高めており、その内容も他の証言とは異なる故に、とても真実を語ってるとは言えへん。
ファリサイ派のパウロによる偽福音、つまり、パウロ書簡は、イエス・キリストという人物、キリストの教義、イエス・キリストを信じようとする者の魂を滅ぼすのに最も成功した媒体となり、欺瞞に満ちてる。この偽使徒パウロの教義に基づく「キリスト教(パウロ教)」は、四世紀のコンスタンティヌスの治世でローマ帝国の国教として採用され、それ以降、ローマ・カトリック教会が組織され、欧州に広まって定着し、野蛮な欧州人が南北のアメリカ大陸、アフリカ、オセアニア、亜細亜等と世界中を侵略し、そこでも定着した世界最大の宗教となった。使徒ヨハネが手紙(ヨハネ一 二章十八節)で反キリストの霊は世に既に来てると一世紀当時から言うており、ヨハネは生きとった間に反キリストの台頭を見た。それは偽使徒パウロと彼の偽福音を信奉する多くの異邦人たちや。パウロは、イエス・キリストの御名を語りつつも実際は主イエスから離れており、彼に取り憑いた霊が語る教義に従うように人々を促し、今でも新約聖書の約半分を占める書簡によって多くの人々を惑わしてると言え、世の諸教会や自称聖職者や一般の自称キリスト者たちもこの業に加担しており、同罪や。
(続く)